真里谷信勝は房総の戦国武将。甲斐武田氏の分流で、上総に勢力を築いた。小弓公方・足利義明を擁立し、房総半島における権勢を確立。しかし、その死後、一族は内紛と外部勢力の介入で衰退した。
室町時代中期、享徳の乱(1455年〜)が勃発すると、関東地方は古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の対立を軸に、百数十年にわたる長い戦乱の時代へと突入した。この未曾有の動乱は、既存の支配秩序を根底から揺るがし、各地に新たな権力が生まれる土壌を形成した。その中で、房総半島、とりわけ上総国は、江戸湾を介して相模・武蔵と、また陸路を通じて下総・常陸、そして安房国へと繋がる、極めて重要な戦略的要衝であった。この地を制する者は、関東全体の覇権争いにおいて大きな影響力を行使し得たのである。真里谷武田氏の歴史は、まさにこの動乱の関東を舞台に幕を開ける。
真里谷武田氏の祖は、甲斐源氏の名門、武田氏13代当主・武田信満の次男、信長である 1 。信長は、応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱において父・信満と共に禅秀方に加担したため、室町幕府の意向により甲斐武田家の家督を継ぐことが許されなかった 1 。不遇の時を過ごした信長であったが、やがて歴史の転換点が訪れる。永享の乱で自刃した鎌倉公方・足利持氏の遺児・成氏が新たな公方として鎌倉に迎えられると、信長はその近臣として仕え、関東へと下向した 1 。
しかし、成氏もまた関東管領・上杉氏と対立し、鎌倉を追われて下総国古河を本拠とする「古河公方」となる。信長は成氏に忠実に従い、康正2年(1456年)、幕府方であった千葉自胤を市川城に破る武功を挙げた 1 。この功績により、成氏から上総国の守護代に任じられた信長は、一族を率いて上総へと入部する。彼はこの地に確固たる支配権を確立するため、真里谷城(現在の千葉県木更津市)と庁南城(同長生郡長南町)という二つの城を築いた 1 。これが、房総の地に一大勢力を築くことになる上総武田氏の始まりであった。
始祖・信長は、上総支配の拠点として真里谷と庁南の二城を築いたが、この決定は結果として一族の未来に大きな影響を及ぼすことになる。信長の後、その子孫は二つの系統に分かれていった。一方は真里谷城を本拠とする「真里谷武田氏」、もう一方は庁南城を本拠とする「庁南武田氏」である 4 。
この権力構造の二元化は、単なる地理的な役割分担に留まらなかった。それは、一族内に潜在的な分裂の火種を内包する構造的欠陥であった。平時においては協力関係を保ち得ても、家督相続や対外政策を巡る意見の対立が生じた際、この二つの権力中枢は深刻な内部抗争の温床となり得た。事実、後の真里谷武田氏の歴史は、この分裂の宿命から逃れることができなかった。一族の栄光と悲劇は、始祖・信長が二つの城を築いたこの時点から、既にその萌芽を宿していたのである。
戦国時代の上総にその名を刻んだ真里谷信勝は、初代・真里谷信興の長男として生まれたとされている 7 。したがって、複数の系図や史料を総合的に判断すると、信勝は「真里谷武田家2代当主」と位置づけるのが通説である。彼の父・信興は、始祖・武田信長の子であり、真里谷城を拠点として一族の基礎を築いた人物であった 6 。信勝は、その父が築いた権力基盤を受け継ぎ、さらなる飛躍を遂げることになる。
信勝の子には、後に家督を継ぎ、真里谷氏の権勢を一時的に頂点へと導く真里谷恕鑑(じょかん、実名は信清ともされる)や、その弟で兄を補佐した全方(ぜんぽう)らがいた 7 。彼らの存在は、信勝の時代の後、一族が直面する内紛の重要な登場人物となっていく。
【表1】真里谷・庁南武田家 関連略系図
世代 |
庁南武田氏 |
真里谷武田氏 |
備考 |
祖 |
(甲斐武田氏)武田信満 |
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↓ |
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始祖 |
