本報告書は、戦国時代末期に陸奥国で活躍した武将、相馬隆胤(そうま たかたね、天文20年(1551年) - 天正18年(1590年))の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯は、宿敵・伊達氏との熾烈な抗争と、豊臣政権による天下統一という時代の大きな転換点に翻弄されたものであった 1 。
調査にあたり、同名の人物との混同を避けることが不可欠である。特に、室町時代に活躍した相馬氏第12代当主・相馬高胤(そうま たかたね、1424-1492) 2 や、江戸時代の中村藩主・相馬充胤(そうま みちたね、1819-1887) 4 など、時代も立場も異なる複数の「そうま たかたね」が存在する。本報告書で扱うのは、相馬盛胤の次男として生まれ、伊達政宗との戦いで命を落とした人物であることを、ここに明確にする。
隆胤は「武勇に優れた猛将」 1 としてその名を馳せた。しかしその一方で、「血気盛んで慎重さに乏しい」 1 という評価や、「小利を貪ってついには大利を失うであろう」という人物評も伝わっている。本報告書では、これらの多面的な評価が如何にして形成されたのか、彼の具体的な行動と、その悲劇的な最期を通して深く掘り下げていく。
相馬隆胤は、天文20年(1551年)、陸奥の戦国大名・相馬氏第15代当主である相馬盛胤(もりたね)の次男として生を受けた 1 。父・盛胤は、伊達氏の絶え間ない圧迫に抗し続け、相馬家の領国経営の基盤を固めた勇将として知られる 6 。母は、伊達氏の一族である掛田義宗(または俊宗)の娘であり、この婚姻は、かつて相馬・伊達両家が密接な姻戚関係にあったことを示している 8 。
隆胤には、兄に家督を継いで第16代当主となった相馬義胤(よしたね)がいた。義胤もまた、父や弟と共に、生涯を通じて伊達政宗と激しい覇権争いを繰り広げた武将である 10 。また、姉妹の一人は、皮肉にも宿敵である伊達方の重臣・亘理重宗に嫁いでいた。これにより、隆胤と重宗は義理の兄弟という複雑な関係にあった 9 。この入り組んだ縁戚関係は、当時の南奥州における大名間の力学を理解する上で極めて重要な要素である。
相馬氏は、桓武平氏千葉氏の流れを汲む名門であり、鎌倉時代から陸奥国行方郡・標葉郡・宇多郡(現在の福島県浜通り北部)に根を張る領主であった 12 。
隆胤が生まれた16世紀半ば、相馬氏は北の伊達氏と深刻な対立関係の渦中にあった。この対立の直接的な源流は、伊達家当主の座を巡る伊達稙宗・晴宗父子の内訌「天文の乱」に遡る。この大乱において、相馬氏は稙宗方に与したため、最終的に晴宗方が勝利したことで、伊達氏との間に修復しがたい亀裂が生じたのである 14 。
隆胤の生涯は、伊達輝宗、そしてその子・政宗の急激な勢力拡大期と完全に重なっている。相馬氏は、南方の佐竹氏や岩城氏といった大名と時に連携し、時に反目しながら、伊達氏からの絶え間ない軍事的圧力に抗し続けるという、極めて厳しい国際環境に置かれていた 10 。
家督を継ぐ立場にない次男・隆胤に期待された役割は、一門の武門の棟梁として、兄・義胤の統治を軍事面から強力に補佐することであった。彼の官途名である「兵部大輔」もまた、軍事を司る役職であり、その期待された役割を象徴している 1 。
彼の「勇猛さ」や「血気盛んさ」といった気質は、単に生来のものと片付けることはできない。それは、彼が置かれた状況によって形成され、強化された側面が大きいと考えられる。対伊達氏の最前線という、常に武力が求められる緊張状態の環境と、そこで武功を立てることで自らの存在価値を示さねばならない「一門の支柱」という立場が、彼の猪突猛進とも評される行動様式を育んだのである。慎重な外交交渉よりも、戦場での即時的な軍事行動が評価される場で長年過ごしたことが、彼の人物像を決定づけたと言っても過言ではない。
