最終更新日 2025-06-11

祖母井之照

「祖母井之照」の画像

戦国期伊予の武将・祖母井之照と「首なし馬」伝説に関する調査報告

序章:祖母井之照と「首なし馬」伝説 ― 問題の所在

本報告は、戦国時代の伊予国にその名を知られた武将、祖母井之照(うばがい これてる)の歴史的実像と、彼にまつわる「首なし馬」という特異な伝説について、多角的な視点から詳細かつ徹底的に調査・分析することを目的とする。

祖母井之照に関しては、伊予宇都宮氏の家臣であり、祖母井城主であったこと、そして大野直守(あるいは直光)の夜襲によって居城が落城し、愛馬の首をはねて自害したこと、以後、その命日には之照の霊を乗せた首なし馬が走るという怪異譚が伝えられている(ユーザー提供情報)。この悲劇的な最期とそれに続く不可思議な伝承は、本報告における調査の出発点となる。

本調査においては、提供された『愛媛県史』の各巻、各種の城郭研究サイト、郷土史関連資料などを主要な史料として活用する。これらの資料を通じて、祖母井之照個人の事績のみならず、彼が属した祖母井氏の系譜、居城であった祖母井城の歴史と構造、さらには当時の伊予国における諸勢力の動向や、「首なし馬」伝説が生まれた背景とそれが地域社会に与えた影響についても深く掘り下げていく。

祖母井之照に関する情報は、その壮絶な死と「首なし馬」の伝説と分かちがたく結びついている。そのため、歴史上の人物としての実像を追求すると同時に、伝説として語り継がれる中で形成された形象についても考察することが不可欠である。本報告では、これら二つの側面から祖母井之照という人物に光を当て、その全体像を明らかにすることを目指す。

第一章:祖母井氏の淵源 ― 下野国から伊予国へ

祖母井之照の活躍を理解するためには、まず彼が属した祖母井氏の出自と、伊予国へ至るまでの歴史的背景を把握する必要がある。

1. 祖母井氏の起源と下野国における基盤

祖母井氏の発祥の地は、下野国芳賀郡祖母井村、現在の栃木県芳賀郡芳賀町大字祖母井であると伝えられている 1 。その氏族的出自については諸説あるが、有力なものとして、下野国守護宇都宮氏の重臣であった芳賀氏の一族とする説、あるいは千葉氏流大須賀党君島氏の庶流で、君島範胤の子である貞範が祖母井村に住んで祖母井氏を称したことに始まるとする説が挙げられる 2 。後者の説によれば、後に君島胤元の子・貞久(伊予守)が祖母井氏を継いだとされる 3 。いずれの系統であれ、祖母井氏が関東の有力武士団、特に宇都宮氏と古くから深い繋がりを持っていたことが窺える。

下野国における祖母井氏の具体的な動向については断片的な情報しか残されていないが、例えば、宇都宮国綱に従って朝鮮出兵に参加し、その途上で浜松にて客死した可能性が指摘される「祖母井左京亮殿」や、下野国太田(現在の栃木県塩谷郡高根沢町太田)に所領を有していた「祖母井五郎左衛門尉」といった人物の名が史料に見える 3 。これらの記録は、祖母井氏が下野国において武士として活動していたことを示している。

2. 伊予宇都宮氏の成立と祖母井氏の伊予下向

伊予国における宇都宮氏の歴史は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて始まる。伊予宇都宮氏の祖とされる宇都宮豊房は、元徳3年・元弘元年(1331年)頃に伊予国守護として下向し、喜多郡の地蔵ヶ嶽(後の大洲城)を拠点として勢力を築いた 1

祖母井氏の伊予国への移住は、この宇都宮豊房の下向と深く関連していると考えられる。主家である宇都宮氏が新たな任地へ赴く際に、譜代の家臣団を伴うのは当時の武士社会において自然なことであり、祖母井一族の一部も豊房に扈従して伊予へ移り住み、これが伊予祖母井氏の濫觴となったと推測される 1 。この主君に従って新天地へ赴くという行動は、鎌倉時代から戦国時代にかけての武士団の移動と勢力拡大の典型的なパターンを反映している。

