最終更新日 2025-05-17

秋田実季

戦国大名 秋田実季(安東実季)に関する調査報告

1. 序論:戦国大名・秋田実季の概観

本報告は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、出羽国を中心に活動した武将、秋田実季(あきた さねすえ、旧姓安東)の生涯と事績を、現存する史料に基づいて詳細に検討し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。実季は天正4年(1576年)に生まれ、万治2年(1659年)に没した人物であり 1 、その生涯はまさに日本の歴史が大きく転換する激動期と重なる。

実季が生きた16世紀後半から17世紀半ばは、長きにわたる戦乱の時代(戦国時代)から、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業を経て、徳川家康による江戸幕府の成立と、それに続く比較的安定した近世社会へと移行する画期であった。特に実季が勢力基盤とした出羽国を中心とする奥羽地方は、中央政権の動向に翻弄されつつも、独自の地域勢力が割拠し、複雑な政治情勢を呈していた。このような時代背景を理解することは、実季の行動や選択を読み解く上で不可欠である。彼の生涯は、戦国時代の地域領主が中央集権化の波にどのように対応し、あるいは翻弄されたかを示す一つの典型例と捉えることができよう。その人生を通じて、中央政権の奥羽地方への影響力拡大の過程と、それに対する在地勢力の動態を具体的に垣間見ることができるのである。

本報告の構成は、まず実季の出自である安東氏の系譜と、彼が家督を相続するまでの経緯を概観する。次に、実季の領国経営、特に北方交易の重要性について考察する。続いて、豊臣政権下での動向、関ヶ原の戦いへの関与とそれに伴う秋田氏の変転、そして改姓や秋田城介任官といった出来事を時系列に沿って詳述する。最後に、伊勢朝熊への配流という晩年の境遇と、そこでの文化活動に触れ、実季の人物像と歴史的評価を試みる。

以下に、秋田実季の生涯における主要な出来事をまとめた略年表を提示する。

表1:秋田実季 略年表

和暦

西暦

年齢

主要な出来事

典拠

天正4年

1576年

1歳

安東愛季の子として生まれる(幼名:藤太郎)

1

天正15年

1587年

12歳

父・愛季死去、家督相続。湊安東氏の安東通季(道季)が反乱(湊合戦)

2

天正17年

1589年

14歳

湊合戦で勝利し、湊城を本拠地とする

2

天正18年

1590年

15歳

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。奥州仕置

4

天正19年

1591年

16歳

太閤検地。出羽国内約5万2千石の所領安堵(太閤蔵入地代官兼務)

4

慶長5年

1600年

25歳

関ヶ原の戦いで東軍に属す(慶長出羽合戦)

4

慶長7年

1602年

27歳

常陸国宍戸5万石へ転封。一時「伊駒」姓を名乗る

3

慶長16年

1611年

36歳

従五位下秋田城介に任官。姓を「秋田」に戻す

4

寛永7年

1630年

55歳

幕命により伊勢国朝熊へ蟄居(配流)。家督は嫡男・俊季が継承

8

万治2年11月29日

1659年12月21日

84歳

伊勢朝熊にて死去。法号「凍蚓」、戒名「高乾院殿隆巌梁空大居士」

1

2. 安東氏の系譜と実季の出自

秋田実季の出自である安東氏は、その起源を平安時代後期の武将・安倍貞任に求めるとされる古い氏族である 10 。鎌倉時代には北条氏の被官となり、津軽地方を本拠として活動した。特に蝦夷地との関係が深く、「蝦夷管領」の代官職を務め、北方との交易や統治に大きな役割を果たしたと伝えられる 10 。その勢力は広範に及び、「日之本将軍」と称されることもあったという 3 。当初、安東氏の本流は津軽半島の十三湊(とさみなと)を拠点としていたが、15世紀に南部氏の圧迫を受けて蝦夷地へ一時退避し、その後、出羽国檜山(現在の秋田県能代市周辺)に本拠を移して檜山安東氏を称した 10

