肥後人吉藩初代藩主、相良頼房(さがら よりふさ、後に長毎(ながつね)と改名)。彼の名を歴史に刻むのは、華々しい武功や天下への野望ではない。むしろ、主家の変更、降伏、そして味方への刃という、一見すれば不名誉とも映る一連の行動である。しかし、これらの決断を「忠義」や「武勇」といった従来の武将像の物差しで測ることは、彼の本質を見誤らせる。相良頼房の生涯を評価する上で最も重要な視座は、彼が「家の存続」という至上命題をいかにして達成したかという、冷徹なまでの現実主義にこそある。
相良氏は鎌倉時代初頭に肥後国球磨郡の地頭に任ぜられて以来、約700年にわたり同じ土地を治め続けた、日本史上極めて稀有な存在である 1 。戦国乱世の終焉と徳川幕府の成立という未曾有の変革期を乗り越え、この偉業を成し遂げた中心人物こそ、第20代当主の頼房であった。彼の生涯は、大国の狭間で翻弄されながらも、あらゆる政治的資源を駆使し、非情な決断をも厭わず、ただひたすらに家名の維持と領国の安堵を目指した、一人の領主の「生存戦略」の記録そのものである。本報告書は、頼房の生涯をその出自から晩年に至るまで徹底的に検証し、彼が下した決断の背景にある時代の力学と人間関係を解き明かすことで、乱世を生き抜いた類稀なる「藩の経営者」として、その実像に迫るものである。
相良頼房の人生は、誕生の瞬間から既に、大国の思惑に翻弄される小国の苦悩を背負っていた。彼の徹底した現実主義と、力を持つ者への従属を厭わない生存戦略は、父の非業の死と自らの人質生活という、少年期の過酷な体験によって形成されたと言っても過言ではない。
相良頼房は、天正2年(1574年)5月4日、相良氏第19代当主・相良義陽(よしひ)の次男として生を受けた。幼名は長寿丸 3 。生母は相良氏初代・長頼の血を引く支流、豊永氏の娘であり、この出自は後の家中にあって彼の立場を一定程度、補強する役割を果たした 4 。
しかし、彼が生まれた頃の相良家を取り巻く環境は、極めて厳しかった。九州は、北の大友氏、西の龍造寺氏、そして南の島津氏という三大勢力が覇を競う群雄割拠の時代であった。肥後南部に位置する相良氏は、これらの強大な勢力の狭間にあって、常に存亡の危機に立たされていた 5 。父・義陽は当初、大友氏に従属し、同じく大友傘下にあった阿蘇氏と盟約を結ぶことで命脈を保とうとした 6 。だが、破竹の勢いで北上する島津氏の圧迫は抗いがたく、天正7年(1579年)には水俣など五城を割譲して和議を結び 7 、ついに天正9年(1581年)、島津氏への従属を余儀なくされたのである 5 。
島津氏への従属は、相良家に悲劇をもたらした。天正9年(1581年)12月、父・義陽は島津氏の命により、肥後平定の先鋒として出陣を強いられる。その敵は、かつて大友氏の下で固い盟約を結んでいた阿蘇氏の重臣、甲斐宗運(かい そううん)であった。友情と主命の板挟みに苦悩した義陽は、響野原(ひびきのばる)の戦いにおいて、あえて不利な布陣を敷き、あたかも死を望むかのように戦い、壮絶な最期を遂げた 5 。主家に従うことの非情さと、その結果としての父の死は、当時まだ7歳の頼房の心に、消しがたい傷跡として刻まれたに違いない。
当主を失った相良家は、家臣団の重鎮である深水宗方(後の長智)と犬童休矣(いんどう やすおき)が協議し、家の安泰を図るために義陽の子を島津家へ人質として差し出すことを決断した 4 。誰を送るかは井口八幡神社での籤引きに委ねられ、その結果、当時8歳の頼房(長寿丸)が選ばれたのである 4 。個人の意志や希望がいかに無力であり、運命や大国の都合に翻弄されるかを、彼はこの時、身をもって知った。
家督は10歳の兄・亀千代が継ぎ、島津義久から偏諱(へんき)を受け「忠房」と名乗った。一方、頼房は兄から「頼房」の名を授かると、人質として薩摩国出水へと送られた 4 。この薩摩での人質生活は、後の彼の冷静な情勢分析能力と、強者に対する現実的な立ち居振る舞いを養う上で、重要な経験となったと考えられる。
