最終更新日 2025-06-07

石川通清

「石川通清」の画像

石川通清:戦国伊予の動乱を駆け抜けた武将の実像

1. 序論:伊予の戦国武将、石川通清

石川通清(いしかわみちきよ)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、伊予国新居郡(現在の愛媛県東部)を拠点とした武将である 1 。彼が生きた時代は、伊予国においては守護大名であった河野氏の権威が大きく揺らぎ、国内の諸勢力が離合集散を繰り返す一方で、阿波の三好氏、土佐の長宗我部氏、さらには畿内を席巻しつつあった織田・豊臣といった強大な外部勢力の影響が色濃く及ぶ、まさに激動の時代であった。このような複雑な情勢下にあって、石川通清は一地方領主として、自領と一族の存続を賭けて、巧みな外交戦略と時には武力による抵抗を展開したのである。

本報告書は、石川通清の出自、その生涯における主君の変遷、彼が展開した戦略、特に婚姻政策や同盟関係の構築、そして彼の死が一族及び周辺地域に与えた影響について、現存する史料や地域に残る伝承を基に多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。通清の生涯は、戦国時代における中小規模の地方領主が直面した典型的な課題、すなわち、強大な外部勢力の狭間でいかにして自立性を保ち、あるいは巧みに従属することで生き残りを図るかという、厳しい選択の連続であった。伊予国が地理的に畿内、中国、九州、そして土佐からの勢力が交錯しやすい位置にあったことは、単一の大名による安定した支配を困難にし、在地領主は常に複数の選択肢と脅威に晒される状況を生み出した。石川通清が河野氏、三好氏、そして長宗我部氏へと主君を変遷させたことは 1 、この不安定な情勢を色濃く反映した、状況適応的な戦略の結果と見ることができる。それは単なる日和見主義として片付けられるべきものではなく、限られた情報と資源の中で、一族の存続という至上命題を追求したリアリズムの表れであったと解釈できよう。

以下に、石川通清の生涯を概観するための略年譜を示す。

表1:石川通清 略年譜

年代

出来事

関連する主君・勢力

主な典拠

天文元年(1532年)

石川伊予守(通昌か)の嫡男として伊予国にて誕生。幼名、虎千代 2

1

弘治2年(1556年)

阿波国の三好氏の娘(一説に三好長慶の娘)を娶る 3

三好長慶

1

元亀3年(1572年)

三好氏(三好長慶かその一族)の伊予侵攻に際し、案内役を務める。これ以前に河野氏から離反する動きがあったとされる 5

三好長慶、河野氏

1

天正6年(1578年)頃

長宗我部元親に臣従。長男・勝重が元親の姪(親泰の娘)を娶る 2

長宗我部元親

1

天正7年(1579年)

石川氏が伊予国宇摩・新居二郡の豪族を掌握していたとされる 6 。近藤長門守の子が人質として土佐へ送られる 7

長宗我部元親

6

不明(通清の活動期)

高尾城を築き、一族の石川源太夫に守らせる。源太夫は後に謀反の疑い等で暗殺される(おたちきさん伝承の元となる) 8

8

天正12年(1584年)10月17日

死去。享年53。墓所は愛媛県西条市中野の保国寺 1

長宗我部元親

1

天正13年(1585年)

羽柴秀吉による四国攻め(天正の陣)。通清の義弟・金子元宅が、通清の子・虎竹丸を擁して豊臣軍と戦うも敗北。虎竹丸は土佐へ逃れる。長男・勝重は戦死 1

豊臣秀吉(小早川隆景)、長宗我部元親(金子元宅)

1

この略年譜は、石川通清の生涯における主要な出来事と、彼を取り巻く勢力関係の変遷を概括的に示したものである。彼の行動の一つ一つが、当時の四国、特に伊予における複雑な政治・軍事状況の中で下された決断であったことがうかがえる。

2. 石川通清の出自と伊予石川氏

石川通清という人物を理解する上で、彼が属した伊予石川氏の成り立ちと、彼自身の家族構成を把握することは不可欠である。伊予石川氏は、戦国時代の伊予国東部に一定の勢力を持った一族であり、そのルーツは伊予国外にあったとされる。

