戦国時代の陸奥国にその名を刻んだ稗貫輝時(ひえぬき てるとき)。彼の生涯を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史と、彼が置かれた奥州の複雑な政治情勢を紐解く必要がある。稗貫氏は、現在の岩手県花巻市一帯を拠点とした国人領主であり、その起源からして、すでに多くの謎と矛盾を抱えていた。一族の歴史は、絶え間ない周辺勢力との緊張関係、とりわけ宿敵・南部氏との長年にわたる抗争によって彩られており、その脆弱な立場こそが、輝時の行動、そして一族の運命を決定づける根源的な要因となったのである。
稗貫氏の出自については、驚くほど多くの説が乱立しており、一つの定説を見ることはない。これは、一族の歴史的地位を象徴する現象と言える。
主要な説としては、まず仙台藩の記録に見られる伊達氏同族説がある。『伊達世臣家譜』などによれば、鎌倉時代初期の建久八年(1197年)、伊達氏の始祖・伊達朝宗の子である為重が稗貫郡に入り、地名をとって稗貫氏を名乗ったとされる 1 。一方で、対立関係にあった南部藩側の記録、例えば「盛岡藩士瀬川氏譜」などでは、藤原北家の流れを汲む中条氏の分流とする説が一般的である 1 。さらに古くは、中納言・藤原山陰の末裔と称する記録も存在する 2 。
これらの出自に関する記録の錯綜は、稗貫氏が奥州の広大な領域を支配した大大名とは異なり、特定の郡を基盤とする「国人領主」であったという歴史的性格を浮き彫りにしている。確立された権威的な系譜を持たなかったがゆえに、後世、あるいはその時々の政治的状況に応じて、より権威のある伊達氏や藤原氏といった名門の系譜に自らを結びつけようと試みた痕跡と解釈できるのである 1 。特に、江戸時代に仙台藩士として存続した稗貫氏の末裔が、主家である伊達家との繋がりを強調するために伊達氏同族説を強く主張した可能性は高い。この権威に接近しようとする志向性は、後に稗貫輝時が室町将軍という中央の最高権威に活路を見出そうとする行動の、重要な伏線となっている。
いずれの説が真実であれ、稗貫氏が歴史の表舞台に登場するのは鎌倉時代後期から南北朝時代にかけてである。文治五年(1189年)の源頼朝による奥州合戦後、戦功のあった関東の御家人が恩賞として奥州各地に所領を与えられた際に、稗貫郡に入部したのが始まりと大筋では考えられている 2 。
稗貫氏の歴史は、その初期から隣接する強大な勢力、南部氏との宿命的な対立によって規定されていた。南北朝の動乱期、稗貫氏は当初、北畠顕家らに率いられた南朝方として活動した 1 。しかし、顕家の戦死などを経て南朝方の勢力が後退すると、北朝方として奥州に派遣された奥州探題・斯波氏の麾下に転じる 1 。この政治的転向が、南朝方を支持し続けた南部氏との間に、決定的な亀裂を生んだ。興国元年(1340年)、南朝方の南部政長が稗貫領に侵攻し、翌年には稗貫氏が壊滅的な打撃を受けるという事態に至った 1 。
この対立構造は、南北朝時代が終焉した後も変わることなく続いた。室町時代の永享七年(1435年)に勃発した「和賀の大乱」において、稗貫氏は和賀氏の分家側に加担したが、和賀宗家を支援した南部守行が三万近い大軍を派遣して介入。翌永享八年(1436年)、稗貫氏の諸城は次々と攻略され、本城である十八ヶ城(さかりがじょう)を包囲されるに至り、最終的には南部氏の軍門に降るという屈辱的な和議を結ばざるを得なかった 1 。
