最終更新日 2025-06-28

竹中重利

「竹中重利」の画像

豊後の礎、府内藩初代藩主・竹中重利の栄光と悲劇

はじめに

「今孔明」と称された天才軍師、竹中半兵衛重治。その輝かしい名は戦国史に燦然と輝く。しかし、その名の影に、もう一人の「竹中」がいたことを知る者は多くない。豊後府内藩の初代藩主となり、現在の大分市の礎を築いた武将、竹中重利である。彼の生涯は、著名な近親者の存在によって、あるいはその後の家の悲劇的な結末によって、歴史の片隅に追いやられがちであった。

本報告書は、竹中重利を単に「半兵衛の縁者」という一面的な評価から解き放ち、彼自身の武将、大名、そして文化人としての実像を、錯綜する史料を丹念に紐解きながら徹底的に描き出すことを目的とする。彼の出自にまつわる謎から説き起こし、豊臣政権下での着実な立身、天下分け目の戦いにおける重大な決断、そして府内藩主としての偉大な統治の功績を明らかにする。同時に、彼が一代で築き上げたものが次代で水泡に帰すという、栄光と悲劇が交錯する物語を追い、戦国から江戸初期という激動の時代を生きた一人の大名の軌跡を克明に記録するものである。

第一章:出自の謎と竹中一族

第一節:錯綜する系譜 — 従弟か、甥か

竹中重利の出自、特に「天才軍師」竹中半兵衛重治との正確な関係については、史料によって記述が異なり、一筋縄ではいかない。江戸幕府が編纂した公式系譜集である『寛政重修諸家譜』によれば、重利の父は竹中重光とされている 1 。重光は半兵衛の父・竹中重元の弟であるため、この記述に従うならば、重利は半兵衛の

従弟 にあたる 1

しかし、これとは異なる系図も存在し、そこでは重利は竹中重元の子である竹中重広(与右衛門)の子、すなわち半兵衛の であると記されている 1 。このように、彼の出自に関する記録には揺れが見られるのである。

さらに、この血縁関係を一層複雑かつ強固なものにしているのが、婚姻関係である。重利は、半兵衛重治の妹(竹中重元の娘)を正室として迎えていた 1 。これにより、彼は血縁上の従弟または甥であると同時に、半兵衛の

義弟 という立場でもあった。

この記録の錯綜と三重の関係性は、竹中一族内における重利の絶妙な立ち位置を象徴している。彼が半兵衛の直系、すなわち竹中本家の人間ではなかったことが、傍流であるがゆえに系譜の記録に混乱を生じさせた一因と考えられる。戦国から江戸初期にかけて、大名家の分家や傍流の系譜が不正確に伝わることは決して珍しいことではなかった。しかし、その一方で半兵衛の妹を娶っているという事実は、彼が単なる遠縁の親族ではなく、一門の中核に近く、深く信頼された人物であったことを何よりも雄弁に物語っている。彼のキャリアは、この「本家ではないが、極めて重要な近親者」という立場を最大限に活用することから始まったと言えよう。


表1:竹中氏 略系図

関係

人物名

備考

祖父世代

竹中重氏

父世代

竹中重元

半兵衛の父

竹中重光

重元の弟。重利の父とする説(『寛政重修諸家譜』)がある

本人世代

竹中重治(半兵衛)

天才軍師として名高い

竹中重矩(久作)

半兵衛の弟

半兵衛の妹。重利の正室となる

竹中重利

本報告書の主題。父は重光、または重元の子・重広とされる

子世代

竹中重門

半兵衛の嫡子

竹中重義

重利の嫡子。府内藩二代藩主

注:重利の父については諸説あるため、ここでは『寛政重修諸家譜』の記述を主としつつ、別説の存在を考慮した構成とした。

第二節:竹中一族の拠点・美濃

竹中氏のルーツは美濃国にあり、半兵衛重治も斎藤氏の家臣として、菩提山城などを拠点にその智謀を天下に知らしめた 4 。重利の武将としてのキャリアもまた、この美濃の地から始まっている。彼は半兵衛の知行地の中から、美濃国長松城と3,000石の所領を与えられていた 1 。これは、彼が竹中一族の有力な一員として、独立した部隊を率いるに足る人物と見なされていたことを示している。

