立花宗茂は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、その武勇、忠義、そして類稀なる強運によって後世に名を残す人物である 1 。豊臣秀吉や徳川家康といった天下人からも高く評価され、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたものの、後に旧領である柳河への復帰を成し遂げた唯一の大名としても知られている 2 。本報告では、立花宗茂の生涯、軍事的功績、人間関係、統治、文化的側面、そして後世における評価を、史料に基づき多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。
立花宗茂は、永禄10年(1567年)8月18日、豊後国国東郡の筧城にて、大友氏の重臣であった吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として生を受けた 5 。幼名は千熊丸といい、これは誕生時の体格が大きかったことに由来するとされる 5 。後に弥七郎とも称した 6 。
実父・高橋紹運は、立花道雪と並び「大友家の双璧」と称された名将であり、その存在は幼い宗茂にとって、将来の武将としての期待を背負うものであったと考えられる 3 。紹運の長男として生まれたことは、戦国という時代背景において、家督を継ぎ、武門の誉れを高めるという大きな責任を伴うものであった。
同じく大友氏の重臣であり、高橋紹運の盟友でもあった立花道雪(戸次鑑連)には男子がいなかった 3 。道雪は宗茂の器量を見抜き、自身の娘である誾千代の婿養子として、また立花家の後継者として宗茂を熱心に望んだ 3 。紹運は嫡男である宗茂を手放すことに当初難色を示したが、道雪の度重なる懇願と二人の間の深い信頼関係から、ついにこれを承諾する 3 。こうして宗茂は15歳で道雪の養子となり、天正10年(1582年)には正式に立花姓を名乗ることとなった 1 。
この養子縁組は、単なる家督相続の問題に留まらず、大友家を支える二大重臣家、高橋家と立花家の結束を強化する戦略的な意味合いも持っていた。道雪が宗茂の「器量」を高く評価したこと、そして紹運が盟友の熱意に折れたことは、この縁組が深い人間的信頼に基づいていたことも示唆している 3 。結果として、宗茂は二つの偉大な武家の伝統と期待を一身に背負うこととなり、これが彼の人間形成に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
宗茂の生涯において、実父・高橋紹運と養父・立花道雪の存在は計り知れないほど大きい。
高橋紹運 は、忠義と犠牲の精神を宗茂に身をもって示した。特に、島津氏の九州侵攻の際、岩屋城において圧倒的多数の敵兵を相手に玉砕覚悟で戦い抜き、宗茂と大友軍の撤退時間を稼いだ壮絶な最期は、宗茂の心に深く刻まれたであろう 7 。紹運は「君、君たらずとも、臣、臣たれ」(主君が主君らしくなくとも、臣下は臣下としての道を尽くせ)という言葉を残しており 11 、養子に出る宗茂に対しては、「もし高橋家と立花家が戦うことになれば、立花勢の先鋒としてこの父を討て。道雪殿に不行跡があればただちに義絶されよう。その時は高橋の家に帰ろうと思うのではなく、この刀で自害して果てよ」と厳しい言葉を送ったと伝えられる 7 。この言葉は、新たな家への絶対的な忠誠を求めるものであり、宗茂の倫理観の根幹を形成したと考えられる。
一方、 立花道雪 は、「雷神」と恐れられたほどの猛将であり、宗茂に厳しい武術の訓練を施した 7 。道雪の厳格な指導は、宗茂の戦術眼や戦闘能力を飛躍的に高めた。道雪自身、主君大友宗麟から立花姓の使用を許されなかったが、養子の統虎(後の宗茂)が立花姓を継ぐことになったのは天正10年(1582年)のことである 9 。
紹運の悲壮なまでの忠義と自己犠牲の精神、そして道雪の勇猛果敢な武勇と実践的な指導力。これら二人の父から受け継いだ資質と教えが融合し、後の立花宗茂の卓越した武将としての器量、そしていかなる状況下でも義を重んじる人間性を形作ったと言える。特に、実父から新しい家への忠誠を優先するよう諭された経験は、宗茂の心に強烈な義務感を植え付けたであろう。
道雪の一人娘である立花誾千代は、宗茂が15歳、自身が13歳の時に結婚した 1 。誾千代は父から7歳で家督を譲られ立花山城主となった、戦国時代でも稀有な「戦う女城主」であった 1 。彼女自身も武勇に優れていたと伝えられる 1 。