その後、稗貫氏は奥州探題であった大崎氏の傘下に入ることでかろうじて命脈を保った。室町幕府の序列においては、伊達、葛西、南部といった奥州の有力大名に次ぐ家格として処遇されており、独立した戦国大名というよりは、より大きな権力構造に組み込まれた国人領主という地位に甘んじていたことがわかる 1 。この南部氏との長年にわたる抗争の歴史と、それによって形成された脆弱な権力基盤こそが、戦国時代を迎えた稗貫氏、そして当主となる輝時が直面する、極めて困難な現実であった。
戦国時代の荒波が奥州にも押し寄せる中、稗貫氏は深刻な内部問題を抱えていた。それは、一族の将来を担うべき嫡流の不安定さである。相次ぐ養子縁組によってかろうじて家名を維持するという状況下で、稗貫輝時は歴史の舞台に登場する。彼の出自は、当時、稗貫氏と同じく南部氏の脅威に晒されていた奥州斯波氏(高水寺斯波氏)であった。輝時の養子入りは、単なる家督相続問題の解決に留まらず、共通の敵に対抗するための戦略的提携の象徴であり、彼の生涯の方向性を決定づける第一歩となった。
戦国期における稗貫氏は、稗貫稙重の代を最後に嫡流が不安定となり、他家からの養子に家督を委ねることが常態化していた 1 。このような状況は、一族の求心力を著しく低下させ、外部勢力の介入を容易にする土壌を作り出した。当主の権威は揺らぎ、家臣団の統制も困難になるという、まさに悪循環に陥っていたのである 1 。
輝時が養子に入る直前の当主であった稗貫晴家も、隣接する葛西氏の当主・葛西宗清の子であったと伝えられており 1 、この時点で既に稗貫氏が自らの血統のみで家を維持する能力を失っていたことが窺える。一族の存続そのものが、周辺勢力との力関係の中でかろうじて保たれているに過ぎなかった。このような脆弱な基盤の上に、輝時は稗貫氏の当主として立たなければならなかったのである。
稗貫輝時の実家は、陸奥国紫波郡を拠点としていた高水寺斯波氏である 1 。高水寺斯波氏は、室町幕府の管領を輩出した名門・斯波氏の庶流であり、奥州探題を世襲した大崎氏の分家筋にあたる。名門の血を引くとはいえ、その勢力は限定的であり、稗貫氏と同様、北からの南下政策を推し進める三戸南部氏の強大な軍事的圧力に常に苦しめられていた。
この共通の脅威を前に、稗貫氏と高水寺斯波氏は、西に隣接する和賀氏とも連携し、対南部氏の共同戦線を形成していた 1 。彼らにとって、南部氏の南下をいかに食い止めるかは、一族の存亡をかけた至上命題であった。
このような背景を考慮すると、輝時の養子入りは、単に後継者不在という稗貫氏の家督問題を解決するための措置に留まるものではなかったことが明らかになる。これは、強大な共通の敵である南部氏に対抗するため、稗貫・斯波両家が血縁という最も強固な紐帯をもって同盟関係を構築しようとした、高度に戦略的な決定であったと分析できる。戦国時代において、婚姻や養子縁組は同盟を確固たるものにするための常套手段であった。輝時自身が、この「反南部連合」の強化を象身として稗貫家に迎え入れられたのであり、彼の肩には、稗貫氏の家督継承者としてだけでなく、この軍事同盟の要としての重責が託されていたのである。
養子当主として稗貫氏を継いだ輝時が、その治世において最も特筆すべき行動に出たのが、天文二十四年(1555年)のことであった。彼は遥か都に上り、室町幕府の第十三代将軍・足利義輝に謁見するという、奥州の小領主としては異例の行動を敢行した。この上洛は、単なる儀礼的な挨拶ではなく、自らの脆弱な権力基盤を強化し、宿敵・南部氏に対抗するための、周到に計算された政治的パフォーマンスであった。特に、上洛を機に行われたとされる「義時」から「輝時」への改名は、この行動に秘められた輝時の強い意志と戦略性を物語っている。
