矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、沼田城代として真田昌幸を支えた剛将。第一次上田合戦で沼田城を守り抜き、真田家の礎を築いた。
戦国時代の信濃に興り、知謀と武勇をもってその名を天下に轟かせた真田一族。その輝かしい歴史を語る上で、真田幸隆、昌幸、信繁(幸村)といった当主たちの活躍はあまりにも有名である。しかし、彼らの栄光の陰には、一族の存亡を賭けて戦い、その礎を盤石なものとした幾多の家臣たちの存在があった。中でも、真田幸隆の弟にして、甥・昌幸の時代に上野国沼田城代として獅子奮迅の働きを見せた矢沢頼綱(やざわ よりつな)は、真田家臣団の中でも特筆すべき存在である 1 。
一般に頼綱は、「真田家を支えた武勇の将」、「第一次上田合戦の際に沼田城を死守した忠臣」として知られている。この評価は決して間違いではない。しかし、それは彼の生涯のほんの一側面に過ぎない。頼綱の実像は、単なる一介の武将に留まらず、真田氏が信濃の小領主から戦国大名へと飛躍する過程において、戦略的に極めて重要な役割を担った「一門の柱」であった。彼の生涯は、戦国という激動の時代における忠誠、戦略、そして血族の絆が織りなす複雑な絵図そのものである。
本稿では、矢沢頼綱の出自から晩年に至るまでの全貌を、現存する史料や伝承を丹念に紐解きながら徹底的に解明する。彼の武功の数々はもちろんのこと、その背景にある真田一族の戦略、そして彼が真田家の中で果たした真の役割を浮き彫りにし、単なる「猛将」というレッテルを超えた、多角的で深みのある人物像を再構築することを目的とする。
西暦(和暦) |
年齢(数え) |
主な出来事 |
1518年(永正15年) |
1歳 |
真田頼昌の三男として誕生 2 。 |
不詳 |
- |
信濃国小県郡矢沢郷の領主、矢沢氏の養子となる 1 。 |
不詳 |
若年期 |
京都鞍馬寺にて出家するも、還俗して郷里に戻る 5 。 |
1541年(天文10年) |
24歳 |
海野平の合戦で海野棟綱方に属して敗北。兄・幸隆と共に上州へ落ち延びる 1 。 |
1551年(天文20年) |
34歳 |
兄・幸隆の砥石城攻略に際し、城内から内応したという説がある 7 。 |
1563年(永禄6年) |
46歳 |
兄・幸隆に従い、上野岩櫃城、嵩山城の攻撃に参加 1 。 |
1575年(天正3年) |
58歳 |
菩提寺となる良泉寺を創建 8 。長篠の戦いで甥・信綱が戦死し、昌幸が家督を継ぐ。 |
1580年(天正8年) |
63歳 |
真田昌幸の命を受け、沼田城攻略の総大将として出陣。調略を用いて無血開城させる 1 。 |
1581年(天正9年) |
64歳 |
沼田城代に任命される 1 。この頃、「頼綱」と改名した可能性が指摘される 4 。 |
1582年(天正10年) |
65歳 |
武田氏が滅亡。独立大名となった真田昌幸の重臣となる。北条氏邦の沼田侵攻を受けるが、上杉景勝の支援を得て撃退 1 。 |
1585年(天正13年) |
68歳 |
第一次上田合戦。徳川・北条連合軍による沼田城への侵攻を寡兵で撃退 11 。この頃から嫡子・頼康との連署が見られ、代替わりが進んだとみられる 4 。 |
1587年(天正15年) |
70歳 |
昌幸の子・信幸(後の信之)が沼田城主となり、頼綱は上田へ帰還 1 。 |
1597年(慶長2年) |
80歳 |
5月7日、死去。上田の良泉寺に葬られる 4 。 |
矢沢頼綱の生涯を理解する上で、その出自と、彼が如何にして「矢沢」の名を継ぐに至ったかを探ることは不可欠である。そこには、戦国初期の信濃における小領主たちの生存戦略が色濃く反映されている。