二人の夫婦関係は、後年、世継ぎが生まれなかったことや宗茂が側室を迎えたことなどから別居に至ったとされるが 15 、その根底には深い信頼関係があったと言われる。誾千代の死が伝えられた際、宗茂は家臣たちの前で号泣したという逸話は、その情の深さを示している 3 。また、宗茂が改易された後、誾千代は夫の再興を神社に祈願し続けたとも伝えられる 14 。宗茂は柳河へ復帰した後、彼女の菩提を弔うために良清寺を建立している 10 。
誾千代との結婚は、立花家の家督相続という戦略的側面が強かったものの、戦乱の世を共に生きる中で、同志として、また互いを深く理解し合う存在としての絆が育まれたと考えられる。武勇に優れた女性城主であった誾千代は、宗茂の生きる武士の世界を誰よりも理解できたであろうし、その存在は宗茂にとって精神的な支えの一つであったかもしれない。世継ぎ問題という武家社会特有のプレッシャーが二人の関係に影を落としたとしても、互いへの敬愛の念は失われなかったことが、これらの逸話からうかがえる。
宗茂は生涯に十数回も名を変えているが、これは当時の武士の慣習でもあった 3 。幼名の千熊丸、弥七郎に始まり、元服後は高橋統虎、戸次統虎、そして立花姓を継いで立花統虎と名乗った。その後も鎮虎、宗虎、正成、親成、政高、尚政、俊正、経正、信正と続き、晩年に宗茂と改め、号は立齋とした 4 。これらの改名は、養子縁組、主君からの偏諱、あるいは人生の節目など、彼の立場や状況の変化を反映している。
表1:立花宗茂 公生涯の主要出来事年表
年代(西暦) |
年齢 (数え) |
主要出来事 |
典拠 |
永禄10年 (1567) |
1歳 |
豊後国にて高橋紹運の長男として誕生。幼名千熊丸。 |
5 |
天正9-10年 (1581-82) |
15-16歳 |
立花道雪の養子となり、道雪の娘・誾千代と結婚。立花城主となる。立花姓を名乗る。 |
1 |
天正14-15年 (1586-87) |
20-21歳 |
九州平定戦に参加。島津軍と戦い、立花山城を防衛。高鳥居城などを攻略。豊臣秀吉より「九州の逸物」と称賛される。 |
1 |
天正15年 (1587) |
21歳 |
筑後国柳河13万2千石の大名となる。 |
1 |
文禄元年-慶長3年 (1592-98) |
26-32歳 |
文禄・慶長の役に従軍。碧蹄館の戦い、蔚山城の戦いなどで活躍し、秀吉から「日本無双」と賞賛される。 |
3 |
慶長5年 (1600) |
34歳 |
関ヶ原の戦い。西軍に属し、大津城を攻略するも本戦には間に合わず。敗戦後、改易され浪人となる。 |
2 |
慶長11年 (1606) |
40歳 |
徳川秀忠に召し出され、陸奥国棚倉1万石の大名として復帰。 |
1 |
慶長19-20年 (1614-15) |
48-49歳 |
大坂の陣に徳川方として参陣。 |
8 |
元和6年 (1620) |
54歳 |
旧領である筑後国柳河10万9千2百石に復帰。 |
1 |
寛永15年 (1638) |
72歳 |
島原の乱に参陣。幕府軍の総攻撃に参加し、軍功を挙げる。 |
10 |
寛永19年 (1642) |
76歳 |
江戸藩邸にて死去。 |
4 |
表2:立花宗茂の改名歴
時期 |
名前 |
読み |
備考 |
典拠 |
幼名 |
吉弘千熊丸 |
よしひろ せんくままる |
|
6 |
幼名 |
高橋弥七郎 |
たかはし やしちろう |
|
6 |
元服後 |
高橋統虎 |
たかはし むねとら |
実父高橋氏の嫡男として |
6 |
立花家養子後 |
戸次統虎 |
へつぎ むねとら |
立花道雪の養子として |
6 |
立花家相続後 |
立花左近将監統虎 |
たちばな さこんのしょうげん むねとら |
立花家家督相続 |
6 |
|
鎮虎 |
しげとら |
|
4 |
|
宗虎 |
むねとら |
|
4 |
|
正成 |
まさなり |
|
4 |
|
親成 |
ちかなり |
|
4 |
|
政高 |
まさたか |
|
4 |
|
尚政 |
なおまさ |
|
4 |
|
俊正 |
としまさ |
|
4 |
|
経正 |
つねまさ |
|
4 |
|
信正 |
のぶまさ |
|
4 |
晩年 |
立花宗茂 |
たちばな むねしげ |
最も知られる名 |
3 |
号 |
立齋 |
りっさい |
隠居後の号 |
4 |
立花宗茂の武将としての才能は、早くから顕著であった。初陣は14歳とも16歳とも伝えられる石坂合戦であり、父・高橋紹運や養父・立花道雪が出陣する中、宗茂は初陣にも関わらず、意図して父の陣から離れて布陣したという 22 。これは、自らの指揮下にある兵が自身の命令にのみ従うようにするための配慮であり、実際に敵将・堀江備前を討ち取るという戦功を挙げた 22 。この初陣での冷静な判断力と度胸は、道雪に宗茂を養子として迎えたいと強く願わせる一因となった 22 。
