矢島満安は出羽由利郡の国人領主「由利十二頭」の一人。宿敵仁賀保氏の当主を三代にわたり討ち取るなど豪勇を誇った。最上義光の謀略で孤立し、舅の潔白を証明するため自害した悲劇の武将。
矢島満安という武将の生涯を理解するためには、彼が生きた戦国時代末期の出羽国由利郡が置かれていた特異な地政学的環境をまず把握する必要がある。この地域には、一郡を単独で支配する強力な戦国大名は存在しなかった。その代わりに、「由利十二頭(ゆりじゅうにとう)」と総称される中小の国人領主たちが割拠し、互いに勢力を競い合いながら、一揆(盟約)という形で緩やかな連合体を形成していた 1 。
この由利十二頭の起源は、鎌倉時代に遡る。源頼朝の奥州征伐後、この地の地頭として信濃から入部した小笠原氏の一族が土着し、その子孫たちが郡内各地に分立したことに始まるとされる 2 。彼らは、由利郡が有した約五万石の所領を分有し、外部からの強大な勢力に対しては共同で対抗する一方、その内部では絶えず主導権を巡る勢力争いを繰り広げていた 2 。
由利郡は、北に安東(秋田)氏、南に大宝寺(武藤)氏、そして東には雄勝郡の小野寺氏と、勢力拡大を狙う大名たちに三方を囲まれていた。さらに、山形を本拠として「羽州の狐」の異名をとる最上義光が急速に勢力を伸ばし、由利郡への影響力を強めると、その政治的状況は一層複雑化した 1 。このような環境下で、由利十二頭は常にいずれかの大名に与するか、あるいは独立を保つかの選択を迫られ、その一つ一つの決断が郡内の勢力均衡を大きく揺るがす要因となっていた。
この「由利十二頭」という連合体は、決して強固な一枚岩の組織ではなかった。むしろ、個々の領主の利害と思惑が渦巻く、極めて流動的で脆弱な集合体であったと見るべきである。対外的脅威に対して一時的に結束することはあっても、内部では矢島氏と仁賀保氏の激しい抗争に代表されるように、常に対立の火種を抱えていた 5 。この構造的な不統一性こそが、後に最上義光による巧みな分断工作を容易にし、矢島満安が孤立し、悲劇的な最期を迎える遠因となったのである。
矢島満安のルーツである矢島氏は、由利十二頭の中でも宿敵・仁賀保氏と並び称される有力な一族であった 5 。その出自については諸説あるが、最も有力視されているのは、清和源氏小笠原氏の庶流であるという説である 5 。より具体的には、『由利十二頭記』などの記録によれば、小笠原氏の流れを汲む信濃の「大井氏」がその祖とされ、初代・大井義久が由利郡に入部し、その4代目にあたる満安が本拠地の名をとって「矢島」を名乗ったと伝えられている 5 。満安自身が「大井五郎」という名で呼ばれることも多く 9 、この「大井氏」という出自意識が、彼らの自己認識の中核にあった可能性は高い。一方で、一部の軍記物では大江氏の血を引くとも記されているが、これは家紋などからの類推に基づく後世の説とも考えられる 8 。
矢島氏の運命が大きく動くのは、永禄3年(1560年)のことである。この年、満安の父である矢島義満が、長年の宿敵であった仁賀保氏との合戦で負った傷がもとで死去した 5 。これにより、満安はまだ年少でありながら家督を継承することとなる。若き当主の下、矢島氏は一時的に勢力を潜め、雌伏の時を過ごさざるを得なかった 5 。この沈黙の期間が、後の満安の爆発的な武威の発露に向けた助走期間となった。
満安の生涯における主要な出来事を時系列で整理すると、彼の人生がいかに激しい闘争と政治的翻弄の中にあったかが浮き彫りになる。
表1:矢島満安の生涯と関連事象年表
年代 (西暦) |
満安の動向および矢島氏関連の出来事 |
周辺情勢および関連人物の動向 |
不詳 |
