本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、種子島久時(たねがしま ひさとき、1568-1612)の生涯を包括的に解明することを目的とする。鉄砲伝来という歴史的画期を担った種子島家に生まれ、島津氏の九州統一、豊臣政権による天下統一、そして徳川幕府の成立という、日本の歴史における三大転換期を駆け抜けた彼の生涯は、武将としての武勇、領主としての苦悩、そして文化の担い手としての先見性という多面的な要素に満ちている。
父・時堯が築いた「鉄砲の家」としての名声は、久時にとって栄光であると同時に、主家である島津氏や中央の豊臣政権から常にその動向を注視されるという重圧でもあった。本章では、彼が生きた時代の大きなうねりの中に久時を位置づけ、その生涯を読み解くための視座を提示する。
本報告書は、彼の劇的な誕生から、島津の驍将としての活躍、領主としての苦難、文化的功績、そして家の血脈を繋いだ最期までを、信頼性の高い史料に基づき時系列に沿って詳述する。
西暦 |
和暦 |
久時の年齢 |
種子島久時の動向・関連事項 |
日本の主な出来事 |
主要典拠 |
1568年 |
永禄11年 |
1歳 |
10月28日、種子島時堯の次男として誕生。幼名は鶴袈裟丸。 |
織田信長が足利義昭を奉じて上洛。 |
1 |
1578年 |
天正6年 |
11歳 |
- |
島津氏、耳川の戦いで大友氏に大勝。 |
3 |
1579年 |
天正7年 |
12歳 |
父・時堯が死去。 |
- |
5 |
1580年 |
天正8年 |
13歳 |
島津義久の加冠により元服、家督を相続し第16代当主となる。名を克時から久時へ改める。 |
- |
2 |
1584年 |
天正12年 |
17歳 |
島津軍の一員として沖田畷の戦いに参戦。龍造寺隆信を破る。 |
小牧・長久手の戦い。 |
2 |
1586年 |
天正14年 |
19歳 |
豊臣秀吉の九州平定軍と戦う(筑前・岩屋城攻めなど)。 |
- |
9 |
1587年 |
天正15年 |
20歳 |
島津氏が豊臣秀吉に降伏。 |
- |
10 |
1590年 |
天正18年 |
23歳 |
小田原征伐に参陣。豊臣秀吉に鉄砲200挺を献上。 |
豊臣秀吉が天下を統一。 |
2 |
1592年 |
文禄元年 |
25歳 |
文禄の役。島津義弘に従い朝鮮へ渡海する準備を進める。 |
- |
9 |
1595年 |
文禄4年 |
28歳 |
太閤検地により、種子島から薩摩国知覧院へ移封される。 |
秀次事件。 |
2 |
1597年 |
慶長2年 |
30歳 |
慶長の役。再び朝鮮へ渡海。 |
- |
9 |
1598年 |
慶長3年 |
31歳 |
泗川の戦いで鉄砲隊を率いて活躍。明・朝鮮連合軍を撃破。 |
豊臣秀吉が死去。 |
12 |
1599年 |
慶長4年 |
32歳 |
知覧から種子島へ復帰を許される。島津家の家老となる。 |
伊集院忠棟が島津忠恒に殺害され、庄内の乱が勃発。 |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
33歳 |
関ヶ原の戦い。久時は参戦せず。 |
関ヶ原の戦い。 |
14 |
1606年 |
慶長11年 |
39歳 |
禅僧・南浦文之に依頼し、『鉄炮記』を編纂させる。 |
- |
16 |
1611年 |
慶長16年 |
44歳 |
12月27日、病により死去。 |
後継者不在のまま逝去。 |
1 |
1612年 |
慶長17年 |
- |
死後、側室・前田氏の娘から遺腹の子・忠時が誕生し、家督を継ぐ。 |
- |
2 |
