戦国時代の越中国(現在の富山県)は、地政学的に極めて特異な位置にあった。東に越後の上杉氏、西に加賀の一向一揆、南東には甲信の武田氏という強大な勢力に囲まれ、後には中央から織田氏の勢力が波及する「境目の国」(さかいめのくに)であった 1 。このため、越中では一国を統一する強力な戦国大名は育たず、在地領主である国人たちは、常に周辺大国の思惑に翻弄され、複雑な外交と絶え間ない抗争の中で生き残りを図ることを余儀なくされた 1 。
本報告書の主題である神保覚広(じんぼう さとるひろ)は、まさにこの動乱の時代を生きた越中の武将である。彼が属した神保氏は、室町幕府管領であった畠山氏の譜代家臣として越中守護代を務めた名門であった 5 。応仁の乱や明応の政変では中央政局にも影響を及ぼすほどの勢威を誇ったが、上杉謙信の父・長尾為景との抗争の末に当主・神保慶宗が自刃し、一度は壊滅的な打撃を受ける 5 。その後、慶宗の子とされる神保長職(ながもと)が富山城を築いて家を再興し、再び越中を席巻する勢いを見せるが、これが越後上杉氏の介入を招き、神保家中は深刻な内紛状態に陥った 5 。神保覚広は、この神保家が親上杉派と反上杉派に分裂する中で、親上杉派の中核を担った人物として歴史の表舞台に登場する。
しかし、覚広に関する記録は断片的であり、その生涯の全貌を体系的に論じた研究は少ない。本報告書は、国宝『上杉家文書』をはじめとする一次史料や各種記録を丹念に渉猟し、神保覚広という一人の武将の生涯を再構築することを目的とする。彼の行動原理、主家や周辺勢力との関係、そしてその最期を明らかにすることを通じて、戦国期越中の複雑な政治・軍事情勢を浮き彫りにし、大国の狭間で翻弄されながらも主体的に生き抜こうとした「境目の国」の武将の実像に迫るものである。
西暦(和暦) |
神保覚広の動向 |
越中・周辺情勢 |
主要関連人物 |
1568年(永禄11)頃 |
神保家中の親上杉派として活動を開始。 |
神保家が親上杉派と反上杉派(武田・一向一揆派)に分裂 9 。 |
神保長職、神保長住、小島職鎮 |
1569年(永禄12) |
長尾(上杉)氏と神保氏の和睦交渉を仲介 5 。 |
上杉謙信、越中に第四次出兵。椎名康胤が武田方へ離反 1 。 |
上杉謙信 |
1571年(元亀2) |
主君・長職が武田・本願寺方へ転じるも、これに従わず親上杉の立場を堅持 7 。 |
上杉謙信と北条氏康の越相同盟が破綻。武田信玄が西上作戦を開始 11 。 |
神保長職、武田信玄 |
1572年(元亀3) |
5月、一向一揆に居城・火宮城を包囲され、上杉方に援軍を要請(神保覚広他三名連署状) 11 。 |
加賀・越中一向一揆が蜂起。上杉方の救援軍が敗退 12 。 |
小島職鎮、山本寺定長 |
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6月、火宮城を開城し、能登・石動山へ退避 13 。 |
一揆勢が富山城を占拠。謙信が尻垂坂の戦いで一揆勢を破る 1 。 |
上杉謙信 |
1578年(天正6) |
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上杉謙信が急死。織田信長が越中へ侵攻を開始し、神保長住が帰還 1 。 |
織田信長、神保長住 |
1579年(天正7)頃 |
織田・神保長住方に一時的に従属 5 。 |
織田方の佐々成政が越中に入国し、上杉勢力と交戦 15 。 |
佐々成政 |
1582年(天正10) |
3月、「信包」と改名。上杉景勝と密約を結び、富山城の神保長住を急襲・幽閉するクーデターを敢行 16 。 |
佐々成政・神保長住が不在。織田軍の反撃で富山城を追われ、五箇山へ逃れる 15 。 |
小島職鎮、唐人親広 |
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6月、 |
本能寺の変で織田信長が死去。 |
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7月、上杉景勝に対し、織田方混乱の好機に乗じた越中出兵を要請する連署状を送る 5 。 |
織田軍が越中から一時撤退。上杉景勝は信濃情勢等で越中出兵はできず 2 。 |
上杉景勝、直江兼続 |
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これ以降、史料から消息が途絶え、まもなく死去したとみられる 5 。 |
佐々成政が越中支配を再確立。 |
佐々成政 |
神保覚広の正確な生没年は不明であるが、史料からは永禄年間(1560年代)から天正10年(1582年)にかけて、越中の政治・軍事の舞台で活動したことが確認できる 5 。
