最終更新日 2025-06-22

真田信勝

真田信勝 ― 史料の断片から再構築する、ある旗本の生涯と悲劇の真相

序章:歴史の影に消えた「日本一の兵」の弟

真田昌幸、信之、そして信繁(幸村)。戦国乱世から江戸初期にかけて、その名を歴史に刻んだ真田一族の星々である。知将として名高い父・昌幸、徳川の世で家名を保ち松代藩十万石の礎を築いた長兄・信之、そして大坂の陣で「日本一の兵」と謳われた次兄・信繁。彼らの華々しい活躍は、講談や小説、映像作品を通じて現代に至るまで多くの人々を魅了し続けている。

しかし、その輝かしい一族の系譜の中に、ほとんど光を当てられることなく、歴史の影に埋もれた一人の男子がいた。真田信勝。彼の名は、ごく限られた史料の中に、断片的に、そしてしばしば矛盾をはらんだ形で記されるに過ぎない。その生涯は、徳川幕府の旗本として仕えながらも、同僚との刃傷沙汰の果てにその身と家を滅ぼすという、悲劇的な結末を迎えたことだけが、かろうじて伝えられている。

本報告書は、この真田信勝という人物に焦点を当てる。幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』をはじめ、『信濃史料』に採録された各種の記録、個人の見聞録に至るまで、現存する史料を丹念に渉猟し、それらの記述を比較検討する。史料間の矛盾、特に信勝の兄弟順、そして彼の運命を決定づけた刃傷事件の発生場所、日付、結末に関する深刻な食い違いを徹底的に分析し、史料批判を通じてその人物像を可能な限り立体的に再構築することを試みる。信勝の生涯を追うことは、単に一人の忘れられた武士の人生を掘り起こすに留まらない。それは、戦国の気風が未だ残る徳川政権初期という時代の転換点において、一人の人間が、そして一つの家が、いかにして新しい秩序と対峙し、翻弄されていったかを解き明かす作業でもある。本報告書は、史料の断片を繋ぎ合わせることで、真田信勝の悲劇が持つ歴史的意味を明らかにすることを目的とする。

第一部:真田一族における信勝の位置付け

真田信勝の生涯と悲劇を理解するためには、まず彼が真田一族という特異な家の中で置かれていた、極めて複雑な立場を解明する必要がある。父・昌幸や兄・信之、信繁とは異なる出自、史料によって錯綜する兄弟順、そして徳川の世を生き抜くための戦略的な婚姻関係。これらの要素は、信勝の人生航路を規定する重要な背景となっていた。本章では、これらの側面を多角的に分析し、彼の生涯の基底にあった力学を明らかにする。

第一章:出自と家族 ― 異母弟としての宿命

真田信勝の父が、豊臣秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた知将・真田昌幸であることは論を俟たない 1 。兄には、関ヶ原の戦いで父と袂を分かち、徳川方について真田家の存続を成し遂げた松代藩初代藩主・真田信之(信幸)、そして大坂の陣で徳川家康を最後まで苦しめた真田信繁(幸村)という、戦国史に名を轟かす二人の傑物がいた 3

しかし、信勝の立場はこれらの兄たちとは根本的に異なっていた。彼の生母について、信頼性の高い史料は一様に「某氏」と記すのみで、その詳細は不明である 4 。これは、信之と信繁の母が正室の山手殿(寒松院)であったのに対し、信勝が側室の子、すなわち異母弟であったことを示唆している。さらに、兄たちとは年齢も相当離れていたとされており 4 、この事実は信勝が家中で置かれた状況を決定づける重要な要素であったと考えられる。

戦国時代から江戸初期にかけての武家社会において、同母兄弟と異母兄弟の間には、家督継承や一族内での発言力において、しばしば明確な格差が存在した。特に、昌幸と正室・山手殿を中心とする家族の結束が強固であった場合、側室の子である信勝は、一族の意思決定を左右する中核的な輪からは、心理的にも物理的にも一歩引いた存在であった可能性が高い。

