竹若常房は博多織の革新者で、その子重利(伊右衛門)と共に秀吉や黒田長政に献上し、博多織を「献上博多織」として確立。彼らは激動の時代を技術と戦略で生き抜いた職人商人。
日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、博多の地で活動したとされる一人の織物師、竹若常房。彼とその一族に関する情報は、極めて断片的である。ごく限られた史料によれば、竹若家は常房から重利へと代々続く織物師の家系であり、子の重利は豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して謁見し、「天下泰平」と刻まれた刀の下げ緒を献上したと伝えられている 1 。この逸話は、竹若家が当時の最高権力者と接点を持つほどの技術と地位を誇っていたことを示唆しており、歴史的探究心を強く刺激する。
しかしながら、この「常房」と「重利」という名は、博多の歴史、とりわけ博多織の成立と発展を語る上で中心的な役割を果たしたとされる人物群の記録の中には、容易に見出すことができない。博多織の歴史を紐解くと、その技術革新の担い手として浮上するのは「竹若藤兵衛」とその子「伊右衛門」という、別の名を持つ父子である 2 。この人名の不一致は、竹若常房という人物の実像に迫る上で避けては通れない、最大の謎と言える。
本報告書は、この謎の解明を中核的な課題として設定する。直接的な史料が極めて乏しいという制約を踏まえ、本報告書では竹若常房という「個人」を、彼が属した「一族」の活動、彼らが手掛けた「博多織」という産業の革新、そして彼らが生きた「博多」という都市の歴史という、三重の同心円的な文脈の中に位置づけるアプローチを採用する。すなわち、断片的な記録を、激動の時代背景と産業史の中に丹念に配置し直すことで、これまで不明瞭であった竹若常房とその一族の輪郭を歴史の中に浮かび上がらせ、その功績と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
竹若一族というミクロな存在を理解するためには、まず彼らが生きた16世紀後半の博多という都市が置かれていたマクロな環境を把握することが不可欠である。当時の博多は、類稀なる繁栄と、幾度とない破壊が繰り返される、光と影の交錯する都市であった。
戦国時代の博多は、地理的優位性を背景に、日明貿易や日朝貿易における日本側の拠点として、比類なき繁栄を謳歌していた。大陸からもたらされる絹織物、陶磁器、薬品、書籍といった先進的な文物は、博多を通じて日本各地へともたらされ、この町に莫大な富を蓄積させた。しかし、その富は同時に、周辺の戦国大名たちの垂涎の的でもあった。
博多の支配権を巡っては、周防の雄・大内氏、肥前の少弐氏、そして豊後の大友氏といった有力大名が、激しい勢力争いを繰り広げた 4 。支配者が変わるたびに、あるいはその支配が揺らぐたびに、博多の町は戦火に晒され、その市街は幾度となく灰燼に帰した。特に、天正年間における島津氏の九州北部への侵攻は、博多に壊滅的な打撃を与え、その都市機能は一時的に麻痺状態に陥ったとされる 6 。
このような繁栄と破壊の絶え間ない繰り返しは、博多の商人たちに特有の気質を育んだ。彼らは、富を築くための鋭い商才と国際感覚を持つと同時に、いつ全てを失うか分からないという緊張感の中で、強靭な精神力と危機管理能力を培ったのである。竹若一族のような専門技術を持つ職人商人にとっても、この不安定な環境は、自らの技術の喪失という深刻なリスクと表裏一体であった。しかし、見方を変えれば、支配者が交代するたびに、自らの卓越した技術を新たな権力者に披露し、庇護を取り付けることで家業の安泰を図るという、新たな機会が生まれる場でもあった。彼らの生産活動は、単なる経済活動に留まらず、激動の時代を生き抜くための高度に戦略的な営みであったと言えよう。
度重なる戦乱にもかかわらず、博多がその活力を失わなかった背景には、商人たちによる強固な自治組織の存在があった。当時の博多は、堺と並び称される日本有数の自由都市であり、その運営は「12人の年行司」と呼ばれる有力豪商たちの合議によって担われていた 5 。彼らは町の行政や警察権を掌握し、外部の権力からの干渉を巧みに排除しながら、商人本位の都市運営を実現していた。