天正13年(1585年)2月、兄・忠房がわずか14歳で急逝するという、さらなる悲劇が相良家を襲う。これにより、頼房は弟の藤千代(後の長誠)と人質を交代し、12歳という若さで予期せずして相良家第20代当主の座に就くこととなった 4 。
若き当主の誕生後も、相良氏が島津氏の支配下にある状況は変わらなかった。頼房は島津氏の大友攻めに従軍を命じられ、彼に代わって深水宗方や犬童休矣・頼兄(よりもり)親子が球磨の兵を率いて豊後へと侵攻した 4 。父の死、籤による人質選定、そして兄の夭逝による突然の家督相続。相次ぐ運命の激変は、頼房に理想や名誉よりもまず生き残り、家を存続させることが何よりも重要であるという、冷徹なまでの現実主義を彼の行動原理の根幹に植え付けた。後の彼の「裏切り」とも言える数々の決断は、この原体験から見れば、必然的な選択であったのかもしれない。
天下統一を目指す豊臣秀吉の登場は、九州の勢力図を根底から覆し、相良頼房に新たな生存の道を開いた。彼はこの激動期において、自らが前面に立つのではなく、二人の傑出した家臣の能力を巧みに使い分けることで、巧みに時流に乗り、家の安泰を確保していく。それは、外交という「ソフトパワー」と、粛清という「ハードパワー」を駆使した、見事な政権運営であった。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が開始されると、九州を席巻していた島津軍は圧倒的な物量の前に総崩れとなった 11 。島津方として参陣していた相良軍も、人吉への撤退を余儀なくされる 4 。相良家は、秀吉に抵抗した島津氏の与党として、改易・滅亡の危機に瀕した。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、家老・深水長智(宗方)の卓越した外交手腕であった。当時、頼房はまだ日向国の島津軍本隊と行動を共にしていたが、長智は機先を制し、頼房の弟・長誠を伴って豊臣軍が駐留する八代城の秀吉本陣へと出頭した 4 。そこで長智は、大友・島津という二大勢力に挟まれた小領主の苦衷を情理を尽くして訴え、秀吉の同情を引くことに成功する 14 。さらに、長智が和歌や連歌に長じた教養人であったことも幸いした。彼の文化的素養は秀吉に大変気に入られ、ついに所領安堵の約束を取り付けるという大功を成し遂げたのである 4 。
この知らせを受けた頼房は、島津軍が豊臣軍と激突した根白坂の戦いに参加する寸前で陣を引き払い、秀吉に拝謁して臣従を誓った 4 。深水長智の「ソフトパワー」が、相良家を滅亡の淵から救い出した瞬間であった。
豊臣政権下の大名となった頼房は、その臣従の証として、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への従軍を命じられる。彼は加藤清正が率いる二番隊に配属され、鍋島直茂らと共に朝鮮半島へ渡海した 15 。
頼房は、晋州城攻めや、蔚山城の戦いにおける安辺城の防衛戦などで武功を挙げ、秀吉本人から感状を与えられるなど、武人としての責務も果たした 4 。この二度にわたる出兵は、頼房に豊臣政権の巨大さと国際情勢の現実を肌で感じさせると同時に、彼の留守中の人吉藩において、新たな権力闘争の火種を生むことにもなった。また、この戦役で連れ帰った朝鮮人捕虜の中には陶工もおり、彼らが開いた窯が後の上村焼(かみむらやき)の起源となったと伝えられている 4 。
頼房の政権運営を支えたもう一つの柱が、犬童頼兄の「ハードパワー」であった。頼房が朝鮮に渡っている間、人吉では奉行職を巡る対立が先鋭化していた。対立したのは、深水長智の養子で、伝統的な家柄を背景に持つ深水頼蔵(よりくら)と、実力で頭角を現した犬童頼兄であった 18 。
