本報告書は、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)にその名を刻む武将、祖母井之重(うばがい の しげ)について、現存する資料群を博捜し、その人物像、事績、そして関連する伝承を多角的に検証し、歴史的実像に迫ることを目的とする。
祖母井之重は、伊予宇都宮氏の家臣として活動し、祖母井城を築いたとされる人物である。その特異な姓氏は、下野国(現在の栃木県)に由来する可能性が指摘されており、伊予の地においても独特な城名・地名伝承と結びついている。利用者各位においては、祖母井之重が伊予宇都宮家臣であり、築城の際に水に窮した折、現れた老婆から水の出所を教わり、後にその泉と城に「祖母井」の名を冠したという伝承をご存知とのことであるが、この伝承は本報告書における重要な検討事項の一つである。
本報告書では、之重の出自の背景、伊予宇都宮氏における彼の位置づけ、祖母井城の具体的な様相、そして「祖母井」という名の由来に関する諸説の比較検討、さらには祖母井氏の終焉とその背景にある伊予国の動乱について、より深く掘り下げて解明を目指す。
まず、祖母井之重および祖母井城に関連する出来事を時系列で整理した年表を以下に示す。これにより、本報告書で詳述する各事象の時代的背景と相互関連を概観することができる。
祖母井之重および祖母井城関連年表
年代 |
主な出来事 |
関連人物 |
根拠資料 |
元徳3年・元弘3年(1331年) |
祖母井氏、宇都宮豊房の伊予下向に随行か |
宇都宮豊房、祖母井氏祖先 |
1 |
天文年間(1532年~1555年) |
祖母井之重、祖母井城(平松城)を築城 |
祖母井之重 |
2 |
時期不明(之重十三歳時) |
祖母井之重、宇和郡山田城を攻略し、粟津郷を賜る |
祖母井之重 |
1 |
天正13年(1585年) |
伊予宇都宮豊綱死去。伊予宇都宮氏の勢力減退または滅亡 |
宇都宮豊綱 |
3 |
天正13年(1585年)7月6日 |
菅田宇津城主大野安芸守直光、祖母井城を攻撃。城主「祖母井之照」討死 |
大野安芸守直光、祖母井之照 |
4 |
天正13年(1585年)7月(7日説あり) |
豊臣秀吉の四国平定戦の一環として、小早川隆景軍により祖母井城落城。「祖母井殿」自害。その後廃城へ |
小早川隆景、祖母井殿(祖母井氏当主) |
2 |
この年表は、祖母井氏の伊予における活動期間の長さを示唆するとともに、特に天正13年(1585年)に主要な出来事が集中していることを明確に示している。これは、豊臣秀吉による四国平定という、日本史における大きな転換点が、祖母井氏の運命にも決定的な影響を与えたことを物語っている。
祖母井之重の人物像を理解する上で、まずその出自と、彼の一族が伊予国へ至る経緯を明らかにすることが不可欠である。
祖母井氏の発祥の地は、下野国芳賀郡祖母井郷(現在の栃木県芳賀町祖母井周辺)とされている 1 。この「祖母井」という地名は現在も同地に残り、後述する特有の伝説を伴っている。この地名との関連は、伊予の祖母井氏のルーツを考える上で極めて重要な手がかりとなる。
氏族的な背景については、下野国の名門武家である宇都宮宗家に仕えた千葉氏流大須賀党君島氏の庶流であり、同国芳賀郡祖母井郷の祖母井氏の一族とみられている 2 。千葉氏は下総国を本拠とした桓武平氏の名門であり、大須賀氏はその有力な庶家、君島氏はさらにその分かれである。このような関東の有力武士団の系譜に連なる一族が、下野国で宇都宮氏の家臣となり、その一派が遠く伊予国へ移住したとすれば、当時の武士の主従関係の流動性や、一族の広範な拡散の様相を示す好例と言えるだろう。これは、祖母井氏が単なる土豪ではなく、関東に起源を持つ武士の家柄であったことを示唆している。
しかしながら、多くの資料において、祖母井之重以前の具体的な系譜は定かではないとされている 2 。これは地方武士の記録においては珍しいことではなく、特定の人物(この場合は之重)の活躍によってはじめて歴史の表舞台にその名が明確に記されるようになるケースが多いことを反映している。