天文二十四年(1555年)、稗貫輝時は家臣数名を伴い、陸奥国稗貫郡から長い道のりを経て京の都に上った 1 。そして、時の将軍・足利義輝に謁見し、黄金十両を献上したのである 5 。この献上に対し、義輝は輝時の忠誠を嘉し、自らの諱(いみな)の一字である「輝」の字を授けた。これ以降、彼は「稗貫輝時」と名乗ることになったと伝えられている 5 。
この当時、将軍・足利義輝の権力は決して盤石なものではなかった。畿内における実力者であった三好長慶との対立の末に京を追われ、近江国に逃れるなど、その権威は大きく揺らいでいた 9 。しかし、それでもなお義輝は、諸国の戦国大名間の調停を試みるなど、失墜した将軍権威の回復に精力的に努めていた 9 。彼にとって、遠く奥州の地からわざわざ上洛し、忠誠を示す輝時のような存在は、自らの権威を再確認する上で歓迎すべきものであった。一方で輝時にとっても、たとえ実権は乏しくとも、名目上は日本の最高権力者である将軍との直接的な結びつきは、計り知れない価値を持つものであった。
この上洛における最も興味深い点は、輝時の改名問題である。後の時代の稗貫氏の記録では「輝時」として知られているが、上洛当時の将軍家側の記録には、異なる名前が記されている。幕府政所執事の伊勢氏に仕えた蜷川氏の家記である『蜷川家記』や、同時代の史料『讒拾集』には、この時上洛した人物の名が「稗貫大和守 義時 (よしとき)」と明確に記録されているのである 10 。
この記録の相違は、輝時が上洛を機に「義時」から「輝時」へと改名した可能性が極めて高いことを示唆している。すなわち、彼が元々名乗っていた「義時」の「義」の字は、第十二代将軍・足利義晴など、先代の将軍から賜ったものであると推測される。将軍が義輝に代替わりしたこの機に、輝時は改めて上洛し、 現職の将軍 から直接「輝」の字を拝領するという行動に出た。これは、自らの幕府への忠誠を「更新」し、その権威を「再認証」してもらうという、極めて意識的な政治行動であった。
「偏諱(へんき)」とは、主君が家臣に自らの名前の一字を与えることで、両者の間に特別な主従関係が存在することを示す、象徴的な意味合いの強い行為である。古い将軍から与えられた権威よりも、現在の将軍から与えられた「最新の」権威の方が、周辺勢力や、特に自らの出自(斯波氏からの養子)ゆえに盤石とは言えなかったであろう家臣団に対して、より強力な正統性の証明となり得た。この改名は、対外的(対南部氏)な牽制と、対内的(家中掌握)な権威付けという、二重の戦略的価値を追求したものであったと考えられる。輝時は、黄金十両という決して安くはない投資によって、自らの地位を内外に宣言するための、この上なく効果的な権威を手に入れたのである。
輝時の上洛は、複数の政治的・戦略的目的を内包した、多角的な意味を持つ行動であった。
第一に、 対内的な権威強化 である。前述の通り、輝時は斯波氏からの養子であり、稗貫氏の血を引いていない。彼の支配の正統性は、常に不安定な要素をはらんでいた。将軍から直接名前を賜るという栄誉は、彼が単なる養子ではなく、室町幕府という公的な権威によって認められた正統な稗貫氏当主であることを、家臣団や領民に対して明確に示すための絶好の機会であった。
第二に、 対外的な勢力誇示 である。長年の宿敵である南部氏に対し、自らが幕府と直接的なパイプを持つ存在であることをアピールし、安易な軍事侵攻を躊躇させる狙いがあった。奥州の片田舎における地域紛争を、中央の権威を背景としたより高次の政治的駆け引きの場に引き上げようとする試みであったと言える。
第三に、 情報収集と中央情勢の把握 という側面も無視できない。戦国時代とはいえ、京は依然として日本の政治・文化の中心地であった。上洛は、天下の情勢や有力大名の動向を探り、自らの外交戦略を練り直すための貴重な情報収集の機会でもあった。輝時は、この上洛を通じて、中央集権化へと向かう時代の大きな潮流を肌で感じたのかもしれない。
