最終更新日 2025-06-07

石川康長

「石川康長」の画像

石川康長の生涯と改易の背景

1. 序論

石川康長とその時代背景の概説

石川康長(いしかわ やすなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた武将であり、信濃国松本藩の第二代藩主である。本稿では、石川康長の生涯、特にその父である石川数正の出奔が彼に与えた影響、松本藩主としての治績、関ヶ原の戦いへの参陣、そして大久保長安事件に連座して改易され配流に至るまでの詳細な経緯と、その後の晩年について、現存する史料に基づいて深く考察を行う。

康長が生きた時代は、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業から徳川幕府の確立へと移行する、日本史上未曾有の激動期であった。この時代、多くの武将たちが中央の政情の変転に翻弄され、その運命を大きく左右された。石川康長の生涯もまた、この時代の特性を色濃く反映しており、彼の人生は当時の武将が置かれた複雑な立場と、時代の荒波の中で生き抜こうとした姿を我々に示している。

本稿の構成と目的

本稿は、まず石川康長の出自と家系を明らかにし、特に父・数正の行動が康長の立場に与えた影響を考察する。次に、松本藩主としての康長の事績、とりわけ松本城の築城と領国経営について詳述する。続いて、関ヶ原の戦いにおける動向と、徳川体制下での彼の立場、そして大久保長安との関係を分析する。さらに、康長の運命を決定づけた大久保長安事件とそれに伴う改易の経緯、その背景にある政治的要因を探る。最後に、配流後の晩年と死に至るまでを追い、彼の生涯を総括する。

これらの検討を通じて、石川康長という一人の武将の生涯を多角的に捉え、彼の実像に迫るとともに、彼が生きた時代の特質を明らかにすることを目的とする。

2. 出自と家系

石川氏の出自と父・石川数正

石川氏は、その祖先が三河国において松平氏(後の徳川氏)に仕えた譜代の家臣であり、康長の父である石川数正(いしかわ かずまさ)は、徳川家康の草創期を支えた重臣の一人として、酒井忠次らと共にその名を列ねていた 1 。数正は、家康が幼少期に今川氏の人質として駿府に送られた際にも近侍し、苦楽を共にしたとされる 3 。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から独立する際には、数正が今川氏真との交渉にあたり、当時今川氏の人質となっていた家康の嫡男・松平信康と、駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を無事に取り戻すという重要な役割を果たした 1 。このように、数正は初期の徳川氏において、軍事・外交の両面で不可欠な存在であった。

しかし、天正13年(1585年)11月13日、数正は突如として主君である徳川家康のもとを出奔し、当時家康と対立関係にあった豊臣秀吉に臣従するという衝撃的な行動に出た 1 。この出奔の理由については、「家康との間に確執が生じたため」という説や、「秀吉の巧みな調略に乗ったため」という説 5 、「秀吉との和睦交渉の条件であった」など諸説が入り乱れており、現代においてもその真相は謎に包まれたままである 1 。数正は徳川家の軍事機密を熟知していたため、彼の出奔は徳川氏にとって計り知れない打撃となり、これを機に徳川軍は従来の三河以来の軍制を武田流に改めることを余儀なくされたと伝えられている 1

康長の生誕と家族構成

石川康長は、天文23年(1554年)に、石川数正の長男として誕生した 7 。母は内藤義清の娘である 7 。幼名は勝千代といい、後に三長(みつなが)、数長(かずなが)とも名乗った 8 。通称は玄蕃頭(げんばのかみ)であり、官位は従五位下式部大輔(しきぶのたゆう)に叙せられている 7

康長には、弟として石川康勝(いしかわ やすかつ)と石川康次(いしかわ やすつぐ)がいた 8 。正室は佐野政綱の姉を迎えており、その間には娘が生まれた。この娘は、後に江戸幕府の代官頭として権勢を振るうことになる大久保長安の長子・藤十郎(とうじゅうろう)に嫁いでいる 8 。この大久保長安家との姻戚関係が、後に康長の運命を大きく左右する伏線となる。

