本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、譜代大名として徳川幕府に仕えた稲垣重綱(いながき しげつな)について、その生涯、事績、人物像を詳細かつ徹底的に調査し、分析するものである。
稲垣重綱が生きた時代は、長きにわたる戦乱の世が終焉を迎え、徳川幕府による安定した支配体制が確立されていく、まさに日本の歴史における一大転換期であった。重綱は、天正11年(1583年)に生まれ、承応3年(1654年)に没するまで、この激動の時代を武将として、また藩主として生き抜いた。彼の生涯は、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった天下分け目の合戦への従軍、上野国伊勢崎藩、越後国藤井藩、同三条藩、そして三河国刈谷藩といった諸藩の藩主としての経験、さらには大坂城代という幕府の要職への就任など、近世初期の譜代大名の典型的なキャリアパスを体現している。
この時代、武士の役割は、戦場における武勇だけでなく、領国経営や幕府の行政機構における実務能力へと徐々にその比重を移していった。稲垣重綱の生涯を追うことは、こうした時代の変化の中で、一人の武将がいかにして家名を保ち、発展させていったのか、そして徳川幕府の支配体制がいかにして譜代大名層によって支えられていたのかを理解する上で、貴重な示唆を与えるものである。
本報告書は、以下の構成で稲垣重綱の全体像に迫ることを目的とする。
まず、稲垣氏の出自と重綱の誕生について、その家系の淵源と、父・長茂の代における徳川家への臣従の経緯を明らかにする。次に、関ヶ原の戦いや大坂の陣における重綱の武功と、それが彼のキャリアに与えた影響を考察する。続いて、伊勢崎藩から刈谷藩に至るまでの藩主としての経歴と、大坂城代としての活躍を概観し、その治世と幕府内での役割を分析する。さらに、軍学への関心など、重綱の人物像や逸話についても触れる。そして、彼の晩年と逝去、後嗣による家督相続と稲垣家のその後を述べ、最後に、重綱ゆかりの地を紹介するとともに、彼の歴史的評価と現代的意義について総括する。
稲垣重綱の生涯における主要な出来事を以下に略年譜として示す。これにより、彼の経歴の全体像を把握し、本報告書の詳細な記述内容への理解を助けることを期す。特に、彼のキャリアが戦功によって段階的に上昇していく様子が時系列で理解できるであろう。
年代(和暦) |
西暦 |
出来事 |
典拠 |
天正11年 |
1583年 |
稲垣長茂の長男として誕生 |
, |
慶長5年 |
1600年 |
関ヶ原の戦いに徳川秀忠軍として従軍、信州上田城攻めに参加 |
1 |
慶長17年 |
1612年 |
父・長茂の死去に伴い家督相続、上野国伊勢崎藩主(1万石)となる |
1 , |
慶長19年~元和元年 |
1614年~1615年 |
大坂の陣に酒井家次隊として参陣、戦功を挙げる |
1 , |
元和2年 |
1616年 |
大坂の陣の功により1万石加増、越後国藤井藩主(2万石)となる |
1 , |
元和6年 |
1620年 |
3千石加増、越後国三条藩主(2万3千石)となり三条城へ移る |
1 , |
慶安元年 |
1648年 |
大坂城代に就任(~慶安2年) |
, |
慶安4年 |
1651年 |
三河国刈谷藩主(2万3千石)となる |
, |
承応3年1月8日 |
1654年2月24日 |
刈谷にて逝去、享年72 |
, |
この略年譜は、稲垣重綱が戦乱の終結と幕藩体制の確立という時代の大きな転換点において、武功を重ね、着実にその地位を向上させていった過程を明確に示している。
稲垣重綱の生涯を理解するためには、まず彼が属した稲垣氏の歴史的背景と、父・長茂の代における徳川家との関わりを把握することが不可欠である。