3. 祖母井之重と祖母井城の築城

伊予国における祖母井氏の中で、特に重要な人物として祖母井右衛門尉之重(うばがい うえもんのじょう これしげ)の名が挙げられる。伝承によれば、之重は13歳の若さで宇和郡山田城を攻略するという武功を挙げ、その恩賞として粟津郷を与えられ、そこに平松城(後の祖母井城)を築いたとされる 1

一方で、祖母井城の築城年代については、天文年間(1532年~1555年)に伊予宇都宮氏の家臣であった祖母井之重によって築かれたとする説も存在する 2 。この天文年間は、日本各地で戦乱が頻発し、諸大名が領国経営と防衛体制の強化に鎬を削った戦国時代の真っ只中である。祖母井城が、伊予宇都宮氏の本城である大洲城の重要な外郭として機能していたことを考慮すると 2 、之重による築城(あるいは改修)は、宇都宮氏の領国支配における戦略的な軍事拠点整備の一環であったと解釈できる。

ただし、之重の活躍時期(13歳で山田城攻略)と天文年間という築城年代の間には、時間的な隔たりが見られる可能性がある。これが同一人物の事績なのか、あるいは同名の人物が複数存在したのか、あるいは伝承の中で年代が混同されたのか、現存する史料からは断定が難しい。しかし、いずれにせよ祖母井氏の一員が伊予国において城を構え、宇都宮氏の勢力基盤の一翼を担っていたことは確かであろう。

以下に、祖母井氏に関連する主要な出来事を略年表として示す。

表1:祖母井氏関連略年表

年代(推定含む)

出来事

典拠例

鎌倉時代~南北朝時代

下野国芳賀郡祖母井村にて祖母井氏が興る(君島氏庶流などの説あり)

1

元徳3年・元弘元年(1331年)頃

伊予宇都宮氏の祖・宇都宮豊房が伊予国守護として下向。祖母井氏の一部が扈従か

1

14世紀中頃~後半(推定)

祖母井右衛門尉之重、宇和郡山田城攻略の功により粟津郷を得て平松城(祖母井城)を築城

1

天文年間(1532年~1555年)

伊予宇都宮氏家臣・祖母井之重により祖母井城が築かれる(あるいは改修)

2

天正年間初期~(推定)

祖母井之照が祖母井城主として活動

ユーザー提供情報、 2

天正13年(1585年)7月6日

祖母井城落城、祖母井之照自害

2

近世以降

「首なし馬」伝説の流布(『愛媛県史 民俗下巻』などに記録)

2

この年表からもわかるように、祖母井氏の歴史は下野国に始まり、伊予国へと展開し、その中で祖母井之照は戦国時代の終焉に近い時期に悲劇的な最期を遂げた人物として位置づけられる。

第二章:戦国期伊予における祖母井城と祖母井之照

祖母井之照が城主であった祖母井城は、当時の伊予国において重要な戦略拠点の一つであった。

1. 祖母井城の戦略的位置と構造

祖母井城は、現在の愛媛県大洲市春賀甲に位置し、肱川と久米川が合流する地点を見下ろす、比高100メートルから120メートルほどの丘陵上に築かれた平山城、あるいは山城であった 1 。城の遺構としては、主郭を中心に複数の郭(曲輪)が配置され、石積み、土塁、堀切、竪堀などが確認されており、相応の防御機能を有していたことがわかる 1 。特に、主郭は長軸100メートルほどの広さを持ち、多くの建造物を収容可能であったと推測され、城主の勢力を物語っている 7

立地的には、眼下に肱川を望み、水陸交通の要衝を抑える位置にあった。城の東側には当時の街道が通っていた可能性も指摘されており 2 、交通路の監視と支配という点でも重要な役割を担っていたと考えられる。そして何よりも、主家である伊予宇都宮氏の居城・地蔵ヶ嶽城(大洲城)の南方を守る外郭として、その戦略的重要性は極めて高かった 2

2. 城主・祖母井之照の時代

祖母井之照が祖母井城主として活動したのは、天正年間(1573年~1592年)であり、特に落城・自害したのは天正13年(1585年)と記録されている 2 。この時代、伊予国は土佐の長宗我部元親による侵攻、さらには豊臣秀吉による四国平定といった、国内の勢力図を大きく塗り替える激動の渦中にあった。