戦国時代に入ると、安東氏は出羽北部の覇権を巡り、檜山を拠点とする檜山安東氏と、秋田湊(現在の秋田市土崎周辺)を拠点とする湊安東氏の二系統に分裂し、互いに争う状況が続いた 2 。この両者の対立に終止符を打ったのが、実季の祖父にあたる檜山安東氏の安東舜季である。舜季は湊安東氏の当主・安東堯季(たかすえ)の娘を娶ることで和解の道を開き、その間に生まれたのが実季の父、安東愛季(ちかすえ)であった 2 。愛季の代になって両安東氏は統合されたが、その実態は檜山安東氏による湊安東氏の吸収に近い形であったとされ、旧湊方には不満の火種が残ったとも言われる 2 。この統合のあり方が、後の実季の代における内訌の遠因となった可能性は否定できない。

父・安東愛季は智勇に優れた武将として知られ、分裂していた安東氏を再統一し、戦国大名としての地位を確立した。その勢力は秋田郡・檜山郡・由利郡などに及び、羽後(出羽国北部)最大の大名へと成長を遂げ、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評されるほどの威勢を誇った 13 。実季は、この愛季の子として天正4年(1576年)に誕生した 1

しかし、天正15年(1587年)、父・愛季が死去すると、当時まだ12歳であった実季が家督を相続することになる。この若き当主の登場と権力の移行期を捉え、かねてより檜山安東氏の主導権に不満を抱いていた旧湊安東氏系の安東通季(みちすえ、道季とも。実季の従兄弟にあたる 14 )が、近隣の戸沢氏や小野寺氏の支援を得て反乱を起こした。これが世に言う「湊合戦」である 2 。通季は「湊家の再興」を大義名分としており 14 、この反乱が旧湊安東氏の不満を背景としていたことは明らかである。実季は檜山城に籠城し、由利地方の国人領主である由利十二頭などの支援を受け、150日とも160日とも言われる激しい籠城戦を戦い抜いた。そして、敵の攻勢を凌いだだけでなく、逆に攻勢に転じて湊城を奪還し、以後、本拠地を交通の要衝でもある湊城へと移した 2 。この湊合戦の勝利は、実季にとって単なる軍事的成功に留まらず、自身の指導者としての正統性と力量を内外に示し、その後の権力基盤を確立する上での最初の、そして極めて重要な試練であったと言えよう。

また、安東氏が古くから称してきた「日之本将軍」 3 や「蝦夷管領」 10 といった称号は、単なる自称に留まらず、北方世界(蝦夷地や日本海沿岸地域)における彼らの広範な影響力と、ある種の独自性を示唆している。これらの称号は、鎌倉幕府によって与えられた職制(蝦夷管領)に由来する部分もあるが 12 、戦国時代においては実効支配と、それに基づく自負の表れであったと考えられる。特に「日之本将軍」という呼称は、日本の東端、あるいは北方を統べる者という意識の現れであり、中央の「征夷大将軍」とは異なる独自の勢力圏を意識させるものであった。これは、安東氏が北方交易を通じて独自の経済圏と情報網を保持していたことの証左ともなり得、後の実季による蝦夷交易への積極的な関与の歴史的背景を形成している。

以下に、実季を中心とした安東氏の略系図を示す。

表2:安東氏関連略系図(実季中心)

