神代長良(くましろ ながよし)の生涯を理解するためには、彼が生きた戦国時代の肥前国が、いかに激しい権力闘争の渦中にあったか、そして彼が背負った神代一族の出自と特性をまず把握する必要がある。彼の人生は、旧勢力の没落と新興勢力の台頭が交錯する、まさに下剋上の時代を象身するものであった。
鎌倉時代以来、筑前・肥前など北部九州に覇を唱えた名門守護大名・少弐氏は、戦国期に入ると大内氏との長きにわたる抗争によって著しく衰退していた 1 。この名門の斜陽を好機と捉え、その権力基盤を侵食していったのが、少弐氏の家臣筋であった龍造寺氏である。龍造寺隆信の代に至り、その勢いは主家を完全に凌駕する。そして永禄2年(1559年)、隆信はついに主君であった少弐冬尚を攻め滅ぼし、三百六十余年にわたる少弐氏の嫡流は、ここに断絶した 2 。
この下剋上は、肥前国の勢力図を根底から塗り替える歴史的事件であった。龍造寺氏にとっては、一国人領主から戦国大名へと飛躍する最大の契機となった。しかし、長年にわたり少弐氏の重臣として仕えてきた神代氏にとって、それは主家の滅亡であると同時に、昨日までの同僚であった龍造寺氏と、今度は自らの存亡をかけて直接対峙しなければならないという、過酷な現実の始まりを意味していた。神代氏と龍造寺氏の抗争は、単なる領土争いに留まらず、「主家を滅ぼした者」と「滅ぼされた主家に最後まで仕えた者」という、構造的かつ感情的な対立をその根底に抱えていたのである。
神代氏は、その名の通り「神に代わる」という意味を持ち、古くは武内宿禰を祖とすると伝承される名族であった 4 。元は筑後国(現在の福岡県南部)の高良大社に仕える社家であり、高い家格を誇っていた 7 。しかし、戦国時代初期、長良の祖父にあたる神代宗元の代に、筑後の蒲池氏や西牟田氏といった国衆との勢力争いに敗れ、一族は故地を追われることとなる 4 。
故郷を失った神代宗元が、新たな活路を求めてたどり着いたのが、肥前国北部の山間地帯、通称「山内(さんない)」と呼ばれる地域であった 8 。この「流浪の貴種」という出自は、山内に割拠する在地領主たちにとって、外部からの脅威に対抗するための盟主として迎えるにふさわしい経歴と映った。
長良の父、神代勝利は、この山内という新天地でその非凡な才覚を発揮する。彼は、分裂状態にあった山内二十六ヶ山の小領主たちを巧みにまとめ上げ、その盟主となることで、一代にして肥前有数の有力武将へと成長した 7 。
勝利の強さの源泉は、山岳地帯の地理的特性と、そこに根差す人々の強固な結束力にあった。彼に率いられた家臣団は「神代衆」と呼ばれ、その結束は極めて固かった 7 。特に、三瀬氏、松瀬氏、菖蒲氏、畑瀬氏、藤原氏、栗並氏といった中核的な家臣は「七人衆」と称され、神代氏の武力を支えた 7 。この山岳共同体ともいえる強固な軍事基盤こそが、佐賀平野を本拠とし、急速に勢力を拡大する龍造寺隆信と互角に渡り合うことを可能にしたのである。
偉大な父・勝利が築き上げた神代氏の勢力は、しかし、長良が家督を継ぐ頃には大きな転換点を迎えていた。龍造寺氏との宿命的な対決とその敗北は、若き長良の船出に暗い影を落とすことになる。
神代長良は、天文6年(1537年)、山内二十六ヶ山惣領・神代勝利の嫡男として生を受けた。母は副島信告の娘である。初名は父・勝利の一字を取り、「勝良(かつよし)」と名乗った 12 。彼には種良、周利、惟利といった弟たちがおり、また姉妹は高木氏、中島氏、大津留氏といった周辺の国人領主へ嫁いでおり、婚姻政策を通じて勢力圏の安定化を図っていた様子がうかがえる 12 。
