最終更新日 2025-06-08

磯野員昌

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磯野員昌に関する調査報告書

1. 序論

磯野員昌という武将の概要と本報告の目的

磯野員昌(いその かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、近江国(現在の滋賀県)を主な活動の舞台とした武将である 1 。当初は北近江の戦国大名・浅井氏の重臣としてその武勇を知らしめ、後に浅井氏の滅亡を前に織田信長に降伏し、織田氏の家臣としても活動した。その生涯は、主家の興亡、同盟関係の変転、そして下克上といった戦国時代特有の激動の中で、一人の武将が如何に生き、そして時代に翻弄されたかを示す典型例と言える。

本報告は、現存する比較的信頼性の高い史料や研究成果に基づき、磯野員昌の出自、浅井氏臣従から織田氏配下としての経歴、姉川の戦いにおける活躍、信長との関係、そして晩年に至るまでの動向、さらには家族構成や子孫について詳細かつ徹底的に調査し、その実像に多角的に迫ることを目的とする。特に、彼の武勇を象徴する伝承の実態、織田信長との関係性の変化、そしてそれが彼の運命に与えた影響について深く考察する。

本報告で扱う史料について

本報告を作成するにあたり、織田信長の家臣であった太田牛一によって記された『信長公記』を主要な一次史料の一つとして参照する 1 。その他、各種系図、古文書、後世に編纂された史書や記録、現代の研究論文なども比較検討の対象とし、可能な限り多角的な視点から磯野員昌の人物像を構築することを目指す。ただし、史料によっては記述の偏りや後世の創作が含まれる可能性も否定できないため、情報の信頼性や解釈の違いにも留意し、客観的な記述を心がける。

磯野員昌の生涯を追うことは、戦国時代における武士の生き様の一端を垣間見ることである。主家の盛衰、同盟関係の変化、そして絶え間ない勢力争いという流動的な社会状況は、彼の決断や行動に大きな影響を与えた。彼の選択は、単に個人の資質によるものだけでなく、当時の武士が置かれた厳しい生存競争の中で、一族と自身の存続をかけて下されたものであったと理解する必要があるだろう。

2. 出自と浅井氏への臣従

磯野氏の系譜と員昌の誕生

磯野氏は、近江国犬上郡磯野(現在の滋賀県彦根市磯町周辺)を発祥の地とする一族とされ、古くは北近江の守護大名であった京極氏の家臣であったと伝えられている 1 。京極氏は室町時代を通じて北近江に勢力を有しており、磯野氏がその被官であったことは、浅井氏が台頭する以前の北近江における伝統的な支配構造の一翼を担っていたことを示唆する。

磯野員昌の父は磯野員宗(いその かずむね)とされ、この員宗は磯野氏の一族筋から、当時近江の要衝の一つであった佐和山城(現在の滋賀県彦根市)を本拠としていた磯野員吉(いその かずよし)の養子として迎えられたという 1 。この養子縁組は、磯野家内部における家督相続や勢力基盤の強化に関連する動きであった可能性があり、員昌の家系が佐和山城という戦略的に重要な拠点と深く結びついていたことを物語っている。

員昌自身の生年については、大永3年(1523年)であると記録されている 1 。後述する没年(天正18年、1590年)と享年(68歳)からの逆算とも一致しており 3 、この生年は確度が高いものと考えられる。

浅井氏配下となる経緯

磯野氏が主家としていた京極氏は、戦国時代に入るとその勢力を徐々に弱体化させていく。そのような中で、北近江の国人領主であった浅井亮政(あざい すけまさ、浅井長政の祖父)が急速に台頭し、下克上によって京極氏の支配権を脅かす存在となった。この北近江における勢力図の大きな転換期において、磯野氏は旧主京極氏から離れ、新たに実力者となった浅井氏の配下に加わることとなった 1

この主君の変更は、単に武力による屈服という側面だけでなく、在地領主としての磯野氏が自らの所領と一族の存続をかけて下した戦略的な判断であったと言える。 15 の記述によれば、「元々は北近江の守護京極氏に仕える国人一族であったが、戦国時代となり下剋上の気風が満ちるようになると同じ国人であった浅井氏が力を持ち、やがて京極氏を凌駕するほどの勢力を持つようになった」とあり、この時代の趨勢に従った結果であったことが窺える。佐和山城という要衝を本拠としていた磯野氏にとって、新たな支配者である浅井氏との関係構築は、その勢力下で生き残るための不可欠な選択だったのである。浅井氏にとっても、京極氏旧臣で佐和山城に影響力を持つ磯野氏を味方につけることは、北近江支配を安定させる上で重要な意味を持っていたと考えられる。