コード スニペット

graph TD
subgraph 檜山安東家
Shunki[安東舜季<br>(実季祖父)]
end
subgraph 湊安東家
Takasue[安東堯季]
end
Shunki -- 婚姻 --> TakasueDaughter[堯季の娘]
TakasueDaughter --- Chikasue[安東愛季<br>(実季父)]
Shunki --- Chikasue
HatakeyamaDaughter[畠山清信の娘<br>(実季母)] --- Chikasue
Chikasue --- Sanesue[<b>秋田実季</b>]
Chikasue --- Gyouki[安藤業季<br>(兄)]
Chikasue --- AkitaKyoku[秋田局<br>(姉)]
Chikasue --- Hideki[秋田英季<br>(弟)]
Chikasue --- Suekatsu[秋田季勝<br>(弟)]
Chikasue --- NamiokaWife[女 (浪岡顕村妻)<br>(姉妹)]
Sanesue --- Enkoin[円光院<br>(正室・細川昭元娘)]
Sanesue --- Zuihoin[瑞峯院<br>(側室・荒木高兼娘)]
Sanesue --- Katayamashi[片山氏<br>(側室)]
Enkoin --- Toshisue[秋田俊季<br>(嫡男)]
Enkoin --- Suenobu[秋田季信<br>(子)]
Zuihoin --- Sueji[秋田季次<br>(子)]
Zuihoin --- Suenori[秋田季則<br>(子)]
UnknownMother1 --- Suenaga[秋田季長<br>(子)]
Katayamashi --- Ochiyo[お千世<br>(娘)]
Sanesue --- ArakiWife[娘 (荒木高綱妻)]
Sanesue --- TsugaruWife[娘 (津軽信建妻)]

classDef male fill:#c9daf8,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;
classDef female fill:#f4cccc,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;
class Sanesue,Shunki,Takasue,Chikasue,Gyouki,Hideki,Suekatsu,Toshisue,Suenobu,Sueji,Suenori,Suenaga male;
class TakasueDaughter,HatakeyamaDaughter,AkitaKyoku,NamiokaWife,Enkoin,Zuihoin,Katayamashi,Ochiyo,ArakiWife,TsugaruWife female;

(注:上記系図は提供された情報に基づく略系図であり、全ての子女や詳細な関係を網羅するものではない。)

3. 実季の領国経営と北方交易

安東実季の領国経営は、父・愛季の政策を継承しつつ、当時の経済的活況を背景に展開された。その基盤となったのは、領内から産出される米、豊富な木材資源、そして金銀銅などの鉱産物であった。実季はこれらの産品を積極的に商品化し、能代(野代)湊や土崎湊といった日本海沿岸の良港を拠点として、領国経済の振興を図ったとみられる 14 。特に秋田杉として知られる木材は重要な輸出品であり、慶長2年(1597年)には家臣に対し、二ツ井(現在の能代市)や協和(現在の仙北市)の山林での材木伐採を許可した記録が残っている 15 。また、豊臣秀吉政権下では、伏見城の作事用材として大量の板を供出するよう命じられており 15 、これは領内の木材資源の豊富さと、中央政権によるその資源への着目を示すものである。

鉱物資源に関しても、領内には長慶金山や赤倉鉱山の硫黄、比立内(現在の北秋田市)の鉛石など、有望な鉱脈が存在したとされ 16 、実季は杉沢喜介という人物に鉱山の管理を任せていた記録もある 16 。後の佐竹氏統治下の秋田藩が、院内銀山や阿仁銅山といった国内有数の鉱山を藩営とし、藩財政を大いに潤したことはよく知られているが 17 、実季の時代においても、これらの鉱山経営が領国経済にとって重要な位置を占めていたと推測される。

実季の経済政策の中でも特筆すべきは、蝦夷地(現在の北海道)との交易、すなわち北方交易である。安東氏は代々蝦夷地との交易を管理してきた歴史があり 13 、実季もこれを重視した。具体的な交易品としては、日本側からは鉄製品(縫い針や刀剣など)や布製品、米などが、蝦夷地からは鮭や昆布といった海産物、熊やラッコなどの毛皮、鷹の羽などがもたらされたと考えられる 20 。また、十三湊は古くから大陸や朝鮮半島との交易拠点でもあったとされ 10 、安東氏が日本海を舞台とした広域な交易ネットワークを有していた可能性も指摘されている 12

