稲葉重通に関する調査報告
序章:稲葉重通という武将
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稲葉重通の概略と時代背景
稲葉重通(いなば しげみち)は、天文11年(1542年)に生を受け、慶長3年10月3日(1598年11月1日)に没した、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である 1。彼が生きたこの時代は、室町幕府の権威が地に堕ち、各地で有力な武将たちが覇を競う群雄割拠の様相を呈していた。やがて織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業が推し進められ、新たな武家政権が確立されるという、まさに激動の時代であった。
重通は、美濃国(現在の岐阜県南部)に勢力を持った有力国人である稲葉氏の出身である。父の稲葉一鉄(良通)は、斎藤氏家臣時代に安藤守就・氏家卜全と共に「西美濃三人衆」と称された驍勇(ぎょうゆう)の武将としてその名を馳せていた 3。
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美濃稲葉氏における重通の位置づけ
稲葉重通は、父・一鉄の庶長子、すなわち側室の子として生まれた長男であった
1
。そのため、稲葉本家の家督は、正室を母に持つ異母弟の稲葉貞通が継承することとなった
1
。しかしながら、重通は彼自身の道を切り拓き、最終的には美濃国清水(きよみず)城主として1万2千石の所領を安堵される大名へと成長を遂げ、後世「清水稲葉家」の祖として認識されるに至る
2
。
戦国時代における家督相続は、正室から生まれた男子、いわゆる嫡子が優先されるのが一般的であり、庶長子であった重通が本家の家督を継承しなかったのは、当時の慣習に沿ったものであったと言える
5
。このような状況下で、庶長子が自身の武功や主君からの信頼を背景に、本家とは別に新たな家を興し、独立した大名となる道を選ぶことは、一族の勢力拡大に貢献し、自身の家名を後世に残すための一つの重要な手段であった。重通が美濃清水の地に1万2千石の所領を得て清水稲葉家を創設した事実は
2
、彼自身の武将としての能力、そして織田・豊臣両政権下における忠実な奉公が高く評価された結果に他ならない。これは、単に本家に従属する存在に留まらず、彼が独自の勢力を築き上げたことを明確に示している。むろん、父・一鉄が築き上げた威光や広範な人脈が、重通の立身に全く影響しなかったとは言えないであろう。しかし、織田信長、豊臣秀吉の馬廻としての忠勤
4
、さらには秀吉晩年の御伽衆としての役割
2
など、重通自身の働きが独立した大名としての地位を確立する上で決定的な要因となったと考えられる。清水稲葉家の創設は、稲葉氏全体の勢力基盤をより強固なものにする効果をもたらしたと推察される。本家とは別に、豊臣政権と直接的な主従関係を持つ家臣団の一翼を担うことで、稲葉氏の発言力や影響力を多角的に保持しようとする、一族全体の生存戦略の一環であった可能性も否定できない。
第一章:出自と家系
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稲葉氏のルーツと美濃における勢力基盤
稲葉氏の出自に関しては、伊予国(現在の愛媛県)の豪族であった河野氏の一族とする説が有力視されている
3
。しかし、それ以外にも生駒氏や楠木氏などと同族であるとする異説も存在する
3
。戦国時代に入ると、稲葉氏は美濃国西部に確固たる勢力基盤を築き上げ、当初は美濃守護であった土岐氏に、その後は下剋上によって実権を掌握した斎藤氏に仕えた。特に重通の父である稲葉一鉄の代には、同じく美濃の有力国人であった安藤守就、氏家卜全と共に「西美濃三人衆」と称され、美濃国内において大きな影響力を行使する存在となっていた
3
。
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父・稲葉一鉄(良通)の人物と事績
稲葉一鉄(いなば いってつ)は、永正12年(1515年)に生まれ、天正16年(1588年)に没した戦国時代の武将である
1
。幼名を六之丞、初名を良通(よしみち)といい、後には貞通に改名し、出家後は一鉄と号した。斎藤道三、その子義龍、さらに孫の龍興と、斎藤氏三代にわたって仕えた後、織田信長の美濃攻略に伴い信長に臣従し、以後、数々の合戦において武功を挙げた。その勇猛果敢な戦いぶりや、一度決めたことは貫き通す頑固な性格は、後世「一徹者」という言葉の語源になったという逸話が残るほどである
8
。信長の死後は豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588年)に美濃清水城にて74年の生涯を閉じた
8
。
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庶長子としての重通の立場と、嫡男・貞通との関係
稲葉重通は一鉄の長男として生まれたが、その母は側室であった加納兵次(かのう ひょうじ)の娘であった
1
。そのため、重通は庶子として扱われ、一鉄の正室(公卿である三条西公条(さんじょうにし きんえだ)の娘)から生まれた異母弟の稲葉貞通が嫡男とされた
1
。戦国時代における家督相続は、正室から生まれた嫡子が優先されるのが通例であり
5
、重通が稲葉本家の家督を継承することはなかった。しかし、彼は父や弟と共に織田家、そして豊臣家に仕え、武将として着実に功績を積み重ねていった。
父・稲葉一鉄は、単なる勇将であるだけでなく、先を見通す戦略眼に長けた老獪な武将であった。一族の永続とさらなる発展のため、多角的な方策を講じていた可能性は十分に考えられる。嫡男である貞通には稲葉本家を継承させ、その武勇と統率力をもって稲葉宗家を盤石なものとすることを期待する一方で、優れた能力を持つ庶長子の重通には別家を興させ、豊臣政権との直接的なパイプ役や、より中央政権に近い立場での情報収集、さらには政治工作といった役割を期待したのではないだろうか。重通が、主君の側近である馬廻や、秀吉晩年の話し相手兼相談役である御伽衆といった役職を務めた事実は
2
、このような兄弟間での役割分担が存在した可能性を強く示唆している。弟の貞通が主に領国経営や軍団指揮官としての役割を担い、兄の重通が中央政権との連絡調整や情報収集、さらには御伽衆として文化的な側面での活動を担うという、ある種の分業体制が、自然発生的に、あるいは一鉄の深謀遠慮によって形成されたのかもしれない。このような役割分担は、戦国時代の大名家が一族全体の生存戦略として、複数のルートを確保し、中央政権や他の有力者との繋がりを多角的に構築しようとした事例の一つとして捉えることができるだろう。
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家族:正室、継室、子女
稲葉重通の家族構成は以下の通りである。