伊予宇都宮氏の家臣として、祖母井之照はそのような緊迫した情勢の中で、祖母井城の守りを任されていたと考えられる 2 。長宗我部氏の勢力が伊予に伸長してくる中で、宇都宮氏にとって祖母井城は、領国南方の最前線の一つであり、その防衛は極めて重要な任務であったと推察される。之照がどのような人物であったかを示す具体的な史料は乏しいものの、彼が宇都宮氏の重臣として信頼され、この要衝の守りを託されていたことは、その武将としての力量を間接的に示していると言えよう。

第三章:祖母井城の攻防と祖母井之照の最期

天正年間の伊予国は、諸勢力の興亡が激しく、祖母井之照と祖母井城もその戦乱の渦に巻き込まれていく。

1. 天正伊予の乱と祖母井城を巡る攻防

天正年間、土佐の長宗我部元親は四国統一を目指して伊予への侵攻を活発化させていた。伊予国内の在地勢力である河野氏、西園寺氏、そして宇都宮氏などは、この長宗我部氏の強大な軍事力の前に苦戦を強いられていた 10

この時期の伊予宇都宮氏の勢力については、史料によって見解が分かれる部分がある。一説には、1568年(永禄11年)の毛利氏による伊予出兵によって伊予宇都宮氏は滅亡したともされる 11 。しかし、その後も宇都宮豊綱の子である俊綱が長浜に移り住んだという記録や 12 、祖母井之照が1585年に「伊予宇都宮家臣」として戦死したという伝承(ユーザー提供情報、 2 )が存在することから、1568年の「滅亡」は本宗家の当主が死亡または追放されたことを意味し、一族や家臣団が完全に消滅したわけではなかった可能性が高い。戦国時代の地方勢力においては、本宗家が打撃を受けた後も、庶流や有力な家臣が在地領主として一定期間勢力を保持する例は少なくない。祖母井之照の存在は、まさにこの時期における宇都宮氏の残存勢力、あるいはその旧臣による抵抗の様相を示すものと考えられる。伊予宇都宮氏の衰退は段階的なものであり、祖母井之照の悲劇は、その最終局面における出来事と位置づけられるだろう。

2. 大野氏による夜襲と落城

祖母井城を攻め落としたのは、菅田(すげた)の宇津城(うつじょう)主であった大野安芸守直光(おおの あきのかみ なおみつ)であると伝えられている 2 。一部史料では「直守(なおもり)」とも記されているが、『愛媛県史 民俗下巻』など複数の資料で「直光」と明記されていることから 9 、本報告では直光を用いる。

攻撃が行われたのは、天正13年(1585年)7月6日の朝であったとされる 2 。ユーザー提供情報には夜襲であったとの記述もあるが、早朝の奇襲であった可能性も考えられる。いずれにせよ、不意を突かれた祖母井城は激しい攻防の末に陥落したと見られる。

3. 祖母井之照の自害と愛馬

城の陥落を悟った祖母井之照は、降伏して生き永らえる道を選ばず、武士としての最期を迎えることを決意する。伝承によれば、之照は自らの愛馬の首を刎ねた後、自害して果てたとされる(ユーザー提供情報、 2 )。

この、愛馬の首を刎ねるという行為は、当時の武士の死生観や、馬との間にあった特別な精神的結びつきを色濃く反映している。戦国時代の武士にとって、馬は単なる移動手段や戦闘道具ではなく、戦場を駆ける戦友であり、自身の武威を象徴する存在でもあった 13 。愛馬を敵の手に渡すことを潔しとせず、自らの手で葬るという行為には、武人としての誇り、愛馬への深い情、そして最後のけじめといった複数の意味合いが込められていたと解釈できる。

また、自害という選択そのものが、戦国武将が敗北に際して選ぶ「見事な最期」のあり方の一つであった 15 。捕虜となって恥辱を受けることを避けるため、あるいは主家への忠誠を示すために、潔く自らの命を絶つことは、武士道における重要な価値観とされていた。祖母井之照のこの最期は、単なる敗北ではなく、武士としての「死に様」を重んじる当時の価値観を体現したものであり、その悲壮美ゆえに後世に語り継がれることになったと考えられる。