祖母井氏が伊予国へ下向した時期と経緯については、元徳3年・元弘3年(1331年)に、伊予宇都宮氏の祖とされる宇都宮豊房が伊予へ下向する際に随行してきたと考えられている 1 。この1331年という年は、鎌倉幕府が滅亡し、元弘の乱を経て南北朝の動乱期へと移行する、まさに時代の大きな転換点にあたる。宇都宮豊房の伊予下向も、こうした中央の政変と関連した何らかの政治的・軍事的背景を持っていた可能性があり、祖母井氏のような家臣団の移動もその一環であったと推察される。
もしこの年代が正確であるならば、祖母井氏は200年以上にわたり伊予で宇都宮氏に仕えていたことになり、祖母井之重が天文年間(1532年~1555年)に祖母井城を築城する頃までには、伊予国内である程度の家格と勢力を保持するに至っていたと考えられる。譜代の家臣として主家と共に伊予へ下り、幾多の困難を乗り越えながら勢力を維持してきたからこそ、之重の代に重臣としての地位を確立できたと考えることができる。
主家である伊予宇都宮氏は、下野国の名門宇都宮氏の分家であり、鎌倉時代には伊予国守護職に任じられたこともある家柄である 7 。戦国期には喜多郡(現在の大洲市周辺)を中心に勢力を有する国人領主、あるいは小規模な戦国大名と見なされていた 8 。祖母井之重は、このような歴史と格式を持つ伊予宇都宮氏の家臣として、その盛衰に関わる重要な役割を担った人物であった。
祖母井之重の名は、特にその武功と祖母井城の築城によって歴史に留められている。これらは、彼が伊予宇都宮家中で占めた地位と、当時の伊予国の軍事状況を反映するものである。
祖母井右衛門尉之重は、十三歳の時に宇和郡山田城を攻略した功により、粟津郷を賜ったと伝えられている 1 。「十三歳での初陣や大手柄」といった逸話は、戦国武将の伝承においてその英雄性を際立たせるための一種の典型的な表現(トポス)である可能性も考慮に入れる必要がある。しかし、若くして何らかの武功を立て、それによって所領を得たという事実は、彼の武将としてのキャリアの出発点を示すものとして重要である。「右衛門尉」という官途名を称していることも、彼が伊予宇都宮家中において単なる一兵卒ではなく、一定の地位と格式を有していたことを示唆している。
この武功によって得た粟津郷に、後に平松城(祖母井城)を築いたとされており 1 、これは武功と恩賞(所領加増)、そして新たな拠点構築という、戦国武将の典型的な立身出世のパターンを示している。
祖母井城の築城時期については、天文年間(1532年~1555年)に伊予宇都宮氏家臣であった祖母井之重によって築かれたとされている 2 。一方で、築城年代は定かではないとしつつも、前述の十三歳での山田城攻略の功により賜った粟津郷に築いたとする記述もある 1 。両者を総合的に勘案すると、天文年間のいずれかの時期に、過去の功績に基づいて築城がなされたと考えるのが妥当であろう。
城名については、当初は平松城と呼ばれていたが、後に祖母井城と改名されたという説がある 1 。この改名の経緯については、後述する泉の伝説が深く関連付けられている。
祖母井城は、伊予宇都宮氏の当時の居城であった地蔵ヶ獄城(後の大洲城)の外郭として、決定的に重要な位置にあったと評価されている 2 。これは、祖母井城が肱川流域の防衛ラインの枢要な一部を形成し、敵対勢力からの侵攻に対する前線基地としての役割を担っていたことを意味する。このような戦略的要衝に城を構えることを許され、その守りを任されたという事実は、祖母井氏、特に祖母井之重が伊予宇宇都宮家中で重臣として厚い信頼を得て、重要視されていたことを強く示唆している。重要な地点には信頼できる有力な家臣を配置するのが軍事上の常道であり、祖母井城の立地とその城主が之重であったことは、彼の家中における地位を物語っている。
祖母井城は、愛媛県大洲市春賀甲の西念寺という寺院の西側にそびえる比高120メートルほどの山稜に位置し、現在も城の直下近くまで林道が通じている 9 。城跡には、石積み、土塁、堀、曲輪といった中世山城の典型的な遺構が確認されている 2 。
特に主郭(1郭)は長軸100メートルほどにも及ぶ広大なもので、2段に削平されている。その西側には長く土塁が盛られ、土塁の南端部分は櫓台状に幅広くなっているなど、計画的な設計が見受けられる 9 。この規模は、多くの建造物を営むことが可能であったことを示し、城主であった祖母井氏が相当な勢力と動員力、経済力を有していたことをうかがわせる 9 。
