最終更新日 2025-06-16

神生通朝

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常陸江戸氏衰亡の序曲:神生通朝と「神生の乱」に関する総合的考察

序論

本報告書は、戦国時代末期の常陸国にその足跡を遺した武将、神生通朝(かのう みちとも)の生涯と、彼が中心人物となって引き起こした内乱「神生の乱」の全貌を、現存する史料と近年の研究成果に基づき、包括的に分析・解明するものである。この一連の出来事が、常陸国水戸地方の支配者であった常拓江戸氏の権力基盤をいかにして内側から蝕み、最終的にその滅亡を決定づけたのか、その因果の連鎖を詳細に論証することを主たる目的とする。

神生通朝は、単なる反乱者という一面的な評価では捉えきれない複雑な人物である。彼は、主家である江戸氏の重臣の中でも特に「江戸ノ四殿」と称されるほどの要職を占めていた 1 。そのような人物が、なぜ主家に対して刃を向けるという破滅的な行動に至ったのか。彼の決断の背後には、戦国末期の在地領主が共通して抱えていた構造的な矛盾と、時代の激動に翻弄された個人の悲劇が影を落としている。

そして、彼が引き起こした「神生の乱」は、江戸氏一族内部の権力闘争という側面に留まらない。その発端には「徳政令」という社会経済政策を巡る深刻な対立があり、さらには常陸国の覇権を狙う佐竹氏や、奥州から触手を伸ばす伊達氏といった周辺大大名の思惑が複雑に絡み合う、複合的な性格を帯びていた 2 。本稿では、この内乱が単なる一過性の事件ではなく、名門・常陸江戸氏の長い歴史に終止符を打つ「衰亡の序曲」であったことを、多角的な視点から明らかにしていく。

第一章:背景 ― 戦国末期の常陸国と江戸氏

「神生の乱」が勃発した歴史的舞台、すなわち16世紀後半の常陸国の政治情勢と、その中で江戸氏が置かれていた特異な立場、そして物語の主役である神生氏の出自について、まずは詳述する。

第一節:北関東の地政学 ― 佐竹・北条・伊達の角逐

天正年間(1573-1592)の常陸国は、複数の大勢力がぶつかり合う地政学的な要衝であった。北には「鬼義重」と恐れられた佐竹義重が率いる佐竹氏が関東の雄として君臨し、南からは小田原を本拠とする後北条氏が勢力を伸長、そして北方の奥州からは、後に「独眼竜」として天下に名を馳せる伊達政宗が虎視眈々と南下の機会を窺っていた 4 。これら三つの勢力は、互いに同盟と敵対を繰り返しながら、複雑な牽制関係を構築しており、常陸国はその最前線に位置していたのである。

この中で常陸江戸氏は、常陸守護である佐竹氏の勢力圏に属し、形式的にはその配下、あるいは同盟者という立場にあった 3 。しかし、その一方で、独自の判断で南方の鹿島・行方方面へ進出するなど、独立した戦国領主としての行動も見せている 7 。天正3年(1575)には、織田信長によって従五位下・常陸介に任ぜられるなど、その実力は中央にも認められていた 7 。この佐竹氏への「従属」と、一領主としての「自立」という二面性の間で保たれる微妙なバランスこそが、江戸氏の行動原理と、後に起こる悲劇を理解する上で極めて重要な鍵となる。

第二節:水戸の支配者・常陸江戸氏の権力構造

常陸江戸氏は、鎮守府将軍・藤原秀郷の流れを汲む那珂氏を祖とする、常陸国でも屈指の名族である 8 。南北朝時代の戦功により那珂郡江戸郷を領有し、江戸氏を称したのがその始まりとされる 9 。室町時代の応永年間には、それまで水戸地方を支配していた大掾(だいじょう)氏一族を追放して水戸城を奪取し、以後、名実ともに常陸中部の支配者として君臨した 2

