戦国時代の日本列島が群雄割拠の渦中にあった頃、信濃国伊那谷に、巨大な勢力に屈することなく己の誇りを貫き通した一人の武将がいた。その名を、知久頼元(ちく よりもと)という。一般に彼は、甲斐の虎・武田信玄による信濃侵攻に対し、最後まで抵抗を続けた末に非業の死を遂げた悲劇の城主として語られる。しかし、その抵抗の真の動機、一族が辿った過酷な運命、そして絶望の淵から再生に至るまでの壮大な物語は、断片的な伝承の陰に隠れ、十分に知られているとは言い難い。
本報告書は、知久頼元という一人の武将の生涯を軸に、その出自から、彼が生きた時代の政治的背景、勢力基盤、武田信玄との具体的な抗争の経緯、そして彼の死がその後の知久一族に与えた影響までを、現存する史料や研究成果に基づいて多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。
知久氏が本拠とした伊那谷は、信濃国の中央を南北に貫く天竜川流域に広がり、東を南アルプス、西を中央アルプスに挟まれた地勢を持つ。この地理的条件は、伊那谷を単なる一地方に留めなかった。北は甲斐・信濃、南は三河・遠江、西は美濃へと通じる交通の結節点であり、常に周辺大国の思惑が交錯する戦略的要衝であった 1 。武田信玄が西上作戦の足掛かりとしてこの地を重要視したのも、また、知久氏のような在地豪族が常に大国の狭間で存亡をかけた選択を迫られ続けたのも、この地が持つ宿命であった 3 。
知久頼元の物語は、彼の死で終わりを迎えるのではない。それは、滅亡と再生を巡る一族三代にわたる壮大な叙事詩の序曲に過ぎなかった。以下の年表は、その激動の軌跡を概観するものである。
表1:知久頼元と知久一族関連年表
年代 |
出来事 |
典拠 |
鎌倉時代 |
承久の乱(1221年)後、知久氏が伊那谷の知久平へ移住したとされる。 |
5 |
弘安6年 (1283) |
知久敦幸が文永寺に五輪塔を建立。この時期の伊那谷における活動を示す。 |
6 |
戦国時代前期 |
知久頼為(頼元の父)・頼元の代に勢力を拡大。本拠を知久平城から神之峰城へ移す。 |
8 |
天文23年 (1554) |
武田信玄が下伊那に侵攻。知久頼元は神之峰城に籠城し、最後まで抵抗するも落城。 |
9 |
天文24年 (1555) |
頼元、甲斐の河口湖畔で処刑される。知久宗家は一時的に滅亡。 |
10 |
元亀年間頃 (1570-73) |
頼元の子・頼氏が武田氏に帰参を許され、信濃先方衆となる。 |
12 |
天正10年 (1582) |
武田氏滅亡後、頼氏は徳川家康の支援を得て旧領に復帰。 |
14 |
天正12年 (1584) |
頼氏、家康の不興を買い、浜松城にて自害させられる。 |
5 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いで頼氏の子・則直が東軍に属し戦功を挙げる。 |
5 |
慶長6年 (1601) |
則直、阿島3000石の旗本となり、阿島陣屋を築く。以後、江戸時代を通じて存続。 |
8 |
この年表が示すように、知久氏の物語は、頼元の死という悲劇を乗り越え、子、そして孫の代へと受け継がれていく。彼の抵抗と死は、一族の物語における終わりではなく、存続をかけた新たな戦いの始まりを告げる転換点であった。本報告書は、この「抵抗・滅亡・再生」という主題を縦糸に、知久頼元の実像とその一族の運命を丹念に織り上げていくものである。
知久頼元の行動原理を理解するためには、まず彼の一族がどのような出自を持ち、いかなる精神的支柱の上に立っていたのかを深く掘り下げる必要がある。知久氏の歴史は、信濃国を象徴する諏訪大社の神威と分かちがたく結びついている。