稲垣氏の遠祖については諸説あり、その出自は一筋縄では解き明かせない複雑さを持つ。『藩翰譜』などによれば、清和源氏の支流である小田氏の一族、小田重氏を遠祖とするとされる一方、桓武平氏の系統であるとする研究や学説も存在する。名字としての「稲垣」は、一般的には刈り取った稲を垣のように掛け連ねて干す「稲掛け(はさ)」に由来するという説があるが、全ての稲垣姓がこれに該当するわけではなく、三河稲垣氏の直接的な由来であるかは慎重な検討を要する。
確かな記録としては、稲垣氏は文明年間(1469年~1486年)に伊勢国から三河国宝飯郡牛久保(現在の愛知県豊川市牛久保町周辺)に移り住んだとされる。この移住は、戦国時代における武士の流動性を示す一例であり、彼らはこの地で土豪として勢力を築き、当初は三河の国人領主である牧野氏に臣属した。牧野氏は当時、駿河・遠江を支配する今川氏の勢力下にあり、稲垣氏もまた今川方として、松平清康(徳川家康の祖父)の軍勢と戦った記録も残されている。
稲垣氏が伊勢から三河へ移り、牧野氏を経て最終的に徳川氏の家臣団に組み込まれていく過程は、戦国時代の在地領主が生き残りをかけて主家を選択し、あるいは主家の盛衰と共にその運命を共にするという、当時の典型的な姿を映し出している。主家が今川氏から徳川氏へと移り変わる激動の中で、稲垣氏もまたその大きな潮流に乗り、家の存続と発展を図ったのである。
稲垣重綱の父である稲垣長茂(ながしげ)は、天文8年(1539年)に生まれ、慶長17年(1612年)に没した武将である。長茂の生涯は、まさに戦国武将の典型とも言えるもので、当初は今川義元、次いでその子・氏真に仕えた。今川氏の没落後は、三河牛久保城主であった牧野康成(のちの牧野半右衛門康成、大胡藩主)に属し、最終的には徳川家康の直参家臣となった。この主君の変遷は、戦国時代において武士が自らの家と一族の存続を第一に考え、より有力な主君を求めて所属を変えることが稀ではなかったことを物語っている。
長茂は徳川家康に仕えてからは各地の戦に従軍し、武功を重ねた。特に関ヶ原の戦いにおいては、その功績が認められ、慶長6年(1601年)に上野国伊勢崎において1万石を与えられ、伊勢崎藩の初代藩主となった。長茂は伊勢崎において、陣屋の建設、城下の町割り、検地の実施、新田開発などに積極的に取り組み、伊勢崎の町の発展に大きく貢献したと評価されている。彼が築いた伊勢崎の基盤は、後の時代の発展の礎となった。
長茂の代における徳川家への臣従という決断は、息子・重綱の将来、そして稲垣家のその後の運命にとって、極めて重要な意味を持つものであった。もし長茂が異なる選択をしていれば、稲垣家の歴史は大きく変わっていたであろう。徳川家康の勢力拡大と共に多くの三河武士がその家臣団に組み入れられていったが、稲垣氏もその流れの中で譜代大名としての道を歩み始めることになる。
稲垣重綱は、天正11年(1583年)、稲垣長茂の長男として誕生した。彼が生まれた頃の三河地方は、織田信長の勢力伸長、本能寺の変、そして豊臣秀吉による天下統一へと向かう激動の時代であった。父・長茂は徳川家康の家臣として、主家の勢力拡大に貢献しており、重綱はそうした武士の家に生まれ、幼少期から武家の気風の中で育ったと考えられる。
重綱が生まれた時代の空気感は、まさに下剋上が常態化し、武士にとっては実力が全ての時代であった。父・長茂が徳川家という新たな主君のもとで地位を築きつつあったことは、若き重綱にとって、将来の立身出世への道筋を示すものであったろう。稲垣氏のような中小の武士団が、有力な戦国大名(この場合は徳川氏)の家臣団に組み込まれ、その中で功績を挙げていく過程は、戦国時代の終焉と統一政権の成立に向けた大きな歴史的潮流の一部であり、重綱の生涯は、まさにこの過渡期に譜代大名として地位を確立していく典型例の一つと言える。