相馬中村城(現在の福島県相馬市)は、相馬氏の本拠である小高城の北方に位置し、伊達領との国境線を守る最重要戦略拠点であった 12 。南下してくる伊達軍を食い止めるための第一の防壁であり、この城の維持は、相馬氏の独立そのものに関わる死活問題であった 12 。城の南を流れる宇多川を天然の外堀とし、北には幅の広い水堀を構えるなど、その縄張りは明確に北の伊達氏を意識したものであり、相馬氏の対伊達戦略の要であったことが見て取れる 12 。
永禄6年(1563年)、相馬家にとって衝撃的な事件が発生する。前任の中村城代であった草野直清が、伊達氏と内通して謀反を起こしたのである 1 。この反乱は父・盛胤と初陣を飾った兄・義胤によって鎮圧されたものの、国境の城を譜代の家臣に任せることの危うさを露呈する結果となった 7 。
この危機的状況を受け、盛胤は極めて大胆な人事を断行する。当時わずか13歳の次男・隆胤を、後任の中村城代に抜擢したのである 1 。この異例とも言える人事は、裏切りの危険がない一門の直系、それも武勇に優れた資質を持つ者を最前線に配置することで、北の守りを盤石にしようという盛胤の強い決意の表れであった。
隆胤は、城代就任から天正18年(1590年)に戦死するまでの27年間、一貫して中村城にあって対伊達氏の最前線に立ち続けた 1 。彼の主たる任務は、城の防備を固め、兵を訓練し、伊達軍の動向を常に監視し、いかなる侵攻にも即応できる体制を維持することであった 12 。彼の存在そのものが、伊達氏に対する強力な抑止力として機能していたと言える。
隆胤が長年にわたり中村城を守り抜いたことは、当主である兄・義胤が他の戦線での指揮や、佐竹氏などとの外交に専念することを可能にした。その意味で、彼の軍事的な貢献は、相馬家の存続に不可欠なものであった。
現存する諸史料は、一致して隆胤を「武勇に優れた猛将」 1 、「剛勇無双の猛将」 8 と記している。彼の武名は相馬領内のみならず、敵である伊達方にも広く知れ渡っていたと考えられる。彼の生涯は、伊達氏との絶え間ない局地戦の歴史であり、その中で常に先陣を切って戦う姿が、猛将としての評価を不動のものにしたのであろう。
「小利を貪ってついには大利を失うであろう」という隆胤に対する評価は、特定の一次史料にその言葉自体を見出すことは困難である 23 。このことから、この評言は、彼の生前に具体的な逸話として語られたものではなく、彼の猪突猛進な性格と、それが招いた悲劇的な最期を、後世の人々が要約し、凝縮した「人物評」である可能性が極めて高い。
この評言を分析するにあたり、「小利」と「大利」が何を指すかを解釈することが重要である。「小利」とは、目先の戦場における一時的な勝利や、個人の武名といった局所的な利益を指すと考えられる。一方で「大利」とは、彼自身の生命、相馬家の軍事的中核としての役割、そして何よりも、豊臣秀吉による天下統一を目前にした政治情勢全体を見渡す戦略的な視点を指す。彼は戦術的な勝利を求めるあまり、自らの命と相馬家の将来という、より大きな戦略的利益を失った。この評言は、彼の生涯の悲劇を的確に表現していると言える。
「血気盛んで慎重さに乏しい性格」 1 は、彼の戦術そのものを特徴づけていた。彼は局面を打開するための強行突撃や奇襲を得意としたであろうが、それは同時に、戦況を冷静に俯瞰する視点を欠き、味方との連携を失って孤立する危険性と常に隣り合わせであった。父・盛胤が、隆胤の死の報に接し、「だから逸るなといったものを……」と嘆いたとされる逸話は、周囲が彼の性格の危うさを認識していたことを示唆している 29 。
彼の最期は、まさにこの危うさが現実のものとなった瞬間であった。彼の最大の長所であった「勇猛さ」が、状況判断の誤りによって、自らを滅ぼす「無謀さ」へと転化した悲劇と言えるだろう。
天正17年(1589年)、相馬氏は伊達政宗の猛攻の前に、国境の要衝である駒ヶ峯城と蓑頸城(新地城)を立て続けに失い、防衛線は大きく後退を余儀なくされていた 8 。