種子島久時の生涯を理解する上で、その両親の存在は欠かすことができない。父は、日本の歴史を大きく転換させた「鉄砲伝来」の当事者として名高い、種子島家第14代当主・時堯である 5 。天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル商人から、時堯が二挺の火縄銃を購入し、その国産化に成功させたことは、『鉄炮記』に詳述される通りである 19 。この時堯の先見の明は、種子島家に「鉄砲」という、他のいかなる在地領主も持ち得なかった絶大な軍事的・政治的資本をもたらした。久時は、この「鉄砲の家」の栄光と、それに伴う宿命を背負って生を受けることとなる。
母は、種子島家の家臣であった黒木道統の娘である 2 。彼女に関しては、後世に「賢母」として称えられる一つの象徴的な逸話が残されている。鹿児島県西之表市古田地区の古田小学校校庭には、明治35年(1902年)に建立された「賢母遺蹟碑」が現存する 21 。その碑文によれば、父・時堯の死後、母・黒木氏は、まだ幼い久時を立派な武将に育てるため、温暖な種子島の中であえて寒気の厳しい古田の地を選んで館を構え、そこで厳格な教育を施したと伝えられている 21 。
この逸話は、明治期に種子島出身のジャーナリスト西村天囚らによって顕彰されたものであり、後世の潤色が含まれる可能性は考慮すべきである 24 。しかし、この物語がなぜ語り継がれたのかを考察することは、久時の人物像を理解する上で重要である。久時が実際に文禄・慶長の役の厳寒の地で目覚ましい活躍を見せ 21 、知行替えという苦難を乗り越えた事実と、この母のスパルタ教育の物語が結びつき、彼の強靭な精神力の源泉を説明する説得力のある物語として、地域の人々に受け入れられたのであろう。この逸話は、史実性を超えて、久時という人物が後世にどのように記憶され、理想化されたかを示す文化史的な象徴として捉えることができる。
久時の誕生に至る経緯は、単なる家の慶事ではなく、種子島家の存亡を賭けた緊迫した政治劇の帰結であった。当時の種子島家は、主家である島津氏との関係を深める一方で、独自の自立性を維持しようとする、危うい綱渡り外交の只中にあった。
父・時堯は、正室として島津氏の血を引く女性を迎え、島津氏との関係を強化する一方で、長年抗争を続けてきた大隅の有力国人・禰寝氏からも娘を側室として迎えるという、複雑な婚姻政策をとっていた 6 。これは、島津氏への一方的な従属を避け、地域の諸勢力とのバランスを保とうとする時堯のしたたかな戦略の表れであった。この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次であり、永禄3年(1560年)、時堯は時次に家督を譲った。しかし、時次はわずか2年後の永禄5年(1562年)に7歳で夭折してしまう 18 。
当主に復帰した時堯であったが、後継者不在という深刻な問題が再燃した。ここで時堯は、極めて大胆な一手に出る。『種子島家譜』によれば、時堯は当時、島津氏と九州の覇権を争っていた豊後の大友義鎮から養子を迎えようと画策したのである 26 。鉄砲という最新技術を外交カードとし、島津氏への過度な傾斜を是正しようとしたこの計画は、一歩間違えば島津氏の激しい怒りを買い、家を滅ぼしかねない危険な賭けであった。
この絶体絶命の危機を救ったのが、久時の誕生であった。家臣・西村時玄の機転により大友氏への使者は時間を稼ぎ、その間に時堯の側室である黒木氏が懐妊。永禄11年(1568年)10月28日、無事に男子が誕生した。幼名を鶴袈裟丸と名付けられたこの赤子こそ、後の久時である 1 。久時の誕生は、単に家の血脈を繋いだだけでなく、種子島家を大友氏との危険な外交ゲームから救い出し、結果として島津氏の勢力圏に完全に組み込まれる方向性を決定づけるという、極めて大きな政治的意味を持つ出来事だったのである。
父・時堯が天正7年(1579年)に没すると、久時は天正8年(1580年)、島津宗家の第16代当主・島津義久を烏帽子親として元服を遂げた 2 。この時、義久の偏諱(名前の一字)である「久」の字を賜り、それまでの「克時」という名から「久時」へと改名した 2 。