この北方交易は、安東氏にとって莫大な利益を生み出す源泉であり 19 、その経済力は軍事力の維持・強化にも繋がった。しかし、この交易のあり方は、時代とともに変化を遂げる。当初、松前氏(蠣崎氏)は実季の重臣として蝦夷地の代官的役割を担っていたが 5 、豊臣政権期から江戸幕府初期にかけて、次第に蝦夷地における交易の独占権を公的に認められるようになる 21 。これにより、安東氏(秋田氏)と松前氏の関係は、主従から競争、あるいは棲み分けへと変化し、秋田氏の北方交易における優位性は相対的に低下していったと考えられる。

実季が推進した北方交易は、単なる経済活動に留まらず、奥羽の地域権力としての安東氏の自立性を支える重要な柱であった。蝦夷地からもたらされる希少な産物は、中央政権や他の大名との外交交渉において有利な取引材料としても機能した可能性がある。しかし、豊臣政権、そして江戸幕府という強力な中央集権体制が確立される過程で、松前氏が蝦夷交易の独占権を公認されるに至り、秋田氏の交易における優位性は相対的に低下し、その経済基盤と政治的影響力にも変化が生じたと考えられる。これは、中央集権化が地方の独自経済圏に与えた影響の一例と言えるだろう。当初、安東氏の管理下にあった北方交易の利権が、中央政権の公認という形で松前氏に移譲された(あるいは松前氏が自立して獲得した)ことは、秋田氏にとって重要な収入源の制約を意味し、経済力や蝦夷地への影響力の低下に繋がった可能性がある。

また、領内の豊富な木材資源や鉱物資源は、実季の経済基盤を支えるとともに、豊臣秀吉による伏見城普請のための資材供出命令に見られるように、中央政権からの負担要求の対象ともなった。これは、戦国大名が中央政権に組み込まれていく過程で、その領国資源が国家的プロジェクトに動員される様を示すものであり、領主としての自律性と中央への従属という二面性を浮き彫りにする。このような負担は、中央政権への忠誠を示す機会であると同時に、領国経済にとっては大きな負荷となり得た。実季がこれにどのように対応したかは、彼の統治能力を測る一つの指標となる。

4. 豊臣政権下での動向

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原北条氏の征伐を開始した。この小田原征伐に際し、秋田実季は秀吉からの参陣命令に応じ、小田原へ赴いている 4 。これは、奥羽の諸大名と同様に、秀吉の武威に服属し、その天下統一事業に協力する意思を示す重要な行動であった。

同年、秀吉は小田原征伐に続いて奥州仕置を実施し、奥羽地方の大名配置を大きく変更した 24 。この過程で、実季が先の湊合戦において旧領を回復した行為が、秀吉が発令していた惣無事令(私戦禁止令)に違反すると見なされ、一時その立場が危うくなる場面があった。しかし、実季は何らかの「工作」を通じてこの問題を解決し、処罰を免れたとされている 4 。この「工作」の具体的な内容は不明であるが、豊臣政権中枢との交渉や有力者への働きかけなど、政治的な手腕を発揮したことが推測される。この危機を乗り越えられたことは、実季のその後の地位を保つ上で極めて大きかった。

天正19年(1591年)には太閤検地が実施され、その結果に基づき実季の所領が確定された。出羽国内の総所領高7万8500石余りのうち、約5万2440石の安堵が認められた 4 。ただし、この石高は表高であり、実質的な収穫高(実高)は15万石にも及んだと言われている 4 。一方で、旧領のうち約2万6000石は太閤蔵入地(豊臣氏の直轄領)として没収されたが、実季はその代官に任じられた 4 。これは、秀吉政権が重要拠点や経済的価値の高い土地を直轄化し、全国支配の基盤を強化する政策の一環であり、実季にとっては失った領地の一部に対する実質的な管理権を維持し、中央とのパイプを保つ意味合いがあったと考えられる。この奥州仕置によって、長年の懸案であった比内郡(後の北秋田郡)の領有が正式に確定し、秋田郡(後の南秋田郡)・檜山郡・比内郡のいわゆる「秋田下三郡」に加え、豊島郡(後の河辺郡)を有する大名としての地位を確立した 4

