室町幕府の権威が応仁の乱(1467-1477)を境に失墜し、日本各地が群雄割拠の時代へと突入した15世紀末、東北地方もまた例外ではなかった。奥州探題としてこの地を統括してきた大崎氏の求心力は著しく低下し、各地の国人領主が自立と勢力拡大を目指して相争う、混沌とした情勢にあった 1 。
この南奥州において、伊達氏は14代当主・稙宗のもとで陸奥国守護職に任じられるなど勢力を急拡大し、会津地方には蘆名氏、海道(現在の福島県浜通り)には岩城氏といった有力大名が覇を競い、複雑な勢力均衡を形成していた 1 。相馬氏は、このような強大な勢力に囲まれた中で、自家の存亡を賭けた厳しい舵取りを迫られていたのである。
相馬氏は鎌倉時代以来、陸奥国行方郡(現在の福島県南相馬市の一部)を本拠としてきたが、南に隣接する標葉郡(現在の福島県双葉郡)を領する標葉氏とは、長年にわたり領地を巡る激しい対立関係にあった 4 。特に、本稿の主題である相馬盛胤の父、12代当主・相馬高胤の代には、その対立は「不倶戴天の敵」と称されるほど深刻化していた 4 。武勇に優れた高胤は、その生涯を標葉氏との戦いに捧げ、宿敵の打倒は相馬家にとって代々の悲願となっていたのである 4 。
一方の標葉氏も、北の相馬氏のみならず、南からは岩城氏の圧迫を受けるという、南北から挟撃される苦しい立場に置かれていた 6 。この地政学的な状況こそが、後に相馬盛胤が父祖の悲願を達成する上での重要な伏線となる。本稿では、この戦国初期の南奥州という動乱の舞台に登場し、相馬氏を単なる一国人から浜通り北部に覇を唱える戦国大名へと飛躍させた相馬盛胤(13代)の生涯を、その軍功、外交、統治の各側面から詳細に解き明かすことを目的とする。
相馬盛胤は、文明8年(1476年)、陸奥の戦国大名・相馬氏の12代当主である相馬高胤の子として生を受けた 7 。幼名は孫次郎、初めは「定胤(さだたね)」と称した 7 。
彼の運命が大きく動いたのは、延徳4年(1492年)のことである。この年、父・高胤は長年の宿敵であった標葉氏との戦いのさなか、6月11日に藤橋村(現在の福島県浪江町)の陣中にて病に倒れ、この世を去った 4 。享年69歳であった 6 。これは戦闘による「戦死」ではなく、陣中での「病没」であった 4 。父の死は伏せられ、相馬軍は混乱を避けるために本拠地である小高城(現在の福島県南相馬市小高区)へと静かに兵を引いた 6 。
父の急逝という、家にとって最大の危機的状況下で、定胤はわずか17歳(数え年)にして家督を相続することとなった 6 。若き当主の前には、父が果たせなかった悲願の達成と、混迷する南奥州を生き抜くという重い課題が横たわっていた。
若き当主となった定胤が最初に行った重要な政策は、軍事行動ではなく、外交による地盤固めであった。家督を継いだ直後、彼は西方の会津地方に勢力を誇る黒川城主・蘆名盛舜の娘を正室として迎えたのである 7 。
この婚姻は、単なる縁組にとどまらなかった。定胤は岳父となった盛舜から、その名の一字である「盛」の字を偏諱として授かり、名を「盛胤(もりたね)」と改めた 9 。これは、当時の一字拝領の慣習から見ても、相馬氏が蘆名氏と極めて強固な同盟関係を結んだことを内外に示す、高度な政治的行為であった。父・高胤が標葉氏との戦いに集中するあまり、他の勢力との連携が手薄になっていた可能性を鑑みれば、盛胤(あるいはその補佐役)がまず背後の安全を確保し、来るべき決戦に備えたことは、極めて冷静かつ戦略的な判断であったと言える。この一手により、盛胤は南の宿敵・標葉氏との戦いに全力を傾けるための盤石な体制を整えたのである。