この商人共同体の頂点に君臨したのが、「博多三傑」と称される神屋宗湛、島井宗室、大賀宗九といった豪商たちである 8 。彼らは、貿易や金融業で巨万の富を築いただけではない。千利休らとも交流のあった一流の茶人として文化的な影響力を持ち、時には織田信長や豊臣秀吉といった天下人とも直接渡り合うほどの政治力をも兼ね備えていた 10 。彼らの存在は、博多商人の社会的地位の高さを象徴している。
竹若一族は、こうした豪商たちが形成する強力な商人社会の一員として、その活動を展開していたと考えられる。彼らは決して孤立した職人ではなく、年行司を中心とする自治組織の庇護を受け、また神屋宗湛のような大商人の広範なネットワークを通じて、生産に必要な原材料を確保し、製品の販路を開拓し、そして政治的な保護を得ていた可能性が極めて高い。竹若一族が後に成し遂げる技術革新とその成功は、この博多商人共同体という強固な社会的基盤なしには考えられないものであった。
島津氏の侵攻によって焦土と化していた博多に、決定的な転機が訪れる。天正15年(1587年)、島津氏を降伏させて九州を平定した豊臣秀吉が、博多の復興を直接命じたのである。石田三成らを奉行とし、神屋宗湛や島井宗室といった博多商人を実務の責任者に任命して行われたこの大規模な都市再建事業は、秀吉の官職にちなんで「太閤町割」と呼ばれる 6 。
秀吉が博多の復興を急いだ背景には、明確な軍事戦略があった。すなわち、来るべき朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、博多を大陸への兵站基地として活用する狙いがあったのである 8 。実際に、博多は肥前名護屋城への物資供給拠点として、出兵に際して極めて重要な役割を担うことになった。
この「太閤町割」とそれに続く朝鮮出兵は、竹若一族のような博多の職人商人にとって、千載一遇の好機であった。都市の再建は、建築資材から生活用品に至るまで、あらゆる分野で新たな需要を爆発的に生み出した。また、兵站基地として全国から武士や商人が集まり、町は空前の活況を呈した。そして何よりも重要だったのは、当代随一の権力者である秀吉自身が博多に深く関与し、滞在したという事実である。これにより、竹若重利(あるいは伊右衛門)のような一介の職人が、博多を代表する優れた技術者として秀吉に謁見し、自らの製品を直接献上するという、平時では考えられない機会が生まれた。この出来事は、単なる名誉に留まらず、一族の社会的地位を飛躍的に高め、その後の発展の礎を築く絶好の機会となったのである。
竹若常房とその一族の歴史的意義を理解する上で、彼らの核となるアイデンティティ、すなわち博多織の発展における功績を避けて通ることはできない。彼らは単なる熟練の職人ではなく、博多織の歴史における重要な転換点を創出した「革新者」であった。
博多織の歴史は、遠く鎌倉時代にまで遡る。承天寺の開山・聖一国師とともに宋に渡った博多商人・満田弥三右衛門が、現地で織物の技法を習得し、帰国後にその技術を伝えたのが起源とされる 3 。しかし、その後、博多は戦乱の時代に突入し、この初期の博多織の技術は、一時期衰退したか、あるいは大きな発展を見ないままに留まっていたと考えられる。
この停滞を打破し、博多織を新たなステージへと導いたのが、安土桃山時代に再び大陸へと渡った一人の男、満田彦三郎であった。彼は、奇しくも博多織の祖・弥三右衛門の子孫であり、明代の中国でより高度な織物技術、特に厚地の紋織物の製法を学び、日本へと持ち帰った 2 。彦三郎の帰国は、博多の織物業界にとって、まさに「第二の夜明け」を告げる出来事であった。
帰国した満田彦三郎は、単独でその技術を事業化したわけではなかった。彼は、当時すでに博多で「組紐師」として名高かった竹若伊右衛門、そしてその父である藤兵衛と協力関係を結んだ 2 。この協業こそが、博多織の歴史における決定的な瞬間であった。
彦三郎がもたらした明の新しい知識(経糸を密にして太い緯糸を強く打ち込むことで文様を浮き出させる技法)と、竹若親子が長年培ってきた在来の高度な製織技術が融合した結果、それまでの日本の織物には見られなかった、全く新しいタイプの絹織物が誕生した。それは、経糸の密度が高いために非常に生地が厚く丈夫で、なおかつ浮線紋や柳条といった精緻な模様がくっきりと織り出された、画期的な織物であった 3 。この新しい織物は、博多の地名にちなんで「覇家台(はかた)織」と名付けられ、現代にまで続く博多織の直接的な原型となったのである 3 。
