天文十六年(1547年)、甲斐の「虎」武田晴信(後の信玄)による信濃侵攻の嵐が、佐久郡の山々に吹き荒れていた。圧倒的な武威を背景に、次々と在地領主たちを屈服させていく武田に対し、ただ一人、最後までその軍門に降ることを潔しとせず、故郷の城に籠もり、壮絶な最期を遂げた武将がいた。その名は、笠原新三郎清繁 1 。彼の名は、戦国という巨大な権力の奔流の中で、地域の独立と一族の誇りを守るために戦い、そして散っていった信濃国衆の、悲劇的な抵抗の象徴として歴史に深く刻まれている。
一般的に笠原清繁は、「信濃の豪族。志賀城主。山内上杉家に属した。武田信玄の攻撃に頑強に抵抗したが援軍を武田軍に撃破され、孤立。間もなく武田軍の総攻撃を受け、自害した」と要約される。しかし、この簡潔な記述の背後には、複雑に絡み合う氏族の出自、激動する政治情勢、そして一個人の決断が引き起こした歴史の波紋が存在する。本報告書は、この概要の範疇に留まることなく、『勝山記』や『甲陽軍鑑』といった軍記物語から、各種の系図、地方史誌に至るまで、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、それらを批判的に検討することで、笠原清繁という人物の実像を多角的に浮かび上がらせることを目的とする。さらに、彼が生きた時代の政治力学を解き明かし、その死がもたらした歴史的影響を立体的に再構築することを目指す。
本報告書の構成は、まず笠原氏の出自にまつわる謎多き系譜を解き明かすことから始める。次に、武田氏侵攻前夜の信濃、特に佐久郡を巡る複雑な情勢を分析し、清繁がなぜ徹底抗戦の道を選んだのか、その背景にある戦略と思惑を探る。続いて、彼の拠点であった志賀城の構造と、そこで繰り広げられた壮絶な攻防戦の経緯を時系列に沿って詳細に追跡する。そして最後に、落城がもたらした過酷な結末と、それが後の信濃の歴史、特に武田氏の支配戦略に与えた影響を考察し、笠原清繁という武将の歴史的評価を試みる。
年号(西暦) |
出来事 |
永正12年(1515年) |
笠原清繁、生まれる 1 。 |
天文10年(1541年) |
武田晴信が父・信虎を追放し家督を継承。信濃侵攻を本格化させる 1 。 |
天文12年(1543年) |
晴信、佐久郡に侵攻し長窪城を攻略。大井貞隆を捕縛する 3 。佐久の国衆の多くが武田方に靡き始める 4 。 |
天文15年(1546年) |
大井貞清の内山城が落城。佐久郡で武田への抵抗を続けるのは志賀城のみとなる 5 。関東では河越夜戦で山内上杉氏が大敗し、勢力を大きく後退させる 3 。 |
天文16年(1547年) |
閏7月、晴信自ら出陣し志賀城を包囲 3 。8月6日、小田井原の戦いで上杉方の援軍が壊滅 3 。8月11日、志賀城落城。笠原清繁、討死(享年33) 1 。 |
天文19年(1550年) |
砥石崩れ。志賀城での処置に遺恨を持つ将兵の奮戦もあり、武田軍が大敗を喫する 1 。 |
笠原清繁の人物像を理解する上で、彼が率いた笠原一族の出自と、その本拠地であった佐久郡の歴史的背景を把握することは不可欠である。しかし、笠原氏のルーツは単一の系譜に収斂せず、複数の説が並立しており、その出自自体が中世在地領主の複雑なあり方を物語っている。
笠原氏の出自に関しては、決定的な定説が存在せず、主に「諏訪神氏説」と「平氏説」という二つの有力な説が知られている。これに加え、発祥地についても複数の候補地が挙げられており、その起源は謎に包まれている 8 。
最も有力視される説の一つが、信濃国で古くから絶大な影響力を持っていた諏訪大社の神官一族、すなわち諏訪神氏(みわし)の分家であるとするものである 8 。この説によれば、諏訪氏の一門が佐久郡の笠原の地に土着し、その地名を姓として名乗るようになったとされる 8 。戦国時代の笠原清繁が属した一族は、特に「依田笠原氏」とも称されており 1 、信濃の有力氏族である滋野氏系の依田氏との関連も示唆される。諏訪大社を篤く信仰する信濃の豪族たちが用いた「梶の葉」紋との関連も指摘されており 11 、この説は笠原氏が信濃の地に深く根差した在地勢力であったことを強く裏付けている。