第二章:豊臣政権下での立身

第一節:秀吉の直臣へ

天正7年(1579年)、中国攻めの陣中にて半兵衛重治が病没すると、竹中一族は大きな支柱を失った。この危機に際し、主君である羽柴秀吉は、半兵衛の功績に報いる形でその遺族を庇護下に置いた。この時、重利は秀吉の直臣、特に側近警護の任を担う馬廻衆として召し抱えられた 1 。これは、重利が半兵衛亡き後の竹中一族を支える重要な人材として、秀吉自身に認められたことを意味する。

彼の能力と忠誠心は、その後の活躍によって証明されていく。天正18年(1590年)の小田原征伐においては、単なる馬廻の一員ではなく、部隊を率いる馬廻組頭として参陣している 1 。秀吉の親衛隊とも言うべき部隊で責任ある立場を任されたことは、彼が豊臣政権の中枢近くで着実に信頼を勝ち得ていた証左である。

第二節:大名への道 — 豊後高田一万三千石

秀吉の天下統一事業が進む中、重利はさらなる飛躍を遂げる。文禄3年(1594年)、彼は豊後国国東郡高田(現在の大分県豊後高田市)に1万3,000石の所領を与えられ、大名の列に加わった 1 。これは、彼のキャリアにおける大きな転換点であった。もはや単に「半兵衛の縁者」というだけでなく、重利自身の武将としての能力と、政権を支える官吏としての働きが正当に評価された結果であった。美濃の一城主から、九州の地を治める豊臣大名へと、彼の地位は大きく向上したのである。

第三節:朝鮮出兵と軍目付の重責

大名となった重利には、豊臣政権の一員としてさらなる重責が課せられた。秀吉が大陸への野望を燃やして引き起こした文禄・慶長の役において、重利は二度にわたり海を渡り、従軍した 1

特に慶長の役(1597年)では、彼の重要性が際立つ。彼は、加藤清正や小西行長といった猛将たちが率いる最前線部隊「先手衆」を監督する、6人の軍目付の一人に任命されたのである 1 。軍目付とは、各部隊の戦功を検分し、軍令違反がないかを監視し、その結果を中央の秀吉に報告する極めて重要な役職であった。

その職務の具体的な内容を生々しく伝える史料が、高知大学に残る『黒田長政宛鼻請取状』である 7 。この文書群には、黒田長政の軍勢が討ち取った敵兵の戦功の証である「鼻」の数を確認し、それを証明する重利(当時の通称は源助、諱は隆重)の花押が記された請取状が複数含まれている。例えば、慶長二年九月七日付の文書では「合八拾五者」、同月十三日には「合弐百四拾壱者」といった具体的な数が記されており、彼が前線で冷静に戦果の検分を行っていた様子がうかがえる 7

この軍目付という役割は、多面的な意味を持っていた。第一に、秀吉からの絶大な信頼がなければ任されない職務であったこと。諸大名を監督する立場は、不正を許さない公正さと高い権威を必要とする。第二に、各大名と円滑に意思疎通を図る交渉能力が不可欠であったこと。そして第三に、この任務を通じて、黒田長政をはじめとする九州・西国の諸大名と極めて密接な関係を築く機会を得たことである。この朝鮮の役における人的ネットワーク、とりわけ黒田家との繋がりは、数年後に彼の運命を大きく左右する重要な伏線となったのである。この頃、彼は従五位下伊豆守に叙任されている 1

第三章:天下分け目の決断

第一節:西軍への参加と初期の動向

慶長3年(1598年)の秀吉の死後、豊臣政権は内部対立を深め、天下は徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍に二分される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、豊後高田の大名であった竹中重利は、西軍に与した 1 。これは、秀吉から直接恩顧を受けた大名として、ごく自然な選択であったと言える。

