福原資孝(ふくはら すけたか)は、日本の戦国時代、下野国那須郡(現在の栃木県北東部)にその名を刻んだ武将である。一般的には、那須家を支えた「那須七党」の一角、福原氏の当主として知られるが、その実像は単なる一地方領主の枠に収まるものではない。彼は、兄の大関高増、弟の大田原綱清らと共に、主家である那須氏の権力を巧みに浸食し、一族の勢力基盤を確立した中心人物であった。その生涯は、中央の政局から距離を置いた辺境の地で繰り広げられた、地方武士の生存戦略と権力闘争の生々しい縮図と言える。
資孝が生きた時代の那須地方は、地政学的に極めて不安定な状況にあった。北には会津の蘆名氏、南には常陸の佐竹氏と下野の宇都宮氏、そして西からは関東に覇を唱えんとする相模の後北条氏という大勢力がひしめき合い、その勢力圏の狭間で常に緊張に晒されていた。
このような外部環境に加え、那須氏の内部構造もまた脆弱であった。主家である烏山城の那須氏の統制力は盤石とは言えず、「那須七党」または「那須衆」と呼ばれる有力な一族・家臣団は、それぞれが高い独立性を保持していた 1 。彼らは時に連合し、時には主家にさえ反旗を翻すことも厭わない存在であり、この権力の分散と内部の不統一こそが、福原資孝ら大田原一族が台頭し、那須家中の実権を掌握する土壌となったのである。資孝の物語は、この混沌とした下野の地で、一族の存続と繁栄を賭けて冷徹な権謀術数を駆使した、一人の武将の記録である。
年代(西暦) |
福原資孝および関連人物の動向 |
日本史上の主要な出来事 |
大永7年(1527) |
兄・大関高増が生まれる 4 。 |
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享禄年間?(1528-1532) |
福原資孝、大田原資清の次男として誕生(推定)。 |
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天文11年(1542) |
父・大田原資清が23年ぶりに那須に帰参し、大関氏を屈服させる 5 。 |
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天文11年頃 |
兄・高増が父の政略により大関宗増の養子となる 6 。 |
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時期不詳 |
資孝、福原資郡の養子となり福原家を継承する 8 。 |
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永禄3年(1560) |
小田倉の戦い。戦後、高増が主君・那須資胤と対立 4 。 |
桶狭間の戦い。 |
永禄6年(1563) |
兄弟と共に姉婿・佐久山義隆を謀殺し、佐久山氏を滅ぼす 8 。 |
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永禄6年以降 |
主君・那須資胤との対立が激化。福原家が分裂し、内乱状態となる 9 。 |
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永禄11年(1568) |
那須資胤と和睦。大田原三兄弟の家中における権勢が固まる 4 。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
天正13年(1585) |
薄葉ヶ原の戦い。資孝・資広父子が那須軍の中核として戦う 10 。 |
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天正13年(1585) |
兄弟と共に千本資俊・資政父子を謀殺。その領地を分割する 11 。 |
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天正18年(1590) |
豊臣秀吉による小田原征伐。主家と共に遅参し、所領を一部削られる。 |
豊臣秀吉が天下を統一。 |
天正18年以降 |
家督を嫡男・資広に譲り隠居。しかし資広は早世 2 。 |