表1: 石川康長 関係者略系図

関係

氏名

備考

石川数正

徳川家康重臣、後に出奔

内藤義清の娘

本人

石川康長

石川康勝

後に兄と共に改易

石川康次

後に兄と共に改易

正室

佐野政綱の姉

子(娘)

(名不詳)

大久保長安の長子・藤十郎室

父・数正の出奔という事実は、康長の生涯に暗い影を落とし続けたと考えられる。徳川家から見れば、数正の行為は紛れもない裏切りであり 1 、その息子である康長は、豊臣政権下では父と共に厚遇されたものの 10 、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が確立されると、常に「裏切り者の子」という潜在的な負い目を背負い、危うい立場に置かれ続けた可能性が高い。史料の中には、石川家の改易に関して「徳川家を裏切った過去を許してはいなかったといえようか」と、この点を指摘するものも見られる 2 。この出自は、康長が徳川幕府から厳しい視線を向けられる素地となり、些細な嫌疑や政争の巻き添えによっても容易に排除され得る危険性を常に内包していたと言えよう。

また、康長の娘と大久保長安の長男・藤十郎との婚姻は、当時の政情を考慮すると、極めて戦略的な意味合いを持っていたと推察される。大久保長安は、江戸幕府初期において佐渡金山や石見銀山などを管轄し、幕府財政を支える代官頭として大きな権力を握っていた人物である 11 。戦国時代から江戸時代初期にかけて、有力な武家同士の婚姻は、同盟関係の強化や家格の向上、あるいは政権中枢との結びつきを深めるための常套手段であった。父・数正の出奔という経緯を持つ石川家にとって、徳川政権下での立場を安定させ、強化する必要性を強く感じていたことは想像に難くない。そのような状況下で、幕府内で急速に影響力を増していた大久保長安との姻戚関係は、石川家の安泰を図るための有力な手段と映ったのであろう。しかし、この政略結婚は、長安の死後にその不正が露見し、長安家が断絶するという事態に至った際、石川家をもその渦中に巻き込む結果となった 9 。これは、当時の不安定な政治状況下における政略の持つ両刃の剣、すなわち大きな利益をもたらす可能性と同時に、破滅的なリスクをも内包していたことを象徴する出来事であった。

3. 松本藩主としての石川康長

父・数正の出奔と豊臣政権下での石川氏

父・石川数正は、徳川家康のもとを出奔した後、豊臣秀吉に臣従し、当初は和泉国に領地を与えられた 3 。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐が終結し、徳川家康が関東へ移封されると、秀吉の命により、数正は信濃国松本(深志)に8万石の領主として入封した 2

数正と息子の康長は、松本の地において、新たな支配拠点として近世城郭としての松本城の築城に着手するとともに、城下町の整備にも力を注いだ 3 。これは、豊臣政権に対する忠誠を示すと同時に、新たな領地における石川氏の支配基盤を確立するための重要な事業であった 10 。特に、数正は徳川家から転身した経緯を持つため、秀吉の期待に応え、その力量を示す必要性を強く感じていたと考えられる。

松本城の築城と城下町の整備

石川数正は、松本城主となって間もなく、文禄元年(1592年)あるいは文禄2年(1593年)に死去したとされ(没年には異説あり) 2 、家督は長男の康長が相続し、松本藩8万石の二代目藩主となった 8

康長は父・数正の事業を引き継ぎ、松本城の普請を本格化させたとされる 10 。現存する松本城天守の建設は、主に康長の代に行われたと考えられている。当時の記録である『信府統記』によれば、康長は天守を建立し、城を囲む総堀を浚渫して幅を広げ、岸を高くして石垣を築き、各所に渡櫓を設け、黒門や太鼓門といった主要な門の楼閣を建設し、塀をかけ直し、三の曲輪の大手門を門楼形式に改めるなど、大規模な城郭の整備を行った 16 。さらに、城内には家臣たちの屋敷を建設し、城外にも武家屋敷を配置するなど、城下町の拡充も進めたと記されている 16

