戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉の小田原征伐。その最終盤、難攻不落を誇った小田原城内で、主家を裏切ろうとした一人の武将がいた。その名は笠原政尭。一般的に彼は、「後北条氏の筆頭家老・松田憲秀の子として生まれ、笠原氏を継ぐ。豊臣氏の小田原攻めの際、父と共に秀吉に内応しようとしたが、実の弟に密告されて発覚し、主君・北条氏政に殺された」と認識されている 1 。この簡潔な説明は、彼の生涯の悲劇的な結末を要約しているが、その背後には数多くの謎と、通説だけでは解き明かせない複雑な実像が隠されている。
第一に、彼の「名前」そのものに謎がある。一般には「政尭(まさたか)」として知られているが、同時代の文書史料では「政晴(まさはる)」と記されている例が確認されている 2 。この二つの名の併存は何を意味するのか。本報告書では、より一次史料に近いと考えられる「政晴」を主としつつ、広く知られた通称として「政尭」も併記する。
第二に、彼の経歴には「二度の裏切り」という不可解な点が存在する。小田原での内応事件以前、彼は一度、主家である北条氏を離反し、敵対する武田勝頼に与した過去を持つ 1 。この行動は、単純な背信行為だったのか、あるいは別の意図があったのか。
第三に、彼の最期は多くの疑問を投げかける。内応計画が発覚した際、首謀者の一人であった父・松田憲秀は監禁に留められたのに対し、なぜ政尭だけが即座に殺害されるという厳しい処分を受けたのか 3 。父子の間で、責任の所在や行動の性質にどのような違いがあったというのだろうか。
そして最後に、最も大きな謎は、彼の死そのものを覆す「生存説」の存在である。通説では小田原城内で非業の死を遂げたとされる一方、彼の所縁の地である伊豆・三島には、落城後も生き延び、高僧として尊敬を集めながら天寿を全うしたとする、具体的な寺伝や墓石を伴う伝承が根強く残っているのである 3 。
本報告書は、これらの謎を解き明かすことを目的とする。軍記物語に描かれた通説、一次史料に残された記録、寺社に伝わる縁起や伝承、そして近年の歴史研究の成果を総合的に分析し、笠原政尭という一人の武将の生涯を多角的に検証する。それにより、「裏切り者」という単純なレッテルを剥がし、戦国乱世の終焉期に翻弄された人間の苦悩と選択、そして歴史の記憶がどのように形成されるのかという、より深い次元での実像に迫るものである。
笠原政尭(政晴)の生涯を理解するためには、まず彼が背負った二つの名家、すなわち実家である松田氏と、養子先である笠原氏の背景、そして彼の運命を大きく左右することになる武田氏との関係を解明する必要がある。彼のアイデンティティと行動原理は、この複雑な出自と波乱に満ちた前半生によって形成されたと言っても過言ではない。
表1:松田・笠原家関連人物相関図
人物名 |
立場・関係性 |
備考 |
笠原 政尭(政晴) |
本稿の主題人物 |
松田憲秀の長男。笠原美作守家の養子。通称は新六郎。 |
松田 憲秀 |
政尭の実父、後北条氏筆頭家老 |
小田原衆筆頭、知行高は家臣中最高。小田原征伐で内応を企て、戦後秀吉の命で切腹。 |
松田 直秀 |
政尭の実弟、松田家当主 |
兄と父の内応を主君に密告。松田家の家督を継承し、北条氏滅亡後は前田家に仕え家名を存続させた。 |
笠原 綱信 |
政尭が継いだ笠原家の祖 |
伊豆衆筆頭、伊豆北郡代。後北条氏の伊豆統治における重鎮。 |
北条 氏政 |
後北条氏4代当主(隠居) |
小田原征伐時の事実上の最高権力者。政尭の処刑を命じたとされる。 |
北条 氏直 |
後北条氏5代当主 |
小田原征伐時の当主。直秀からの密告を受け、政尭父子を捕縛。 |
笠原政尭の出自を語る上で、実父である松田憲秀の存在は欠かせない。松田氏は、後北条氏の祖・北条早雲の時代から仕える譜代の家老の家柄であった 6 。中でも憲秀の代にはその権勢は頂点に達し、永禄2年(1559年)に作成された家臣団の知行台帳『小田原衆所領役帳』によれば、その知行高は2,798貫文余に達していた 10 。これは、北条一門衆を除けば家臣中最高額であり、松田氏が単なる重臣ではなく、後北条氏の屋台骨を支える最重要家臣であったことを明確に示している 10 。