3. 浅井氏家臣としての活躍

佐和山城主としての役割

磯野員昌が浅井氏の家臣として歴史の表舞台で明確な役割を担い始めるのは、佐和山城の城代(実質的な城主)に任じられてからである。永禄4年(1561年)、南近江の六角義賢が佐和山城に侵攻し、当時の城代であった百々内蔵介(どど くらのすけ)が戦死するという事態が発生した。この危機に対し、浅井長政は迅速に佐和山城を奪回し、その防衛の重責を磯野員昌に託したのである 5 16 もこの経緯を簡潔に記しており、「浅井家で1561年六角氏から佐和山城を奪い取ったのを機に佐和山城を任される」としている。

佐和山城は、中山道と北国街道が交差し、琵琶湖水運にも接続する交通の要衝であり、特に南近江の六角氏に対する最前線基地としての戦略的価値は極めて高かった。員昌がこの重要な城を任されたことは、浅井家中における彼の武勇と、長政からの信頼の厚さを示すものと言えよう。また、浅井氏の本拠地である小谷城(現在の滋賀県長浜市)の城下には磯野屋敷跡が存在しており 1 、これは員昌が小谷城にも拠点を持ち、浅井氏の中枢と密接な関係にあったことを示唆している。

姉川の戦いにおける武勇と「姉川十一段崩し」の伝承

磯野員昌の名を戦国史に刻む上で最も有名な出来事は、元亀元年(1570年)6月に勃発した姉川の戦いにおける奮戦であろう。この戦いで、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍と激突し、員昌は浅井軍の先鋒として勇猛果敢に戦ったと伝えられる。

6 の記述によれば、「姉川の戦いでは織田軍の内部まで切り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったほどです。しかし徳川家康らの援軍に阻まれ、浅井側は総崩れになりました」とあり、その勇戦ぶりが窺える。この時の員昌の戦いぶりは、後に「姉川十一段崩し」(あねがわじゅういちだんくずし)として語り継がれることとなる 6 。これは、織田軍の堅固な陣形を十一段にもわたって突き破ったというもので、員昌の武勇を象徴する逸話として広く知られている。

しかしながら、この「姉川十一段崩し」の記述は、江戸時代中期以降に成立したとされる『浅井三代記』などに見られるものであり、同時代の史料である『信長公記』などには見られないことから、後世の創作、あるいは脚色が加えられた可能性が高いと指摘されている 8 7 も「あくまで伝説」と付記している。

史実としての正確性には疑問符が付くものの、このような伝説が生まれる背景には、員昌が姉川の戦いにおいて実際に目覚ましい働きを見せ、敵味方双方に強い印象を与えたという事実があった可能性は否定できない。敗軍の中にあって際立った奮戦は、人々の記憶に残りやすく、物語として語り継がれる中で脚色され、英雄譚として昇華されることがある。浅井氏の滅亡という悲劇的な結末と相まって、旧臣や地域の語り部たちがかつての勇将を偲び、その武勇を称える中で、このような伝説が形成・流布されたのかもしれない。したがって、この伝承は、史実そのものではないとしても、磯野員昌が同時代および後世において「猛将」として認識されていたことを示す間接的な証左と解釈することができるだろう。

また、 6 は、員昌が浅井長政を当主にするための計画において遠藤直経らと共に中心的な役割を担い、長政が当主となった後も軍目付(いくさめつけ:戦場における監察役)として従軍し続けたとも伝えており、浅井家中における彼の重要な地位を裏付けている。

4. 織田信長への降伏と織田家臣時代

佐和山城開城と降伏の背景

姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗北した後、織田信長は近江支配を着実に進めていく。浅井氏の本拠地である小谷城と、磯野員昌が守る佐和山城との連絡路は、織田軍が横山城(現在の滋賀県長浜市)を拠点としたことにより分断され、佐和山城は敵中に孤立する形勢となった 1 。兵站線が絶たれ、援軍の期待も薄い中での籠城は、極めて困難な状況であった。