しかし、この輝時の野心的な試みも、彼の力ではどうすることもできない時代の大きなうねりの前には、限定的な効果しか持たなかった。彼の求めた将軍の権威そのものが、既に落日の時を迎えつつあったのである。
将軍足利義輝からの偏諱拝領という、輝時にとって生涯の頂点ともいえる出来事から数年後、彼と稗貫氏を取り巻く状況は好転するどころか、むしろ悪化の一途をたどった。輝時が後ろ盾として期待したはずの実家・高水寺斯波氏が、宿敵・南部氏の前に滅亡。さらに、輝時自身も後継者に恵まれず、再び他家からの養子に一族の未来を託さざるを得なくなる。上洛によって得たはずの権威も、北奥州の厳しい現実の前ではあまりにも無力であった。一族は、抗いがたい衰退の坂道を転がり落ちていく。
輝時の期待とは裏腹に、南部氏の南下政策はますますその勢いを増していった。天正十四年(1586年)夏、高水寺斯波氏の当主・斯波詮真(しば あきざね)の娘婿であった高田康実(南部一族の九戸政実の弟)が、南部宗家の当主・南部信直に降るという事件が起きる。これを裏切りと見た詮真は南部領に攻め込むが、逆に南部勢の猛烈な反撃に遭い、岩手郡の広大な領地を失うという大敗を喫した 1 。
この危機的状況に際し、稗貫氏は両者の間に立って和睦の仲介を試みた。一時的に和平は成立したものの、それは束の間のことであった 1 。南部信直の狙いは、斯波氏の完全な排除にあった。天正十六年(1588年)、信直は再び大軍を動員して斯波領に侵攻。斯波詮真は居城である高水寺城を捨てて逃亡し、ここに奥州の名門・高水寺斯波氏は滅亡した 1 。
輝時の実家である斯波氏の滅亡は、稗貫氏にとって単なる同盟者の喪失という戦術的な後退に留まらなかった。それは、輝時が養子として稗貫氏にもたらしたはずの「斯波氏という後ろ盾」が完全に消滅したことを意味し、輝時自身の政治的威信と、彼が主導した外交戦略そのものの破綻を象徴する決定的な出来事であった。南部氏という巨大な脅威に対し、稗貫氏はもはや独力で、あるいは近隣の小領主との連携だけで対抗することは不可能になっていた。
斯波氏滅亡後の輝時の動向、そしてその最期については、史料が乏しく不明な点が多い。彼の没年については天正三年(1575年)とする説がある一方で、天正十八年(1590年)の時点でも「稗貫輝家(てるいえ)」という、輝時と同一人物の可能性が高い名義で伊達氏に宛てた書状が存在するなど、情報は錯綜している 2 。この記録の混乱自体が、斯波氏滅亡後の稗貫氏が陥っていたであろう混乱と衰退の様相を物語っている。
いずれにせよ、輝時にもまた嫡子がおらず、一族の未来は再び養子に託されることになった。輝時の後継者として白羽の矢が立ったのは、西に隣接し、長年、対南部氏の共同戦線を張ってきた和賀氏の一族、和賀義勝(あるいは義治)の子である広忠であった 1 。広忠は輝時の娘を娶り、婿養子として稗貫氏の家督を継いだ 2 。
ここに、戦国期における稗貫氏の不安定な家督相続の実態をまとめる。
代 |
当主名 |
出自 |
備考 |
- |
稗貫 稙重 |
稗貫氏 |
この頃から嫡流が不安定になる 1 。 |
- |
稗貫 晴家 |
葛西氏 |
葛西宗清の子と伝わる 1 。 |
- |
稗貫 輝時 |
高水寺斯波氏 |
本報告の主題。斯波氏から養子に入る 1 。 |
- |
稗貫 広忠 |
和賀氏 |
輝時の養子。和賀義勝の子 12 。最後の当主。 |