伊予石川氏の祖は、備中国(現在の岡山県西部)の石川左衛門尉の子である石川伊予守と伝えられている 1 。具体的には、大永2年(1522年)に備中国から石川虎之助という人物が伊予国新居郡の高峠城に入ったのが、伊予石川氏の初代とされている 2 。この虎之助が後に伊予守通昌を名乗ったと考えられている。備中における石川氏は、清和源氏の流れを汲むとも言われるが、全国に点在する他の石川氏(例えば陸奥石川氏や、徳川家康に仕えた三河の石川氏など)とは系統を異にする可能性も指摘されており、伊予石川氏はこの備中石川氏から分かれた家であるとされている 10 。戦国時代において、武士団が主家の衰退や新たな活躍の場を求めて本拠地を離れ、他国に移住して新たな勢力を築く例は枚挙にいとまがない。伊予石川氏の備中からの移住も、当時の中国地方における尼子氏、大内氏、そして後には毛利氏といった大勢力間の覇権争いという不安定な情勢を背景に、伊予での新たな勢力拡大の機会を求めた結果であった可能性が考えられる。

石川通清の父は、石川伊予守通昌(みちまさ)とされる 1 。天文20年(1551年)の金子文書には、高峠城主として石川備中守通昌の名が見えることから、通昌が伊予石川氏の当主として活動していたことが確認できる 11 。しかし、伊予石川氏の初期の系譜、特に初代とされる虎之助、通昌、そして通清の関係性やそれぞれの活動時期については、史料によって記述に若干の混乱が見られる 12 。例えば、ある資料では虎之助を通昌の嫡男とし、通清を通昌の弟と推測するものもあるが 12 、別の資料では通清は伊予守(通昌を指すか)の嫡男として記載されている 1 。このような系譜に関する情報の錯綜は、地方豪族の記録が中央の有力大名ほど体系的に整備されていなかったことや、後世に編纂された家譜や軍記物が多く、それぞれの編纂意図や伝承の混入によって記述に差異が生じた可能性を示唆している。特に、伊予石川氏の関連人物には「虎」の字を持つ名(虎之助、虎千代、虎武、虎竹丸など)が散見されるが 1 、これは一族の通字や尚武的な意味合いがあったのかもしれないが、結果として人物の特定や系譜関係の解明を一層困難にしている側面もある。

石川通清自身は、天文元年(1532年)に、石川伊予守(通昌か)の嫡男として伊予国で誕生したとされている 1 。幼名は虎千代といい 2 、別名として四郎虎武とも称した 1 。彼の妻は、弘治2年(1556年)に迎えた阿波国の三好氏の娘である 1 。これは、当時畿内から四国にかけて強大な勢力を誇った三好長慶の娘とも伝えられており 3 、この婚姻は石川氏の政治的立場を大きく左右する重要な出来事であった。通清の子としては、長男の勝重(かつしげ、後に通勝とも名乗る) 1 、そして虎竹丸(とらたけまる、後の石川伝兵衛通利)の名が知られている。虎竹丸については、通清の次男とする説と、長男勝重の子とする説がある 1 。また、通清には複数の娘がおり、そのうちの一人は、後に石川氏の運命に深く関わることになる金子備後守元宅(かねこもといえ)に嫁いでいる 1

以下に、石川通清を中心とした伊予石川氏の主要な関連人物とその関係性を示す。

表2:伊予石川氏 主要関連人物一覧

人物名

読み

石川通清との関係

備考

主な典拠

石川伊予守通昌 (虎之助か)

いしかわ いよのかみ みちまさ (とらのすけか)

父(とされる)

伊予石川氏初代または二代。高峠城主。

1

石川備中守通清 (四郎虎武)

いしかわ びっちゅうのかみ みちきよ (しろうとらたけ)

本人

高峠城主。本報告書の主題。

1

三好氏の娘

みよしし の むすめ

阿波三好氏出身。三好長慶の娘との説あり 3

1

石川刑部勝重 (通勝)

いしかわ ぎょうぶ かつしげ (みちかつ)

長男

長宗我部元親の姪を娶る 2 。天正の陣で戦死したと伝わる 1

1

石川虎竹丸 (伝兵衛通利)

いしかわ とらたけまる (でんべえみちとし)

次男(または勝重の子)

天正の陣後、土佐へ逃れる。後に土佐藩士となる 2

1

(娘)

金子備後守元宅に嫁ぐ。

1

金子備後守元宅

かねこ びんごのかみ もといえ

娘婿(義弟)

新居郡の有力国人。天正の陣で石川氏を率いて奮戦。

1

石川源太夫

いしかわ げんだゆう

一族(とされる)