西軍の一員として、重利はただちに軍事行動を開始した。彼の部隊は、大坂の久法寺町橋や、東国からの軍勢を阻む要衝である近江の瀬田橋の警備を担当した 1 。さらに、東軍に与した細川藤孝(幽斎)が籠城する丹後田辺城の攻撃にも、自らの兵を派遣している 1 。これらの動きは、彼が当初は西軍の勝利を信じ、その一翼を担うべく忠実に任務を遂行していたことを示している。

第二節:黒田家との絆 — 東軍への転向

しかし、戦局が流動する中で、重利の運命を決定づける報せが九州から届く。豊前中津城にあって、いち早く家康支持を表明し、九州における東軍の拠点として蜂起した黒田如水(官兵衛)からの誘いであった 1 。重利はこの誘いに応じ、西軍から東軍へと寝返るという重大な決断を下す。

この劇的な転向の背景には、単なる時流を読んだ日和見主義では説明できない、竹中家と黒田家の間に横たわる深く、強固な絆があった。かつて秀吉の両翼を担った竹中半兵衛と黒田官兵衛は、「両兵衛」あるいは「二兵衛」と称され、互いに深く信頼し合う盟友であった 2

その絆を象徴するのが、天正6年(1578年)の有岡城の謀反にまつわる逸話である。主君であった荒木村重が織田信長に反旗を翻した際、説得に向かった官兵衛は逆に捕らえられ、土牢に幽閉された。信長は官兵衛も裏切ったと誤解し、人質として預かっていた官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の処刑を命じた。この絶体絶命の危機に際し、処刑実行の使者となった半兵衛は、信長の命令に背いて密かに松寿丸を自らの領地にかくまい、その命を救ったのである 10 。この半兵衛の義侠心あふれる行動は、黒田家にとって決して忘れることのできない大恩となった。

関ヶ原の戦いにおいて、この数十年前の恩義が、時を超えて重利を救うことになった。九州の西軍勢力を平定しようとする如水にとって、隣国豊後の大名である重利を味方に引き入れることは、戦略上極めて重要であった。そして重利にとって、この誘いに乗ることは、黒田家との歴史的な関係を頼りに、家の存続を図る最善の道であった。彼の決断は、半兵衛が遺した「徳」によって導かれたものと言っても過言ではないだろう。

第三節:九州における如水との連携

東軍への寝返りを決めた重利であったが、その過程は一様ではなかったことを示す逸話も残されている。九州で破竹の勢いで進軍する如水は、高田城の重利にも軍勢を催促した。この時、重利は重病を患っていると称して、すぐには返答をしなかったという 11 。これは、天下の形勢を完全に見極めようとする、彼の慎重な性格の表れかもしれない。しかし、如水が城攻めの姿勢を見せて威嚇すると、驚いた重利は即座に子の重義に兵200を預けて派遣した 11 。このエピソードは、当時の九州における黒田如水の圧倒的な影響力と、その中で生き残りをかけて巧みに立ち回ろうとする重利の姿を浮き彫りにしている。最終的に彼の決断は功を奏し、戦後、所領は安堵されたのである 1

第四章:府内藩初代藩主としての治世 — 大分の礎を築く

第一節:府内二万石への栄転と府内城の大改修

関ヶ原の戦いにおいて、土壇場で東軍に転じた竹中重利の決断は、徳川家康に高く評価された。戦後、彼は所領を安堵されただけでなく、2万石への加増を受け、豊後府内(現在の大分市)の領主として転封された 1 。そして、新たな居城として荷揚城(にあげじょう)を与えられたのである。

この荷揚城は、元は西軍の首魁・石田三成の妹婿であった福原直高が築城に着手したものの、未完成のままとなっていた城であった 13 。重利は新領主として、この城を完成させるだけでなく、徳川の世にふさわしい近世城郭へと大改修することを決意する。徳川家康の許可を得て開始されたこの一大事業は、彼の藩主としての力量を示す最初の仕事となった 15

