最終更新日 2025-06-09

稲葉正成

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稲葉正成公伝:関ヶ原の功臣、春日局の夫、そして近世大名の軌跡

序章:稲葉正成、乱世に生きた武将

本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将、稲葉正成(いなば まさなり)の生涯、事績、人物像、そして歴史的影響を、多角的な史料分析に基づいて明らかにすることを目的とする。稲葉正成が生きた時代は、織豊政権から徳川幕府へと、日本の支配体制が大きく転換する激動期であった。その中で正成は、小早川秀秋の家老として関ヶ原の戦いの帰趨に大きな影響を与え、また徳川家光の乳母として絶大な権勢を誇った春日局の夫としても知られる。しかし、彼の生涯はそれだけに留まらない。本報告では、春日局の夫、あるいは関ヶ原の寝返りの功労者という側面のみならず、一人の武将として、また近世大名としての稲葉正成の具体的な軌跡を丹念に追うことで、その実像に迫ることを試みる。

第一部:出自と初期の経歴

1. 生誕と出自

稲葉正成の生年については諸説存在するが、最も有力とされるのは元亀2年(1571年)である 1 。これは、寛永5年(1628年)に58歳で死去したという記録と整合性が取れるためである 1 。一方で、『美濃国諸家系譜』には天文7年(1538年)生まれ、『寛永諸家系図伝』には天文3年(1534年)生まれで天正10年(1582年)に49歳で没したとする異説も存在する 3 。しかし、天正10年没ではその後の関ヶ原の戦いなどでの活躍と矛盾するため、これらの説の信憑性は低いと考えられる。生年に関する複数の説が存在することは、当時の記録の曖昧さや、後世の編纂物における情報の錯綜を示していると言えよう。

出自に関しては、美濃国十七条城主であった林政秀(資料によっては正三とも記される 4 )の次男として生まれたとされる 1 。幼名は市助と伝えられている 4 。母は安藤某の娘であった 2 3 には「父は伊豆守某、『美濃国諸家系譜』には伊豆守利賢」との記述も見られるが、林氏出自説が複数の資料で確認できることから 1 、林政秀を父とするのが妥当であろう。

その後、正成は美濃曽根城主であった稲葉重通(いなば しげみち、稲葉一鉄の長男)の婿養子となった 1 。この養子縁組は、当時、領地が複雑に入り組んで争いが絶えなかった林氏と稲葉氏の和睦を目的としたものであったとされている 4 。林家の次男という立場から、美濃の有力国衆である稲葉家の一員となったことは、正成のその後の武将としてのキャリア形成における重要な基盤となった。これにより、彼はより大きな政治的・軍事的活動の舞台へと進む足がかりを得たのである。

なお、 3 には「兄政基死後、その妻再び正成に嫁す」という記述が見られる。これが稲葉重通の娘を指すのか、それ以前の林家時代の話なのかは判然としないが、当時の武家の婚姻や相続がいかに複雑な様相を呈していたかの一端を示す可能性がある。ただし、他の主要な資料ではこの兄嫁との再婚については触れられていないため、この情報の取り扱いには慎重を期す必要がある。

2. 最初の妻と初期の活動

稲葉正成は、養父となった稲葉重通の娘を最初の正室として迎えた 2 。この最初の妻との間には、長男の稲葉正次(まさつぐ)と、後に堀田正吉(ほった まさよし)の正室となる娘(まん)が生まれた 2

正成は、義父である重通と共に豊臣秀吉に仕えたとされる 2 。具体的な活動内容については不明瞭な点が多いものの、秀吉による天下統一が進む中で、一武将としてのキャリアを開始したと考えられる。美濃の有力武家である稲葉氏の一員として、豊臣政権下での軍役や政務に携わったことが推察される。