稲垣重綱の武将としてのキャリアは、徳川家康・秀忠父子に仕え、近世初頭の重要な戦役に参加することによって築かれていった。特に、関ヶ原の戦いと大坂の陣における彼の働きは、その後の稲垣家の地位を決定づける上で大きな意味を持った。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、豊臣政権内部の対立が頂点に達し、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が激突した、日本の歴史を左右する一大決戦であった。この時、稲垣重綱は徳川秀忠が率いる軍勢に属し、中山道を進軍した 1 。秀忠軍は、道中、西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)親子が守る信濃国上田城の攻略を試みたが、真田勢の巧みな戦略と頑強な抵抗に遭い、攻略に手間取った結果、関ヶ原の本戦には遅参するという失態を犯した。重綱もこの上田城攻めに参加しており 1 、これが彼の武将としてのキャリアにおける初期の重要な軍事行動であったと考えられる。
上田城攻めにおける苦戦と本戦への遅参は、総大将であった秀忠にとって大きな教訓となったであろうし、その指揮下にあった若き重綱にとっても、戦の厳しさや戦略の重要性を肌で感じる経験となったであろう。この戦いにおける重綱個人の具体的な戦功に関する詳細な記録は乏しいものの、父・長茂はこの関ヶ原の戦いにおける東軍方としての功績(具体的には上野国大胡城の守備など)が認められ、戦後、上野国伊勢崎に1万石を与えられ、伊勢崎藩が立藩されている。重綱も父の軍事行動に何らかの形で関与し、その恩恵を受けつつ、自身の武将としての道を歩み始めた時期と言える。
慶長17年(1612年)、父・長茂が死去すると、稲垣重綱は家督を相続し、上野国伊勢崎藩1万石の第2代藩主となった 1 。その直後、徳川幕府と豊臣家との間には緊張が高まり、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣、そして翌元和元年(1615年)に大坂夏の陣が勃発する。これらの戦いは、豊臣氏を完全に滅亡させ、徳川幕府による全国支配体制を確立するための最後の戦いであった。
稲垣重綱は、これらの戦いに酒井家次(さかいいえつぐ)の部隊に属して参戦し、戦功を挙げたと記録されている 1 。酒井家次は徳川家の重臣であり、大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いにおいて天王寺口の第三陣の大将を務めたが、豊臣方の真田信繁隊などの猛烈な攻撃により、徳川方先鋒部隊が大きな損害を受け、家次自身も敗走し、戦後に家康から譴責を受けるという激戦であった。稲垣重綱がこのような激戦区に身を置き、その中で戦功を挙げたとされることは、彼の武勇が相当なものであったことを示唆している。
この大坂の陣での活躍は、重綱のキャリアにとって大きな転機となった。戦後、その功績が認められ、元和2年(1616年)、1万石を加増され、合計2万石をもって越後国藤井藩へ移封されたのである 1 。これは、江戸幕府初期における論功行賞のシステムが的確に機能し、戦働きが正当に評価されていたことを示す好例である。大坂の陣という、徳川幕府の支配体制確立にとって決定的な意味を持つ戦いにおいて、譜代大名として忠誠心と実力を示したことは、重綱が幕府内で確固たる地位を築く上で極めて重要であった。彼はこの機会を的確に捉え、自身の武将としての評価を高め、その後のさらなる発展の礎を築いたと言える。戦乱の世が終わりを告げ、新たな治世へと移行する過渡期において、武功は依然として立身出世の重要な要素であり続けたのである。
稲垣重綱は、大坂の陣での武功により加増移封されて以降、越後国、そして最終的には三河国へと、複数の藩で藩主を務めた。また、その間には幕府の要職である大坂城代も経験しており、彼のキャリアは譜代大名としての典型的な道筋を辿っている。