この偉大な功績により、竹若藤兵衛・伊右衛門親子は、博多織の「中興の祖」として、後世にその名を残すこととなる 2 。彼らの功績の本質は、単に熟練した職人であったという点に留まらない。それは、外部から持ち込まれた新しい知識(彦三郎)を積極的に受け入れ、自らが持つ在来の技術(竹若親子)と見事に融合させ、市場に全く新しい価値を持つ製品を創出した「技術革新者」であり「共同開発者」であった点にある。このプロセスは、現代の産業界で注目されるオープンイノベーションの先駆的な事例としても評価でき、彼らの先見性と柔軟な思考を物語っている。
竹若伊右衛門の先見性は、技術開発の領域だけに留まらなかった。彼は、自らが開発した新しい織物の価値を、社会的に確立させるための次なる一手を打つ。関ヶ原の戦いを経て、慶長5年(1600年)に筑前国52万石の新たな領主として入国した黒田長政に対し、伊右衛門はこの「覇家台織」をいち早く献上したのである 3 。
長政は、その緻密で堅牢な織り上がりと、武士の帯としてふさわしい風格を高く評価し、これを徳川幕府への正式な献上品として指定した。これが、博多織の代名詞ともなる「献上博多織」の始まりである。幕府への献上品に選ばれたことで、博多織の社会的地位とブランド価値は飛躍的に向上した。筑前福岡藩は、その品質を維持・管理するため、特定の12戸の織元にのみ生産を許可する「織屋株」という制度を設け、竹若家をはじめとする有力な織元を手厚く保護した 15 。
この黒田長政への献上は、豊臣秀吉への謁見に続く、竹若一族の生存戦略における第二の決定的な成功であった。豊臣から徳川へと時代の支配者が移り変わる大きな政治的転換期に、彼らは極めて迅速に新しい権力者との関係を構築し、自らの製品を単なる商品から「公的な価値」を持つ献上品へと昇華させた。これにより、竹若一族は博多の一職人という立場から、藩の威信を担う重要な産業の担い手へと、その地位を確固たるものにしたのである。この一連の動きは、竹若伊右衛門が、優れた職人であると同時に、時代の潮流を読む鋭い政治的嗅覚を兼ね備えた人物であったことを示している。
これまでの分析、すなわち竹若一族が生きた時代背景と、彼らが博多織の歴史において果たした役割を踏まえた上で、本報告書の中心的な問いである「竹若常房」という人物の実像、そして彼にまつわる人名の謎に迫る。
ここで、本調査の出発点となった唯一の直接的な史料の記述に、改めて立ち返りたい。「竹若家は常房・重利と代を伝えた織物師。重利は豊臣秀吉の朝鮮派兵の際、秀吉に謁見し『天下泰平』の文言を刻んだ刀の下げ緒を進呈した」 1 。この短い一文には、人物像を解き明かすための重要な情報が凝縮されている。
まず、時期は「朝鮮派兵の際」とあることから、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)までの間と特定できる。場所については、兵站基地であった博多、最前線基地であった肥前名護屋城、あるいは秀吉の本拠地である大坂城などが候補として考えられるが、いずれにせよ秀吉の西国滞在中の出来事であったことは間違いない。
次に、献上品は「『天下泰平』の文言を刻んだ刀の下げ緒」である。下げ緒は刀装具の一部であり、竹若家が単なる広幅の織物だけでなく、武士との関連が深い組紐の技術にも長けていたことを示唆している。これは、他の史料で彼らが「組紐師」であったとされる記述とも整合性が取れる 15 。さらに注目すべきは「天下泰平」という文言である。戦乱の真っ只中にあって、あえて「平和」を願う言葉を刻んだ製品を献上する行為は、多義的な解釈を可能にする。一つには、秀吉の武威によってもたらされるであろう泰平の世を祈願するという、従順な臣従の意の表明と捉えられる。しかし同時に、戦争の早期終結と平和の到来を願う、商人としての偽らざる本音の表明であったとも解釈できる。このような両義性を持たせた献上品を選ぶこと自体が、絶対的な権力者と対峙する商人の高度な知恵であった可能性も指摘できよう。
これまでの分析で、博多織の中興の祖として「竹若藤兵衛・伊右衛門」親子が、そして秀吉への献上者として「竹若常房・重利」親子が存在することが明らかになった。ここで、本報告書の核心的な仮説として、これら二組の親子が同一の存在であるという説を提示し、検証する。当時の人物が、諱(いみな)、字(あざな)、通称、屋号など、複数の名を持つことは決して珍しいことではなかった。
以下の表は、両者の比較を通じて、その同一性の高さを論証するものである。