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正室:
牧村政治(まきむら まさとも、政倫とも)の娘
4
。牧村政治は伊勢国岩手城主であり、後に土佐藩主となる山内一豊も一時期彼に仕えていたとされる
11
。この婚姻は、美濃の稲葉氏と伊勢の牧村氏という、隣接地域の国人領主間の連携を強化する政治的な意味合いを持っていたと考えられる。
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継室:
吉田浄忠(よしだ きよただ)の娘
4
。吉田浄忠に関する詳細な情報は、現時点での調査資料からは確認できない。しかし、当時の武家社会における婚姻は、家と家との結びつきを強化し、政治的・軍事的な同盟関係を構築する目的が極めて大きかったため、この婚姻もまた、何らかの勢力との関係構築を意図したものであったと推察される。
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子女:
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牧村利貞(まきむら としさだ):
重通と正室・牧村政治の娘との間に生まれた長男である。外祖父にあたる牧村政治の養子となり、牧村家の家督を継承した
10
。伊勢岩手城主として豊臣秀吉に仕えたが、慶長12年(1607年)に駿府(現在の静岡市)にて何者かに殺害されたと伝えられている
11
。
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稲葉通重(いなば みちしげ):
重通の跡を継ぎ、美濃清水藩の二代藩主となった。母は継室の吉田浄忠の娘である
13
。しかし、後述するように不行跡が原因で改易処分を受け、清水藩は廃藩となった
13
。
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稲葉道通(いなば みちとお、または「どうつう」とも):
通称は勘右衛門。母は吉田浄忠の娘
13
。実兄である牧村利貞の死後、その遺領を継承して伊勢岩手城主となった。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げ、その功績により伊勢田丸4万5700石を与えられ、田丸藩の初代藩主となった
14
。慶長12年(1607年)に38歳の若さで死去した
14
。
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女子:
稲葉正成(いなば まさなり)の最初の妻となった
13
。稲葉正成は後に春日局を継室に迎える人物である。
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その他:
上記以外の子女として、宗甫(そうほ)という名の男子、そして石河備後守(いしこ びんごのかみ)や種田正状(たねだ まさつね)に嫁いだ娘たちがいたことが記録されている
13
。
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春日局(福)との関係:伯父、養父として
春日局(かすがのつぼね)、幼名を福(ふく)は、江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として、また大奥の創設者として絶大な権勢を振るった女性である。彼女は明智光秀の重臣であった斎藤利三(さいとう としみつ)の娘として生まれた。福の母は稲葉一鉄の縁者(稲葉通明の娘 17、一説には稲葉塩塵(一鉄の祖父)の娘とも)であったため、稲葉重通は福にとって母方の縁者、具体的には伯父にあたる関係であった。
天正10年(1582年)の山崎の合戦で父・斎藤利三が敗死し処刑されると、幼少の福は母方の縁を頼り、稲葉重通に引き取られ、その養女となった 17。その後、福は稲葉重通の家臣であり、後に重通の娘を娶り(つまり重通の婿)、さらに福を継室として迎えることになる稲葉正成(はやし せいせい、後に稲葉姓を名乗る)に嫁いだ 16。
重通が福を養女として保護した行為は、単に困窮した血縁者を救済するという人道的な側面だけに留まらなかった可能性がある。斎藤利三の娘という出自を持つ福を稲葉家に取り込むことは、旧明智勢力やそれに関連する人脈との繋がりを維持し、あるいは将来的な政治的布石とする深慮遠謀があったとも考えられる。福が後に稲葉正成と結婚し、さらに徳川家光の乳母として比類なき権力を持つに至る過程において、養父である重通の存在や、稲葉家との繋がりが、間接的にではあれ何らかの影響を及ぼした可能性は否定できない。また、稲葉正成自身も、重通の娘を最初の妻とし、後に重通の養女である福を継室に迎えるという複雑な婚姻関係は、稲葉家内部の結束を強化し、重通の系統と正成の系統を強く結びつける役割を果たしたと考えられる。
興味深いことに、春日局の父・斎藤利三と稲葉一鉄の間には、利三が一鉄の家臣であったものの、後に一鉄の元を去って明智光秀に仕官したという経緯が存在する。この一件が本能寺の変の一因となったという説まであるほどである 9。このような複雑な背景を持つ利三の娘・福を、重通が保護し養女としたことは、過去の恩讐を超えた稲葉家の度量の大きさを示すと同時に、将来有望な人材を確保しようとする戦略的な判断があったのかもしれない。春日局が徳川幕府初期において大きな政治的影響力を持ったことは周知の事実である。その養父が稲葉重通であったという事実は、重通自身の評価や、清水稲葉家とは別系統で発展し、後に淀藩主などを輩出する稲葉正成の家系の隆盛に対して、間接的ながらも一定の権威や箔を付ける効果があったと言えるだろう。
提案表1:稲葉重通の家族構成
関係
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氏名
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続柄・備考
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典拠
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父
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稲葉一鉄(良通)
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美濃の戦国大名、西美濃三人衆の一人
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1
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母
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加納兵次の娘