翌天正18年(1590年)春、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原北条氏攻めを開始し、全国の大名に参陣を命じた。この国家的な動員令に対し、伊達政宗も逡巡の末、5月9日に会津黒川城を発ち、小田原へと向かった 8 。
この政宗不在という状況は、相馬方にとって失地回復のまたとない好機と映った。隆胤の出陣は、この機に乗じた軍事行動であった。しかし、それは秀吉が発令した「惣無事令」(大名間の私闘を禁じる命令)を公然と破る、極めて危険な賭けでもあった。
童生淵(どしょうぶち)、または小豆畑(あずはた)の戦いは、天正18年5月14日、陸奥国宇多郡(現在の福島県相馬市石上周辺)で勃発した 30 。
伊達軍が小豆畑に侵攻したとの報を受け、隆胤は中村城から出撃。童生淵で両軍は激突した 8 。相馬軍は総大将の隆胤が率いる中村城の軍勢であったが、その兵力は「わずかな手勢」と記されており 8 、数的に劣勢であった可能性が高い。対する伊達軍は、政宗の重臣であり隆胤の義兄でもある亘理重宗を大将とし、坂元城、駒ヶ峰城、小斎城の兵力を結集しており、政宗から留守中の相馬領侵攻を命じられていたとされる 8 。
陣営 |
役職 |
氏名 |
備考 |
相馬軍 |
総大将 |
相馬 隆胤 |
戦死 30 |
|
主要武将 |
矢田 但馬守 |
戦死 30 |
|
主要武将 |
木幡 玄清 |
30 |
伊達軍 |
大将 |
亘理 重宗 |
相馬隆胤の義兄 30 |
|
主要武将 |
黒木 宗俊(宗元) |
駒ヶ峰城主 8 |
|
主要武将 |
佐藤 藤右衛門 |
小斎城主 8 |
戦闘は乱戦となり、兵力で劣る相馬軍は次第に劣勢へと追い込まれていった 8 。この絶望的な状況を打開すべく、隆胤は自ら先頭に立ち、敵陣への決死の突撃を敢行する。しかし、この行動はあまりにも突出しており、味方の支援から完全に切り離され、敵中に孤立する結果を招いた 1 。
伝承によれば、彼の乗馬が湿田に足を取られて身動きが取れなくなったところを伊達兵に幾重にも包囲され、獅子奮迅の働きを見せるも、衆寡敵せず、ついに討ち取られたという 30 。享年40。
総大将の隆胤が討たれたことで相馬軍の士気は完全に崩壊し、組織的な抵抗は終わりを告げ、全面的な敗走に転じた 30 。この戦いで相馬方は、隆胤のほか、重臣の矢田但馬守をはじめとする多くの将兵を失い、壊滅的な打撃を被った 30 。この童生淵の戦いが、戦国時代を通じて百数十年にわたり続いた相馬・伊達両氏の、最後の組織的な戦闘となったのである 30 。
対伊達強硬派・主戦派の筆頭であり、一門の軍事的中核であった隆胤の死は、相馬家中に計り知れない衝撃を与えた。彼の死によって、家中の和戦両派の力関係が大きく揺らぎ、主戦論が急速に勢いを失ったことは想像に難くない 31 。兄・義胤にとって、最も信頼する弟であり、自らの武力を代行する存在であった猛将の喪失は、精神的にも軍事的にもあまりに大きな痛手であった。
小田原に参陣していた政宗は、この戦いの報を受けると、これを「相馬氏による惣無事令違反」として巧みに政治利用した。豊臣秀吉に対し、相馬氏の非を鳴らし、自らの軍事行動の正当性を主張することで、公式に相馬討伐の許可を得ることに成功したのである 9 。隆胤の死と相馬軍の敗北は、政宗にとって単なる軍事的勝利以上の意味を持った。それは、長年の宿敵を中央政権の権威の下で政治的に断罪し、来るべき奥州仕置において自らに有利な裁定を引き出すための、極めて有効な外交カードとなった。
相馬隆胤の死は、単なる一武将の戦死に留まらない。それは、戦国乱世の価値観、すなわち「力による領土紛争の解決」という旧来の論理に殉じた武将の最期であった。彼の行動は、豊臣秀吉という中央集権的な「天下」の秩序を理解せず、あるいは無視した結果の悲劇であった。隆胤の行動が旧来の戦国武将の論理に根差していたのに対し、政宗の行動は新たな統一政権下での大名の論理を巧みに利用したものであった。この対比は、二つの時代の価値観が衝突し、古い価値観が敗北したことを象徴している。