この「異母弟」という立場こそが、信勝が兄たちと異なる道、すなわち徳川旗本としての道を歩むことになった根源的な理由と推察される。関ヶ原の戦いを前に、真田家が徳川方と豊臣方に分かれることを決断した「犬伏の別れ」の逸話は有名であるが、この重要な局面において信勝の名は登場しない。彼が父・昌幸や同母兄・信繁と行動を共にしなかったのは、単なる政治判断というよりは、こうした家族内の力学が深く影響していたと見るべきであろう。彼にとっての人生の選択肢は、初めから徳川方についた長兄・信之の庇護下で生きる道が、最も現実的かつ唯一の道筋として示されていたのである。彼のキャリアは、信之への依存を前提として構築されていった。

第二章:兄弟順の謎 ― 三男か、四男か

信勝の出自をさらに複雑にしているのが、史料間で錯綜する兄弟順の問題である。彼が昌幸の三男であったのか、それとも四男であったのかについては、今日に至るまで明確な定説を見ていない。

柴辻俊六氏の著作『真田昌幸』や、小林計一郎氏編の『真田幸村と真田一族のすべて』といった、比較的近年の研究書や概説書では、信勝を「三男」、もう一人の弟である昌親を「四男」とする説が採用される傾向にある 4 。Wikipediaなどの一般的な記述もこれに倣うものが多い 5

一方で、江戸幕府が編纂した公式系譜である『寛政重修諸家譜』や、それを引用したとみられる『慶長見聞録』などの史料では、信勝は「四男」として記されている 6 。これらの史料では、通称を内匠と称した真田昌親が三男として扱われている。また、『信濃史料』に収録されている『長国寺殿御事蹟稿』のように、明確に信勝を兄、昌親を弟と記す史料も存在しており、混乱に拍車をかけている 4

この兄弟順の混乱は、単なる記録上の誤りとして片付けるべきではない。むしろ、この混乱自体が、信勝と昌親という二人の異母弟が、真田家の本流からやや外れた存在として認識されていたことを物語っている。嫡男として家を継いだ信之や、その悲劇的な生き様が後世にまで語り継がれた信繁とは対照的に、彼ら異母弟たちの正確な記録は、宗家にとっての重要度が相対的に低かった。そのため、生母や生年といった基本的な情報と共に、兄弟の順序までもが曖昧なまま後世に伝わってしまった可能性が高い。

江戸時代の大名家が幕府の命に応じて系図を編纂する際、重視されたのは本家の正統性や、家名を高めた主要人物の輝かしい事績であった。その過程で、分家や早くに断絶した家系の記録は、二次的な扱いを受け、不正確なまま記載されることも少なくなかった。信勝に関する記録の不備は、こうした文脈の中で理解する必要がある。それは、真田家が徳川の世に適応し、松代藩として存続していく過程で、誰の記憶を、どのように後世に残そうとしたかという、ある種の「選択」の結果であったとも解釈できるのである。

第三章:婚姻関係に見る政治的立場

信勝個人の記録が乏しい中で、彼の政治的立場を雄弁に物語るのが、その婚姻関係である。彼は生涯に二人の妻を娶ったとされ、その相手はいずれも当時の武家社会において重要な位置を占める家柄の娘であった。

正室として迎えられたのは、徳川譜代の重臣である牧野康成の娘であった 4 。牧野康成は、上野国大胡藩二万石を領する大名であり、徳川家康の関東入封に伴い取り立てられた譜代の一人である 7 。この婚姻は、信勝が徳川家の家臣団、特に幕閣にも影響力を持つ譜代大名層との間に、強固な縁戚関係を築いたことを意味する。

さらに、『寛政重修諸家譜』巻第百十三の立花家の系図によれば、信勝は継室として立花直次の娘も迎えている 5 。立花家は、豊臣秀吉恩顧の有力外様大名として知られる立花宗茂を当主とする一族である。直次はその宗茂の実弟であり、筑後国柳河藩の支藩を創設した人物であった 9