頼房は、魯鈍と評された頼蔵よりも、才気煥発な頼兄を信頼し、両者を同格の奉行としたが、これがかえって二人の不和を増大させた 18 。文禄2年(1593年)、太閤検地を巡る不満から頼蔵派の竹下監物が反乱を起こすと、頼房はこれを断固として鎮圧。その後、身の危険を感じた頼蔵は、隣国の領主である加藤清正のもとへ出奔した 18 。
これを好機と見た犬童頼兄は、頼房の命を受け、頼蔵に追随しようとした深水一族73名を一挙に誅殺するという強硬手段で、反対派勢力を一掃した 21 。この「私闘」を問題視した加藤清正は、頼兄を豊臣政権に訴え出たが、頼兄は奉行・石田三成の前で巧みな弁舌を振るって自らの正当性を主張し、お咎めなしとなる 18 。この一件を通じて、頼兄は家中の実権を完全に掌握した。そして、この時生まれた石田三成との縁が、後の関ヶ原の戦いにおける相良家の運命を左右し、さらに頼兄の強大化した権力が、次代の藩主・頼寛を苦しめる「お下の乱」の遠因となっていくのである。
秀吉の死後、天下が徳川家康の東軍と石田三成の西軍に二分されると、相良頼房は再び存亡を賭けた選択を迫られた。彼の決断は、表向きの西軍参加と、水面下での東軍への内通という二枚舌外交であった。これは単なる日和見的な裏切りではなく、同じく存亡の危機に瀕した九州の小大名たちと連携して遂行された、周到な「共同謀議」であり、彼の生存戦略の集大成とも言えるものであった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、頼房は西軍に参加した。その背景には、かつて家中の権力闘争(深水一族との対立)を仲裁してくれた石田三成への恩義があったとされる 1 。頼房は重臣・犬童頼兄を伴って上京し、西軍の一員として伏見城攻めに参加。家臣の神瀬九兵衛が先駆けの功を挙げるなど、表向きは西軍として忠実に戦った 4 。
しかし、その忠誠はあくまで表面上のものであった。その裏では、家老の犬童頼兄が、徳川四天王の一人である井伊直政と密かに連絡を取り合い、東軍へ寝返るための周到な準備を進めていた 4 。この内応工作が頼房自身の指示によるものか、あるいは頼兄の独断に近い進言であったかは史料からは断定できない。しかし、家の存続を最優先とする相良家全体の総意であったことは疑いようがない 4 。彼らは西軍に身を置きながらも、常に戦況を冷静に分析し、最も有利なタイミングで寝返る機会を窺っていたのである。
頼房の部隊は、関ヶ原での本戦には参加せず、西軍の本拠地であった美濃大垣城の三の丸守備を命じられていた 4 。これが彼らにとって絶好の機会となった。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦で西軍がわずか半日で壊滅したとの報が城内に届くと、頼房はかねてからの計画を実行に移す。彼は単独で行動したわけではなかった。同じく大垣城に籠城し、東軍への内応を画策していた日向の小大名、秋月種長・高橋元種兄弟と連携したのである 4 。彼ら小大名たちは、情報交換が容易な城内において、共同で行動することで寝返りの成功確率を高めようとした「内応連合」を形成していた。
頼房らは、城内において西軍の主将であった熊谷直盛、垣見一直、木村由信・豊統親子らを謀殺 24 。その首を東軍への忠誠の証として差し出した。この時の生々しい様子は、東軍の将・水野勝成が頼房に宛てた書状に「熊谷直盛・垣見一直・木村由信の三人の首を確かに受け取った」と記されていることからも裏付けられる 24 。また、犬童頼兄自身もこの内応の経緯を覚書として記録しており、相良家が組織的に動いていたことを示している 17 。この裏切りによって大垣城は内部から崩壊し、守将の福原長堯も降伏、開城に至った。籠城中の城内の様子は、後に石田三成の家臣の娘が語ったとされる『おあむ物語』にも描かれている 26 。