その家臣団は、古くからの一族や譜代の家臣に加え、領地拡大の過程で服属していった在地土豪たちによって構成されていた 3 。中でも、当主・江戸重通の時代には、谷田部通胤(やたべ みちたね)、篠原通知(しのはら みちとも)、そして本稿の中心人物である神生通朝と江戸通澄(えど みちずみ)の四名が「江戸ノ四殿」と尊称され、家中の最高意思決定を担う重臣として絶大な影響力を持っていた 1

この「四殿」という特異な呼称は、江戸氏の権力構造が内包する脆弱性を暗示している。それは、当主一人の下に権力が集中する中央集権的な体制ではなく、有力な家老たちによる集団指導体制、あるいは寡頭制に近い統治形態であった可能性を示唆するものである。このような体制は、平時においては家中の安定に寄与する一方で、一度重臣間で深刻な対立が生じた場合、当主の権威だけではそれを抑えきれず、家中を二分する内乱へと容易に発展しうる構造的欠陥を抱えていた。事実、「神生の乱」はまさにこの「四殿」のうちの二人、神生通朝と江戸通澄の対立から勃発する。当主・江戸重通は当初、両者の調停を試みたものの成功せず、結果的に一方に加担せざるを得ない状況へと追い込まれていく 3 。これは、当主の権力が重臣間の対立を調停するには不十分であったことの何よりの証左と言えよう。

第三節:神生氏の出自と本拠・大部城(神生館)

神生(かのう)氏の明確な出自については、残念ながら史料に乏しく断定はできない。しかし、「神生」という地名は常陸国内に散見されることから、その地名に由来する在地領主であったと推測される 11 。彼らは常陸江戸氏の家臣として、水戸城の北西に位置する飯富(いいとみ)地域(現在の水戸市飯富町)一帯を所領とし、その地に居館を構えていた 13 。神生通朝自身は、「遠江守(とおとうみのかみ)」あるいは「右衛門大夫(うえもんのだいぶ)」といった官途名を名乗っており、これは彼が江戸氏家臣団の中でも非常に高い地位にあったことを示している 1

神生氏の居城は、「神生館(かのうやかた)」または「大部城(おおぶじょう)」と称された 13 。現在、水戸市飯富町に残る城跡の発掘調査や地表観察からは、戦国時代末期の築城技術を反映した土塁や堀といった遺構が確認されている 16 。特に「神生堀」と通称される堀の遺構は、当時の在地領主の館が有していたであろう規模と防御意識の高さを今に伝える貴重な考古史料である 15 。興味深いことに、その縄張り(城の設計)には、主家である江戸氏の居城・河和田城に見られる二重堀構造との類似性が指摘されており、神生氏が江戸氏の城郭建築様式の影響を強く受けていた可能性が考えられる 16 。この城が、やがて江戸氏の命運を揺るがす内乱の拠点となるのである。

第二章:「神生の乱」― その原因と展開

天正16年(1588年)、常陸江戸氏の内部で勃発した「神生の乱」。この章では、内乱の直接的な原因となった二人の人物の対立構造と、その背景にある政治的・経済的要因を深く掘り下げ、戦闘の具体的な経過を時系列に沿って再構築する。

第一節:対立の二極 ― 神生遠江守通朝と江戸信濃守通澄

「神生の乱」は、二人の重臣の個人的な確執が引き金となったと伝えられる。しかしその対立の根は深く、単なる個人の感情論では説明できない、江戸氏家臣団が抱える構造的な問題にまで達していた。

まず、神生通朝は、江戸氏が古くから支配の根幹としてきた「中妻三十三郷」と呼ばれる地域に本拠を置く、伝統的な在地領主層を代表する人物であったと考えられる 14 。彼は、江戸氏に古くから仕える譜代家臣たちの利害を代弁する立場にあったと推測される。