第四章:「首なし馬」伝説の生成と受容

祖母井之照の悲劇的な死は、やがて「首なし馬」という怪異譚として地域に語り継がれることになる。この伝説は、単なる怖い話としてではなく、当時の人々の信仰や死生観を反映した文化現象として捉えることができる。

1. 伝説の具体相と伝承地

「首なし馬」伝説の最も一般的な内容は、祖母井之照の命日とされる旧暦7月7日の早朝、之照の霊を乗せた首なしの馬が、特定のルート、すなわち和田(現在の地名は不明)から春賀(大洲市春賀)の東門寺へ向かって走るというものである 2

この伝説に関連して、東門寺では旧暦7月6日の夜から7日にかけて、本堂の扉をわずかに開けておくという習俗が伝えられている 2 。これは、来訪する之照の霊と首なし馬を迎え入れるため、あるいはその霊を鎮めるための儀礼的な行為であったと考えられる。

また、この伝説には異伝も存在し、首なし馬は毎月の朔日(ついたち)、15日、28日に祖母井城から延尾城へ、あるいは大洲の一木城(いちきじょう)の堂から祖母井城へと走るとも言われている 8

これらの伝承の中心地は、愛媛県大洲市春賀周辺、特に祖母井城跡と東門寺である。

2. 愛媛県内外の類似伝説との比較

祖母井之照の「首なし馬」伝説は孤立したものではなく、愛媛県内や日本各地に類似の伝承が見られる。

表2:「首なし馬」及び類似の首なし武者伝説比較表

伝説名/人物名

地域

主な伝承内容(出現時期、場所、行動など)

背景(死因など)

関連する信仰・習俗

備考(出典など)

祖母井之照の首なし馬

愛媛県大洲市

旧暦7/7早朝、和田→東門寺、首なし馬に乗る

大野直光に攻められ自害

東門寺の扉開け

『愛媛県史 民俗下巻』 9 、他 2

河野通賢の首なし馬

愛媛県松山市

夜々、首なし馬で通う

父により殺害

祠を建て祀る

8

有田児山城勢の首なし馬

愛媛県松山市

夜毎、首なし馬で攻撃

戦死、怨霊となる

縄手筋と呼ばれる

8

夜行さんの首切れ馬

各地

大晦日などに首切れ馬で徘徊

遭遇すると災難

20

トシドンの首切れ馬

鹿児島県甑島

大晦日に首切れ馬で家々を回る

年神

歳餅を与える

21

柴田勝家家臣の首なし武者

(北陸地方か)

命日に首なし武者行列

静ヶ岳の戦いで敗死

22

その他の首なし馬・武者伝説

愛媛県内各地など

特定の日時に出現、祟りや畏怖の対象

非業の死、戦死など

供養のための地蔵や祠

8

これらの類似伝説と比較することで、祖母井之照の伝説に共通するモチーフとして、①非業の死を遂げた人物の強い怨念、②馬という動物が持つ霊的なイメージ、③特定の日時や場所に出現するという怪異のパターン、④祟りや畏怖の対象となる一方で、供養や鎮魂の対象ともなる点、などが挙げられる。これにより、祖母井之照の伝説が日本古来の信仰や物語の類型に連なるものであることが示唆される。

3. 御霊信仰と伝説の解釈

「首なし馬」伝説の背景には、日本の伝統的な信仰である御霊信仰(ごりょうしんこう)の考え方が深く関わっていると見られる。御霊信仰とは、不慮の死や非業の死を遂げた人物の霊(怨霊)が、現世に祟りや災厄をもたらすと信じられ、その怨霊を神として手厚く祀り上げることによって鎮魂し、逆に守護神へと転換させようとする信仰体系である 25

祖母井之照の「首なし馬」も、城を奪われ、愛馬と共に無念の死を遂げた彼の強い怨念が具現化したものと捉えることができる。平将門の首塚伝説 27 や、その他の武将の怨霊伝説 22 に見られるように、強い力を持った人物が悲劇的な最期を遂げると、その霊はしばしば強力な怨霊となり、様々な怪異現象を引き起こすと信じられた。祖母井之照の場合も、①武将としての強い無念、②愛馬を道連れにするという劇的な死に様、③祖母井城や東門寺といった特定の場所との結びつき、といった要素が伝説化を促進し、御霊信仰の枠組みの中で受容されたと考えられる。