【上総武田氏】①武田信長 |
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康正2年(1456年)に上総入部。真里谷城・庁南城を築城。 |
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├─【庁南】①信高 |
├─【真里谷】①信興 |
信長の子らが二家に分かれる。 |
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│ ↓ |
│ ↓ |
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2代目 |
②道信 |
② 真里谷信勝 |
本報告書の中心人物。 |
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↓ |
↓ |
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3代目 |
③宗信 |
③恕鑑(信清) |
信勝の子。信勝の死後、家督を継ぐ。 |
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↓ |
│ |
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4代目 |
④吉信 |
├─④信隆(庶長子) |
恕鑑の子ら。この二人の代で深刻な家督争いが勃発。 |
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└─⑤信応(嫡子) |
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│ |
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5代目 |
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└─⑥信政 |
信隆の子。父と共に北条方につき、後に里見氏に攻められ自刃。 |
※注:上総武田氏の系図には複数の説が存在し 10 、上記は通説の一つを簡略化したものである。特に初代、2代目の関係性には異説も見られる。
真里谷信勝の正確な生年は不明であるが、没年については大永3年(1523年)とする説が有力である 7 。一方で、「1448年〜1523年代」という生没年を記す資料も存在し 8 、もしこれが事実であれば、彼の生涯で最大の功績となる小弓公方擁立(1517年)を成し遂げた時には70歳近い高齢に達していたことになる。これが事実ならば、信勝は単なる武勇の将ではなく、長年の経験に裏打ちされた老練な戦略家であった可能性が浮かび上がる。
通称は八郎五郎といい、官位としては式部丞、式部大夫、三河守などを称した記録が残っている 7 。これらの官位は、彼が中央の権威とも繋がりを持ち、房総における有力な領主として公的に認められていたことを示唆している。
信勝が本拠地とした真里谷城は、単なる居館ではなかった。それは、東西400メートル、南北700メートルにも及ぶ広大な領域を持つ、典型的な戦国期の山城であった 1 。城は「千畳敷」と呼ばれる主郭を中心に、複数の郭が巧みに配置され、敵の侵入を防ぐための堀切や土塁が縦横に巡らされていた 1 。この堅固な要塞は、真里谷武田氏の政治・軍事の中心であり、信勝が周辺勢力と渡り合い、権勢を拡大していく上での物理的な力の源泉となった。この城の存在なくして、彼の大胆な戦略は成り立たなかったであろう。
上総武田氏の歴史を紐解く上で興味深いのは、その系図に複数の異同が存在する点である 10 。これは単なる記録の誤りや混乱として片付けるべきではない。むしろ、これらの系図は、作成された当時の政治的な意図を色濃く反映した「歴史書」であり、一族内に燻る権力闘争の証左と見なすことができる。