矢島満安、誕生。 |
- |
永禄3年 (1560) |
父・義満が仁賀保氏との合戦の傷がもとで死去。満安が家督を継承 5 。 |
桶狭間の戦い。 |
天正3年 (1575) |
滝沢氏の居館を攻撃し、滝沢政家らを討ち取り同氏を没落させる 5 。 |
長篠の戦い。 |
天正4年 (1576) |
仁賀保明重を討ち取る 5 。 |
- |
天正5年 (1577) |
明重の弔い合戦を挑んできた仁賀保安重を討ち取る 5 。 |
- |
天正14年 (1586) |
仁賀保重勝を自ら討ち取る 5 。 |
小野寺義道と最上義光が有屋峠で合戦 10 。 |
天正16年 (1588) |
秋田氏の内紛(湊合戦)に、由利衆の一員として秋田実季に加勢 8 。 |
(矢島氏滅亡の時期とする説が存在 5 ) |
天正18年 (1590) |
- |
豊臣秀吉による小田原征伐、奥州仕置。惣無事令が発令される。 |
天正19年 (1591) |
最上義光の謀略で弟・与兵衛が謀叛。これを鎮圧するも兵力を消耗 5 。 |
九戸政実の乱。由利衆の多くが最上氏に接近。 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役(朝鮮出兵)に代理を派兵。その隙に仁賀保氏ら由利衆に攻められる 5 。 |
豊臣秀吉が朝鮮に出兵。 |
文禄元年 (1592) |
妻の実家である西馬音内城主・小野寺茂道のもとへ逃亡 5 。 |
最上義光が小野寺義道に「茂道と満安が謀叛を計画」と讒言 8 。 |
文禄2年 (1593) |
舅・茂道の潔白を証明するため、西馬音内城内で自害。矢島氏が滅亡 5 。 |
小野寺茂道も宗主・義道に攻められ自刃したとされる 5 。 |
慶長5年 (1600) |
遺臣40名が娘・鶴姫を擁して蜂起。一時的に矢島城を奪還するも敗死 5 。 |
関ヶ原の戦い。 |
矢島満安の名を後世に轟かせたのは、その悲劇的な最期もさることながら、何よりもまず、彼をめぐる数々の豪勇伝であった。これらの逸話の多くは、江戸時代中期の元禄11年(1698年)に成立した軍記物語『奥羽永慶軍記』や、地域の伝承をまとめた『由利十二頭記』に由来する 9 。
これらの書物によれば、成長した満安は「身長六尺九寸(約2メートル10センチ)」という、当時としては人間離れした巨漢であったと伝えられる 5 。その体躯に見合うだけの剛力と武勇を誇り、戦場では巨大な棍棒を軽々と振り回し、敵兵を震え上がらせたとされる 14 。
その豪放磊落な性格は、戦場以外での逸話にも色濃く反映されている。彼は凄まじい大食漢であり、「尋常の五、六人して喰うべき飯を一人して食し、其の上大なる鮭の魚の丸焼を一本引けるに首尾ともに少しも残さず食し」たと記されている 5 。さらに大の酒好きでもあり、「五器の大なるを以って七度まで傾けたり」と、大杯で立て続けに酒を呷ったという 5 。この規格外の性質は彼の愛馬にも及んだとされ、「八升栗毛(はっしょうくりげ)」と名付けられたその馬も、主人に似て大食らいであったという伝承が残っている 5 。
こうした英雄譚は、文字通りの史実として受け取ることは難しい。むしろ、これらは矢島満安という人物の武勇と存在感が、同時代および後世の人々にいかに強烈な印象を与えたかを示す「記憶の結晶」と解釈すべきである。特に、謀略によって非業の死を遂げた英雄を、後世の人々が理想化・神格化しようとするのは、軍記物語における典型的な手法である。しかし、このような誇張された伝説が生まれる背景には、彼が実際に仁賀保氏の当主を次々と討ち取るなど、並外れた武功を挙げたという紛れもない事実が存在した。これらの逸話は、史実そのものではないにせよ、満安の武勇が本物であったことの力強い傍証となっている。