さらに遡れば、12歳の時には、鷹狩りの最中に襲いかかってきた猛犬を、臆することなく峰打ちで撃退したという逸話が残る 7 。父・紹運がなぜ斬り捨てなかったのかと問うと、宗茂は「刀は敵の武将を斬るものと聞いております」と答えたとされ、幼くして武士としての心得と勇気を兼ね備えていたことを物語っている 7 。これらの早期の経験は、宗茂が独立した指揮官として、また戦術家として成長していく上での素地を形成したと言える。自らの判断で行動し、結果を出すという姿勢は、後の彼の戦いぶりにも通じるものがある。
宗像氏との戦いでは許斐山城を攻略し、龍徳城を降伏させるなど、若くして数々の武功を重ね、大友家の家臣として頭角を現していった 13 。
宗茂の主家である大友氏は、当時、南九州から勢力を拡大する島津氏の圧迫に苦しんでいた 11 。天正14年(1586年)、島津軍が大友領の筑前に侵攻すると、宗茂の父・高橋紹運は岩屋城にわずか700余の兵で籠城し、5万とも言われる島津の大軍を相手に壮絶な防衛戦を繰り広げ、玉砕した 7 。紹運はこの戦いで島津軍の進撃を遅滞させ、結果的に宗茂が守る立花山城、そして大友氏全体の戦略に時間的猶予を与えるという極めて重要な役割を果たした。紹運は、自らの犠牲によって島津軍を疲弊させれば、立花城の攻略は困難になると予見していたとも伝えられる 39 。
父の死後、宗茂は立花山城で1500の兵をもって島津軍と対峙 11 。降伏勧告を偽って時間を稼ぎつつ 13 、岩屋城攻めで疲弊した島津軍の隙を突いて奇襲を繰り返し、高鳥居城や宝満城を奪還するなど、卓越した戦術眼を発揮した 1 。
やがて豊臣秀吉の九州征伐軍が到着すると、宗茂はその先鋒として島津氏討伐戦に参加 8 。肥後国から島津領に攻め入り、出水城の島津忠辰を破り、伊集院氏などから人質を取るなど戦功を重ねた 8 。
これらの目覚ましい活躍は秀吉の目に留まり、秀吉は宗茂を「九州の逸物(九州の鶚鷹)」 1 、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」 4 と激賞した。そして、弱冠20歳の宗茂を大友氏の一家臣から豊臣氏直属の大名へと取り立て、筑後国柳河に13万2千石の所領を与えた 1 。これは当時としては異例の抜擢であり 8 、秀吉が宗茂の武勇と将来性、そして九州における戦略的価値をいかに高く評価していたかを物語っている。秀吉によるこの直接の登用は、宗茂の中に深い恩義の念を育み、後の関ヶ原の戦いにおける彼の行動原理に大きな影響を与えることになる。
豊臣秀吉による朝鮮出兵において、立花宗茂は日本軍の主要武将の一人として参加し、その武名を朝鮮半島でも轟かせた。
文禄の役(1592-1593年)
宗茂は小早川隆景率いる第六軍に属し、2,500の兵を率いて参陣した 4。彼の部隊は金箔押桃形兜をはじめとする金色の武具で統一され、「金備隊」とも称されたという 6。緒戦では東莱城攻略などに参加した 8。
特に名を馳せたのは、文禄2年(1593年)1月の 碧蹄館の戦い である。日本軍の先鋒を任された宗茂は、濃霧の中、約3,200の兵を率いて進軍し、数に勝る明の大軍と遭遇した 21 。彼は得意の釣り野伏せ(囮部隊と伏兵を組み合わせる戦法)や火計を駆使し、明軍に大打撃を与えてこれを撃退した 8 。この戦いでの宗茂の奮戦は凄まじく、乗馬は返り血で染まり、佩刀は激戦で曲がって鞘に収まらなかったと伝えられる 13 。一部の記録では、3千の兵で明・朝鮮連合軍4万3千(明軍)と10万(朝鮮軍)を破ったとあるが、敵軍の数は誇張されている可能性が高い 22 。戦闘後、宗茂は明軍の追撃を主張したが、総大将の小早川隆景に制止されたという 21 。
慶長の役(1597-1598年)
慶長の役では、当初、日本水軍の拠点である安骨浦の守備を任された 8。その後、第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正が蔚山城で明・朝鮮連合軍の大軍に包囲されると、宗茂はわずか1千(一説に5千の明軍に対し1千 13、敵総勢5万に対し1千 11)の兵を率いて救援に駆けつけ、夜襲を敢行。見事、清正軍を救出した 3。この功績に対し、清正は宗茂を「日本軍第一の勇将」と涙を流して喜び 11、秀吉も「日本無双の勇将たるべし」と激賞したと伝えられる 8。
朝鮮からの最終的な撤退戦となった 露梁海戦 では、島津義弘らと共に、包囲された小西行長軍の救出に尽力し、朝鮮水軍の船60隻を拿捕して日本軍の撤退に貢献した 13 。