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側室
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1
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異母弟
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稲葉貞通
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稲葉本家家督相続者
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1
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正室
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牧村政倫(政治)の娘
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4
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継室
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吉田浄忠の娘
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4
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実子(長男)
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牧村利貞
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母は牧村政倫の娘。牧村家養子。伊勢岩手城主
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10
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実子(次男)
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稲葉通重
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母は吉田浄忠の娘。美濃清水藩二代藩主、後に改易
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13
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実子(三男)
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稲葉道通(勘右衛門)
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母は吉田浄忠の娘。伊勢田丸藩初代藩主
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13
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実子(男子)
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宗甫
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詳細不明
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13
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実子(女子)
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稲葉正成室
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稲葉正成の最初の妻
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13
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実子(女子)
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石河備後守室
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13
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実子(女子)
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種田正状室
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13
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養女
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福(春日局)
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斎藤利三の娘。徳川家光乳母。稲葉正成継室
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4
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婿養子(娘婿)
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稲葉正成
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重通の娘を娶る。後に春日局を継室とする。美濃十七条藩主、下野真岡藩主などを歴任
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16
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第二章:織田信長への奉仕
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信長への出仕と馬廻としての活動
稲葉重通は、父・一鉄や弟・貞通らと共に、永禄10年(1567年)の織田信長による美濃平定後、信長に仕えることとなった。当初、重通は信長の直属の親衛隊とも言うべき馬廻(うままわり)の一員として活動したと記録されている