盛胤の生涯を理解する上で重要となる人物の関係性を以下に示す。
氏名 |
続柄・関係 |
主要な動向・役割 |
相馬盛胤 |
本稿の主人公。相馬氏13代当主。 |
父の遺志を継ぎ、標葉氏を滅ぼして相馬氏の版図を確立。 |
相馬高胤 |
盛胤の父。相馬氏12代当主。 |
標葉氏との戦いに生涯を捧げ、その滅亡を目前に陣没。 |
相馬顕胤 |
盛胤の嫡男。相馬氏14代当主。 |
父の築いた領国を継承し、伊達氏との抗争時代を迎える。 |
蘆名盛舜 |
会津の戦国大名。盛胤の岳父。 |
盛胤に娘を嫁がせ、「盛」の字を与える。相馬氏の後ろ盾となる。 |
標葉清隆 |
標葉氏当主。盛胤の宿敵。 |
相馬氏の攻勢に抗するも、内応により敗北。権現堂城で自刃。 |
標葉隆成 |
清隆の嫡男。 |
器量に乏しいとされ、家臣の離反を招く一因となる。父と共に自刃。 |
泉田隆直 |
標葉氏一門筆頭。泉田城主。 |
標葉宗家に見切りをつけ、盛胤に内応。相馬軍の先鋒を務める。 |
藤橋隆豊 |
標葉氏一門。新山城主。 |
権現堂城内で内応し、城門を開いて相馬軍を導き入れる。 |
岡田義胤 |
相馬氏一門。 |
標葉氏滅亡後、権現堂城の城代に任じられる。 |
父の死からわずか半年後の明応元年(1492年)冬、18歳となった盛胤は、父祖の代からの悲願を果たすべく、満を持して標葉郡へと兵を進めた 9 。父の急死による家中の動揺を迅速に収拾し、蘆名氏との同盟によって後顧の憂いを断った上での出陣であり、その手腕は若年にして非凡なものがあった。相馬軍は泉田村渋井(現在の浪江町)に陣を構え、標葉氏の本拠である権現堂城(現在の浪江町西台)を包囲した 9 。
盛胤の戦略は、力攻め一辺倒ではなかった。彼はまず、標葉氏一門の筆頭であり、泉田城主であった泉田隆直に対し、降伏を勧告する使者を送った 9 。史料によれば、この時の隆直は、主君である標葉清隆の老衰と、その嫡男・隆成の器量の無さに深く失望していたとされる 12 。この好機を盛胤は見逃さなかった。隆直は相馬方の勧告を受け入れ、ついに主家を裏切り、相馬軍の先鋒として、かつての主君が籠る権現堂城の包囲に加わったのである。
さらに、盛胤の調略は城内にも及んだ。籠城していた標葉一門の藤橋小四郎隆豊と、家老の牛渡九郎兵衛尉もまた、密かに相馬方への内通を約束した 9 。特に藤橋隆豊は、その父・隆重がかつて主君・清隆に居城を攻め落とされたという遺恨を抱いており、内応の動機は十分であった 9 。盛胤は、敵の内部に深く根差した不満と対立を的確に見抜き、それを自軍の勝利のために最大限に活用したのである。
内応の密約が整うと、盛胤は権現堂城への総攻撃を開始した。これに呼応し、城内では藤橋隆豊が城門を開け放ち、宝寿院の住持に命じて城内に火を放たせた 9 。予期せぬ裏切りと火の手により、城内はたちまち大混乱に陥った。
この機を逃さず、相馬軍は城内に雪崩れ込み、抵抗する標葉勢を壊滅させた。もはやこれまでと覚悟を決めた城主・標葉清隆と嫡男・隆成は、城を枕に自刃して果てた 10 。これにより、鎌倉時代から約300年にわたり、この地に勢力を誇った名族・標葉氏は、歴史の舞台からその姿を消した。
この勝利は、若き当主・盛胤の卓越した戦略眼の賜物であった。単なる武力による制圧ではなく、情報戦と心理戦を駆使して敵の内部から崩壊させたその手腕は、戦国時代の武将として高く評価されるべきものである。父・高胤が武勇をもって生涯を賭した戦いに、盛胤は智謀をもって終止符を打ったのである。