少弐氏滅亡後、肥前統一を目指す龍造寺隆信にとって、山内に強固な地盤を築く神代氏は最大の障害であった。永禄4年(1561年)、隆信は神代氏に挑戦状を送りつけ、両軍は川上峡(現在の佐賀市大和町)にて雌雄を決することとなる 13 。この決戦において、長良は3,000の兵を率いる一軍の大将として宮原口に布陣した 15 。
合戦は「千騎が一騎になる」と評されるほどの大乱戦となったが、神代方についた新参の武将の裏切りにより、弟の周利が陣中で斬殺されるという悲劇が起こる。これをきっかけに神代軍は統制を失い、総崩れとなった 13 。この混乱の中、弟の種良と惟利も討死。神代軍は壊滅的な打撃を受け、大敗を喫した 15 。この敗北は、父・勝利が抱いた肥前制覇の野望を完全に打ち砕き、龍造寺氏との力関係を決定づけるものとなった 7 。
川上峡合戦の翌年、永禄5年(1562年)、神代氏は龍造寺氏との和睦を余儀なくされる。その条件として、長良の娘である初菊と、隆信の三男・鶴仁王丸(後の後藤家信)との縁組が定められた 12 。これは事実上の人質であり、神代氏が龍造寺氏の優位を認めざるを得なかったことを示している。
この敗戦の心労か、永禄7年(1564年)、父・勝利は隠居し、長良が家督を相続する 12 。しかし、その翌年の永禄8年(1565年)3月、偉大な父・勝利は病のためこの世を去った 12 。長良の家督相続は、単なる世代交代ではなかった。それは、川上峡合戦の大敗という「負の遺産」を清算し、龍造寺氏の圧倒的優位という厳しい現実の中で、いかにして一族を存続させるかという重責を一身に背負った、「敗戦処理」の始まりであった。
若き当主・長良の船出は、まさに荒波の中であった。父の死に続き、個人的な悲劇と軍事的な危機が立て続けに彼を襲う。しかし、彼はその絶望的な状況下でこそ、非凡な戦略眼と不屈の精神力を発揮することになる。
父・勝利が没したわずか一ヶ月後の永禄8年(1565年)4月、長良をさらなる悲劇が見舞う。待望の嫡男であった長寿丸(千寿丸とも)と、龍造寺家との和睦の唯一の証であった娘・初菊が、揃って疱瘡を患い、相次いで夭折してしまったのである 7 。
これは神代家にとって、単なる肉親の死以上の、致命的な打撃であった。正統な後継者を失ったことは家の将来に暗雲を投げかけ、同時に、最大勢力である龍造寺氏との関係をかろうじて繋ぎとめていた外交カードをも失ったことを意味した。
この神代家の混乱と弱体化という「好機」を、龍造寺隆信が見逃すはずはなかった。彼はただちに軍勢を動かし、長良の居城であった千布城へと攻め寄せた 12 。父と子を相次いで失い、動揺する神代方に抗する術はなく、不意を突かれた長良は本拠地を追われ、筑前国への亡命を余儀なくされた 12 。隆信の冷徹なまでの戦略眼と、戦国の世の非情さが浮き彫りになる出来事であった。
しかし、長良はただ落ち延びたのではなかった。彼の行動は、明確な戦略性に基づいていた。筑前へ逃れた彼は、当時、九州探題として最大勢力を誇っていた豊後の大友氏の傘下にある鷲岳城主・大鶴宗周を頼った。そして、これを足掛かりとして、大友宗麟本人とその重臣中の重臣である戸次鑑連(後の立花道雪)との知遇を得ることに成功する 12 。
これは、主君を旧主・少弐氏から、龍造寺氏の最大の対抗勢力である大友氏へと切り替えるという、極めて戦略的な外交判断であった 12 。自らの力のみでは龍造寺氏に対抗できない以上、より大きな権力の虎の威を借り、再起の機会をうかがうという、戦国国衆としてのリアリズムに徹した選択だったのである。
大友氏という新たな後ろ盾を得た長良の行動は迅速であった。同年8月20日、亡命からわずか数ヶ月で、山内に残る旧臣たちの手引きと、大友方の原田隆種らから得た援軍300騎を率いて、電光石火の速さで山内への復帰を果たした 12 。この事実は、彼が領地を失ってもなお、山内衆に対して強い求心力を維持していたことの証左である。
