最終更新日 2025-06-26

相馬顕胤

相馬顕胤 ― 戦国大名への礎を築いた智勇兼備の将

序論:相馬顕胤という存在

戦国期南奥州史における相馬顕胤の位置づけ

戦国時代の陸奥国浜通り(海道)北部に勢力を張った相馬氏の歴史において、相馬顕胤(そうま あきたね)は、一在地領主から戦国大名へと脱皮する過渡期を主導した、極めて重要な人物である。彼の治世は、西に隣接し強大化する伊達氏との関係性を決定づけ、以後一世紀近くにわたる相馬家の基本戦略を方向付けた。顕胤の生涯は、単に一武将の興亡に留まらず、戦国中期における南奥州の権力構造の変容と、相馬氏が戦国大名として自立していく過程を鮮明に映し出している。

史料における当主代数の揺れと本報告書の立場

相馬顕胤は、一般的に相馬家「14代」当主として言及されることが多い 1 。しかしながら、『相馬氏惣領系図』などのより詳細な系図資料においては「15代」として記録されている 4 。この相違は、主に鎌倉時代の家督継承に関する解釈の違いに起因する。『寛政重修諸家譜』のように、特定の当主を歴代から除外する系譜が存在するため、代数に揺れが生じているのである 7 。本報告書では、相馬氏の歴史的連続性を重視する立場から、顕胤を

相馬家15代当主 として扱い、議論を進める。この代数表記の揺れそのものが、戦国武家の正統性を巡る歴史的背景を物語る一例として興味深い。

本報告書の構成と目的

本報告書は、相馬顕胤の生涯を、出自と家督相続、軍事・外交活動、領国経営、そして人物像という複数の側面から徹底的に分析する。特に、南奥州全土を巻き込んだ「天文の乱」における彼の役割を、相馬側の史料である『奥相茶話記』と伊達側の史料『伊達正統世次考』などの比較検討を通じて多角的に解明する。これにより、一人の武将の生涯を超え、戦国期南奥州の権力構造の変容と、相馬氏が戦国大名として自立していく過程を明らかにすることを目的とする。

第一部:武将の誕生と相馬家の黎明

第一章:出自と家督相続

生誕と血筋

相馬顕胤は、永正5年(1508年)、陸奥国行方郡の小高城にて、相馬家14代当主・相馬盛胤(もりたね)の子として生を受けた 1 。幼名は不明であるが、通称は孫次郎と伝わる 1 。父は相馬高胤の子である盛胤、母は西右衛門尉胤信の娘であった 4 。この母方の西氏は、標葉(しねは)郡の有力国人であった標葉一族と婚姻関係を結んでおり、相馬氏が在地勢力との連携を深めていたことを物語っている 6

庶子から嫡子へ:乱世の選択

顕胤の家督継承には、戦国時代特有の事情が色濃く反映されている。父・盛胤は生来病弱であり、正室であった蘆名氏との間に男子が生まれる前に、側室の西氏から顕胤が誕生した 6 。通常であれば家督継承において不利な立場であるが、盛胤は顕胤を嫡子として定めた。

この決断の背景には、単なる後継者不在という問題を超えた、切迫した危機意識が存在した。史料には「乱世に一日たりとも大将がいなくなっては領地を保つことは難しい」との記述が見られ、当主の不在が即座に他勢力からの侵攻や家臣の離反に繋がりかねない、当時の厳しい現実を浮き彫りにしている 6 。病弱な当主を抱える相馬家にとって、血筋の正統性を巡る議論よりも、確実な後継者を早期に定め、家中の動揺を未然に防ぎ、対外的な弱みを見せないことが最優先課題であった。この決定は、単なる家督問題ではなく、相馬家の存亡をかけた安全保障政策の一環であったと解釈できる。盛胤は、顕胤の資質に祖父・高胤の武勇の再来を期待し、「私が顕胤の父だからといって私に似させようとするな、祖父の高胤を模範とさせよ」と家臣団に諭し、その養育を託したと伝えられている 6

若き当主の誕生

大永元年(1521年)、父・盛胤の死去(あるいは隠居)に伴い、顕胤は14歳という若さで家督を相続した 1 。この若年での家督相続は、彼が早くから当主としての教育を受け、その器量を周囲から認められていたことを示唆している。