項目 |
竹若 常房・重利 1 |
竹若 藤兵衛・伊右衛門 2 |
比較・考察 |
家名・職業 |
竹若家、織物師 |
竹若家、織物師(組紐師) |
完全に一致。 両者ともに博多の織物職人「竹若」家である。 |
関係性 |
父子(常房が父、重利が子) |
父子(藤兵衛が父、伊右衛門が子) |
完全に一致。 いずれも父子の二代にわたる活動が記録されている。 |
活動時期 |
安土桃山時代(重利が秀吉に謁見) |
戦国末期~江戸初期 |
完全に一致。 活動の中心時期が安土桃山時代で重なる。 |
主な功績 |
重利 が豊臣秀吉に謁見し献上 |
伊右衛門 が黒田長政に謁見し献上 |
行動パターンが酷似。 時代の最高権力者(秀吉)、あるいは地域の新支配者(長政)に接触し、自らの製品を献上することで庇護を得るという、極めて類似した戦略的行動が確認できる。 |
この比較から導き出される結論は明白である。活動した時代、場所、職業、父子という関係性、そして権力者への献上という特徴的な行動パターン、これら全てが驚くほど一致している。したがって、秀吉に謁見した 重利 と、博多織を革新し長政に献上した 伊右衛門 は、同一人物である可能性が極めて高い。そして、それに伴い、その父である 常房 と 藤兵衛 もまた、同一人物であると強く推定されるのである。
竹若一族が博多の歴史においていかに重要な存在であったかを物語る、決定的な証拠が存在する。それは、江戸時代中期に福岡藩の命によって編纂された公式な地誌『筑前国続風-土記』の記述である。
この信頼性の高い史料の中に、博多の町名に関する項目があり、「古くは『竹若番』と呼ばれ、明治初めに『竹若町』と名称が変わった」地区について、その名の由来を「織物職人の竹若家があったことに由来する」と明確に記している 2 。
この事実は、極めて重い意味を持つ。一職人の家の名が、町の公式な区画名として採用され、彼らの活動から一世紀以上が経過した江戸時代中期においてもなお、その由来とともに公的な記録として継承されていたのである。これは、竹若一族の功績と名声が、単なる家伝や業界内の評価に留まるものではなく、博多という都市の歴史とアイデンティティの一部として、広く社会に認知され、定着していたことを示している。個人の逸話のレベルを超え、彼らの存在がその土地の記憶そのものに刻み込まれていたという事実は、竹若一族が博多社会に与えた影響がいかに甚大であったかを、何よりも雄弁に物語る証左と言えるだろう。
本報告書における調査と分析の結果、戦国時代の博多商人・竹若常房という人物像は、その輪郭をより鮮明にした。彼個人の生涯を詳細に記した一次史料は、現時点では発見されていない。しかし、断片的な記録を、彼が生きた時代の社会経済的文脈、そして博多織という産業史の中に位置づけることで、その実像に迫ることが可能となった。
竹若常房は、おそらく「藤兵衛」という通称でも知られ、その子・重利(伊右衛門)とともに、博多の伝統産業であった織物業に革命的な技術革新をもたらした「中興の祖」であったと結論付けられる。彼らは、大陸からもたらされた新しい知識と在来の高度な技術を融合させ、現代にまで続く「博多織」の原型を創り上げたのである。
さらに、竹若一族の物語は、単なる一職人一家の成功譚に留まるものではない。それは、戦国の動乱から江戸の安定期へと社会が大きく移行する歴史の転換点において、一介の職人商人がいかにして自らの技術を最大の武器として生き抜き、時代の変化を的確に読み、豊臣秀吉、そして黒田長政という新たな権力者との関係を巧みに構築して自らの地位を確立していったかを示す、見事なケーススタディである。秀吉への「天下泰平」の下げ緒の献上、そして長政への「献上博多織」の献上は、彼らの技術力の証明であると同時に、激動の時代を乗り切るための卓越した戦略的思考の産物であった。
竹若常房は、歴史の表舞台で采配を振るう武将や、巨万の富を動かす大商人ではなかったかもしれない。しかし彼は、その手の中にあった確かな技術と、未来を見据える先見の明によって、日本の伝統工芸史に不滅の足跡を刻み、その名を地名として後世にまで残した。彼は、時代の潮流を読み、変化を危機ではなく好機と捉えた、したたかで聡明な職人商人の典型であり、その生き様は、歴史のダイナミズムが、著名な英雄や権力者だけでなく、名もなき市井の人々の営みによっても形作られることを我々に教えてくれる。