例えば、真里谷氏の菩提寺である真如寺に伝わる系図の中には、真里谷武田氏を本流として正当化し、分家である庁南武田氏の存在を意図的に軽視、あるいは無視するような構成になっているものが見受けられる 11 。これは、系図が客観的な事実の記録である以上に、自らの家系の正統性を主張するためのプロパガンダとして機能していたことを示している。このことから、信勝の時代、あるいはそれ以前から、真里谷・庁南の両武田家の間には、どちらが上総武田氏の本流であるかを巡る根深いライバル意識が存在したと推察される。後に信勝の孫の代で勃発する信隆・信応の内紛は、突発的に発生したものではなく、この一族の創成期から続く根深い対立構造が、外部環境の変化によって顕在化したものと解釈するのが妥当であろう。
真里谷信勝が家督を継いだ16世紀初頭、房総半島は一触即発の緊張状態にあった。上総国において勢力を拡大する真里谷武田氏は、下総国を拠点とする名門・千葉氏、そしてその宗家の強力な後ろ盾を得ていた重臣・原氏と激しい対立関係にあった 7 。特に原氏は、小弓城(現在の千葉市中央区)を拠点に、真里谷氏の勢力圏を脅かす存在であった。また、同族である庁南武田氏も原氏からの圧迫に苦しんでおり、この膠着状態を打破するためには、既存の力関係を覆すような抜本的な一手が必要であった 12 。この切迫した状況が、信勝をして生涯最大の賭けともいえる大胆な戦略へと踏み切らせる直接的な動機となった。
永正14年(1517年)、真里谷信勝は行動を起こす。彼は、当時の関東における最高権威であった古河公方・足利政氏の子でありながら、家督争いに敗れて僧籍にあった空然(くうねん)という人物に目をつけた 7 。信勝はこの空然を還俗させて「足利義明」と名乗らせ、新たな公方として擁立したのである 7 。これは、自らの戦いに「公方」という絶大な権威を付与するための、極めて高度な政治的戦略であった。
信勝はさらに、安房国で勢力を伸ばしていた里見氏と巧みに同盟を結び 8 、連合軍を組織した。そして、宿敵・原氏が守る小弓城へと進軍する。周到な準備の前に原氏の抵抗も及ばず、小弓城は陥落。城主であった原胤隆は討ち死にし、その一族も追放された 12 。
この勝利の後、足利義明は小弓城に入り、「小弓公方(または小弓御所)」と称されるようになる 8 。これにより、関東には古河公方と小弓公方という二つの公方が並び立つ異例の事態が出現した。真里谷信勝は、この新政権の最大の後見人として、房総半島における影響力を飛躍的に高め、一躍、関東の政治史の表舞台に躍り出たのである。
この小弓公方擁立という一連の歴史的事件において、中心的な役割を果たした人物が誰であったかについては、史料によって見解が分かれている。信勝がその主導者であったとする説が一般的である一方、当時すでに壮年であったその子、恕鑑(信清)が実行部隊の中心であったとする説も存在する 7 。
この異説は、単にどちらかが正しいという二者択一の問題ではないかもしれない。むしろ、当時の真里谷氏の権力構造の実態を反映している可能性が考えられる。すなわち、老齢に達していた信勝が、長年の経験と政治的権威を背景に全体の構想を描き、最終的な意思決定を行う「最高指導者」として君臨し、実際の軍事行動や交渉といった実務は、気力体力ともに充実した息子の恕鑑が担うという、世代間の巧みな役割分担が行われていたと解釈することも可能である。もしそうであれば、この異説の存在は、信勝から恕鑑への権力移譲が円滑に進められていたことを示唆しており、当時の真里谷氏の組織としての成熟度を示すものとも言える。信勝の老練な政治手腕が、こうした二元的なリーダーシップ体制を可能にしていたのかもしれない。
真里谷信勝の影響力は、軍事や政治の領域に留まらなかった。彼は、上総国の信仰の中心地の一つであった鹿野山神野寺の再建事業を行うなど、地域の文化的・宗教的なパトロンとしての役割も果たしていたことが記録されている 8 。これは、彼が単なる武将ではなく、領内の安定と繁栄に心を配る領主であったことを示している。また、大規模な寺社の再建には莫大な財力が必要であり、この事実は、小弓公方の後見人として、当時の真里谷氏が経済的にも極めて隆盛を極めていたことの何よりの証左と言えるだろう。