第二部:春日局(お福)との結婚と離縁、そして小早川家臣時代

1. 春日局(お福)との結婚

稲葉正成は、最初の妻である稲葉重通の娘に先立たれた後、重通の養女となっていたお福(後の春日局)と再婚した 2 。お福は、明智光秀の重臣であった斎藤利三(さいとう としみつ)の娘であり、稲葉重通の姪にあたる 2 。この結婚は文禄4年(1595年)のこととされている 4

この縁談の背景には、いくつかの注目すべき点がある。お福の父・斎藤利三は本能寺の変に関与したとして豊臣秀吉によって処刑されており 8 、お福はいわば「逆臣の娘」であった。そのような彼女を稲葉家が正成の後妻として迎え入れた背景には、お福の母が稲葉一鉄の娘(つまり重通の姉妹)であり 7 、血縁関係による保護の意味合いが強かった可能性が考えられる。また、稲葉重通がお福を養女とした上で正成に嫁がせたことからは、家中の安定や血縁の結束を重視する当時の武家の慣習がうかがえる。お福自身も三条西家に預けられて公家の教養を身に着けていたとされ 9 、単なる血縁だけでなく、その素養も評価された可能性も否定できない。

お福との間には、以下の子供たちが生まれた。

  • 次男:稲葉正勝(まさかつ) - 後に江戸幕府の老中となり、相模小田原藩主となる 1
  • 三男:稲葉正定(まささだ) - 尾張徳川家に仕え、父の旧領である美濃十七条1006石を領した 2
  • 五男:稲葉正利(まさとし) 2

特筆すべきは、稲葉家の家督が、最初の妻の子である長男・正次ではなく、お福の子である次男・正勝によって継承されたことである 2 。これは、後述するお福との離縁後も、彼女と稲葉家の間に強い繋がりが継続していたこと、そして何よりも、後に春日局として江戸城大奥で絶大な影響力を持つに至る彼女の存在が、稲葉家の家督相続に大きな影響を及ぼした可能性を強く示唆している。

2. 小早川秀秋の家老として

稲葉正成は、豊臣秀吉の命により、秀吉の養子の一人であった小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の家臣となり、秀秋を補佐する立場(付家老、禄高5万石)に就いた 1 。秀吉が、当時まだ若年であった秀秋の監視役および補導役として、経験と能力のある正成を付けたものと考えられる。

正成は小早川家臣として、四国攻めや小田原征伐といった豊臣政権による国内統一戦で活躍した 2 。これらの戦役への参加は、彼が武将としての実績を積み重ねる重要な機会となった。さらに、慶長の役(朝鮮出兵)においては、秀秋の麾下として朝鮮半島へ渡海し従軍している 2 9 には、この朝鮮出兵の際に正成が思うような戦功を挙げられず秀吉から叱責を受けたものの、徳川家康のとりなしによって事なきを得たという逸話が記されている。これが事実であれば、この時点で正成と家康との間に何らかの接点が生まれており、後の関ヶ原の戦いにおける彼の行動に繋がる伏線となった可能性も考えられる。

3. 関ヶ原の戦いにおける役割

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍の対立は、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いへと発展する。この戦いにおいて、稲葉正成は歴史を左右する重要な役割を果たすこととなる。

正成は、同じく小早川秀秋の家老であった平岡頼勝(ひらおか よりかつ)と共に、密かに徳川家康と内通していた 1 。そして、戦いが膠着状態に陥る中、西軍の主力の一翼を担って松尾山に布陣していた主君・秀秋を説得し、東軍への寝返りを決行させたのである 6 12 には、秀秋が松尾山への布陣を決定する際に正成がその戦略的意義を説いたことや、家康から東軍への加勢を促す威嚇射撃(問い鉄砲)があった際に、秀秋が動揺する中で正成がその銃声が徳川軍のものであることを冷静に確認し、秀秋の決断を後押しした場面が具体的に描かれている。この秀秋の寝返りは、西軍の陣形を崩壊させ、東軍の勝利を決定づける要因の一つとなった。