朝鮮での一連の戦いは、宗茂の武将としての評価を不動のものとした。釣り野伏せのような伝統的な戦術に加え、火計や鉄砲の集団運用といった革新的な戦術も用いたとされ 8 、その戦いぶりは故郷柳河の民から「鬼将軍」と称えられたという 8 。異国の地での困難な戦いを乗り越え、数々の武功を立てた経験は、彼の指揮能力と戦略眼をさらに磨き上げ、後の国内の動乱においても彼の大きな力となった。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康へと傾斜していく。しかし、立花宗茂は秀吉から受けた大恩に報いるため、豊臣家への忠義を貫き、石田三成率いる西軍に与した 2 。徳川家康からの東軍への誘いを、「秀吉公の恩義を忘れて徳川殿に味方するくらいなら、命を絶ったほうが良い」とまで言って断ったと伝えられる 7 。家臣たちが三成の勝ち目の薄さを説いても、「勝ち負けの問題ではない」として、義を重んじる姿勢を崩さなかった 7 。妻の誾千代は東軍につくよう進言したとも言われるが、宗茂はこれを受け入れなかった 14 。
この決断は、実父・高橋紹運から受け継いだ「義」の精神、そして秀吉個人への深い感謝の念が根底にあったと考えられる。多くの大名が時勢を読んで有利な側につく中で、宗茂の選択は損得勘定を超えたものであり、彼の武士としての美学を象徴している。この行動は、結果的に彼を苦難の道へと導くが、同時にその義理堅い人柄を後世に伝えることにもなった。
関ヶ原の本戦へ向かう途中、宗茂の軍勢は、東軍に寝返った京極高次が籠る近江国大津城の攻略を命じられた 8 。宗茂は、養父・道雪が考案したとされる弾丸と火薬を一体化させた「早込」を用い、通常の3倍速での鉄砲射撃を可能にする戦術や、塹壕(千鳥掛け)を築いて敵の矢弾を防ぐなど、巧みな攻城戦を展開した 8 。敵の夜襲を予測し、家臣の十時連貞の活躍もあって敵将3人を捕縛し、城内の情報を得るなど、戦略的にも優位に進めた 8 。
慶長5年(1600年)9月15日、宗茂は京極高次の助命を約束し、大津城を開城させることに成功した 8 。しかし、皮肉なことに、大津城が降伏したその日こそ、関ヶ原の本戦が行われ、西軍が大敗を喫した日であった 22 。宗茂の戦術的勝利は、戦略的には西軍の敗北という大きな流れを変えるには至らず、彼の精強な軍勢が本戦に参加できなかったことは、西軍にとって大きな痛手であったと後世に評価されている 22 。
西軍敗北の報を受け、宗茂は大坂城に撤退した後、本国柳河へ帰還した 8 。柳河城に籠城し抵抗の姿勢を見せたが、旧知の仲である黒田官兵衛(如水)や加藤清正らの説得に応じ、無益な戦いを避けるため開城した 8 。
大坂からの撤退途中、同じく敗走する島津義弘の軍勢と遭遇した際、家臣たちは父・紹運の仇である島津を討つべしと進言したが、宗茂は「敗軍の将を討つは武士の恥辱なり」としてこれを退け、むしろ義弘と協力して帰国の途についたという逸話は、彼の武士としての高い倫理観を示している 7 。
結果として、宗茂は領地を没収(改易)され、浪人の身となった 2 。当初は加藤清正の客分として肥後国高瀬に身を寄せたが、清正からの仕官の誘いは固辞し続けた 1 。宗茂と彼に従った家臣たちは困窮を極め、家臣が日雇い仕事や物乞いをして主君を支えたという話や 7 、食糧に事欠き、宗茂が薄い粥を出されたことに怒ったという逸話 7 、節句の祝いに升に盛った赤飯を手で食べ、柳の枝を箸代わりにしたという逸話 7 などが、その苦境を伝えている。このような逆境にあっても、宗茂は武士としての品格を失わず、武芸の鍛錬を怠らなかったとされ、日置流弓術の免許皆伝を得ている 13 。
この浪人時代は、宗茂の人間的魅力を一層際立たせるものであった。物質的な豊かさを失ってもなお、彼に付き従い続けた家臣たちの存在は、宗茂がいかに深く敬愛され、強い絆で結ばれた主君であったかを物語っている 1 。苦難を共有することで、主従の結束はさらに強固なものとなったであろう。
改易後、妻の誾千代は加藤清正の庇護のもと、肥後国腹赤村に移り住んだ 1 。宗茂が京に上り大名復帰を目指していた慶長7年(1602年)、誾千代は病により34歳の若さでこの世を去った 1 。宗茂は誾千代の存命中に立花家再興を成し遂げられなかったことを深く悔やみ、その死を大いに悲しんだと伝えられる 3 。後に柳河へ復帰した際、宗茂は真っ先に誾千代の菩提を弔うために良清寺を建立した 10 。