『知久家系譜』などの記録によれば、知久氏は諏訪大社の大祝(おおほうり)家、すなわち現人神として信仰された諏訪氏の分流である「神氏(じんし)」の一族とされている 14 。神氏は信濃国各地に広がり、保科氏、祢津氏、遠山氏など、戦国期に名を馳せた多くの豪族を輩出した信濃の名門氏族であった 19 。具体的には、諏訪大祝敦光の子・敦俊が知久沢の地を与えられたことに始まるとされ、その養子となった信貞を初代とする系譜が伝えられている 7 。この出自は、単なる家系上の事実を超え、知久一族のアイデンティティそのものであり、彼らの誇りの源泉であった。
知久氏が伊那谷に根を下ろしたのは、鎌倉時代、承久の乱(1221年)後のことと伝わる 5 。彼らは上伊那郡知久沢から、下伊那の知久平(現・飯田市下久堅)に移り住み、新たな本拠地を築いた。その際、故郷の諏訪上社を勧請して知久平諏訪社を建立したとされ、彼らが単なる土地の支配者であるだけでなく、諏訪信仰の篤い信奉者であり、その伝播者としての役割を担っていたことがうかがえる 20 。諏訪大社上社の神宮寺に五重塔を寄進したという記録も残っており、その信仰の深さは並々ならぬものであった 20 。この時代の知久氏の活動を裏付ける物証として、弘安6年(1283年)の銘を持つ文永寺の石造五輪塔(国指定重要文化財)が現存しており、知久敦幸の名が刻まれている 6 。
南北朝の動乱期には、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が大河原(現・大鹿村)を拠点とすると、知久氏は同じ神氏一族の香坂氏らと共に南朝方として親王を庇護し、武家としての忠義を示した 8 。さらに室町時代には、信濃守護・小笠原政康の麾下として結城合戦に参陣した記録が「結城御陣番帳」に見られるなど 8 、中央の政争にも影響を及ぼす信濃の有力国衆として確固たる地位を築いていた。
これらの歴史的背景を鑑みる時、後の知久頼元による武田信玄への徹底抗戦は、単なる領土防衛という政治的・軍事的な判断に留まらない、より根源的な動機に基づいていた可能性が浮かび上がる。武田信玄の信濃侵攻は、天文11年(1542年)、知久氏が属する神氏の本流である諏訪宗家を、信玄が謀略によって滅ぼしたことから始まっている 22 。知久氏にとって、信玄は自らの一族の根源を絶った仇敵に他ならなかった。伊那谷の他の国衆が比較的容易に武田の軍門に降る中、知久氏が孤立を覚悟で抵抗を続けたのは、この「一族の誇りとルーツを蹂躏された」という強烈な反発心と、神氏としての名誉を守らんとする、いわば「聖戦」の意識があったからではないだろうか。知久氏の守り本尊が、諏訪大社上社の本地仏でもある普賢菩薩であった可能性が指摘されていることも 24 、彼らの信仰と誇りの深さを物語っている。
戦国時代の乱世が深まるにつれ、知久氏はその武威を伊那谷に轟かせる。特に、知久頼元の父・頼為、そして頼元の代には、周辺の座光寺氏や坂西氏といった在地豪族を次々と支配下に置き、一族は最大の拡大期を迎えた 8 。この勢力拡大に伴い、知久氏はその本拠地を、従来の平城である知久平城から、より防御力に優れた山城へと移転させるという戦略的決断を下す。
新たに本拠として選ばれたのが、神之峰城(かんのみねじょう)である 8 。飯田市上久堅に位置するこの城は、標高771メートルの峻険な山頂に築かれ、天竜川を挟んだ西岸(竜西)地域を一望できる絶好の戦略的要地に位置していた 11 。この城は、知久氏の軍事力と支配力の象徴であり、伊那谷に睨みを利かせる拠点であった。
神之峰城が特筆すべきは、単なる有事の際の籠城拠点ではなかった点にある。天文2年(1533年)に京都醍醐寺の高僧・厳助が知久氏を訪れた際の紀行文『天文二年信州下向記』には、知久氏の一族がこの山城の山頂付近で日常的に生活していた様子が記録されている 25 。これは、平時の居館と戦時の城塞を兼ねた「居住型山城」とも言うべき形態であり、全国的にも極めて珍しい事例である。この事実は、知久氏が一族郎党を挙げて城と運命を共にし、常に臨戦態勢にあったことを示唆しており、彼らの武家としての強い覚悟の表れと見ることができる 26 。