大永3年(1523年)に真里谷信勝がこの世を去ると 7 、その権力と遺産は子の恕鑑(信清)に引き継がれた。恕鑑の時代、真里谷氏は小弓公方の後見人として権勢を維持したが、その栄光は長くは続かなかった。天文3年(1534年)に恕鑑が死去すると 9 、これまで水面下で抑制されていた一族内の対立が一気に噴出し、真里谷武田氏は破滅的な内紛の時代へと突入する。
争いの中心となったのは、恕鑑の二人の息子であった。一人は庶長子(側室の子)でありながら武勇に優れ、家臣団からの信望も厚かったとされる真里谷信隆。もう一人は、嫡子(正室の子)としての血筋の正統性を主張する真里谷信応である 13 。信隆は自らが後継者となることを望み、一方の信応は嫡流としての権利を譲らなかった。この家督を巡る争いは、真里谷一族を真っ二つに引き裂き、血で血を洗う骨肉の争いへと発展していった。
この内紛は、もはや真里谷氏一族だけの問題では収まらなかった。房総半島への勢力拡大を虎視眈々と狙っていた二つの巨大勢力、西の相模国を拠点とする後北条氏と、南の安房国を拠点とする里見氏にとって、この内紛はまたとない介入の好機であった。
こうして、真里谷氏の家督争いは、単なる一族内の揉め事から、後北条氏と里見氏という二大戦国大名の代理戦争という様相を呈していく 14 。真里谷氏は、自らの運命を自らで決める主体性を失い、大国の思惑に翻弄される駒へと転落してしまったのである。
この悲劇的な内紛が、なぜここまで激化し、外部勢力の介入をかくも容易に許してしまったのか。その根本的な原因をたどると、皮肉にも父祖・信勝が遺した最大の功績に行き着く。信勝が擁立した「小弓公方」の存在である。
小弓公方の後見人という地位は、真里谷氏に関東でも類を見ないほどの権威と影響力をもたらした。しかし、それは同時に、一族にとってあまりにも「価値の高い資産」となり過ぎていた。もし真里谷氏が単なる上総の一地方豪族(国衆)に過ぎなければ、家督争いが起きたとしても、北条・里見という二大大名がこれほどまで深く、そして執拗に介入することはなかったかもしれない。
しかし、「小弓公方を擁する者」は、関東全体の政治情勢を左右しうる極めて重要な存在であった。したがって、信隆と信応の争いは、単なる家督相続争いではなく、「小弓公方の後見人」という絶大な政治的・経済的権益を巡る争奪戦であったのだ。信勝が築き上げた輝かしい栄光の遺産こそが、その子孫の代に血みどろの争いを引き起こし、外部の巨大な権力を引き寄せる強力な磁石となってしまった。信勝の偉大な成功が、結果として一族を破滅へと導く遠因となったという、歴史の皮肉がここにある。
真里谷氏の内紛に介入し、その勢力を房総に伸長させた小弓公方・足利義明は、ついに宿願であった古河公方の打倒、そして関東の覇権掌握を目指して行動を開始する。天文7年(1538年)10月、義明は安房の里見義堯、そして真里谷信応ら房総の連合軍を率いて下総国府台(現在の千葉県市川市)に布陣した 6 。迎え撃つは、相模の雄・北条氏綱率いる大軍勢であった。
しかし、兵力において勝る北条軍の前に、小弓・里見連合軍は苦戦を強いられる。激戦の末、連合軍は総崩れとなり、大将である足利義明は、弟の基頼や子の義純らと共に壮絶な討ち死を遂げた 19 。これにより、真里谷信勝が一代で築き上げた小弓公方は、わずか20年余りでその歴史に幕を閉じたのである。
この第一次国府台合戦の敗北は、義明方に与した真里谷信応派にとって壊滅的な打撃となった 14 。後ろ盾であった小弓公方を失い、その軍事力も大きく削がれた信応の権威は失墜した。
勝者となった北条氏綱は、この勝利の勢いを駆って上総へと侵攻する。北条軍は抵抗を受けることなく小弓城、そして真里谷氏の本拠地である真里谷城をも押さえ、信応を降伏に追い込んだ 20 。そして北条氏は、傀儡当主として、かねてより支援していた信応の異母兄・信隆を再び真里谷氏の当主の座に据えた 20 。これにより、真里谷武田氏は事実上、後北条氏の支配下に組み込まれ、その独立性を完全に喪失した。信勝が築いた栄光は、この一戦によって完全に過去のものとなったのである。
