本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた武士、石田重成(いしだしげなり)の生涯について詳述するものである。石田重成は、豊臣政権下で五奉行の一人として権勢を誇った石田三成の次男として生を受けた。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける父三成の敗北と死は、重成の運命を大きく狂わせることとなる。落人として追われる身となった重成は、津軽氏の庇護のもと、名を杉山源吾と改め、北の地、津軽で新たな人生を歩むこととなった。
重成の生涯は、戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という激動の時代において、敗軍の将の子が辿る過酷な運命を象徴している。しかし同時に、その困難を乗り越え、新たな土地で家名を後世に伝えたという点において、稀有な事例として歴史的な注目に値する。石田三成という著名な武将の影に隠れがちではあるが、重成の人生を丹念に追うことは、敗者の側から見た歴史の一側面を明らかにし、当時の武家社会における「家」の存続のあり方や、人間関係の重要性など、多くの示唆を与えてくれる。
本報告書では、現存する史料に基づき、石田重成の出自、関ヶ原の戦い後の流転の経緯、津軽藩における後半生、そして彼の子孫である杉山家の動向に至るまでを詳細に解明することを目的とする。これにより、歴史の大きな転換期を生きた一人の武士の姿を浮き彫りにし、その歴史的意義を考察する。
石田重成の人生は、父・三成が豊臣政権の中枢で活躍した華やかな時代に幕を開ける。しかし、その前半生は、やがて訪れる激動の運命を予感させるものではなかった。
石田重成は、豊臣秀吉の信任厚く、五奉行の一人として政権の中枢を担った石田三成の次男として、天正十七年(1589年)頃に誕生したとされる 1 。母は宇多頼忠の娘で、皎月院(こうげついん)と称した 1 。重成には、兄に石田重家、妹に辰姫(たつひめ)がいたことが確認されている 1 。辰姫は後に津軽信枚(つがるのぶひら、津軽為信の三男)の室となっている 1 。
重成が生まれた天正十七年頃は、父・三成が秀吉政権下でその行政手腕を遺憾なく発揮し、近江佐和山十九万石の城主となるなど、その権勢が頂点へと向かっていた時期にあたる 3 。このような環境下で、重成は武家の子息として何不自由ない幼少期を過ごしたと推察される。将来は父の跡を継ぐか、あるいは豊臣家に仕える道が当然のように期待されていたであろう。しかしながら、史料には重成の幼少期に関する具体的な記録は乏しく、その詳細な動静は不明な点が多い。これは、彼が歴史の表舞台に本格的に登場する以前の、比較的平穏ではあるが記録には残りにくい時期を過ごしていたことを示唆しているのかもしれない。この時期の安定した生活が、後の過酷な運命との大きな落差を生み、彼の人格形成に少なからぬ影響を与えた可能性は否定できない。
石田重成 略歴
以下に、石田重成の基本的な情報をまとめる。
石田重成は、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼に小姓として仕えていたことが記録されている 1 。当時の小姓は、主君の身辺警護や雑務をこなすだけでなく、学問の相手や話し相手としての役割も担う、極めて近しい存在であった。父・三成が豊臣家に対して絶対的な忠誠を誓っていたことは周知の事実であり 4 、その子である重成が秀頼に近侍したことは、石田家と豊臣家の緊密な関係を象徴するものである。
この秀頼への近侍という経験は、重成自身にとっても、豊臣家への恩顧の念を強く抱く原体験となった可能性が高い。父・三成が関ヶ原の戦いにおいて西軍を率いた最大の動機の一つが、豊臣家の安泰と秀頼の将来を守ることであったことを考えれば、その薫陶を受けた重成もまた、同様の価値観を深く共有していたと見るのが自然であろう。大坂城での日々は、重成のアイデンティティの根幹に、豊臣家への忠誠心を深く刻み込んだと考えられる。後に津軽の地で没した際、その墓石に「豊臣成範」と刻まれたことは 1 、この時期に培われた豊臣家への思慕の情が、生涯を通じて持ち続けられていたことを示唆しているのかもしれない。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いは石田重成の運命を一変させる。父・三成の敗北は、石田家の崩壊を意味し、重成は過酷な流浪の日々を余儀なくされる。
慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原において徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突した。この天下分け目の決戦は西軍の惨敗に終わり、首謀者と目された三成は捕縛され、京都六条河原にて処刑された 4 。三成の居城であった近江佐和山城もまた、東軍の猛攻の前に落城し、石田一族の多くがその運命を共にした 1 。
この敗戦は、石田家にとって文字通り壊滅的な打撃であった。佐和山城の落城は、単に軍事的な拠点を失ったというだけでなく、石田家の社会的地位、財産、そして何よりも一族の安全な生活基盤の全てが奪われたことを意味した。当時まだ十代前半であった重成にとって、それまでの安定した生活は一瞬にして崩れ去り、庇護者を失い、追われる身となるという過酷な現実を突きつけられたのである。父の死と家の没落という事態は、重成のその後の人生に決定的な影響を与えることとなった。
関ヶ原の戦いの敗報と佐和山城落城の知らせは、大坂城にいた重成のもとにも届いた。身の危険を察した重成は、大坂城を脱出する 1 。兄である石田重家もまた、乳母やその父である津山甚内に託され、大坂城(あるいは佐和山城)から脱出し、後に京都の妙心寺に入り出家している 6 。重成の脱出の具体的な状況については諸説あるが、父の旧恩を頼っての行動であったことは想像に難くない。
重成の逃避行を助けたのは、陸奥国津軽の領主であった津軽為信(ためのぶ)、あるいはその子である津軽信建(のぶたけ)であったとされる 1 。『津軽旧記』などによれば、重成は妹の舅にあたる津軽為信の陣屋で保護されたとあるが 5 、より詳細な記録では、為信の長男である信建が乳母の父・津山甚内らと共に重成を若狭国(現在の福井県)を経由して津軽まで逃がしたとされている 1 。津軽為信は、かつて豊臣秀吉による奥州仕置の際、石田三成の斡旋によって所領を安堵された経緯があり、三成に対して深い恩義を感じていた 3 。この三成への恩義に報いるため、為信が子の信建に重成の保護を命じたというのが、最も有力な説である。
戦国時代から江戸初期にかけての武家社会において、「恩義」は極めて重要な価値観であった。主君への忠誠と並び、受けた恩は必ず返すという不文律が、武士たちの行動規範として強く作用していたのである。津軽氏にとって、敗軍の将の子である重成を庇護することは、勝者である徳川方から見れば決してリスクの低い行為ではなかったはずである。しかし、それを敢えて実行したのは、三成から受けた恩義がいかに大きなものであったか、そしてそれを重んじる津軽氏の気風を示すものであったと言えよう。この津軽氏の決断が、石田三成の血脈を(杉山家としてではあるが)後世に繋ぐ上で、決定的な役割を果たすことになったのである。また、この出来事は、父・三成が築いた人的ネットワークや、その人柄の一端を示すものとも解釈できる。
津軽の地に辿り着いた石田重成は、過去を捨て、新たな名前で生きることを決意する。杉山源吾としての後半生は、苦難の中から新たな道を切り拓き、家名を再興する過程であった。
陸奥国津軽に到着した石田重成は、「杉山源吾」と名を改めた 1 。これは、石田の姓を名乗り続けることの危険性を回避し、追っ手から身を隠すための措置であった。「杉山」という姓を選んだ具体的な理由は明らかではないが、石田家とは無関係の姓を用いることで、出自を秘匿する意図があったと考えられる。
当初、杉山源吾こと重成は、津軽氏の保護のもと、深味村(ふかみむら、または深味郷)に約十年間にわたり隠棲したと伝えられている 1 。この慶長五年(1600年)から慶長十五年(1610年)頃までの期間は、徳川家康による幕藩体制の基礎固めが進みつつも、大坂の豊臣家の影響力もなお残存していた時期であり、社会全体がまだ不安定な状況にあった。この隠棲期間は、徳川幕府の政権が安定し、石田の残党に対する追及の目が緩むのを待つという意味合いも含まれていたと推察される。