この葛西氏出身の晴家、斯波氏出身の輝時、そして和賀氏出身の広忠へと続く養子の連鎖は、稗貫氏がもはや自らの血統によって家を維持する能力を喪失し、周辺の国人領主との「反南部連合」をかろうじて維持するための、いわば「器」としての役割に甘んじていた実態を物語っている。当主の座そのものが、地域のパワーバランスを保つための外交カードとして利用される中で、一族としての主体性や求心力は著しく損なわれていった。この構造的な脆弱性こそが、間もなく奥州を席巻することになる豊臣政権という新たな中央集権体制の到来に対応できなかった、根本的な原因の一つとなったのである。
稗貫氏の歴史は、最後の当主・広忠の代に、あまりにもあっけない幕切れを迎える。その引き金を引いたのは、天下統一を目前にした豊臣秀吉であった。中央で進行していた巨大な権力再編の波は、北奥の小領主であった稗貫氏の運命をも容赦なく飲み込んでいく。旧来の秩序と価値観の中でしか生きられなかった彼らは、新しい時代の到来に対応できず、歴史の舞台から姿を消すことになった。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を討つべく、小田原征伐の軍を起こした。この時、秀吉は全国の大名・領主に対し、小田原への参陣を厳命した。これは単なる軍事動員ではなく、秀吉への服従を誓わせるための踏み絵であった。しかし、稗貫氏の当主・広忠は、この命令に従わず、小田原に参陣しなかった 12 。その理由は定かではない。中央の情勢に疎かったのか、長年の同盟者であった北条氏への義理立てか、あるいは秀吉の権力を過小評価していたのか。いずれにせよ、この決断が稗貫氏にとって致命的な失策となった。
小田原城を陥落させ、天下統一を成し遂げた秀吉は、戦後処理として「奥州仕置」を断行する。これは、奥州の領土配分を秀吉の意のままに決定するものであり、小田原に参陣しなかった大名・領主は容赦なく改易、すなわち所領没収の処分を受けた。稗貫広忠もその対象となり、一族が数百年間にわたって支配してきた稗貫郡は全て没収され、領主としての稗貫氏はここに滅亡した 17 。彼らの本拠地であった鳥谷ヶ崎城(後の花巻城)には、秀吉の奉行である浅野長政の軍勢が進駐し、新たな支配体制の構築が進められた 2 。
突如として拠点を失った稗貫・和賀の旧臣たちの不満は、やがて爆発する。奥州仕置軍が引き揚げると、葛西・大崎領で大規模な一揆が勃発。これに呼応する形で、稗貫広忠は実家である和賀氏の和賀義忠と共に、旧領回復を目指して蜂起した。これが「和賀・稗貫一揆」である 2 。
天正十八年(1590年)十月、一揆勢はまず和賀氏の旧居城であった二子城を急襲し、これを奪還 16 。その勢いを駆って、広忠のかつての居城・鳥谷ヶ崎城に二千余の兵で攻め寄せた。城を守る浅野長政の家臣・浅野重吉の兵はわずか数百であり、一揆勢は城を包囲し、落城寸前まで追い詰めた 2 。
しかし、この知らせを受けた南部信直が、秀吉への忠誠を示す好機と捉え、自ら兵を率いて鳥谷ヶ崎城の救援に駆けつけた。南部軍の攻撃によって一揆勢の包囲は解かれ、一時的に後退を余儀なくされる 16 。その後、南部軍は冬季の籠城の困難さから城を放棄して撤退したため、広忠らは一時的に鳥谷ヶ崎城を取り戻すことに成功した 16 。
だが、彼らの束の間の勝利は、豊臣政権の逆鱗に触れた。秀吉は、この大規模な反乱を鎮圧するため、甥の豊臣秀次を総大将とし、徳川家康、蒲生氏郷、上杉景勝ら、そうそうたる武将を動員した「奥州再仕置軍」を編成し、翌天正十九年(1591年)に奥州へ派遣した 16 。圧倒的な兵力と物量を誇る再仕置軍の前に、和賀・稗貫の一揆勢はなすすべもなく蹂躙された。和賀義忠は敗走の途中で土民に討たれ、稗貫広忠もまた、逃亡の末に数年後に失意のうちに死去したと伝えられている 12 。ここに、武家としての稗貫氏は、完全に歴史からその姿を消した。