夫婦仲については、別居していたことなどから様々な説があるが 3 、誾千代が宗茂の武運を祈願し続けたという話や 14 、宗茂の深い悲しみは、二人の間に単なる政略結婚を超えた、戦友としての、あるいは夫婦としての深い情愛が存在したことを示唆している。誾千代の死は、宗茂にとって浪人生活の苦難に追い打ちをかける出来事であったが、同時に彼の再起への決意を新たにするものであったかもしれない。
立花宗茂の武勇と人となりは、敵方であった徳川家康やその重臣たちにも知られていた。家康は関ヶ原以前から宗茂を警戒し、東軍に引き入れようと画策していたとも言われる 8 。豊臣秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称したことは有名であり 11 、その本多忠勝自身が宗茂を徳川家に推薦したとされている 8 。
特に宗茂の器量に注目したのは、家康の嫡男であり二代将軍となる徳川秀忠であった 1 。秀忠は宗茂の人柄と能力に惚れ込み、彼を召し出すことを決めた。これは、宗茂が西軍に与した過去を持つにも関わらず、その卓越した武名と義理堅い性格が、新たな支配者である徳川家にとっても利用価値のあるものと判断されたためであろう。有能な人材を過去の敵対関係に囚われず登用するという徳川家のプラグマティズムと、宗茂自身の持つ人間的魅力が、この異例の抜擢に繋がったと考えられる。
慶長8年(1603年)、宗茂はまず5千石の旗本として召し抱えられた 38 。そして慶長11年(1606年)、秀忠の計らいにより、陸奥国棚倉1万石の大名として取り立てられ、立花家は再興を果たした 1 。その後、棚倉の所領は3万5千石まで加増された 49 。
棚倉藩主となった宗茂は、加藤清正に預けていた旧家臣団を呼び戻し、新たな家臣も召し抱えながら藩政の基礎を固めた 34 。家臣に対して知行預ヶ状を発給し 50 、馬場・八槻都々古別神社の朱印状取得に尽力するなど 51 、領国経営にも手腕を発揮した。棚倉では、後の棚倉城付近に「大長屋」と呼ばれる屋敷を建設し政務を執ったとされる 51 。この棚倉時代は、宗茂にとって徳川幕府への忠誠と統治能力を証明する期間であり、後の柳河復帰への重要な布石となった。
慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂の陣では、宗茂は徳川方として参陣し、将軍秀忠の側近くに仕えた 8 。この戦いにおいて、宗茂は豊臣方の動向をいくつか予言し、それが的中したことで徳川方の勝利に貢献したと伝えられる 8 。特に、豊臣秀頼が戦場に姿を現さないことなどを見抜いていたとされる。
大坂の陣での宗茂の活躍は、彼が完全に徳川幕府の信頼を得たことを示すものであった。かつての敵将が、新体制下でその軍事的才能と洞察力を発揮し、幕府の安定に貢献したことは、彼の評価をさらに高める結果となった。
元和6年(1620年)、関ヶ原合戦後に柳河を領有していた田中氏が嗣子なく改易となると、徳川秀忠は立花宗茂を旧領である筑後国柳河10万9千2百石の藩主として再封するという破格の決定を下した 1 。関ヶ原の戦いで西軍に与し改易された大名が、旧領にほぼ同等の石高で復帰を果たしたのは、立花宗茂ただ一人であり、これは戦国・江戸初期の歴史において極めて異例なことであった 1 。
この「奇跡の復活」は、宗茂の武勇や忠誠心、そして彼が秀忠と築いた深い信頼関係の賜物であったと言える 1 。徳川幕府にとっても、九州の要衝である柳河に、宗茂のような実績と人望を兼ね備えた人物を配置することは、西国支配の安定化に繋がるという戦略的判断があったと考えられる。宗茂の物語におけるこのクライマックスは、彼の不屈の精神と、時代を超えて認められる人間の価値を象徴している。
旧領柳河へ復帰した立花宗茂は、藩政の確立に尽力した。まず、加藤清正のもとに預けられていた旧家臣団を呼び戻し、家臣団を再編して領国支配体制を整えた 12 。家臣には知行地を改めて与え、その忠誠に報いた 50 。
柳河城とその城下町の整備は、宗茂が最初に柳河に入封した文禄年間(1592-1596年)から本格的に着手されており、天守閣の建造も計画されていたが、関ヶ原の合戦による改易で中断していた 16 。その後、田中吉政によって城郭修築や掘割網の整備が進められ、宗茂復帰後にはこれらの基盤の上に更なる発展が図られたと考えられる 16 。
治水・農業振興
柳河地方は低湿地帯であり、治水は極めて重要な課題であった。宗茂は治水事業や農業振興に力を入れ、藩の繁栄の基礎を築いたとされる 36。特に、自身の名(宗茂)と妻・誾千代の名(千代)から一字ずつ取ったとされる農業用水路「花宗川」の開削は、彼の治績として名高い 7。立花家による治水・干拓事業は継続的に行われ、広大な干拓地が造成された記録もあり 52、宗茂の時代がその先鞭をつけたと考えられる。