豊臣政権下において、実季は中央政権からの様々な要求に応じる必要があった。前述の伏見城作事のための杉板供出はその一例であり 15 、これは秋田氏が豊臣政権の統制下に組み込まれたことを具体的に示すものである。奥州仕置と太閤検地は、豊臣政権による全国支配体制確立の重要なステップであり、奥羽の諸大名もその枠組みから逃れることはできなかった。実季が所領を安堵された一方で、一部が太閤蔵入地とされたことは、地方大名の領国支配がもはや完全に自律的なものではなく、中央政権の承認と統制の下にあることを明確に示すものであった。実季は、この新たな秩序の中で、自身の地位を確保しつつ、中央からの要求に応えるという難しい舵取りを迫られたのである。

5. 関ヶ原の戦いと秋田氏の変転

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いへと発展した。この全国規模の動乱において、秋田実季は東軍、すなわち徳川家康方に与した 4

関ヶ原の本戦に先立ち、家康は会津の上杉景勝討伐(会津征伐)を名目に諸大名を動員したが、この際、家康は最上義光や秋田実季ら東北の諸大名に対し、上杉領への牽制や攻撃を指示していた 27 。これを受けて勃発したのが慶長出羽合戦である。実季は当初、家康の指示に基づき、最上義光と連携して上杉景勝領である庄内地方へ侵攻する計画であった。しかし、最上義光は実季に対し、西軍方についた小野寺義道の領地(仙北地方)を攻撃するよう要請した 28 。最終的に実季は、この要請に応じる形で小野寺領の大森城などを攻撃した 28 。この実季の行動は、最上領に侵攻していた小野寺勢を後退させる効果をもたらしたとされる。しかし、最上義光は、実季が当初の庄内攻撃の指示に従わなかったとして軍令違反とみなし、これを非難した 28 。この一件は、両者の間に確執を残すことになった。

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、戦後処理が開始された。この過程で、最上義光が徳川家康に対し、「実季は裏では西軍方の小野寺氏と通じており、真に東軍方とは言えない」という内容の讒言を行ったと伝えられている 4 。実季はこれに対し弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功したとされる 4 。しかし、この讒言が全く影響しなかったとは言い切れない。関ヶ原の戦後処理において、家康は些細な疑念や将来の不安要素となりうる大名を容赦なく処断・減封しており、実季のケースもその一環と見ることができる。特に、広大な領地と北方交易の利権を持つ秋田氏の勢力は、徳川政権にとって潜在的な警戒対象であった可能性も否定できない。

慶長7年(1602年)、徳川家康の命により、秋田実季は長年の本拠地であった出羽秋田から、常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)5万石へ転封となった 3 。これは、関ヶ原の戦いで西軍に与した佐竹義宣が出羽秋田へ減転封されることに伴う、いわゆる玉突き人事であった。しかし、実季にとっては、かつて豊臣政権下で太閤蔵入地として管理していた約2万6千石の土地が完全に没収された形となり、実質的な減封を意味した 4 。この転封の直接的な理由は佐竹氏の秋田移封であるが、最上義光の讒言や、実季自身が太閤蔵入地の没収に不満を抱いていたこと( 4 の推測)などが間接的に影響した可能性も考えられる。

この常陸宍戸への転封は、秋田氏にとって経済的な打撃であっただけでなく、先祖代々の土地や、そこで長年培ってきた家臣団との繋がりを一部断ち切られるという、精神的・社会的な危機でもあった。国替え後は、旧来の家臣に対して新たな知行地を配分し、軍役体制を再編する必要があり、これは藩体制の再構築を意味する 30 。この過程での混乱や家臣の不満が、後の実季と嫡男・俊季との不和 8 、ひいては実季自身の蟄居に繋がる遠因となった可能性も考慮すべきであろう。