正成がこの内通と寝返り工作を主導した動機については、単に主君秀秋の意向に従ったというだけではなく、彼自身の戦略的判断があったと考えられる。豊臣政権の将来性に対する見切りや、徳川家康の覇権を予見した上での行動であった可能性が高い。また、妻であるお福の父・斎藤利三がかつて秀吉によって処刑されたという過去が 8 、豊臣方に対する潜在的な反感を抱かせ、家康方への内通を心理的に後押しした遠因となった可能性も推測される 8

関ヶ原の戦いの翌日(9月16日、あるいは17日)、家康は稲葉正成に宛てて書状を送り、秀秋の寝返りの功績と、それを陰で助言した正成の才覚を高く賞賛している 13 。これは、正成の働きが徳川方にとって極めて重要なものであったことを明確に示している。

しかし、戦後、正成は主君である秀秋と対立し、美濃へ蟄居することとなった 2 。対立の具体的な原因は史料には明記されていないが、恩賞の問題や、寝返りを主導した家老としての立場と秀秋自身の戦後の処遇や意向との間に齟齬が生じた可能性などが考えられる。この対立と蟄居が、正成の最初の浪人生活へと繋がっていく。

4. 春日局との離縁

慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いからわずか2年で小早川秀秋が若くして病死し、嗣子がいなかったため小早川家は改易(断絶)となった。これにより、稲葉正成は完全に浪人の身となった 2

その2年後の慶長9年(1604年)7月、大きな転機が訪れる。正成の妻であったお福が、京都所司代板倉勝重(いたくら かつしげ)の推挙により、徳川家康の嫡孫であり後の三代将軍となる竹千代(徳川家光)の乳母として江戸城に召し出されることになったのである。そして、この乳母就任を機に、正成とお福は離縁した 2

この離縁の経緯については、諸説伝えられている 2

  1. 正成が愛人を作ったことを知ったお福が激怒して家を出たという説。
  2. お福が正成に無断で乳母に応募したことに正成が激怒し、離縁を言い渡したという説。
  3. お福が乳母に採用されたことを知った正成が、「女房の御蔭で出世した」と世間から噂されることを恥じて離縁状を出したという説。
  4. お福が乳母として幕府に忠勤を尽くせば、夫である正成の仕官や立身出世にも繋がるのではないかと考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから、いわば円満に離縁したという説。
  5. これら全ては表向きの理由であり、実際には正成を徳川家康に再び仕官させるための方便として、夫婦があらかじめ示し合わせて離縁したという説。

複数の説が存在することは、離縁の真相が一筋縄ではいかないものであったことを示唆している。お福が将軍家の乳母に就任するということは、彼女自身が徳川将軍家に深く関与し、大きな影響力を持つ立場になることを意味する。武家の妻としての立場と、将軍家乳母としての公的な立場は両立が難しかった可能性があり、離縁は双方にとって、あるいは幕府の意向も踏まえた上での戦略的な選択であった可能性が高い。お福が幕府に仕える上で、夫の存在が何らかの制約とならないようにするための措置であったとも考えられる。 9 では「当時の幕府が決めた規定なのか、詳しい離縁理由は分かっていません」と記されており、何らかの公的な理由や規定が背景にあった可能性も否定できない。いずれにせよ、この離縁は、その後の正成とお福、そして稲葉家の運命に大きな影響を与えることになる。

第三部:徳川家臣としての再出発と大名への道

1. 徳川家への再仕官と美濃十七条藩主

春日局(お福)との離縁後、稲葉正成は徳川家康に召し出され、再び徳川氏の家臣として仕えることになった 2 。この再仕官の背景には、関ヶ原の戦いにおける彼の功績が改めて評価されたことに加え、元妻であるお福が家光の乳母として江戸城大奥で重きをなしつつあったことが、少なからず影響したと考えられる 5