父・憲秀の役割は、軍事面に留まらなかった。元亀2年(1571年)の駿河深沢城籠城戦などで武勇を示す一方 11 、房総の里見氏や下総の千葉氏といった関東の諸勢力との外交交渉を一手に担うなど、北条家の外交戦略の中核を担う存在でもあった 6 。彼が発給した文書には、大名クラスが用いる印判が使用されており、彼が準大名ともいえる強大な権限と格式を有していたことがうかがえる 6 。
このような北条家中で比類なき権勢を誇る松田家の、しかも「長男」として政尭は生まれたとされている 1 。しかし、ここに最初の大きな謎が生じる。戦国時代の武家社会において、家督は嫡男が継承するのが常識であった 14 。にもかかわらず、なぜ松田家の長男であるはずの政尭は、他家である笠原氏の養子に出され、家督を弟の直秀が継承することになったのか 16 。
この異例の家督継承には、いくつかの可能性が考えられる。第一に、政尭が「長男」であったという記録自体が誤りである可能性である。実際に、武田氏側の文書では政尭を「次男」とする記述も見られる 2 。もし彼が次男であったならば、養子に出ることは自然な流れと言える。
第二に、これが高度な政治的判断に基づく戦略的な養子縁組であった可能性である。政尭が継いだ笠原美作守家は、伊豆衆の筆頭であり、伊豆統治の要となる家柄であった 17 。松田家が、北条家臣団内での影響力をさらに盤石なものとするため、あえて嫡男を送り込み、伊豆という重要地域の支配権を事実上掌握しようとしたという見方である。
第三に、松田家内部の複雑な継承力学が働いた可能性も否定できない。例えば、当初松田家には別の嫡男がいたが早世し、一時的に政尭が嫡男扱いとなったものの、その後、主君・氏直から特に寵愛された弟・直秀が台頭したことで、家督継承の力学が変化し、政尭が養子に出される形になったという筋書きである 16 。
いずれの説が真実であれ、この「長男の養子入り」という事実は、政尭が松田本家の継承ラインから外れ、弟の直秀が本流となるという、後の兄弟間の悲劇を決定づける構造を生み出した。この時点で、二人の運命の歯車は、すでに取り返しのつかない方向へと回り始めていたのである。
政尭が養子に入った笠原氏もまた、後北条家臣団の中で重要な位置を占める名門であった。ただし、後北条氏には複数の笠原氏の系統が存在し、政尭がどの家を継いだかについては注意が必要である 17 。多くの資料では、漠然と「笠原氏を継ぐ」あるいは「笠原康勝の養子となる」と記されているが 8 、近年の研究では、彼が継承したのは伊豆衆の筆頭格で、伊豆北郡の郡代を務めた笠原綱信を祖とする「笠原美作守家」であったとされている 22 。
伊豆衆筆頭としての笠原綱信は、447貫文余の所領を持ち、北条家の最高意思決定機関である評定衆の一員も務めるなど、伊豆統治における中心人物であった 17 。政尭がこの重要な家系の跡を継ぐ者として選ばれたことは、彼に対する北条家中枢からの期待の大きさを物語っている。松田家の嫡男が、伊豆統治の要である笠原美作守家を継ぐ。これは、北条家臣団の二大巨頭による強力な連携体制を構築する意図があったとも考えられる。
天正7年(1579年)、北条氏と甲斐の武田氏、駿河の今川氏の間で結ばれていた甲相駿三国同盟は、武田信玄の子・勝頼の代に完全に破綻した。これにより、北条領の西の守り、特に駿河・伊豆国境(駿豆国境)は一気に緊迫する 23 。政尭が城主を務める伊豆戸倉城は、武田方の拠点である沼津城に隣接しており、まさに最前線となった 5 。
そして天正9年(1581年)、政尭の生涯最初の大きな転機が訪れる。彼は武田方の調略に応じ、主家である北条氏を裏切り、武田勝頼に降ったのである 1 。この時、武田方からは「伊豆一国を与え、勝頼の婿にする」という、にわかには信じがたい破格の条件が提示されたと伝えられている 5 。離反後、彼は武田の支援を受け、北条方として抵抗した同族の笠原照重(笠原康勝の実子か)を攻め、討ち取っている 22 。