彼の名は、時期によって二つの名乗りが伝えられている。当初は「覚広」と名乗り、これは「ただひろ」あるいは「よしひろ」と読まれたとみられる 5 。しかし、天正10年(1582年)頃の史料には「信包」(のぶかね)という名で登場する 5 。この「信包」という名は、当時中央で覇権を確立しつつあった織田信長の弟・信包にあやかったものと考えられており、覚広の政治的立場が、越中を席巻した織田勢力へ一時的に傾いたことを示す重要な指標である 5 。このように、彼の改名は単なる個人的なものではなく、越中の支配者が誰であるかを敏感に察知し、それに適応しようとする戦略的な行動であった。彼の名は、まさに越中の勢力図を映し出す政治的な気圧計の役割を果たしていたのである。
系譜上、覚広は神保宗家の当主・神保長職の重臣であり、同時に神保一門の一人であった 5 。その詳しい血縁関係は不明ながら、天文23年(1554年)に守山城主であった神保職広(ひろしげ)と、覚広の名に共通して「広」の字が用いられていることから、両者が父子関係にある可能性が指摘されている 5 。もしこの推測が正しければ、覚広は守山城を拠点とする神保氏の有力な分家筋の出身であったということになる 22 。
覚広が歴史の表舞台に登場する背景には、神保家を二分した深刻な路線対立があった。宗家の嫡男である神保長住(ながずみ、初名は長城)を中心とする一派は、甲斐の武田信玄や加賀の一向一揆と結び、上杉氏に対抗する反上杉路線を主張した 9 。これに対し、覚広は家老の小島職鎮(もとしげ)らと共に、越後との協調を重視する親上杉派の中核を形成した 7 。この対立は単なる家中の権力闘争ではなく、周辺大国のいずれと手を結び、いかにして生き残るかという、神保氏の存亡を賭けた外交戦略上の根本的な対立であった。
覚広は早くから親上杉派の重鎮として頭角を現していた。永禄12年(1569年)には、上杉氏と神保氏の和睦交渉において仲介役を務めたことが記録されており、この時点で既に上杉方から信頼される交渉窓口としての地位を確立していたことがわかる 5 。また、同年に上杉輝虎(謙信)が覚広の家臣の反逆に際して鎮圧のために越中へ出兵したという記録も『越佐史料』に見られ、彼が自派閥内の統制に苦慮しつつも、上杉氏との緊密な関係を維持していた複雑な状況がうかがえる 23 。
彼の政治姿勢を最も象徴するのは、主君・神保長職との関係である。長職の外交方針は、上杉と武田の間で揺れ動いた。元亀2年(1571年)、長職が再び謙信に背き、武田信玄や本願寺と結ぶという重大な方針転換を行った際、覚広と小島職鎮は主命に従うことを拒否した 7 。彼らはあくまで親上杉の立場を貫き、その結果、主君が同盟を結んだはずの一向一揆勢から攻撃を受けるという皮肉な事態に陥ったのである 7 。この行動は、戦国期の「境目の国」における武将の「忠誠」が、単に封建的な主従関係に帰結するものではなかったことを示している。覚広の忠誠は、主君個人ではなく、神保家の存続に不可欠と信じる「親上杉」という外交政策そのものに向けられていた。これは単なる反抗ではなく、自らの政治的判断に基づき行動する、半ば独立した政治主体としての一面を明確に示している。
神保家中の分裂が決定的になると、覚広ら親上杉派は、越中の主要街道である北陸道に面した要衝、火宮城(ひのみやじょう、日宮城とも記す)に立て籠もった 13 。現在の富山県射水市に位置したこの城は、独立性の高い複数の郭(くるわ)から構成される丘城であり、防衛拠点として優れた構造を持っていた 13 。覚広、小島職鎮らはこの城を拠点化し、反上杉派の長住らが掌握する神保宗家に対抗する活動拠点とした 9 。これにより、火宮城は神保領内における「親上杉派の亡命政府」とも言うべき存在となった。
元亀3年(1572年)、武田信玄の西上作戦に呼応し、加賀・越中の一向一揆が反上杉勢力として一斉に蜂起した 1 。彼らの主な攻撃目標は、上杉方の最前線拠点である火宮城であった 13 。
同年5月23日付で、城内の神保覚広、小島職鎮、安藤職張、水越職勝の四将が連署した救援要請状が上杉氏へと送られた。この書状は、当時の緊迫した状況を生々しく伝える第一級の史料として、現在国宝『上杉家文書』の中に収められている 11 。この要請を受け、上杉方は救援部隊を派遣したが、部隊は城に到着する前に一揆勢の迎撃に遭い、大敗を喫してしまった 12 。
援軍の望みが絶たれたことで、覚広ら城兵の士気は大きく揺らいだ。籠城を続けても活路はないと判断した彼らは、同年6月15日、一揆勢と和議を結び、城を明け渡した 13 。玉砕を選ぶのではなく、交渉によって退路を確保した点に、覚広の現実的な判断力と指導力がうかがえる。
火宮城を明け渡した覚広らが次なる避難場所として選んだのは、能登と越中の国境にそびえる石動山(いするぎやま)であった 13 。この選択は、単なる逃避行ではなかった。石動山は、天平寺(てんぴょうじ)を中核とする巨大な山岳信仰の霊場であり、武装した修験者(衆徒)を多数擁する、それ自体が一つの政治的・軍事的勢力であった 31 。