特に松本城の設計においては、当時急速に普及していた鉄砲戦を強く意識した構造が取り入れられた。城内を三重の水堀で囲み、天守の壁を厚くし、鉄砲狭間や矢狭間を多数設けるなど、防御機能の強化が図られた 10 。これらの普請により、松本城は近世城郭としての威容を整え、その後の松本藩の政治的・軍事的中心地としての基礎が固められた。

領国経営とその評価

石川康長の治世における領国経営に関して、民衆に善政を敷いたとする具体的な記録は乏しい一方で、城郭普請に心血を注いだことは明らかである。しかし、その手法には強引な側面があったことも伝えられている。前述の『信府統記』には、康長が城普請を行うにあたり、「公命を得ずして私になす事多し」つまり幕府や上級権力の正式な許可を得ずに独断で事業を進めることが多く、領内の民家や寺社を許可なく取り壊し、資材として利用したり、人民を労役に駆り立てて苦しめたりしたと記されている 9 。さらには、寺社の仏塔の先端にある九輪(金属製の装飾)を取り外して茶釜に鋳潰した、といった逸話まで伝えられている 9

また、別の記録によれば、松本城の太鼓門に据えるための巨大な石を運搬する際、その労役に苦しんだ人足が不平不満を漏らしたことを知った康長は、自らその人足の首を刎ね、その首を槍の先に掲げて「者ども、さあ引け」と叫び、作業を強行させたという凄惨な逸話も伝わっている 8 。これらの記録が全て事実であるかについては慎重な検討を要するものの、康長が目的を達成するためには極めて強権的な手段も辞さない人物であった可能性を示唆している。

松本城の築城は、石川氏にとって豊臣政権への忠誠の証であると同時に、新たな領地における支配権を確立するための象徴的な大事業であった 10 。しかし、康長の代におけるこのような強引とも言える普請の進め方は、領民の間に不満を蓄積させ、後の改易の際に「人民を悩ます悪政」として幕府から罪状の一つとして挙げられる口実を与えた可能性が否定できない 9 。つまり、壮大な城郭の完成は石川氏の権力の誇示であったと同時に、その権力行使のあり方自体が、後に彼らの命運を左右する諸刃の剣であったと言えるだろう。

康長のこうした強権的な逸話 8 は、弱肉強食の戦国乱世を生き抜いた武将の荒々しい気風を未だ色濃く残す人物像を想起させる。しかし、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府による全国統治体制が次第に強化されていく時代においては、そのような個々の大名による恣意的で強圧的な統治スタイルは、旧時代的なものと見なされ、幕府が目指す秩序ある支配体制とは相容れないものとして判断される要因となり得た。時代の変化が求める為政者像に、康長が必ずしも適合できなかった側面が、彼の失脚に間接的な影響を与えたとも考えられる。

4. 関ヶ原の戦いと徳川体制下での動向

関ヶ原の戦いにおける康長の役割

慶長5年(1600年)、豊臣政権内部の対立が頂点に達し、天下分け目の戦いとされる関ヶ原の戦いが勃発した。この戦いにおいて、石川康長は徳川家康が率いる東軍に与して参陣した 9

康長は、当初、家康自身が指揮する会津の上杉景勝討伐軍に従軍した 8 。その後、家康が西国へ転進するにあたり、徳川秀忠(家康の三男、後の二代将軍)が率いる別働隊に配属され、中山道を進軍することになった 8 。秀忠軍は、道中、西軍に属した真田昌幸が守る信濃上田城の攻略を試みたが、昌幸の巧みな戦略により足止めを食らい、結果として9月15日の関ヶ原の本戦には遅参するという失態を演じた。この上田城攻防戦において、石川康長は日野根吉重と共に上田城の支城である冠者ヶ嶽城(かんじゃがたけじょう)を攻撃したが、真田勢の抵抗にあい、攻略に失敗し敗北を喫したと記録されている 8

戦後の活動と徳川幕府との関係

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康が実質的な天下人としての地位を確立した。石川康長は東軍に属したことにより、戦後も信濃松本8万石の所領は安堵され、引き続き松本藩主としての地位を保った。