由利郡の歴史において、矢島氏の動向を語る上で欠かせないのが、宿敵・仁賀保氏との数十年にわたる死闘である。両氏は共に由利十二頭の中核をなす二大勢力であり、郡内の覇権をめぐって永禄3年(1560年)から文禄元年(1592年)の間に十数回もの合戦を繰り広げた 5 。
父・義満を仁賀保氏との戦いで失った満安にとって、この戦いは単なる勢力争いではなく、父の仇討ちという側面も持っていた。雌伏の時を経て成長した満安は、その鬱積した力を仁賀保氏へと向ける。彼の戦い方は、単に合戦に勝利するだけではなかった。敵対勢力の中枢を破壊し、その力を根底から覆すことを目的とした、極めて攻撃的なものであった。
その苛烈さは、満安が挙げた戦果に如実に表れている。
一説には、仁賀保氏の家臣に謀略を仕掛け、内部から動揺させて当主を殺害に至らしめたとも伝わっており、武力だけでなく知略にも長けていた可能性が示唆されている 14 。また、彼の攻撃は仁賀保氏だけに留まらず、天正3年(1575年)には滝沢氏を攻撃して滅亡に追い込むなど 5 、その武威は由利郡全域に及んだ。
満安による仁賀保氏当主三代にわたる執拗なまでの討滅は、彼の武名を「仁賀保キラー」として轟かせると同時に、由利郡内のパワーバランスを根底から揺るがした。この行動は、他の由利十二頭の国人領主たちにとって、計り知れない脅威として映った。いつ自分たちの矛先が矢島氏に向けられるか分からないという恐怖は、彼らを反矢島で結束させる強力な動機となった。結果として、仁賀保氏が旗頭となり、他の由利衆がそれに同調して「矢島包囲網」を形成することになる。満安の圧倒的な強さこそが、皮肉にも彼自身の孤立を招き、滅亡への道を切り開いてしまったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐とそれに続く奥州仕置は、東北地方の勢力図を根底から塗り替える一大転換点となった。秀吉が発令した惣無事令は、大名や国人領主間の私的な合戦を禁じ、すべての領土紛争は豊臣政権の裁定に委ねられることになった 5 。これは、力と力がぶつかり合う旧来の地域力学の終焉を意味していた。
この新たな時代の潮流を巧みに利用したのが、山形の最上義光であった。義光は豊臣政権との連携を背景に、巧みな外交と謀略を駆使して出羽国での影響力を飛躍的に増大させ、その手を由利郡にまで伸ばしてきた 4 。時代の変化を敏感に察知した仁賀保氏をはじめとする由利十二頭の多くは、生き残りをかけて強大な最上氏との連携を深めていった 5 。これは、彼らにとって合理的な政治判断であった。
しかし、矢島満安はこの流れに乗らなかった。彼は、最上氏と長年敵対関係にあった隣国の小野寺義道との同盟関係を維持し続けたのである 5 。これは、宿敵・仁賀保氏が最上派に与したことへの対抗意識や、伝統的な同盟関係を重視した結果であったかもしれない。だが、この選択は、豊臣政権という新たな秩序の下では致命的な意味を持った。
表2:矢島満安をめぐる主要人物と勢力関係図(文禄年間初期)
人物/勢力 |
立場 |
矢島満安との関係 |
主要な関係性 |
矢島満安 |
由利十二頭 |
- |
小野寺氏と同盟、仁賀保氏・最上氏と敵対。 |
仁賀保氏 |
由利十二頭 |
宿敵 |
最上氏に従属。由利衆を率いて満安を攻撃。 |
小野寺義道 |
出羽の戦国大名 |
同盟者 |
満安の同盟相手だが、最上氏と敵対。 |
小野寺茂道 |
西馬音内城主 |
舅(義父) |
満安の妻の父。満安を庇護する。 |
最上義光 |
出羽の戦国大名 |
黒幕 |