一方で、頼元が「阿島城主」として知られているように、阿島(現・喬木村)の地も知久氏にとって重要な拠点であった。発掘調査などから、阿島城は神之峰城の北方を防衛するための支城として機能していたと考えられている 26 。知久氏は、本城である神之峰城を中心に、阿島城などの支城を巧みに配置することで、天竜川東岸(竜東)一帯に強力な支配網を築き上げていたのである。
天文年間、甲斐国から発した武田信玄の勢いは、破竹の如く信濃全土を席巻しつつあった。天文11年(1542年)に諏訪氏を滅ぼして信濃侵攻の橋頭堡を築いた信玄は 22 、次いで上伊那の有力国衆である高遠頼継や福与城の藤沢頼親らを攻略し、その支配領域を着実に南下させていた 27 。そして天文23年(1554年)、信玄は満を持して、伊那谷の最終攻略目標である下伊那へと大軍を差し向けた 9 。
この武田軍の圧倒的な軍事力の前に、下伊那の国衆たちは大きな岐路に立たされた。多くは、抵抗の無益を悟り、早々に武田の軍門に降る道を選ぶ。天竜川西岸の吉岡城を本拠とする下條氏は、武田氏に従属し、その重臣である秋山虎繁の配下として信濃先方衆に組み込まれた 28 。また、飯田の松尾城を拠点とする松尾小笠原氏も同様に武田氏に降り、その支配下で家名を保つ道を選んだ 29 。
表2:武田氏侵攻に対する伊那谷主要国衆の動向比較
豪族名 |
本拠城 |
武田氏への対応 |
結果 |
典拠 |
||
知久氏 |
神之峰城 |
徹底抗戦 |
当主処刑、一時的滅亡 |
|
9 |
|
下條氏 |
吉岡城 |
降伏・従属 |
武田家臣(信濃先方衆)として存続 |
28 |
||
松尾小笠原氏 |
松尾城 |
降伏・従属 |
武田家臣(信濃先方衆)として存続 |
29 |
||
坂西氏 |
飯田城 |
抵抗後、追放 |
知久氏・小笠原氏により追放される |
30 |
この表が示すように、周辺の有力豪族が次々と現実的な選択肢として「降伏」を選ぶ中、知久頼元の決断は際立って異質であった。彼は、信濃守護であった小笠原長時らと連携し、武田氏への徹底抗戦の道を選んだのである 10 。この決断は、単なる軍事力の比較考量から導き出されたものではない。それは、第一部で詳述したように、自らの出自である「神氏」の誇りを蹂躙した信玄への根深い反発心と、信濃武士としての意地とが複雑に絡み合った、極めて信念に基づいた選択であった。知久頼元は、伊那谷における反武田勢力の最後の孤塁として、巨大な敵に立ち向かうことを決意したのである。
天文23年(1554年)、武田信玄の伊那侵攻軍が神之峰城に殺到し、知久氏の存亡をかけた籠城戦の火蓋が切られた。天然の要害に築かれた神之峰城は堅固であり、知久軍は奮戦した。この攻防戦を象徴する伝説として、後世に語り継がれているのが「白米洗馬(はくまいせんば)」の逸話である 31 。
武田軍が兵糧攻めと水の手を断つ作戦に切り替えると、城内の水不足が深刻化した。しかし、知久方は士気の低下を防ぐため、一計を案じる。城兵が馬の背に貴重な白米をかけ、あたかも豊富な水で馬を洗っているかのように見せかけたのである。これを見た武田軍の軍師・山本勘助は、城内の水が尽きていないと誤認し、地団駄を踏んで悔しがったという。この故事から、勘助が陣を敷いた対岸の峠は「ジタジタ峠」と呼ばれるようになったと伝えられる 31 。
この伝説は、籠城側の士気の高さと機知を示すものであるが、同時に、そのような心理戦に頼らざるを得ないほど、知久方が追い詰められていた状況の裏返しとも解釈できる。武田軍は力攻めだけでなく、周辺の神社仏閣や民家を焼き払う焦土作戦を展開し、知久軍の兵站と士気を徹底的に削いでいった 31 。
しかし、この堅固な神之峰城が最終的に陥落した真因は、外部からの圧倒的な軍事圧力だけではなかった可能性が高い。複数の史料が、この戦いにおいて知久一族が内部から崩壊していったことを示唆している。ある記録では、この戦いで知久氏は「家を割った」とされ、「武田に抵抗する当主と、降伏する弟」がいたと記されている 33 。事実、頼元の長子・頼康は城外の戦いで討死したとされるが 32 、次男の頼氏は生き延び、後に武田氏に仕官している 12 。
