戦国時代。それは、武力による領土の獲得と支配が武士にとって至上の価値とされた、苛烈な実力主義の時代であった。この時代の人物評価は、しばしばその軍事的な成否によって決定づけられる。そのような価値観の中で、美作国(現在の岡山県北部)の一豪族、竹内久盛(たけのうち ひさもり)は、歴史の表舞台において「敗者」としてその武将としてのキャリアを終えた人物である。当代随一の梟雄と名高い宇喜多直家との戦いに敗れ、拠って立つ城を失ったのである。
しかし、竹内久盛の名は、単なる一地方の敗将として歴史の闇に埋もれることはなかった。むしろ、その名は「日本最古の柔術流派の創始者」として、敗北の事実を凌駕するほどの不滅の輝きを放ち、今日に至るまで語り継がれている。彼が創始した竹内流は、その後の数多の柔術流派の源流となり、日本の武道史に計り知れない影響を与えた。
一人の武将としての「敗北」と、一人の武術家としての「創始」。この相容れない二つの貌を持つ竹内久盛とは、一体いかなる人物であったのか。本報告書は、この「敗将」と「開祖」という二面性を深く掘り下げ、現存する史料や伝承を丹念に紐解くことで、その生涯と実像に迫るものである。そして、彼の敗北がいかにして不滅の武術文化の創造へと昇華されたのか、その逆説的とも言える歴史の力学を解明することを目的とする。
竹内久盛という人物を理解するためには、まず彼がどのような血脈を持ち、いかなる時代と環境の中に身を置いていたかを知る必要がある。彼の背景には、京の公家としての権威と、美作の在地領主としての現実的な基盤という、二つの異なる要素が交錯していた。
竹内家の伝承によれば、その家系は清和天皇の第六皇子・貞純親王の子、源経基を遠祖とする清和源氏の血を引くとされる 1 。代々天皇に仕える京の公家の家筋であり、武門の誉れ高い源氏の血脈と、都の文化的権威を兼ね備えた家柄であった 1 。久盛自身も、文亀三年(1503年)に京都の竹内家の嫡流として生を受けたと伝えられている 1 。
しかし、彼が生まれた時代は、応仁・文明の乱(1467年-1477年)以降、幕府の権威が失墜し、日本全土が戦乱に明け暮れる下剋上の世であった。その動乱の波は京の都にも及び、多くの公家や文化人が戦火を逃れて地方へと下向した。竹内家もその例外ではなく、永正年間(1518年頃)、久盛は父・幸治(文献によっては幸春とも 4 )と共に、あるいは自ら新天地を求め、美作国へと移り住んだとされる 1 。この「都落ち」は、久盛の人生の出発点となると同時に、彼に京の貴種としての自負と、地方の現実を生き抜く武士としての覚悟を植え付けたと考えられる。
久盛が新たな本拠地として選んだ美作国久米北条郡垪和郷(現在の岡山県久米郡美咲町一帯)は、古代より軍事に関わりの深い土地であった 6 。この地は、古くから在地領主である垪和氏が支配の根を張っていた 7 。垪和氏は、鎌倉時代には足利氏の荘務代行者としてこの地を治め、室町時代には幕府の奉公衆を務めるなど、由緒ある家柄であった 7 。
久盛はこの垪和氏の一族として迎え入れられた。津山藩の官撰史書である『作陽誌』などの記録によれば、久盛は垪和郷の鶴田城主であった垪和為長の弟・杉山備中守為就の子、あるいは養子であったとされ、垪和・杉山両氏とは極めて緊密な同族関係にあったことが示唆されている 5 。つまり、久盛の美作における権力基盤は、彼個人の力量のみならず、垪和氏を中心とする在地領主連合、いわば「垪和一党」とでも言うべき強力なネットワークに支えられていたのである。彼が後に一ノ瀬城主となり、一万三千石という所領を得るに至った背景には、この強固な地縁・血縁関係が存在したことは疑いない 8 。
久盛が生きた戦国時代の美作国は、特定の強力な大名が存在しない「力の真空地帯」であり、周辺の大国による絶え間ない侵攻と干渉に晒されていた。東の播磨国からは赤松氏、北の出雲国からは尼子氏、西の安芸国からは毛利氏、そして南の備前国からは浦上氏といった大勢力が、美作の支配権を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げていたのである 12 。