さらに、城の周囲の切岸(人工的な急斜面)もしっかりと加工されており、築城から数百年を経た現在でもその防御性の高さを窺い知ることができる 9 。これらの遺構の状況から、祖母井城が単なる臨時の砦ではなく、ある程度の期間にわたる恒常的な拠点として、堅固に造作された本格的な城郭であったと言える。これは、城主であった祖母井之重の力量と、彼が伊予宇都宮家中において担っていた軍事的責任の大きさを間接的に証明するものである。
「祖母井」という特異な名称は、城名のみならず、祖母井之重自身の姓ともなっており、その由来には興味深い伝承が付随している。伊予国と下野国、二つの地域に「祖母井」に関連する伝説が存在し、両者の比較検討は、名称の起源と伝播を考える上で重要である。
利用者各位がご存知の通り、伊予国における伝承は、祖母井之重が城を築いた際、水が出ずに困窮し、城の移転まで考えていたところ、一人の老婆が現れて水の湧き出る場所を教え、そのおかげで城の建設を続けることができたというものである。後に之重は、この老婆と泉に感謝し、泉と城に「祖母井」と名付けたとされる(利用者提供情報)。
この伊予の泉の伝説について、ある資料は「後付けされた伝承である」と明確に指摘している 1 。この「後付け」という見解は非常に重要であり、伝説の成立過程を考察する上で鍵となる。これは、既に「祖母井」という名前(姓または城名)が存在し、その名前の由来を説明するために後から物語が創作された可能性を示唆する。あるいは、下野国から持ち込まれた「祖母井」という名に対して、伊予の風土や既存の類似した物語と結びつけて新たな物語が形成されたとも考えられる。
一方、祖母井氏の発祥の地とされる下野国芳賀郡祖母井(現在の栃木県芳賀町祖母井)には、「祖母井」の地名の直接的な由来とされる「姥が池(うばがいけ)」(通称「弁天池」)が存在する 10 。
この池に関する伝説は、日光開山の名僧として知られる勝道上人にまつわるものである。勝道上人の姥(うば、乳母または祖母と解釈される)がこの地に住んでおり、上人が誕生した際にこの池の霊水が産湯として使われたと語り継がれている 10 。この伝説が「祖母井(うばがい)」という地名の起源であるとされている 11 。こちらの伝説は、具体的な高名な僧侶(勝道上人)と結びつき、地名の音声(うばがい)と「姥(うば)」が明確に関連付けられている点で、より直接的な地名起源説話としての性格が強い。
二つの「祖母井」関連伝説を比較すると、以下のようになる。
項目 |
下野国(姥が池伝説) |
伊予国(祖母井城の泉伝説) |
伝説の概要 |
勝道上人の産湯に使われた霊水 |
築城時に老婆が教えた泉 |
主な登場人物 |
勝道上人、その姥 |
祖母井之重、老婆 |
関連する場所 |
下野国芳賀郡祖母井の姥が池(弁天池) |
伊予国祖母井城内の泉 |
資料源 |
10 |
(利用者提供情報 1 ) |
備考 |
地名の直接的由来とされる |
「後付けの伝承」との指摘あり 1 |
この比較から、いくつかの点が明らかになる。下野国の伝説が具体的な地名起源説話としての性格が強いのに対し、伊予国の伝説は、既に存在する「祖母井」という城名(あるいは氏族名)に由来を付与する物語としての性格が窺える。特に、伊予の伝説に対する「後付け」という指摘 1 は、この推測を補強する。
祖母井氏が下野国から伊予国へ移住したという背景(前述)と合わせて考えると、「祖母井」という名称自体が下野国から伊予へ持ち込まれ、その後に伊予の地で新たな泉の伝説が形成された可能性が高い。移住者が故郷の地名を新しい居住地につけることは歴史上しばしば見られる現象であり、祖母井氏が伊予に「祖母井」の名を持ち込み、その名の由来を説明するために伊予で新たな伝説が生まれたか、あるいは既存の類話と結びついたと考えられる。
いずれの伝説も、「祖母井」という特異な地名・城名に対して由来を説明し、その場所に聖性や物語性を付与する機能を持っている。特に、水の確保が死活問題となる山城において、泉の発見は極めて重要であり、それを老婆(しばしば神秘的な存在として描かれる)の助けによるものとする物語は、人々の記憶に残りやすかったであろう。これは、文化が人の移動と共にどのように伝播し、新たな環境で変容し、土着化していくかの一つの興味深い事例として捉えることができる。
