最終更新日 2025-06-09

稲津重政

「稲津重政」の画像

戦国武将 稲津重政に関する調査報告

はじめに

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて日向伊東氏に仕えた武将、稲津重政(いなづ しげまさ)について、現存する資料に基づき、その生涯と事績を詳細に調査し、考察を加えることを目的とします。稲津重政の名は、全国的に広く知られているわけではありませんが、日向国における伊東氏の歴史、特に飫肥藩成立初期の動静を理解する上で、看過できない重要な人物です。彼の生涯は、伊東氏の盛衰と深く結びついており、その栄光と悲劇は、戦国乱世の厳しさを今に伝えています。

まず、稲津重政の生涯を概観するために、以下の略年表を提示します。

表1:稲津重政 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

主な出来事

典拠

天正2年

1574年

生誕(幼名:勝五郎)

1

文禄・慶長の役頃

1592-1598年

19歳で伊東祐兵の小姓となる。朝鮮出兵に従軍。

2

慶長3年

1598年

清武城主に任じられ、家老職に抜擢される。

2

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦い。主君伊東祐兵、大坂にて病死。稲津重政の進言により、伊東祐慶は高橋元種の宮崎城を攻撃。

3

慶長7年10月12日

1602年11月25日

伊東祐慶より切腹を命じられ、清武城に籠城(稲津の乱)。

2

慶長7年10月18日

1602年12月1日

清武城落城。戦死。享年29。

1

この年表からもわかるように、稲津重政の生涯は短く、しかし激動のものでした。続く各部では、これらの出来事をより詳細に見ていきます。

第一部:稲津重政の出自と伊東家への仕官

1. 生誕と家系

稲津重政は、天正2年(1574年)に生まれたとされています 1 。幼名は勝五郎と伝えられています 1 。一部資料 3 に「(1573-1632) 志摩水軍の8代当主」という記述が見られますが、これは生没年から九鬼嘉隆に関する情報と考えられ、稲津重政とは別人です。このように、歴史上の人物に関する情報を扱う際には、慎重な史料批判が求められます。

稲津氏は、伊東氏の庶流であり、伊東氏が日向国に下向する際に付き従い、その家臣団に組み込まれた家系であったと記録されています 2 。この出自は、重政が伊東家中で頭角を現す上で、ある種の基盤となった可能性があります。主家との血縁的な繋がりは、完全な外様の家臣とは異なる立場を彼に与え、一定の発言力や信頼を得やすくしたかもしれません。しかし同時に、宗家や他の有力な譜代家臣との間には、常に複雑な力関係が存在したことも想像に難くありません。

2. 伊東祐兵への出仕と初期の経歴

稲津重政は、若くしてその才能を見出され、19歳の時に当時の伊東氏当主であった伊東祐兵(いとう すけたけ、または「すけかつ」とも)の小姓に取り立てられたとされています 2 。小姓という役職は、主君の身辺に仕え、日常生活から戦場に至るまで常に主君と行動を共にする立場です。これは、主君からの個人的な信頼がなければ務まらない重要な役割であり、重政が若年でありながらも、その人柄や能力を祐兵に高く評価されていたことを示唆しています。

主君の側近くに仕えることで、重政は祐兵の考えや意向を直接学ぶ機会に恵まれ、また自らの能力をアピールする場も得やすかったと考えられます。戦国時代において、主君の個人的な信頼を獲得することは、家臣が立身出世を果たす上で極めて重要な要素でした。家格や門閥だけでなく、個人の実力が評価される余地があったからこそ、重政のような若者が抜擢される道も開かれていたのです。この小姓としての経験が、後の家老職への抜擢という異例の出世に繋がる布石となったことは十分に考えられます。

第二部:伊東祐兵・祐慶時代における活動と台頭

1. 朝鮮出兵への従軍

稲津重政は、主君伊東祐兵に従い、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも参陣したと記録されています 2 。この大規模な対外戦争は、参加した多くの大名家にとって人的・経済的に大きな負担を強いるものでしたが、同時に武士にとっては武功を立て、名を上げる機会でもありました。

重政が朝鮮の地で具体的にどのような働きをしたのか、詳細な記録は乏しいのが現状です。しかし、彼がこの戦役から無事に帰還し、その後伊東家中でさらに重用されていくことを考えると、少なくとも主君の信頼を損なうような失態を犯すことなく、任務を遂行したと推測されます。異国の戦場での経験は、彼の武将としての器量を磨き、視野を広げる上でも貴重なものとなったことでしょう。