4
。馬廻は、主君の身辺警護をはじめ、戦場においては伝令や遊撃隊としての役割を担うなど、主君の側近くにあって奉仕する重要な役職であった。そのため、馬廻衆には主君からの個人的な信頼が厚く、かつ武勇に優れた者が選抜されるのが常であった。
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信長政権下での所領と役割
織田信長に仕えていた時期の重通の所領については、1万5千石、あるいは2万3千石を与えられていたという記録が残されている
4
。この石高は、当時の信長家臣団の中においても、彼が一定の地位と待遇を得ていたことを示唆している。具体的な戦功に関する詳細な記述は、現存する史料からは多くは見出せないものの、馬廻としての日常的な忠勤を通じて、信長の信頼を徐々に獲得していったものと考えられる。
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本能寺の変後の動向:信濃飯山城救出
天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都本能寺において明智光秀の謀反によって横死するという未曾有の事態(本能寺の変)が発生すると、織田家の支配体制は大きく揺らぎ、各地で混乱が生じた。特に信濃国(現在の長野県)においては、旧領の回復を目指す在地勢力による一揆が頻発し、織田方の諸城は危機的状況に陥った。このような混乱の中、信濃飯山城(いいやまじょう)が越後の上杉景勝に呼応した一揆勢によって包囲されるという事態が発生する。
この時、稲葉重通は父・良通(一鉄)と共に、この飯山城の救援に赴いたと記録されている 4。これは、信長死後の政治的混乱期においても、稲葉氏が旧織田家臣としての立場を堅持し、一定の軍事行動を展開する能力と意思を有していたことを示す重要な事例である。
本能寺の変という激震は、織田政権下に組み込まれていた諸将にとって、まさに青天の霹靂であった。各自が自己の勢力保持と、激変する状況下での将来の身の振り方を必死に模索する契機となったのである。飯山城は、信濃国における織田方の重要な拠点の一つであり、その救援活動は、旧織田勢力としての責任を果たすという大義名分を伴う行為であった。同時に、この混乱に乗じて自らの影響力を維持し、あるいは拡大しようとする政治的な意図も含まれていた可能性は否定できない。重通が父・一鉄と共に出陣したという事実は、彼が稲葉家の主要な武将の一人として、父の指揮のもとで重要な軍事作戦に関与していたことを明確に示している。この時期、本拠地である美濃国内においても、かつて信長によって追放された安藤守就の旧臣らが蜂起するなど、決して安泰とは言えない状況であった
3
。そのような中で、遠く信濃へ派兵できたことは、稲葉氏が美濃国内においてある程度の統制を維持しつつ、広域的な軍事作戦を展開できるだけの組織力と兵力を有していたことを示唆している。この迅速な行動は、後の豊臣秀吉への臣従へと繋がる過程において、稲葉氏が依然として戦国武将としての実力を保持する有力な武家勢力であることを、天下に示す一つの重要な実績となった可能性が高い。
第三章:豊臣秀吉への臣従と活躍
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秀吉配下としての馬廻
織田信長の横死後、日本の政治情勢は急速に流動化し、信長の重臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が急速に台頭した。稲葉重通は、父・一鉄や弟・貞通ら一族と共に、この秀吉に仕える道を選び、信長時代に引き続き馬廻として奉公した
4
。秀吉政権下においても、主君の側近としての信頼を得ていたことがうかがえる。
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主要な戦役への従軍記録
稲葉重通は、豊臣秀吉が主導した主要な戦役の多くに従軍し、武功を立てた。
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小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年):
織田信雄・徳川家康連合軍と豊臣秀吉軍が激突したこの戦いにおいて、重通は父・一鉄、弟・貞通らと共に秀吉方として参陣した。史料によれば、稲葉一鉄・貞通らは約4千の兵を率いて岩崎山砦(現在の愛知県小牧市)の守備を担当しており、その中に「勘右衛門重通」として重通の名が記されている
19
。これは、重通が父や弟と行動を共にし、秀吉軍の重要な一翼を担っていたことを具体的に示すものである。
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九州征伐(天正15年、1587年):
豊臣秀吉による島津氏討伐戦である九州征伐にも、稲葉一族は参加している。弟の稲葉貞通とその子・典通が出陣した記録があり
20
、また、重通の婿養子である稲葉正成もこの戦役に従軍している
18
。重通自身の直接的な戦功に関する詳細な記述は現存史料からは確認できないものの、一族を挙げてこの重要な戦役に参加していたことは疑いようがない。佐賀県唐津市鎮西町石室には「稲葉重通陣2」という伝承地が存在することから
21
、重通が九州の地に赴いていたことは確実視される。
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小田原征伐(天正18年、1590年):
関東の雄・北条氏を屈服させた小田原征伐にも、重通は参加したとされている
4
。弟の稲葉貞通は1,200余の兵を率いて織田信雄の指揮下に入り、伊豆韮山城の攻略戦に参加しており
22
、稲葉正成もまたこの戦役に従軍している
18
。重通も稲葉軍の一員として、あるいは独立した部隊を率いて参陣し、北条氏の広大な支配領域の制圧に貢献したものと考えられる。
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文禄・慶長の役(文禄元年~慶長3年、1592年~1598年):
豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)に際しては、重通が直接朝鮮半島へ渡海したという明確な記録は、提供された史料からは見当たらない。しかし、出兵の拠点となった肥前国名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に在陣していたことが確認されている
4
。名護屋城には、全国から多数の大名が軍役を負って参集し、それぞれの陣屋を構えていた。史料には「美濃 清水 稲葉重通 1.2(万石)」と記載があり
23
、重通が1万2千石の軍役を負担して名護屋城に参陣していたことがわかる。また、当時の名護屋城の陣配置図にも「稲葉重通・堀秀治」の陣屋が示されており