一方、彼と対立した江戸通澄は、史料に「江戸(御宿)信濃守通澄」と記されている点が極めて重要である 1 。「御宿(みしゅく)」という姓は、本来、駿河国(現在の静岡県)を本貫とする氏族であり、常陸国とは直接的な地縁がない 19 。この事実は、江戸通澄が江戸氏生え抜きの譜代家臣ではなく、外部から登用された新興勢力、あるいは武田氏や後北条氏といった他大名家に仕えた後に常陸へ流れてきた武将であった可能性を強く示唆している。

戦国大名が、旧来の家臣団に加えて能力のある浪人などを積極的に登用し、自らの権力強化を図ることは珍しくない。当主・江戸重通が、外部の血を引く可能性のある通澄を重用し、「江戸ノ四殿」の一人にまで抜擢したことが、神生通朝に代表される譜代家臣層の強い反発を招いたとしても不思議ではない。この対立は、単なる個人的な不和ではなく、多くの戦国大名家で見られた「在地譜代勢力」対「当主側近の新興勢力」という、典型的な派閥抗争の構図であったと解釈できる。神生通朝と江戸通澄の対立は、この根深い構造的問題が表面化したものだったのである。

なお、歴史研究においては、江戸通澄(みちずみ)と同時代に、同名の漢字で「道澄(どうちょう)」と読む、京都の公家・近衛家出身の高僧、聖護院門跡が存在することに注意が必要である 21 。両者は全くの別人であり、史料を扱う際にはこの混同を避けなければならない。本報告書が対象とするのは、あくまで常陸江戸氏の家臣である武将・通澄である。

第二節:発火点としての徳政令

両者の対立が武力衝突へと発展する直接的なきっかけは、「徳政令」の施行を巡る意見の対立であったと伝えられる 3

戦国時代における徳政令は、単に借金を帳消しにする法令というだけではない。大名が代替わりや戦勝後、あるいは天災や飢饉に見舞われた際に、領民に対して仁政、すなわち「徳のある善い政治」を行っていることを示すための重要な政治的パフォーマンスでもあった 24 。しかし、その施行は商人や金融業者といった債権者に一方的な犠牲を強いるため、領国の経済秩序を根底から揺るがしかねない、まさに両刃の剣であった。

この徳政令を巡る対立は、前述した家臣団内部の新旧勢力対立が、経済的な利害の対立と密接に結びついていたことを浮き彫りにする。すなわち、軍役の負担などで経済的に困窮しがちな在地領主層は、自らの救済策として徳政令の実施を強く求めたであろう。神生通朝は、この層の代弁者であった可能性が高い。一方で、当主側近である江戸通澄は、城下町の繁栄や安定した税収を確保するために不可欠な商人・富裕層との関係を重視し、経済の混乱を招く徳政令の安易な発布には反対の立場をとったと推測される。

このように、徳政令問題は単なる政策論争ではなかった。それは、江戸氏家臣団の内部に存在した、「土地に根差す伝統的な武士層」と、「領国経営や商業資本と結びつく新たな支配層」という、異なる経済基盤を持つ二つの集団の、抜き差しならない利害対立だったのである。この経済的断層が、既存の派閥抗争と結びついた時、もはや話し合いによる解決は不可能となり、事態は武力による決着へと突き進んでいった。

第三節:天正十六年、水戸の攻防

天正16年(1588年)12月5日、円通寺住持の仲介による和解交渉も虚しく、ついに江戸通澄は水戸城下で兵を挙げ、那珂川のほとりにあった神生氏の屋敷を襲撃した 3 。ここに「神生の乱」の火蓋が切られたのである。

不意を突かれた神生通朝は、一旦、本拠地である飯富の大部城へと退却し、体勢を立て直した。そして翌6日、彼は反撃に転じる。事態を重く見た当主・江戸重通は、通澄方への支援を決め、自らの嫡男である小五郎通升(みちます)を大将の一人として大部城攻撃の軍に派遣した。しかし、この決断が江戸氏にとって致命的な結果を招く。この大部城を巡る戦いの中で、江戸氏の未来を担うべき嫡男・通升が、神生方の手によって討ち取られてしまったのである 2