このような戦略的に絶望的な状況下で、元亀2年(1571年)2月24日、織田信長による佐和山城への攻撃が開始されると、磯野員昌はついに降伏を決断し、城を開け渡した 1 。『信長公記』の巻3および巻4にもこの経緯が記されている。 7 によれば、この籠城は半年あまりに及んだとされ、主君浅井長政からの援軍もないままの苦しい戦いであったことが窺える。孤立無援の中での降伏は、員昌にとって苦渋の決断であったろうが、城兵の助命などを考慮した現実的な選択であったとも言える。

降伏後、員昌は佐和山城と引き換えに、近江国高島郡を与えられた 1 。敵将であった員昌に対し、新たな所領を与えるというこの処遇は、戦国時代においても異例の厚遇と言えるものであった 7 。これは、信長が員昌の武勇や、佐和山城という戦略拠点を長期間守り抜いた能力を高く評価した結果である可能性や、あるいは他の浅井家臣団への影響を考慮し、今後の対浅井戦略における員昌の利用価値を見出したためとも考えられる。

近江高島郡の拝領と統治

織田信長に降伏した磯野員昌は、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市一帯)を新たな所領として与えられ、織田氏の家臣となった 1 。しかし、この高島郡における員昌の支配は、安泰とは言えなかったようである。

史料によれば、天正4年(1576年)正月には、織田信長の甥にあたる津田信澄(つだ のぶすみ、織田信勝の子)が高島郡から上洛しており(『兼見卿記』)、また同年12月には朽木(くつき)商人宛に、さらに天正5年(1577年)閏7月には横江崇禅寺(よこえそうぜんじ)宛に、津田信澄が所領安堵状を発給していることが確認されている 1 。これらの事実は、天正4年から5年にかけての時期に、磯野員昌の高島郡における権益が縮小、あるいは実質的な支配権が津田信澄へと移譲されつつあったことを強く示唆している。

12 の記述はこれをさらに裏付けており、天正6年(1578年)2月に信長は磯野員昌を高野山へ追放処分とし、磯野家の養嗣子(後述)であった津田信澄が高島郡に入り、明智光秀の縄張り(設計)によって大溝城(おおみぞじょう)を築城し、その城主となったと記されている。信長はこの大溝城に加え、安土城、坂本城、長浜城の4城をもって琵琶湖の水運ネットワークを完全に掌握しようとした。この信長の戦略構想の中で、員昌の存在は次第に不都合なものとなっていったのかもしれない。

員昌の降伏後の厚遇から一転しての権益縮小、そして最終的な追放という流れは、織田信長の外様大名(元敵対勢力であった武将)に対する政策の一端を垣間見せる。当初はその武勇や影響力を利用価値ありと見て取り込みつつも、中央集権体制を強化していく過程で、徐々にその権力を削ぎ、より信頼の置ける一門や譜代の家臣に重要な拠点を委ねていくという、信長の冷徹な統治戦略が透けて見えるようである。高島郡という琵琶湖西岸の要衝の支配権が、信長の一族である津田信澄に移されたことは、その象徴的な出来事と言えるだろう。

養子・津田信澄との関係

前述の津田信澄は、磯野員昌の養子、あるいは娘婿になったと伝えられている 7 11 および 10 では、津田信澄の養父として柴田勝家の名が挙げられ、義父として磯野員昌の名が記されていることから、員昌の娘を娶った可能性が高いと考えられる。

この縁組は、織田政権下における員昌の立場を安定させるための一つの策であったと同時に、信長側にとっては、旧浅井家臣団の中でも有力者であった員昌を通じて高島郡支配を円滑に進め、また員昌の持つ影響力を織田体制に取り込むための政略的な側面があったと考えられる。しかし、結果としてこの津田信澄の存在が、員昌の権益縮小、さらには追放へと繋がる一因となった可能性は否定できない。

5. 信長との確執と出奔

叱責の原因に関する諸説

織田氏家臣としての磯野員昌の立場は、長くは続かなかった。天正6年(1578年)2月3日、員昌は織田信長の勘気を蒙り、突如として出奔(逐電)したと記録されている 4

その原因について、『信長公記』には「上意を違背申し、御折檻なされ」と簡潔に記されており 7 、何らかの形で信長の命令に背くか、意に沿わない行動をとったために厳しい叱責を受け、それが直接的な引き金となったことがわかる。しかし、具体的に何が信長の逆鱗に触れたのかについては諸説あり、判然としていないのが現状である。