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慶長3年(1598) |
次男・資保が家督を継承。資孝は後見人となる 15 。 |
豊臣秀吉が死去。 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。福原家は東軍に属し、大田原城の守備にあたる 15 。 |
関ヶ原の戦い。 |
慶長19年(1614) |
2月26日、福原資孝、死去 13 。 |
大坂冬の陣。 |
福原資孝の生涯を理解する上で、その父・大田原資清(おおたわら すけきよ)の存在は決定的に重要である。資孝の行動原理の多くは、父が描いた壮大な政略の延長線上にあった。
大田原氏は、那須七党の一角を占める有力な豪族であった。父・大田原資清は、若い頃に政敵であった大関宗増らの策謀により那須の地を追放され、23年間もの長きにわたり他国を流浪するという苦難を経験した 5 。しかし天文11年(1542年)、主君・那須資房の要請を受けて帰参すると、その卓越した知謀と武勇で、かつて自らを追放した大関氏を瞬く間に屈服させ、那須家中に確固たる地歩を築き上げた 5 。
一度は全てを失った資清の野心は、単なる大田原家の安泰に留まらなかった。彼は那須家中の権力構造そのものを自らの支配下に置くことを目論んだ。そのために実行されたのが、息子たちを戦略的に配置する壮大な計画であった。資清は、長男の熊満(後の大関高増)を、那須七党の中でも特に大きな力を持つ大関氏へ、そして次男である資孝を、那須氏一門の名家である福原氏へ、それぞれ養子として送り込んだ。そして、三男の綱清に本家である大田原家を継がせたのである 4 。これにより、上那須(那須郡北部)の三大勢力である大関・福原・大田原の三家を、自らの血を引く息子たちによって掌握するという、鉄壁の親族連合体制を築き上げた。これは、主家である那須氏を事実上無力化し、那須領全体を間接的に支配するための、周到に計算された「逆乗っ取り」戦略であった。
資孝が養子に入った福原氏は、屋島の戦いで有名な那須与一宗隆(資隆)の兄、福原四郎久隆を祖とする、那須一門の中でも特に格式の高い家柄であった 2 。資孝が入嗣した当時の福原氏当主は福原資郡(すけくに)であった。資郡は、時の那須家当主・那須資胤(すけたね)の実弟であり、主家との結びつきも強い人物であったが、男子に恵まれなかった 9 。資清はこの点に目をつけ、資孝に資郡の娘を娶らせ、その養嗣子として福原家を継承させることに成功したのである 8 。
福原資孝の人生は、この父が描いた壮大な設計図の、極めて重要な一手として始まった。彼の養子入りは、彼個人の意志や願望ではなく、あくまで大田原一族全体の戦略的決定であった。この事実は、後に彼が養家である福原家、そして養父である資郡の意向に背いてでも、実兄・高増と行動を共にするという選択を理解する上で、不可欠な背景となる。
Mermaidによる関係図
父・資清が築いた権力基盤と張り巡らされた政略の網は、その息子たちによってさらに強化され、より直接的かつ非情な形で那須家中の支配へと繋がっていった。福原資孝は、この過程で兄や弟と緊密に連携し、謀略の実行者として中心的な役割を果たした。
大田原資清の死後、その遺志を継いだのは長男の大関高増であった。高増は父譲りの、あるいはそれ以上の権謀術数の才を持つ人物で、戦国屈指の謀略家とも評される 20 。彼が全体の計画を練る謀主となり、福原資孝と大田原綱清がその手足として動くという強力な連携体制が確立された 5 。世に「大田原三兄弟」と称されるこの連合体は、那須家中の対抗勢力を次々と排除し、その実権を完全に掌握していくことになる。
三兄弟がその非情さを初めて示したのが、佐久山氏の滅亡であった。永禄6年(1563年)、彼らは共謀し、佐久山城主・佐久山義隆を謀殺した 8 。驚くべきことに、義隆の妻は資孝と高増の姉であり、この事件は自らの姉婿を手に掛けるという極めて冷酷な同族殺しであった 8 。
『那須記』などの記録によれば、高増らが酒宴にこと寄せて義隆を酔わせ、眠り込んだところを槍で突き殺したとされる 21 。その後、福原資孝が主体となって佐久山城を攻略し、佐久山一族を完全に追い落とした 8 。この事件の背景には、佐久山氏の領地を併呑し、一族の勢力圏を拡大するという明確な目的があった。資孝はこの謀略の実行部隊として中心的な役割を担い、その所領は後に福原家のものとなった 2 。