第二章:当時の南奥州情勢

列強に囲まれた地政学的環境

顕胤が家督を継いだ16世紀前半の南奥州は、群雄が割拠する緊迫した情勢にあった。当時の相馬氏は、西に陸奥守護職を掌握して勢力を急拡大する伊達氏、南に長年の宿敵である岩城氏、内陸部には田村氏、そして会津には蘆名氏といった有力大名に四方を囲まれており、常に存亡の危機と隣り合わせであった 8

特に、伊達家14代当主の伊達稙宗は、多くの子女を周辺の諸大名に嫁がせ、あるいは養子として送り込む「婚姻政策」を駆使して、南奥州一帯に巨大な同盟ネットワークを築き上げ、その影響力を強めていた 10 。相馬氏もまた、この伊達氏の強大な力と無関係ではいられなかった。

婚姻による外交戦略

このような厳しい国際環境の中、相馬氏は伊達氏との関係安定化を最優先課題とした。その具体的な方策として、顕胤の正室に伊達稙宗の長女・屋形御前を迎えるという婚姻同盟を締結した 1 。この婚姻は、相馬家を伊達氏の広域的な同盟ネットワークに組み込むことで、一時的な安全を確保する効果があった。しかし同時に、この深すぎる関係は、後に南奥州全土を揺るがす「天文の乱」において、顕胤の立場を決定づける重要な伏線となったのである。

第二部:智勇の将、その実像

第一章:人物像と武勇伝

傑出した身体能力

相馬顕胤は、その武勇を伝える逸話に事欠かない人物である。伝承によれば、その身長は六尺(約180cm)余りと、当時としては際立って長身であった 2 。さらに、八人力の持ち主で、鉄製の軍扇を自在に操るほどの剛力を誇ったとされ、相馬家伝来の太刀を佩びると、まるで脇差のように見えたという逸話も残されている 2 。これらの描写は、彼が戦場において圧倒的な存在感を放つ勇将であったことを物語っている。

理想化された為政者像

顕胤の人物像は、武勇のみならず、為政者としての徳性においても高く評価されている。『奥相茶話記』などの後世に編纂された相馬側の史料には、「諸士を慈しみ、民衆を愛し、広く公平な心を持っていたため、上下から崇敬の念を持って見られた」といった記述が散見される 2 。また、「他国を侵略せず、しかも他氏からの相馬領侵略は完全に排除した」とも伝えられている 2

ただし、これらの記録を解釈する際には、史料の性質を考慮する必要がある。特に『奥相茶話記』は、江戸時代初期に相馬藩の家老によって編纂された軍記物であり、主家の武功や正統性を後世に伝えるという明確な意図を持っている 11 。したがって、顕胤に関する記述には、伊達氏との長い抗争の歴史の中で、自家の正統性と武威を内外に示すため、戦国大名・相馬氏の「理想的な始祖」としてその姿を意図的に構築した側面が含まれている可能性が高い。これは、顕胤が凡庸な人物であったことを意味するのではなく、史料に描かれた英雄像を、その背景にある政治的意図と共に批判的に読み解くことの重要性を示している。

第二章:初期の軍事行動と外交手腕

岩城氏との抗争:楢葉郡の争奪

若き当主・顕胤は、家督相続後すぐにその軍事的手腕を発揮する。大永4年(1524年)、父・盛胤の代に岩城氏によって奪われていた楢葉郡の富岡城と木戸城を攻撃し、これを奪還することに成功した 2 。この際、弟の三郎胤乗(乗胤)を富岡城代に、標葉六騎の一氏である下浦常陸介泰清を木戸城代に任命し、占領地の実効支配を固めている 2

この抗争の直接的な原因は、顕胤が仲介役となって進めていた伊達晴宗と岩城重隆の娘・久保姫との縁談を、重隆が一方的に反故にし、白河氏との縁談を進めようとしたことにあるとされる 6 。これにより顕胤は面目を潰された形となり、岩城領への侵攻を開始したという。

名誉を掲げた戦略的拡張

この一連の出来事は、若き顕胤の高度な政治的判断力を示している。「面目を潰された」という名誉の問題は、表向きの開戦理由としては十分なものであったが、その本質は、長年の懸案であった旧領・楢葉郡を回復するための絶好の口実(大義名分)であった可能性が極めて高い。富岡城・木戸城は、もともと相馬氏が一度攻略した土地であり、潜在的な領土問題が存在していた 2 。岩城氏の違約は、この領土問題に再び火をつける格好の機会を提供したのである。