2. 家老職への抜擢と清武城主就任

朝鮮出兵からの帰国後、稲津重政は伊東祐兵から一層の信任を得て、その地位を急速に高めていきます。慶長3年(1598年)、重政は日向国宮崎郡の清武城主に任じられると共に、伊東氏の家老職にも抜擢されました 2 。清武城は、現在の宮崎県宮崎市清武町にあたる要衝であり、その城主に任じられることは、軍事的な信頼の証でもありました 2

家老職と城主を兼任するということは、藩の政治と軍事の両面において中枢的な役割を担うことを意味します。当時、重政はまだ20代半ばであったと考えられ、この年齢での大抜擢は異例の出世と言えます。これは、伊東祐兵がいかに重政の才能と忠誠を高く評価していたかを物語っています。しかし、このような急速な昇進は、伊東家中の既存の勢力図に少なからぬ影響を与え、古参の家臣や他の有力者からの嫉妬や警戒心を生んだ可能性も否定できません。

3. 関ヶ原の戦いにおける動向

慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発します。この時、伊東祐兵は徳川家康率いる東軍に与するために大坂に滞在していましたが、合戦の直前に病に倒れ、無念の死を遂げました 3 。これにより、伊東氏は若年の伊東祐慶(いとう すけよし)が家督を継ぐことになります。

主君の急逝という混乱の中、稲津重政は新当主祐慶に対し、西軍に与したとされる高橋元種(たかはし もとたね)の宮崎城を攻撃するよう進言しました。祐慶はこの進言を容れ、軍勢を派遣し宮崎城を攻め落としました 3 。この行動は、伊東氏の東軍への忠誠を示すと共に、旧領回復や勢力拡大を目指す積極的な姿勢の現れと解釈できます。

しかし、この宮崎城攻撃は複雑な結果をもたらします。高橋元種は、実際には既に西軍から東軍へと寝返っていたのです。そのため、伊東氏が占領した宮崎城は、戦後処理の中で高橋元種に返還されることになりました 3 。この一件は、中央の情勢が地方に正確かつ迅速に伝わることの難しさ、そしてそれに翻弄される地方勢力の苦慮を如実に示しています。関ヶ原の戦いのような全国規模の動乱期においては、情報の正確性と伝達速度が、各勢力の運命を左右する重要な要素でした。重政の進言は、当時の飫肥藩が得ていた情報に基づく判断だったのかもしれませんが、結果的には伊東氏にとって大きな戦略的利益には繋がらず、むしろ後の藩内における彼の立場を微妙なものにする一因となった可能性も考えられます。

急速な出世を遂げた重政でしたが、その影響力の増大は、藩内の力学に変化をもたらしました。例えば、伊東氏の重臣であった河崎祐長(かわさき すけなが)は、稲津重政が藩内で強い影響力を持つようになると、重政からの讒言によって一時的に日向国を出奔したという記録があります 6 。これは、重政がその権勢を背景に、反対勢力に対して強硬な手段を講じていた可能性を示唆しており、彼のこうした手法が、祐兵の死後、一気に噴出する対立の火種を孕んでいたと言えるでしょう。

第三部:稲津の乱と悲劇的な最期

1. 主君伊東祐兵の死と藩内対立の顕在化

伊東氏をまとめ、稲津重政を重用してきた伊東祐兵の死は、飫肥藩の権力構造に大きな変動をもたらしました。祐兵という強力な後ろ盾を失った重政に対し、それまで抑えられていた不満や反感が一気に表面化し、彼を排除しようとする動きが藩内で活発化したと伝えられています 4

前述の河崎祐長の事例 6 は、祐兵の存命中から重政に対する反発が存在したことを示しており、祐兵の死は、そうした対立を一気に顕在化させる契機となりました。史料 2 によれば、この頃の重政は「行状も荒れ始め」たとされており、これが反対派にとって格好の口実となった可能性も考えられます。ただし、この「行状の荒れ」が具体的にどのようなものであったのか、またそれが客観的な事実であったのか、あるいは反対派による誇張や意図的な風説が含まれていたのかについては、慎重な検討が必要です。いずれにせよ、藩内の権力闘争の中で、重政は次第に孤立を深めていったと見られます。