この離反の動機については、二つの対照的な見方が存在する。一つは、単純な裏切り説である。通説によれば、政尭は戸倉城で目立った戦功を挙げられず、家中では「臆病者」と陰口を叩かれるなど立場を悪くしており、武田からの好条件に目がくらんで寝返ったとされる 24 。しかし、この説には疑問も残る。天正9年(1581年)といえば、武田家は長篠の戦いで大敗を喫し、その勢威は明らかに衰退期にあった 5 。そのような落ち目の勢力に、北条家筆頭家老の子というエリートが、実現可能性の低い条件だけで寝返るというのは、やや不自然さが否めない。
そこで浮上するのが、もう一つの説、すなわち「偽装降伏説」である。これは、小説家・新田次郎がその著作『武田勝頼』の中で描いたもので、政尭の離反は北条氏政や父・憲秀の密命による、高度な政治戦略であったとする見方である 5 。その目的は、来るべき織田・徳川連合軍の関東侵攻に備え、武田氏を少しでも長く存続させて緩衝地帯として利用することにあったという。外交の専門家であった父・憲秀の存在も、この説に一定の説得力を与えている 6 。
密命があったことを示す直接的な一次史料は存在しない。しかし、政尭個人の野心や不満と、北条家中枢の戦略的意図が複合的に絡み合っていた可能性は十分に考えられる。彼が主家のためにあえて「汚れ役」を買って出た、あるいはそう仕向けられたのかもしれない。この一度目の離反の真相は不明確なままだが、この出来事が彼の経歴に「裏切り者」という拭いがたい汚点を残し、後の小田原での悲劇に繋がる伏線となったことは間違いない。
政尭が身を投じた武田家の命運は、長くは続かなかった。離反の翌年、天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始されると、武田氏はなすすべなく滅亡する。これにより、政尭は庇護者を失い、戸倉城も北条方の手に戻り、彼は路頭に迷うこととなった 3 。
裏切り者に対する処分は、本来であれば死罪が当然であった。しかし、ここで父・憲秀が必死の嘆願を行う。その結果、政尭は辛うじて一命を取り留め、北条家への帰参を許された 3 。ただし、その代償は大きかった。彼は武士の命ともいえる髻(もとどり)を落として剃髪し、「正巌(しょうげん)」と号した 3 。これは、一度死んだ身として仏門に入ることで俗世との縁を断ち切るという、当時の武家社会における最大限の赦免の形であった。彼は、生きてはいるものの、武士としてのキャリアを事実上絶たれたのである。
一度は武士としての生命を絶たれたはずの笠原政尭が、再び歴史の表舞台に登場するのは、それから8年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の時であった。この戦役の最中に起きた内応事件は、彼の生涯を決定づけ、後北条氏の滅亡を象徴する出来事となった。この事件の真相に迫るためには、当時の北条家が置かれていた絶望的な状況と、その指導部が抱えていた構造的な問題を理解する必要がある。
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げにかかった豊臣秀吉は、22万ともいわれる空前の大軍を動員し、関東に押し寄せた 25 。北条方は、関東各地に配置した支城網で豊臣軍を食い止め、長期戦に持ち込むことで敵の兵站が尽きるのを待つという戦略を描いていた 27 。しかし、その目論見はことごとく外れる。山中城、韮山城といった主要な支城は次々と陥落し、あるいは包囲され、小田原城は完全に孤立した 27 。
城内では、籠城か出撃かを巡って連日議論が繰り返されたが、一向に結論は出なかった。これが後に、長引くだけで結論の出ない会議の代名詞として知られる「小田原評定」である 28 。父・松田憲秀は、かつて上杉謙信や武田信玄の攻撃を籠城策で凌いだ成功体験から、今回も籠城を主張したとされる 10 。しかし、相手は桁違いの動員力と兵站能力を持つ豊臣秀吉であった。秀吉は小田原城を力攻めにするのではなく、城の周囲に市場や遊郭まで作り、兵士の士気を維持しながら徹底的な長期包囲を行うという、北条方の常識をはるかに超えた戦術を展開した 28 。城内には次第に厭戦気分が蔓延し、北条家の指導部に対する不信感が募っていった 11 。