この敗戦により、相馬氏は伊達氏に対する軍事的抵抗力を事実上喪失し、秀吉による奥州仕置の裁定を甘受せざるを得ない状況に追い込まれた。結果として、長年の係争地であった駒ヶ嶺城を含む宇多郡北部は、正式に伊達領として確定した 30 。隆胤の死は、相馬氏が独立した戦国大名から、豊臣政権下の一大名へと転換せざるを得なくなる、その画期となる事件であった。
現時点において、相馬隆胤の墓所の具体的な場所を特定する信頼性の高い史料は確認されていない。相馬市や南相馬市に点在する相馬家代々の菩提寺や墓所、例えば同慶寺や円応寺などの記録にも、彼の名は見当たらないのが現状である 11 。戦死した武将であるため、戦場となった童生淵周辺に供養碑や首塚などが築かれた可能性も考えられるが、それを裏付ける文献や伝承は見出せない。敗戦の将であったため、公式な墓が造られなかった可能性も否定できない。
相馬氏の系図や『衆臣家譜』などの関連史料を調査しても、隆胤の妻子や直系の子孫に関する記述は一切確認できない 1 。40歳で戦死するまで、その生涯のほとんどを対伊達氏との戦いに明け暮れたことを鑑みれば、子孫を残すことなくその生涯を閉じたと考えるのが最も自然であろう。
相馬隆胤は、伊達氏の強大な軍事力に対し、相馬氏が戦国大名としての独立を維持した時代において、その軍事力の中核を担った紛れもない功労者である。中村城代として27年間にわたり北の国境線を死守した功績は、高く評価されるべきであろう。
しかし、彼の最大の長所であった「勇猛さ」は、時として「無謀さ」と表裏一体であった。時代の大きな流れ、すなわち中央集権化という新たな政治秩序を読む慎重さを欠いていたことは否定できない。彼の死は、個人の悲劇に留まらず、相馬家の戦略に大きな空白を生み、結果的に宿敵・伊達政宗に政治的優位を与えることになった。
彼の生涯と死は、戦国乱世の価値観が終焉を迎え、新たな統一権力による秩序が確立されていく時代の転換点を鮮烈に映し出している。彼は、自らの武勇を信じ、旧来の戦国の作法に殉じた「最後の戦国武将」の一人として、奥州の地にその名を刻んでいる。
年号(西暦) |
隆胤・相馬家の動向 |
伊達家の動向 |
中央・周辺の動向 |
天文20年 (1551) |
相馬隆胤、生誕 1 |
伊達晴宗の時代 |
|
永禄6年 (1563) |
草野直清の謀反。鎮圧後、 隆胤が中村城代に就任 1 |
|
|
永禄11年 (1568) |
父・盛胤、伊達輝宗と小島で戦う 7 |
伊達輝宗の時代 |
|
天正3年 (1575) |
相馬軍、名取郡で伊達軍に大敗。亘理氏が伊達方へ離反 9 |
|
織田信長が勢力を拡大 |
天正6年 (1578)頃 |
兄・義胤が家督を継承 11 |
|
|
天正10年 (1582) |
|
|
本能寺の変 |
天正12年 (1584) |
伊達氏と和睦 11 |
伊達政宗、家督を継承 |
|
天正13年 (1585) |
人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍に参加 10 |
伊達輝宗、死去。政宗、人取橋で連合軍と戦う 9 |
豊臣秀吉、関白に就任 |
天正17年 (1589) |
駒ヶ峯城・蓑頸城を伊達軍に奪われる 30 |
摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼす |
秀吉、惣無事令を発令 |
天正18年 (1590) |
5月14日、童生淵の戦いで戦死(享年40) 1 |
5月9日、政宗が小田原へ出陣 9 |
秀吉、小田原征伐を開始 |
|
|
政宗、隆胤の死を口実に相馬討伐の許可を得る 9 |
7月、奥州仕置。相馬氏は本領安堵されるも、伊達氏との国境が確定 30 |