最終更新日 2025-07-24

石川康通

石川康通は徳川家康の従甥。掛川城主として高天神城攻防で活躍。関ヶ原では清洲城を守備し、美濃大垣5万石を得た譜代の忠臣。

徳川譜代の鑑、石川康通の生涯 ― 忠誠と激動の時代 ―

序章:石川康通という武将 ― 忠誠の譜代、その実像に迫る

徳川家康の天下統一事業を支えた数多の譜代家臣団にあって、石川康通(いしかわ やすみち)という武将は、その堅実な功績に比して、歴史の表舞台で語られる機会は決して多くない。彼の名は、しばしば徳川家を揺るがした従兄・石川数正の劇的な出奔事件や、関ヶ原の戦いにおける戦功、美濃大垣藩の初代藩主といった断片的な事実と共に言及されるに留まる 1 。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、戦国乱世から江戸初期という激動の時代を、主君への揺るぎない忠誠心をもって生き抜いた一人の譜代大名の姿が浮かび上がってくる。

本報告書は、石川康通に関する既存の情報を網羅的に整理・分析し、その出自から武功、大名としての統治、そして人物像に至るまで、生涯の全容を多角的に検証することを目的とする。特に、利用者から提示された「高天神城の戦い」「関ヶ原」「大垣城主」といったキーワードを基点としながら、それらの事象をより深い歴史的文脈の中に位置づける。さらに、彼のキャリアに決定的な影響を与えたであろう石川数正の出奔が康通の立場に如何なる変化をもたらしたのか、そして巷説として語られる「キリスト教帰依」説の信憑性は如何ほどのものか、史料に基づき徹底的に考察し、石川康通という武将の歴史的実像を明らかにしたい。

第一章:三河石川氏の系譜と康通の出自

石川康通の人物像を理解する上で、彼が属した石川氏の出自と、徳川家との特別な関係性を把握することは不可欠である。

1-1. 清和源氏を祖とする名門、石川氏

三河の石川氏は、その祖を清和源氏義家流に遡る由緒ある武家である。源義家の子・義時の子である義基が河内国石川郡石川荘を領して石川氏を称したことに始まるとされる 3 。その後、一族は三河国に移り住み、代々松平氏(後の徳川氏)に仕える譜代の家臣となった 3

1-2. 父・家成の存在と徳川家との血縁

康通の父・石川家成(いえなり)は、単なる徳川家の重臣ではなかった。彼の母・妙春尼(みょうしゅんに)は、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)の実の姉妹であった 6 。すなわち、家成は家康の母方の従兄にあたり、康通は家康にとって従甥(じゅうせい)という極めて近しい血縁関係にあった。この強固な血の繋がりこそが、石川家成・康通父子が家康から寄せられた絶大な信頼の源泉であった。

家成は、家康が今川氏の人質であった時代から仕える古参の譜代であり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際には、自身も熱心な一向宗の信徒でありながら浄土宗に改宗してまで家康への忠誠を誓った 6 。その忠勤が認められ、酒井忠次と並んで西三河の旗頭(諸士を指揮する司令官)に任じられるなど、家康初期の覇業を支えた中心人物の一人であった 6

1-3. 石川数正との関係 ― 本家と分家の力学

徳川家臣団の中で筆頭家老として重きをなし、後に豊臣秀吉のもとへ出奔して歴史に名を刻んだ石川数正は、康通の従兄にあたる 2 。数正の父・康正と、康通の父・家成は兄弟である。しかし、三河一向一揆の際に数正の父・康正が一揆側に与したのに対し、家成は家康方について戦功を挙げたため、石川家の家督は家成の系統が継ぐこととなった 12 。これにより、数正は石川家の主流から外れる形となり、叔父である家成の下で家康に仕えることになった 3 。この一族内における複雑な力学と家督問題は、後に数正が徳川家を去る遠因の一つになったとも考えられ、康通の生涯を語る上で見過ごすことのできない背景となっている。

この血縁関係は、単なる系譜上の事実以上の意味を持つ。後に従兄の数正が一族全体を揺るがす出奔事件を起こした際、家康が石川一族を見限ることなく、むしろ康通の家系を一層重用し続けた最大の理由がここにある。家康の信頼は、家臣の能力や功績だけでなく、裏切られる可能性が低い血縁という強固な絆にも基づいていたのである。