犬童頼兄による事前の内応工作と、大垣城での決定的かつ非情な「功績」により、相良家は絶体絶命の危機を乗り越えた。戦後、徳川家康は頼房の行動を高く評価し、肥後国球磨郡2万石の所領を安堵した 4 。これにより、相良氏は鎌倉以来の旧領を保持したまま近世大名へと移行し、人吉藩が成立したのである 1 。
この成功体験は、内応を主導した犬童頼兄の藩内における権勢を絶対的なものとし、藩主すら凌ぐ彼の専横を許す土壌を育んだ。家の存続という最大の目的は達成されたが、その代償として、次代に禍根を残す新たな権力構造が生まれることになったのである。
関ヶ原の戦いを乗り越え、人吉藩初代藩主となった相良頼房は、戦乱の世を生き抜くための生存戦略家から、新たな時代における領国の経営者へとその役割を変えた。彼の治世は、幕府という中央政権への恭順姿勢を明確に示しつつ、領国においては鎌倉以来の伝統的な統治システムを維持するという、巧みな二重戦略によって特徴づけられる。これにより、彼は藩政の礎を固め、人吉藩の長期的な安定の基盤を築いた。
藩主としての地位を確立した頼房が最初に着手した事業の一つが、本拠地である人吉城の大規模な改修であった。彼は重臣・犬童頼兄に命じ、それまでの中世的な山城の様相を残していた人吉城に、石垣を多用した近世城郭としての改修を本格化させた 1 。この改修により、人吉城は藩の政治的・軍事的中心地として、その権威を内外に示す象徴となった 22 。
また、城郭の整備と並行して、城下町の建設も進められた。文禄3年(1594年)には既に犬童休矣に命じて町割りを始めており、鍛冶屋町などが形成されていたが、藩の成立後、その整備はさらに本格化した 28 。整然とした町並みは、後の世に「九州の小京都」と称される人吉の景観の基礎となった。
頼房は、小藩である人吉藩の財政基盤を安定させるため、経済政策にも力を注いだ。まず、領内の生産力向上を目指し、新田開発を積極的に推進した。その結果、寛永年間(1624年-1644年)には2万1千石もの新田が開発され、藩の石高は着実に増加した 2 。
さらに特筆すべきは、「長崎買物(ながさきかいもの)」と称される藩営の交易事業である。これは、幕府の直轄地であった長崎で、色緞子(いろどんす)や天鵞絨(びろうど)といった貴重な舶来の織物を藩が直接買い付け、それを京都で販売して利益を上げるというものであった 2 。山間に位置する内陸の小藩が、国際貿易港である長崎を拠点としたこのような商業活動を行っていた事実は、初期人吉藩の経済的活力と、頼房の進取の気性を示している。また、米を原料とする球磨焼酎の生産も、この時代に藩の重要な財源の一つとして奨励され、活発化したと考えられている 28 。
人吉藩の統治システムは、隣接する薩摩藩と同様に、中世以来の遺制を色濃く残している点が大きな特徴であった。その一つが、領内を複数の地区に分け、それぞれの拠点に城や麓(ふもと)と呼ばれる武士の居住区を置く「外城制(とじょうせい)」である。人吉藩では領内に14の外城が配置され、派遣された家臣がその地域の支配を行った 2 。
また、兵農分離が完全には進んでおらず、人口の約3分の1を占める半農半兵の「郷士(ごうし)制度」が維持されていたことも、もう一つの特徴である 2 。これらの制度は、一見すると時代遅れにも映るが、鎌倉以来の在地領主としての歴史を持つ相良氏にとって、領国の隅々まで支配を浸透させ、同時に効率的な軍事力を維持するための、球磨地方の実情に即した合理的な統治システムであった。
領国経営において伝統を維持する一方、頼房は徳川幕府という新たな中央政権に対しては、極めて従順な姿勢を示した。慶長9年(1604年)、彼は西国の大名としては率先して、母である了信尼を江戸に人質として差し出した。この迅速な行動は、時の将軍・徳川秀忠に高く評価され、幕府への揺るぎない忠誠を示す重要なジェスチャーとなった 4 。