この加冠の儀は、単なる成人の儀式ではない。主君が烏帽子親となり、自身の名の一字を与えるという行為は、両者の間に強固な主従関係が公に成立したことを天下に示す、極めて重要な政治的儀式であった。これにより、種子島氏は中世以来の自立性を有した国人領主という立場から、島津氏を頂点とする近世的な大名家臣団の一員へと、その性格を明確に変えていくことになった。久時の生涯は、この島津家家臣という立場を基盤として展開していくのである。
家督を継いだ久時は、「鉄砲の家」の当主として、島津軍の戦闘において比類なき重要性を担う立場にあった。種子島は、鉄砲の国産化に成功して以来、その一大生産拠点であり、島津軍の強大さの源泉となっていた。久時は、この鉄砲の安定供給に責任を負うだけでなく、自ら鉄砲隊を率いて数々の戦場に赴き、その卓越した鉄砲術と効果的な部隊運用によって武名を轟かせた 2 。
久時の武将としてのキャリアを語る上で、最初の大きな舞台となったのが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いである。この戦いは、九州の覇権をかけて、肥前の「肥後の熊」龍造寺隆信と島津氏が激突した決戦であった。龍造寺軍約25,000(一説には6万)に対し、島津・有馬連合軍はわずか6,000程度という、絶望的な兵力差であったと記録されている 4 。
『種子島家譜』をはじめとする諸史料は、当時まだ17歳の久時がこの決戦に参戦していたことを記している 2 。この戦いの勝敗を決したのは、島津家久が立案した巧みな戦術であった。軍を湿地帯である沖田畷(おきたなわて)に布陣させ、隘路に敵の大軍を誘い込み、その動きが鈍ったところを側面から攻撃するというものであった 29 。
この戦術において、久時が率いた種子島鉄砲隊が果たした役割は極めて大きかったと推察される。島津のお家芸である「釣り野伏せ」が成功するためには、敵の猛攻を正面で受け止め、伏兵が展開する時間を稼ぐ「受け役」が不可欠である。遠距離から敵に損害を与え、その突撃力を削ぐことができる鉄砲隊は、この「受け役」としてまさに最適な部隊であった。若き久時は、この九州の覇権を賭けた一大決戦の枢要な部分を任され、見事にその役割を果たし、大勝利に貢献したのである。この経験は、久時に武将としての揺るぎない自信と、島津家中における確固たる名声をもたらしたに違いない。
沖田畷の戦いで龍造寺氏を破り、九州統一を目前にした島津氏であったが、その前に天下人・豊臣秀吉の20万ともいわれる大軍が立ちはだかった。天正15年(1587年)、島津氏は秀吉に降伏し、九州平定は成った 10 。
この秀吉との戦いにおいても、久時は島津軍の一員として従軍していた。『種子島家譜』には、天正14年(1586年)7月の筑前・岩屋城攻めにおいて、久時の家臣である上妻家長が軍功を挙げたことが記録されており、久時自身もこの九州統一戦の最終局面に身を投じていたことがわかる 9 。天下人の圧倒的な物量と組織力の前に、精強を誇った島津の武勇も及ばなかったこの戦いは、久時にとって戦国という時代の終焉と、新たな中央集権的な支配秩序の到来を痛感させる経験となった。この敗北は、後の豊臣政権下における彼の行動原理、すなわち、巧みに恭順の意を示しつつも、自家の価値を認めさせようとする戦略的な思考を形成する重要な契機となったと考えられる。
豊臣政権下において、久時は島津家臣として天下普請に従うことになる。天正18年(1590年)、秀吉による最後の統一事業である小田原征伐に、久時は島津軍の一員として参陣した。この際、彼は秀吉に対して鉄砲200挺を献上したと記録されている 2 。