6 は「跡継ぎ問題で織田信長から叱責されたために逃亡」したと記している。これは、前述した津田信澄への高島郡支配権の移行や、磯野家の家督継承を巡る問題と深く関連している可能性が高い。員昌が信長の決定した処遇に不満を抱いたか、あるいは信澄への家督譲渡のプロセスにおいて何らかの不手際や抵抗があり、それが信長の不興を買ったのかもしれない。 12 では、天正6年2月に信長が員昌を高野山へ「追放処分」としたとより具体的に記述しており、これが員昌の出奔の直接的な背景であると考えられる。「追放処分」という言葉の重みは、単なる叱責を超えた厳しい措置であり、員昌が信長の構想にとって障害と見なされたか、あるいは重大な命令違反を犯したことを示唆している。

この天正6年(1578年)という時期は、織田信長が天下統一事業を強力に推進する中で、家臣団に対する統制を一層強化していた時期でもある。例えば、同じ頃には松永久秀や荒木村重といった重臣が信長に反旗を翻し、厳しい討伐を受けている 12 。また、徳川家康の嫡男・信康が信長の命により自刃に追い込まれたのもこの時期である 12 。このような状況下では、信長は自身の意に少しでも沿わない者や、将来的に障害となりうる要素に対して、非常に厳しい態度で臨んでいた可能性が高い。員昌の失脚も、こうした信長の厳格な人事政策や、支配体制強化に伴う一種の「粛清」あるいは「見せしめ」であったという見方も成り立つだろう。

出奔後の動向

信長の勘気を被り出奔した後の磯野員昌の足取りについては、いくつかの伝承が残されている。一つには、高野山に登って出家したという説 4 。信長の不興を買った武将が、その後の身の安全を求めて高野山のような聖域に逃れることは、当時しばしば見られた行動パターンである。もう一つには、磯野氏発祥の地とされる近江国伊香郡磯野村(現在の滋賀県長浜市北部)に蟄居したという説もある 4 。一族の故郷に身を寄せ、静かに隠棲生活を送ったということだろう。

いずれの説も、員昌が政治の表舞台から完全に姿を消したことを示している。さらに、 6 および 1 の記述によれば、天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長とその養子(員昌にとっては義理の息子)であった津田信澄が横死すると、員昌はかつての所領であった高島郡に戻り、帰農して百姓として余生を送ったと伝えられている。

6. 晩年と最期

本能寺の変後の帰農

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件が発生した。この政変は日本の歴史を大きく揺るがし、多くの人々の運命を変えた。磯野員昌もその一人であった。信長だけでなく、員昌の養子(または娘婿)であり、高島郡の領主となっていた津田信澄もまた、この混乱の中で明智光秀の縁者であるという理由から織田信孝らに攻められ、大坂で非業の死を遂げている 10

主君であった信長と、自身の立場を奪う形となった信澄が共に亡くなった後、磯野員昌はかつての所領であった近江国高島郡に戻り、そこで武士としての身分を捨てて帰農したと伝えられている 1 。信長政権の崩壊により、かつての追放処分が事実上無効になったか、あるいは身辺の危険が去ったと判断し、故郷に近い場所で静かに暮らすことを選んだのであろう。かつて「姉川の猛将」と謳われた人物が、百姓として土に生きることを選んだという伝承は、戦国の世の無常と、時代の大きな変化を象徴しているようにも感じられる。それは、度重なる戦乱や権力闘争に疲弊した末の選択であったか、あるいはもはや武士としての野心を失っていた結果なのかもしれない。

逝去

帰農後の磯野員昌の具体的な生活については詳らかではないが、天正18年(1590年)9月10日にその生涯を閉じたと記録されている 1 。享年は68であった。この没年と享年から逆算すると、生年は大永3年(1523年)となり、 1 および 1 に記された生年と一致する。

最期の地については、高島郡で没したとする説のほか、 4 には磯野氏発祥の地である伊香郡磯野村に蟄居し、同地で没した可能性も示唆されている。いずれにせよ、多くの戦国武将が戦場に散ったり、政争に敗れて非業の死を遂げたりする中で、比較的穏やかな最期を迎えたと言えるかもしれない。

なお、 6 には「1573年(天正元年)、小谷城の戦いで織田軍に捕らえられますが、捕虜となることを嫌い、織田信長の目の前で切腹して果てました」という異説が記されている。しかし、これは同資料の他の部分(信長に仕え1578年に出奔したという記述)や、他の多くの史料( 3 4 1 など、1590年没とするもの)と明らかに矛盾しており、信憑性は低いと考えられる。本報告では、天正18年(1590年)没説を採る。