さらに、元和元年(1615年)に日向国で発生した椎葉山騒動では、幕府軍の鎮圧に協力。山中でのゲリラ戦に苦戦する幕府を支援した功績により、乱後に天領となった椎葉山一帯の実質的な管理を任されることになった 1 。これらの行動を通じて、頼房は幕府との信頼関係を着実に構築し、外様大名でありながらも幕藩体制下での安定した地位を確保することに成功したのである。外向きには幕府に従順な近世大名として振る舞い、内向きには伝統的な統治で領国を安定させる。この巧みな両立こそ、頼房の藩主としての真骨頂であった。
相良頼房の生涯は、彼自身の決断だけでなく、彼を取り巻く人々との複雑な関係性によって大きく左右された。特に、対照的な能力を持つ二人の重臣との関係は、彼の治世そのものを象徴している。また、家族との関係や晩年の信仰心からは、非情な決断を下し続けた為政者の、人間的な葛藤や内面の複雑さが垣間見える。
頼房の治世は、外交の深水長智と、内政・軍事の犬童頼兄という、二人の傑出した家臣によって支えられていたと言える。頼房は彼らの能力を最大限に活用する一方で、その対立に苦慮し、最終的には犬童頼兄の強大な権力を容認するに至った。彼の政権運営の核心は、この対照的な二人の家臣の役割と影響を理解することにある。
項目 |
深水長智(宗方) |
犬童頼兄(清兵衛) |
出自と家柄 |
代々執政を務める名門・深水氏 13 |
犬童頼安の子。実力で台頭 19 |
専門分野 |
外交、交渉、和歌・連歌 4 |
内政、軍事、謀略、粛清 18 |
主君への貢献 |
秀吉との交渉で家を存続させる 4 |
関ヶ原の内応を主導し家を存続させる 19 |
性格・人物評 |
教養人、穏健、交渉の達人 13 |
才気煥発、冷徹、権力志向 18 |
頼房との関係 |
頼房の若年期を支え、対外的な危機を救う |
頼房に信頼され、実権を掌握。後に専横 |
後世への影響 |
頼房の代でその役割を終える |
権勢が頼寛の代の「お下の乱」の原因となる 30 |
この表が示すように、頼房は対外的な危機には深水長智の「ソフトパワー」を、対内的な権力基盤の確立には犬童頼兄の「ハードパワー」を、それぞれ的確に用いた。彼は自らが万能の君主として振る舞うのではなく、適材適所を見抜く優れた「マネージャー」としての能力に長けていた。彼の生存戦略の核心は、この人的資源の巧みな活用にあったと言えよう。
頼房の私生活、特に家族との関係については、断片的な記録しか残されていない。慶長4年(1599年)、彼は筑前の大名・秋月種実の娘を正室に迎えた 4 。これは九州の有力大名との関係を強化するための典型的な政略結婚であり、彼女自身の具体的な名前や逸話は史料に見当たらない 32 。しかし、この婚姻が相良家の政治的安定に寄与したことは確かであろう。
この正室との間には、後に人吉藩第2代藩主となる嫡子・頼寛(よりひろ、幼名:長寿丸)が慶長5年(1600年)に誕生した 30 。頼房は成長した頼寛を伴って駿府で大御所・家康に、江戸で将軍・秀忠に拝謁させるなど、後継者として幕府への披露も抜かりなく行っている 4 。しかし、皮肉なことに、頼房自身が家の存続のために容認した犬童頼兄の強大な権力は、後に息子・頼寛の治世を揺るがす最大の脅威となっていくのである 30 。
頼房の晩年には、彼の複雑な内面を窺わせる二つの興味深い逸話が残されている。これらは、彼の生存戦略が常に誰かの「犠牲」の上に成り立っていたことの裏返しであり、非情な決断を下し続けた為政者の、人間的な葛藤と精神的なバランスを取ろうとする試みであったと解釈できる。