この献上は、単なる臣従の証としての上納品以上の、極めて戦略的な意味合いを持っていた。当時最新鋭の兵器である国産鉄砲を、その生産地である種子島の領主が自ら大量に献上するという行為は、第一に、種子島氏が持つ高度な技術力と生産能力を天下人に直接誇示することであった。第二に、島津氏の軍事力の中核を担う不可欠な存在であることを政権中枢にアピールすることであった。そして第三に、豊臣政権内における島津家、ひいては種子島家自身の価値と重要性を認めさせるという、高度な政治的パフォーマンスであった。武力だけでなく、こうした外交的・戦略的な行動によって家の地位を保とうとする、久時の知略がうかがえる一幕である。
天下統一を成し遂げた秀吉が次に矛先を向けたのが、大陸への出兵、すなわち文禄・慶長の役であった。久時もまた、主君・島津義弘の配下として朝鮮半島へ渡海することになる 2 。『種子島家譜』には、この渡海に際しての生々しい記録が残されている。当初、家中には「我が君を遠く異域に渡らせることはできない」として渡海に反対する意見が根強く、久時も一時は躊躇した。しかし、家老の上妻家長らが「天下の命令に背けば家が滅びる」と必死に説得し、渡海を決断したという 9 。この逸話は、在地領主としての独立性と、豊臣大名の一家臣という新たな立場との間で揺れ動く、当時の武家の苦悩を如実に物語っている。
朝鮮の戦場において、久時と種子島鉄砲隊の武名はさらに高まる。特に慶長3年(1598年)の泗川(しせん)の戦いは、その白眉であった。島津義弘率いるわずか7,000の島津軍が、董一元率いる数万(一説に20万)の明・朝鮮連合軍を撃破したこの戦いにおいて、久時率いる鉄砲隊は決定的な役割を果たした 12 。城に敵を最大限引き付けた上で、一斉に鉄砲を放って大混乱に陥らせ、その隙に打って出て敵を殲滅するという戦術は、島津軍の武名を「鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼島津の意)」として朝鮮・明にまで轟かせたが、その武勇の中核には種子島の鉄砲が存在したのである 13 。
この朝鮮出兵は、久時の人間性を伝える逸話も残している。朝鮮での海戦において、味方が窮地に陥った際、久時自らが揺れる船上から敵船の将を狙撃して仕留め、味方を救ったという武勇伝が語り継がれている 34 。また、主君である島津義弘が朝鮮の陣中から、日本で夫の帰りを待つ久時の臨月の妻を気遣う内容の手紙を送ったという記録も残されている 28 。この手紙は、久時が単なる「兵器」の供給者ではなく、主君から家族のことまで気遣われるほど人間的な信頼を得ていた腹心であったことを物語っている。この強固な主従関係こそが、後に種子島家が直面する最大の危機を乗り越える上で、最も重要な無形の資産となったのである。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉による太閤検地と、それに伴う大規模な知行割(国替え)が島津領内でも実施された 35 。これは、全国の土地を統一した基準で測量し、石高を確定させることで、大名の軍役負担を明確化し、豊臣政権の支配を盤石にするための政策であった。
この政策の波は、種子島氏にも容赦なく襲いかかった。久時は、鎌倉時代以来、約400年にわたり一族が支配してきた本貫地である種子島を召し上げられ、その替地として薩摩本土の知覧院(現在の南九州市知覧町)へ3万石で移封されることとなったのである 2 。種子島の所領は、島津氏の一族である島津以久に与えられた 2 。
この知行替えは、豊臣政権が在地性の強い国人領主をその土地から引き剥がし、大名の統制下に完全に組み込もうとした、いわゆる「鉢植え」政策の典型例であった 38 。先祖代々の土地を離れることは、武家にとってアイデンティティそのものを揺るがす一大事であり、種子島氏にとってはまさに最大の危機であった。鉄砲の生産拠点であり、独自の交易ルートを持つ種子島から引き離されることは、主家の島津氏にとっても軍事・経済両面で大きな痛手であったはずだが、天下人・秀吉の絶対的な命令には抗うことができなかった。