顕胤はこの機会を逃さず、迅速に軍事行動を起こし、結果として領土奪還という戦略目標を達成した 12 。これは、単なる感情や面子で動くのではなく、外交上の失敗を軍事行動の正当化に巧みに利用する、戦国武将としての冷静かつ計算高い戦略であったと評価できる。最終的に岩城氏は違約の非を認め、伊達氏との婚姻に応じる形で和睦が成立した 12

第三部:天文の乱 ― 奥州全土を揺るがした大乱への介入

第一章:伊達家の内紛と顕胤の立場

背景:伊達稙宗の拡大政策と父子の対立

天文11年(1542年)、南奥州の覇者であった伊達家において、当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間で深刻な対立が生じた。その原因は複合的であり、稙宗が三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送り込もうとした計画や、婿である相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領を返還しようとした案などが挙げられる 10 。これらの拡大・集権化政策に反発した晴宗は、家臣団の一部と共に父・稙宗を居城の桑折西山城に幽閉するという挙に出た。この事件が引き金となり、南奥州の諸大名を二分する大乱、すなわち「天文の乱」が勃発したのである 14

舅・伊達稙宗への忠誠

この未曾有の内乱に際し、相馬顕胤の立場は明確であった。正室が稙宗の長女であるという極めて強固な婚姻関係に基づき、一貫して舅である稙宗方として参陣した 1 。同じく稙宗の娘婿であった懸田俊宗・義宗父子らと共に、稙宗派の中核戦力として各地で奮戦することになる 2

稙宗の陣営には、相馬氏のほか、田村隆顕、蘆名盛氏、二階堂輝行など、稙宗が推し進めてきた婚姻政策によって結ばれた姻戚大名が多く集結した 14 。これは、稙宗の外交戦略が一定の成果を上げていたことを示すと同時に、ひとたびその結束が崩れれば、広範囲にわたる争乱へと発展する危険性を内包していたことを物語っている。

第二章:主要合戦における奮戦

各地での激戦と武功

天文の乱において、相馬顕胤は稙宗方の主力として目覚ましい活躍を見せた。彼は自ら軍を率いて伊達領の各地に侵攻し、晴宗方を大いに苦しめた。信夫郡の大森城の戦いでは、晴宗方の戦死者が100余名に上る一方、相馬方でも重臣の岡田胤通ら60余名の戦死者を出すほどの激戦を繰り広げた 2

特に顕胤の戦術家としての一面が発揮されたのが、阿武隈川での合戦である。天文12年(1543年)5月、顕胤は手勢の一部を伏兵として潜ませ、晴宗の本隊を誘い込んだ。相馬勢の兵力の少なさを見て油断した晴宗軍が一気に川を渡って攻めかかってきたところを、伏兵と共に猛攻を加え、伊達勢を壊滅させた。この戦いで伊達方は200名以上の戦死者を出し、晴宗は這々の体で退却したと記録されている 6

さらに、伊達郡高子原の戦いでも晴宗軍を破るなど、その武勇は比類なきものであった。舅の稙宗自身も、長谷倉新兵衛に宛てた書状の中で「相馬氏懸田より日々出陣せらる。その勇邁比類なし」と記し、顕胤の奮戦を高く評価している 2

戦死者の慰霊

顕胤の人間性を示す逸話として、高子原の合戦後の行動が伝えられている。彼はこの戦いの後、敵味方の区別なく戦死者を丁重に埋葬し、首塚を築いてその霊を弔ったとされる 15 。戦国乱世の殺伐とした時代において、敵兵に対しても慈悲の心を示すこの行為は、彼の武将としての器の大きさを示すものとして、後々まで語り継がれた。

第三章:稙宗の救出と庇護

史料間の相克:救出劇の真相

稙宗が桑折西山城から救出された経緯については、相馬側と伊達側の史料で記述が大きく異なり、歴史解釈上の重要な論点となっている。相馬藩の公式な戦記である『奥相茶話記』は、相馬顕胤自身やその家臣・草野肥前が二度にわたって稙宗を救出したと記している 2 。一方、仙台藩の正史である『伊達正統世次考』は、伊達家臣の小梁川宗朝が救出したとしている 17