高尾城主。謀反の疑い等で暗殺され、「おたちきさん」伝承の元となる 8

8

この一覧は、石川通清を取り巻く人間関係を概観するものであり、特に婚姻を通じた他家との結びつきは、戦国時代の地方領主が勢力を維持・拡大する上で極めて重要な戦略であったことを示している。

3. 石川通清の生涯と事績

石川通清の生涯は、伊予国における勢力図の変遷と深く結びついている。彼は、河野氏、三好氏、長宗我部氏という、時代ごとに伊予に影響力を持った大勢力との関係性を変化させながら、自らの勢力基盤である新居・宇摩郡の維持と拡大に努めた。

通清の活動初期においては、伊予国の伝統的な守護大名であった河野氏に家臣として仕えていた 1 。主君としては、河野通直やその子通宣の名が挙げられている 1 。しかし、河野氏の勢力が次第に衰退し、阿波から三好氏が勢力を伸張してくると、通清の立場も変化を見せ始める。弘治2年(1556年)、通清は阿波三好氏の娘を妻に迎える 1 。この婚姻は、金子十郎の仲介によるもので、三好長慶の娘であったとも伝えられており 3 、石川氏にとって極めて大きな戦略的意義を持つものであった。当時、三好長慶は畿内から四国にかけて広大な版図を築きつつあり、その威光は伊予にも及んでいた。この強力な後ろ盾を得たことで、石川氏の地域における発言力は増大したと考えられる。その結果、通清は旧主である河野氏に対して離反的な動きを見せるようになる。『予章記』などの記録によれば、通清が三好勢を手引きしたことにより、河野氏の一族(または有力家臣)である河野通吉に攻められ、一時的に詫びを入れるという事態も発生している 1 。この出来事は、通清が単に主家に従順な家臣ではなく、自立的な判断で行動する領主であったこと、そして河野氏との関係が単純な主従関係ではなかったことを示唆している。

元亀3年(1572年)には、三好長慶(あるいはその一族。長慶自身はこの時期には既に没しているため、三好実休など他の三好一族の可能性が高い)が伊予に侵攻した際、通清はこれに協力し、案内役を務めたとされている 1 。これは、三好氏との同盟関係が具体的な軍事行動として結実したことを示すものであり、河野氏に対する明確な敵対行為とも解釈できる。しかし、その三好氏も長慶の死後、内部対立や織田信長の台頭により急速に勢力を弱めていく。

三好氏の衰退と入れ替わるように土佐から勢力を拡大してきたのが長宗我部元親であった。四国統一を目指す元親の力は伊予にも及び、石川通清もやがてその支配下に組み込まれることとなる 1 。この主君の変更は、単なる変節と見るべきではなく、伊予東部におけるパワーバランスの変化を敏感に察知し、それに対応しようとした結果と捉えるべきであろう。天正6年(1578年)頃には、通清の長男である石川勝重が長宗我部元親の姪(元親の弟・吉良親貞(後に親泰と改名)の娘)を娶ることで、長宗我部氏との関係を一層強化している 2 。これは、三好氏との関係構築と同様に、婚姻政策を通じて新たな主君との結びつきを固め、一族の安泰を図ろうとした戦略の継続であった。天正7年(1579年)の段階では、石川氏は宇摩・新居二郡の在地豪族を掌握するほどの地域的影響力を保持していたとされる 6 。しかし、その一方で、近藤長門守(通清の娘婿か、あるいは甥とされる人物)の子である彦太郎が人質として土佐の元親のもとへ送られたという記録もあり 1 、長宗我部氏の支配下において、石川氏が一定の自律性を保ちつつも、基本的には従属的な立場にあったことがうかがえる。

石川通清の権力基盤となったのは、伊予国新居郡に位置する高峠城(たかとうげじょう)であった 1 。この城は元々、高外木城(たかとぎじょう)とも称され、新居・宇摩二郡における中心的な城郭であったとされている 12 。その築城については、享禄年間(1528年~1532年)に石川通清自身によってなされたという説もあるが 9 、それ以前からの長い歴史を持つ城であるとも伝えられている 12 。高峠城の支城として重要な役割を果たしたのが高尾城(たかおじょう)である。この城は、石川通清が近隣の剣山城主であった黒川元春への備えとして築き、一族の石川源太夫に守らせたとされる 1