この時期、康長は江戸幕府内で実力者と目されていた大久保長安との関係を深めていく。史料によれば、康長は関ヶ原の戦いの直前である慶長5年(1600年)8月頃から大久保長安と交渉を持つようになり、戦後は長安配下の有力大名の一人と見なされるようになった 9 。前述の通り、康長は自身の娘を長安の長子・藤十郎に嫁がせ、姻戚関係を結ぶことで、その結びつきを一層強固なものとした 8

それ以前、豊臣政権下においては、康長は文禄3年(1595年)に伏見城の普請を分担し、慶長2年(1597年)には豊臣姓を下賜され、同年10月29日には従五位下式部大輔に叙任されるなど 8 、一定の地位を認められていた。しかし、徳川の世が到来すると、特に大久保長安との緊密な関係が、彼のその後の運命を大きく左右する要因となっていくのである。

関ヶ原の戦いで東軍に属したことは、康長にとって、父・数正の出奔という過去を持つ石川家が徳川体制下で生き残るための最低限の条件であったと言える。しかし、上田城攻めにおける冠者ヶ嶽城での敗戦 8 は、彼の軍事的な評価を高めるものではなく、むしろ徳川家への忠誠をより一層明確な形で示す必要性を感じさせる出来事だったかもしれない。父の「裏切り」という負の遺産を払拭し、新たな支配者である徳川家からの信頼を確固たるものにするためには、戦功を上げるか、あるいは他の形で幕府への貢献を示すことが求められたであろう。この敗戦は、その貴重な機会の一つを逸したことを意味した。

そのような状況下で、大久保長安との関係深化は、徳川幕府内部で急速に影響力を増していた人物との連携を通じて、自藩の安定と自身の地位向上を目指した戦略的な行動であったと考えられる。長安は幕府の財政を担う要職にあり、その恩恵は大きかったであろう 11 。しかし、この緊密な結びつきは、後に長安が失脚した際に、康長自身をもその渦中に巻き込む「もろ刃の剣」となった。これは、江戸幕府初期の未だ不安定で流動的な政治状況下においては、有力者との関係構築が必ずしも安全策とはならず、むしろ大きなリスクを伴うものであったことを示している。

5. 大久保長安事件と改易

事件の経緯と康長の連座

慶長18年(1613年)4月、江戸幕府の勘定頭・代官頭として、全国の金銀山の管轄や検地などに辣腕を振るい、絶大な権勢を誇った大久保長安が病死した 11 。長安の死後、生前の不正蓄財や幕府に対する欺瞞行為が次々と発覚し、世に言う「大久保長安事件」が勃発する。

この事件は幕府に大きな衝撃を与え、徹底的な調査が行われた。その結果、長安の子である嫡男・藤十郎(康長の娘婿)をはじめとする7人の息子たちは切腹を命じられ、大久保長安家は断絶となった 11 。さらに、長安と関係の深かった者たちに対する厳しい追及と処分が進められた。

石川康長は、娘婿が長安の嫡男であったという直接的な姻戚関係に加え、長安と昵懇であったことから、この事件に連座する形で嫌疑をかけられた 9 。そして、同年10月19日、康長は突如として幕府から改易処分を申し渡され、信濃松本8万石の所領は没収された 9 。この際、康長の弟である石川康勝(安曇1万5千石)と石川康次(5千石)も同様に所領を召し上げられ、石川家は事実上、大名としての地位を失うことになった 9

改易の理由と背景にある政治的要因

幕府が公式に挙げた石川康長の改易理由は、複数存在する。主なものとしては、

  1. 大久保長安と共謀し、新田開発によって得られた石高を幕府に過少申告し、隠蔽した罪(『当代記』『慶長年録』に記載) 9
  2. 幕府の正式な許可を得ずに、自身の身分や石高に不相応な規模で松本城の城郭普請を行い、その際に領内の民家や寺社を勝手に取り壊し、資材として流用したり、人民を過酷な労役に駆り立てて苦しめたりした罪(『信府統記』に記載) 9
  3. 家老である渡辺金内と伴三左衛門の間で対立が生じ、家中が二つに割れて騒動となったにもかかわらず、藩主としてこれを適切に収拾することができなかった統治能力の欠如 9