磯野員昌の晩年は、激動の戦国時代を生き抜き、数々の浮沈を経験した一人の武将が、最終的に権力闘争の喧騒から離れて静かに生涯を終えるという、一つの生き方を示している。

7. 家族及び子孫

磯野員昌の血脈は、彼自身の浮沈の激しい生涯とは対照的に、その後も幾筋かに分かれて続いていった。その過程は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の存続戦略の一端を垣間見せる。

磯野員昌 家族構成

関係

氏名

備考

磯野員宗

養父(員宗の)

磯野員吉

佐和山城主

本人

磯野員昌(丹波守)

(史料に明確な記載なし)

磯野行信 (ゆきのぶ)

後に石田三成、藤堂高虎に仕える 1

磯野政長 (まさなが)

2

養子

磯野員次 (かずつぐ)

安養寺氏種の子 2

養子/娘婿

津田信澄 (つだ のぶすみ)

織田信長の甥。員昌の娘婿の可能性が高い 7

小堀正次 (こぼり まさつぐ) の妻 1

小堀政一 (まさかず) (小堀遠州)

員昌の娘と小堀正次の子。著名な茶人、作事奉行 1

磯野行尚 (ゆきひさ)

行信の子か。大坂の陣で藤堂軍として活躍 1

妻子と一族のその後

員昌の配偶者については、現存する史料からは明確な名前を特定することは難しい。しかし、彼には複数の子がいたことが確認されている。実子としては磯野行信、磯野政長の名が伝わっている 2 。また、養子として安養寺氏種の子である磯野員次を迎えている 2 。前述の津田信澄も、員昌の養子(または娘婿)として磯野家と縁戚関係にあった。

員昌の没後、あるいは彼の失脚後、その一族はそれぞれの道を歩むこととなる。特に注目されるのは、息子の磯野行信(雪信とも表記される 14 )とその子孫の動向である。行信は、豊臣政権下で五奉行の一人として権勢を振るった石田三成に仕えた 1 。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで三成が敗れると、行信とその子・幸永(ゆきなが、後の行尚か)は浪々の身となったが、その後、藤堂高虎に召し抱えられたと伝えられる 1 。藤堂高虎は、かつて天正年間(1573年~1592年)に員昌に仕えていた時期があったとされ 1 、旧主の子孫を保護し登用するという、当時の武家社会に見られた主従関係の継続の一形態と言えるだろう。

行信の子とされる磯野行尚は、大坂の陣(慶長19年・20年、1614年・1615年)において藤堂高虎軍に属して戦い、特に慶長20年の八尾・若江の戦いでは豊臣方の勇将・増田盛次(ました もりつぐ)を討ち取るという目覚ましい武功を上げた 1 。これにより、磯野氏は武門としての家名を江戸時代にも繋ぎ、その存在感を示した。

小堀遠州との繋がり

磯野員昌の血筋が後世に与えた影響として、もう一つ特筆すべきは、文化史における重要な人物との繋がりである。員昌の娘の一人は、小堀正次(こぼり まさつぐ)に嫁いだ 1 。そして、この二人の間に生まれたのが、江戸時代初期を代表する大名茶人であり、また優れた作事奉行(建築家・造園家)としても知られる小堀政一(こぼり まさかず)、すなわち小堀遠州(こぼり えんしゅう)その人である 1

小堀遠州は、「綺麗さび」と称される独自の茶風を確立し、江戸幕府の要人として多くの城郭や庭園の設計・作事に携わった。彼の美的感覚は後世の日本文化に大きな影響を与えた。戦国の猛将であった磯野員昌の血が、このような形で江戸時代の文化を牽引する人物に受け継がれていたという事実は、歴史の意外な繋がりを感じさせる。

磯野氏の存続において、津田信澄との養子縁組(または娘婿関係)や、小堀氏との婚姻は、単なる家族形成に留まらず、激動の時代を生き抜くための戦略的な意味合いを色濃く持っていたと考えられる。織田家という中央の強大な権力との結びつきを求め、また、武力だけでなく文化的な影響力も持つ家系との連携を図ることは、磯野家の社会的地位の維持や、新たな時代への適応を模索する上での重要な布石であったのかもしれない。