この合戦の結末は、戦国時代の地域勢力が置かれた厳しい現実を浮き彫りにしている。特筆すべきは、里見義堯の冷徹な行動である。各種の記録によれば、義堯は同盟者である足利義明の戦死の報に接するや、北条軍と本格的に矛を交えることなく、速やかに自軍を率いて戦場から離脱したとされている 20 。
この行動は、単なる裏切りや臆病と見るべきではない。それは、自家の損害を最小限に食い止め、国力を温存することを最優先する、戦国大名としての極めて合理的かつ非情な判断であった。里見氏にとって、小弓公方や真里谷氏は、あくまで自家の国益を最大化するための「同盟者」であり、利用価値のある「駒」であった。敗色が濃厚となり、その利用価値が失われたと判断すれば、ためらうことなく見捨てる。この冷徹な現実主義は、真里谷氏の視点から見れば、まさに梯子を外された形であった。彼らは里見氏を頼みとして北条氏と戦ったにもかかわらず、最も重要な局面で見捨てられたのである。この一件は、真里谷氏のような地域勢力(国衆)が、里見・北条といった戦国大名といかに非対称な力関係にあったか、そして彼らが対等なパートナーではなく、大名の戦略の中で利用され、時には切り捨てられる存在に過ぎなかったという、戦国社会の厳然たる序列を物語っている。
第一次国府台合戦後も、真里谷一族の受難は終わらなかった。彼らの領地は、里見氏と後北条氏の草刈り場と化し、その狭間で翻弄され続けた。永禄7年(1564年)に起こった第二次国府台合戦では、真里谷一族は里見方として参陣したという記録が残っている 12 。これは、かつて北条氏によって当主に据えられた信隆の系統が没落し、再び里見氏の影響下に入っていたことを示唆している。もはや一族の進退は自らの意思で決めることができず、その時々の大国の力関係によって立場を変えざるを得ない、完全に主体性を失った存在となっていたことが窺える 21 。
第一次国府台合戦で決定的打撃を受けた後も、真里谷武田氏の弱体化に歯止めはかからなかった。北条氏の傀儡として当主の座に戻った信隆派も、安泰ではいられなかった。安房から勢力を回復した里見氏による上総への侵攻は執拗に続き、特に里見氏の重臣である正木時茂の軍事活動は目覚ましかった 22 。天文13年(1544年)には、信隆派の重鎮であった小田喜城主・真里谷朝信が正木時茂のために討たれるなど 22 、一族の領地と影響力は、まるで薄紙を剥がすように徐々に、しかし確実に削り取られていった。
そして、運命の時が訪れる。天文20年(1551年)頃、長年にわたり一族の混乱の中心にいた真里谷信隆が死去する 23 。その翌年の天文21年(1552年)、後を継いだ信隆の子・信政が、父の路線を継いで後北条氏に通じようと画策した。しかし、この動きを察知した里見義堯は、これを許さなかった。里見軍の猛攻を受けた信政は、椎津城に籠城するも衆寡敵せず、ついに城内で自刃して果てた 15 。
悲劇はこれで終わらなかった。信政の死から、わずか3日後。かつて信隆と家督を争った叔父の真里谷信応もまた、里見方の追撃を受けて討たれたと伝えられている 15 。こうして、信勝の孫にあたる信隆と信応、そして曾孫の信政という、真里谷武田家の中心的な血筋を引く者たちが、相次いで非業の死を遂げた。信勝の死から、わずか30年足らずの出来事であった。
【表2】真里谷氏興亡 関連略年表
年代 |
真里谷武田氏の動向 |
関連勢力(後北条氏・里見氏など)の動向 |
康正2年 (1456) |
始祖・武田信長が上総に入部。真里谷城・庁南城を築く 1 。 |
古河公方と関東管領の対立が激化(享徳の乱)。 |
永正14年 (1517) |
真里谷信勝 、足利義明を擁立し小弓城を攻略。「小弓公方」が成立 12 。 |
里見氏と同盟を結び、原氏を攻撃。 |
大永3年 (1523) |
真里谷信勝 、死去 7 。子の恕鑑(信清)が家督を継ぐ。 |
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天文3年 (1534) |
恕鑑が死去。子の信隆(庶子)と信応(嫡子)による家督争いが勃発 9 。 |
後北条氏が信隆を、里見氏が信応を支援し、内紛に介入 14 。 |