一介の旗本に過ぎない信勝が、幕府の中枢に近い譜代大名と、西国に勢力を持つ有力外様大名という、出自も立場も全く異なる二つの家の娘を相次いで妻として迎えているという事実は、極めて異例であり、注目に値する。これは信勝個人の才覚や人脈によるものというよりは、彼の背後にあった松代藩主・真田信之の政治力が働いた結果と見るのが妥当であろう。

兄・信之は、父・昌幸譲りの知略を駆使し、徳川政権下における真田家の安泰と発展を常に模索していた。信之にとって、弟・信勝の存在は、単なる血縁者ではなく、真田本家のための重要な外交カードであった可能性がある。すなわち、信之は弟の婚姻を通じて、一方では幕府の譜代大名層(牧野氏)との関係を強化し、幕政における発言力や情報収集のパイプを確保する。そしてもう一方では、潜在的な勢力である西国の有力外様(立花氏)とも誼を通じ、万が一の政変にも備える。信勝の縁組は、このような多角的かつ深謀遠慮に満ちた、真田本家のための布石であったと考えられる。信勝の家庭生活は、彼自身の意図を超えて、兄・信之が描く壮大な「真田家安泰策」という名の戦略の一環に、深く組み込まれていたのである。

第二部:徳川幕府旗本としての道

真田信勝の人生は、兄・信之の庇護の下、徳川幕府の旗本として新たな道を歩むことから始まった。そのキャリアは、幕府の親衛隊とも言うべき「大番組」への配属という、決して悪くない滑り出しを見せる。本章では、信勝が徳川の臣として歩んだ具体的な道のりを追い、幕臣として唯一記録に残る晴れ舞台であった将軍上洛への供奉から、彼の幕府内での実像と役割に迫る。

第一章:仕官の経緯と兄・信之の役割

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、真田家にとって存亡の分水嶺であった。父・昌幸と次兄・信繁が西軍に与して敗れ、高野山九度山への配流という処分を受けたのに対し、東軍についた長兄・信之は、その功績と岳父・本多忠勝の尽力により、父の旧領であった上田を安堵され、真田家の家名を保つことに成功した 3

この一連の動乱の後、信勝が徳川幕府の旗本として仕官するに至った経緯は、複数の史料が一致して、長兄・信之による強力な引き立てがあったためと指摘している 4 。これは単なる兄弟愛に留まるものではない。信之にとって、西軍に与した父と弟の「罪」は、徳川政権下で真田家が存続していく上で、常に付きまとう負い目であった。この負い目を相殺し、一族全体で徳川家への絶対的な忠誠を内外に示すため、異母弟である信勝を幕府に直接出仕させることは、極めて有効な手段であった。信勝の仕官は、真田家が徳川の臣として完全に組み込まれたことを象徴する、信之による深謀遠慮の一環だったのである。

第二章:大番組としての職務

信勝は、幕府に出仕すると「大番組」に配属された。大番組は、書院番、小姓組、新番、小十人組と並ぶ「五番方」と総称される将軍直属の警護部隊の一つである。その中でも大番組は、徳川家康が三河岡崎城主時代に創設したとされる最も古い歴史を持ち、平時には江戸城本丸や二の丸、西の丸、さらには大坂城や京都二条城といった幕府の重要拠点の警備を交代で担当した 12 。そして、ひとたび戦となれば将軍の馬廻り衆として、あるいは軍の先鋒として戦うことが期待される、まさに幕府の軍事力を中核をなす精鋭部隊であった 15

大番組の番士は、家柄や武芸に秀でた旗本から選抜され、その隊長である大番頭には、旗本だけでなく大名が就任することもあった 12 。信勝がこの格式高い大番組の一員に列せられたという事実は、彼が単なる名目上の旗本ではなく、幕府から一定の能力と忠誠を期待される存在であったことを示している。

信勝の幕臣としてのキャリアの中で、唯一、具体的かつ名誉ある職務遂行として記録されているのが、慶長10年(1605年)2月の徳川秀忠の上洛への供奉である。『信濃史料』や柴辻俊六氏の著作などが伝えるところによれば、秀忠が父・家康から将軍職を譲られ、その将軍宣下を受けるために上洛した際、信勝は「大番衆」の一員としてその行列に加わった 4 。これは、彼が将軍の身辺を固める重要な役目を担っていたことを意味し、幕臣として順調なキャリアを歩み始めていた証左と言える。