両者の記述は自家の功績を強調するものであり、どちらか一方を無批判に受け入れることはできない。しかし、この論争に一つの光を当てる極めて重要な傍証が存在する。天文14年(1545年)6月、伊達晴宗が同盟者である岩城重隆に宛てた書状の中で、「(父・稙宗が)或は謂ふ、宇多の中村(相馬中村城)に在留すと、亦謂ふ相馬に打ち超さると、未だ知らずいかん(父が相馬領の中村にいるとも、相馬に連れて行かれたとも聞くが、はっきりしない)」と記しているのである 2 。これは、敵方の大将である晴宗自身が、父・稙宗が相馬領内にいる可能性を明確に認識していたことを示す一次史料に近い記録であり、『奥相茶話記』が伝える「顕胤による稙宗の庇護」という記述の信憑性を強力に補強するものと言える。

小高城への稙宗受け入れ

これらの史料を総合的に判断すると、顕胤が幽閉されていた舅・稙宗を救出し、自らの居城である小高城に迎え入れて庇護した蓋然性は極めて高い 1 。この行為は、晴宗方勢力からの集中的な攻撃対象となるリスクを覚悟の上での、極めて重大な政治的・軍事的決断であった。これにより、顕胤は稙宗方における自らの中心的な立場を不動のものとし、乱の主導権争いにおいて重要な役割を果たすことになった。

第四部:戦国大名としての基盤構築

第一章:領国の一元支配

天文の乱に乗じた領土統一

相馬顕胤の真価は、天文の乱という外部の動乱を、自家の領国支配体制を盤石にするための絶好の機会として捉え、最大限に活用した点にある。これは単に混乱に乗じて利益を得る「漁夫の利」ではなく、積極的に乱に関与しながら自家の戦略目標を達成していく、高度な政治的・軍事的洞察力の表れであった。

顕胤は、対外的には「舅への忠義」という大義名分を掲げて伊達領へ出兵する一方で、その混乱に乗じて自領内の反抗勢力を一掃するという、巧みな二正面作戦を展開した。天文12年(1543年)、乱の最中に家臣の黒木弾正正房や中村大膳義房らが晴宗方に内通し、田中城を拠点に反乱を起こした 6 。顕胤は伊達勢との戦いの傍ら、この反乱を断固として鎮圧し、これまで完全には掌握しきれていなかった宇多郡を完全に支配下に置いた 18 。この一連の動きにより、相馬氏は宇多・行方・標葉の三郡にまたがる領域を一元的に支配する、名実ともに戦国大名としての基礎を固めることに成功したのである 2

家臣団の配置

領国の一元支配を達成した顕胤は、その支配体制を確固たるものにするため、要衝に信頼できる家臣を配置した。新たに掌握した宇多郡の拠点である相馬中村城には草野式部直清を、旧黒木氏の拠点であった黒木城には青田信濃をそれぞれ城代として置き、国境の防備と領内の統治を強化した 2

第二章:多角的外交と婚姻政策

顕胤の治世は、伊達氏との関係を基軸としつつも、田村氏、蘆名氏、岩城氏といった周辺勢力との間で、合従連衡を巧みに使い分ける多角的な外交によって特徴づけられる。

田村氏との同盟強化

顕胤の外交戦略の中でも特に重要なのが、三春城主・田村氏との同盟強化である。彼は娘の於北(おきた)の方を、田村家当主・田村清顕の正室として嫁がせた 2 。この婚姻により、相馬・田村両氏は、西方の伊達氏に対抗するという共通の戦略的利害を持つ、強固な同盟関係を築いた。この於北の方が産んだ娘こそ、後に「独眼竜」伊達政宗の正室となる愛姫である。この血縁関係は、後の南奥州の歴史に複雑な影響を及ぼしていくことになる。

蘆名氏・白河結城氏との関係

会津の蘆名氏とは、弟の堀内近胤が蘆名盛舜の娘を娶るなど、姻戚関係を築いていた 23 。しかし、天文の乱において蘆名盛氏は、当初は同じ稙宗方であったものの、同陣営内の田村氏との対立から晴宗方に寝返るなど 14 、必ずしも安定した同盟関係ではなかった。また、南方の白河結城氏は天文の乱において晴宗方であったとみられ、稙宗方の相馬氏とは間接的な敵対関係にあった 22 。これらの事実は、当時の南奥州の外交関係がいかに流動的で複雑であったかを物語っている。

【表】相馬顕胤の主要外交関係と婚姻政策

相手勢力

関係性

主要な出来事・背景

関連史料

伊達氏(稙宗派)

舅・婿関係、同盟

顕胤が稙宗の長女(屋形御前)を娶る。天文の乱で稙宗方の中核として参陣し、稙宗を小高城で庇護。

1

伊達氏(晴宗派)