この内乱の激しさは、同時代の史料である『和光院過去帳』の記録からも窺い知ることができる。この記録には、12月5日と6日の両日で、江戸一門の者を含む多数の戦死者の名が記されており、水戸城内外で凄惨な市街戦が繰り広げられたことが示唆されている 3 。特に、神生方には鯉淵(こいぶち)氏一族が多く加わっていたとされ、この乱が神生氏単独の反乱ではなく、通澄ら新興勢力に不満を抱く旧来の在地領主層を巻き込んだ、大規模な内訌であったことがわかる 2

嫡男を失った江戸氏本隊の怒りは凄まじく、その猛攻の前に神生軍は支えきれなくなった。神生通朝はついに本拠地である大部城を放棄し、北方に勢力を持つ額田(ぬかだ)城主・小野崎照通(おのさき てるみち)を頼って落ち延びた 2 。これにより、乱は江戸氏の内部抗争という段階を終え、常陸国全体を巻き込む新たな局面へと移行していくことになる。

【表1】「神生の乱」関係者・勢力図

勢力

主要人物

立場・動向

関連史料

神生派(旧来在地勢力)

神生通朝(遠江守・右衛門大夫)

「江戸ノ四殿」。徳政令推進派か。江戸通澄と対立し挙兵。敗走し小野崎氏を頼る。

1

鯉淵氏一族

神生氏に同調し、共に蜂起。一族に多くの戦死者を出す。

2

江戸当主・通澄派(新興勢力)

江戸重通(当主)

当初は仲介を試みるも、最終的に通澄を支援。嫡男・通升を失う。

2

江戸通澄(信濃守)

「江戸ノ四殿」。「御宿」の称を持つ。徳政令反対派か。神生氏を攻撃。乱の終結と同年に死去。

1

江戸通升(小五郎)

重通の嫡男。大部城攻撃に参加するも、神生方に討たれ戦死。

2

外部勢力(介入)

小野崎照通(額田城主)

佐竹氏配下だが、伊達氏と通じる。神生通朝を庇護し、江戸・佐竹連合軍と対立。

13

佐竹義重・義宣

常陸守護。宗主として江戸氏を支援し、小野崎氏の拠る額田城を攻撃。

2

伊達政宗

佐竹氏の敵対勢力。小野崎氏を背後から支援し、佐竹領内の混乱を画策。

2

第三章:波紋と終焉 ― 乱がもたらしたもの

神生通朝の敗走は、決して事件の終わりを意味しなかった。むしろ、一在地領主の内訌はここから常陸国を舞台とした地域紛争へと拡大し、その波紋は最終的に主家である江戸氏そのものの命運を尽きさせる直接的な原因となる。

第一節:地域紛争への拡大 ― 大大名の代理戦争

神生通朝を自領にかくまった額田城主・小野崎照通に対し、江戸重通は主家の反逆者である通朝の身柄を引き渡すよう厳しく要求した。しかし、照通はこれを拒否。業を煮やした江戸氏は、翌天正17年(1589年)の春、宗主である佐竹義重からの援軍を得て、小野崎氏の拠点・額田城への攻撃を開始した 2

この時、小野崎照通は単独で江戸・佐竹連合軍に立ち向かったわけではない。彼は密かに奥州の伊達政宗と通じていたのである。政宗にとって、宿敵・佐竹氏の領内で発生したこの内紛は、佐竹の勢力を削ぐ絶好の機会であった。彼は照通を背後から支援し、さらには「この機に江戸氏を滅ぼし、その旧領をお前に与えよう」とまで持ちかけて、紛争への介入を深めていった 2