このような状況下で、垪和氏を含む美作の国人衆(在地領主)は、生き残りをかけて離合集散を繰り返すことを余儀なくされた 15 。ある時は尼子氏に属し、またある時は毛利氏や浦上氏に従うといった具合に、常に大勢力の動向を見極めながら、危うい均衡の上にかろうじて自らの所領を維持していた。
天正年間(1573年-1592年)に入ると、この勢力図に決定的な変化が訪れる。備前の浦上宗景の家臣であった宇喜多直家が、謀略と実力をもって急速に台頭し、主家を凌駕する勢いを見せ始めたのである。直家は備前を平定すると、次なる目標として美作の統一に乗り出し、美作の国人衆は宇喜多氏に従うか、あるいは毛利氏と結んで抵抗するかの二者択一を迫られることになった 16 。竹内久盛の武将としての人生は、まさにこの美作を巡る最終決戦の渦中で、そのクライマックスと終焉を迎えることになるのである。
美作に根を下ろした竹内久盛は、垪和一族の有力武将として頭角を現し、一城の主となる。しかし、その栄光は、戦国乱世の荒波、とりわけ梟雄・宇喜多直家の野望の前に、儚くも潰える運命にあった。この章では、武将・竹内久盛の栄光と挫折、そしてその敗北がもたらした重大な決断を追う。
伝承によれば、久盛は齢二十を迎えた大永二年(1522年)頃、一ノ瀬城の城主となり、一万三千石の所領を支配したとされる 8 。一ノ瀬城は、現在の岡山県久米郡美咲町栃原及び西垪和にまたがる、標高約240メートルの山頂に築かれた山城であった 2 。その遺構は現在も確認でき、複数の曲輪、堀切、そして部分的な石垣が、往時の姿を偲ばせている 2 。この城は、垪和郷の谷間を見下ろす戦略的要地にあり、久盛がこの地域一帯に武威を振るう拠点であったことがうかがえる。久盛はここで城主として、一族郎党を率い、日夜武芸の鍛錬に励んでいた 1 。
平穏は長くは続かなかった。天正年間に入り、備前から美作へと勢力を拡大する宇喜多直家との対立が避けられなくなった。当時、美作の国人衆の多くは、西の毛利氏と東の新興勢力・宇喜多氏との間で揺れ動いていた。久盛率いる垪和一党は、毛利方として宇喜多氏に抵抗する道を選んだ 19 。
そして天正八年(1580年)5月、ついに宇喜多直家は美作平定の総仕上げとして、大軍を一ノ瀬城へと差し向けた 11 。この時、久盛はすでに78歳の高齢であったが、長男の竹内久治が城代として采配を振るい、籠城戦を展開したと伝わる 11 。しかし、頼みとしていた毛利氏からの援軍は現れず、衆寡敵せず、一ノ瀬城は瞬く間に炎に包まれ落城した 2 。
この戦いは、宇喜多直家の周到な戦略の一環であった。直家は、美作の有力国人であった後藤勝基らを婚姻政策や謀略によって次々と屈服させており、最後まで抵抗を続ける垪和一党の拠点を叩くことは、美作完全平定のための最後の総仕上げだったのである 24 。
城を失った老将・久盛のその後の行動は、戦国武将の典型的な末路とは一線を画すものであった。彼は自刃して武士としての名誉を守る道も、勝者である宇喜多氏に臣従して家名を存続させる道も選ばなかった。落城後、一時的に播州へと逃れた久盛は、やがて故郷の美作へと戻り、武士の身分を捨てて土着帰農するという、異例の決断を下したのである 8 。
この決断の背景には、78歳という高齢で全てを失った老将の、深い絶望と諦念があったのかもしれない。しかし、それは同時に、新たな生き方を模索する強い意志の表れでもあった。土地と主従関係に縛られる武士としての生き方と決別し、一個の人間として、自らの技芸によって立つ道を選んだのである。