さらに翌永禄9年(1566年)、長良は周到な計画による復讐戦を敢行する。干ばつに乗じて、龍造寺方の重臣・納富信景の所領である千布周辺の水源を断ち、不審に思って様子を見に現れた信景の嫡子・信純とその手勢を、待ち構えていた伏兵によって討ち取ったのである 12 。これは単なる私怨の解消に留まらず、神代氏の健在を内外に強く誇示する、見事な示威行動であった。長良の半生は、悲劇と敗北の連続であったが、彼はその都度、感傷に浸ることなく、逆境をバネにして次の一手を打ち続ける、したたかな戦略家であり、不屈の精神の持ち主であった。
大友氏の後ろ盾を得て一時的に勢いを盛り返した長良であったが、九州全体の勢力図の変動は、彼に再び大きな決断を迫ることになる。長年の宿敵であった龍造寺氏の軍門に降るという、苦渋の選択であった。
大友氏に属した長良は、大友方の一員として龍造寺氏の居城・村中城攻めに参加するなど、反龍造寺の旗幟を鮮明にしていた 12 。そして元亀元年(1570年)、大友宗麟が龍造寺氏を滅ぼすべく大軍を肥前に派遣した「今山の戦い」が勃発すると、長良も当然のごとく大友方として参陣した 7 。
しかし、この戦いで龍造寺方の鍋島直茂が敢行した決死の夜襲により、大友軍の総大将・大友親貞が討ち取られ、大友軍は壊滅的な大敗を喫する。この一戦は、肥前における龍造寺氏と大友氏の力関係を完全に逆転させた。長良が頼みとしていた大友氏の権威は失墜し、もはや単独で龍造寺氏の強大な軍事力に抗することは不可能となった。
最大の庇護者を失った長良は、現実的な判断を下す。元亀2年(1571年)、ついに龍造寺隆信と和睦し、その軍門に降ったのである 7 。これは、父の代から続いた長年の抗争に終止符を打つ、苦渋に満ちた、しかし一族の存続を第一に考えた上での、避けられない決断であった。
龍造寺氏に臣従した神代氏であったが、その扱いは他の家臣とは一線を画すものであった。
龍造寺家臣団の中で、神代氏は個々に解体されて組み込まれるのではなく、「神代衆」として一つの独立した戦闘集団として扱われた 18 。これは、彼らが龍造寺譜代の家臣とは異なる「外様」でありながら、山岳戦を得意とするその強力な軍事力を高く評価されていたことを示している。彼らは「幕下着到」という、いわば客将に近い立場で、必要に応じて軍役に動員される半独立的な性格を保持していた 18 。『五ヶ国御領地之節配分帳』によれば、その知行高は540町に及び、龍造寺家臣団の中でも13位に位置する有力領主としての地位を認められていた 18 。
一方で、その高い軍事力とは裏腹に、神代氏が龍造寺政権の運営に参画することはなかった。政権の中枢は、鍋島氏や納富氏、小川氏といった譜代の家臣によって固められており、神代氏のような外様の新参家臣は、意図的に政治から排除されていた 18 。彼らはあくまで、龍造寺氏の勢力拡大のために利用される軍事力としての存在であり、その立場は常に不安定なものであった。
龍造寺家臣となった長良は、早速その忠誠を試されることになる。天正2年(1574年)、隆信は筑後の国人・草野鎮永への攻撃を決定。この戦いに、長良率いる神代衆も参陣を命じられた 7 。これは臣従儀礼として、またその武力を示すための重要な軍役であった。
長良はこの戦いで功を立て、戦後、草野氏の旧領であった山内六ヶ山を支配下に置くことを認められ、代官を派遣した。しかし、この草野鎮永が筑前の有力国衆・原田氏の嫡子であったことから、この処置が原田氏の強い怒りを買い、新たな紛争の火種を生むことにもなった 22 。龍造寺氏への臣従は、神代氏に一時的な安定をもたらしたが、それは同時に、龍造寺氏の意向に従って新たな敵と戦わねばならないという、新たなリスクを背負うことでもあった。