矢沢頼綱は、1518年(永正15年)、信濃国小県郡の国人領主であった真田頼昌の三男として生を受けた 2 。通称は源之助(げんのすけ) 3 。兄には、後に武田信玄の「攻め弾正」と称された真田弾正忠幸隆(幸綱)がいる 1 。当時の真田氏は、滋野氏の流れを汲む海野一族に属し、真田郷(現在の上田市真田町)を本拠とする、数多いる信濃の小領主(国人)の一つに過ぎなかった 3 。頼綱の誕生は、この一族がやがて戦国の世に大きく飛躍する、その黎明期のことである。
頼綱はやがて、実家である真田家を離れ、隣接する矢沢郷(現在の上田市殿城町矢沢)を支配していた矢沢氏の養子となる 1 。この矢沢氏は、その出自について複数の説が存在する。一つは諏訪大社を奉じる神氏の一族(諏訪神氏流)とする説 4 、もう一つは真田氏と同じく滋野氏の支族とする説 9 である。いずれにせよ、当初は真田氏と敵対関係にあったとされ 4 、独立した勢力であったことは間違いない。
この養子縁組は、単なる家督相続以上の意味合いを持っていた。戦国初期、力のない小領主が勢力を拡大するには、近隣の豪族をいかにして味方につけるかが死活問題であった。武力による征服は多大な犠牲を伴い、かえって周囲の反感を招きかねない。兄・幸隆をはじめとする真田一族は、敵対する隣国の領主家に弟を養子として送り込むことで、一滴の血も流すことなくその勢力を吸収し、味方に変えるという極めて高度な戦略を選択したのである。これにより、真田氏は本拠地周辺の足場を固め、来るべき飛躍への基盤を築いた。頼綱の矢沢氏継承は、真田一族の初期の勢力拡大における、計算され尽くした戦略的傑作であったと言える。
頼綱の若き日を語る上で、しばしば引用される逸話がある。それは、彼が若い頃に京都の鞍馬寺へ出家したものの、生来の武を好む気性(「生来の武辺者」)が災いし、寺を追われるか、あるいは自ら寺を出て還俗した、というものである 4 。
この種の「武士と仏門」を巡る物語は、中世の軍記物語において、登場人物の天性の武勇を強調するためにしばしば用いられる文学的類型である。その史実性を厳密に証明することは困難であるが、『新武内伝』などの記録に一貫して見られることから 5 、これが頼綱という人物のアイデンティティを形成し、後世に記憶される上で重要な役割を果たしたことは確かである。この逸話は、彼の武勇が後天的に身につけた技術ではなく、生まれながらにして宿命づけられた本質であったことを象徴的に物語っている。長刀を振り回し、荒武者どもを蹴散らしたという若き日の姿は 5 、まさに彼の生涯を暗示するものであった。
甲斐の虎、武田信玄が信濃侵攻を開始すると、真田一族の運命は大きく動き出す。矢沢頼綱もまた、この激動の時代に兄・幸隆と共に武田氏の家臣として、その武名を高めていくこととなる。
1541年(天文10年)、武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍によって、真田氏が属する惣領家の海野氏が攻め滅ぼされる「海野平の合戦」が勃発する。この戦いで敗れた頼綱は、兄・幸隆と共に上州へと落ち延びた 1 。その後、武田信玄の代になると、幸隆は旧領回復のために信玄に仕え、その先鋒として目覚ましい活躍を見せる。頼綱もまた、兄の下で武田軍の「信濃先方衆」として、数々の戦いに身を投じた 4 。