この登用は、信勝個人の評価であると同時に、彼を推挙した兄・信之に対する幕府の信頼の表れでもあった。幕府側もまた、かつて敵対した真田一族が持つ軍事的な名声や潜在能力を、無用のものとして切り捨てるのではなく、徳川の武威を示すための一翼として取り込む意図があったと考えられる。信勝は決して冷遇されていたわけではなかった。彼の人生は、この時点では順風満帆な滑り出しを見せていた。その歯車が大きく狂い始めるのは、この輝かしい上洛から、わずか4年後のことである。

第三部:慶長十四年の刃傷沙汰 ― 破滅への序曲

順調な幕臣としてのキャリアを歩み始めたかに見えた真田信勝の人生は、慶長14年(1609年)に突如として暗転する。同僚の旗本との間に起こした刃傷沙汰。この一つの事件が、彼の身を、そして彼の家を破滅へと追いやった。本章では、この信勝の運命を決定づけた事件の全貌に迫る。対立相手の背景を分析し、史料によって錯綜する場所・日付・結末という三つの大きな謎について、各史料を徹底的に比較検討する。史料批判を通じて、事件の最も確からしい真相を導き出し、史料には記されない動機を考察する。

第一章:事件の概要と関係者

慶長14年(1609年)、真田信勝は同僚の旗本・戸田半之丞勝興(史料によっては氏勝とも 5 )と刃傷沙汰に及んだ。この対立相手である戸田勝興は、単なる一旗本ではなかった。彼は、当時近江膳所藩主であった戸田氏鉄の弟であり、その父は徳川家康に古くから仕え、数々の戦功を立てた名将・戸田一西であった 6 。戸田家は三河以来の譜代大名家であり、幕府内においても重きをなす家柄であった。

この事件は、単なる旗本同士の私的な諍いとして片付けられるものではない。その背景には、極めて政治的な意味合いが潜んでいた。それは、「逆賊・真田昌幸の息子」と「功臣・戸田一西の息子」という、戦国を生き抜いた対照的な評価を持つ名将の息子同士の衝突であった。さらに重要なのは、片や豊臣恩顧の外様大名である真田家の分家、片や徳川譜代大名である戸田家の一門という、幕府内での出自や立場が全く異なる者同士の争いであったという点である。

事件が起きた慶長14年(1609年)という年は、関ヶ原の戦いから9年、大坂の陣が勃発する5年前という、徳川による支配体制が確立しつつも、未だ戦国の気風が色濃く残る、極めて微妙な過渡期であった 19 。二代将軍・秀忠は、父・家康が定めた「武家諸法度」の精神を浸透させ、武士による私的な闘争(喧嘩両成敗)を厳しく禁じ、法と秩序による統治を徹底しようとしていた時期にあたる 22 。そのような状況下で起きたこの刃傷沙汰は、幕府の権威そのものに対する挑戦と見なされかねない、極めて政治的にデリケートな問題であった。信勝の家が断絶するという厳しい処分が下された背景には、単なる事件の是非だけでなく、新たな時代の秩序を武士たちに徹底させるための見せしめという、幕府の強い意志が働いていた可能性が考えられる。

第二章:錯綜する記録 ― 事件の真相をめぐる史料批判

信勝の人生を終焉させたこの刃傷事件は、その核心部分において、史料ごとに記述が大きく食い違い、真相を深い霧の中に覆い隠している。特に、「発生場所」「発生・死亡日」「結末」という三点において、深刻な矛盾が見られる。

史料名 (Source)

発生場所 (Location)

発生/死亡日 (Date)

結末 (Outcome)