稗貫氏の滅亡は、小田原不参陣という直接的な失策のみに起因するものではない。より根本的には、彼らが時代の巨大な転換点を読み解けず、新たな秩序に適応できなかったことにその原因を求めることができる。室町時代的な緩やかな主従関係や、国人領主間の地域的な力学といった旧来の秩序の中では、彼らも存続し得たであろう。しかし、豊臣秀吉がもたらした「天下統一」という新しい秩序は、絶対的な服従を求めるものであり、その潮流に乗り遅れた者は容赦なく淘汰された。輝時の上洛が旧秩序の権威に依存する最後の試みであったとすれば、広忠の不参陣とそれに続く一揆は、その旧秩序がもはや何の意味も持たないという冷徹な現実を理解できなかったことの、悲劇的な証明であった。
稗貫輝時の生涯と、彼が率いた一族の滅亡に至る軌跡は、戦国時代から安土桃山時代へと移行する激動期を生きた、数多の地方小領主がたどった運命の縮図である。彼の行動を再評価し、一族が歴史に残した教訓を考察することで、この時代の本質の一端を垣間見ることができる。
稗貫輝時は、決して時代の流れにただ翻弄されただけの無力な領主ではなかった。彼が敢行した天文二十四年の上洛は、養子という自らの出自の弱点を克服し、強大な敵に囲まれた絶望的な状況を打開しようとする、極めて野心的かつ戦略的な一手であった。中央の権威を自らの権力基盤強化に利用するという発想は、当時の地方領主として非凡な政治感覚を持っていたことの証左である。彼は、自らが置かれた状況を冷静に分析し、考えうる最善の策を講じようと行動した、主体的な人物として評価されるべきである。
しかし、彼のこの試みは、最終的に大きな成果を上げることはなかった。その原因は、彼個人の才覚では到底覆すことのできない、二つの大きな構造的問題にあった。一つは、彼が頼った室町幕府の権威そのものが、もはや地に堕ちていたという事実である。そしてもう一つは、宿敵・南部氏との間にある、埋めがたい国力と軍事力の差であった。輝時の戦略は、彼が生きる時代の前提そのものが崩れ去っていく中で、砂上の楼閣と化す運命にあった。
稗貫一族の滅亡は、単一の理由によるものではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果であった。
第一に、 地政学的な要因 が挙げられる。北に強大な南部氏、南に勢力を拡大する伊達氏という、二大勢力に挟まれた立地は、常に外部からの圧迫に晒されることを意味した。彼らには、独自の勢力圏を確立するための戦略的な縦深性が欠けていた。
第二に、 内政的な脆弱性 である。本報告で繰り返し指摘したように、嫡流の断絶と相次ぐ養子縁組は、家中の求心力を著しく低下させた。一族の結束は乱れ、当主の権威は揺らぎ、統一された意思決定を困難にした。この内部の弱さが、外部からの圧力に対する抵抗力を削いでいった。
第三に、 戦略的な限界 である。輝時が試みたように、中央の権威に依存する戦略は、その中央が力を失い、豊臣政権という全く新しい、より強固な権力が登場したことで完全に破綻した。彼らは、旧来の価値観と秩序の変化に対応しきれず、結果として新しい時代から取り残されたのである。
稗貫輝時の生涯は、戦国乱世の片隅で、一族の存続をかけて旧来の権威に活路を見出そうとした国人領主の、壮大かつ悲壮な苦闘の記録である。彼の野心的な試みと、その後の挫折、そして一族の滅亡に至る軌跡は、天下統一という巨大な歴史のうねりの中で、中央集権化の波に飲み込まれていった数多の地方勢力の運命を象徴している。稗貫氏の物語は、単なる一地方豪族の興亡史に留まらず、時代の変革期における適応と淘汰の冷厳な法則を示す、貴重な歴史的教訓として後世に語り継がれるべきものである。