これらの罪状が挙げられたが、これらの理由が全て真実であったとしても、改易という極めて厳しい処分に至るには、それだけでは説明がつかない側面がある。そのため、これらの理由は多分に表向きのものであり、その背景には江戸幕府初期の複雑な権力闘争が深く関わっていたとする見方が有力である 9

歴史学者の北島正元氏などの研究によれば、大久保長安事件そのものが、当時の幕府内における有力者間の勢力争いと無関係ではなかったとされる。具体的には、徳川家康の世継ぎ問題において二代将軍・秀忠を推した大久保忠隣(ただちか)と、家康の次男・結城秀康を支持したとされる本多正信・正純親子との間の対立が背景にあったという 9 。大久保長安は、元々は武田氏の遺臣であったが、大久保忠隣の庇護を受けて異例の出世を遂げた人物であった 9 。そのため、長安の失脚とそれに続く一連の事件は、本多派による大久保派の勢力削ぎ、あるいは排除を狙った政争の一環であった可能性が指摘されている 9

石川康長は、大久保長安と深い姻戚関係にあり 8 、長安の不正に何らかの形で加担したとされたが、実際にはこの幕府内の政争の渦に巻き込まれ、いわば「見せしめ」として、あるいは政敵排除の余波を受けて改易された可能性が高いと考えられている 9

石川家の改易が意味するもの

石川家の改易は、単に一個人の不正や統治能力の欠如といった問題に留まらず、より大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。石川氏は、父・数正の代に徳川家を出奔し豊臣家に仕えたという経緯を持ち、豊臣恩顧の大名としての側面と、関ヶ原後は徳川家に再び属したものの、譜代大名とは異なる微妙な立場にあった。このような家の来歴に加え、幕府内の政争に巻き込まれた結果としての改易であり、これは徳川幕府による大名統制強化策の一環として解釈することができる 2

江戸幕府は、その成立初期において、全国の大名に対する支配を確固たるものにするため、様々な手段を講じた。その一つが、世継ぎがいないことによる無嗣断絶、武家諸法度などの幕府法令への違反、あるいは家中騒動による統治能力の欠如などを理由として、大名家を取り潰す(改易)あるいは減封(領地削減)するという強硬策であった 19 。石川氏のケースは、これらの複数の要因、すなわち姻戚関係を通じた政争への連座、領国統治における問題点の指摘、そして何よりも父の代からの徳川家との複雑な関係性が絡み合った結果と言えるだろう。

大久保長安事件における石川康長の改易は、彼個人の罪状の軽重以上に、江戸幕府がその初期において権力基盤を確立し、全国の大名に対する統制を強化していく過程で起こった政治的粛清の側面が強かったと言わざるを得ない。幕府は、大久保長安のような幕府直属の有力者や、彼と縁故関係にある石川康長のような大名を見せしめとして厳しく処分することで、他の大名に対して幕府の権威を示し、服従を促す効果を狙ったと考えられる 9

そして、この厳しい処分が石川康長に向けられた背景には、父・石川数正の徳川家からの出奔という、いわば石川家にとっての「原罪」とも言うべき過去の出来事が、徳川幕府の潜在的な不信感として康長の代に至ってもなお残り続けていた可能性が指摘できる 2 。一度主君を「裏切った」と見なされた家系は、たとえその子が新たな体制下で忠勤に励んだとしても、些細な嫌疑や政争の巻き添えによって、他の家よりも容易に排除され得る危険性を常に抱えていたのである。大久保長安事件という絶好の口実が生じた際、幕府にとって、かつての裏切り者の家系である石川家を処断することは、他の譜代大名や関ヶ原以来の忠臣の家を処断する場合に比べて、政治的・心理的な抵抗が少なかったであろうことは想像に難くない。このように、康長自身の行動や大久保長安との関係だけでなく、父の代からの家の歴史的背景が、改易という悲劇的な結末に至る重要な伏線となっていたと考えられる。これは、個人の運命がいかに家の歴史的負託によって左右されるかという、近世武家社会の非情な一面を示している。