祖母井之重とその一族の運命は、主家である伊予宇都宮氏の動向、そして戦国末期から安土桃山時代にかけての伊予国を巡る激動の情勢と不可分に結びついている。
戦国時代の伊予国は、中央の権威が衰える中で、河野氏、西園寺氏といった有力国人が割拠し、さらに土佐国の長宗我部氏や中国地方の毛利氏といった外部勢力の影響も受ける、複雑で流動的な情勢下にあった。伊予宇都宮氏は、喜多郡の大洲城(地蔵ヶ獄城)を拠点とし、当主宇都宮豊綱のもと、これらの諸勢力と時には連携し、時には敵対しながら、その存続を図っていた 3 。伊予宇都宮氏は、室町幕府からは「外様衆大名在国衆」として認識されるなど、伊予国内において一定の格式と勢力を有する在地領主であった 8 。具体的には、土佐の一条兼定と結んで河野通直と戦うなど、合従連衡を繰り返して生き残りを模索していた 3 。
祖母井氏の拠点であった祖母井城の落城は、天正13年(1585年)7月とされている 4 。この時期は、豊臣秀吉による四国平定(四国攻め)が本格的に展開されていた時期と完全に一致する。
落城の様相については、複数の記録に若干の差異が見られる。
一つは、天正13年7月6日の朝、菅田宇津城主であった大野安芸守直光に攻められ、城主「祖母井之照(これてる、あるいは、ゆきてるか)」が愛馬と共に討死した、というものである 4。
もう一つは、天正13年7月(6日または7日)、豊臣秀吉の四国攻めの主力部隊の一つであった小早川隆景の軍勢によって攻められ、城主「祖母井殿」が城内の女性たちを道連れにして自害したという「祖母井城落城悲話」として伝えられているものである 2。
これらの二つの記述は、攻撃の主体(大野氏か小早川軍か)や落城時の城主名(之照か祖母井殿か)に違いが見られる。この差異については、いくつかの可能性が考えられる。第一に、四国平定という大きな軍事行動の中で、まず在地勢力である大野氏による攻撃があり、それに続いて(あるいは連携して)秀吉軍本隊の一部である小早川軍による総攻撃があったという段階的な経緯。第二に、複数の戦闘や出来事が、伝承化する過程で混同されたり、集約されたりして伝えられている可能性。第三に、「之照」が討死した後、残った一族の長老格(「祖母井殿」と総称される人物)が殉じたという可能性である。いずれにせよ、これらの記述は、祖母井城が複数の勢力から攻撃を受ける激戦の末に落城したことを示唆している。
祖母井城は、この落城の後、秀吉による四国平定が完了した同月中にはそのまま廃城となったものと推察される 2 。これは、秀吉政権下で進められた一国一城令の方針や、新たな支配体制下における城の戦略的価値の変化に伴う措置であったと考えられる。
祖母井城を天文年間(1532年~1555年)に築城したとされる祖母井之重は、天正13年(1585年)の落城時には、年齢的にかなりの高齢であったか、あるいは既に没していた可能性が高い。落城時の城主として名が挙がる「祖母井之照」 4 は、之重の子息や孫、あるいは一族の後継者であった可能性が考えられる。「祖母井殿」 5 という呼称は、特定の個人名ではなく、その時点での祖母井家の当主を指す一般的な呼び方であったと解釈できる。祖母井之重が築城者として名を残し、その後の城主として「之照」という人物が記録されていることは、祖母井氏がある程度の期間、同地を支配し続けたことを示しており、落城の悲劇が「之照」の代に起きたとすれば、之重の築いた城とその一族の終焉が、数代を経て結びつくことになる。
祖母井城が落城し、祖母井氏がその勢力を失った天正13年(1585年)は、主家である伊予宇都宮氏にとっても運命の年であった。伊予宇都宮氏の当主であった宇都宮豊綱もまた、この年に最期を迎えている 3 。その滅亡の経緯については諸説あり、毛利・河野連合軍に敗れて追放されたという説や、かつての家臣であった大野直之に裏切られ、居城である大洲城を奪われたという説が伝えられている 3 。
ここで注目すべきは、大野氏の関与である。祖母井城を攻撃したのが「大野安芸守直光」 4 であり、伊予宇都宮氏を滅亡に追いやった(とされる)のが「大野直之」 3 である。この「大野」という姓の一致は単なる偶然とは考えにくい。大野氏は、伊予宇都宮氏の内部、あるいは近隣で急速に台頭し、宇都宮氏とその家臣団(祖母井氏を含む)の没落に深く関与した可能性を強く示唆する。豊臣秀吉による四国平定という強大な外部からの軍事的圧力が高まる中で、大野氏は伊予宇都宮氏に対して何らかの行動(主家からの離反、権力奪取など)を起こし、その一環として宇都宮氏の重要拠点であった祖母井城をも攻略したのではないか。そして、その動きが結果的に秀吉軍による伊予平定を容易にした、あるいは大野氏が秀吉軍と何らかの連携を取っていた可能性も否定できない。