合戦・軍役名 |
年月日 |
神代衆の所属部隊・役割 |
備考 |
松浦地方平定 |
天正2年(1574年) |
三陣(江上衆と共同) |
鍋島直茂が先陣を務める陣立の中で、外様衆として重要な一角を担う 18 。 |
大村氏攻撃 |
天正5年(1577年) |
二陣(江上衆と共同) |
肥前西部の平定戦においても、主力部隊の一翼として動員される 18 。 |
筑前経略 |
天正6年(1578年) |
九陣(神代氏の陣代として) |
龍造寺氏の勢力拡大に伴い、陣代を派遣する形で軍役に貢献 18 。 |
肥後陣立 |
天正8年(1580年) |
龍造寺一門衆と共に「幕下着到」 |
龍造寺一門や他の有力国衆と共に、臨機応変に参陣する軍事力として編成される 18 。 |
龍造寺氏への臣従によって一時の安定を得た長良であったが、彼の眼前には、戦国武家にとって最も根源的かつ重大な問題が横たわっていた。それは、後継者の不在である。この危機に際して彼が下した決断は、その生涯における最大の功績となり、神代家の運命を未来永劫にわたって決定づける、驚くべき深謀遠慮に満ちたものであった。
かつて嫡男・長寿丸を夭折で失って以来、長良には家を継がせるべき男子がいなかった 7 。戦国の世において、当主の跡を継ぐ男子がいないことは、家の断絶、すなわち一族の滅亡に直結する最大の危機であった。いかに武勇に優れ、知行を安堵されていようとも、家が次代に繋がらなければ全ては水泡に帰す。長良の苦悩は察するに余りある。
長良がこの問題にどう向き合ったか、その一端を伝える貴重な記録が『神代家伝記』に残されている。これによると、長良は一族家臣らを召し集めた評議の場で、自らの考えを率直に語ったという。
「亡父勝利公以来、我らは諸方の敵と戦い、中でも龍造寺という大敵に対しては数度の防戦に及んだが、勝敗は定まらなかった。このままでは、神代家の安泰を子々孫々まで保つことは難しいだろう」 22 。
この言葉は、父の代からの長きにわたる抗争の限界を自ら認め、もはや武力のみに頼るのではなく、新たな生存戦略を模索しなければならないという、長良の冷徹な現状認識を示している。彼は、家の存続のためには、龍造寺家から養子を迎え、縁組によって両家の和平を盤石なものにするほかないと結論付けたのである 22 。
しかし、長良が下した決断の真骨頂は、その養子の選び方にあった。彼が白羽の矢を立てたのは、龍造寺隆信の子息ではなかった。彼が選んだのは、鍋島直茂の弟である小川信俊の三男、犬法師丸(後の神代家良)であった 7 。
この小川信俊は、龍造寺隆信の義弟であると同時に、当時すでに「龍造寺の仁王門」と称され、家中の実権を掌握しつつあった鍋島直茂の実弟である 24 。つまり、家良は鍋島直茂の甥にあたる 10 。この養子縁組は天正7年(1579年)頃に成立し、家良は長良の娘(初法師か二郎か、詳細は不明)を娶り、婿養子として神代家の家督を継ぐことが定められた 7 。
この養子の選択は、長良の驚くべき先見の明と、高度な政治的判断力を物語っている。彼は、肥前国における権力の実体が、名目上の主君である龍造寺隆信から、実力者の鍋島直茂へと静かに、しかし確実に移行しつつある時代の趨勢を的確に見抜いていた。
この縁組によって、神代家は龍造寺家に対する恭順の意を形式的に示しつつ、実質的には未来の支配者となるであろう鍋島家との間に、血縁という最も強固なパイプを築くことに成功した。これは、龍造寺体制下での当面の安泰を確保すると同時に、いずれ来るべき「鍋島時代」への布石を打つという、二重三重の安全保障を確保する、極めて巧みな政治的深謀であった。数々の敗北と悲劇を乗り越えてきた長良のリアリズムが、一族の未来を賭けたこの一手に見事に結実したのである。