この指導部の機能不全の根源には、当時の北条家が抱えていた構造的な脆弱性があった。すなわち、当主である北条氏直と、隠居の身でありながら実質的な最高権力者であり続けた父・氏政による「二頭政治」体制である 33 。この指揮系統が一本化されていない状況が、秀吉への対応を巡る和平派(北条氏規ら)と主戦派(北条氏照、氏邦ら)の対立を深刻化させ、迅速な意思決定を妨げた 25 。松田父子の内応計画は、個人の裏切りという側面だけでなく、こうした北条家中枢の末期的な機能不全に対する、筆頭家老としての焦りと危機感から生まれた行動であったと見ることができる。追い詰められた重臣が、麻痺した主家に見切りをつけ、独自の活路を見出そうとした悲劇とも言えるだろう。
絶望的な籠城戦が続く天正18年6月16日、事件は起こった。松田憲秀と笠原政尭の父子が、豊臣方の武将・堀秀政の調略に応じ、城内に豊臣軍を引き入れるという内応を企てたのである 2 。しかし、この計画は実行直前に露見する。政尭が、実の弟である松田直秀に計画を打ち明け、協力を求めたところ、直秀はそれを聞くや即座に当主・北条氏直のもとへ駆け込み、父と兄の裏切りを密告したのだ 3 。これにより計画は水泡に帰し、父子は捕らえられた。
肉親を売るというこの非情な行動の動機は、どこにあったのか。それは単なる兄弟仲の悪さでは説明がつかない、当時の武家社会の厳格な論理に基づいていた。兄・政尭は、すでに笠原家の養子となっており、しかも一度主家を裏切った過去を持つ、いわば「外の人間」であった 1 。一方、弟の直秀は、前年5月に父の隠居に伴って松田本家の家督を継承したばかりの現当主であり、主君・氏直からの信頼も厚い人物だった 16 。
直秀の立場からすれば、父と兄の行動は、自らが継いだ松田家の名誉を地に堕とし、家そのものを破滅させかねない、許されざる暴挙であった。彼の忠誠は、父や兄という個人ではなく、主君・氏直と、自らが当主として守るべき「松田家」そのものに向けられていた。彼にとって、この密告は家を守るための唯一の選択肢であり、主君への「忠義」の証であった。事実、密告後、直秀は氏直から「今度之忠信、誠以古今難有候(今回の忠義は、まことに古今に類を見ないほどである)」と最大級の賛辞が記された感謝状を授与されている 4 。
この密告劇は、分家を継いだ兄と本家を継いだ弟との間に横たわる、家に対する責任と忠誠心の対象の決定的な違いが生んだ悲劇であった。政尭が「一度裏切った過去」を持ち、直秀が「松田家の家督継承者」であったという事実が、二人の運命を無情にも分けたのである。
松田父子の行動は、本当に単純な「内応」だったのだろうか。この点についても、複数の解釈が存在する。『北条五代記』などの後代の軍記物では、秀吉から提示された「伊豆・相模二カ国を与える」という破格の条件に目がくらみ、主君を裏切ったと描かれている 29 。
しかし、別の見方もある。父・憲秀は、当初は徹底抗戦を主張していたが、圧倒的な戦力差と絶望的な戦況を前に、北条家そのものを存続させるため、「相模・伊豆二カ国の所領安堵と城兵の助命」を条件として、主君には無断で和平交渉を行っていたとする説である 4 。秀吉側が実際に松田父子を誘う際に「伊豆・相模の二カ国」を条件として提示したという記録も存在し 35 、何らかの交渉があったこと自体は事実であった可能性が高い。
さらに、これは秀吉側が仕掛けた高度な情報戦であったとする説も有力である。秀吉が意図的に「松田父子、内応す」という噂を城内に流布させることで、北条家臣団の結束を乱し、疑心暗鬼に陥らせて内部崩壊を誘うという、心理的な揺さぶりをかけたという見方である 18 。
事件の真相を解く鍵は、発覚後の父子に対する処断の差にあるかもしれない。政尭が即座に殺害されたのに対し、父・憲秀は監禁に留められた 3 。もし二人が全く同罪の「内応者」であれば、二人とも即刻処刑されてもおかしくない。この処遇の差は、二人の行動の性質に違いがあったことを示唆している。