『寛政重修諸家譜』

江戸

慶長14年9月

相手を斬り逐電、または殺害される(両論併記) 6

『慶長見聞録案紙』

江戸

慶長14年9月

戸田勝興に切られる 4

『当代記』

江戸

慶長14年9月

戸田勝興に切られる 4

『高野山蓮華定院過去帳』

不明

慶長14年 6月19日

(死亡) 4

『真田系譜稿』

不明

慶長14年 6月19日

(死亡) 4

戸田勝興側史料 (Wikipedia等)

京都

慶長14年9月

真田信勝と刃傷に及び斬殺される 17

まず 発生場所 について、『慶長見聞録』『当代記』そして幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』といった複数の重要史料が「江戸」と記しているのに対し 4 、戸田勝興側の記録とされるものでは「京都」となっている 17 。この京都説は、信勝が慶長10年(1605年)に将軍秀忠の上洛に供奉した事実と、慶長14年(1609年)の事件とが混同された結果生じた可能性が高い。複数の一次史料が一致する「江戸説」がより信憑性が高いと判断される。

次に 結末 であるが、ここでも見解は分かれる。信勝が戸田勝興を斬って逃亡したとする「加害者説」 5 と、逆に戸田勝興に斬り殺されたとする「被害者説」 4 が対立している。しかし、最終的に信勝の家が取り潰しとなり、家名が断絶したという厳然たる事実 4 は、彼がこの闘争における「敗者」であったことを強く示唆している。たとえ相討ちであったとしても、あるいは相手を斬って逃亡したとしても、幕府の裁定において信勝側の非がより重いと判断されたことは間違いない。戸田勝興もこの事件で死亡したと伝える史料があることから 17 、結果的に相討ちに近い形であった可能性も否定できないが、いずれにせよ真田側の責任が厳しく問われた結末であった。

最も重大な謎は 日付 である。幕府関連の記録の多くが事件発生を「九月」とするのに対し 4 、真田家の菩提寺の一つである高野山蓮華定院の過去帳や、それを基にした『真田系譜稿』は、信勝の死亡日を「慶長十四年六月十九日」と明確に記している 4

これらの矛盾は、一つの仮説によって合理的に説明できる可能性がある。すなわち、「 事件は慶長14年6月19日に江戸で発生し、その場で信勝は死亡、もしくは致命傷を負い間もなく死亡した。しかし、事件に関わった真田・戸田両家の家格や事件の重大性から、幕府による公式な調査と処分決定、そしてその公表が9月までずれ込んだ 」というものである。寺院の過去帳に記される日付は、個人の死という客観的な事実を記録するものであり、政治的な意図が入り込む余地は比較的小さい。一方で、幕府の公式記録は、事件の発生日そのものよりも、幕府がその事件を公式に処理した日付を記録することがある。この「6月死亡、9月公表」という約三ヶ月にわたる時間差は、事件の事後処理に幕府が、そして関係者がいかに苦慮したかの証左ではないか。この空白の三ヶ月間には、兄・信之や戸田家による、家の存続を賭けた懸命な工作活動が行われていたのかもしれない。このタイムラグこそが、事件の裏に隠された政治的力学を静かに物語っているのである。

第三章:動機の考察 ― 武士の意地と新時代の秩序

刃傷沙汰という破滅的な結末に至った直接的な原因について、史料は完全に沈黙している 5 。しかし、当時の状況や武士の価値観から、その動機を推察することは可能である。

考えられる可能性の一つは、大番組というエリート意識の高い集団内での、序列や面子をめぐる対立である。あるいは、信勝の出自に起因する侮辱、例えば「西軍についた裏切り者の弟」といった類の、真田の家名そのものを傷つけるような言動が引き金になった可能性も否定できない。戦国の気風が残る当時、主君や家名を侮辱されることは、自らの命を賭してでも雪がねばならない恥辱であった。また、酒席などでの些細な口論が、武士としての意地から引き返せない事態へと発展したという、偶発的な側面も考えられる。