知覧への移封という苦難を味わった久時であったが、わずか4年後の慶長4年(1599年)、種子島への復帰を許されるという異例の展開を迎える 2 。ただし、屋久島と口永良部島は島津氏の直轄領とされたままであり、完全な旧領復帰ではなかった 40 。
この異例の速さでの復帰は、単なる温情措置ではない。その背景には、秀吉の死(慶長3年)をきっかけに風雲急を告げる中央政局と、島津家中で勃発した内乱(庄内の乱)という、二つの大きな政治的変動があった。慶長4年、島津家当主・忠恒は、権勢を振るっていた家老・伊集院忠棟を誅殺。これに反発した忠棟の子・忠真が、庄内の地で大規模な反乱を起こしたのである 42 。
この内憂外患の危機的状況において、島津氏指導部(義久・義弘)は、領国の安定と軍事力の再強化を最優先課題とした。来るべき天下分け目の決戦を見据えた時、鉄砲生産の拠点であり、優れた指揮官である久時を擁する種子島家の存在は、戦略的に極めて重要であった。久時はこの好機を逃さず、主家への忠誠と自家の軍事的価値を説き、本領復帰を強く働きかけたと推測される。結果として、島津氏は久時を種子島に戻すことでその忠誠を確保し、軍事技術の中核を再掌握するという戦略的判断を下した。この一連の出来事は、久時が単なる武人ではなく、政治的な駆け引きにも長けた領主であったことを証明している。
種子島に復帰し、領主としての地位を固めた久時は、後世に名を残す重要な文化事業に着手する。慶長11年(1606年)、島津家とも縁の深い薩摩大竜寺の碩学の禅僧・南浦文之に依頼し、鉄砲伝来の経緯をまとめた『鉄炮記』を編纂させたのである 16 。
その内容は、天文12年(1543年)にポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着した際の様子、父・時堯がいち早くその威力を見抜き、高価をいとわず二挺を購入したこと、そして家臣の篠川小四郎に火薬の製法を、刀工の八板金兵衛に銃の模造を命じ、日本で初めての国産化に成功した経緯を、物語性豊かに詳述するものであった 5 。
『鉄炮記』は、日本史における画期的な出来事である鉄砲伝来の様子を伝える、最も詳細かつ基本的な史料であり、その史料的価値は極めて高い。しかし、久時にとってこの編纂事業は、単なる過去の記録保存に留まるものではなかった。
この事業が計画された慶長11年(1606年)という時期が重要である。関ヶ原の戦いが終わり、徳川幕府による新たな支配秩序、すなわち幕藩体制が確立しつつあったこの時代、武家社会の価値観は大きく変化していた。戦国時代のような武功そのものに加え、家の「由緒」や「家格」が、その家の地位を決定づける上で極めて重要な要素となっていたのである。
久時は、この新しい時代の到来を見据え、「鉄砲伝来の創始者」という自家の由緒を、信頼性の高い学僧の手による公式な記録として残すことを企図した。これにより、第一に父・時堯の先見の明と功績を歴史として顕彰し、第二に鉄砲伝来という歴史的事件における種子島家の主導的役割を不動のものとし、そして第三に「鉄砲の家・種子島」という唯一無二のブランドを確立することを目指したのである 43 。これは、武力や政治力だけでなく、「歴史を編纂する」という知的・文化的な手段を用いて家の存続と繁栄を図った、極めて戦略的な文化事業であった。久時が、武勇のみならず、近世的な思考を持つ先見性のある領主であったことが、この『鉄炮記』の編纂事業からもうかがえる。