東門寺が伝説において重要な役割を果たしている点も、御霊信仰との関連で理解できる。寺院は古来より、こうした怨霊や死者の霊を鎮め、供養する役割を担ってきた。東門寺が旧暦7月6日の夜から7日にかけて本堂の扉を開けておくという習俗は、之照の霊の来訪を拒絶するのではなく、むしろ迎え入れ、丁重に扱うことでその怨念を和らげ、祟りを避けようとする意図の表れと解釈できる。これは、怨霊を単に恐れるだけでなく、祀り上げることで共同体の安寧を保とうとする、日本的な死生観や信仰観を反映していると言えよう。

4. 伝説の民俗学的意義とカタルシス効果

「首なし馬」の伝説は、単なる怪談として消費されるだけでなく、地域社会において重要な民俗学的意義を持っていたと考えられる。

第一に、特定の土地(祖母井城跡、東門寺、特定の道筋)に固く結びついたこの伝説は、地域住民の歴史認識や共同体意識の形成に寄与した可能性がある。祖母井之照という悲劇の武将の物語は、その土地の歴史の一部として共有され、語り継がれる中で、地域の人々のアイデンティティを形成する要素となったかもしれない。

第二に、この伝説の語り継ぎは、一種のカタルシス効果を共同体にもたらした可能性が指摘できる。アリストテレスが『詩学』で論じた悲劇の効用としてのカタルシス(感情の浄化)とは 30 、観客が悲劇を鑑賞し、登場人物の苦難や運命に「恐れ」や「あわれみ」といった強い感情を抱き、それらの感情が高揚した後に精神的な解放感や浄化を得るというものである。祖母井之照の悲劇的な物語と、それに続く「首なし馬」の怪異譚を共同体で共有し、語り継ぐ行為は、戦乱の記憶や死への恐怖、あるいは敗者への同情といった、人々の心にわだかまる様々な情念を追体験させ、それを昇華させる役割を果たしたのではないだろうか。

『平家物語』に代表されるように 32 、敗者の悲劇的な運命は人々の心を強く捉え、同情や「もののあはれ」といった感情を呼び起こす傾向が日本文学には見られる(いわゆる「判官贔屓」の心理 34 )。祖母井之照の伝説もまた、非業の死を遂げた「敗者」への共感がその根底にあると考えられる。その悲劇を「首なし馬」という超自然的な現象として語り継ぐことは、直接的な恐怖だけでなく、その背景にある武士の壮絶な生き様や運命の非情さに対する「あわれみ」や「おそれ」を喚起し、それらの感情を共同体で共有・追体験することを通じて、一種の精神的な浄化作用をもたらしたと推察される。これは、貴種流離譚 35 のように試練を克服して尊い地位を得る物語とは類型が異なるものの、悲劇の受容と感情の昇華という点で、共通の心理的基盤を持つものと言えるかもしれない。

このように、「首なし馬」の伝説は、戦国時代の過酷な現実と、それによって引き起こされた人々の複雑な情念(無念、恐怖、同情、畏敬など)が結晶化したものであり、それを語り継ぐ行為そのものが、共同体の記憶の継承と感情の浄化に繋がっていたと考えられる。

第五章:周辺勢力の動向と祖母井氏のその後

祖母井之照の悲劇は、彼個人の運命であると同時に、当時の伊予国における諸勢力の複雑な関係性と、主家である伊予宇都宮氏の衰亡という大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。

1. 主家・伊予宇都宮氏の衰亡

伊予宇都宮氏は、鎌倉時代末期に伊予国守護として入部して以来、大洲の地蔵ヶ嶽城(大洲城)を拠点としてきたが、戦国時代後期には次第にその勢力を弱めていった 6 。前述の通り、1568年(永禄11年)の毛利氏による伊予出兵を契機として「滅亡」したとする記述もあるが 11 、これは宇都宮氏本宗家の当主が討たれるか、あるいは大洲から追放されるなどして、大名としての統治権を失ったことを指すと考えられ、一族が完全に根絶やしにされたわけではない。実際、宇都宮豊綱の子・俊綱が天文23年(1554年、ただし史料の年代には1533年との記述もあり再検討が必要)に長浜へ移り住み、隠遁したという記録も残っており 12 、一族の一部はその後も伊予国内で存続していたことがわかる。戦国後期の伊予宇都宮氏は、広域を支配する戦国大名というよりも、喜多郡などを勢力範囲とする国人領主としての性格を強めていた可能性も指摘されている 38 。祖母井之照が討死した天正13年(1585年)は、こうした伊予宇都宮氏の段階的な衰退と解体の最終局面に近い時期であったと位置づけられる。