24
、このことからも彼の参陣は確実である。さらに、名護屋城の近隣(唐津市鎮西町石室)にも稲葉重通の陣があったとの伝承が残っていることから
21
、兵站業務や後方支援といった重要な役割を担っていた可能性も考えられる。
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伊勢神宮式年遷宮における役割:豊臣政権の造営奉行として
近年の研究、特に岐阜県博物館所蔵の史料分析により、稲葉重通が軍事面だけでなく、豊臣政権の重要な内政事業にも深く関与していたことが明らかになってきた 10。具体的には、天正13年(1585年)に執り行われた伊勢神宮の式年遷宮において、重通は子の牧村利貞と共に、豊臣政権側の造営奉行という重責を担っていたのである。
現存する書状には、伊勢神宮外宮の造営に関する金銭の支払い内訳が重通と利貞に報告されていることや、遷宮に関する内宮・外宮双方の申し分を調整し、朝廷を通じて内府(ないふ、関白豊臣秀吉を指す)に言上する手続きを進めるべきことなどが記されている 10。これらの記述は、重通が伊勢神宮の式年遷宮という国家的な大事業において、財政管理から関係各所との調整に至るまで、極めて重要な役割を果たしていたことを明確に示している。
伊勢神宮の式年遷宮は、皇室の祖神を祀る神宮の最も重要な祭祀であり、朝廷や日本の伝統的宗教的権威にとって、国家の安寧と繁栄を祈願する極めて重大な国家事業であった。天下統一を進める豊臣秀吉にとって、このような伝統的権威を掌握し、その保護者としての立場を内外に強く示すことは、自らの政権の正統性を高める上で不可欠であった。伊勢神宮の遷宮事業への積極的な関与は、まさにその一環であったと言える。稲葉重通がこの遷宮事業の造営奉行という枢要な役職に任じられたという事実は、彼が単なる武勇に優れた武官としてだけでなく、秀吉から財政管理能力や大規模な公共事業を円滑に執行する行政手腕においても、厚い信頼を寄せられていたことを強く示唆している。重通の正室が伊勢岩手城主・牧村氏の出身であり、継室が吉田氏の娘であったことなど、彼の姻戚関係が伊勢方面や京都の公家社会と何らかの繋がりを持っていたとすれば、それが遷宮奉行への任命に影響した可能性も考慮されるべきであろう。また、後に秀吉の御伽衆となることから、彼の持つ文化的素養や交渉能力も高く評価されていたのかもしれない。この伊勢神宮遷宮奉行という役職は、重通が豊臣政権の中枢と深く関わり、政権運営の一端を実質的に担っていたことを示す重要な証左となる。彼の活動範囲が、単に軍事的な側面に留まらなかったことを具体的に示す好例である。
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晩年の御伽衆としての活動
豊臣秀吉の晩年、稲葉重通は御伽衆(おとぎしゅう)の一員に列せられた 2。御伽衆とは、主君の側近くにあって、日常的な話し相手を務めたり、様々な相談に応じたりする役職であり、時には政治的な助言を行うこともあった 25。そのため、御伽衆に選ばれる人物には、武勇だけでなく、幅広い教養や巧みな弁舌、さらには情報収集能力なども求められた。
秀吉の御伽衆としては、機知に富んだ逸話で知られる山名禅高(やまな ぜんこう)や曽呂利新左衛門(そろり しんざえもん)といった人物が有名であるが 27、かつて大名であった者や名家の出身者など、国を治めた経験を持つ人物がその知識や経験を買われて選ばれることも少なくなかった 26。稲葉重通もまた、そのような人物の一人として、秀吉からの信頼を得ていたものと考えられる。例えば、秀吉の御伽衆であった織田有楽斎(おだ うらくさい、信長の弟)は、千利休の高弟である利休七哲の一人に数えられるほどの茶人でもあったことが知られており 28、御伽衆には文化的な素養も期待されていたことがうかがえる。重通自身が茶会や和歌の会に積極的に参加したという具体的な記録は、現時点での調査資料からは見当たらないものの 29、御伽衆としての役割を考えると、そうした文化的な交流の場に出席する機会も少なからずあったものと推察される。
提案表2:稲葉重通の主要な軍役と活動
年代
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戦役/活動
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主な役割/記録(石高、役職など)
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典拠
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(信長時代)
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織田信長に仕官
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馬廻として奉仕。1万5千石または2万3千石を領有か。
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4
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天正10年 (1582)
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本能寺の変後の信濃飯山城救出
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父・一鉄と共に一揆勢に包囲された飯山城を救援。
|
4
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(秀吉時代)
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豊臣秀吉に仕官
|
馬廻として奉仕。
|
4
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天正12年 (1584)
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小牧・長久手の戦い
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秀吉方として参陣。父・一鉄らと岩崎山砦を守備(兵約4千)。「勘右衛門重通」として記録あり。
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19
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天正13年 (1585)
|
伊勢神宮式年遷宮
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子・牧村利貞と共に豊臣政権の造営奉行を務める。