落城から3年後、久盛は一族の本拠地であった和田村石丸(現在の岡山市北区建部町和田南)で、息子たちと再会を果たす 11 。この時、彼は自らが長年の鍛錬の末に編み出した「捕手腰廻小具足」の技を、もはや戦場で武功を立てるための術としてではなく、一族が生き抜くための「家芸」として息子たちに託した 11 。
さらに久盛は、「子々孫々に至るまで、二度と武家に仕官することのないように」という家憲を遺したと伝えられている 1 。これは、権力闘争の無常さと、大名に仕えることの危うさを、身をもって体験した久盛ならではの遺訓であった。領地や身分といった外的要因に依存するのではなく、己の内に秘めた「技」という不変の資産によって生きていく。この敗北から生まれた思想こそが、竹内流が単なる一地方の武術に終わらず、日本を代表する武道流派へと発展する礎となったのである。武将としての「死」は、武術家としての「生」の始まりであった。
一ノ瀬城の落城という武将としての敗北は、皮肉にも竹内久盛を不滅の武術家へと転生させる契機となった。彼が創始した竹内流は、単なる護身術ではなく、戦国乱世の過酷な現実から生まれた、極めて実践的な総合武術であった。その創始の物語から技法の詳細に至るまで、竹内流の本質に迫る。
竹内流の創始譚は、神秘的な色彩を帯びて語り継がれている。それは、久盛が一ノ瀬城主となる以前の天文元年(1532年)6月24日の出来事とされる 1 。武芸の道に深く通じながらも、なお自らの技に飽き足らなかった久盛は、垪和郷の三ノ宮神社(現在の岡山県美咲町)に参籠し、篤く信仰する愛宕神に祈願を込めた 1 。
伝書『竹内系書古語伝』によれば、久盛は六日六夜にわたり断食の荒行に臨み、立っては木剣を振るい、座しては瞑想に耽ったという 1 。満願の日、心身ともに疲労困憊し、木剣を枕にうたた寝をしていると、忽然として白髪の山伏が現れた。その山伏こそ愛宕神の化身であり、久盛に武術の神髄を授けたとされる 1 。
山伏は久盛が持っていた二尺四寸の木剣を手に取ると、「長きに益なし」と言って一尺二寸(約36cm)に折り、「これを帯せば小具足なり」と告げ、短い刀を用いた25ヶ条の組討術「腰廻(こしのまわり)」を教えた。さらに、葛の蔓で縄を作り、敵を捕縛する5ヶ条の「捕手(とりて)」の術を授けたと伝えられている 30 。この種の創始神話は、流派の権威を高めるための象徴的な物語であるが、その内容は竹内流の技術的核(短い刀による近接戦闘と捕縛術)を的確に示している。
神話的な創始譚とは裏腹に、竹内流の技術体系は戦場のリアリズムに貫かれている。その中核をなす「捕手腰廻小具足」は、甲冑を着用した武士同士が戦場で組み合った際の戦闘術、すなわち「鎧組討」を源流としている 33 。
当時の合戦では、槍や太刀といった長い武器が主役であったが、ひとたび敵と組み合えば、それらの武器は役に立たない。竹内流は、まさにその状況、刀槍が交わされた後の「最終局面」に特化した武術であった。その最大の特徴は、「小具足」、すなわち一尺二寸の短い脇差を主要な武器とすることにある 30 。この短い刀を抜き放ち、鎧の防御が手薄な脇の下や首元、手足の関節といった急所を的確に攻める。あるいは、相手の武器を捌き、体勢を崩し、投げ、関節を極めて無力化する。これらの技法は、太刀では対応不可能な至近距離、すなわち「咫尺(しせき)の間」での生存をかけた、極めて合理的かつ実践的な技術体系であった 32 。
竹内流は、小具足の技法だけにとどまらない。戦場で起こりうるあらゆる状況を想定した、包括的な「総合武術」であった 33 。その術技は多岐にわたり、それぞれが有機的に関連し合っている。
これらの多様な技術は、一個の武士が戦場で生き抜くための、まさに「生存の百科事典」とも言うべきものであった。以下の表は、その多岐にわたる術技体系をまとめたものである。
術技分類 |
主要武器・技法 |
特徴と目的 |
捕手腰廻小具足 |
一尺二寸の小刀(脇差) |
鎧を着用した敵との至近距離での組討。鎧の隙間を突き、関節を制して無力化または討ち取る。流儀の中核。 |