標葉氏の滅亡は、相馬氏の歴史における画期的な転換点となった。この勝利により、相馬氏は標葉郡全域をその支配下に収めることに成功した 7 。さらに、長年、南の岩城氏との係争地であった楢葉郡の一部、すなわち富岡城(現在の富岡町)と木戸城(現在の楢葉町)をも掌握した 7 。
これにより、北から宇多郡、行方郡、そして新たに獲得した標葉郡という、後の相馬中村藩の基本領域となる「相馬三郡」の支配体制が実質的に確立された。相馬氏は、行方郡の一国人領主という立場から、浜通り北部一帯を支配する広域的な戦国大名へと飛躍を遂げたのである。
盛胤の統治者としての手腕は、征服後の処理において一層鮮明に現れる。彼は、新領土の要衝である権現堂城に、一門の重鎮である岡田義胤を城代として配置した 15 。これは、獲得した領地を確実に保持し、南の岩城氏に対する防衛線を固めるための堅実な統治策であった。
同時に、盛胤は内応によって勝利に貢献した旧標葉氏の有力者たちを巧みに取り込んだ。泉田隆直と藤橋隆豊には、相馬氏の通字である「胤」の字と、家紋である「繋ぎ馬」の使用を特別に許可し、一門に準ずる「御一家」という高い家格を与えて厚遇した 9 。これは、旧敵対勢力を味方に引き入れ、新領土の人心を掌握するための効果的な懐柔策であった。彼らの子孫は、その後も相馬藩の重臣として存続し、藩政を支えることとなる 9 。
相馬盛胤の時代の具体的な経済政策、例えば検地の実施や税制改革などに関する直接的な記録は、『相馬藩御経済略記』などの後世の編纂史料にも乏しい 19 。これは、戦国初期の地方大名に関する史料が限られていることに起因する。
しかし、浜通り一帯の広大な沿岸部を支配下に置いたことの経済的意義は計り知れない。この地域は古くから製塩業が盛んであり、また豊かな漁場を抱えていた 20 。特に塩は、内陸部に暮らす諸勢力にとっては貴重な必需品であり、重要な交易品であった。盛胤が確立した三郡支配は、これらの海洋資源とそれに伴う交易路を独占的に掌握することを意味し、相馬氏の経済基盤を飛躍的に強化したと考えるのが妥当である。この経済力が、後の伊達氏との半世紀にわたる激しい抗争を支える国力の源泉となったことは想像に難くない。盛胤は、軍事的な征服者であると同時に、相馬氏の経済的繁栄の礎を築いた統治者でもあったのである。
盛胤の治世は、軍事や統治のみならず、文化的な側面においても重要な足跡を残している。その代表的なものが、寺社政策、特に曹洞宗の保護である。
明応5年(1496年)、盛胤は本拠地・小高にあった天台宗の寺院・大林寺に、三春城下(田村氏領内)の曹洞宗寺院・天沢寺から高僧・遠山祖久を招聘した 22 。そして、寺名を「同慶寺」と改め、宗派も曹洞宗に改めて中興開基したのである。この目的は、陣没した父・高胤をはじめとする先祖代々の菩提を弔い、また長年の戦乱で命を落とした家臣たちの霊を慰めるためであったと伝えられている 22 。
これは、戦乱で疲弊した領民や家臣団の心を慰撫し、当主としての求心力を高めるための巧みな宗教政策であったと考えられる。当時、曹洞宗は武士階級に広く受け入れられていた宗派であり、これを手厚く保護することは、家臣団の精神的な結束を強化する上で大きな意味を持っていた。同慶寺はその後、江戸時代を通じて相馬家の菩提寺として篤い信仰を集め、現在に至るまでその法灯を伝えている。
史料は、盛胤がもともと病弱な体質であったと伝えている 9 。若くして父の悲願を達成した華々しい功績の陰で、彼自身は生涯、健康への不安を抱えていたのかもしれない。