|
10
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天正15年 (1587)
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九州征伐
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従軍。肥前国に「稲葉重通陣2」の伝承地あり。
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20
, ユーザー情報
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天正16年 (1588)
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美濃清水城主となる
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父・一鉄の死後、遺領の一部(美濃清水1万2千石)を継承。清水稲葉家初代。
|
2
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天正18年 (1590)
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小田原征伐
|
従軍。
|
4
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文禄元年-慶長3年 (1592-1598)
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文禄・慶長の役
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肥前名護屋城に在陣(軍役1万2千石)。
|
4
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文禄3年 (1594)
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伊勢国多気郡東池上内100石を寄進
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伊勢国内に所領を有していた可能性を示唆。
|
10
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(秀吉晩年)
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御伽衆
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豊臣秀吉の御伽衆を務める。
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2
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第四章:美濃清水城主としての稲葉重通
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父・一鉄の死と美濃清水城の継承
天正16年(1588年)、父である稲葉一鉄が美濃清水城(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町清水)において74歳でその生涯を閉じると
1
、稲葉重通は父の広大な遺領の一部である美濃国清水の地を相続し、清水城主となった
2
。その石高は1万2千石であったと記録されている
2
。これにより、重通は独立した大名としての地位を確立し、後世「清水稲葉家」の初代当主として位置づけられることになった
2
。
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伊勢国内における所領の可能性
稲葉重通は、本拠地である美濃清水の1万2千石に加えて、伊勢国(現在の三重県広域)内にも相当規模の所領を有していた可能性が、近年の史料研究によって指摘されている。
岐阜県博物館が所蔵する史料群の中に含まれる【史料L】「稲葉重通寄進状写」によれば、重通は文禄3年(1594年)11月1日付で、伊勢国多気郡東池上(ひがしいけのうえ、現在の三重県多気郡多気町東池上)村内の田畑100石を寄進していることが確認できる 10。
同博物館の研究では、この寄進された100石は、重通が伊勢国内に有していた可能性のある総計2万石の所領の一部であるかもしれないと考察されている。もしこの考察が事実であるならば、重通の総石高は美濃国の所領と合わせて3万石を超える規模となり、彼の政治的・経済的実力は従来考えられていたよりもはるかに大きかったことになる。
さらに、【史料M】として紹介されている「就伊勢国御検地相定条々(伊勢国における検地の実施に関する定め条々)」と題された文書には、重通の花押(かおう、署名代わりのサイン)の影印が確認されており 10、彼が伊勢国の検地、すなわち土地調査および石高査定の事業にも深く関与していたことが示唆されている。これは、重通が伊勢国内に所領を有していたことの有力な傍証となり得る。
美濃清水の1万2千石に加えて、伊勢国に2万石もの所領を有していたとすれば、稲葉重通は単なる小大名ではなく、豊臣政権下においてかなりの実力と発言力を持つ中堅大名であったと評価を改める必要がある。伊勢国は、皇室の祖神である天照大神を祀る伊勢神宮を擁する極めて重要な地域であり、また、東国と西国を結ぶ交通の要衝でもあった。このような戦略的にも経済的にも重要な地に大規模な所領を持つことは、大きな意味を持っていたはずである。前述の通り、重通が伊勢神宮の式年遷宮において造営奉行という重責を担ったこと
10
と、伊勢国内に所領を有していたことは、密接に関連している可能性が高い。遷宮という国家的な大事業を円滑に進めるためには、現地における一定の権限や経済的基盤が必要であったことは想像に難くない。重通の正室が伊勢岩手城主であった牧村政倫の娘であったこと
4
は、重通が伊勢方面に影響力を行使する上での重要な足がかりとなった可能性がある。また、彼の息子の一人である稲葉道通が、後に関ヶ原の戦いの功績によって伊勢田丸藩の藩主となっている事実も
14
、稲葉氏と伊勢国との間に浅からぬ縁があったことを物語っている。この伊勢における所領の存在は、稲葉重通の政治的・経済的実体を再評価する上で非常に重要な情報であり、従来、美濃清水1万2千石の大名としての側面が主に注目されてきたが、より広範な活動基盤と影響力を持っていた可能性が浮上するのである。
-
発給文書に見る統治と活動
稲葉重通が領主として、あるいは豊臣政権の官僚として発給した書状や寄進状、安堵状などが今日にもいくつか現存しており、これらの文書から彼の具体的な統治活動や政治的活動の一端をうかがい知ることができる