そして慶長12年(1607年)、正成は旧領であった美濃国内において1万石の所領を与えられ、大名の列に加えられた。これにより美濃十七条藩が立藩し、正成はその初代藩主となった 1 。浪人の身からわずか数年で1万石の大名に取り立てられたことは、異例の抜擢と言える。ここには、春日局の将軍家における影響力が具体的に作用し始めたことの現れと見ることができ、彼女の政治力の初期の段階を示すものと言えよう。

2. 松平忠昌の付家老として

美濃十七条藩主となった後、稲葉正成は徳川家康の孫にあたる松平忠昌(まつだいら ただまさ、後の越前福井藩主)の家老となり、清崎城主を兼ねることになった 2

慶長20年(元和元年、1615年)に勃発した大坂夏の陣においては、正成は忠昌を補佐して参陣し、戦功を挙げたとされる 2 。この大坂の陣での戦功は、徳川家臣としての忠誠と武勇を改めて示す機会となり、その後の加増へと繋がる重要な実績となった。

そして元和4年(1618年)、正成は2万石に加増され、越後国糸魚川(いといがわ)に移封された。引き続き松平忠昌の付家老としての立場であった 1 。糸魚川藩時代の治績については、 14 に糸魚川藩が町年寄に対して御頼金(おそらく藩財政のための上納金)を命じたという記録が見られるものの、正成個人の具体的な善政や特筆すべき逸話に関する情報は乏しい。この時期の正成は、あくまで忠昌の付家老としての役割が主であったため、独立した藩主としての色彩は比較的薄かった可能性がある。

3. 一時的な浪人と下野真岡藩主

寛永元年(1624年)、松平忠昌が兄・忠直の改易に伴い越前国福井藩を相続することになった際、稲葉正成はこの忠昌の越前移封に従わず、突如として出奔し、再び浪人の身となった。これに対し幕府は、正成を実子である稲葉正勝(当時、既に幕府に出仕し所領を得ていた)の領内での蟄居を命じた 2

正成が忠昌のもとを離れて出奔した具体的な理由は、史料上明らかではない。主君である忠昌との間に何らかの確執が生じたのか、あるいは独立した大名としての地位への渇望があったのか、または健康上の問題など、様々な可能性が考えられる。この行動は、彼の性格の一端、すなわち必ずしも従順なだけではなく、時には自身の意を通そうとする気骨や、あるいは気難しさや強い独立心を示唆するものかもしれない。一方で、正成の四男である稲葉正房(まさふさ)とその子孫は、その後も越前松平家に仕えたとされており 2 、稲葉家全体が忠昌と完全に断絶したわけではなかったことがうかがえる。

しかし、この浪人生活も長くは続かなかった。寛永4年(1627年)、正成は独立した大名として再び幕府に召し出され、下野国真岡(もおか)藩2万石の藩主として封じられたのである 1 。一度は主君のもとを出奔し幕府から蟄居を命じられた人物が、わずか3年で許され、しかも独立した大名として取り立てられるというのは、極めて異例のことであった。この背景にも、やはり春日局の幕府内における強い影響力や、これまでの正成の功績(特に関ヶ原の戦いでの功)が総合的に考慮された結果である可能性が高い。

真岡藩主時代の稲葉正成に関する逸話としては、以下のようなものが伝えられている。

  • 真岡にある長蓮寺の山門に掲げられた「折敷に三文字(おしきにさんもじ)」の紋が、偶然にも稲葉家の家紋(隅切り角に三の字)と同一であったことに、入封した正成自身が大変驚いたという話がある 15 。これは些細な出来事ではあるが、当時の人々の縁起を担ぐ意識や、藩主と領地の結びつきに関する心象風景を伝えるエピソードと言える。
  • また、正成の菩提寺となった般若寺は、彼が春日局の夫君であったことから、幕府から朱印地を与えられるなど手厚い庇護を受け、繁栄したと伝えられている 16 。これは、正成個人の治績というよりも、春日局との関係性が彼の死後もその所領や縁故の寺社に影響を与え続けた一例と言えるだろう。