一つは、謀反の疑いをかけられて非業の死を遂げた湯山地区の僧・盛誉(せいよ)とその母の怨霊を鎮めるために、寛永2年(1625年)に生善院(しょうぜんいん)観音堂を建立したという話である。伝説では、母の飼い猫が怨みを抱いて化け猫となり、相良家に祟りをなしたため、その霊を慰めるためにこの寺が建てられたとされ、「猫寺」の通称で知られている 9 。この伝説の背景には、家督争いや家中統制の過程で行われたであろう、数々の非情な粛清に対する頼房自身の慰霊の念と、それを見聞きした民衆が抱いた為政者への畏怖の念が物語として昇華されたものと考えられる 35 。
もう一つは、さらに直接的な行動である。寛永9年(1632年)、晩年を迎えた頼房は、かつて関ヶ原の戦いの際に大垣城で謀殺した熊谷直盛ら西軍の諸将、そして西軍を率いた石田三成の追善供養を行うよう、犬童頼兄に命じている 4 。相良家の菩提寺である願成寺(がんじょうじ)に、今なお石田三成らの供養墓が現存するのは、この時の頼房の命令によるものである 4 。
自らの成功が他者の犠牲の上に成り立っているという事実を、頼房自身が深く認識していたことは間違いない。これらの供養は、単なる迷信や形式的な仏事ではなく、政治的・社会的な安定を達成した晩年に、自らの過去の行為と向き合い、精神的な清算を行おうとした、彼の内面の複雑さを物語る重要な証拠である。彼は単なる冷徹なマキャベリストではなく、自らの行為が伴う道徳的な重荷を自覚していた人間であった可能性を強く示唆している。
相良頼房の生涯を総括する時、我々は単なる善悪や忠逆の二元論では捉えきれない、複雑で多層的な為政者の姿を目の当たりにする。彼の行動は、激動の時代を生きる地方領主の苦悩と、したたかな知恵の結晶であり、その功罪は次代へと引き継がれていった。
頼房の生涯は、主家を次々と変え、味方を謀殺するなど、変節と裏切りに満ちているように見える。しかし、それは九州の片隅の小大名が、織豊政権の成立から徳川幕藩体制への移行という、日本の歴史上でも類を見ない大変革期を生き抜くための、極めて現実的で合理的な選択の連続であった。彼の行動を、後世の安定した時代の「忠義」という物差しで一方的に断罪することは、歴史の実像を見誤らせる。
彼が成し遂げた最大の功績は、結果そのものが雄弁に物語っている。すなわち、鎌倉時代から約700年にわたり、相良氏を肥後国球磨郡という同じ土地の領主として存続させたことである 1 。戦国大名の多くが滅亡、あるいは大幅な減封や転封を余儀なくされる中で、この偉業を達成したことこそ、彼の為政者としての手腕を何よりも証明している。
一方で、頼房の生存戦略は、次代に大きな課題、すなわち「負の遺産」を残した。目先の危機を乗り越えるために彼が頼った最大の武器、それは重臣・犬童頼兄の類稀なる才覚と実行力であった。しかし、頼房が頼兄に与えた強大すぎる権力は、やがて藩主の権威をも脅かす存在へと肥大化していく。
頼房の死後、家督を継いだ息子・頼寛の代になると、この問題はついに爆発する。頼寛は、父の代から続く犬童一派の専横を排除するため、幕府に訴え出るという強硬手段に打って出た。これが引き金となり、藩内は凄惨な内紛「お下の乱」に見舞われ、犬童一族は滅亡、頼兄自身も津軽へと流刑に処されるという悲劇的な結末を迎えた 17 。目先の危機を乗り越えるための選択が、新たな危機を生むという、歴史の皮肉がそこにはあった。
相良頼房は、戦国乱世が生んだ典型的な英雄でも、民を慈しむ聖人君子でもなかった。しかし、彼は自らに課せられた「家の存続」という、領主としての最も根源的な責務に対し、あらゆる知恵と手段を講じて完璧に応えた、卓越した「藩の経営者」であった。彼の生涯は、理想だけでは生き抜けなかった時代の厳しさと、その中で家を守り抜こうとした人間のリアリズムを、我々に教えてくれる。彼が築いた危うくも強固な礎の上に、人吉藩はその後、一度の転封もなく幕末までその命脈を保ち続けた。その事実こそが、相良頼房という生存戦略家の、歴史における確固たる評価を物語っているのである。