2. 大野氏の台頭と祖母井城攻撃の背景

祖母井城を攻め、祖母井之照を死に追いやった大野安芸守直光は、菅田の宇津城を拠点とする武将であった 2 。この大野氏は、戦国期の伊予喜多郡において重要な役割を果たした一族である。

特に注目されるのは、大野直之(菅田直之とも)とその兄・直昌の動向である。弟の直之は、喜多郡菅田を本拠とし、当初は宇都宮豊綱の重臣であったが、後に豊綱を追放した(あるいは豊綱の死後)とも伝えられ、地蔵嶽城主となった 39 。直之は土佐の長宗我部元親と結び、伊予の最大勢力であった河野氏に対してしばしば反旗を翻した 10 。一方、兄の直昌は久万(上浮穴郡)の大除城主であり、河野氏に忠実な立場をとり、弟の直之とは対立関係にあった 10

祖母井之照を攻めた大野直光と、これらの大野直之・直昌兄弟との具体的な系譜関係は、現存する資料からは明確ではない。しかし、同じく菅田を拠点とする大野一族であることから、何らかの血縁関係があった可能性は高い。そして重要なのは、この時期の大野氏が、長宗我部元親の伊予侵攻と深く結びついていたという点である。

天正年間、長宗我部元親は伊予各地に勢力を拡大しており、在地領主を味方につけるか、あるいは敵対勢力を排除することで、その支配を確立しようとしていた 10 。大野直之が元親と連携していたことから 10 、同じく菅田に勢力を持つ大野直光もまた、長宗我部方の武将として活動していた蓋然性が高い。伊予宇都宮氏は伝統的に河野氏や、時には毛利氏と結びつくことがあり、長宗我部氏にとっては敵対的な勢力と見なされ得た。祖母井城が宇都宮氏の重要な拠点であり、戦略的な位置にあったことを考慮すると、大野直光による祖母井城攻撃は、単なる私闘ではなく、長宗我部氏の伊予経略の一環として、宇都宮氏の残存勢力を排除し、喜多郡における長宗我部方の支配を盤石にするための軍事行動であったと解釈できる。

3. 伊予宇都宮氏滅亡後の祖母井一族

祖母井之照の討死によって、祖母井城主としての伊予祖母井氏の嫡流は途絶えたと考えられる。その後の伊予における祖母井一族の具体的な動向については、詳細な記録は乏しい。

参考として、下野国に残った祖母井氏の動向を見ると、主家である宇都宮家が滅亡した後、一部は水戸藩に仕官した可能性が示唆されている 3

伊予の祖母井氏については、戦国時代の敗残した武士の一族が辿る典型的な道筋を想像することができる。当主が戦死し、本拠地を失った家臣団は離散し、一部は帰農してその土地に土着したり、あるいは新たな仕官先を求めて他国へ移ったりしたであろう。大野氏の幕下に入った者もいたかもしれない。近世の大洲藩の記録では、祖母井城跡の周辺地域では矢野氏が庄屋を務めたとの記述があるが 7 、これが祖母井氏の子孫であるか否かは不明である。大野氏の一族やその配下の将の多くが、後に久万や小田の地に帰農し、江戸時代には庄屋などの村役人を務めた例があることから 10 、伊予の祖母井氏の一部も同様の道を辿った可能性は否定できない。

結論:祖母井之照 ― 歴史と伝説の交差点

本報告では、戦国時代の伊予国に生きた武将・祖母井之照について、その歴史的実像と彼にまつわる「首なし馬」伝説を多角的に調査・分析してきた。

祖母井之照は、伊予宇都宮氏の家臣として、戦国末期の動乱期に祖母井城を守り、天正13年(1585年)、大野安芸守直光の攻撃によって城が陥落する際に、愛馬の首を刎ねて自害するという壮絶な最期を遂げた武将であった。彼の生涯は、主家である伊予宇都宮氏の衰亡と、長宗我部氏の伊予侵攻という大きな歴史の流れの中に位置づけられる。