稲垣重綱が藩主として統治した各藩の概要を以下に一覧表として示す。これにより、彼のキャリアパスと幕府内での役割の変遷、そして石高の推移からうかがえる彼の評価と信頼度の変化を明確にすることができる。
藩名 |
国名 |
石高 |
藩主としての期間(和暦) |
典拠 |
上野国伊勢崎藩 |
上野国 |
1万石 |
慶長17年~元和2年(1612年~1616年) |
1 ,, |
越後国藤井藩 |
越後国 |
2万石 |
元和2年~元和6年(1616年~1620年) |
1 ,, |
越後国三条藩 |
越後国 |
2万3千石 |
元和6年~慶安4年(1620年~1651年) |
1 ,, |
三河国刈谷藩 |
三河国 |
2万3千石 ※ |
慶安4年~承応3年(1651年~1654年) |
,,, |
※ 孫の重昭の代に分知により2万石となる。
この表は、稲垣重綱が「転封の多い大名」 であったことを示しており、その石高が徐々に増加していることは、幕府からの評価が高まっていったことを物語っている。
稲垣重綱は、父・長茂の死去に伴い、慶長17年(1612年)に上野国伊勢崎藩1万石の藩主となった。初代藩主であった長茂は、伊勢崎において陣屋の建設、町割り、検地、新田開発などを積極的に行い、伊勢崎の町の発展に大きく貢献したと評価されている。重綱が伊勢崎藩主であった期間は元和2年(1616年)までの約4年間と短いが、父が築いた藩政の基礎を引き継ぎ、領内を統治したと考えられる。この時期の具体的な治績に関する記録は乏しいが、大坂の陣への出陣準備なども藩政の重要な課題であったろう。
元和2年(1616年)、大坂の陣での戦功が認められ、稲垣重綱は1万石を加増され、合計2万石をもって越後国藤井藩(現在の新潟県柏崎市藤井周辺と推定される)へ移封された。これが、重綱にとって最初の大きな加増移封であった。
さらに元和6年(1620年)には、3千石を加増され、合計2万3千石をもって同じ越後国内の三条藩へ移封となり、三条城を居城とした 1 。三条藩主としての期間は慶安4年(1651年)までの約31年間に及び、これは重綱の藩主としてのキャリアの中で最も長い期間であった。この長い統治期間中に、彼は領国経営に注力し、藩体制の整備に努めたと考えられるが、残念ながら具体的な治績に関する詳細な記録は現存する資料からは見出し難い。しかし、大きな問題なく長期間統治を継続できたことは、安定した領国経営を行っていたことを示唆している。
慶安4年(1651年)、稲垣重綱は越後国三条から三河国刈谷藩(現在の愛知県刈谷市)へ2万3千石で移封された。刈谷藩は、それ以前にも水野家、松平(深溝)家、松平(久松)家など、藩主家の交代が頻繁に行われた藩であった。稲垣家による支配も、重綱の代は承応3年(1654年)に彼が死去するまでの約3年間と短く、その後は孫の重昭が家督を継ぐことになる。重綱が「転封の多い大名」と評されるように、彼の藩主としての経歴は、頻繁な移封とそれに伴う石高の漸増によって特徴づけられる。これは、徳川幕府が譜代大名を戦略的に各地へ配置し、また功績や信頼度に応じて処遇を改善していくという、江戸時代初期における支配体制構築の方針を反映しているものと考えられる。頻繁な移封は、大名が一つの土地に強固な地盤を築くことを抑制し、幕府中央への求心力を高める効果も意図されていた。
稲垣重綱は、三条藩主であった期間中の慶安元年(1648年)から翌慶安2年(1649年)にかけて、江戸幕府の要職である大坂城代を務めている。大坂城代は、かつて豊臣氏の本拠地であった大坂城にあって、西国諸大名の監視、畿内及び西国の防衛、さらには幕府の法令伝達など、軍事・行政の両面にわたる重要な任務を担う役職であった。この職には、幕府から厚い信頼を寄せられた譜代大名が任命されるのが通例であり、重綱がこの役に任じられたことは、それまでの武功や藩主としての経験が高く評価され、幕府からの信頼が篤かったことを明確に示している。史料によれば、重綱は大坂城の玉造口の守衛を担当したと記されている。大坂城代という要職を経験したことは、彼の幕府内における地位と名声をさらに高めるものであったと考えられる。