この事実は、城内において、最後まで徹底抗戦を主張する当主・頼元を中心とする主戦派と、武田に降伏してでも家名を存続させようとする和平派との間に、深刻な対立が存在したことを物語っている。外部からの猛攻と、内部からの不協和音。この二つの圧力に耐えきれず、神之峰城はついに陥落に至ったと考えられる。知久頼元の悲劇は、外敵である武田信玄に敗れただけでなく、一族の分裂という内なる敵にも敗れた結果であったのかもしれない。
天文23年(1554年)、数ヶ月にわたる激しい攻防の末、神之峰城はついに武田軍の手に落ちた。城主・知久頼元は捕虜となり、主だった家臣らと共に甲斐国へと連行された 9 。
信玄は、最後まで抵抗を続けたこの信濃の武将に対し、即座に死を与えることをしなかった。頼元が送られた先は、甲斐の河口湖に浮かぶ「鵜の島」であった 9 。四方を湖水に囲まれたこの孤島への幽閉は、信玄の冷徹な政治的計算に基づく処置であった。生かさず殺さずの状態で晒し者にすることで、信濃国内に未だ燻る反武田勢力に対し、抵抗がいかに無益であるかを見せつけるための、強烈な示威行為だったのである。信玄は、降伏し恭順の意を示した者には寛大な処遇を与える一方で、敵対する者には容赦ない仕打ちをもって臨むという、峻別の方針を徹底していた 34 。
頼元は、故郷の伊那谷を遠く離れた異郷の孤島で、屈辱と絶望の日々を過ごした。そして翌天文24年(1555年)、ついに処刑の時が訪れる。頼元は湖畔の船津(現在の富士河口湖町船津)の地でその生涯を閉じた 9 。享年は不明である。
ここに、神氏の誇りを胸に、巨大な勢力に屈することなく戦い抜いた知久宗家は、一時的に歴史の表舞台から姿を消した。知久頼元の死は、戦国という時代の非情さと、信玄の信濃支配に最後まで抗った者の末路を、鮮烈に象徴する出来事となったのである。
父・頼元の死により知久一族は離散し、滅亡の淵に立たされた。しかし、その血脈は途絶えてはいなかった。頼元の次男・頼氏(よりうじ)は、神之峰城落城の混乱を生き延びていた。彼の前半生は、まさに流転と雌伏の連続であった。
一説には、頼氏は当初信濃を追われたが、元亀年間(1570-1573年)頃に武田氏への帰参を許されたという 12 。父の仇である武田氏に仕えるという屈辱的な選択であったが、それは一族再興の機会をうかがうための唯一の道であった。彼は武田氏配下の信濃先方衆の一員として、伊那郡司・秋山虎繁の与力となり、遠江(静岡県西部)など各地の戦線を転戦した記録が残っている 12 。
転機が訪れたのは、天正10年(1582年)である。織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐で武田氏が滅亡。さらにその直後、本能寺の変で信長が斃れると、甲斐・信濃の旧武田領は主無き地となり、徳川、北条、上杉による争奪戦(天正壬午の乱)が勃発した 6 。この混乱に乗じ、頼氏は機敏に動く。彼は徳川家康に接近し、その支援を取り付けることに成功した 15 。家康の麾下に入った頼氏は、父が失った旧領である神之峰城への復帰を果たし、約30年の時を経て、知久氏は再び伊那谷の地に返り咲いたのである 14 。
しかし、頼氏の運命はあまりにも皮肉であった。旧領回復からわずか2年後の天正12年(1584年)、彼は突如として家康の不興を買い、遠江の浜松城に呼び出され、自害を命じられる 5 。この不可解な粛清の背後には、家康の冷徹な信濃統治戦略があったと考えられる。