その悲劇的な死は、やがて「首なし馬」という怪異譚を生み出し、地域社会に長く語り継がれることとなった。この伝説は、単なる怪談ではなく、祖母井之照の無念の死を記憶し、その怨霊を鎮めようとする御霊信仰の表れであり、また、戦乱の時代を生きた人々の恐怖や同情といった感情が投影された文化的遺産であると言える。伝説の語り継ぎは、地域共同体における歴史の継承と、悲劇的な出来事に対する一種のカタルシス(感情の浄化)の役割を果たしてきた可能性も示唆された。

祖母井之照は、詳細な一次史料に恵まれた全国的に著名な武将ではないかもしれない。しかし、その最期とそれにまつわる伝説は、戦国時代の地方武士の生き様、そしてその記憶が後世にどのように受容され、変容しながら語り継がれていくかを示す、極めて興味深く、かつ貴重な事例である。歴史的事実の探求と、民俗的伝承の分析という二つの側面から光を当てることによって、一人の武将の姿はより重層的で豊かなものとして浮かび上がってくる。

今後の課題としては、祖母井之照を攻めた大野安芸守直光の正確な系譜や、長宗我部氏との具体的な関係性の解明、そして伊予宇都宮氏が実質的に解体された後の、祖母井一族の具体的な動向などが挙げられる。これらの点については、さらなる史料の発見と研究の進展が期待される。

参考文献

(本報告書作成にあたり参照した資料は、提供された資料リスト 40 36 41 33 に基づき、本文中に典拠として示した。)

引用文献

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  4. 宇都宮氏(うつのみやうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F-34924
  5. 伊予宇都宮氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F
  6. 大洲城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/oozu-castle/
  7. 滝山城 大陰城 祖母井城 新谷陣屋 堀城 橘城 八黒城 汗生城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/ehime/oozusi03.htm
  8. 三 愛媛の伝説① - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/50/view/6628
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  18. 切腹の日本史 (じっぴコンパクト新書) | 大野 敏明 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E5%88%87%E8%85%B9%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%B4%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E9%87%8E-%E6%95%8F%E6%98%8E/dp/4408110027
  19. 愛媛(エヒメ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B%E5%AA%9B-446099
  20. 夜行さん - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E3%81%95%E3%82%93
  21. トシドン - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%B3
  22. 怨霊になった武将TOP5 この世に恨みを残した人ならぬ者たち - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7jUeC6hDjro
  23. 類似事例 - 国際日本文化研究センター | 怪異・妖怪伝承データベース https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiDB3/simsearch.cgi?ID=0550066
  24. 祟る中世 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/2010104/files/JLF_13-21.pdf
  25. 平将門と現代に生きる御霊信仰|保坂ゼミ2期生 - note https://note.com/hosakasemi2nd/n/n899ef4196bf4
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  30. 第36回 カタルシス | 10分でわかるカタカナ語(三省堂編修所) https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%E7%AC%AC36%E5%9B%9E-%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%B9
  31. カタルシスとは何か。その意味と効果。具体例で分かりやすく解説 ... https://kotento.com/2019/05/21/post-3102/
  32. 平家物語 (上)/梶原 正昭, 山下 宏明|新日本古典文学大系 - 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b593214.html
  33. 軍記物語としての「平家物語」の学習指導 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/23907/files/4.pdf
  34. 敗走者の生と真理 : 大岡昇平をめぐって https://kobe-cufs.repo.nii.ac.jp/record/567/files/afs79-09.pdf
  35. 貴種流離譚(キシュリュウリタン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B2%B4%E7%A8%AE%E6%B5%81%E9%9B%A2%E8%AD%9A-473698
  36. 貴種流離譚について知りたい。 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000104537
  37. 第二節 室町・戦国時代 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/40/view/11583
  38. データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7858
  39. データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7498
  40. 栃木県警察/長田交番 https://www.pref.tochigi.lg.jp/keisatu/n47/hiroba/moka/nagatakoban.html
  41. https.www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/50/view/6628