さらに重要なのは、石動山が上杉氏の勢力圏内にあったことである。上杉謙信は以前、その戦略的重要性に着目して石動山に城砦を築き、直江景綱といった重臣を配置していた 36 。したがって、覚広らの退避は、自派の拠点であった城から、同じく上杉方である友好的な宗教要塞へと移る、極めて合理的な戦略的後退であった。この行動は、戦国期において有力な寺社勢力が、庇護、同盟、軍事支援を提供する独立したアクターとして機能していたことを示す好例である。覚広は地域のパワーバランスを熟知しており、その知識を駆使して自派の指導部と戦力を温存し、再起の機会をうかがったのである。
天正6年(1578年)の上杉謙信の急死は、北陸の勢力図を一変させた。この好機を逃さず、織田信長は北陸方面への侵攻を本格化させ、信長の後ろ盾を得た神保長住が越中に帰還し、織田方の支配体制が確立されていった 1 。
この新たな政治状況下で、神保覚広は一時的に織田・長住方に帰順したものとみられる 5 。彼がこの時期に「信包」と改名したことは、新しい覇者である織田氏への服従を内外に示すための、計算された政治的行動であったと考えられる。
覚広の織田方への服従は、あくまで表面的なものであった。天正10年(1582年)3月、彼は再び上杉景勝と密約を結ぶ 10 。景勝から太田保の領有と越中の支配権を約束された覚広(信包)は、小島職鎮らと共に、佐々成政と神保長住が信長の京都での馬揃えのために越中を留守にした絶好の機会を捉え、富山城を急襲して長住を幽閉するというクーデターを敢行した 9 。この電撃的な作戦は成功し、長住は失脚、越中から永久に追放されることとなった。
しかし、覚広らの勝利は長くは続かなかった。報せを受けた佐々成政の軍がただちに反撃に転じ、覚広らは富山城を支えきれず、五箇山の山中へと逃げ込むことを余儀なくされた 15 。
この窮地を救ったのは、同年6月に起きた本能寺の変であった。信長の死による織田方の混乱という千載一遇の好機が訪れたのである。同年7月5日、神保覚広(信包)は、神保昌国、斎藤信利らと共に連署状を上杉景勝(宛先は直江兼続)に送り、織田軍が動揺している今こそ越中へ出兵すべきであると強く要請した 5 。これが、神保覚広の動向を伝える最後の確実な史料である。
天正10年7月の書状を最後に、神保覚広は歴史の記録から忽然と姿を消す。複数の史料が一致して「その後、没したと見られる」と記述していることから 5 、この直後に佐々成政との抗争の中で戦死したか、あるいは混乱の中で病没するなどして、間もなく死去したことはほぼ間違いない。しかし、その死の具体的な状況を伝える史料は現存しない。
覚広に直系の子孫がいたという記録はなく、彼の死と共にその家系は途絶えたと考えられる 5 。神保氏の宗家嫡流は長住の追放をもって事実上滅亡し、庶流の神保氏張の家系が徳川氏に仕えて旗本として存続したに過ぎない 5 。
天正10年のクーデターと本能寺の変後の書状は、一連の計画的な行動であった。第一段階として、織田方の代理人である長住を排除する。そして第二段階として、信長の死によって生じた権力の空白を埋めるべく、後ろ盾である上杉景勝を呼び込む。これは、上杉氏の越中支配を回復するための、周到かつ大胆な賭けであった。しかし、景勝自身も新発田重家の反乱への対処など領内の問題に追われ、越中へ大規模な軍を動かすことができなかった 2 。その結果、覚広らは佐々成政の反撃の前に孤立無援となり、最後の賭けは失敗に終わった。彼の生涯は、大国の動向に常に左右され、一度の判断ミスが即座に破滅につながる「境目の国」の武将の典型的な姿を映し出している。
神保覚広の生涯を貫く行動原理は、一貫した「親上杉」という政治路線であった。彼は織田氏の覇権下で一時的な帰順や改名といった柔軟な戦術を見せながらも、その根底には常に上杉氏との連携を通じて越中における自派の勢力を維持・拡大しようとする戦略があった。彼の行動は、戦国時代の「忠誠」という概念が、単純な主従関係ではなく、派閥、政策、そして何よりも生き残りのための現実的な計算に基づいた、多層的で複雑なものであったことを物語っている。
覚広の人生は、上杉、武田、織田という巨大勢力の狭間で生きることを強いられた「境目の国」の武将の宿命を体現している。彼の成功も失敗も、すべては中央や周辺大国の動向と不可分に結びついていた。彼の巧みな政治的立ち回りと、その末の悲劇的な結末は、中央の政変がいかに地方の将の運命を無慈悲に左右したかを示す、力強いケーススタディと言える。
神保覚広は、戦国時代の主役ではない。しかし、断片的な史料をつなぎ合わせることで見えてくるのは、単なる受動的な家臣ではなく、自らの政治的信念に基づき、主体的に行動した知勇兼備の武将の姿である。彼は派閥抗争、外交、籠城戦、そしてクーデターという、戦国時代のあらゆる手段を駆使して激動の時代を駆け抜けた。その生涯は、戦国期という時代の地域史をより深く理解するための、貴重な鍵となる人物として再評価されるべきであろう。