6. 改姓と秋田城介任官の経緯

秋田実季の生涯において、姓の変更や官職への任官は、彼のアイデンティティや政治的立場を象徴する重要な出来事であった。

まず、安東姓から秋田姓への改姓である。実季は、古代以来、出羽国の支配者の官職として存在した「秋田城介(あきたじょうのすけ)」への任官を強く望んでおり、それに合わせて安東姓から秋田姓へと改めたとされる 7 。これは、自らが統治する「秋田」という地名を姓とすることで、その地の正統な支配者であることを内外に明確に示す意図があったと考えられる。史料によっては、父・愛季の嫡男である実季が安東氏から秋田氏へと改称したと記されている 14

次に、常陸国宍戸へ転封された際、実季は一時的に姓を「伊駒(いこま)」と改めている 4 。この改姓の明確な理由は諸説あるが、一説には、旧領秋田の太閤蔵入地が豊臣氏の所領として徳川家康によって没収されたことに対する不満が背景にあったのではないかと推測されている 4 。長年本拠地としてきた「秋田」という地名を失ったことへの失意や、幕府に対する何らかの意思表示であった可能性も否定できない。実季の別称として「伊駒実季」が記録されていることからも 1 、この改姓は一時的なものではなかったことがうかがえる。

そして慶長16年(1611年)、実季は念願であった従五位下秋田城介に正式に補任された 4 。これにより、姓も再び秋田に戻したとされている 4 。秋田城介は、古くは出羽国秋田城の長官を示す律令制下の官職であり、この任官は実季にとって、秋田地方の旧領主としての権威と正統性を回復する象徴的な意味合いが大きかったと考えられる。戦国時代には実力で獲得したり自称したりした称号や官職も、江戸時代に入ると幕府の公認や推挙がその権威を保証する上で重要となった。実季が秋田城介に正式任官されたことは、彼の家格や地位が徳川幕府の秩序の中で公的に認められたことを意味し、近世大名が伝統的な権威(官職)を利用して自らの支配の正統性を補強しようとした一例と見ることができる。また、実季は主要な家臣にも秋田姓と、自身の諱(いみな)の一字である「季」の字を与えたとされ 7 、これは秋田家としての一体性を強化し、家臣団の結束を高める狙いがあったのだろう。

実季の姓の変遷(安東→秋田→伊駒→秋田)と秋田城介への執着は、単なる名称の変更以上の意味を持つ。秋田姓と秋田城介は、彼にとって失われた本拠地・秋田への強い愛着と、その地の正統な支配者としてのアイデンティティを示すものであった。宍戸転封という失意の中での一時的な伊駒姓への改姓は、旧領喪失への抗議や、徳川政権に対する複雑な感情の表れであった可能性があり、その後の秋田城介任官と秋田姓復帰は、彼の政治的地位と自尊心の回復を象徴する出来事であったと言える。

7. 伊勢朝熊への配流と晩年

秋田城介に任官し、秋田姓に復した実季であったが、その後の人生は平穏なものではなかった。寛永7年(1630年)、実季は徳川幕府の命令により、伊勢国朝熊(あさま、現在の三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた 8 。これは事実上の配流であり、彼の政治生命はここで終焉を迎えることになる。

配流の理由については複数の説が伝えられている。一つには、嫡男である秋田俊季との不和が深刻化したこと、加えて、安東氏(秋田氏)の家臣団内部には、旧檜山系と旧湊系の対立が依然として残存しており、これらの家中騒動が幕府の介入を招いた可能性が示唆されている 8 。また別の説では、実季が幕府から命じられた公務を息子の俊季に任せきりにし、勤怠に問題があったためとされている 7 。いずれにせよ、これらの要因が複合的に絡み合い、幕府による厳しい処断に至ったものと考えられる。家督は嫡男の俊季が継承し、秋田氏は常陸宍戸から陸奥三春(現在の福島県三春町)へと転封されることになるが 9 、実季自身はわずかな近習を伴い、伊勢朝熊へと送られた 8