第四部:晩年と死、そして子孫

1. 死去

下野真岡藩主となった翌年の寛永5年9月17日(グレゴリオ暦1628年10月14日)、稲葉正成はその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。元亀2年(1571年)生まれとすると、享年58であった。

法名(戒名)については、史料によっていくつかの異なる名称が伝えられている。 3 では「麟祥院殿仁淵了義(りんしょういんでんじんえんりょうぎ)」、 5 では「現龍院殿輝宗道範大居士(げんりゅういんでんきしゅうどうはんだいこじ)」とされている。法名が複数伝わっているのは、菩提寺や帰依した宗派が複数あった可能性、あるいは記録の過程での変化などが考えられる。特に「麟祥院」という院号は、後に春日局が朝廷から賜った院号と同じであり、両者の深い関係性を死後も偲ばせるものとなっている。

2. 子孫たちの動向

稲葉正成の死後、彼の子孫たちは、特に春日局との間に生まれた子供たちを中心に、江戸幕府のもとでそれぞれ異なる道を歩んだ。

  • 稲葉正勝系統 : 春日局の子である次男・稲葉正勝は、父・正成の遺領である下野真岡2万石を相続し、その後も順調に昇進を重ねた 11 。寛永9年(1632年)には老中に就任し、相模国小田原藩8万5千石(後に10万2千石余)の藩主となった 2 。正勝の立身出世は、母である春日局の幕府内における絶大な権力と影響力の賜物であり、彼女が息子を通じて稲葉家の安泰と繁栄を図った戦略の結実と言えるだろう。正勝の子孫は、その後、山城国淀藩(10万2千石)の藩主として明治維新まで家名を存続させた 2
  • 稲葉正定系統 : 同じく春日局の子である三男・稲葉正定は、尾張徳川家に仕え、父・正成の旧領であった美濃国十七条のうち1006石を領したが、その孫の代で後継者が絶え、家は断絶した。その所領は尾張藩に組み入れられ、十七条城も廃城となった 4
  • 堀田正盛系統 : 正成が最初の妻(稲葉重通の娘)との間にもうけた娘・まん は、堀田正吉に嫁いだ。その子である堀田正俊(ほった まさとし、 6 では正盛と記されるが、一般的には正俊が春日局の養子となったとされる)は、春日局の義理の曾孫にあたるが、春日局の養子として引き取られ、後に大老にまで昇進した。堀田家は下総国佐倉藩主として幕末まで続いた 2 。正成の血筋は、直系の男子だけでなく、女系や春日局との縁戚関係を通じて、江戸幕府の要職を占める有力な家系へと繋がっていったのである。これは、正成個人の資質以上に、春日局との関係が後世の日本の歴史に大きな影響を残したことを示している。
  • その他の子 : 正成には、継々室であった与祢(祢々、山内康豊の娘)との間にも、十男・稲葉正吉(まさよし)や、後に朽木稙綱(くつき たねつな)の正室となる女子がいた 2 。また、生母不詳の子として四男・稲葉正房がおり、彼は前述の通り越前松平家に仕えた 2

稲葉正成 略年表

年代(和暦)

年齢 (目安)

主な出来事

役職・石高など

典拠

元亀2年 (1571)

1歳

美濃国にて林政秀の次男として誕生

1

天正年間後半か

(不明)

稲葉重通の婿養子となる

1

文禄4年 (1595)

25歳

お福(後の春日局)と再婚

4

(不明)

(不明)

豊臣秀吉の命により小早川秀秋の家老となる

付家老・5万石

1

慶長5年 (1600)

30歳

関ヶ原の戦いで、秀秋を説得し東軍に寝返らせる。戦後、秀秋と対立し蟄居。

6

慶長7年 (1602)

32歳

小早川秀秋死去、小早川家改易により浪人となる。

浪人

2

慶長9年 (1604)