主家である伊予宇都宮氏の滅亡と、その重要拠点であった祖母井城の落城は、伊予における祖母井氏の勢力の終焉を決定づけた。ある資料は「祖母井氏滅亡の経緯についても詳らかではない」としつつも、秀吉による四国平定が完了したのと同月中に祖母井城も廃城となったと記しており 2 、祖母井氏の歴史がここで途絶えたことを示唆している。戦国時代の主従関係の厳しさと、地方領主層が一蓮托生であった状況を如実に示しており、主家の滅亡は、その家臣団の解体・滅亡に直結したのであった。伊予宇都宮氏および祖母井氏の滅亡は、豊臣秀吉の四国平定という強大な「外部要因」だけでなく、大野氏の台頭と裏切り(あるいは下剋上)といった「内部要因」が複雑に絡み合って引き起こされたと考えるのが合理的であろう。
祖母井城の落城という悲劇的な出来事は、地域に特有の伝承を生み出した。大洲市春賀の祖母井城では、天正13年7月6日に城主之照が討死した後、旧暦7月7日の早朝になると、和田(地名)から春賀の東門寺へ向かって首なし馬が走るという伝説が生まれたとされている 4 。
愛媛県内には、他にも首なし馬の伝説が複数存在し 15 、その多くは特定の戦いや人物の非業の死と結びつけられて語られている。祖母井城の首なし馬伝説も、落城という悲劇的な出来事と、城主の無念の死が、地域に古くから存在する首なし馬という怪異譚の類型と結びついて形成されたものと考えられる。これは、歴史上の衝撃的な事件が民衆の記憶の中でどのように変容し、超自然的な物語として語り継がれていくかを示す興味深い事例である。このような伝承は、歴史の記憶が風化することなく(形を変えつつも)地域社会に保持される一因となる。
本報告書では、戦国時代の伊予国に活動した武将、祖母井之重について、関連資料を基にその出自、事績、関連伝承、そして終焉に至るまでを検討してきた。
史実としての祖母井之重は、伊予宇都宮氏の重臣として戦略的要衝を任され、堅固な城を築き、戦国の世を武将として生きた人物であった側面が浮かび上がる。彼の活動は、戦国期における地方武士の典型的な姿、すなわち主家への奉公、武功による立身、そして拠点となる城郭の経営という要素を色濃く反映している。
一方、伊予における泉の発見にまつわる老婆の伝承や、落城後の首なし馬の伝説は、祖母井之重の名や彼が築いた祖母井城が、地域の人々にとって印象深い存在であり、物語を通じて記憶され続けたことを示している。これらの伝承は、必ずしも史実そのものではないが、歴史上の人物や出来事が人々の心にどのように刻まれ、解釈され、語り継がれていったかを反映する貴重な文化的遺産と言える。
祖母井之重という一人の武将の生涯は、戦国時代の伊予という地方社会の動態、武士団の興亡、そして中央の政変が地方へ及ぼす影響など、より大きな歴史的文脈の中で理解されるべきである。
祖母井之重および祖母井氏に関する研究は、いくつかの課題と展望を残している。
第一に、祖母井之重以前の伊予における祖母井氏の具体的な活動については、依然として不明な点が多い。伊予宇都宮氏関連の古文書や、愛媛県内に現存する未調査の郷土史資料、寺社縁起などに、新たな手がかりが眠っている可能性がある。
第二に、祖母井城落城時の城主「之照」と築城者「之重」の正確な関係(親子、兄弟、あるいは数代を経た子孫など)や、伊予宇都宮氏および祖母井氏の滅亡に深く関与したとされる大野安芸守直光や大野直之の正確な系譜、伊予宇都宮氏との関係性について、より詳細な史料分析が望まれる。
第三に、下野国祖母井の「姥が池」伝説と伊予国祖母井の泉の伝説の比較研究は、地名や伝説が人の移動や時間の経過と共にどのように伝播し、変容していくのかという、文化伝播の具体的なプロセスを理解する上で興味深いテーマとなりうる。
これらの課題の解明は、祖母井之重という一武将の理解を深めるだけでなく、戦国時代の伊予国の地域史、さらには武士団の移動と文化の伝播といったより広範な歴史研究に貢献する可能性を秘めている。