8. 総括:磯野員昌の評価

戦国武将としての員昌の歴史的意義

磯野員昌は、戦国時代という激動の時代を駆け抜けた武将の一人として、その生涯にいくつかの明確な足跡を残している。浅井氏の家臣としては、特に姉川の戦いにおける勇猛さでその名を馳せ、主家を支える柱石として重きをなした。佐和山城主としての彼の存在は、近江国における浅井氏の勢力維持、特に対六角氏、対織田氏戦略において重要な意味を持っていた。

しかし、時代の大きなうねりの中で、主家浅井氏の滅亡は避けられず、員昌自身も織田信長への降伏と臣従という大きな転換点を経験する。信長配下としての期間は短かったものの、近江高島郡を与えられるなど、その武勇と能力は一定の評価を受けていたことが窺える。一方で、信長の勘気を被っての失脚は、中央集権化を進める織田政権下における外様武将の立場の危うさ、そして信長の厳格な家臣団統制の一端を示す事例と言えるだろう。彼の生涯は、地方の有力武士が、中央の強大な権力の伸張と共に翻弄され、あるいは取り込まれていく過程を体現している。

史料に見る人物像の考察

磯野員昌の人物像は、史料を通じていくつかの側面から捉えることができる。最も広く知られているのは、「姉川十一段崩し」の伝承に代表されるような、勇猛果敢な武将としてのイメージである。この伝説の史実性には議論があるものの、そのような話が生まれる土壌があったこと、すなわち彼が実際に戦場で際立った働きを見せたであろうことは想像に難くない。

一方で、強大な権力者である織田信長との関係においては、最終的にその意に沿わず(あるいは沿えず)失脚しており、政治的な駆け引きや時勢を読む力という点では、必ずしも万全ではなかった可能性も示唆される。信長の勘気を被った具体的な原因が不明な点は多いが、彼の剛直な性格が災いしたのか、あるいは信長の構想と自身の利害が衝突した結果なのか、様々な解釈が可能である。

晩年に帰農したという伝承は、戦国の世の無常を感じさせるとともに、武士としての生き方だけでなく、別の道を選んだ(あるいは選ばざるを得なかった)彼の人間的な側面を垣間見せる。また、娘が小堀遠州の母となったという事実は、彼の血筋が武勇の世界だけでなく、文化の世界にも影響を与えたという意外な一面を物語っている。

史料によって記述に濃淡があり、特に信長との確執の具体的な背景や、出奔後の詳細な動向など、未だ不明な点も少なくない。これらの謎が、磯野員昌という武将に対する興味を一層かき立てる要因ともなっている。

磯野員昌を評価する際には、単に「浅井の猛将」として、あるいは織田方から見れば「降将」としての一面的なレッテルで語るべきではないだろう。彼の置かれた時代状況、主君との関係、そして彼自身の資質や価値観が複雑に絡み合い、その時々の決断や行動に繋がったと考えられる。彼の選択は、戦国という極限状況下における生存戦略であり、その中には武勇、忠誠、打算、そして時には諦観といった、人間的な感情や計算が様々に含まれていたはずである。彼の生涯を多角的に検証することは、戦国時代を生きた一人の武士の実像を理解する上で、そしてその時代そのものをより深く知る上で、重要な意味を持つと言えるだろう。

引用文献

  1. 磯野員昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%87%8E%E5%93%A1%E6%98%8C
  2. 歴史の目的をめぐって 磯野員昌 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-isono-kazumasa.html
  3. 戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【9月20日~26日】 - note https://note.com/takamushi1966/n/nd83f13c67e95
  4. 磯野員昌 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/IsonoKazumasa.html
  5. 佐和山城 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042770.pdf
  6. 浅井長政の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91240/
  7. 佐和山城と磯野さん、そして本能寺 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-11980624501.html
  8. 姉川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  9. 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
  10. 織田信澄とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84
  11. 津田信澄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84
  12. 1578年 – 79年 御館の乱 耳川の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1578/
  13. 荒木村重の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46496/
  14. 【ゆっくり解説】主君である浅井長政に見捨てられた猛将「磯野員昌」の末路 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3UgnLbYZ614
  15. ~浅井の猛将・磯野員昌~ 姉川で見せた十一段崩し - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=2tH-8qvgQPg&pp=ygUNI-ejr-mHjuWToeaYjA%3D%3D
  16. 磯野員昌 | 戦国時代人物名鑑 - Merkmark Timelines https://www.merkmark.com/sengoku/meikan/02_i/isono_kazumasa.html