満安を謀略で追い詰める。仁賀保氏を支援。 |
豊臣秀吉 |
天下人 |
間接的支配者 |
惣無事令により、満安の行動を制約。 |
この関係図が示すように、満安の選択は、自らを「最上派」となった他の由利衆から完全に孤立させる結果を招いた 5 。さらに深刻だったのは、彼の立場が「豊臣―最上」という新たな権力構造に対する「抵抗勢力」と見なされかねないものであったことだ。これにより、仁賀保氏をはじめとする敵対勢力は、「秩序に従わない矢島氏を討つ」という大義名分を、最上義光を通じて得ることが可能になった。満安は、あくまで由利郡内での地域紛争を戦っているつもりであったが、気付かぬうちに、より大きな政治闘争の渦に巻き込まれ、逃げ場のない孤立した状況へと追い込まれていったのである。彼の悲劇は、旧来の地域力学に固執し、時代の大きな変化に対応できなかった点にその根源があった。
矢島満安の滅亡は、戦場での敗北によってもたらされたものではない。それは、「羽州の狐」最上義光が周到に張り巡らせた、冷徹かつ巧妙な謀略の連鎖によって引き起こされた。義光は、満安の圧倒的な「武」を直接攻める愚を犯さなかった。その代わりに、彼を支える人間関係の網、すなわち一族の結束、家臣の忠誠、そして同盟の信頼を一つずつ断ち切っていくことで、豪傑を内側から崩壊させ、自滅へと追い込んだのである。
第一の謀略:内部攪乱
義光の最初の標的は、矢島氏の内部結束であった。天正19年(1591年)、義光は満安を山形城に招いて上洛を勧めるなど、表向きは友好的な態度を示した。しかしその裏では、満安の弟・与兵衛に接触し、謀叛を起こさせたのである 5。満安はこの反乱を鎮圧することに成功したものの、同族間の争いは矢島氏の兵力を大きく削ぎ、家中に癒やしがたい亀裂を生じさせた 5。
第二の謀略:兵力の削ぎ落としと好機の創出
矢島氏の弱体化を見計らったかのように、次なる機会が訪れる。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による文禄の役(朝鮮出兵)が始まると、満安もまた動員令に従い、小介川氏を代理として兵力を提供した 5。これにより、本国の防衛力はさらに手薄になった。この絶好の機会を、仁賀保氏を旗頭とする反矢島連合が見逃すはずはなかった。彼らは一斉に矢島領へ侵攻し、豪勇を誇る満安も衆寡敵せず、遂に本拠地を追われることとなる 5。
第三の謀略:最後の拠り所の破壊
満身創痍の満安が最後に頼ったのは、妻の実家である西馬音内城主・小野寺茂道であった 5。しかし、義光の謀略は、この最後の聖域にまで及んだ。義光は、茂道の宗主である小野寺義道に対し、「茂道が満安と結託し、あなたに対して謀叛を企てている」という偽情報を執拗に吹き込んだのである 8。猜疑心に駆られた義道は、ついに茂道討伐の軍を差し向けるという、義光の筋書き通りの行動を取った。
この一連の謀略により、満安の存在そのものが、彼を庇護する茂道にとって「謀叛の嫌疑」という致命的な脅威へと変質させられた。満安はもはや戦うべき相手も、守るべき場所も失い、その武勇は完全に無力化された。これは、戦国末期の最も洗練され、そして最も残酷な戦い方であり、物理的な戦闘力を情報戦と心理戦によっていかに無効化できるかを示す、完璧な実例であった。
西馬音内城で、矢島満安は人生最大の岐路に立たされた。彼を討つべく迫ってくるのは、宿敵・仁賀保の軍勢ではない。彼が同盟者と頼み、その家臣である舅・小野寺茂道に身を寄せた、小野寺義道の軍勢であった。この状況は、もはや武力で打開できるものではなかった。もし戦えば、恩ある茂道にさらなる迷惑をかけ、謀叛の疑いを確定的なものにしてしまう。