産業振興
宗茂時代の具体的な産業振興策に関する直接的な記録は乏しいものの、後の柳河藩家老・小野春信による三池炭鉱の採掘開始(享保年間) 18 などは、宗茂が再興した藩の安定と、彼が整備した統治基盤があってこそ可能になったと言えるだろう。
家臣団統制と領民との関係
宗茂は家臣に対しては公平かつ慈悲深く接し、その忠誠心は絶大であった 35。浪人時代も多くの家臣が彼に従い、苦楽を共にしたことはその証左である 1。朝鮮出兵の際、部下の小野喜八郎が鎧の袖を失ったのを見て自らの袖を与え、別の部下・小田部新助が新たな袖を献上したという逸話は、主従の強い絆を物語っている 55。
領民に対しても善政を敷いたとされ、柳河の人々から厚い信頼を得ていた 2。関ヶ原後に柳河を去る際には、領民たちが彼の退去を嘆き悲しみ、引き留めようとしたと伝えられる 7。また、瀬田の唐橋を焼き払おうとした味方を、「庶民が難儀する」と制止したという話は、敵将であった徳川家康にも感銘を与えたという 41。これらの逸話は、宗茂が武勇だけでなく、仁徳をも備えた為政者であったことを示している。
藩財政
棚倉藩主時代には、領内の検地を行い税収を確定させ、久慈川の水運整備や玉野堰の管理による生活インフラの確立に努めた記録がある 58。柳河復帰後も、20年間の空白期間を経た藩の財政再建は急務であったはずであり、これらの経験が生かされたと考えられる。家臣への知行配分や城郭整備など、藩の再興には多大な資金が必要であり、その確立には多大な努力を要したであろう 34。
立花宗茂は、武勇のみならず、文芸にも深く通じた「文武両道」の武将であった 1。
茶道では、千利休七哲の一人である細川忠興と親交が深く、互いに茶器を貸借するほどであった 13。豊臣秀吉や徳川家光から茶壺を拝領した記録もあり 61、立花家には現在も多くの茶道具が伝来している 61。
連歌にも長け 34、西国東郡の歌には彼の碧蹄館での活躍を詠んだものがある 43。
能楽・狂言にも通じ、特に狂言の巧者であったとされ 34、立花家には能面や能衣装も残されている 61。
香道や蹴鞠にも明るく、蹴鞠では飛鳥井雅春から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」の免許を授かっている 34。
その他、書道、笛、舞曲、料理、竹製花器制作、仏像制作、弓製作など、多彩な技芸に通じていた 35。
武芸においても、丸目蔵人からタイ捨流剣術の免許皆伝を受け、自ら抜刀術随変流を編み出し、日置流弓術でも皆伝を得るなど、達人の域に達していた 13。
これらの文化的素養は、単なる趣味の域を超え、戦国から江戸初期にかけての武将にとって重要な社交術であり、人間的魅力を高めるものであった。大宰府や博多といった文化の中心地に近い環境で育ち、豊臣大名として京・上方での生活を経験したことが、彼の天性の資質を磨き上げたのであろう 34 。
立花宗茂は、徳川秀忠・家光の二代の将軍に御咄衆(おとはなしゅう)として仕えた 1 。御咄衆とは、将軍の側近として話し相手を務め、助言を行う役職である。宗茂の話術は巧みであったとされ 34 、秀忠からは武士の心得や戦場での振る舞いについて指南する役目を任されるなど、厚い信頼を得ていた 11 。家光もまた、関ヶ原の戦いの経緯について宗茂に意見を求めたり 48 、島原の乱の際には彼の意見を重視するなど、その経験と見識を高く評価していた 7 。
戦乱が終息し、泰平の世へと移行する中で、宗茂のような歴戦の勇将が持つ経験や知識は、新たな時代を担う将軍にとって貴重なものであった。御咄衆としての役割は、宗茂が徳川幕府内で確固たる地位を築き、影響力を保持し続ける上で重要であった。これは、彼が単なる武人ではなく、知性と教養を兼ね備えた人物であったことを示している。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱において、幕府軍が鎮圧に苦戦する中、3代将軍徳川家光は71歳(または72歳)の立花宗茂に出陣を命じた 10 。宗茂は老齢にも関わらずこれに応じ、原城総攻撃に参陣した。
戦場では、黒田隊への一揆勢の夜襲を予知して的中させるなど、その戦術眼は健在であった 13 。また、有馬城攻城戦では自ら先陣を切って城壁を乗り越え、往年の勇姿を見せたと伝えられ、諸大名から「武神再来」と畏敬されたという 1 。乱の鎮圧後、総大将であった松平信綱の指揮に対する批判が起こった際には、宗茂が家光に対して信綱を擁護し、その評価を守ったという逸話も残っている 7 。