表1:石川氏関連略系図

人物名

続柄・備考

水野忠政

於大の方、妙春尼の父

┣ 於大の方

徳川家康の生母

┃ ┗ 徳川家康

┗ 妙春尼

石川清兼の妻、石川家成の母

┗ 石川清兼

石川家成、康正の父

┣ 石川康正

石川数正の父

┃ ┗ 石川数正

康通の従兄。徳川家を出奔し豊臣家に仕える。

石川家成

康通の父。家康の従兄。徳川家の重臣。

石川康通

本報告書の主題人物

第二章:徳川家臣としての武功 ― 対武田氏防衛線の主軸へ

石川康通の武将としてのキャリアは、徳川家が最も過酷な状況に置かれていた対武田氏との攻防戦の最前線で始まった。

2-1. 若き日の武名

康通は天文23年(1554年)に生まれた 1 。彼の初陣に関する具体的な記録は乏しいが、天正元年(1573年)、20歳の若さで武田勝頼率いる軍勢との戦いで武名を挙げたと伝えられている 2 。この時期、徳川家は三方ヶ原の戦いでの大敗から立ち直り、武田氏の遠江・三河への侵攻に必死の抵抗を続けていた。このような緊迫した状況下で武功を立てたことは、彼が若くして武将としての才覚を示していたことを物語る。

2-2. 遠江掛川城主として

天正8年(1580年)、父・家成が隠居したことに伴い、康通は27歳で家督を相続し、遠江掛川城主となった 1 。掛川城は、もともと今川氏の拠点であったが、永禄12年(1569年)に家康が今川氏真を降伏させた後、父・家成が城主として入っていた 6 。この城は、武田氏の遠江支配の牙城であった高天神城と直接対峙する、徳川方にとっての最前線基地であった 14

家康がこの軍事的に極めて重要な拠点を、家督を継いだばかりの康通に任せたという事実は、彼を単なる血縁者としてではなく、有能な指揮官として高く評価していたことを示している。父・家成の補佐があったとはいえ、この抜擢は康通自身への大きな期待の表れであった。

2-3. 高天神城を巡る攻防と康通の役割

「高天神を制する者は遠江を制す」とまで言われた高天神城は、徳川・武田両軍の間で複数回にわたり壮絶な争奪戦が繰り広げられた戦略的要衝であった 18 。天正2年(1574年)の第一次高天神城の戦いで武田勝頼の手に落ちて以降、その奪還は家康の悲願であった。

天正8年(1580年)から始まった第二次高天神城の戦いにおいて、家康は力攻めを避け、城の周囲に複数の砦(高天神六砦)を築いて徹底的な兵糧攻めを行う作戦に出た 21 。この長期にわたる包囲作戦において、後方の掛川城は、兵站の維持、連絡網の確保、そして武田軍の援軍に対する警戒という、極めて重要な役割を担っていた。康通は、この緊迫した状況下で掛川城を堅固に守り、家康の作戦を後方から支え続けた。天正9年(1581年)3月、高天神城はついに落城し、徳川方は遠江の支配権を確固たるものにする。武田氏が滅亡する天正10年(1582年)まで、康通が掛川城を守り抜いたという実績は 14 、彼の武将としての評価を不動のものにした。

第三章:激動の時代と忠誠の試練 ― 従兄・数正の出奔

徳川家が豊臣秀吉との緊張関係にあった天正13年(1585年)、康通のキャリア、ひいては石川一族の運命を決定づける大事件が発生する。

3-1. 石川数正の出奔と徳川家の動揺

天正13年(1585年)11月13日、徳川家の外交・内政を統括し、家康の懐刀とまで言われた筆頭家老・石川数正が、突如として岡崎城を出奔し、対立していた豊臣秀吉のもとへ走った 11 。数正は徳川家の軍事機密や家臣団の内情をすべて知り尽くした人物であり、その出奔は徳川家にとって計り知れない衝撃と危機をもたらした 24 。家康は数正の裏切りを知ると、徳川家の軍制を武田流に急遽変更せざるを得なくなるほど、大きな動揺が走ったと言われている。

3-2. 康通の立場と試された忠誠

一族の長ともいえる数正の出奔により、石川姓を持つ者への風当たりは想像を絶するほど強かったであろう。しかし、康通と父・家成は微塵も動じることなく、家康への忠誠を貫き通した。この逆境は、皮肉にも康通の忠臣としての資質を際立たせる結果となった。