そのような盛胤の人物像を最もよく示す逸話が、嫡男・顕胤の教育方針に関するものである。永正5年(1508年)、側室の西氏との間に待望の男子(後の顕胤)が誕生すると、盛胤は一族や家臣たちに次のように諭したという。
「顕胤が成長すれば、祖父の高胤に似た気性を持つであろう。皆、私に代わってこの子を育て、守り立ててほしい。そうすれば、我が家が失われることはないだろう。私は今まで何の功績も上げていない。すべては父・高胤が積み重ねた功績のおかげである。決して、顕胤の父が私だからといって、私に似させようとしてはならない。高胤の業績を学ばせ、家を保たせよ」 24
この言葉は、盛胤の深い自己省察と後継者への強い期待を如実に物語っている。彼は、武勇に優れた父・高胤に自らを及ばないと謙遜しつつも、息子には祖父のような偉大な武将になることを心から願っていた。ここには、父への深い敬愛、自らの体調への不安、そして相馬家の未来を案じる当主としての思慮深さが凝縮されている。彼は、武勇だけでなく、智謀や統治能力の重要性を理解していたからこそ、顕胤の将来を案じ、その教育に心を砕いたのであろう。
盛胤の家族構成は以下の通りである。
次男、三男をそれぞれ堀内氏、黒木氏といった一門や有力国人の名跡を継がせている点から、一族の結束を固め、領国支配を安定させようとする意図がうかがえる。
父祖の悲願を達成し、相馬氏の版図を飛躍的に拡大させた盛胤であったが、その生涯は比較的短いものであった。永正18年(1521年)7月7日、盛胤はこの世を去った 7 。享年は46歳、あるいは52歳とする説もある 8 。
彼の死後、家督は嫡男の顕胤が滞りなく継承した 7 。顕胤は、父が築いた三郡の領国を基盤とし、伊達稙宗の娘を正室に迎えるなど、父同様に巧みな外交を展開しながら、戦国乱世における相馬氏の舵取りを担っていくことになる 25 。
盛胤の遺骸は、父・高胤、そして子・顕胤と共に、現在の南相馬市原町区北新田にある「北新田の御壇」に葬られていると伝えられている 26 。親子三代の当主が同じ場所に眠るこの史跡は、盛胤の時代に確立された相馬氏の安定と、その後の領国支配の連続性を象徴しているかのようである。また、一説には菩提寺である平田山新祥寺(現在の相馬市)にも墓所があるとされる 9 。
相馬盛胤は、その治世が約30年と、戦国時代の武将としては決して長くはなかったものの、相馬氏の歴史において極めて重要な役割を果たした人物である。彼は、武勇に優れた父・高胤の時代と、智謀をもって伊達氏と渡り合った子・顕胤の時代を繋ぐ、まさに「中興の祖」と呼ぶにふさわしい当主であった。
彼の最大の功績は、父の代からの宿願であった標葉氏を滅ぼし、宇多・行方・標葉の三郡を統一したことにある。これにより、相馬氏は南奥州の有力な戦国大名として確固たる地位を築いた。その勝利は、単なる武力によるものではなく、蘆名氏との婚姻同盟による背後の安定化、敵の内部対立を利用した巧みな調略、そして征服後の旧敵対勢力を取り込む柔軟な統治策など、高い政治力と戦略眼に裏打ちされたものであった。
盛胤が築いた安定した領国と、再編された家臣団は、その後の伊達政宗との半世紀にわたる熾烈な抗争を耐え抜き、相馬氏が江戸時代を通じて同地を治め続けるための礎となった。彼の存在なくして、後の相馬氏の存続はあり得なかったと言っても過言ではない。相馬盛胤は、父祖の悲願を継ぎ、一族の未来を切り拓いた、陸奥の歴史に記憶されるべき驍将である。