彼は単なる一兵卒ではなく、自らの手勢を率いる武将であり、16騎持ちの侍大将であったと記録されている 6 。特に、幸隆による上州攻略戦においては、その中心的な役割を担った。1563年(永禄6年)の上野岩櫃城や嵩山城の攻略戦に参加し 1 、また、難攻不落とされた村上氏の拠点・砥石城の攻略(1551年)においても、城内から兄に内応して落城に貢献したという説が伝わるなど 7 、幸隆の輝かしい武功の数々は、頼綱という「片腕」の存在なくしては成し得なかったのである。
ここで注目すべきは、武田家臣時代の頼綱の立場である。彼は矢沢家の当主として、兄・幸隆と同様に武田氏に臣従した独立した領主であり、当初は幸隆の家臣という位置づけではなかった 4 。これは、真田氏と矢沢氏が、武田家の支配体制下において、それぞれが個別に認められた国人領主であったことを示している。
しかし、この関係は時代の大きなうねりの中で変化していく。1575年(天正3年)の長篠の戦いで幸隆の跡を継いだ信綱が戦死し、その弟・昌幸が家督を相続。そして1582年(天正10年)、織田信長の甲州征伐によって主君・武田勝頼が自刃し、武田家が滅亡すると、昌幸は独立した戦国大名として自立の道を歩み始める。この重大な転換期において、頼綱は一門の長老として甥である昌幸を支えることを決断し、正式に真田家の重臣となった 4 。
頼綱の経歴は、そのまま真田一族の歩みを映し出す鏡のようである。信濃の小領主(国人)に始まり、武田氏配下の有力武将となり、そして独立大名・真田家の筆頭家老格へと至る。彼の地位の変遷は、真田氏が戦国の荒波を乗り越え、一つの権力として確立していく過程そのものであった。
武田氏が滅亡し、真田昌幸が独立勢力として歴史の表舞台に躍り出ると、矢沢頼綱の存在はこれまで以上に大きな意味を持つようになる。特に、上野国沼田領の支配を巡る攻防において、頼綱は生涯で最も輝かしい活躍を見せることになる。
上野国北部に位置する沼田城は、越後と関東平野を結ぶ交通の要衝であり、利根川と片品川に挟まれた断崖絶壁に築かれた天然の要害であった 17 。この城を支配することは、北関東の覇権を握る上で極めて重要であり、上杉、北条、そして武田といった大勢力が激しく争奪を繰り返していた 18 。
1580年(天正8年)、当時まだ武田勝頼の家臣であった真田昌幸は、この沼田城の攻略を命じられる。この重要な作戦の総大将に抜擢されたのが、叔父である矢沢頼綱であった 1 。頼綱は、軍事的な圧力と並行して、城内の将に対する調略(謀略)を巧みに用いることで、大きな戦闘を経ることなく沼田城を無血開城させることに成功した 10 。この功績により、翌1581年(天正9年)、頼綱は正式に沼田城の城代(じょうだい)に任命された 1 。
戦国時代における「城代」とは、単なる城の留守番役ではない。主君が不在の際に、軍事、行政の全権を委ねられた代理の城主であり、特に沼田城のような最前線の拠点においては、極めて重い責任を負う役職であった 19 。頼綱の城代就任は、昌幸からの絶大な信頼の証であった。
頼綱の真価が最も発揮されたのは、1585年(天正13年)の第一次上田合戦の時である。主君・昌幸が徳川家康と手切れとなり、上田城で徳川の大軍を迎え撃っていた頃、徳川と同盟を結ぶ後北条氏が、この機に乗じて大軍を沼田領へと侵攻させた 1 。昌幸が西の徳川軍に全力を注ぐ中、東の北条軍を防ぐという絶望的な二正面作戦を強いられたのである。
この時、沼田城を守る頼綱の兵力は、侵攻してきた北条氏邦の軍勢に比べて遥かに少なかったとされる 1 。一部の記録では、その兵力差は数倍にも及んだと伝えられている 22 。しかし、頼綱は全く動じることなく、老練な指揮で城兵を鼓舞し、北条軍の猛攻をことごとく撃退した 11 。『真田太平記』などの軍記物によれば、この時頼綱は「小焼松(こやきまつ)」と名付けられた愛用の槍を自ら振るい、敵兵を薙ぎ倒したという 5 。