島原の乱への参加は、宗茂の生涯最後の戦役となった。老いてなお衰えぬ武勇と的確な判断力、そして幕府への忠誠心を示すものであり、彼の武人としての生涯を締めくくるにふさわしいものであった。
島原の乱の翌年、寛永15年(1638年)に正式に隠居し、家督を養嗣子の立花忠茂(実弟・高橋直次の四男)に譲り、剃髪して立齋と号した 4 。隠居後も将軍家光の相伴衆として遇された 34 。
寛永19年(1642年)11月25日(西暦1643年1月15日)、江戸柳原の藩邸にて76歳(数え年)でその生涯を閉じた 4 。戒名は「大円院殿松隠宗茂大居士」。俗名である「宗茂」が戒名にそのまま用いられたのは、その名があまりにも高名であったため、変えるに変えられなかったという逸話が伝わる 4 。墓所は江戸下谷の広徳寺と柳河の福厳寺にある 35 。
大正4年(1915年)11月10日、従三位を追贈された 6 。
立花宗茂の人物像は、いくつかの際立った特徴によって形成されている。
忠義と義理堅さ(義 - Gi): 宗茂の行動原理の中核を成すものであった。主家大友氏への忠誠、豊臣秀吉への恩義を貫いた関ヶ原での決断 3 、そして後に仕えた徳川家への忠勤ぶりは、一貫して「義」を重んじる姿勢を示している。実父・高橋紹運の「君、君たらずとも、臣、臣たれ」という教え 11 は、彼の生き方に深く影響を与えた。
武勇と戦術眼: 生涯を通じて数々の戦場で武功を挙げ、「生涯無敗」とも称される 13 (ただし「敗北」の定義には解釈の余地がある。関ヶ原の戦いは西軍の敗北であり、宗茂も結果的に改易されている)。彼は兵の数ではなく、統率と士気が勝利の鍵であると考えていた 41 。九州平定戦、朝鮮出兵における碧蹄館の戦いや蔚山城救援、関ヶ原前哨戦の大津城攻略、そして老いてなお活躍した島原の乱など、その戦歴は彼の卓越した軍事的才能を証明している。
人間的魅力と統率力: 温厚篤実で驕ることがなく、功績を誇示することもなかったと評される 35 。家臣や領民に対しては慈悲深く接し、えこひいきをしなかった 35 。その結果、家臣からは絶大な信頼と忠誠を得ており、浪人中も多くの家臣が彼に付き従った 1 。領民からも慕われ、柳河を去る際には領民が別れを惜しんだという 7 。
文化的素養: 武芸百般に通じる一方で、茶道、連歌、能楽、蹴鞠など多彩な文化的活動にも長けた文武両道の人物であった 34 。これは、彼が単なる武人ではなく、洗練された教養人であったことを示しており、徳川将軍家の御咄衆として重用された理由の一つでもある 1 。
不屈の精神と適応力: 関ヶ原の敗戦による改易と浪人生活という最大の危機に直面しながらも、決して希望を捨てず、武芸の鍛錬を続け、品位を保った 13 。そして、新たな主君である徳川家に忠誠を尽くし、見事に大名として、さらには旧領への復帰という前例のない成功を収めた。この強靭な精神力と変化への適応能力は、彼の特筆すべき資質である。
同時代の評価:
豊臣秀吉は宗茂を「九州の逸物」1、「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」4、そして朝鮮出兵での活躍を「日本無双」8 と最大級の賛辞で評価した。この評価は、宗茂の武勇と忠誠心がいかに突出していたかを示している。
加藤清正も蔚山城救援の際に宗茂を「日本第一の勇将」と称えた 11。
徳川家康は、関ヶ原の戦いにおいて宗茂の動向を警戒しつつも、その器量を認めていた 8。瀬田の唐橋を焼かせなかった宗茂の配慮を聞き、「聞きしに勝る細やかな心配りよ」「立花宗茂は、花も実もある武将」と評したという 41。
徳川秀忠は宗茂の人柄と能力に深く感銘を受け、彼を大名に復帰させ、側近として重用した 1。
島津義弘とは、父の仇でありながらも関ヶ原敗走後に互いに助け合い、交誼を結んだとされ、武士の情けを知る人物としての一面も評価されている 7。
これらの同時代人の評価は、宗茂が敵味方を超えて尊敬される武将であったことを裏付けている。彼の「義」を重んじる姿勢と卓越した能力が、戦国の厳しい現実の中でさえ人々の心を捉えたのである。
後世の評価:
江戸時代に編纂された『名将言行録』などでは、その人となりは温純寛厚で、徳がありて驕らず、功ありて誇らず、人を用いるに私心なく、善に従うこと流れるが如しと記され、その用兵は奇正天性に出で、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝ったと称賛されている 35。
近代以降の歴史研究においても、一次史料の分析を通じて、その生涯や功績が再評価されている 73。特に、関ヶ原で敗軍の将となりながら旧領を回復した唯一の大名であるという事実は、彼の特異な運命と能力を象徴するものとして注目される 2。