天正壬午の乱において、家康にとって頼氏のような在地国衆は、北条氏と対抗するために利用価値のある「駒」であった 13 。しかし、乱が終結し、家康の信濃支配が確立していく段階になると、在地性の強い旧来の領主は、中央集権的な支配体制を築く上で、むしろ潜在的な障害と見なされるようになった。頼氏が旧領回復の過程で、家康の意向を超えた独自の動きを見せたのか、あるいはかつて武田氏に仕えていた経歴が家康の猜疑心を招いたのか、その直接的な原因は定かではない。確かなのは、家康が頼氏を容赦なく排除することで、他の信濃国衆に対し「徳川の支配に完全に従わなければ、いかに功績があろうと未来はない」という強烈な政治的メッセージを送ったという事実である。
知久頼氏の悲劇は、父・頼元の抵抗による死とは質の異なる、新たな支配者の下で生きる在地国衆の危うさと、戦国から近世へと移行する時代の非情さを物語る象徴的な事件であった。
父・頼氏が非業の死を遂げた時、その嫡男・則直(のりなお)はまだ幼かった。再び一族存亡の危機に瀕したが、この時、則直に救いの手を差し伸べたのが、徳川家の重臣・大久保忠世であった 5 。忠世の庇護の下で苦難の時期を耐え忍び、成長した則直は、徳川家臣として家名再興の機会を待ち続けた。
その執念が実を結んだのが、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)である。則直は徳川家康率いる東軍に属して戦功を挙げた 5 。この功績が家康に認められ、慶長6年(1601年)、則直はついに旧領の一部である阿島(現・喬木村)に3000石の所領を安堵され、将軍直属の家臣である旗本として、知久家の再興を成し遂げたのである 8 。
則直は、かつての支城があった阿島の地に新たに陣屋を構えた。これが阿島陣屋である 14 。以後、知久氏は江戸時代を通じて12代にわたり、交代寄合という格式の高い旗本としてこの地を治め、明治維新を迎えるまで家名を伝えた 8 。祖父・頼元が神之峰城で武田信玄に滅ぼされてから約半世紀、そして父・頼氏が徳川家康に粛清されてから十数年。孫・則直の代になって、知久一族はついに安定した地位を確保し、その血脈を未来へと繋いだのである。
神之峰城での滅亡から始まった知久氏の苦難の物語は、阿島の地での再生をもって、一つの結実を見た。それは、戦国の荒波に翻弄されながらも、三代にわたる執念で家名を存続させた、一族の不屈の物語であった。
知久頼元の武田信玄に対する徹底抗戦は、短期的には一族を滅亡の淵に追いやるという悲劇的な結果を招いた。客観的に見れば、それは時代の大きな潮流に抗った、無謀な戦いであったかもしれない。しかし、彼の生涯を「抵抗、滅亡、再生」という一族三代にわたる長い視座から捉え直す時、その歴史的評価は新たな様相を帯びてくる。
頼元の抵抗は、単なる無謀ではなかった。それは、諏訪大社を祖とする神氏としての誇り、そして信濃武士としての矜持に根差した、信念の表明であった。大勢に与せず、己の信じる義を貫こうとしたその気骨は、目に見えぬ遺産として、後の時代の苦難を乗り越える子や孫たちの精神的な支柱となったのではないだろうか。父が命をかけて守ろうとした誇りが、子・頼氏の雌伏の時期を支え、孫・則直の再興への執念を燃え立たせたとも考えられる。
知久一族の物語は、戦国時代から江戸時代へと移行する巨大な社会変動の中で、一つの地方豪族がいかにして存亡をかけて戦い、生き抜いたかを示す、極めて貴重な事例である。祖父・頼元の「抵抗と死」、父・頼氏の「再生と悲劇」、そして孫・則直の「苦難の末の再興」。この三代にわたる軌跡は、歴史の非情さと、それに屈しない人間の強靭な意志を我々に教えてくれる。
知久頼元の生き様は、戦国という時代の過酷さの中に埋もれた、無数の地方武将たちの声なき声の代弁でもある。彼の物語は、今も飯田・下伊那の地に点在する神之峰城跡や阿島陣屋跡、知久氏ゆかりの寺社、そして「知久町」という地名の中に、静かに息づいている 24 。天竜川の風が神之峰の尾根を吹き抜ける時、我々はそこに、巨大な力に屈することなく、己の誇りをかけて戦い抜いた一人の武将の姿を垣間見ることができるのである。