この沼田での絶望的な防衛戦の成功は、歴史的に極めて大きな意味を持つ。もし東の沼田城が陥落していれば、昌幸は背後を脅かされ、上田城での歴史的な勝利はあり得なかったであろう。頼綱の奮戦は、上田合戦という主戦場の勝利を可能にした、まさに絶対的な前提条件だったのである。この時、沼田の戦況を聞いた昌幸が「薩摩守(頼綱)がすることは、俺がすることと同じことだ。あの叔父御が負けるなら、俺が沼田にいたとて負けることになるわ」と平然と語ったという逸話は 5 、二人の間にあった鉄のような信頼関係を如実に物語っている。昌幸は、頼綱が自分自身と同じ戦略眼と不屈の精神で行動することを確信していたからこそ、安心して上田での決戦に集中できたのである。これは、主君が最も信頼する重臣に最重要拠点を託すという、戦国時代の理想的な君臣関係の一つの完成形であった。
天下統一を進める豊臣秀吉の権威が関東に及ぶと、沼田領の帰属は新たな局面を迎える。秀吉は、真田氏と北条氏の長年の争いを調停するため、沼田領の三分の二(沼田城を含む)を北条氏に、残りの三分の一(名胡桃城など)を真田氏に与えるという裁定を下した(沼田裁定) 17 。
この決定に対し、誰よりも激しく反発したのが頼綱であった。上州の地域史料である『加沢記』には、この時の頼綱の凄まじい怒りが記録されている 25 。彼は、血と汗で勝ち取り、命を懸けて守り抜いた沼田城を、戦いもせずに北条へ引き渡すことを断固として拒否。「この城を枕に討ち死にする」と述べ、城に火を放って自決しようとまでしたという 5 。最終的には昌幸の説得で思いとどまったとされるが、この逸話は、たとえ天下人・秀吉の命令であっても屈することのない、頼綱の武人としての誇りと、沼田の地に対する強烈な自負心、そしてその戦略的重要性を誰よりも深く理解していた彼の洞察力を鮮やかに描き出している。
数々の武功を立て、真田家の屋台骨を支え続けた頼綱にも、やがて第一線を退く時が訪れる。しかし、彼が築いた礎は、その後の矢沢家の繁栄、ひいては真田家の安泰へと確実につながっていく。
第一次上田合戦が終結した1585年(天正13年)頃から、古文書において頼綱の名は嫡子である矢沢頼康(よりやす、三十郎とも)との連署で現れることが多くなる 4 。これは、頼綱が徐々に家督と実務を頼康へと移譲していったことを示唆している。この頼康もまた父に劣らぬ武将であり、父と共に真田家を支え、後に関ヶ原の戦いを経て真田信之(信幸)に仕え、大坂の陣では信之の名代として出陣した信吉・信政兄弟を補佐するなど、重臣として活躍した 16 。頼綱は、自らの後継者を確と育て上げ、矢沢家の未来を託したのである。
1597年(慶長2年)5月7日、矢沢頼綱は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年80であったと伝えられる 1 。彼の亡骸は、自らが1575年(天正3年)に創建し、矢沢家の菩提寺と定めた上田の良泉寺(りょうせんじ)に、妻と共に手厚く葬られた 8 。良泉寺の境内には、今なお頼綱夫妻の墓が残り、彼の生きた時代の面影を静かに伝えている 16 。また、頼綱は他にも中之条の林昌寺を開基するなど 32 、信仰の篤い一面も持っていた。
頼綱の功績が真田家にとっていかに絶大であったかは、江戸時代における矢沢家の処遇を見れば一目瞭然である。関ヶ原の戦いの後、真田氏が上田から松代へ移封されると、矢沢家は藩の家臣団の中で最高位である「筆頭家老格(無役席)」という特別な地位を与えられた 4 。その知行高は1400石から2000石を超え、40人もの同心を預かる大身として、明治維新に至るまで代々その家格を維持し続けたのである 34 。