羽手(はで) |
徒手空拳(拳、手刀) |
小具足を失った際の素手での攻防術。当身、投げ、関節技を駆使する。小具足の応用発展形。 |
捕縄術(とりなわじゅつ) |
紫色の縄 |
敵を生け捕りにし、拘束するための技術。小具足や羽手で制圧した後の仕上げとして用いる。 |
棒術・杖術 |
六尺棒、三尺棒など |
間合いを取って敵を打突、制圧する技術。対刀剣を想定した技法が多い。 |
剣術・居合 |
太刀、刀 |
太刀を用いた立合の剣術、及び不意の襲撃に対応するための抜刀術。 |
殺活法(さっかつほう) |
当身、蘇生術 |
人体の急所を攻めて絶命させる「殺法」と、気絶した味方を蘇生させる「活法」。表裏一体の秘伝。 |
竹内久盛が創始した武術の種子は、彼一代で終わることなく、子孫の手によって見事に花開き、やがて日本武道史に冠たる大樹へと成長していく。その発展の原動力となったのは、久盛の敗北から生まれた特異な家憲と、それに伴う流儀の民衆化であった。
一ノ瀬城落城後、帰農した久盛は、自らの武術を二人の息子、長男の久治(ひさのぶ)と次男の久勝(ひさかつ)に託した 8 。長男・久治は落城の際に城代として奮戦したとされ、その系統は後に「竹内宗家」と呼ばれる流れの源となった 23 。
一方、流儀を飛躍的に発展させたのは、次男の久勝であった。彼は父の敗北を目の当たりにした経験を原動力に、二十三歳で諸国武者修行の旅に出る 23 。各地の武芸者と真剣勝負を重ねる中で、父の技をさらに磨き上げ、「必勝五ヶ条」や、命がけの勝負から編み出した「八ヶ条之事」といった新たな技法体系を確立した 23 。久勝の名声は天下に轟き、ついには後水尾天皇の天覧に浴する栄誉を得て、「日下捕手開山(ひのしたとりてかいさん)」、すなわち「天下一の捕手術の使い手」という最高の称号を賜った 1 。
さらに、久勝の子である三代目・久吉(ひさよし)もまた武者修行によって流儀を完成の域に高め、霊元天皇から再び「日下捕手開山」の称号と、宗家が代々「藤一郎」を襲名する御綸旨を賜った 1 。こうして、久盛に始まる竹内流は、子・孫の三代にわたる研鑽によって、技術的にも社会的権威の面でも、揺るぎない地位を築き上げたのである。
竹内流が他の多くの武術流派と一線を画し、「源流」と称されるほどの広がりを見せた最大の要因は、久盛が遺した「武家奉公止め」という家憲にある 1 。これは、子孫が特定の藩に仕官することを禁じたもので、戦国の世を生き抜き、その無常さを痛感した久盛ならではの遺訓であった。
この家憲のため、竹内家は特定の藩の「御留流(おとめりゅう)」として閉鎖的に技術を伝える道を選ばず、在野の武術家として道場経営や出稽古によって生計を立てることを余儀なくされた 40 。その結果、竹内流の門戸は武士階級だけでなく、広く百姓や町人にも開かれることになった 1 。他国の武芸者が美作国で安易に棒術の腕前を披露すると、竹内流を学んだ百姓に返り討ちに遭うということから、「作州で棒を振るな」という諺が生まれたほど、その技術は民衆の間に深く浸透した 1 。この開放性こそが、竹内流の技術が全国に拡散する土壌を育んだのである。
史料でその存在を確認できる最古の柔術流派として 34 、竹内流は後世の日本の武術に絶大な影響を与えた。竹内流の合理的で実践的な技法、特に鎧組討を源流とする近接戦闘の理論は、多くの武術家にとって格好の範本となった。
記録によれば、双水執流、高木流、荒木流、不遷流、呑敵流など、枚挙にいとまがないほどの柔術流派が竹内流から派生したか、あるいはその強い影響下で成立している 3 。江戸時代には、その実用性が高く評価され、犯罪者を捕縛する与力や同心といった捕方役人たちの間でも学ばれた 48 。さらに、近代に入ってもその影響は続き、自由民権運動の指導者である板垣退助が竹内流の分派である呑敵流を学んでいたことは、その精神性が時代を超えて求められていたことを示している 3 。