10
。
-
【史料F】稲葉重通書状(龍徳寺宛):
この書状は、龍徳寺(現在の岐阜県揖斐郡池田町本郷に現存)に宛てられたもので、「上方御人数」(おそらく豊臣秀吉の軍勢を指す)が同寺に陣を敷こうとした際に、龍徳寺が稲葉家の位牌所(先祖代々の位牌を祀る場所)であることを理由に、陣取りを免除してもらうよう取り計らうことを指示する内容である
10
。これは、重通が自領や縁故のある寺社を保護しようとする、領主としての配慮と権限行使を示す好例である。
-
【史料L】稲葉重通寄進状写(上部次郎右衛門宛):
前述の通り、伊勢国多気郡東池上村内の田畑100石を、上部次郎右衛門なる人物(詳細不明)を通じて寄進することを示す内容である
10
。
-
【史料】稲葉重通安堵状(戸木村蓮蔵寺宛):
この文書は、戸木村(現在の所在不明)の蓮蔵寺という寺院に対し、その寺領である三石二斗の土地所有権を安堵(保証)する内容である
10
。領内の寺社領を保障することは、民心の安定と領内秩序の維持に繋がり、当時の領主にとって重要な統治政策の一つであった。
これらの文書には、稲葉重通自身の花押が記されており、彼の公的な活動を示す貴重な一次史料となっている
10
。また、名物として知られる刀剣「稲葉江」には「所持稲葉勘右衛門尉」という金象嵌銘が施されているが
31
、この「勘右衛門」は重通の息子である稲葉道通(同じく勘右衛門を名乗った)を指すとされるものの、重通自身も「勘右衛門尉」という通称を用いていたことを示唆しており、彼の公的な立場を裏付けるものの一つと言える。
提案表3:稲葉重通発給主要文書一覧
年月日
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文書種類
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宛所/関係地
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内容概略
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花押の有無
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典拠
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(年未詳) 3月22日
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書状
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龍徳寺(美濃国池田町本郷)
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上方御人数の陣取免除を指示(稲葉家位牌所のため)
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有り
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10
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文禄3年 (1594) 11月1日
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寄進状写
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上部次郎右衛門(伊勢国多気郡東池上関連)
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伊勢国多気郡東池上内100石を寄進
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(写し)
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10
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(年未詳) 後7月21日
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安堵状
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戸木村 蓮蔵寺
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蓮蔵寺領三石二斗を安堵
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有り
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10
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(年未詳)
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検地条々
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伊勢国
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伊勢国検地に関する条々(花押影あり)
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(影)
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10
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第五章:人物像と評価
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史料から推察される重通の性格や能力
稲葉重通の人物像を直接的に伝える詳細な記録は多くないものの、彼の経歴や残された史料から、その性格や能力の一端を推察することは可能である。
まず、織田信長、そして豊臣秀吉という、戦国時代から安土桃山時代にかけて天下統一を成し遂げた当代随一の権力者の下で、長年にわたり馬廻という側近の職を務め上げた事実は、彼が高い忠誠心と信頼性を備えていたことを物語っている 2。特に秀吉の晩年には御伽衆に抜擢されており 2、これは単なる武勇だけでなく、主君を楽しませる会話術や、時流を的確に読み解く知性、そして状況に応じた適切な判断力を兼ね備えていた人物であったことを示唆している。
また、伊勢神宮の式年遷宮において造営奉行という重責を全うしたことや 10、伊勢国内における検地への関与 10、さらには領主として発給した各種文書の内容からは、行政官としての実務能力も非常に高かったと考えられる。