種子島への復帰を果たした久時は、島津義弘、そして薩摩藩初代藩主となる島津忠恒(後の家久)に家老として仕え、藩政の中枢でその手腕を発揮した 2 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、島津義弘が寡兵を率いて西軍に参加し、「島津の退き口」として知られる壮絶な敵中突破を敢行したが、この天下分け目の決戦に久時自身は従軍していない 48 。『種子島家譜』によれば、一族の種子島時元が義弘の弟・時宗に従って尼崎まで進んだものの、西軍敗北の報に接して帰還したとある 14 。久時の不参加の理由としては、知行復帰から日が浅く、領国経営の安定が急務であったこと、島津本家の義久が東軍寄りであり、義弘の参戦が藩全体の総意ではなかったこと、そして鉄砲生産の拠点である種子島の本国守備を最優先するという戦略的判断があったことなどが複合的に考えられる。結果として、藩の中核を担う久時が徳川方と直接矛を交えなかったことは、戦後の島津家の本領安堵交渉において、家康の心証を和らげる上で有利に働いた可能性も否定できない。
慶長16年12月27日(西暦1612年1月29日)、久時は病によりその生涯を閉じた。享年44であった 1 。『種子島家譜』には、病が日増しに重くなったと記されているが、その具体的な病名までは伝わっていない 51 。
その墓所は、鹿児島県西之表市内に現存する種子島家の墓地、すなわち最初の墓所である「御坊墓地」と、二番目の墓所である「御拝塔墓地」の双方に設けられている 2 。これは、鉄砲伝来の父・時堯と同様の措置であり、彼の功績が両方の墓地に祀られるに値すると考えられたためであろう。
久時は死の床で、男子の後継者がいないことを深く憂いていた。正室である島津朝久の娘との間には男子がおらず、家は断絶の危機に瀕していたのである 2 。
しかし、彼の死は劇的な形で家の存続へと繋がった。久時の死後、側室である前田重弘の娘が懐妊していることが判明したのである。そして翌慶長17年(1612年)、無事に男子が誕生し、忠時(ただとき)と名付けられた。この遺腹の子が、種子島家第17代当主として家督を継承し、家の血脈は奇跡的に保たれた 2 。
この劇的な後継者の誕生は、久時の生涯を締めくくるにふさわしい逸話である。彼の誕生が、種子島家を大友氏からの養子縁組という危機から救ったように、彼の子の誕生もまた、家の断絶という危機から救った。この偶然の連鎖は、戦国から近世への移行期における武家の存続がいかに不確実なものであったか、そして「家」の血脈を繋ぐことが至上の命題であった当時の価値観を強く示している。幼い忠時の後見には当然、主家である島津家が深く関与し 9 、これにより種子島氏の島津家への従属は、より一層強固で不可逆的なものとなったと結論付けられる。
種子島久時は、鉄砲伝来という偉大な父・時堯の遺産を単に受け継ぐだけでなく、それを軍事的、政治的、そして文化的に発展させた傑出した武将であった。彼は、島津氏の家臣として沖田畷から朝鮮半島に至るまで数々の戦で武功を挙げ、特に鉄砲隊の指揮官としてその武名を轟かせた。
同時に、豊臣政権による知行替えという、家の存続を揺るがす最大の危機に直面しながらも、激動する中央政局の機微を捉え、主家との強固な信頼関係を基盤に、故郷への復帰を成し遂げた粘り強い政治家・領主でもあった。
さらに、武人としての側面だけでなく、『鉄炮記』の編纂を主導することで、自家の歴史的価値を「物語」として構築し、後世に伝えるという文化的な功績も残した。これは、武力のみならず「由緒」や「権威」が重要となる近世社会を見据えた、極めて戦略的な営為であった。
久時の生涯は、戦国時代の荒々しい武勇と、近世的な知略・文化戦略を併せ持った、まさに時代の過渡期を象徴する人物像を提示している。彼は、偉大な父・時堯の影に隠れがちであるが、その功績は決して劣るものではない。激動の時代を巧みに生き抜き、武功、治世、文化の各方面で大きな足跡を残し、種子島家の礎を盤石なものとした名君として、再評価されるべきである。