この時点で、「神生の乱」はもはや江戸氏の手を完全に離れ、佐竹氏と伊達氏という、北関東と南奥州の覇権を巡るより大きな権力闘争の代理戦争へと変質した。在地領主の内部抗争が、大大名同士の勢力争いの駒として利用されるという、戦国時代末期に典型的に見られる現象がここでも起きていたのである。神生通朝が個人的な対立から起こした反乱は、期せずして大大名同士の衝突の火種となり、常陸国の情勢を一層複雑化させた。

第二節:乱の終結と江戸氏の弱体化

佐竹・伊達両陣営の思惑が交錯する中、額田城を巡る戦いは膠着状態に陥った。しかし、天正17年5月9日、両者の間で和議が成立。その条件に基づき、神生右衛門大夫(通朝)は額田城を退去し、結城氏のもとへ奔ったとされる 3 。さらに、乱のもう一方の当事者であった江戸通澄も同月20日に死去したことで、一年にわたって続いた騒乱はようやく物理的な終息を迎えた 3

しかし、戦いは終わっても、この内乱が江戸氏に残した傷跡は計り知れないほど深く、致命的であった。

第一に、後継者の喪失である。嫡男・通升の戦死は、家の将来を担うべき血筋を絶たれたことを意味し、当主・重通の求心力を著しく低下させた 2。

第二に、家臣団の分裂である。家中を二分した激しい戦闘は、生き残った家臣たちの間に修復不可能な亀裂と相互不信を生んだ。多くの有能な武将が命を落とし、江戸氏の軍事力そのものが大きく減退したことは想像に難くない。

第三に、経済的疲弊である。内乱と、それに続く額田城攻めに費やされた膨大な軍事費は、江戸氏の財政を深刻に圧迫した。

そして第四に、宗主・佐竹氏への依存度の高まりである。自家の内乱を鎮圧するために佐竹氏の軍事力に頼らざるを得なかったという事実は、江戸氏の佐竹氏に対する立場を決定的に弱め、その独立性を著しく損なわせる結果となった。

第三節:水戸城陥落 ― 戦国領主江戸氏の最期

「神生の乱」が終結した翌年の天正18年(1590年)、日本の歴史は大きく動く。豊臣秀吉による小田原征伐である。この天下統一事業において、佐竹義宣はいち早く秀吉に臣従の意を示し、その功績によって常陸一国(54万石)の支配権を公的に安堵された 7

秀吉という絶対的な権威を後ろ盾に得た佐竹義宣は、悲願であった常陸統一を完成させるべく、国内の不服従勢力の掃討に乗り出す。その最大の標的となったのが、常陸中部に勢力を張る江戸氏であった。この時、江戸重通は後北条氏と誼を通じていたためか小田原への参陣に遅れ、これが佐竹氏に介入の口実を与えた。佐竹氏は水戸城の明け渡しを要求するが、重通はこれを拒否して抵抗の構えを見せる。しかし、「神生の乱」によって後継者を失い、家臣団は分裂、軍事・経済ともに疲弊しきっていた江戸氏に、常陸統一の大義名分を得た佐竹の大軍に抗する力はもはや残されていなかった。同年12月、水戸城は佐竹軍の攻撃の前にあえなく落城。当主・重通は追放され、応永年間以来、約170年にわたって水戸を支配した戦国領主・常陸江戸氏の歴史は、ここに幕を閉じたのである 9

江戸氏の滅亡は、豊臣政権の成立という大きな時代の潮流の中で起きた出来事ではあるが、その直接的な引き金を引いたのは、わずか2年前に終結した「神生の乱」であったことは疑いようがない。もしこの内乱がなければ、江戸氏は家中の結束と軍事力を保ったまま、佐竹氏に対してより有利な立場で小田原征伐後の交渉に臨めた可能性が高い。そうなれば、所領の一部を安堵されるなど、少なくとも一方的に滅ぼされるという最悪の結末は避けられたかもしれない。しかし現実は、内乱によって自壊し、その弱みを宗主・佐竹氏に見透かされた結果の滅亡であった。神生通朝の反乱は、結果として主家そのものを破滅へと導く、まさに「衰亡の序曲」となったのである。