佐久山氏滅亡から20年以上が経過した天正13年(1585年)、三兄弟は再びその牙を剥いた。標的となったのは、那須七党の有力氏族である千本氏であった。大関高増は、千本常陸守資俊とその嫡男・資政を、烏山(現在の那須烏山市)にある太平寺(滝寺)に誘い出した。そして、待ち構えていた資孝、綱清と共に、何も知らずに訪れた千本父子をだまし討ちで殺害したのである 11 。
この謀略は、極めて巧妙に計画されていた。表向きの口実として、数十年前に千本氏が那須家の先代当主・高資を謀殺したことへの「主家のための報復」という大義名分が掲げられた。これにより、三兄弟は現当主である那須資晴の承認を取り付けることに成功している 12 。しかし、事件後、千本氏が有していた広大な領地は、資晴の命によって大関、福原、大田原の三兄弟に分割・下賜された 11 。この結果を見れば、主家のための報復が口実に過ぎず、千本氏の領地奪取が真の目的であったことは明白である。
これら二つの謀殺事件は、福原資孝を含む大田原三兄弟の行動様式を明確に示している。彼らは目的達成のためには血縁や姻戚関係すらも躊躇なく犠牲にする非情さを持ち、その計画は常に組織的かつ周到であった。そして、単なる暴力に頼るだけでなく、大義名分を巧みに利用して自らの行動を正当化し、実利を最大化する高度な政治的狡猾さを兼ね備えていた。福原資孝は、決して兄・高増の陰に隠れた補佐役ではなく、これら血塗られた謀略の積極的な共犯者であり、直接の実行者として、一族の勢力拡大に不可欠な役割を果たしたのである。
大田原三兄弟による露骨な権力掌握と専横は、やがて主君である那須家当主・那須資胤との深刻な対立を招くことになる。この内乱は、福原資孝の立場を複雑にし、戦国武家社会における「家」と「一族」のあり方を象徴する出来事となった。
那須資胤は、家臣であるはずの大関高増らが家中を牛耳り、自らの権力が有名無実化していく状況に、強い不信感と危機感を募らせていた 9 。特に、永禄3年(1560年)の小田倉の戦いの後、資胤が高増の戦功を正当に評価せず、むしろその戦いぶりを非難したことから両者の亀裂は決定的となった 4 。資胤にとって、高増ら大田原一族は、父の代から続く不信の対象であり、いつか那須家を乗っ取るのではないかという疑念が常に付きまとっていた 9 。
ついに資胤は、これ以上の専横を許すまいと、高増の暗殺を計画する。しかし、この謀略は事前に高増の知るところとなり、完全に失敗に終わった 9 。この事件は、両者の対立を修復不可能な段階へと押し進めた。
主君からの暗殺計画を知った大関高増は、これを好機と捉え、上那須の諸将を糾合して資胤に対し公然と反旗を翻した。この時、福原資孝は極めて困難な選択を迫られる。彼の養父であり福原家の当主である福原資郡は、主君・那須資胤の実弟であり、当然ながら資胤を支持する立場にあった。しかし、資孝は養父の意向に背き、血を分けた実兄である高増に味方することを選んだ 9 。
これにより、福原家は当主である資郡と、その養子である資孝とで分裂するという異常事態に陥った。これは、福原家という一つの「家」が、那須宗家方と大田原一族方とに引き裂かれたことを意味する。資孝のこの選択は、彼にとって養子先の「福原家」への帰属意識よりも、血の繋がった「大田原一族」としての利益と結束が優先されたことを明確に示している。
高増、資孝、綱清の三兄弟は、南の佐竹氏からの支援も得て、資胤の居城である烏山城へと攻め寄せた 6 。対する資胤も下那須の諸将を率いて反撃し、那須家中を二分する数年間にわたる内乱へと発展した 7 。
一連の抗争は、永禄11年(1568年)、両者の和睦という形で終結する。この時、高増は謀反の罪を謝すために剃髪したが、これはあくまで形式的なものであった 4 。実質的には、主君に反旗を翻した家臣が処罰されることなく、その地位を維持したことを意味し、三兄弟側の政治的勝利であった。