その規模は壮大であった。伝承によれば、築城の名手であった加藤清正の元から数十人の石工を派遣してもらい、天守に用いる巨大な材木を四国・土佐から運び入れ、そして当代一流の技術を持つ大工や瓦師を大坂や伏見から招聘したという 14 。領民にも協力を命じ、近郊の山や海岸、さらには廃寺の跡などから石垣用の巨石を運ばせた 15 。こうして、慶長7年(1602)頃には、4層の天守閣をはじめ、壮麗な櫓や門がそびえ立つ府内城が完成した 16

第二節:城下町の建設と「京泊」の整備

竹中重利の最大の功績は、城の改築に留まらない。彼は、城郭の建設と並行して、その周囲に広がる城下町の整備に精力的に取り組んだ。旧来の府内の中心地から町人や寺社を計画的に移転させ、武家屋敷、町人地、寺町を整然と区画した 16 。この時に行われた町割りが、現在の

大分市中心市街地の原型 を形成したのである。

さらに重利は、領国の経済的発展にも目を向けた。慶長13年(1608年)、彼は商船の出入りを活発にするため、城下町の北西部に新たな港**「京泊(きょうどまり)」**を設けた 16 。これにより、府内は物資の集散地としての機能を高め、豊後国における政治・経済の中心地としての地位を確立していく。

城を築き、町を割り、港を開く。これら一連の都市計画事業は、戦乱の時代が終わり、安定した統治の時代が到来したことを象徴するものであった。竹中重利が「現在の大分市の発展の基礎を築いた人物」として今日まで高く評価されているのは、まさにこの偉大な功績によるものである 1

第三節:文化人としての一面

武将として、また優れた統治者としての顔を持つ重利であったが、彼にはもう一つの顔があった。彼は、当代随一の茶人として知られた古田織部の教えを受けた弟子の一人でもあった 1 。茶の湯は、当時の武将たちにとって重要な文化的素養であり、精神修養の場でもあった。激動の時代を駆け抜け、新たな領国経営という大事業に取り組む中で、彼が茶の湯の世界に精神的な深みと安らぎを見出していたことは想像に難くない。この文化的な素養は、彼の人物像にさらなる奥行きを与えている。

第五章:終焉と竹中家の末路

第一節:重利の死

豊後府内藩の初代藩主として、城と城下町の整備に心血を注ぎ、領国経営の礎を築いた竹中重利。しかし、彼がその成果を長く見届けることは叶わなかった。元和元年(1615年)10月16日、重利は54年の生涯を閉じた 1 。彼の墓は、大分市荷揚町にある浄安寺に築かれ、現在もその地で静かに眠っている 1

父・重利の死後、家督と2万石の領地は、嫡男である竹中重義が継承した 1 。府内藩竹中家の治世は、二代目に引き継がれたのである。

第二節:二代目・重義の栄達と暴走 — 長崎奉行就任

二代藩主となった竹中重義のキャリアは、輝かしい栄達から始まった。寛永6年(1629年)、彼は幕府の老中・土井利勝の強力な推挙により、長崎奉行に任命されたのである 22 。これは極めて異例の抜擢であった。長崎奉行は、幕府の対外貿易とキリシタン禁制を司る重要な役職であったが、通常は1,000石から2,000石程度の旗本が任じられるのが慣例であった 22 。2万石の大名がこの職に就くことは、前代未聞と言ってもよかった。この人事からは、父・重利の功績と徳川幕府への忠誠が高く評価され、その息子である重義にも大きな期待が寄せられていたことがうかがえる。

しかし、この栄達が竹中家の悲劇の序章となる。長崎奉行として強大な権力を手にした重義は、その権威を暴走させていく。特に、キリシタンに対する弾圧は凄惨を極めた。彼は、信徒を逆さにして穴に吊るす「穴吊り」といった新たな拷問方法を考案し、多くの信徒を殉教や棄教に追い込んだ 22 。さらに、隣国の肥前島原藩主・松倉重政の勧めを受け、雲仙地獄の熱湯を利用した拷問を開始するなど、その残虐さは世に知られるところとなった 26