考えられるのは、父・憲秀の行動はあくまで北条家存続を目的とした「独断の和平工作」という、弁解の余地があるグレーなものであったのに対し、息子・政尭は、その和平工作をより積極的に、あるいは過激に進めようとして弟に相談を持ちかけるなど、「明確な内応」と見なされる行動を取ってしまった、という可能性である 6 。特に政尭には、かつて武田氏に離反したという「前科」があった。そのため、彼の行動はより疑わしく映り、弁解の余地なく「裏切り」と断定され、城内の動揺を鎮めるための見せしめとして即座に処刑されたのではないか。政尭の悲劇は、父の危険な和平工作の最前線に立った結果、過去の汚名と相まって、弟の密告を引き金にスケープゴートにされたという側面があったのかもしれない。
天正18年6月16日、弟・直秀の密告により、笠原政尭は小田原城内にて殺害された 1 。その具体的な様子を伝える史料は残されておらず、享年も不詳である。
父・憲秀は、息子を犠牲にする形で一時的に生き延びたが、それも束の間のことであった。小田原城が開城した後の7月5日、豊臣秀吉の命により切腹させられる 10 。秀吉は、たとえ敵方の武将であっても、主君を裏切ろうとしたその不忠を許さなかったのである 6 。これは、天下統一を目前にした秀吉が、他の大名たちに対して自身の権威と秩序を示すための、政治的な見せしめの意味合いが強かったと考えられる。
一方、父と兄を密告した弟・直秀は、北条氏滅亡後、主君・氏直に従って高野山へ赴いた。氏直が同地で没した後は、加賀の前田家に4,000石という高禄で召し抱えられ、松田家の家名を見事に存続させた 6 。彼の非情な決断は、結果として「家」を救ったのである。
笠原政尭は小田原城内で殺害されたというのが、史料的にも裏付けの強い通説である。しかし、彼の所縁の地である伊豆国三島(現在の静岡県三島市)には、この通説を覆す「生存説」が、二つの異なる寺院に、それぞれ具体的な伝承として残されている。これらの異説は、歴史的事実としては多くの矛盾を抱えながらも、彼という人物が地域の中でどのように記憶され、語り継がれてきたかを知る上で、極めて重要な意味を持つ。
表2:笠原政尭の生涯に関する二大説の比較
項目 |
通説(小田原城内殺害説) |
異説1(蔵六寺開山説) |
異説2(法華寺墓所説) |
根拠史料/伝承 |
『北条五代記』等の軍記物、各種人名辞典 1 |
蔵六寺の寺伝 7 |
法華寺の寺伝、墓碑 3 |
没年 |
天正18年(1590年) 1 |
永禄3年(1560年)※年代的矛盾 |
寛永3年(1626年) 3 |
死因/没地 |
小田原城内で殺害 1 |
三島・蔵六寺で遷化(死去) |
三島で病没 |
没後の姿 |
裏切り者、悲劇の武将 |
蔵六寺を開山した高僧「正巌和尚」 |
60歳まで生きた「笠原隼人佐」 |
信憑性(考察) |
一次史料との整合性が高い。 |
年代的な矛盾が大きく、事実とは考え難い。 |
生年から逆算した年齢が史実と合わず、事実とは考え難い。 |
第一の生存説は、三島市にある曹洞宗の寺院、亀霊山蔵六寺に伝わるものである。この寺の伝承によれば、政尭は小田原で死なず、その後出家して「蔵六坊正巌和尚」と名乗り、この蔵六寺を開山したという 7 。興味深いことに、この「正巌」という法名は、かつて彼が武田氏への離反から許されて帰参した際に名乗ったものと一致する 3 。この一致が、伝承に一定のリアリティを与えている。
しかし、この説には決定的な年代的矛盾が存在する。蔵六寺の創建は天文2年(1533年)とされており、政尭が歴史の舞台で活躍するよりもずっと前のことである 3 。さらに、寺を開いた正巌和尚は永禄3年(1560年)に亡くなったという記録もあり、これも政尭の生涯とは全く合致しない 39 。
第二の生存説は、同じく三島市にある法華寺に伝わるものである。こちらでは、政尭は「笠原隼人佐」とも呼ばれ、小田原落城後も生き延び、寛永3年(1626年)に60歳で病没したと伝えられている 3 。寺には実際に彼のものとされる墓が存在し、その墓石には「笠原院春山宗永居士」という戒名が刻まれている 3 。
だが、こちらの説もまた、年代的な矛盾を抱えている。寛永3年(1626年)に60歳で没したとすると、生年は永禄9年(1566年)頃となる。しかし、彼が戸倉城主として武田氏と対峙していたのは天正7年(1579年)から9年(1581年)にかけてであり、この計算では彼はまだ10代前半の少年であったことになり、史実との整合性が取れない 6 。