各藩における具体的な治績に関する記録が少ない点は、史料の制約によるものか、あるいは彼のキャリアが軍事面や幕府の役職に重点が置かれていたため、内政面での革新的な事績が記録として残りにくかった可能性も示唆する。しかし、特に長期間統治した三条藩においては、領民の生活を安定させ、藩財政を維持するための堅実な統治が行われていたと推測するのが自然であろう。
稲垣重綱の具体的な性格や個人的な逸話に関する記録は、残念ながら豊富とは言えない。しかし、彼の経歴やいくつかの断片的な情報から、その人物像の一端をうかがい知ることは可能である。
稲垣重綱は、単に戦場での武勇に優れた武将であっただけでなく、兵法理論にも深い関心を寄せていたことが知られている。彼は、甲州流軍学の創始者として名高い小幡景憲(おばた かげのり)の弟子の一人であった。小幡景憲は、武田信玄・勝頼父子に仕えた小幡昌盛の子(あるいは甥とも)で、武田家滅亡後は徳川家康に仕え、その軍学的知識は高く評価された。景憲はまた、『甲陽軍鑑』の編纂者(あるいは著者)としても知られている。
史料によれば、稲垣重綱(資料によっては重種(しげたね)と記される箇所もあるが、文脈上、重綱と同一人物と推定される)は軍学に非常に関心が高く、師である景憲に対して『甲陽軍鑑』の書写を熱心に願い出たとされる。この事実は、重綱が実戦経験に加えて、兵法の理論的研究にも価値を見出し、自身の武将としての資質を高めようとしていた向学心旺盛な人物であったことを示している。
江戸時代初期は、戦国時代の戦乱が終息し、世の中が安定に向かう一方で、武士の役割も変化しつつあった。単なる戦闘技術者としてだけでなく、組織を統率し、場合によっては領国を経営するための知識や教養が求められるようになった。このような時代背景の中で、過去の戦例や戦略を体系的に学ぶ軍学は、武士にとって重要な学問と見なされるようになった。重綱の軍学への関心は、こうした時代の要請に応えようとする意識の高さの表れであり、彼が武勇一辺倒ではない、知的な側面も持ち合わせた武将であったことを示唆している。
稲垣重綱と、徳川四天王の一人に数えられる井伊直政との間に、直接的な主従関係や個人的な深い交流があったことを示す具体的な史料は、現時点では確認されていない 1 。井伊直政も稲垣重綱も、共に徳川家康に仕えた譜代の重臣であり、江戸幕府の創設期に活躍した武将であるという共通点はある。しかし、両者が同じ部隊に所属したり、共同で何らかの任務に当たったりしたという記録は見当たらない。
例えば、関ヶ原の戦いにおいて、重綱は徳川秀忠軍に属して中山道を進軍したが 1 、井伊直政は家康本隊に属し、軍監的な役割を担いつつ、戦端を開くなど中心的な活躍を見せた。また、大坂の陣では、重綱は酒井家次の隊に属していた 1 。これらの事実から、両者は同じ徳川家中にありながらも、それぞれの役割や活動範囲が異なっていた可能性が高い。
従って、稲垣重綱と井伊直政は、共通の主君に仕える同僚大名ではあったものの、史料上、特筆すべき個人的な関係性があったとは言えない。これは、単に記録が残存していないだけなのか、あるいは実際に深い関わりがなかったのか、現時点では断定できないが、少なくとも両者の間に密接な連携や師弟関係のようなものがあったとは考えにくい。
稲垣重綱の具体的な性格を伝える逸話は少ないものの、彼の生涯の軌跡は、その人物像を推測する上でいくつかの手がかりを与えてくれる。まず、関ヶ原の戦い、大坂の陣という重要な戦役で武功を挙げ、着実に石高を増やしていった事実は、彼が武勇に優れ、戦場での判断力や統率力を備えていたことを示している。