この和睦以降、那須家における大田原三兄弟の権勢は絶対的なものとなり、主君は名目上の存在へと追いやられていく。福原資孝もまた、この内乱を経て、もはや単なる福原家の当主ではなく、「大田原一族連合」の中核をなす幹部として、那須家全体の運命を左右する確固たる地位を築き上げたのである。
権謀術数に長けた策略家としての側面が強い福原資孝だが、彼は同時に、戦場において一軍を率いることのできる有能な武将でもあった。その能力が遺憾なく発揮されたのが、天正13年(1585年)に起こった薄葉ヶ原(うすばがはら)の戦いである。
当時の那須氏は、南接する下野の雄・宇都宮氏と領土を巡って激しく対立していた。特に宇都宮方の塩谷氏やその与党である山田氏とは、国境地帯で小競り合いが絶えなかった。薄葉ヶ原の戦いの前年である天正12年(1584年)、山田城主・山田辰業が那須領の薄葉・平沢に侵攻し、田畑の稲を刈り取るなどの狼藉を働いた。この時、那須家の命を受けて迎撃に出陣したのが、福原資孝とその嫡男・資広の父子であった 10 。この出来事が、翌年の大規模な衝突の直接的な伏線となった。
天正13年(1585年)3月、那須氏の侵攻に端を発する形で、宇都宮家当主・宇都宮国綱が約2,500の兵を率いて那須領へと大挙して侵攻した。これに対し、那須家当主・那須資晴は、わずか1,000ほどの兵力でこれを迎え撃つことになった 10 。両軍は塩谷郡薄葉ヶ原で対峙し、下野の覇権を賭けた決戦の火蓋が切られた。
この重要な戦いにおいて、福原資孝は那須軍の主要な指揮官の一人として参陣している 10 。また、嫡男の資広もこの戦いで父と共に戦功を挙げたと記録されている 14 。兵力で半分以下という圧倒的に不利な状況であったにもかかわらず、那須軍は勝利を収めた。その勝因の一つとして、総大将格であった兄・大関高増が、逸る諸将を戒めて統制の取れた戦術を展開したことが挙げられるが 20 、資孝もまたその指揮系統の中で一翼を担い、軍の中核として勝利に大きく貢献したことは間違いない。
これまでの章で見てきた謀略家としての顔とは別に、この薄葉ヶ原の戦いは、福原資孝が自ら戦場に立ち、一軍を率いて勝利を掴むことのできる、文武両道の人物であったことを証明している。嫡男・資広と共に参陣し、武功を立てたという事実は、福原家が那須氏の軍事力の中核を担う存在であったことを示しており、この勝利は那須家中における資孝の発言力と地位を、さらに強固なものにしたであろう。
戦国の世を終わらせる天下統一の巨大な波は、下野の小国にも容赦なく押し寄せた。福原資孝にとって、豊臣秀吉による小田原征伐は、その生涯における最大の危機であり、彼の政治判断の成否が問われる重大な局面であった。
天正18年(1590年)、関白豊臣秀吉は、関東に覇を唱える後北条氏を討伐するため、全国の大名に参陣を命じた 23 。これは、関東の諸将にとって、秀吉に従うか、北条氏と共に滅びるかの二者択一を迫るものであった。
この時、那須家の当主・那須資晴は、長年北条氏と誼を通じていたことから態度を決めかね、参陣が大幅に遅れてしまった 2 。一方、資孝の兄である大関高増は、早くから中央の情勢を的確に読み、秀吉と通じていたとされ 5 、主君・資晴の動向を見限り、いち早く秀吉のもとへ駆けつけ恭順の意を示した 4 。
福原資孝は、この重大な局面で兄・高増とは異なる道を選んだ。彼は主家である那須氏と行動を共にし、結果として参陣が遅れた。これは豊臣政権から「遅参」と見なされ、戦後、所領を一部削られるという処分を受けることになった。
この判断の差は、兄弟の運命を大きく分けた。兄・高増は迅速な行動が評価され、所領を安堵されるどころか加増を受け、1万石を超える大名としての地位を確立した 4 。那須七党の他の多くの家も、機敏に秀吉方に付いたことで本領を安堵されている 25 。その一方で、最後まで態度を曖昧にした那須宗家は、改易(所領没収)という最も厳しい処分を受け、戦国大名としての歴史に幕を閉じた 2 。
資孝の遅参は、彼の経歴における明らかな失態であった。中央の動向に対する情報収集能力や政治的嗅覚において、兄・高増に一歩及ばなかったことを示している。しかし、ここで注目すべきは、主家が改易という最悪の結末を迎えたにもかかわらず、資孝は改易を免れ、減封という処分で済んだという事実である。これは、既に大名となっていた兄・高増による秀吉への取りなしがあった可能性、あるいは福原家自体が那須家中である程度の独立した勢力として豊臣政権に認識されていた可能性を示唆する。この手痛い失敗は、資孝に旧来の地域的な論理がもはや通用しないことを痛感させ、来るべき次の時代、すなわち徳川家康の台頭を見据えた新たな政治行動へと転換させる、重要な教訓となったのである。