信勝の悲劇をより深く理解するためには、彼の行動を個人の性格や感情の問題としてのみ捉えるのではなく、「戦国時代の価値観」と「江戸時代の価値-価値観」の衝突という、より大きな歴史的文脈の中に位置づける必要がある。父・昌幸や兄・信繁が生きた戦国乱世は、受けた侮辱には実力、すなわち暴力をもって応えることが是とされ、それが武士の名誉を守る行為と見なされる世界であった。しかし、信勝が生きた徳川の世は、個人の武力や名誉よりも、法と秩序による支配が優先される社会へと大きく舵を切っていた。

信勝は、偉大な戦国武将の息子としてのプライドと、徳川幕府の秩序に仕える旗本としての立場との間で、引き裂かれたのではないか。彼が取った行動は、新しい時代の武士として求められる自制心や忍従よりも、旧時代の価値観、すなわち「武士の意地」に殉じた結果であったとも言える。彼の刃傷沙汰は、時代の大きな転換期に適応しきれなかった一人の武士の悲劇として、そして旧い価値観が新しい秩序によって断罪された象徴的な事件として捉えることができるのである。

第四部:終焉と歴史的評価

刃傷沙汰という一点において、真田信勝の人生は破滅的な終焉を迎えた。事件後の彼の結末、そして彼が歴史からどのように忘れ去られていったのかを追うことは、輝かしい真田一族の歴史の影の部分を照らし出す上で不可欠である。本章では、信勝の最期と、その存在が歴史の中で持つ意味を総括する。

第一章:謎に包まれた最期

事件後の信勝の足跡は、その死の記録をもって途絶える。高野山の過去帳には、彼の法名が「機翁祖全大居士」と記されているが 4 、その亡骸がどこに葬られたのか、葬地は「不詳」とされているのが通説である 4 。これは、事件によって家が改易・断絶となり、家として公式な墓所を建立することが許されなかったためと考えられる。譜代大名家の人間を巻き込んだ刃傷沙汰の当事者として、彼の遺体は幕府の監視下で、あるいは兄・信之の手によって、ひっそりと葬られたのであろう。

信勝には牧野康成の娘や立花直次の娘といった妻がいたことは記録されているが 5 、彼に子供がいたかどうかの記録は見当たらない。『真田家文書』には「家断絶等之譯舊記焼失、相知不申候」とあり 4 、家の断絶と共にその詳細は失われた。いずれにせよ、信勝の家系は彼一代で完全に断絶したと見て間違いない。

第二章:家の断絶と忘却

信勝の結末は、彼の兄弟たちとあまりに対照的であった。長兄・信之は、巧みな政治手腕で徳川の世を生き抜き、信濃松代藩十万石の礎を築き上げ、93歳という長寿を全うした 3 。次兄・信繁は、大坂の陣でその生涯を終えたものの、「日本一の兵」としてその武名は後世にまで語り継がれ、悲劇の英雄として不動の地位を確立した 26 。そして、もう一人の異母弟である昌親の家系は、後に旗本として分家を立て、一定期間存続している 4 。その中で、信勝の家だけが、刃傷沙汰という不祥事によって早々に歴史の舞台から姿を消したのである。

なぜ信勝は、これほどまでに忘れ去られなければならなかったのか。その理由は、彼の死が、徳川の世を生きる真田家にとって、極めて「不名誉な記録」であったからに他ならない。徳川への忠誠を第一義とし、譜代大名に準ずる家格を得ようと努めていた松代藩真田家にとって、幕府の秩序を乱して家を断絶させた信勝の存在は、決して誇るべきものではなく、むしろ積極的に語り継ぐべき歴史ではなかった。英雄譚や成功譚が好んで記録され、編纂される大名家の歴史の中で、彼の失敗談は意図的に忘却の彼方へと追いやられたのである。

信勝の忘却は、単なる歴史の自然な風化ではない。それは、後世の家門の体面と都合によって、一族の歴史から不都合な部分を切り捨てるという、「選択的な記憶」の結果であった。彼の存在は、輝かしい真田一族の歴史の裏に隠された、一つの汚点として扱われ、その結果、歴史の闇に深く葬り去られることになったのである。