2. 切腹命令と清武城籠城

新藩主となった伊東祐慶は、家臣団の動揺を抑え、藩内融和を図る必要に迫られました。その過程で、稲津重政の存在は大きな障害と見なされたのかもしれません。祐慶は重政に対し詰問状を送り、その罷免を試みましたが、重政はこれに従わなかったとされています 2 。両者の溝は埋まらず、ついに祐慶は重政に対して切腹を命じるという強硬手段に訴えました。

この切腹命令に対し、稲津重政は不服とし、従容と死罪に服すことを選びませんでした。慶長7年(1602年)10月12日、重政は僅かな手勢と共に、かつて自らが城主を務めた清武城に籠城し、主家に対して徹底抗戦の構えを見せました 2 。これは、自らの正当性を主張し、不当な命令に屈しないという強い意志の表れであったと同時に、もはや話し合いによる解決の道が閉ざされたことを意味していました。

3. 最期と稲津の乱の終結

清武城に籠城した稲津重政でしたが、飫肥藩の主力軍に攻められては、衆寡敵せず、数日のうちに城は陥落しました。慶長7年10月18日(西暦1602年12月1日)、稲津重政は奮戦の末に戦死したと伝えられています 1 。享年29歳という若さでした。

この一連の事件は「稲津の乱」と呼ばれ 2 、飫肥藩成立初期における深刻な内訌として、後世に記憶されることになります。主君の死後に頻発する家中の権力闘争の一つの典型例と見ることができますが、重政の「行状の荒れ」が事実であったとしても、それが討伐に至る直接的な原因として十分に正当化されるものであったかは議論の余地があります。反対勢力にとっては、重政の排除は藩内における自派の勢力拡大の好機であり、彼の何らかの失策が、その口実として巧みに利用された可能性も否定できません。「乱」と称されてはいますが、実態としては、藩内における権力闘争の末の粛清に近いものであったと見ることもできるでしょう。重政が「僅かな手勢で清武城に籠城」したという事実は、大規模な反乱というよりは、追い詰められた末の抵抗であったことを示唆しています。

19歳で小姓として伊東祐兵に仕え始め、瞬く間に家老・城主へと昇進し、一時は藩政に大きな影響力を行使した人物が、わずか29歳で反逆者として討たれるという結末は、戦国時代の武士の生涯の栄枯盛衰と、そこに介在する運命の非情さを象徴していると言えるでしょう。彼の非凡な才能や野心が、時代や環境、そして複雑な人間関係の中で、最終的には自らを滅ぼす結果へと繋がったのかもしれません。

第四部:稲津重政の墓所

稲津重政とその妻の墓は、悲劇的な最期から400年以上が経過した現在も、宮崎県宮崎市清武町加納甲に現存しています。具体的には、宮崎市立加納小学校の南西に位置する丘陵上にあるとされています 1

墓石は2メートルを超える堂々とした板碑状のものであり、「稲津掃部助(かもんのすけ)の墓」として、昭和45年(1970年)7月23日付で宮崎市の史跡に指定され、地域住民によって大切に管理されています 2 。掃部助とは、重政が名乗った官途名です。

主家に対して反旗を翻し、「乱」の首謀者として討伐された人物の墓が、妻の墓と共に良好な状態で保存され、さらに地方自治体によって史跡として指定・整備されている点は、非常に興味深い事実です。これは、重政が単に「反逆者」として一方的に断罪されるだけでなく、地域史の中で何らかの形でその存在が記憶され、ある程度の評価が与えられてきた可能性を示唆しています。あるいは、伊東氏による支配が安定し、歳月が流れる中で、過去の出来事としてより客観的に扱われるようになった結果とも考えられます。「稲津の乱」が、飫肥藩の歴史の中で無視できない重要な出来事として認識され、その中心人物であった重政が、良くも悪くも歴史の一部として地域に位置づけられていることの現れと言えるでしょう。

第五部:稲津氏に関する補足(親族関係)

稲津重政個人の生涯に焦点が当てられがちですが、彼の親族についても断片的ながら情報が残されています。これらの情報は、稲津氏一族が伊東家中でどのような位置を占めていたか、そして「稲津の乱」が彼らにどのような影響を与えたかを考察する上で重要です。

史料 2 によれば、伊東義祐(いとう よしすけ)の時代に、後の当主となる伊東祐兵に従って飫肥城に入り、伊東氏が豊臣秀吉の九州平定後に飫肥の旧領に復帰して以降、紫波洲崎(しわすざき、現在の宮崎県宮崎市の一部か)の地頭となった稲津因幡守重信(いなづ いなばのかみ しげのぶ)という人物がおり、この人物は稲津重政の伯父にあたるとされています。