6. 配流後の晩年と死

豊後佐伯への配流と毛利氏預かりの生活

慶長18年(1613年)10月、改易処分を受けた石川康長は、弟の康勝、康次と共に豊後国佐伯(現在の大分県佐伯市)へと配流されることになった 9 。彼らの身柄は、佐伯藩の初代藩主である毛利高政(もうり たかまさ)に預けられることとなった。毛利高政は、同年に石川康長らの身柄を引き受けている 21

配流された康長は、佐伯城下の後田(うしろだ)と呼ばれる地に幽閉され、不自由な生活を送ったと伝えられている 22 。かつて信濃松本10万石(実際には8万石と弟たちの分を合わせて)を領した大名であった康長にとって、この配流生活は精神的にも物質的にも極めて過酷なものであったと想像される。

信仰と最期

そのような逆境の中にあって、石川康長は深く信仰に心の支えを求めたとされる。彼は熱心な真宗(浄土真宗)の信者であった 8 。石川家は、その先祖である石川政康が本願寺第八世・蓮如上人と共に東国で真宗の布教活動に尽力したと伝えられるほど、代々一向宗(真宗)の篤い信仰を持つ家柄であった 15 。康長もその伝統を受け継ぎ、配流された際にも肌身離さず念持仏を持参し、日々礼拝を欠かさなかったという 8

長い配流生活の後、寛永19年12月11日(グレゴリオ暦では1643年1月30日)、石川康長は配流先の豊後佐伯において、その波乱に満ちた生涯を閉じた 7 。享年は89歳であったと記録されており 8 、当時としては非常に長命であった。

墓所と遺品

石川康長の墓所は、現在の大分県佐伯市城下東町に位置する真宗大谷派の寺院、法輪山善教寺(ほうりんざん ぜんきょうじ)にある 8

康長が配流先で日々礼拝していたとされる念持仏は、彼の死の直前に、預かり主であった毛利家の家臣・伊沢六右衛門(いざわ ろくえもん)に託されたと伝えられる 8 。この念持仏はその後、縁戚関係にあった古川家に代々伝来したが、昭和46年(1971年)になって、古川家から康長がかつて藩主を務めた松本市へ寄贈された。現在、この仏像は「石川康長公念持仏」として松本市立博物館に収蔵され、大切に保管されている 8

また、康長は武将としての側面だけでなく、文化的素養も持ち合わせていたことが窺える。弟の康勝と共に、当代一流の茶人であった古田織部(ふるた おりべ)に茶の湯を学んだとされており 8 、彼の娘婿である大久保藤十郎もまた、織部の高弟の一人であったという。

配流先での康長の深い信仰生活は、政治的権力と社会的地位の全てを失った彼にとって、何よりも大きな精神的な支えであったと考えられる。特に、石川家が先祖代々帰依してきた真宗への信仰は、康長のアイデンティティの根幹を成すものであり、筆舌に尽くしがたい逆境の中にあって、心の平静を保ち、生きる意味を見出す上で極めて重要な役割を果たしたのではないだろうか。失意と不遇の中で送った晩年における彼の篤い信仰は、内面的な救いを切実に求める姿を反映していると言える。

そして、康長が最後まで手元に置いていた念持仏が、預かり先の毛利家臣から縁者の古川家へと渡り、数世紀の時を経て、最終的に彼がかつて心血を注いで築城に関わった松本の地に寄贈されたという事実は、歴史の皮肉と、人々の間に紡がれる数奇な縁を感じさせる出来事である 8 。彼が築き上げ、そして追われた松本の地に、彼の信仰の対象であった仏像が、いわば「帰還」したこと。これは、失われた権力や地位とは異なる形で、石川康長という人物と松本の地との間の深いつながりが、後世に示された稀有な事例と言えるだろう。政治的な生涯とは別の、文化的な遺品を通じた歴史との静かな再会が、そこにはあった。

7. 結論

石川康長の生涯の総括と歴史的評価

石川康長の生涯は、その父・石川数正の徳川家からの出奔という特異な出自に始まり、豊臣政権下での信濃松本藩主としての活動、そして徳川幕府確立期における大久保長安事件への連座とそれに伴う改易、さらには豊後佐伯への配流という、まさに波乱に満ちたものであった。