【表2】「神生の乱」から江戸氏滅亡までの年表

年月

出来事

影響・意義

関連史料

天正16年(1588) 12月5日

江戸通澄、水戸城下で挙兵。神生通朝の屋敷を襲撃。

「神生の乱」勃発。

3

天正16年(1588) 12月6日

神生通朝、大部城にて反撃。江戸氏嫡男・通升が戦死。

江戸氏にとって最大の打撃。後継者を失う。

2

同日

神生通朝、敗走し額田城の小野崎照通を頼る。

乱が江戸氏の内部問題から、佐竹領内の地域紛争へと拡大。

2

天正17年(1589) 春

江戸・佐竹連合軍、額田城を攻撃。伊達政宗が小野崎氏を支援。

佐竹氏と伊達氏の代理戦争の様相を呈する。

2

天正17年(1589) 5月9日

和議成立。神生通朝は額田城を退去。

乱の戦闘行為が終結。

2

天正17年(1589) 5月20日

江戸通澄、死去。

乱の主要人物が両者とも舞台から去る。

3

天正18年(1590)

豊臣秀吉、小田原征伐。佐竹義宣が常陸統一の大義名分を得る。

江戸氏の運命を左右する外部環境の激変。

4

天正18年(1590) 12月

佐竹義宣、水戸城を攻略。当主・江戸重通は追放される。

戦国領主・常陸江戸氏の滅亡。「神生の乱」による弱体化が直接的な要因となる。

9

結論

本報告書で詳述してきた通り、神生通朝という一人の武将とその反乱は、常陸江戸氏の歴史において決定的な転換点となった。

神生通朝の歴史的評価は、単なる裏切り者や反逆者として断じるべきではない。彼は、江戸氏の重臣「四殿」の一人として権勢を振るう一方で、変質していく主家の権力構造と、自らが代表する在地領主層の利害との狭間で苦悩し、最終的に破滅的な行動へと至った悲劇の人物として再評価されるべきである。彼の行動は、個人的な野心というよりも、自らが属する集団の窮状を代弁した結果であった可能性が極めて高い。

「神生の乱」そのものも、複合的な要因が絡み合った事件であった。それは、①神生通朝と江戸通澄という個人の対立に始まり、②徳政令の施行を巡る経済政策上の対立、③在地譜代層と当主側近の新興層という根深い派閥抗争、そして④佐竹氏と伊達氏という外部勢力の介入という、四つの異なる次元の対立が連鎖し、増幅した結果であった。この複合性こそが、本事件の歴史的分析を興味深く、また重要たらしめている。

最終的に、「神生の乱」は、戦国時代から統一政権へと移行する激動の過渡期において、一つの内乱がいかにして大名の命運を左右し得たかを示す、歴史の好例と言える。内部に権力構造の脆弱性を抱え、家臣団の分裂という致命的な傷を負った地域権力は、豊臣秀吉による天下統一という外部からの巨大な圧力に抗することができず、淘汰されていく運命にあった。神生通朝と常陸江戸氏が辿った悲劇は、戦国乱世の終焉を象徴する一つの縮図であり、歴史の非情さと複雑さを我々に教えてくれるのである。

引用文献

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  6. 史伝 『仙台藩主伊達政宗と 官房長官 茂庭綱元』 https://hsaeki13.sakura.ne.jp/satou20231201.pdf
  7. 【江戸氏の時代】 - ADEAC https://adeac.jp/mito-lib/text-list/d900010/ht000290
  8. ―常陸戦国に 名を 遺し た武家の 歴史― - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/46/46971/122839_1_%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%B8%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%87%8E%E6%9C%9B%E2%94%80%E5%B8%B8%E9%99%B8%E6%88%A6.pdf
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  11. 水戸市の小城館 - 北緯 36度付近の中世城郭 http://yaminabe36.tuzigiri.com/ibaraki_kita2/mitosyuuhen.htm
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