第三節:密貿易と家の断絶 — 一代の栄華、水泡に帰す

重義の暴走は、キリシタン弾圧に留まらなかった。寛永10年(1633年)、彼は不正行為を告発され、突如として長崎奉行を罷免される 23

その告発内容については、複数の説が伝えられている。一つは、堺の商人・平野屋三郎右衛門が、重義に自らの妾を奪われたことを恨み、その報復として彼の不正の数々を幕府に訴え出たという説である(『通航一覧』) 26 。もう一つは、より深刻な内容で、長崎代官であった末次平蔵らが、重義が幕府の発行する朱印状を偽造して東南アジアとの

密貿易 に手を染め、私腹を肥やしていると告発したという説である(『バタヴィヤ城日誌』) 22

理由が何であれ、幕府による厳しい取り調べの結果、重義の不正は事実と断じられた。そして寛永11年(1634年)2月22日、竹中重義は江戸浅草の海禅寺において、長男の源三郎もろとも 切腹 を命じられた 22

この一事により、父・重利が関ヶ原の動乱を乗り越え、一代で築き上げた豊後府内藩竹中家は、藩主就任からわずか19年、二代にして 改易・断絶 という最も厳しい処分を受け、歴史の舞台から姿を消した。重利の創造の物語は、息子・重義の破壊の物語によって、あまりにもあっけない幕切れを迎えたのである。この鮮やかな対比は、単なる親子の資質の違いに留まらない。それは、戦国の実力主義の世が終わり、幕府の法と秩序を絶対とする新たな時代への移行期における、大名家存続の困難さを象徴している。重義への異例の抜擢は幕府からの期待であると同時に、より厳格な監視下に置かれることを意味した。彼の不行跡は、父が築いた功績という「貯金」を食い潰し、徳川の平和(パックス・トクガワーナ)の厳格なルールを理解できなかった代償として、家そのものを崩壊させたのであった。

結論

竹中重利は、著名な従兄・竹中半兵衛の名声の陰に隠れがちな存在でありながら、決してその七光りだけに頼った人物ではなかった。彼は自らの才覚と、特に竹中家と黒田家との間に結ばれた強固な絆を活かして、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を巧みに乗り切り、大名へと駆け上がった有能な武将であった。

彼の最大の功績は、疑いなく、府内城とその城下町を整備し、現代に至る大分市の都市的・経済的基盤を築いたことにある。その治世は、戦乱の時代から安定した統治の時代へと社会が移行する様を体現するものであり、彼は優れた都市計画家、行政官であった。

しかし、彼が一代で築き上げた栄華が、息子・重義の代で不正と暴走の末に完全に失われたという事実は、歴史の非情さを我々に突きつける。この悲劇的な結末は、徳川幕府の体制が確立していく初期段階において、大名家の存続がいかに脆弱な基盤の上にあったかを物語っている。豊臣恩顧の大名が幕藩体制下で生き残ることの困難さ、そして個人の過ちが即座に家の断絶に繋がる時代の厳しさを示す典型例と言えよう。

竹中重利の生涯は、戦国武将としての成功譚であると同時に、その成功がいかに儚いものであったかを示す、痛切な教訓でもある。彼の物語は、創造と破壊、栄光と悲劇という両極端を内包することで、歴史の複雑さと深遠さを我々に教えてくれるのである。

引用文献

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  13. 船旅の楽しさがギュッと!さんふらわあの弾丸フェリー® https://www.ferry-sunflower.co.jp/lp/dangan-ferry/
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  15. 大分城址公園整備・活用基本計画(PDF:48331KB) https://www.city.oita.oita.jp/o170/machizukuri/toshi/documents/kihonkeikaku.pdf
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