満安は、自らの存在こそが、この悲劇の元凶であると悟った 5 。彼に残された選択肢は、争いの原因である自らがこの世から消えることだけだった。文禄2年(1593年)、満安は舅・茂道の潔白を証明するため、西馬音内城内にて自刃して果てたと伝えられる 12 。生涯を戦場で生きた豪傑が、その最期を戦いではなく、恩義と道理、すなわち「義」のために捧げたのである。彼の死は、謀略に敗れた者の無念さだけでなく、自らの行動原理を最後まで貫いた武士の、悲劇的な自己完結であった。
ただし、矢島氏の滅亡時期については異説も存在する。軍記物語では文禄の役(1592-93年)の出来事として描かれるが、豊臣政権による惣無事令が発令された後、これほど大規模な私闘が許されたとは考えにくい。また、天正18年(1590年)の奥州仕置において、所領を安堵された国人領主のリストに矢島氏の名が見えないことから、実際には惣無事令が奥羽で徹底される以前の天正16年(1588年)頃に、仁賀保氏らによって滅ぼされていたのではないか、という学術的見解も有力である 5 。この説が正しければ、満安の最期をめぐる物語は、滅亡の事実をより劇的に潤色した後世の創作ということになる。いずれにせよ、彼が時代の大きな奔流の中で、謀略によって滅び去ったという事実に変わりはない。
矢島満安の自害によって、由利の豪族・矢島氏は滅亡した。しかし、彼の物語はそれで終わりではなかった。その死後も、彼の存在は地域に確かな影響を残し続けた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに呼応して出羽国で最上義光と上杉景勝の戦いが始まると、この混乱に乗じて満安の旧臣40名余りが蜂起した。彼らは満安の遺児・鶴姫(於藤)を旗印として掲げ、仁賀保氏の支配下にあった旧主の居城・矢島城(八森城)を奇襲し、一時的に奪還するという快挙を成し遂げた。この反乱はわずか4日間で鎮圧されたが、主君の死から7年を経てもなお、家臣たちにこれほどの行動を起こさせた満安のカリスマ性と、彼らが抱いた忠誠心の高さを物語っている 5 。
満安の血脈もまた、意外な形で後世に繋がっている。娘の鶴姫は、仁賀保氏に捕らえられた後、由利郡の新たな支配者となった最上氏の重臣・楯岡満茂の弟、本城(楯岡)満広に嫁いだとされる 5 。これは、旧領主の血筋を新たに取り込むことで、支配の正統性を補強しようとする政略的な婚姻であったと考えられる。元和8年(1622年)に最上氏が改易されると、本城氏一族は播磨姫路藩主・酒井忠世に預けられ、後にその家臣となった。満安の孫にあたる世代の子が本城家の家督を継ぎ、その子孫は姫路藩の重臣として幕末まで続いた 5 。矢島氏の血は、かつての敵方の家臣団の中で、形を変えて生き延びたのである。
現代においても、矢島満安の記憶は地域の史跡に刻まれている。彼の居城であった矢島城(八森城)の跡地は、現在矢島小学校の敷地となっているが、往時を偲ばせる水堀の一部が今も残る 18 。また、矢島氏の菩提寺である高建寺には、満安のものと伝わる墓が静かに佇んでいる 6 。
矢島満安の物語は、一個人の悲劇に留まらない。それは、戦国乱世の終焉期において、地方の小規模な国人領主が、中央集権化という抗いがたい時代の波と、それに乗じた地域大名の冷徹な謀略の前に、いかにして淘汰されていったかを示す象徴的な事例である。彼の剛勇は伝説となり、血脈は形を変えて存続し、その記憶は史跡として地域に根付いている。彼は歴史の勝者ではなかったかもしれないが、決して忘れ去られた敗者ではない。その名は、出羽の地に生きた驍将の記憶として、今なお語り継がれている。