この事件は、康通にとって自らの揺るぎない忠誠心を主君に示す絶好の機会となったのである。「出奔した数正」との鮮やかな対比において、康通は「忠誠を貫いた石川氏」の象徴的存在となった。家康にとって、組織のトップが競合相手に機密情報を持って寝返るという未曾有の危機に際し、組織の引き締めと綱紀粛正は急務であった。その中で、裏切り者と同じ一族でありながら忠節を尽くした康通を抜擢し、目に見える形で厚遇することは、「裏切りは許さないが、忠誠は必ず報われる」という明確なメッセージを家臣団全体に示す、極めて有効な組織マネジメントであった。康通のその後のキャリアは、彼個人の能力評価だけでなく、家康のこうした高度な政治的判断によっても大きく後押しされたと考えられる。

3-3. 家康の関東移封と康通の処遇

天正18年(1590年)、小田原の北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の命により家康が関東へ移封されると、康通もこれに従い、上総国鳴渡(現在の千葉県山武市成東)に二万石を与えられた 1

この移封に伴う家臣団の再編において、康通が徳川家中で確固たる地位を築いていたことを示す決定的な史料が存在する。『寛政重修諸家譜』によれば、家康はこの時、近習や外様の家臣を五組に分け、その長として榊原康政、井伊直政、本多忠勝、平岩親吉といった徳川四天王に数えられる宿老たちと並んで、石川康通を任命している 27 。これは、数正が出奔した後の徳川家臣団において、康通が名実ともに中核を担う重臣として、家康から絶対的な信頼を置かれていたことの何よりの証左である。

第四章:天下分け目の関ヶ原 ― 勝利への確実な貢献

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な大戦において、康通は派手な武功こそないものの、東軍の勝利に不可欠な、確実で重要な役割を果たした。

4-1. 東軍における役割

家康が会津の上杉景勝討伐のために軍を東へ進めると、石田三成らが畿内で挙兵。東西両軍の衝突が避けられない状況となる。この時、康通は東軍の重要拠点である尾張・清洲城の守備を任された 1 。清洲城は、東海道と中山道が交わる交通の要衝であり、美濃・尾張国境の前線基地でもあった。家康率いる東軍主力が西へ向かう中、その後方を固め、兵站線を確保するというこの任務は、地味ではあるが作戦全体の成否を左右する極めて重要なものであった。

また、関ヶ原の本戦に先立つ8月の岐阜城攻めにおいて、家康が井伊直政・本多忠勝という重臣中の重臣と並べて康通に宛てた書状が存在することから、康通が軍監(軍目付)として前線に赴き、戦況を監督・報告する立場にあった可能性も指摘されている 29

4-2. 佐和山城攻めへの参加と一次史料の記述

9月15日の関ヶ原本戦で東軍が劇的な勝利を収めると、戦いの焦点は西軍の首魁・石田三成の居城である近江・佐和山城の攻略へと移った。康通は清洲城の守備任務を解かれ、この佐和山城攻めに加わった 1

この時の様子は、康通が同僚の彦坂元正と連名で、三河吉田城を守る松平家乗に宛てた慶長5年(1600年)9月17日付の書状に、一次史料として生々しく記録されている 30 。その内容は以下の通りである。

「去る十四日赤坂に着陣され、十五日巳の刻(午前9時から11時頃)関ヶ原へさしかかり、一戦に及ばれました。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四名は、十四日の夜五つ時(午後7時から9時頃)に大垣城の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一つになって打ち寄せました。…小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠と祐滋の父子、この四人が御味方になり、裏切りをされました。そして敵は敗軍となり、追撃により際限なく討取りました。…また十六日に佐和山へさしかかり取り囲み、田中吉政が水の手を取り、本丸へ押しかけると、石田正澄父子・三成の舅 宇多頼忠父子・三成の親 石田正継・妻子一人も残らず斬り殺し、天守に火を懸け悉く焼き払い落城しました。」 30

この書状は、関ヶ原の本戦が午前10時頃に始まったこと、小早川らの裏切りが決定打となったこと、そして戦後の佐和山城における石田一族に対する凄惨な掃討作戦の実態を伝えている。康通がこのような公式な戦況報告の連署者に名を連ねている事実は、彼が単なる一戦闘員ではなく、戦果を確認し、その情報を伝達する中枢的な立場にあったことを示している。これは、家康が彼を深く信頼し、戦後処理という重要な局面においてもその能力を高く評価していたことの証である。

第五章:美濃大垣藩、初代藩主として ― 西軍の拠点から譜代の要へ

関ヶ原の戦いにおける一連の功績により、石川康通は徳川政権下で譜代大名としての地位を確固たるものにした。

5-1. 大垣五万石への入封

慶長6年(1601年)、康通は戦功を賞され、それまでの上総鳴渡二万石から、美濃大垣五万石へと大幅に加増移封された。これにより、大垣藩が立藩し、康通はその初代藩主となった 1