実季は伊勢朝熊の永松庵という寺院に幽閉されたと伝えられる 8 。この厳しい配流生活に同行したのは、側室であった片山氏とその娘のお千世だけであったという 8 。お千世は実季の第二子とされ、当時まだ5歳の幼子であった。片山氏は実季に最も深く愛された側室であったと推測されており 8 、父娘の過酷な境遇を支えたのであろう。しかし、その片山氏とお千世も、実季に先立って配流先で亡くなったとされており 8 、彼の晩年の孤独と心痛は察するに余りある。

配流後の実季は、世俗を離れた生活の中で「凍蚓(とういん)」と号した 1 。「凍蚓」とは冬眠するミミズを意味し、厳しい環境の中で静かに耐え忍ぶ姿を象徴するかのようである。福井県小浜市の羽賀寺には、実季の僧形の木造坐像が伝わっており、その背中には「凍蚓」の陰刻銘があるという 32 。また、配流の地で万金丹という薬を制作したという逸話も残されており、実際に彼が所持していたとされる薬の書付も多く現存している 33 。さらに、文芸書や謡曲・蹴鞠などの伝本も彼の旧蔵品として注目されており、配流中も文化活動に親しんでいたことがうかがえる 33

権力の座を追われた武将が、異なる形で自己の存在意義を見出し、精神的な深化を遂げる例は歴史上少なくない。実季の伊勢朝熊への配流は、近世初期の大名家における家督相続や藩政運営の難しさ、そして幕府の厳しい監視体制を示すものである。しかし、配流後の実季が「凍蚓」と号し、薬の調合や文芸活動に勤しんだことは、彼が単に失意の日々を送ったのではなく、新たな関心事を見出し、精神的な深化を遂げた可能性を示唆する。特に最愛の家族であった片山氏とお千世との死別は、彼の晩年の精神性に大きな影響を与えたであろう。

実季の晩年の文化活動は、単なる慰みではなく、自らの知識や経験を後世に伝えようとする意識の表れとも解釈できる。薬の書付などは実用的な知識の集積であり、文芸作品は彼の思想や感性を反映する。これは、権力を失った武将が、文化的な営みを通じて自らの「家」の存続や名誉の保持を図ろうとした、ある種の「終活」と捉えることもできるかもしれない。

万治2年(1659年)11月29日、秋田実季は配流先の伊勢朝熊にて、84年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。戒名は高乾院殿隆巌梁空大居士と伝えられている 1

8. 人物像と文化的側面

秋田実季の人物像を多角的に捉えるためには、武将としての側面と文化人としての一面を総合的に考察する必要がある。

武将としての実季は、幼くして家督を継ぎ、湊合戦という内乱を鎮圧して家中の統一を維持し 2 、豊臣政権下では巧みな交渉を通じて所領を安堵され 4 、関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦では東軍に与して行動するなど 4 、戦国武将として一定の力量と判断力を備えていたことは間違いない。しかしその一方で、最上義光との間に確執が生じたり 28 、嫡男・俊季との関係が悪化して家督相続問題に発展したり 8 、さらには幕府への勤怠が問題視されるなど 7 、人間関係の構築や政治的な立ち回りにおいて苦慮した側面もうかがえる。これらの経験は、彼の性格形成や意思決定に複雑な影響を与えたであろう。