また、伊勢崎藩から始まり、越後藤井藩、三条藩、そして三河刈谷藩へと、生涯にわたって数度の移封を経験している。これは当時の譜代大名には珍しいことではなかったが、新たな任地でその都度、藩政を軌道に乗せ、領民を治めるためには、高い適応能力と行政手腕、そして統率力が不可欠であったはずである。特に約30年間という長期にわたって三条藩を統治し、その後、幕府の要職である大坂城代に任命されたことは、彼が単に武勇に長けていただけではなく、忠誠心が高く、実務能力にも優れた人物として幕府から評価されていたことを物語っている。大坂城代として玉造口の守衛を担当したという記録 も、彼が職務に忠実であったことをうかがわせる。
軍学への関心に見られるように、彼は知的な探求心も持ち合わせていた。戦乱の時代が終わり、武士のあり方が変化していく中で、彼は武芸だけでなく学問にも目を向け、時代の要請に応えようとした武将であったと言えるだろう。
総じて、稲垣重綱は、派手な言動で歴史に名を残すタイプではなかったかもしれないが、徳川幕府への忠誠を貫き、武将として、また藩主として、着実にその責務を果たした堅実な人物であったと推察される。彼のキャリアは、武功と幕府への奉公によって着実に地位を向上させていく、江戸時代初期の譜代大名の典型的な姿を映し出している。個人的な逸話や詳細な性格描写が少ないことは、彼が「公」の人として生涯を送り、私的な側面があまり記録に残らなかったためか、あるいは現存する史料の限界によるものかもしれない。
稲垣重綱は、数々の戦功と藩主としての経験を積み重ね、徳川幕府の譜代大名として確固たる地位を築いた後、三河国刈谷藩でその生涯を閉じた。
慶安4年(1651年)、稲垣重綱は越後国三条藩から三河国刈谷藩へ2万3千石で移封された。これが彼にとって最後の任地となった。刈谷藩での治世は比較的短く、約3年後の承応3年(1654年)1月8日(旧暦)、重綱は72歳で逝去した。法名は法性院光岳宗本と伝えられている。
72歳という享年は、当時の平均寿命を考えると長命であったと言える。戦国の動乱期に生まれ、江戸幕府の成立と安定化という大きな時代の転換期を生き抜いた彼の生涯は、まさに激動の時代そのものであった。
稲垣重綱には嫡男として稲垣重昌(しげまさ)がいたが、重昌は父である重綱に先立って死去していた。そのため、重綱の死後、家督は重昌の長男、すなわち重綱の孫にあたる稲垣重昭(しげあき)が相続することとなった 1 。重昭は寛永13年(1636年)の生まれで、父・重昌は重昭が誕生する前年に亡くなっていたため、祖父である重綱の養育を受けた可能性も考えられる。承応3年(1654年)、重綱の逝去に伴い、重昭は19歳で刈谷藩稲垣家の家督を継いだ 2 。
このような嫡男が早世した場合に嫡孫が家督を継承するという形態は、武家の家名を断絶させず、安定した支配体制を維持するための江戸幕府の基本的な方針にも沿うものであった。
稲垣重昭は家督相続に際し、叔父である稲垣茂門(しげかど、重綱の次男か)の子、すなわち従兄弟にあたる稲垣昭友(あきとも)に3千石を分与したと記録されている 2 。これにより、三河刈谷藩稲垣本家の石高は2万3千石から2万石となった。このような分知は、一族の繁栄を図り、家中の結束を固めると同時に、本家の石高を調整し、幕府の政策(例えば過大な大名領の抑制など)に配慮する意味合いも持っていた可能性がある。
稲垣重綱と、その父・長茂が築き上げた徳川家への忠誠と貢献は、その後の稲垣家の歴史にも大きな影響を与えた。稲垣家は、重綱の系統が三河国刈谷藩から後に志摩国鳥羽藩(3万石)へと移り、幕末まで譜代大名として存続した。鳥羽藩稲垣家は、重綱を2代当主としている。