松本藩主として、父の事業を継承し、国宝松本城の天守をはじめとする城郭の完成に尽力したことは、彼の治績として特筆されるべき点である 10 。しかし、その城普請における強引とも評される手法や 8 、結果として自身の改易の一因となった幕府の実力者・大久保長安との深いつながりは 9 、彼の政治的判断における危うさや、時代の変化への対応の難しさをも示している。

石川康長の悲劇は、単に彼個人の資質や行動のみに起因するものではなく、江戸幕府成立初期という不安定な政情、幕閣内部の複雑な権力闘争、そして何よりも父の代からの徳川家との因縁といった、より大きな歴史的要因に翻弄された結果であったと言えるだろう。彼の人生は、個人の能力や努力だけでは抗うことのできない「時代の力」と「家の宿命」の影響を色濃く受けていた。

石川康長の生涯は、戦国時代から江戸時代への大きな移行期において、大名家が生き残りをかけて如何に苦闘したか、そして中央政権の意向や政争が、いかに地方大名の運命を容赦なく左右したかを如実に物語る一つの事例として、歴史に記憶されるべきである。彼の物語は、立身出世と失脚が常に紙一重であった戦国末期から江戸初期にかけての武家の世界の厳しさと非情さを、現代に伝えている。

表2: 石川康長 略年表

年号(西暦)

出来事

典拠例

天文23年(1554年)

石川数正の長男として誕生

7

天正13年(1585年)

父・石川数正が徳川家康のもとを出奔し、豊臣秀吉に臣従

1

天正18年(1590年)

父・石川数正が豊臣秀吉の命により信濃松本8万石に入封

10

文禄元・二年頃(1592-93年)

父・数正死去。康長が家督を相続し、松本藩二代目藩主となる

8

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いに東軍(徳川方)として参陣。上田城支城冠者ヶ嶽城攻めで敗退

8

慶長18年(1613年)

大久保長安事件に連座し改易。豊後佐伯へ配流され、毛利高政預かりとなる

9

寛永19年(1642年)

12月11日、配流先の豊後佐伯にて死去。享年89

7

引用文献

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  2. 松本城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/matsumoto.j/matsumoto.j.html
  3. 石川数正出奔!ゆかりの「松本城」へ…戦うための黒い天守にこめた思いは? https://favoriteslibrary-castletour.com/nagano-matsumotojo/
  4. 石川數正- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%95%B0%E6%AD%A3
  5. 3-2 松本城の城主(1) 石川数正・康長 https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/q3_2.pdf
  6. 【どうする家康 記念連載】第十一回 石川数正 信仰と忠義とそして離反 - ぽけろーかる https://pokelocal.jp/article.php?article=1442
  7. 豊臣秀頼の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-20-toyotomi-hideyori-kashin.html
  8. 石川康長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%BA%B7%E9%95%B7
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  10. 松本城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/02/
  11. 大久保長安事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  12. 松本城の歴史 - 松本市ホームページ https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/135/4121.html
  13. 松本城の歴史的価値 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/uploaded/attachment/13330.pdf
  14. 秀吉に寝返った家康側近・石川数正 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10825
  15. 善教寺 http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=2981
  16. 松本城の歴史 - 国宝 松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/about/history
  17. 第23話 ついに来た、石川家改易の沙汰 - 出奔の顛末――石川教正と徳川家康の因縁(上月くるを) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354055006561004/episodes/1177354055124016733
  18. 【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/10/08/180057
  19. 幕府はなぜ大名を取り潰しにするのか?数多くの大名が改易になった理由、幕藩体制の基本原理に基づくタテマエと本音 | JBpress (ジェイビープレス) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/87901
  20. 連載日本史127 江戸幕府(2)|水埜正彦 - note https://note.com/mizunomasahiko/n/n567563de3fc7
  21. 毛利高政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%AB%98%E6%94%BF
  22. 善教寺 クチコミ・アクセス・営業時間|佐伯 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11355222
  23. 善教寺について https://zen-ir.net/about/
  24. 3-2 松本城の城主(1) 石川数正・康長 https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a3_2.pdf