敵対

天文の乱で全面的に敵対。顕胤の死後、この敵対関係が相馬・伊達間の宿縁として固定化される。

2

岩城氏

当初敵対、後に和睦

晴宗の婚姻仲介を巡り対立し、富岡城・木戸城を奪還。後に和睦。

2

田村氏

婚姻による同盟

娘・於北が田村清顕に嫁ぐ。対伊達氏の共同戦線を形成。この孫が伊達政宗に嫁ぐ愛姫。

2

蘆名氏

姻戚関係、複雑

弟・堀内近胤が蘆名盛舜の娘を娶る。天文の乱では当初稙宗方だが、後に晴宗方に転じ、必ずしも安定した同盟ではなかった。

14

白河結城氏

間接的敵対

天文の乱では晴宗方であったとみられ、稙宗方の相馬氏とは間接的な敵対関係にあった。

22

第三章:領国経営と内政

経済基盤の強化

相馬氏が伊達氏のような大勢力と長年にわたり渡り合うことができた背景には、軍事力や外交手腕だけでなく、それを支える強固な経済基盤があった。顕胤の強さの源泉の一つは、浜通り地方の地理的特性を活かした経済政策にあったと考えられる。

特に、太平洋に面した領内では、松川浦を中心とする漁業と製塩業が盛んであった 28 。これらは、米作に大きく依存する内陸の諸大名に対して、大きな経済的優位性をもたらした。塩や海産物は、内陸部への重要な交易品であり 29 、特に塩は戦国時代から近世にかけて藩の専売品となるほどの戦略物資であった 28 。史料には、顕胤が城下町や港湾機能を持つ集落の整備に力を注ぎ、塩や海産物の流通によって収益を上げ、戦費の調達と民の生活安定を図ったことが示唆されている 8 。顕胤は、この「海の恵み」を領国の財源として確立することで、活発な軍事行動を支える経済的バックボーンを築いたのである。

内政の充実

顕胤は戦乱の合間を縫って、領国の内政充実にも意を注いだ。新田の開墾や用水路の整備といった農業基盤の強化に加え、城下町の整備、そして寺社の保護にも力を入れたと伝えられる 8 。これらは、領内の安定と民心の掌握を図るための重要な施策であった。

相馬氏が祖先である平将門の代から代々信仰してきたとされる妙見菩薩(北辰妙見菩薩)を祀る妙見社の保護は、特に重要であったと考えられる。相馬氏の領国支配と妙見信仰は密接に結びついており、妙見社の保護・勧請は、領民の精神的な統合と、相馬氏の支配の正統性を強化する上で大きな役割を果たした 32

第五部:顕胤の死と後世への遺産

第一章:最期と家督の継承

若き日の死

天文の乱は天文17年(1548年)、室町幕府13代将軍・足利義輝の仲介によって終結した。しかし、その翌年の天文18年(1549年)2月2日、相馬顕胤は居城の小高城にて、42歳という若さでその生涯を閉じた 1 。乱の終結を見届けたかのような、あまりにも早い死であった。

その亡骸は、行方郡小谷村の如意山宝光禅寺に葬られ、法名は崇国院殿雄山英公大居士とされた 6 。また、廟所は平田山新祥寺と伝わる 6 。現在、南相馬市原町区の北新田に存在する「北新田の御壇」にも、父・盛胤ら一族と共に葬られている墓所がある 36

家督の継承

顕胤の死後、家督は伊達稙宗の娘との間に生まれた嫡男・相馬盛胤(もりたね、弾正大弼)が継承した 2 。盛胤は、父・顕胤が築き上げた統一領国と家臣団という正の遺産、そして伊達氏との決定的かつ宿命的な対立という負の遺産の両方を引き継ぐことになった。彼の治世は、伊達輝宗、そしてその子・政宗の時代へと続き、相馬家は奥州の覇権を巡る激動の時代を戦い抜くことになる。

第二章:歴史的評価と影響

相馬・伊達間の宿縁の固定化

相馬顕胤が天文の乱において、舅である伊達稙宗に与したという選択は、その後の南奥州の歴史に決定的な影響を与えた。この乱の結果、伊達家の家督は晴宗が継ぎ、稙宗は隠居に追い込まれた。これにより、相馬氏は伊達家の本流となった晴宗の家系と、解消しがたい敵対関係に陥ることになったのである 15 。この対立構造は、その後の南奥州の政治・軍事情勢を規定する最も重要な要因となり、顕胤の孫である相馬義胤と伊達政宗の代に、数十年にわたる激闘としてその頂点を迎えることとなる 15