しかし、この高尾城を巡っては、石川一族内部の緊張関係をうかがわせる悲劇的な事件が発生している。高尾城主であった石川源太夫は、次第に本城である高峠城の石川通清(あるいはその周辺の重臣たち)を軽んじるようになり、一説には謀反が露呈したとも、あるいは単に主家との対立が深まったとも言われるが、結果として重臣たちによって暗殺されてしまった 1 。この事件は、後に「おたちきさん」という祟りの伝承として地域社会に語り継がれることになる 8 。この「おたちきさん」伝承の存在は、石川源太夫の死が非業のものであり、その出来事が地域の人々に強い衝撃と畏怖の念を残したことを物語っている。また、この事件は、石川氏の支配体制が必ずしも盤石ではなく、一族内部や有力家臣との間に潜在的な対立構造が存在した可能性を示唆しており、権力の集中と分散の過程で生じうる内部抗争の一例と見ることができる。

4. 石川通清の最期と石川氏のその後

石川通清の生涯は、天正12年(1584年)10月17日に幕を閉じる。享年53であった 1 。その死因は病死とされており、臨終に際しては平生から心を傾けていた禅法に思いを致し、筆を執って何かを書き残そうとしたとも伝えられている 7 。彼の墓所は、愛媛県西条市中野にある保国寺に現存している 1

通清の死は、石川氏にとって、そして伊予国東部の情勢にとって、極めて大きな転換点となる。なぜなら、彼の死の翌年、天正13年(1585年)には、天下統一を目前にした羽柴秀吉による四国平定戦、いわゆる「天正の陣」が開始されるからである 1 。この時、石川氏の家督を継いでいたのは、通清の子である虎竹丸であったが、彼はまだ幼少であった( 1 では通清の次男、 2 では天正6年生まれで当時8歳とされ、 9 では「石川若竹丸」と記されている)。指導者であった通清を失い、幼い当主を戴くことになった石川氏は、この未曽有の国難に直面することになる。もし通清が存命であれば、その政治力と経験をもって、天正の陣において異なる対応や結果を導き出せた可能性も否定できない。彼の不在は、石川氏の抵抗力を削ぎ、姻戚関係にあった金子氏への依存度を高めたと考えられる。

四国平定軍の主力として伊予に侵攻してきたのは、毛利輝元の叔父にあたる小早川隆景率いる大軍であった 13 。石川氏は、主君である長宗我部元親方の一翼として、この豊臣軍に抵抗することになる。その指揮を執ったのは、通清の娘婿であり、虎竹丸にとっては義理の叔父(または義兄)にあたる金子備後守元宅であった 1 。金子元宅は、幼い虎竹丸を擁し、高峠城を拠点として勇猛に戦ったと伝えられている 9 。しかし、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に、衆寡敵せず、金子元宅をはじめとする多くの将兵が討死し、城は落城した。この絶望的な状況の中、金子元宅は石川氏の血脈を絶やさぬよう、虎竹丸を土佐の長宗我部元親のもとへ逃すことに成功した 1 。これは、滅亡に瀕した一族が、最後の望みを託して血統を繋ごうとする執念の現れであったと言えよう。一方で、通清の長男であり、本来であれば家督を継ぐ立場にあった石川勝重は、この天正の陣において金子元宅と運命を共にし、戦死したと伝えられている 1 。石川勝重の戦死と虎竹丸の生存は、石川氏の嫡流と、その後存続することになる系統との運命の分岐点となった。

土佐へ逃れた虎竹丸は、その後、石川伝兵衛通利と名を改めた 2 。長宗我部氏が改易された後は、波乱の生涯を送ることになる。まず伊予に戻り、新たに入封した福島正則に仕え、三百石の知行を得た。しかし、福島氏が改易されると、今度は肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の松平丹後守に仕官する。だが、ここも故あって致仕し、寛永19年(1642年)、再び土佐の地へと戻った 2 。土佐では、本山八助や安養寺吉右衛門といった人物の斡旋により、土佐藩主山内忠義に召し出され、拾人扶持を与えられた。その後、正保3年(1646年)には二百石に加増され、御馬廻という役職に就いた。慶安元年(1648年)、70歳で病死したと記録されている 2 。虎竹丸(伝兵衛通利)のその後の経歴は、主家を失った武士が新たな仕官先を求めて各地を流転するという、戦国末期から江戸初期にかけての武士の典型的な生き様を示すものである。最終的に、父・通清が仕えた長宗我部氏の旧領であり、自身も幼少期を過ごした可能性のある土佐の地に落ち着いたことは、彼の人生の終着点として象徴的である。ある考察によれば、彼が金子元宅と同じ「伝兵衛」という仮名を名乗ったのは 2 、自らを庇護し、石川氏の血を繋いだ元宅への深い敬愛の念と、かつての故郷である新居・宇摩の記憶を後世に繋ぐという意志の表れであったのかもしれない。石川伝兵衛通利の子孫は、その後も土佐藩士として続き、石川彦左衛門通貞、石川小左衛門通政といった名が記録に残っている 2 。こうして、伊予の戦国領主としての石川氏は終焉を迎えたが、その血脈は土佐の地で武士として存続していくことになったのである。