小田原征伐での失敗を糧に、福原資孝は天下の趨勢を冷静に見極め、一族が新たな時代を生き抜くための周到な布石を打っていく。彼の晩年は、戦国武将から近世の領主へと巧みに自己を変革させ、一族に二百数十年間の安定をもたらすための、集大成の時期であった。
小田原での処分後、資孝は嫡男の資広(すけひろ)に家督を譲り、隠居の身となった 13 。これは、自らの失態の責任を取ると同時に、新しい時代の担い手へと世代交代を進める意図があったと考えられる。しかし、家督を継いだ資広は父に先立って病死するという不幸に見舞われる 2 。
この予期せぬ事態に対し、資孝はすぐさま次男の資保(すけやす)を、亡くなった資広の養子という形で家督を継がせた 13 。そして自らはその後見人として、引き続き福原家の実権を掌握し続けた 16 。これにより、福原家は若き当主を戴きつつ、経験豊富な資孝が実質的に舵を取るという、安定した統治体制を維持することができた。
豊臣秀吉の死後、天下が再び乱れる兆しを見せると、資孝は巧みな処世術で次なる覇者と目される徳川家康へと接近した。事前に人質を江戸に送るなど、恭順の意を明確に示していた 2 。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、当主・資保が率いる福原家は一切の迷いなく東軍(徳川方)に与した 13 。福原軍は、家康の命により、東軍の北関東における重要拠点である大田原城に入り、会津の上杉景勝の南下を食い止めるという防衛任務に就いた 15 。これは、小田原での失敗とは対照的な、迅速かつ的確な政治判断であった。
関ヶ原における東軍の勝利と、大田原城での防衛任務の功績により、福原家は戦後、家康から加増を受けた 15 。その後も所領の加増は続き、最終的に福原家は4,500石余を領する大身の旗本となった 13 。さらに、大名に準ずる高い家格である「交代寄合」に列せられ、江戸時代を通じてその地位を保ち、明治維新まで存続することになる 15 。
資孝自身は、一族の安泰を見届けた後、慶長19年(1614年)2月26日にその生涯を閉じた 13 。彼の亡骸は、大田原市にある一族の菩提寺・実相院の墓所に、歴代当主と共に合祀されている 22 。小田原での失敗を乗り越え、天下の動向を正確に読み切った彼の最後の采配は、見事に一族を戦国の動乱から救い出し、近世の支配者層の一員として生き残らせることに成功したのである。
福原資孝の生涯は、二つの異なる側面から評価することができる。一つは、姉婿や同輩の武将を謀略によって次々と葬り去り、主家を内部から侵食して実権を奪った、冷徹非情な権謀家の顔である。彼の行動は、戦国乱世の道義なき下剋上の一典型であり、その手段は苛烈であった。
しかし、もう一方では、激動の時代を乗り越え、一族を繁栄に導いた有能な領主としての顔を持つ。彼の最大の功績は、最終的に一族を滅亡の淵から救い、徳川幕藩体制下において二百数十年にわたる平和と安定をもたらしたことにある。小田原での一度の失敗を教訓とし、関ヶ原では完璧な政治判断を下したその姿は、時代の変化に柔軟に対応し、一族の未来を設計する優れた統治者のそれであった。
福原資孝の生き様は、中央の大きな権力変動の波に翻弄されながらも、地域の力学を巧みに利用し、時には非情な手段も辞さずに自らの家を存続させようとした、戦国地方武将の典型的な生存戦略を示す好例である。彼は、兄・大関高増と共に、主家を内部から操ることで事実上の権力簒奪を成し遂げ、新たな時代である近世の支配者層の一員として自らを再定義することに成功した。
全国的な知名度こそ低いものの、福原資孝という一人の武将の生涯は、戦国という時代の本質、すなわち血縁と地縁が複雑に絡み合う地方社会の権力闘争と、乱世から治世へと移行する時代の構造的変容を、鮮やかに映し出す鏡として、極めて示唆に富む歴史事例であると言えるだろう。