また、同じく史料 2 には、伊東祐慶が大坂から日向へ帰国する際に付き従い、後に肥後国の加藤清正に仕えた稲津九郎兵衛重房(いなづ くろべえ しげふさ)という人物がおり、こちらは重政の従兄弟であると記されています。

これらの記述から、稲津氏は重政個人だけでなく、一族として伊東氏に仕え、地頭職に就くなど、ある程度の地位を築いていたことがうかがえます。重政が若くして重用された背景には、こうした一族の伊東家中における基盤も影響していた可能性があります。

「稲津の乱」の後、首謀者である重政の親族がどのような処遇を受けたのか、稲津氏が伊東家中で存続し得たのかは、提供された資料からは明確には読み取れません。しかし、従兄弟の重房が後に他家である肥後加藤家に仕えたという事実は、飫肥藩内における稲津氏の立場が困難になった結果、伊東家を離れた(あるいは離れざるを得なかった)可能性を示唆しています。戦国時代から江戸初期にかけて、主家における内紛や当主交代は、家臣団の勢力図を大きく塗り替え、時には一族全体の運命を左右する重大事であったことを物語っています。

なお、本報告書で扱っている稲津重政は日向伊東氏の家臣であり、美濃国(現在の岐阜県)など他地域に見られる稲津姓の人物 7 とは、現時点の資料からは直接的な関係は確認できません。歴史上の同姓の人物を混同しないよう、留意が必要です。

まとめ

稲津重政の生涯は、伊東祐兵という主君からの厚い信頼を得て、若くして家老・城主へと異例の昇進を遂げ、一時は藩政に大きな影響力を持つに至ったものの、その主君の死を境に運命が暗転し、藩内の権力闘争の中で孤立を深め、最終的には「稲津の乱」と呼ばれる内訌の首謀者として、29歳という若さで悲劇的な最期を遂げたものでした。

彼の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての、特に地方の小藩における家臣団の動揺、権力構造の変遷、そして個人の才能と野心が、時代の潮流や人間関係の複雑な綾の中で翻弄される様相を具体的に示す一例として評価できます。その急すぎる出世は周囲との軋轢を生み、強力な庇護者を失った途端に、その対立が致命的なものとなった過程は、組織における人間関係の重要性と、個人の力だけでは乗り越えられない壁の存在を示唆しています。

「稲津の乱」は、飫肥藩初期の歴史における重要な画期であり、その中心人物であった稲津重政の評価は、単純な善悪二元論では割り切れない多面性を持っています。彼を単なる反逆者として断じるのか、あるいは悲運の才将と見るのかは、史料の解釈や視点によって異なりうるでしょう。

今後の研究課題としては、一次史料である『日向記』などのより詳細な分析や、当時の飫肥藩における他の家臣団の動向、さらには周辺諸藩の事例との比較研究などを通じて、稲津重政の実像や「稲津の乱」の歴史的背景について、さらに深く掘り下げていく余地があると考えられます。そうした研究の進展によって、稲津重政という一人の武将の生涯を通して、戦国末期から近世初頭にかけての地方社会の様相が、より鮮明に浮かび上がってくることが期待されます。

引用文献

  1. 稲津重政とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%A8%B2%E6%B4%A5%E9%87%8D%E6%94%BF
  2. 稲津重政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%B4%A5%E9%87%8D%E6%94%BF
  3. 【表2】秀吉期から江戸初期に代替わりした主な外様大名の初代藩主とその先代の呼称(色付け https://www.e-tmm.info/h2.pdf
  4. 日向 稲津掃部助重政の墓 - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/sokuseki/miyazaki/inazu-shigemasa-bosho/
  5. 一部 関ケ原合戦図屏風解説 - toukou20 https://ryugen3.sakura.ne.jp/toukou2/toukou65.html
  6. 河崎祐長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%B4%8E%E7%A5%90%E9%95%B7
  7. 稲葉一鉄公創建・梁川星巌・紅蘭ゆかりの寺 - 華渓寺 http://www.kakeiji.com/page/people.html
  8. 『日下部系図』の諸本について - 成城大学 https://www.seijo.ac.jp/research/folklore/publications/academic-journals/jtmo420000000d0j-att/minkenkiyo_043_045.pdf
  9. 稲津城 旧養父郡養父町 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12233950029.html