5. 石川通清に関連する伝承と史料

石川通清とその一族の歴史を辿る上で、彼らに関する史料や地域に残る伝承は不可欠な手がかりとなる。これらの史料や伝承は、歴史的事実を伝えるだけでなく、当時の人々が石川氏やその周辺で起きた出来事をどのように認識し、記憶してきたかをも示している。

特に興味深い伝承として、愛媛県西条市周辺に伝わる「おたちきさん」が挙げられる 8 。これは、石川通清が高尾城の守将として配置した一族の石川源太夫(伝承では大太刀君とも呼ばれる)が、主家(高峠城の石川氏)に背いたか、あるいはその疑いをかけられて謀殺され、その祟りを恐れた人々によって祀られたというものである 8 。伝承によれば、源太夫とその主従七名の亡骸は椋の木の下に埋められ、夜な夜な七人みさきとなって騎馬で現れ、それに遭遇すると祟りに遭うとされた。また、源太夫が討たれたのが端午の節句の日であったため、その地域の家々では鯉のぼりを揚げると暴風雨に見舞われるといった禁忌も伝えられている 8 。この「おたちきさん」伝承は、単なる怪談として片付けることはできない。石川源太夫の非業の死という歴史的背景(とされるもの)が、地域社会において強い印象と畏怖の念をもって記憶され、世代を超えて語り継がれる中で、様々な民俗的要素と結びつき、独自の文化的記憶として形成されたものと解釈できる。それは、公式の歴史記録からはうかがい知ることのできない、民衆レベルでの歴史認識の一端を示す貴重な事例と言えよう。この伝承の存在は、石川氏の支配が必ずしも安定したものではなく、一族内部に深刻な対立や粛清が存在した可能性、そしてその出来事が地域社会に与えた衝撃の大きさを物語っている。

石川通清に関する記述が見られる主要な文献史料としては、まず『予章記』が挙げられる。これは、伊予の守護大名であった河野氏の事績を中心に編年体で記述した史料であり、応永元年(1394年)頃に原型が成立したとされるが、後世の加筆も多いとされている 5 。『予章記』には、石川通清が三好氏と結んで河野氏に反旗を翻した経緯などが記されており 5 、河野氏側から見た石川氏の動向を知る上で参考になる。しかし、その記述、特に平安末期以前に関しては荒唐無稽な内容も多く含むと評価されており 14 、戦国期の記述についても、河野氏の立場からの視点が強く反映されている可能性を考慮する必要がある。

次に重要な史料として『澄水記』がある。これは貞享元年(1684年)に刊行された軍記物で、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国攻め(天正の陣)における、金子備後守元宅の奮戦ぶりを中心に描いている 8 。伊予石川氏の歴史、特に天正の陣における動向についても言及があり 8 、石川氏と金子氏の関係性を知る上で貴重な情報を提供する。ただし、この書物は事件から約100年後に編纂されたものであり、軍記物特有の文学的脚色や誇張が含まれている可能性を念頭に置いて利用する必要がある。例えば、ある研究では、『澄水記』編纂以降に書かれた『天正陣実録』が、史料に基づいて『澄水記』の内容を補訂している可能性が指摘されている 16

その他、断片的ながら一次史料に近い情報を含む可能性のあるものとして「金子文書」が挙げられる。これには、天文20年(1551年)に高峠城主として石川備中守通昌の名が見える記録などが含まれている 11 。また、『西條誌』 16 、『保國寺縁起』 12 、『伊豫温故録』 12 、『小松邑志』 12 といった、江戸時代に編纂された地域の地誌や寺社の縁起などにも、石川氏に関連する記述が散見される。これらの史料は、特定の出来事や人物に関する詳細な情報を提供してくれる場合がある一方で、それぞれの編纂年代や性格、編纂者の立場を十分に考慮した上で、慎重な史料批判を行うことが不可欠である。