神代長良の生涯は、父・勝利のような華々しい武勇伝に彩られたものではない。しかし、彼の粘り強い生存戦略と、未来を見据えた深慮遠謀は、神代一族に武勇以上のもの、すなわち永続的な繁栄をもたらした。
一族の未来への道筋をつけた長良であったが、その行く末を見届けることは叶わなかった。天正9年5月28日(1581年6月29日)、長良は本拠である三瀬城にて病のためこの世を去った。享年45であった 12 。
家督を継いだ養子・家良はまだ9歳という若年であったが、長良の死は混乱を招かなかった。彼の遺言通り、後見役には鍋島直茂が就き、神代家の老臣である神代対馬守利が目代として家政を支える体制が速やかに整えられた 22 。長良が周到に描いたシナリオが、彼の死後も着実に実行されたのである。
長良の死から3年後の天正12年(1584年)、龍造寺隆信は沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に敗れ、戦死する 28 。これを機に龍造寺氏の勢力は急速に衰え、鍋島直茂が佐賀藩の実権を完全に掌握する。
この権力移行の中で、神代家は長良の深謀遠慮の恩恵を最大限に享受することになる。鍋島直茂の甥である家良が当主であった神代家は、新たに成立した鍋島藩体制において「親類同格」という極めて高い家格を与えられ、上級家臣団の一角を占めることになった 7 。後年、居城を山内から芦刈、さらに川久保へと移され、「川久保神代家」、あるいは「川久保鍋島家」として一万石を領する大身となり、明治維新に至るまでその家名を保ち続けた 6 。
神代長良の生涯を俯瞰するとき、彼は父・勝利のようなカリスマ的な武勇で領土を切り拓いた「創業の将」ではなかった。むしろ、主家の滅亡、肉親との死別、領地喪失、そして長年の宿敵への臣従という、戦国時代の国人領主が経験しうるあらゆる苦難と屈辱を味わった人物であった。
しかし、彼はその度に感情に流されることなく、冷静な現状分析と、未来の権力構造を見据えた政治的判断によって、ことごとく危機を乗り越えた。特に、龍造寺本家ではなく、当時まだ家臣の立場にあった鍋島家から養子を迎えるという決断は、一族を滅亡の淵から救い、江戸時代の繁栄へと導いた最大の功績と言える。彼は、戦場で勝利を重ねる武将ではなかったかもしれないが、幾多の嵐から家という船を守り抜き、未来の海へと送り出した、偉大な「守成の将」として高く評価されるべきである。彼の生涯は、戦国時代が後期に進むにつれ、武将に求められる資質が、個人の武勇から、大勢力間の力学を読み解き自家の存続に最も有利な道を選択する「政略」や「深謀」へとシフトしていったことを象徴している。
長良の死後、その亡骸は当初、本拠地であった三瀬城に近い三瀬山長谷山観音禅寺に葬られた 12 。しかし後年、川久保神代家がその地位を確立すると、5代当主・常利の妻であった松陰大姉(佐賀藩初代藩主・鍋島勝茂の娘)によって、川久保の地に菩提寺として松陰寺が建立された。その際、初代・勝利、三代・家良らの墓と共に長良の墓もこの地に移され、壮麗な御影石の墓石が並ぶ御霊屋に、手厚く改葬されたのである 33 。
この事実は、後の川久保鍋島家の当主たちが、家の礎を築いた恩人である長良の功績を決して忘れず、一族の祖として深く敬慕し続けていたことを示す、何よりの証左と言えよう。武力ではなく、先見の明によって一族を救った神代長良。その名は、肥前の地に確かな繁栄として刻み込まれたのである。