やがて、杉山源吾は津軽氏(弘前藩)に出仕することになる 1 。当初の隠棲が身の安全を確保するためのものであったとすれば、その後の出仕は、津軽藩が重成を単なる亡命者としてではなく、藩に貢献しうる人材として評価し始めたことを示唆している。父・三成が示した卓越した行政手腕の片鱗を重成もまた有していたのか、あるいは武士としての素養や人柄が認められたのか、具体的な理由は定かではない。しかし、津軽氏にとっては、恩人の子を家臣として取り立てることは、その恩義に報いる形をより明確に示すという意味合いも持ち合わせていたであろう。こうして杉山源吾は、弘前藩士として新たな人生を歩み始めたのである。
津軽藩士となった杉山源吾(重成)は、この地で新たな家族を築いた。妻として朽木氏の娘を迎え、後に柘植氏の娘を後妻としたとされ、長男・杉山吉成(よしなり)、次男・石田掃部(かもん)、三男・杉山嘉兵衛成保(よしやす、またはなりやす)の三人の男子を儲けた 1 。
特に長男の吉成は、弘前藩主津軽信枚の娘(一説には異母妹)を娶り、家老職にまで昇進し、千三百石を知行した 1 。藩主家との姻戚関係は、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、杉山家が津軽藩内で極めて高い地位を確立したことを物語っている。家老職は藩政の枢機に参与する重職であり、吉成自身の能力が高く評価されていたことの証左でもある。興味深いことに、「吉成」の一字は祖父である「三成」に通じるとの指摘もあり 2 、もし意図的な命名であれば、祖父への敬意や記憶を密かに継承しようとしたのかもしれない。吉成の子孫は代々杉山家を名乗り、弘前藩の重臣として明治維新に至るまで存続した 1 。幕命による蝦夷地への出兵の際には、杉山吉成が弘前藩軍の指揮を執ったとの記録も残っている 7 。
一方、次男は「石田掃部」と名乗り、五百石で津軽家に仕えた 1 。関ヶ原の戦い直後には考えられないことであり、石田姓を名乗ることが許された背景には、時代が下り、徳川幕府の支配体制が盤石となり、かつ津軽という中央から離れた土地であったという地理的条件、さらには津軽藩による石田家への特別な配慮があった可能性が考えられる。これは、石田三成の血脈が、一部は旧姓のまま存続したことを示す貴重な事例と言えよう。
このように、石田重成の子孫たちは津軽の地で確固たる地位を築き、杉山家として、また一部は石田姓を名乗りつつ、家名を後世に伝えたのである。これは、重成個人の努力や能力に加え、津軽藩側の積極的な庇護と登用があったこと、そして時代の変化が複合的に作用した結果と言えるだろう。
杉山源吾こと石田重成の死没に関しては、いくつかの説が存在し、その晩年の詳細は必ずしも明確ではない。
一つの説として、慶長十五年(1610年)四月二十八日に若くして亡くなったというものがある 1 。この説に従えば、津軽に逃れてから約十年後、比較的早い時期にその生涯を閉じたことになる。
しかし、より有力視されているのは、寛永十八年(1641年)に五十三歳で没したという説である 1 。この説では、重成は慶長十五年頃まで深味村に隠棲した後、江戸に出府し、その後亡くなったとされる 1 。子供たちが成長し、津軽藩でそれぞれ活躍する時期を考慮すると、重成がある程度の年齢まで生存していたと考える方が、杉山家のその後の繁栄との整合性が取れるため、この寛永十八年没説が支持されることが多い。「出府」という記述は、参勤交代制度が確立していく中で、津軽藩の藩士として江戸に赴いた可能性を示唆している。
さらに、三男である杉山嘉兵衛成保の系統に伝わる『杉山系図』には、重成が藤堂高虎に仕え、伊勢国(現在の三重県)で死去したという記述も見られるが、これについては史料的な裏付けが乏しく、真偽は不明とされている 1 。もしこの説が事実であれば、重成が津軽藩を離れ、新たな仕官先を求めたことを意味し、その人生にさらなる複雑な側面があったことを暗示するが、現時点では憶測の域を出ない。
このように、重成の最期については複数の情報が錯綜しており、断定は難しい。しかし、いずれの説を取るにしても、彼が津軽の地で一定期間を過ごし、その血脈が同地で受け継がれていったことは確かである。
石田重成の生涯は、単に敗将の子の流浪譚に留まらない。その生き様と、彼が残したものは、後世にいくつかの重要な問いかけと影響を与えている。