石川通清に関する史料の多くが、河野氏側の記録、敵対もしくは従属した側の記録(長宗我部氏関連の史料は間接的なものが多い)、そして後世に編纂された軍記物や地誌が中心であり、石川氏自身が主体的に残した記録は極めて乏しいのが現状である。このため、彼の人物像や戦略を再構築する際には、これらの断片的かつ多様な視点を持つ史料を丹念に比較検討し、それぞれの史料が持つバイアスを認識した上で、行間を読み解いていく作業が求められる。

6. 結論:石川通清の歴史的評価

石川通清は、戦国時代の伊予国東部、特に新居郡・宇摩郡において、その時々の強大な外部勢力である河野氏、三好氏、そして長宗我部氏との関係性を巧みに操りながら、一定の地域的勢力を保持した注目すべき地方領主であった。彼の活動は、婚姻政策を軸とした外交戦略と、時には武力を用いた抵抗によって特徴づけられる。その動向は、伊予国東部の勢力図に少なからぬ影響を与え、特に三好氏の伊予侵攻や長宗我部氏による四国統一の過程において、無視できない役割を果たしたと言える。しかしながら、彼の死後間もなく訪れた豊臣秀吉による天下統一という、日本史における巨大な構造転換の波に抗うことはできず、石川氏(少なくとも伊予における領主としての石川氏)は最終的にその独立性を失い、一族は離散と再編の道を辿ることとなった。

石川通清の生涯は、戦国時代における典型的な地方豪族の生き様を映し出している。それは、絶え間なく押し寄せる外部勢力からの圧力と、限られた情報、資源、そして選択肢の中で、一族の存続という至上命題をいかにして達成するかという、切実な努力の連続であった。彼が主君を次々と変遷させたこと 1 は、近世以降の儒教的倫理観に基づけば「不忠」と断じられるかもしれない。しかし、当時の武士社会の行動原理、とりわけ中小規模の領主が生き残りをかけて繰り広げた現実的な選択という観点から見れば、それはむしろ、変化する状況に柔軟に対応し、何よりもまず「石川家」という共同体の存続を最優先しようとしたプラグマティズムの表れであったと評価すべきであろう。彼の選択は、その時々の政治情勢に対する現実的な対応であり、その戦略性と、同時にそれに伴う限界性の両面から多角的に考察される必要がある。

石川氏が伊予の領主としての地位を失い、その子孫が土佐藩士として新たな道を歩んだことは、戦国時代の終焉と近世的な幕藩体制への移行期において、数多くの中小武士団が経験した運命を象徴している。石川通清の物語は、ローカルな視点、すなわち伊予国新居郡という限定された地域史の中で彼が果たした役割を詳細に追うことの重要性と同時に、彼の運命が最終的には四国全体、さらには天下統一というマクロな歴史の潮流によって大きく左右されたという事実を我々に示している。高峠城を拠点に新居・宇摩郡で一定の影響力を持った 1 というミクロな視点と、彼の戦略が常に三好氏や長宗我部氏といった広域勢力との関係の中で展開され 1 、最終的には豊臣秀吉による全国統一事業の一環である四国攻めによってその領主権が失われた 1 というマクロな視点の双方から考察することによって、初めて石川通清という武将の歴史的意義がより深く理解されるのである。それは、いかに有能な地方領主であっても、より大きな政治的・軍事的変動の前には抗いがたいという、戦国乱世の厳しさを改めて浮き彫りにするものである。

引用文献

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  15. 予章記(よしようき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%88%E7%AB%A0%E8%A8%98-3094885
  16. 金子城の激戦(前半戦) - 金子備後守元宅と天正の陣 https://tenshonojin.jimdofree.com/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%99%A3-%E6%88%A6%E8%A8%98/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%82%99%E5%BE%8C%E5%AE%88%E5%85%83%E5%AE%85-%E7%99%BD%E7%9F%B3%E5%8F%8B%E6%B2%BB/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0-%E9%87%91%E5%AD%90%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%BF%80%E6%88%A6-%E5%89%8D%E5%8D%8A%E6%88%A6/
  17. 西条歴史発掘 ~覚法寺と石川織部正~ http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history45.html