この配置には、極めて重要な政治的・軍事的意図があった。大垣城は、関ヶ原の戦いにおいて石田三成ら西軍の主力が本拠地とした城であり、西軍の象徴ともいえる場所であった 33 。その地に、家康が譜代の重臣である康通を送り込んだことは、旧西軍勢力に対する徳川の威光を示すとともに、京都と江戸を結ぶ中山道の要衝である美濃国を確実に掌握するという、新政権の強い意志の表れであった 34

5-2. 初代藩主としての統治と早世

初代藩主としての康通の具体的な藩政に関する史料は乏しく、その治世の詳細は不明な点が多い。しかし、関ヶ原の戦いで戦場となった美濃の地は疲弊しており、領内の安定化、検地の実施、城下町の整備、そして新たな家臣団の編成など、藩体制の基礎を築くことが急務であったことは間違いない。特に大垣周辺は輪中地帯であり、水害が頻発する地域であったため、治水事業は藩政の重要な課題であったと推察される 37

しかし、藩主としての康通の治世は長くは続かなかった。慶長12年(1607年)7月26日、康通は父・家成に先立ち、54歳でこの世を去った 1

5-3. 異例の家督相続と石川家の存続

康通の死は、石川家に跡継ぎ問題という大きな危機をもたらした。嫡男の忠義はまだ幼く、通常であれば家は無嗣、あるいは幼主を理由に減封や改易となってもおかしくない状況であった。しかし、徳川家康が下した裁定は、極めて異例のものであった。

家康は、一度隠居していた康通の父・家成を呼び戻し、再び家督を継がせて大垣藩の第2代藩主としたのである 6 。さらに、その家成も2年後の慶長14年(1609年)に亡くなると、今度は康通の妹が大久保忠隣に嫁いで産んだ子、すなわち康通の甥にあたる大久保忠総を家成の養子として迎え入れ、石川家の家督を継がせた 7

この一連の措置は、幕府がわざわざ「手間」をかけてまで石川家(家成流)を存続させようとしたことを意味する。これは、家康がいかに康通・家成父子の忠誠に報い、その家名を譜代大名として後世に残すことを強く望んでいたかを示す、何よりの証拠と言えよう。従兄・数正の裏切りという汚名を乗り越え、忠節を尽くした一族を、家康は自らの権威をもって守り抜いたのである。

第六章:信仰を巡る考察 ― キリシタン入信説の徹底検証

石川康通の生涯を語る上で、一部で流布されている「晩年にキリスト教に帰依した」という説について、その信憑性を史料に基づき客観的に検証する必要がある。

6-1. 説を裏付ける直接史料の不存在

まず、結論から述べると、石川康通がキリスト教に入信したことを示す同時代の信頼できる史料は、現在のところ一切確認されていない。当時の日本におけるキリスト教布教の状況を詳細に記録したイエズス会の年報や書簡集などにも、康通の名は見出すことができない 44 。高山右近や小西行長、大友宗麟といった著名なキリシタン大名たちのリストに、石川康通の名が含まれることはない 46

6-2. 仏教徒であったことを示す反証

むしろ、康通が熱心な仏教徒であったことを示す証拠は複数存在する。

第一に、彼の戒名である。「華嶽宗英(かがくそうえい)」あるいは「潔常宗英 寶樹院殿(けつじょうそうえい ほうじゅいんでん)」といった名は、明らかに仏式のものである 2。

第二に、彼の墓所の存在である。和歌山県にある真言宗の総本山・高野山奥の院には、康通の供養塔とされる五輪塔が現存している 49。キリシタンであれば、仏教の聖地である高野山に供養塔が建立されることは考え難い。

6-3. 説の発生源 ― 人物混同の可能性

では、なぜ康通のキリシタン説が生まれたのか。その最も有力な原因として、後世における 人物の混同 が考えられる。

可能性として最も高いのは、康通の従兄・石川数正の嫡男である**石川康長(やすなが)**との混同である。康通(やすみち)と康長(やすなが)は名前の響きが似ており、共に徳川家と関わりの深い大名であったため、混同されやすい。この石川康長は、慶長18年(1613年)に起きた大久保長安事件に連座して改易(領地没収)の処分を受けている 23 。そして、この事件の中心人物である大久保長安は、キリシタンであったという説が根強く存在する人物である 53 。さらに、康長の娘は大久保長安の嫡男に嫁いでおり 23 、康長自身もキリシタン大名と交流があった茶人・古田織部に茶の湯を学んでいた 51