また、稲垣長茂の三男である稲垣重大(しげひろ)の系統も、江戸時代中期に1万3千石余りの大名に列し、近江国山上藩(やまかみはん、現在の滋賀県東近江市山上町周辺)の藩主となり、こちらも幕末まで続いた。
このように、稲垣氏は2家が譜代大名として江戸時代を通じて存続し、明治維新後にはいずれも華族の子爵家に列せられた。これは、稲垣重綱とその一族が、徳川幕府の支配体制の中で重要な役割を担い続け、その家系が尊重された結果と言える。重綱の生涯にわたる努力と功績が、子孫の代まで続く家の繁栄の礎となったのである。
稲垣重綱の生涯は、関東から越後、そして三河へと、広範囲にわたるものであった。彼が藩主として、あるいは幕府の役職者として過ごした各地には、今もその面影を伝える場所が存在する。
稲垣重綱が父・長茂の跡を継いで第2代藩主を務めた上野国伊勢崎藩の陣屋は、初代藩主である長茂が慶長6年(1601年)に築いたものである。重綱が伊勢崎に在城したのは慶長17年(1612年)から元和2年(1616年)までの短期間であった。
現在の群馬県伊勢崎市において、伊勢崎陣屋跡は市立北小学校の敷地を中心とする一帯とされているが、市街地化の進行により、当時の陣屋の遺構はほとんど残存していない。しかし、近隣にある同聚院(どうじゅいん)には、伊勢崎陣屋の門が移築され現存すると伝えられている。この門は、稲垣長茂の屋敷門であった可能性も指摘されており、往時の陣屋の姿を偲ぶ数少ない手がかりとなっている。
稲垣重綱は、元和6年(1620年)から慶安4年(1651年)までの約31年間、越後国三条藩の藩主として三条城を居城とした 1 。これは彼の藩主としてのキャリアの中で最も長い期間であり、三条の地は重綱にとって重要な意味を持つ場所であったと考えられる。
三条における城郭については、中世の三条城(三条島ノ城とも)と、近世に市橋長勝によって信濃川東岸に新たに築かれた三条城が存在したとされる。重綱がどちらの城を居城としたのか、あるいは改修後の城であったのか、詳細な特定にはさらなる調査が必要であるが、一般的には後者の近世三条城に関連すると考えられる。現在の新潟県三条市において、三条乗馬クラブや三条市水防学習館のある周辺が城址と推定されており、往時の城の規模や構造を具体的に示す遺構は少ないものの、歴史を伝える碑などが設置されている場合がある。
稲垣重綱は、その晩年である慶安4年(1651年)から逝去する承応3年(1654年)までの間、三河国刈谷藩の藩主として刈谷城に在城した。
江戸時代前期の城絵図によれば、刈谷城の本丸には北西と南東の隅に櫓が存在したことが確認されている。また、城内には米蔵や武器蔵、番所などが配置されていたことも記されており、当時の城の様子をうかがい知ることができる。現在の愛知県刈谷市において、刈谷城跡は亀城公園として整備されている。明確な建造物遺構は少ないものの、一部の石垣や土塁、堀跡などが残り、城の雰囲気を今に伝えている。昌福寺の北側に空堀跡らしきものが残るとの記述もあるが、これが刈谷城の遺構であるかについては慎重な判断が求められる。
稲垣重綱の父であり、伊勢崎藩初代藩主であった稲垣長茂は、慶長8年(1603年)、自らの菩提寺として曹洞宗の寺院である天増寺(てんぞうじ)を建立した。この寺院は、群馬県伊勢崎市昭和町に現存し、大陽山香火院天増寺と号する。
天増寺の境内には、稲垣長茂の墓をはじめとする稲垣家累代の墓所があり、そこには24基に及ぶ宝篋印塔型の墓塔が整然と並んでいる。これらは伊勢崎市の指定史跡となっており、特に長茂の墓は総高395センチメートルにも及ぶ巨大なもので、当時の石工の高い技術力を示している。
稲垣重綱自身が具体的にどこに葬られたかについての直接的な記述は、提供された資料の中には見当たらない。しかし、稲垣家は他国へ移封された後も天増寺を菩提寺として扱っており、累代の墓が同寺にあることから、重綱もこの天増寺の墓所に葬られている可能性が非常に高いと考えられる。この点の確定には、天増寺の過去帳や墓碑銘などの一次史料の確認が望まれる。