これら二つの生存説は、年代的な矛盾が大きすぎるため、笠原政尭本人が実際に生き延びたという歴史的事実を示すものとは考え難い。では、なぜこのような矛盾を抱えた伝承が、彼の所縁の地に二つも生まれることになったのだろうか。
その答えは、歴史が単なる記録の集積ではなく、人々の「記憶」や「思い」によっても形作られるという側面にある。これらの生存説は、事実そのものではなく、「歴史的記憶」が創造した物語と解釈するのが妥当であろう。
考えられるのは、まず、伝承の混同や習合である。三島の地に、たまたま「正巌」という法名を持つ別の高僧が存在し、その人物の伝承と、非業の死を遂げた地元の英雄である笠原政尭の物語が、長い年月の中で混ざり合い、一つの物語として語り継がれるようになった可能性である。
より本質的な背景として、北条旧臣や地域の人々による、政尭の名誉回復への強い願いがあったと考えられる。主家滅亡の混乱の中、「裏切り者」の汚名を着せられて処刑された悲劇の武将。その無念の死を悼む人々が、彼の魂を鎮め、その名誉を回復するために、「実は彼は生き延びて、徳の高い僧侶として尊敬を集め、天寿を全うしたのだ」という、救いのある物語を創造し、語り継いだのではないか。法華寺の墓石は、延宝7年(1679年)に子孫とされる人物によって建てられており 3 、江戸時代を通じて、彼を顕彰しようとする動きがあったことを示している。
これらの生存説は、歴史的事実を伝えるものではないかもしれない。しかし、それは敗者となった北条家の家臣たちが、非業の死を遂げた一人の武将の名誉をいかにして守ろうとしたかという試みの痕跡であり、地域の歴史の中で彼がどのように記憶され、語り継がれてきたかを示す、極めて貴重な民俗史的資料と言える。政尭の物語は、公式記録からこぼれ落ちた人々の「思い」が、どのように歴史を形作っていくかという、もう一つの歴史の側面を我々に示しているのである。
本報告書で詳述してきたように、笠原政尭(政晴)の生涯は、通説で語られる「裏切り者」という一面的な評価では到底捉えきれない、複雑で多層的なものであった。一次史料、軍記物、そして地域の伝承を丹念に読み解くことで、彼の人物像はより立体的で、人間的な苦悩に満ちたものとして再構築される。
彼は、後北条氏の筆頭家老・松田憲秀の長男という、栄光と重圧を同時に背負う立場に生まれながら、松田本家ではなく分家である笠原氏を継ぐという、複雑な境遇に置かれた。そのキャリアの初期において、主家の戦略のためか、あるいは自らの野心のためか、敵対する武田氏へ離反するという「汚れ役」を引き受けた。この一度目の離反は、彼の経歴に拭いがたい「前科」という烙印を刻み、その後の生涯に暗い影を落とし続けることになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐という未曽有の国難に際し、彼は再び歴史の岐路に立たされる。指導部が機能不全に陥った主家を救うべく、父と共に独断での和平工作という危険な賭けに打って出る。しかし、その行動は、過去の汚名、そして何よりも実の弟による無情な密告によって、「内応」という最悪の形で断罪された。彼は、主家滅亡の混乱の中、見せしめとしてのスケープゴートにされ、悲劇的な最期を遂げたのである。
彼の生涯は、ここで終わったはずであった。しかし、その非業の死を悼む旧臣や地域の人々の強い思いが、彼の物語に新たな一章を書き加えた。矛盾を抱えながらも、彼が僧として生き延び天寿を全うしたとする「生存説」が生まれ、語り継がれたのである。これは、歴史が勝者によって書かれる公式記録だけで構成されるのではなく、敗者たちの記憶や祈りによっても紡がれていくことを示す、感動的な証左と言えよう。
笠原政尭の生涯は、巨大な権力(豊臣政権)の前に滅びゆく戦国大名(後北条氏)の末期的な混乱と、その中で翻弄される家臣たちの苦悩、そして忠誠と裏切りが紙一重となる武士社会の非情な現実を、鮮烈に映し出している。彼は、歴史の敗者として記録されたかもしれない。しかし、その複雑で悲劇に満ちた物語は、時代を超えて我々に、歴史の深さと、そこに生きた人間たちの息遣いを伝え続けているのである。