これらの事実を繋ぎ合わせると、「石川」姓の「康」がつく大名が、「キリシタン」の嫌疑がかけられた事件で「改易」された、という情報が、伝播の過程で変容し、本来は無関係であった石川康通の逸話として誤って伝わった可能性が極めて高い。

以上の検証から、石川康通キリシタン説は史料的根拠に乏しく、名前の似た親族とその周辺の事情が混同されて生まれた後世の創作であると結論付けるのが最も妥当である。

終章:石川康通の歴史的評価

石川康通の54年の生涯は、戦国武将にありがちな派手な逸話や、一発逆転の劇的な武功に彩られたものではなかった。しかし、その生涯は、主君・徳川家康に対する揺るぎない忠誠と、与えられた職務を確実に遂行する実直さと堅実さに貫かれていた。

父・家成から受け継いだ家康との強固な血縁と信頼を背景に、康通は徳川家が直面した数々の重要な局面で、常にその期待に応え続けた。対武田氏の熾烈な防衛戦においては最前線の城主として、従兄・数正の出奔という一族最大の危機においては動揺することなく忠節を貫き、そして天下分け目の関ヶ原では、主力の背後を固め、戦後処理を担うという重責を果たした。

彼の存在は、江戸幕府という巨大で安定した統治機構が、石川康通のような、決して歴史の表舞台で脚光を浴びることはなくとも、実直で信頼に足る幾多の譜代大名たちの地道な働きによって支えられていたことを象徴している。

石川康通は、戦国乱世のスタープレイヤーではない。しかし、主君への絶対的な忠誠を生涯貫き、新たな時代の礎を築いた「徳川譜代の鑑」として、歴史の中で正当に評価されるべき武将である。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムを、それを最前線で支えた一人の人間の視点から、より深く理解することに繋がるであろう。


表2:石川康通 略年譜

西暦

和暦

年齢

出来事

石高・役職

1554年

天文23年

1歳

三河国にて石川家成の長男として誕生 1

1573年

天正元年

20歳

武田勝頼軍との戦いで武名を挙げる 2

1580年

天正8年

27歳

父・家成の隠居に伴い家督を相続。遠江掛川城主となる 1

遠江掛川城主

1581年

天正9年

28歳

第二次高天神城の戦いにおいて、掛川城を拠点に後方支援を担う。

1585年

天正13年

32歳

従兄の石川数正が徳川家を出奔し、豊臣秀吉のもとへ走る。

1590年

天正18年

37歳

小田原征伐後、徳川家の関東移封に従い、上総国鳴渡へ移る 1 。家康の近習を統括する五組の長の一人に任じられる 27

2万石

1600年

慶長5年

47歳

関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属す。清洲城の守備を担い、戦後は佐和山城攻めに参加 1

1601年

慶長6年

48歳

関ヶ原の戦功により、美濃国大垣に加増移封。大垣藩初代藩主となる 1

5万石

1603年

慶長8年

50歳

徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。

1607年

慶長12年

54歳

7月26日、父・家成に先立って死去 1

引用文献

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  2. 石川康通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%BA%B7%E9%80%9A
  3. 武家家伝_石川氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mk_isika.html
  4. 姓氏と家紋_石川氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/21-30/isikawa.html
  5. 苗字の由来 橋本氏 山下氏 石川氏 ~家系図作成からご先祖探しの専門サイト https://www.kakeisi.com/roots/myoji_hasimoto.html
  6. 石川家成(いしかわいえなり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%88%90-30494
  7. 石川家成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%88%90
  8. 石川家成(いしかわ・いえなり) 1535~1609 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/IshikawaIenari.html
  9. 石川家成 Ishikawa Ienari - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/ishikawa-ienari
  10. カードリスト/碧/第1弾/碧002_石川家成 - 英傑大戦wiki - アットウィキ (@WIKI) https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/204.html
  11. 石川数正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3
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  13. 石川数正 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89469/
  14. 掛川城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/kakegawajo/
  15. <掛川城(1)> 城郭建造物”御殿(居館)”を巡る-藩主が執務等を行う書院部分 | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12859544192.html
  16. 掛川城(前編)>”家康”のでき事と所縁ある”お城” ”山内一豊時代”の”天守”復元(12A) https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12832438872.html
  17. 遠江 掛川城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/kakegawa-jyo/
  18. 【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦! - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2023/02/04/100000
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  20. 「岡部元信」は家康の遠江攻略を何度も阻み続けた猛将だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/598
  21. 高天神六砦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%85%AD%E7%A0%A6
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  23. NHK大河ドラマ どうする家康 特別編 解説 石川数正は出奔した後どうなったのか? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3BmDeqU2kLc
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