現代においても、歴史小説や大河ドラマの題材として人気が高く、「最強の戦国武将」の一人としてしばしば名前が挙げられる 10。その波乱万丈の生涯と、義を貫いた生き様が多くの人々を魅了し続けている。
「生涯無敗」という評価については、個々の戦いの勝敗の解釈や、関ヶ原の戦いにおける西軍全体の敗北という事実を考慮すると、文字通りの意味で捉えるのは難しい側面もある。しかし、彼が指揮した個別の戦闘において、寡兵で大軍を破るなど、驚異的な戦術的手腕を発揮し続けたことは確かであり、この評価は彼の卓越した軍事的才能を象徴するものと言える 13 。
立花宗茂ゆかりの品々や史跡は、彼の生涯を今に伝えている。
甲冑・武具:
立花家史料館には、宗茂所用と伝えられる甲冑が複数現存する。「鉄皺革包月輪文最上胴具足」は青年期に、「伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足」は後年に着用したものとされる 62。また、朝鮮出兵時に使用された金箔押桃形兜も有名である 6。最近の研究では、かつて存在が知られていなかった金白檀塗の華やかな壺袖も発見されており、若き日の宗茂の姿を想像させる 78。その他、三日月図軍扇や火縄銃「墨縄」なども伝わっている 42。
書状・文化財:
立花家史料館は国宝1点、重要文化財3点を含む約3万点の歴史資料を所蔵しており 82、中には宗茂関連の文書も含まれる。豊臣秀吉からの判物(重要文化財) 62 や、家臣への知行宛行状 50 などは、当時の彼の立場や統治の一端を伝える貴重な史料である。また、茶道具(呂宋壺、墨吹茶碗、伝千利休作茶杓など) 61 や香道具、能面なども伝来しており 61、彼の文化人としての一面を物語っている。剣 銘長光(重要文化財)は父・紹運から譲られた名刀として知られる 83。
ゆかりの地:
これらの遺品や史跡は、立花宗茂という人物の多面的な姿を現代に伝え、彼の生きた時代を偲ぶ手がかりとなっている。
立花宗茂自身の辞世の句として確定的に伝えられているものは、提供された資料の中では明確に確認できない。資料 39 には高橋紹運の辞世の句「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲井(居)の空に名をとどむべき」が記載されているが、これは宗茂のものではない。資料 92 は立花道雪の辞世の句や遺言に言及しており、宗茂本人のものではない。資料 94 は様々な武将の辞世の句をリストアップしているが、宗茂の名は見当たらない。
立花宗茂は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という激動の時代を、武勇、知略、そして何よりも「義」を重んじる生き方で駆け抜けた稀有な武将であった。二人の勇将、高橋紹運と立花道雪を父に持ち、その薫陶を受けて育った彼は、若くしてその才能を開花させ、九州平定や朝鮮出兵において目覚ましい武功を挙げ、豊臣秀吉から「日本無双」とまで称賛された。
関ヶ原の戦いでは、秀吉への恩義を貫き西軍に与したがために、一度は全てを失い浪人の身となった。しかし、その不屈の精神と、彼の人格や能力を高く評価した徳川秀忠らの尽力により、陸奥棚倉藩主として大名に復帰。さらには旧領柳河への再封という、前例のない「奇跡の復活」を成し遂げた。これは、彼の卓越した能力と人間的魅力、そして時代の転換期における為政者の現実的な判断が交錯した結果と言えるだろう。
柳河藩主としては、治水事業や農業振興に努め、藩政の安定に貢献した。また、武人としてだけでなく、茶道、連歌、能楽などにも通じた文化人としての一面も持ち、徳川将軍家の御咄衆としても重用され、その知見と経験を新しい時代の治政に役立てた。70歳を超えて島原の乱に出陣し、「武神再来」と称されたエピソードは、彼の生涯にわたる武人としての矜持を象徴している。
家臣や領民からは深く敬愛され、その忠誠心と義理堅さは、敵対した者からも一目置かれるほどであった。妻・誾千代との関係は複雑な面もあったが、互いを深く理解し尊重し合っていたことがうかがえる。
立花宗茂の生涯は、戦国武将の勇猛さと、近世大名の統治能力、そして一人の人間としての誠実さや文化的な洗練を兼ね備えた、まさに「花も実もある武将」 41 であったことを示している。彼の生き様は、困難な状況下でも義を貫き、決して諦めない精神の重要性を現代に伝えており、多くの人々を魅了し続ける理由であろう。その名は、戦国史に燦然と輝き、後世に語り継がれるべき日本の英雄の一人として、確固たる地位を占めている。