庶長子という、家督相続においては必ずしも有利とは言えない立場から身を起こし、最終的には1万2千石(伊勢国内の所領を含めればそれ以上)を領する独立した大名へと成長を遂げたことは、彼の粘り強さや、激動の時代を生き抜くための処世術の巧みさをも示していると言えるだろう。
父である稲葉一鉄が「頑固一徹」と評されるほどの強烈な個性を持った武将であったのに対し 8、重通に関する直接的な性格描写は少ない。しかし、主君の側近くに仕えることが多かった彼の経歴を考慮すると、周囲との協調性やバランス感覚に優れた、いわゆる「数奇者」としての側面も持ち合わせていたのではないかと推察される。
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同時代における重通の立場と、後世(特に春日局との関連)への影響
同時代において、稲葉重通は、稲葉本家を継いだ弟の稲葉貞通ほどの広大な所領や直接的な軍事力は有していなかったかもしれない。しかし、豊臣政権の中枢に近い位置で活動し、独自のネットワークを築き上げていたと考えられる。特に伊勢方面における彼の活動や所領は、稲葉氏全体の勢力範囲を補完し、一族の政治的影響力を多角化する上で重要な役割を果たした可能性がある。
後世への影響という観点では、やはり養女である春日局の存在が極めて大きいと言わざるを得ない。春日局が徳川幕府三代将軍・家光の乳母として、また大奥の最高権力者として絶大な影響力を行使したことにより、その養父であった稲葉重通、そして稲葉一族(特に春日局の夫である稲葉正成の系統、後の淀藩稲葉家など)の評価や知名度にも、間接的ながら大きな影響を与えたと考えられる 16。
重通自身の直系である清水稲葉家は、子の稲葉通重の代で不祥事により改易となり、残念ながら短命に終わってしまう 13。しかし、稲葉氏という大きな枠組みの中で見れば、重通は、養女・春日局を通じて徳川の世にもその名を繋ぐ、歴史的に重要な人物の一人と位置づけることができるであろう。
終章:稲葉重通の死と清水稲葉家のその後
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慶長3年(1598年)の逝去、享年
稲葉重通は、慶長3年(1598年)10月3日にその生涯を閉じた
1
。彼の生年は天文11年(1542年)とされているため
1
、享年は57歳(数え年)であった。豊臣秀吉が同年8月に没しており、まさに豊臣政権が大きな転換期を迎えようとする直前のことであった。
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菩提寺・位牌所
稲葉重通の位牌は、岐阜市長良福光に位置する崇福寺(そうふくじ)に安置されていると伝えられている 10。崇福寺は、織田信長が岐阜に入城した際に菩提寺としたことでも知られる古刹である。
一方、父である稲葉一鉄の菩提寺は、美濃清水城の程近く、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町長良にある月桂院(げっけいいん)である 32。月桂院は、一鉄が正室(重通にとっては義母にあたる三条西公条の娘)の菩提を弔うために、彼女の旧宅を寺として建立したもので、後に一鉄自身もここに葬られた 10。重通が父・一鉄の書状を月桂院に納めた可能性も指摘されており 10、父の菩提寺との関わりも深かったものと考えられる。重通自身の墓所の正確な所在地については、現時点での調査資料からは明確な記述を見出すことができなかった。しかし、父祖の地である美濃国内、位牌が安置されている崇福寺、あるいは京都などに縁故の寺院が存在し、そこに葬られた可能性が考えられる。
-
子・稲葉通重の改易と清水藩の廃藩
稲葉重通の死後、家督と美濃清水1万2千石の所領は、子の稲葉通重(みちしげ)が継承した 4。
しかし、そのわずか9年後の慶長12年(1607年)6月24日、通重は織田有楽斎(信長の弟)の嫡男である織田頼長らと共に、京都の祇園において遊興中に乱行事件を起こしてしまう。具体的には、茶屋四郎次郎や後藤長乗といった富商の婦女7、8人を強引に茶店に引き入れて酒を飲ませたり、後藤の従者を木に縛り付け、刀を抜いて斬り捨てると脅したりするなどの行為であった 13。
この事件は、当時京都所司代などを通じて治安維持に厳しく目を光らせていた江戸幕府の耳に入り、その怒りを買うこととなった。結果として、稲葉通重は改易(所領没収および武士の身分剥奪)という厳しい処分を受け、常陸国筑波(現在の茨城県つくば市周辺)へと流罪となった。これにより、父・重通が一代で築き上げた美濃清水藩は、通重の代で実質的に終焉を迎え、廃藩となってしまったのである 13。
稲葉通重は、元和4年(1618年)6月に、流罪先の筑波において失意のうちに死去したと伝えられている 13。
稲葉重通は、織田・豊臣という二つの強大な政権下で着実にその地位を築き上げ、自らの才覚と努力によって独立した大名としての家(清水稲葉家)を創設した。これは、彼の武将としての能力と、主君への忠誠が高く評価された結果に他ならない。しかし、その息子である通重の代に、京都という幕府の監視が特に厳しい場所での些細な不行跡が原因で、家門は取り潰しという厳しい結末を迎えた。この出来事は、戦国時代の流動的で実力主義的な社会から、より厳格な秩序と統制を重んじる江戸幕府体制へと移行しつつあった過渡期における、大名統制の強化を示す一つの象徴的な事件と言えるだろう。特に、幕府の威光が及ぶ京都での乱行は、決して見過ごされることなく厳罰に処されたものと考えられる。この事件には、織田有楽斎の嫡男など、他の旗本や小大名の関係者も関与していたことから、当時の武士階級の一部に見られた規律の緩みや、新興勢力としての驕りがあった可能性も否定できない。
清水稲葉家の改易は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、いかに多くの大名家が勃興と滅亡を繰り返し、その運命が浮沈の激しいものであったかを示す一例である。親が築き上げた功績だけでは、家の安泰は決して保証されず、当主自身の行動や資質が常に厳しく問われる、まさに油断のならない時代であったことを如実に物語っている。一方で、稲葉重通の血筋は、彼の娘や養女である春日局を通じて、他の家系(例えば、春日局の夫である稲葉正成が興した淀藩稲葉家など)において、形を変えながらも後世へと続いていくことになるのである。
参考文献
(本報告書作成にあたり参照した主要スニペットIDリスト)
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引用文献
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美濃國 稲葉一鉄墓所 月桂院(岐阜県揖斐川町) - FC2
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