結論:真田信勝が現代に問いかけるもの

真田信勝の生涯は、戦国史にその名を刻む著名な一族の中に生まれながら、時代の大きな転換期に翻弄され、悲劇的な結末を迎えた一人の武士の物語である。彼は、偉大な父と兄たちの影の下、長兄・信之の庇護を受けて徳川旗本としての道を歩み始めた。そのキャリアは、将軍直属の精鋭部隊「大番組」への配属という、順調な滑り出しを見せていた。しかし、彼の内には、父・昌幸から受け継いだであろう戦国武将としての気質とプライドが息づいていた。

彼が生きた慶長年間は、個人の武勇や名誉が絶対的な価値を持った戦国の世から、法と秩序が支配する徳川の世へと、価値観が劇的に転換する過渡期であった。信勝は、この新しい時代が求める武士像と、自らが抱く旧い時代の武士としての矜持との間で葛藤し、最後は同僚からの侮辱に対し、刃傷という旧時代の価値観に則った行動で応えた。その結果、彼は自らの命と共に、家名をも失うことになった。

彼の物語は、英雄たちの華々しい活躍の裏で、多くの無名の人々が時代の変化に適応し、あるいは適応しきれずに消えていったという、歴史のもう一つの真実を我々に示している。錯綜し、矛盾に満ちた断片的な史料から、信勝のような歴史の影に埋もれた人物の生涯を再構築する作業は、歴史の光と影の両面を照らし出し、我々が知る歴史像をより深く、より豊かなものにする上で極めて重要な意義を持つ。真田信勝の短い生涯は、時代の奔流の中で個として生きることの困難さと、歴史の記録からこぼれ落ちた無数の声なき声の存在を、現代に静かに問いかけているのである。

引用文献

  1. 真田 信勝(さなだ のぶかつ) | 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/sanada/sanada-nobukatsu/
  2. 【上田真田家】真田昌幸と家族・家臣一覧 - 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/sengoku-busho-list/sanada/
  3. BG読者の方は皆ご存じの西村TWINS! 松代での撮影の様子!! https://ameblo.jp/bruin-since1999/entry-12250419638.html
  4. 真田昌幸の三男信勝(のぶかつ)、四男昌親(まさちか)について ... https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&fi=5_%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BA%BA+8_21+2_2+4_%E9%83%B7%E5%9C%9F%E3%80%80%E4%BA%BA%E7%89%A9&id=1000263651
  5. 真田信勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%8B%9D
  6. 真田昌親 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/190099.html
  7. 牧野康成 (大胡藩主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%BA%B7%E6%88%90_(%E5%A4%A7%E8%83%A1%E8%97%A9%E4%B8%BB)
  8. 寛政重修諸家譜 人名検索 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/103-bunkazai-kanseichosyukafu1.html?page=901
  9. 立花直次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E7%9B%B4%E6%AC%A1
  10. 真田昌幸の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/63292/
  11. 小助の部屋/滋野一党/真田滋野氏 http://koskan.nobody.jp/sanada_busyou.html
  12. 幕府の主な役職 - 「剣客商売」道場 http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/yakusyoku.htm
  13. 大番組(おおばんぐみ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%A4%A7%E7%95%AA%E7%B5%84/
  14. 大番組(オオバングミ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%95%AA%E7%B5%84-450680
  15. 江戸幕府の職制と役職 https://wako226.exblog.jp/241075693/
  16. 番頭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E9%A0%AD
  17. 戸田勝興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%8B%9D%E8%88%88
  18. 戸田一西(とだ かずあき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%A5%BF-19003
  19. 慶長14年とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%85%B6%E9%95%B714%E5%B9%B4
  20. 慶長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7
  21. 江戸の将軍と出来事・江戸年表 https://www.edo-map.com/edo_historyYear.html
  22. 家康公の生涯 - 隠居でなかった家康の晩年 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_07.htm
  23. 江戸幕府とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/56902/
  24. 戸田勝興とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%8B%9D%E8%88%88
  25. あれやこれや2023 - 日本史のとびら https://nihonsinotobira.sakura.ne.jp/arekore2023.html
  26. 真田信繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81