戦国大名・相馬氏の「事実上の初代」

相馬顕胤の歴史的功績を評価する上で、彼を「戦国大名・相馬氏の事実上の初代」と位置づけることができる。顕胤以前の相馬氏は、鎌倉以来の名族ではあったが、伊達氏などの有力大名の影響下にある一国人に過ぎない側面も持っていた。しかし、顕胤はその卓越した指導力によって、相馬家を新たなステージへと押し上げた。

その具体的な功績は以下の三点に集約される。第一に、天文の乱という外部の動乱を最大限に利用し、領内の反抗勢力を一掃して宇多・行方・標葉の三郡にまたがる一元的な領国支配を確立したこと 2 。第二に、伊達氏との対立を前提としつつ、田村氏との婚姻同盟を基軸とする独自の外交網を築き、周辺勢力と対等に渡り合ったこと 21 。そして第三に、浜通り地方の沿岸経済を掌握し、活発な軍事・外交活動を支える独立した財源を確保したことである 8 。これらはすべて、戦国大名に特徴的な権力構造であり、顕胤が相馬家を中世的領主から近世へと繋がる戦国大名へと飛躍させた「創業者」的な役割を果たしたことを示している。

結論:相馬顕胤の再評価

相馬顕胤は、単に「天文の乱で舅を助けた武将」という一面的な評価に留まる人物ではない。彼は、傑出した武勇と冷静な戦略眼、そして巧みな外交手腕を兼ね備え、激動の戦国時代中期において、相馬家の存続と発展の礎を築いた稀有な指導者であった。

彼の生涯は、婚姻関係という「情」や「義理」と、領土拡大という「利」が複雑に絡み合う、戦国時代のリアリズムを体現している。舅への忠義を尽くすという大義名分の下で、自家の勢力拡大と領国統一を着々と進める姿は、まさしく戦国大名の典型と言える。その行動原理は、家名を存続させ、領民を守るという、当主としての重い責務に根差していた。

顕胤が42歳という若さで世を去ったことは、相馬家にとって計り知れない損失であったに違いない。しかし、彼が遺した統一された領国、結束した家臣団、そして何よりも「伊達には屈しない」という不屈の気概は、息子の盛胤、孫の義胤へと確かに受け継がれた。この精神的・物理的支柱こそが、後に奥州の覇者となる伊達政宗との数十年にわたる激闘を支え、近世大名として相馬家が存続する最大の要因となったのである。南奥州の戦国史を語る上で、相馬顕胤は、その短い生涯にもかかわらず、不朽の重要性を持つ人物として再評価されるべきであろう。

引用文献

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  26. 岩代三春 仙道地域に進出を狙うの佐竹・蘆名・相馬ら周辺有力大名に対抗するため伊達氏と結び政宗に一人娘を嫁がせた田村清顕居城『三春城』訪問 (郡山) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11050202
  27. 相馬義胤 (十六代当主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
  28. 相馬盛胤(そうま もりたね) 拙者の履歴書 Vol.139~浜通りの雄、風雪を越えて - note https://note.com/digitaljokers/n/nd2eafc4521f4
  29. 全国市場を支えた船・商人・港 25号 舟運気分(モード) - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no25/01.html
  30. 陸前北部の歴史(“中”) http://ktymtskz.my.coocan.jp/B6/Hizumi22.htm
  31. 発行と編集/新地町役場・総務課( 979-27福島県相馬郡新地町谷地小屋字萩崎40 電話0244-62-2111) 発行日/昭和62年8月1日 https://www.shinchi-town.jp/uploaded/attachment/725.pdf
  32. 中村城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/hukushima/nakamura/nakamura.html
  33. 小高城 岡田館 明神館 真野古城 中館古館 牛越城 村上城 別所館 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/hukusima/minamisoumasi.htm
  34. 千年の歴史を受け継ぐ祭り 相馬野馬追 - あいべぇなみえ https://namietourism.jp/feature/souma-nomaoi/
  35. 奥州相馬氏 相馬野馬追 - 千葉氏の一族 http://chibasi.net/souma2.htm
  36. 同慶寺にねむる相馬家当主エピソード集 https://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/61/6150/61501/4/23000.html
  37. 原町区の指定外等文化財 - 南相馬市 https://www.city.minamisoma.lg.jp/portal/sections/61/6150/61501/4/1324.html
  38. 相馬盛胤(そうま もりたね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%9B%9B%E8%83%A4-1085903