武士としての道を捨て、武術の道に生きた竹内久盛は、晩年を久米郡の稲荷山城主であった原田氏の一族に養われ、文禄四年(1595年)に93歳で没したと伝えられる 3 。しかし、その没年には異説も多く、墓所と称される場所も岡山県美咲町新城の「ハガンさま」と呼ばれる石塚をはじめ複数存在し、特定には至っていない 2 。
確かなことは、彼の遺した武術と精神が、子孫と多くの門人たちの手によって大切に守り継がれ、今日に至っているという事実である。久盛が神伝を得たとされる垪和郷三ノ宮神社や、一ノ瀬城跡、そして竹内流宗家本部のある岡山市北区建部町の一帯は、流派ゆかりの史跡として今なお多くの武道愛好家が訪れる聖地となっている 19 。
久盛の敗北は、彼から領地と武士としての地位を奪った。しかし、その喪失があったからこそ、彼の子孫は特定の権力に縛られることなく、純粋に技と精神を追求する「道」を歩むことができた。三代目・久吉が儒教の徳目である「智・仁・勇」を説く『三徳抄』や、「仁・義・礼・智・信」からなる『五常之徳』を流儀の精神的支柱として導入したことは、その象徴である 3 。これは、武術の目的が、単に敵を殺傷し制圧する「術」から、人間性を高めるための「道」へと昇華したことを意味する。戦国の実戦術として生まれた竹内流が、泰平の世である江戸時代、そして近代以降もその命脈を保ち得たのは、この思想的深化があったからに他ならない。久盛の敗北が、結果として子孫にこの普遍的な「道」を追求する道を開いたのである。
戦国時代の美作国人・竹内久盛の生涯は、一見すると敗北の物語である。彼は群雄割拠の乱世を武将として生き、最終的には時代の覇者たる宇喜多直家の前に屈し、城と領地という武士の全てを失った。戦国時代の価値観に照らせば、彼の人生は「失敗」に終わったと評価されるかもしれない。
しかし、本報告書で詳述してきたように、その評価は一面的に過ぎる。久盛の真の価値は、武将としてのキャリアの終焉から始まる。彼の「敗北」は、単なる失脚ではなく、一つの偉大な文化を創造するための、逆説的でありながら歴史的必然性を帯びた転換点であった。
第一に、久盛の敗北は、竹内流を特定の権力から解放し、普遍的な武術へと昇華させる契機となった。「武家奉公止め」という家憲は、敗北の苦渋から生まれた決断であったが、結果として流儀の門戸を武士以外の民衆にも開放し、その技術と精神が全国へと伝播する礎を築いた。もし久盛が戦に勝ち続け、一国の大名となっていたならば、竹内流は一藩の御留流として秘匿され、歴史の表舞台に現れることなく終わっていた可能性さえある。
第二に、久盛が創始した「捕手腰廻小具足」は、戦場のリアリズムから生まれた合理的な技術体系であった。それは、甲冑を着用した敵との至近距離戦闘という、当時の武士が直面した最も過酷な状況に対応するための、生存の知恵の結晶であった。この実践性が、後の多くの柔術流派にとって揺るぎない手本となり、竹内流を「柔術の源流」たらしめたのである。
第三に、久盛の生涯は、戦国的な「術」の時代から、近世的な「道」の時代への移行を体現している。彼自身は戦場の「術」を追求した武人であったが、彼が武士としての生き方を放棄したことで、彼の子孫たちは技の練磨を通して人格の完成を目指す「道」の探求へと向かうことができた。三代目・久吉による儒教的徳目の導入は、竹内流が単なる戦闘技術から、心身を鍛える教育体系へと進化を遂げたことを示している。
総じて、竹内久盛は、武将としての「敗北」を、武術の「創始」と「伝承」という文化的な「勝利」へと転換させた、稀有な人物であった。彼の人生は、一つの価値観が崩壊し、新たな価値観が生まれる時代の過渡期において、人間がいかにして敗北の中から不滅の価値を創造しうるかを示す、力強い証左と言えるだろう。竹内久盛は、敗戦の将にあらず。彼は、敗北を乗り越え、後世に続く「道」を切り拓いた、真の開祖なのである。