青森県弘前市にある宗徳寺には、杉山源吾こと石田重成とその一族の墓が現存する。特筆すべきは、重成の墓石に「杉山源吾豊臣成範」と刻まれていることである 1 。父・石田三成自身は、豊臣の姓を名乗ることを豊臣秀吉から公式に許されたという確たる記録は見当たらない。それにもかかわらず、その子である重成(あるいはその子孫)が、墓石という公的な記録物とは異なるものの、永く残るものに豊臣姓を刻んだことの意味は深い。
江戸時代において、豊臣姓を公式に名乗ることが許されていたのは、秀吉の正室・北政所の実家である木下家など、ごく限られた家のみであった 1 。徳川の治世下にあって、かつての敵対勢力であった豊臣家の姓を、たとえ墓石であっても用いることは、潜在的な危険を伴う行為であった可能性も否定できない。この「豊臣成範」という刻銘は、公には憚られる豊臣家への忠誠心や思慕の情を、死後の世界において、あるいは私的な領域において表明しようとしたものと解釈できる。「成範(しげのり)」という名は、重成(しげなり)の音にも通じるものであり、自らが豊臣家の一員であるという意識を、津軽という中央の目が行き届きにくい地で、間接的に示したものかもしれない。
この刻銘は、父・三成の豊臣家への忠義を継承し、また自身が若き日に豊臣秀頼に近侍した記憶を終生持ち続けた重成の、あるいはその遺志を汲んだ子孫の、複雑な心情を物語る貴重な物証と言えるだろう。津軽藩がこれを黙認したとすれば、それは杉山家(旧石田家)に対する特別な配慮の現れであったのかもしれない。
石田三成の次男として生まれたことは、重成の人生に逃れられない宿命を負わせた。関ヶ原の敗北により、彼は追われる身となり、名を改め、故郷を遠く離れた地での隠棲を余儀なくされた。これは、戦国時代の敗将の子が辿る典型的な苦難の道程であった。多くの場合、一族は離散し、あるいは処刑されるなどして、その血脈が途絶えることも珍しくなかった。
しかし、重成の物語はそこで終わらなかった。津軽氏という強力な庇護者の存在、そして彼自身の適応力と、おそらくは父譲りの才覚によって、杉山源吾として新たな人生を切り拓くことに成功した。さらに、その子孫は弘前藩の重臣として家名を存続させ、繁栄を築いたのである 1 。これは、単なる幸運だけでなく、津軽氏の「恩義」を重んじる武士の倫理観、重成とその子孫の努力、そして徳川支配の安定化という時代の変化など、複数の要因が複雑に絡み合った結果と言えるだろう。
石田重成の生涯と杉山家の存続は、歴史における偶然性と必然性の交錯を示す好例である。それはまた、敗者側の視点から歴史を見た場合、必ずしも全ての血脈が断絶するわけではなく、様々な形で困難を乗り越え、新たな歴史を紡いでいく可能性を示している。父・三成が目指した豊臣家の世は実現しなかったが、その子の系統が形を変えて存続したという事実は、歴史の皮肉であり、また一条の光とも言えるかもしれない。
石田重成の生涯は、父・石田三成の劇的な栄光と悲劇の陰にありながらも、それ自体が波乱に満ち、また注目に値するものであった。豊臣政権の重臣の子として生まれ、若くして主君・秀頼に近侍するという恵まれた環境から一転、関ヶ原の戦いを境に、その運命は暗転する。しかし、彼はその過酷な宿命に屈することなく、津軽氏の温情と庇護のもと、杉山源吾として北の大地・津軽で新たな人生を築き上げ、その血脈を後世に繋いだ。
重成の物語は、歴史の大きな潮流の中では一見目立たない存在かもしれない。しかし、彼の生き様を丹念に追うことは、戦国末期から江戸初期という激動の時代転換期における、武士の価値観、家の存続のあり方、そして人間関係の機微や重要性など、多くの具体的な示唆を与えてくれる。特に、父・三成が築いた「恩義」という無形の財産が、子の窮地を救ったという事実は、当時の武家社会における人間関係の深さを物語っている。
また、宗徳寺の墓石に残る「豊臣成範」の刻銘は、徳川の世にあっても消えることのなかった豊臣家への思慕の念を静かに伝え、歴史の敗者の側に立った人々の複雑な心情を垣間見せる。石田重成のような、歴史の表舞台から消え去ったかに見える人物や、敗者側の視点に光を当てることは、歴史を多角的かつ深く理解する上で不可欠である。彼の生涯を辿ることは、大きな歴史事件が個人の運命にいかなる影響を及ぼし、人々がそれにいかに対応したのかを具体的に示し、歴史の解釈をより豊かなものにする。石田重成の物語は、まさにそうした歴史研究の意義を体現していると言えよう。