江戸時代の武家社会において、家臣の家格や禄高は、その先祖が戦国時代に立てた功績を直接的に反映するものであった。矢沢家が250年以上にわたって藩の筆頭家老という最高の栄誉を享受し続けたという事実は、主君である真田家が、矢沢頼綱の忠誠と武功に対して、いかに深く感謝し、その価値を認めていたかを示す、何より雄弁な証拠である。頼綱が一代で築き上げた信頼と実績は、彼の死後も制度として継承され、子孫たちの永きにわたる繁栄の礎となった。これこそが、彼が歴史に残した最も確かな遺産と言えよう。
矢沢頼綱の生涯を俯瞰すると、単なる「猛将」という言葉だけでは捉えきれない、多面的な人物像が浮かび上がってくる。彼は、時代の要請に応じて様々な顔を持つ、深みのある武将であった。
頼綱が長刀を振るって敵を蹴散らす、比類なき武勇の持ち主であったことは数々の逸話が証明している 5 。しかし、彼の真価はそれだけではない。沼田城の攻略と防衛に見られるように、彼は軍事力のみに頼るのではなく、調略や情報戦を駆使する戦略家でもあった。また、大軍を相手に長期間籠城を成功させるには、兵站の管理、城の普請、そして兵士たちの士気を維持する統率力など、高度なマネジメント能力が不可欠である。彼は単なる戦人(いくさびと)ではなく、領地と城を経営する有能な指揮官だったのである。
頼綱は、真田昌幸の叔父という血縁的な立場にあった 1 。この「一門の長老」という立場は、真田家という組織において極めて重要な意味を持っていた。主君である甥・昌幸が時に奇抜ともいえる大胆な謀略を次々と打ち出す中で、頼綱という重厚な存在が家臣団の中心にいることは、組織に安定感と求心力をもたらした。彼の揺るぎない忠誠心は、一族が存亡の危機に瀕した際に、家臣団の動揺を抑え、結束を固めるための精神的な支柱となっていた。
結論として、矢沢頼綱と真田昌幸の関係は、互いの長所を補い合う、理想的な共生関係であったと言える。昌幸が表裏比興の知謀を駆使して乱世を渡る天才的な戦略家であったとすれば、頼綱はその戦略を実現させるための、揺るぎない実行力と剛胆さを備えた不屈の柱であった。昌幸の大胆な賭けは、頼綱という信頼できる「錨(いかり)」が東の国境線を死守していて初めて可能になったのである。彼は、昌幸がその遺産を築き上げる上で、まさに土台となった岩盤そのものであった。
矢沢頼綱の生涯を詳細に検証した結果、彼は通説で語られる「勇猛な家臣」というイメージを遥かに超える、真田一族の歴史において不可欠な最重要人物であったことが明らかになった。
真田郷の隣国を敵から味方へと変えた戦略的な養子縁組から、兄・幸隆の片腕としての数々の武功、そして甥・昌幸の時代における沼田城での英雄的な防衛戦に至るまで、彼の行動は常に真田家の存続と発展に決定的な影響を与えてきた。特に、第一次上田合戦における沼田城の死守は、真田昌幸の歴史的勝利を支えた最大の功績であり、彼の存在なくして真田家の飛躍はあり得なかったと言っても過言ではない。
そして、その功績は一代で終わることなく、子孫が松代藩筆頭家老として二百数十年にわたり真田家を支え続けるという形で、永続的な遺産となった。矢沢頼綱は、単に真田の物語に登場する一人の登場人物ではない。彼は、その物語を創り上げた、最も重要な建築家の一人だったのである。彼の不屈の生涯は、主君への忠誠と武人の誇りを貫き通した、戦国武将の鑑として、今後も語り継がれていくに違いない。