34歳

妻お福が徳川家光の乳母となり、離縁。

2

慶長12年 (1607)

37歳

徳川家康に召し出され、美濃国内に1万石を与えられ大名となる。

美濃十七条藩主・1万石

1

(不明)

(不明)

松平忠昌の家老、清崎城主となる。

2

元和4年 (1618)

48歳

越後国糸魚川2万石に加増移封。松平忠昌の付家老。

越後糸魚川藩主(付家老)・2万石

1

寛永元年 (1624)

54歳

松平忠昌の越前移封に従わず出奔し浪人。子・正勝の領内で蟄居。

浪人

2

寛永4年 (1627)

57歳

再び召し出され、下野国真岡2万石の藩主となる。

下野真岡藩主・2万石

1

寛永5年 (1628)

58歳

9月17日、死去。

1

稲葉正成 家族構成表

関係

氏名

子女

備考

典拠

林政秀

稲葉正成(次男)

美濃十七条城主

1

安藤某の娘

2

養父

稲葉重通

稲葉一鉄の長男、美濃曽根城主

1

正室

稲葉重通の娘

長男:稲葉正次<br>女子:まん(堀田正吉正室)

2

継室

福(春日局)

次男:稲葉正勝<br>三男:稲葉正定<br>五男:稲葉正利

斎藤利三の娘、稲葉重通の養女<br>徳川家光の乳母

2

継々室

与祢(祢々)

十男:稲葉正吉<br>女子(朽木稙綱正室)

山内康豊の娘

2

子(生母不詳)

四男:稲葉正房

越前松平家に仕える

2

第五部:稲葉正成の人物像と歴史的評価

1. 人物像

稲葉正成の具体的な性格や詳細な人物像を伝える直接的な史料は、残念ながら豊富とは言えない。春日局や他の戦国武将に関する記述の中に断片的に現れる情報を繋ぎ合わせることで、その輪郭を推し量る必要がある 19

まず、関ヶ原の戦いにおける彼の行動は、その人物像を考察する上で重要な手がかりとなる。主君である小早川秀秋を説得し、戦局を決定づける寝返りを成功させた際の判断力と行動力は、高く評価されるべきであろう 12 。土壇場での冷静さと、大局を見据えた戦略眼を持ち合わせていたことがうかがえる。

一方で、彼の生涯には、必ずしも従順なだけではない、気骨のある一面も見て取れる。関ヶ原の戦後、一度は勝利に貢献したにもかかわらず主君・小早川秀秋と対立して出奔し浪人となったり 2 、後年には仕えていた松平忠昌のもとを離れて再び浪人生活を送ったりする 2 など、自身の意を通そうとする強い意志や、あるいは気難しさを持っていた可能性がうかがえる。

春日局との関係、特に離縁の経緯に関する諸説 2 からは、彼のプライドの高さや、妻との関係における複雑な葛藤なども垣間見える。「女房の御蔭で出世した」という世評を潔しとしなかったという説は、当時の武士の自尊心の一端を示すものかもしれない。

武将としての基本的な能力については、四国攻め、小田原征伐、朝鮮出兵、そして大坂の陣など、数々の重要な戦役に従軍し、一定の武功を挙げていることから、戦場における指揮能力や武勇は備わっていたと考えられる。

総じて、稲葉正成は、激動の時代を生き抜くための冷静な判断力と行動力を持ちつつも、時には自身の信念や感情に忠実に生きようとする、複雑な内面を持った人物であったと推察される。

2. 歴史的評価

稲葉正成の歴史的評価は、主に二つの側面から語られることが多い。

第一に、関ヶ原の戦いにおける功労者としての評価である。彼の主導した小早川秀秋の東軍への寝返りは、徳川家康の天下取りに決定的な貢献を果たしたと広く認識されている 13 。この功績が、その後の彼のキャリア、特に徳川家臣としての再仕官と大名への取り立ての大きな基盤となったことは疑いない。