これらのゆかりの地を訪ねることは、稲垣重綱が生きた時代に思いを馳せ、彼の生涯の軌跡をより具体的に感じ取ることを可能にする。城跡や寺社は、歴史上の人物とその時代を繋ぐ貴重な接点であり、歴史理解を深める上で重要な役割を果たす。
稲垣重綱の生涯とその事績を詳細に検討してきた結果、彼の歴史的評価、その生涯が示すもの、そして後世への影響について、以下のように総括することができる。
稲垣重綱は、徳川幕府成立期という日本の歴史における重要な転換点において、武将として、また譜代大名として確かな足跡を残した人物である。
第一に、関ヶ原の戦い、そして特に大坂の陣という、徳川体制の確立を決定づけた戦役において、実際に戦功を挙げ、それによって加増移封を勝ち取ったことは、彼の武将としての能力と忠誠心を証明している。これにより、彼は譜代大名としての地位を確固たるものにした。
第二に、上野国伊勢崎藩から始まり、越後国藤井藩、同三条藩、三河国刈谷藩と、各地の藩主を歴任し、それぞれの領国経営にあたった。特に三条藩では約30年という長期間にわたり統治を行い、その間には幕府の要職である大坂城代も務め、西国監視という重要な任務を遂行した。これらの活動を通じて、彼は徳川幕府の地方支配と中央集権体制の安定に貢献したと言える。
第三に、甲州流軍学の大家である小幡景憲に師事し、『甲陽軍鑑』の書写を熱望したという事実は、彼が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、兵法理論や戦略にも関心を持つ知的な側面を持ち合わせていたことを示している。これは、戦乱の時代が終わり、武士にも新たな素養が求められるようになった時代の流れを反映している。
稲垣重綱の生涯は、いくつかの重要な歴史的側面を具体的に示している。
まず、彼の人生は、戦国乱世から江戸時代の安定期へと社会が大きく移行する過渡期において、一人の武士がいかにして新たな時代に適応し、自らの家名を存続させ、さらには発展させていったかの一つの典型例である。武功による立身から、藩主としての領国経営、そして幕府の役職への奉公へと、彼のキャリアは時代の変化に対応した武士の生き方を体現している。
次に、彼の経歴、特に頻繁な移封や石高の増加、大坂城代への任命などは、江戸幕府初期における譜代大名の登用方針や、論功行賞のあり方、さらには大名統制策を具体的に示す事例として捉えることができる。幕府が譜代大名をいかに戦略的に配置し、彼らにどのような役割を期待していたのかを理解する上で、彼の生涯は貴重なケーススタディとなる。
稲垣重綱とその父・長茂が築いた稲垣家は、その後も譜代大名として幕末まで存続し、志摩国鳥羽藩や近江国山上藩の藩主として家名を保った。そして明治維新後には子爵に列せられ、その家系は現代にも繋がっている。これは、重綱らの徳川幕府への貢献が、長期にわたって評価され続けた結果と言えるだろう。
稲垣重綱のような、歴史の教科書で大きく取り上げられることは少ないかもしれない人物の研究は、特定の時代や社会構造への理解を深める上で重要な意義を持つ。彼の生涯を通じて、江戸幕府初期の政治体制、社会の仕組み、そして武士階級の具体的な生き様や価値観について、より深く、多角的に考察することができる。歴史は、著名な英雄や大事件だけで構成されるものではなく、むしろ体制を支えた多くの人々の地道な働きや生涯の積み重ねによって形作られていく。稲垣重綱の研究は、そうした歴史の深層に光を当てる試みであり、彼の堅実な生涯は、組織や社会の安定と発展にとって不可欠な人物像の一つの典型を示していると言える。彼の生涯を丹念に追うことは、江戸初期の譜代大名のリアリティを明らかにし、ひいては日本近世史の理解をより豊かなものにするであろう。