他方で、実季は文化人としての一面も持ち合わせていた。彼の旧蔵品とされる資料の中には、文芸書や謡曲・蹴鞠などの伝本が多く含まれており、彼がこれらの文化活動に深く親しんでいたことを示唆している 33 。特に晩年、伊勢朝熊へ配流されてからは「凍蚓」と号し 1 、薬の調合にも関心を示したと伝えられる 33 。福井県小浜市の羽賀寺には、実季の父・愛季と共に、実季自身の木造坐像(僧形)が伝えられている 32 。これは、実季あるいは父・愛季が若狭国の羽賀寺再興に関与した縁によるものと考えられ、愛季が果たせなかった再建事業を実季が成し遂げたという記録もある 32 。また、男鹿の赤神権現に神田を寄進した記録もあり 15 、彼の信仰心や寺社への経済的支援(パトロネージ)の可能性を示している。これらの行為は、領国統治における宗教勢力との関係構築や、自身の権威付け、あるいは個人的な祈願など、様々な動機が考えられるが、地域の文化形成にも間接的に寄与した可能性がある。

和歌に関する具体的な作品や師事した人物についての直接的な記述は、現存する史料からは乏しいものの 34 、文化活動全般への関心の高さは十分にうかがえる。実季の生涯は、武将としての活動が中心であったが、これらの文化的な関心は、彼が単なる武辺一辺倒の人物ではなかったことを示唆している。戦国武将にとって、和歌や茶の湯などの教養は、外交や社交、さらには精神修養の手段としても重要であった。実季の文化活動は、特に晩年の不遇な配流生活において、彼の精神的支柱となった可能性がある。武将としての厳しい現実と、文化人としての洗練された精神世界の間に、どのようなバランス、あるいは葛藤があったのかは、彼の人間性を深く理解する上で興味深い点である。

9. 結論:秋田実季の歴史的評価

秋田実季は、安東氏という古い家系の伝統と、北奥羽という独自の地域性を背負い、戦国時代末期の激動を生き抜き、豊臣政権、そして徳川幕府という中央集権体制への移行期に、地域領主として懸命に対応しようとした重要な人物であった。幼くして家督を継ぎ、内乱を鎮定して領国をまとめ上げ、北方交易などを通じて経済基盤の強化に努めた。中央政権との折衝においては、時には危機に瀕しながらも巧みな立ち回りを見せ、家の存続を図った。しかし、関ヶ原の戦いを経て大きく変動する政局の中で、長年の本拠地であった出羽秋田を失い、常陸宍戸へ、そして最終的には伊勢朝熊への配流という形で、波乱に満ちた生涯を終えた。

彼の生涯は、戦国時代の自律的な地域権力が、近世的な幕藩体制下の「大名」へと変質していく過渡期の困難と矛盾を象徴していると言えよう。彼は、父祖伝来の勢力圏を維持・拡大しようと努めつつも、中央集権化という巨大な歴史の潮流には抗しきれず、最終的にはその枠組みの中で生きることを余儀なくされた。彼の成功と失敗、栄光と挫折は、この時代を生きた多くの地方領主に共通する普遍的なテーマを内包している。

後世への影響として、秋田氏(安東氏)の歴史は、実季の時代を経て、子の俊季が陸奥国三春藩(現在の福島県三春町)に移封され、同地で幕末まで大名家として存続することになる 29 。実季が経験した様々な苦難や教訓は、秋田家が近世大名として生き残っていく上で、何らかの形で活かされた可能性がある。また、彼が関わった北方交易の記憶や、領国経営の試み、そして晩年の文化活動の痕跡は、地域の歴史や文化の中に断片的ながらも今日まで伝えられている。

最終的に本領を失い配流された実季は、歴史の大きな流れから見れば「勝者」とは言えないかもしれない。しかし、彼の人生を詳細に追うことで、中央集権化の過程で切り捨てられた、あるいは変容を余儀なくされた地域社会のあり様や、そこに生きた個人の葛藤が見えてくる。彼の苦闘や文化的関心は、単なる政治史の枠を超えて、近世初期の社会や文化の多様な側面を照らし出す史料的価値を持つと言えるだろう。彼の存在は、中央中心の歴史観だけでは捉えきれない、日本の豊かな地域史の一端を我々に示してくれるのである。

引用文献

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