第二に、春日局の夫としての側面である。春日局が徳川家光の乳母として、後に大奥で絶大な権勢を振るったという事実は、正成の生涯にも極めて大きな影響を与えた。彼女の幕府内での地位上昇に伴い、正成自身も再仕官や加増といった恩恵を受けたことは否定できない 5 。一部には「女房の御蔭」という評価も当時から存在した可能性があり、それが彼のプライドを刺激したかもしれないという推測も成り立つ。

大名としての実績については、美濃十七条藩、越後糸魚川藩、そして下野真岡藩と、複数の藩の藩主を歴任したが、糸魚川藩時代は松平忠昌の付家老としての性格が強く、また真岡藩主としての期間も短かったこともあり、藩政における特筆すべき治績に関する記録は乏しい。そのため、彼の評価は、藩主としての統治能力よりも、やはり関ヶ原での功績や春日局との関係性に重きが置かれがちである。

稲葉正成の生涯を俯瞰すると、彼が個人の能力や野心だけでその地位を築いたというよりは、春日局という稀有な存在との巡り合わせ、そして関ヶ原の戦いという時代の大きな転換点において的確な判断を下したことにより、その運命が大きく左右されたと言える。彼は、激動の時代を巧みに生き抜き、結果として大名となり家名を後世に残すことに成功した武将として、歴史にその名を刻んでいる。

結論:稲葉正成が歴史に残した足跡

稲葉正成は、美濃の国人領主・林家の次男として生まれ、稲葉家の養子となり、豊臣政権下で武将としてのキャリアをスタートさせた。その後、小早川秀秋の家老として仕え、日本史における一大転換点である関ヶ原の戦いにおいて、主君を説得して東軍に寝返らせるという極めて重要な役割を果たした。この功績は、徳川家康による天下統一への道を大きく開いたと言える。

彼の生涯において、妻である春日局(お福)の存在は切り離せない。彼女が徳川家光の乳母となり、後に江戸城大奥で絶大な権力を握るに至ったことは、正成自身の立身出世、そして彼の子孫たちの繁栄に計り知れない影響を与えた。離縁という形を取りながらも、両者の関係、あるいは春日局の稲葉家に対する配慮は、その後も続いたと考えられる。

一度は主君のもとを出奔し浪人となるなど、その生涯は必ずしも平坦ではなかったが、最終的には徳川幕府のもとで複数の藩の藩主を歴任し、大名としてその生涯を終えた。彼の直系子孫である稲葉正勝の系統は、小田原藩主、そして淀藩主として明治維新まで続き、また女系の堀田家も幕府の要職を歴任するなど、稲葉正成の血脈は江戸時代の武家社会において確固たる地位を築いた。

稲葉正成は、関ヶ原の功臣、春日局の夫、そして近世大名という複数の顔を持つ、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を象徴する人物の一人である。彼の生涯は、個人の武勇や才覚だけでなく、人間関係や時代の潮流がいかに一人の武将の運命を左右するかを示す、興味深い事例と言えるだろう。彼の生き様は、当時の武家の処世術や立身出世のあり方の一端を我々に伝えている。

引用文献

  1. 稲葉正成(いなば まさなり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E6%88%90-1055569
  2. 稲葉正成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E6%88%90
  3. 春日局と父白樫城主斎藤利三の事 - 揖斐川町 https://www.town.ibigawa.lg.jp/cmsfiles/contents/0000001/1300/sasi.pdf
  4. 十七条城、春日局と稲葉正成 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お ... http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E3%80%81%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80%E3%81%A8%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E6%88%90/
  5. 稻葉正成- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%A8%BB%E8%91%89%E6%AD%A3%E6%88%90
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  22. 竹中半兵衛は何をした人?「稲葉山城を16人で奪った天才軍師が秀吉を出世させた」ハナシ https://busho.fun/person/hanbee-takenaka