天文7年 (1538) |
【第一次国府台合戦】信応、小弓公方・里見氏と共に北条氏綱と戦うも大敗 19 。 |
小弓公方・足利義明が戦死し、小弓公方は滅亡。里見氏は戦場を離脱 20 。 |
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合戦後、北条氏が真里谷城を制圧。信応は降伏し、信隆が当主に復帰 20 。 |
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天文20年 (1551) |
真里谷信隆が死去 23 。 |
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天文21年 (1552) |
信隆の子・信政が里見氏に攻められ自刃。叔父の信応も討たれる 15 。 |
里見氏の攻勢により、真里谷氏の主要な指導者が一掃される。 |
永禄7年 (1564) |
【第二次国府台合戦】真里谷一族、里見方として参陣するも敗北 12 。 |
里見氏と後北条氏の抗争が続く。 |
天正18年 (1590) |
【小田原征伐】豊臣秀吉の関東侵攻により、宗家である後北条氏が滅亡。 |
真里谷武田氏の残存勢力も運命を共にし、完全に滅亡 2 。 |
いくつかの史料は、真里谷武田氏の最期を「まことに呆気無いものであった」と記している 6 。かつては分家の庁南武田氏と合わせて二十五万石とも推定されるほどの広大な所領を誇り 6 、関東の政治を動かすほどの権勢を誇った一族の結末としては、確かにそう見えるかもしれない。
しかし、この「呆気なさ」の本質は、1552年の当主たちの連続死や、1590年の小田原征伐といった特定の事件だけで語られるべきではない。真里谷氏の真の終焉は、第一次国府台合戦でその独立性を失った時点から始まっていた、緩やかな解体のプロセスそのものであった。彼らは主体性を失い、里見と北条という二大勢力によって、その領地、家臣、そして誇りを少しずつ、しかし確実に奪われていった。1552年の悲劇は、長きにわたる衰弱の末に訪れた、いわば「政治的な衰弱死」の最終段階に過ぎなかった。一族の最期は、華々しい合戦による劇的な滅亡ではなく、じわじわと自立性を奪われ、歴史の潮流の中で静かに解体されていくという、より残酷な結末であった。
最終的に、一族の残存勢力も、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において、運命を託した宗家・後北条氏が滅亡したことにより、その歴史に完全な終止符を打った 2 。
真里谷信勝という武将を評価するにあたり、我々は二つの側面から光を当てなければならない。
第一に、彼は単なる上総の一地方武将ではなかった。既存の権力構造の隙を突き、足利一門の権威を巧みに利用して新たな権力を創出するという、卓越した戦略眼と実行力を持った「プロデューサー」であった。彼の主導した小弓公方擁立は、一族をわずか一代で房総随一の勢力へと押し上げた、戦国史においても類稀な成功体験であったと言える。この功績だけを見れば、彼は疑いなく房総の地に輝いた英雄であった。
しかし、第二に、その最大の功績が、結果として一族の未来に破滅的な災厄をもたらす「トロイの木馬」となったこともまた、厳然たる事実である。彼が遺した「小弓公方の後見人」というあまりに価値の高い遺産は、次世代に血で血を洗う内紛を引き起こさせ、関東の二大勢力である後北条氏と里見氏の介入を招く格好の口実を与えてしまった。彼の遺産は、栄光の光と、悲劇の深い影を同時に宿していたのである。
真里谷信勝に始まる真里谷武田氏の興亡史は、戦国時代中期において、数多存在した地域勢力(国衆)が、いかにして大名の狭間で自立性を保とうと足掻き、そして巨大な権力の論理の前に翻弄され、飲み込まれていったかを示す、一つの典型的な縮図である。信勝の生涯は、一個人の類稀な才覚や野心だけでは抗うことのできない、時代の大きなうねりの非情さを、我々に強く教えてくれる。房総の風雲児が見た栄光の夢は、彼の死後、わずか一世代で儚くも崩れ去ったのである。