一方で、笠原氏が平氏の血を引くという説も、同時代の史料によって裏付けられている。平安時代末期の公家の日記である『吉記』には、治承五年(1181年)に笠原頼直という人物が「平頼直」として任官した記録が残っている 9 。また、木曽義仲と敵対した横田河原合戦においても「平五」を名乗ったとされ、平氏を自認していたことは疑いようがない 9 。しかしながら、『尊卑分脈』のような主要な武家系図にはその名が見当たらず、桓武平氏のどの系統に属するのか、その具体的な系譜は不明である 9 。
出自の謎と並行して、笠原氏発祥の地についても議論がある。一つは、現在の長野県中野市周辺にあったとされる高井郡笠原牧であり、古代の官牧の管理者から在地領主へ成長したとする見方である 8 。もう一つは、伊那郡(現在の伊那市美篶笠原)を発祥とする説で、こちらの方が古いとする見解もある 10 。これらの説は互いに排他的なものではなく、笠原氏という同名の氏族が信濃国内の複数箇所に存在した可能性も示しているが、清繁に繋がる系統の確定には至っていない。
笠原氏の出自に関する諸説の並立は、単なる記録の混乱や矛盾として片付けるべきではない。むしろ、これは戦国時代の在地領主が、自らの正当性と権威を内外に示すために採用した「多層的なアイデンティティ」の表れと解釈することができる。
在地領主が生き残りをかけて争った戦国時代において、自らの出自を由緒ある家系に繋げることは、極めて重要な政治的戦略であった。笠原氏の場合、それぞれの出自説が異なる文脈で異なる意味を持っていたと考えられる。
まず、「諏訪神氏説」は、信濃国内における在地性を強調する上で絶大な効果を発揮した。諏訪大社は信濃国一之宮として、国中の武士から庶民に至るまで篤い信仰を集めており、その神官一族である諏訪神党に連なることは、他の国衆に対する優位性や自領の支配を正当化する強力な根拠となった 12 。これは、いわば「内向き」の、地域社会に深く根差したアイデンティティであったと言えよう。
一方で、「平氏説」は、信濃という一国を超えた、より広範な武家社会における「格」を示すためのものであった。源平合戦以来、平氏の末裔を称することは、武門としての由緒正しさを示す記号であり、特に中央政界や他国の有力大名との交渉において、自らの家格を高める効果があった 9 。これは「外向き」の、より大きな政治世界を意識したアイデンティティであった。
このように考えると、笠原氏は、信濃の在地領主としての「諏訪神党」という顔と、中央の武家社会に連なる「平氏」という顔を、対峙する相手や状況に応じて戦略的に使い分けていた可能性が高い。笠原清繁が、甲斐から迫る武田氏という強大な「外部」の力に対抗するため、同じく「外部」の権威である関東管領上杉氏と結びついたことは、この「外向き」のアイデンティティと決して無関係ではなかったであろう。彼の抵抗の背景には、こうした複合的で戦略的な自己認識が存在したと推察されるのである。
笠原清繁が歴史の表舞台に登場する天文年間(1532年~1555年)の信濃国は、まさに群雄割拠の様相を呈していた。国内には統一的な権力が存在せず、各地の国衆が離合集散を繰り返す中、甲斐の武田氏がその触手を伸ばし始めていた。清繁の悲劇は、この大きな地殻変動の渦中で起こったのである。
当時の信濃国は、名目上の守護職であった府中の小笠原長時、北信に強大な勢力を誇った葛尾城主・村上義清、そして各地に割拠する大小の国衆が互いに牽制し合う、極めて不安定な政治状況にあった 14 。統一された支配体制はなく、それぞれの領主が自領の維持と拡大のために、近隣勢力と抗争を繰り返していた。
清繁が本拠とした佐久郡も例外ではなかった。佐久郡には、岩村田を本拠とする大井氏、望月牧を起源とする望月氏、そして前山城の伴野氏といった有力な国衆が存在し、互いに所領を巡って争っていた 17 。笠原氏は、これらの国衆の一つとして、志賀城を拠点に独自の勢力を保持していたのである。
このような信濃国内の分裂状況は、外部勢力にとって介入の絶好の機会となった。南からは甲斐の武田氏、北からは越後の長尾氏(後の上杉氏)、そして東の碓氷峠の向こうからは関東管領山内上杉氏が、それぞれ信濃への影響力拡大を虎視眈々と狙っていた 21 。信濃の国衆たちは、これらの強大な外部勢力との関係を巧みに利用し、あるいはその圧力に屈しながら、自らの存続を図らなければならなかった。
天文10年(1541年)、父・信虎を追放して武田家の家督を相続した晴信は、信濃への本格的な侵攻を開始した 1 。その戦略は、まず信濃中央部の諏訪氏を滅ぼして足掛かりを築き 3 、次いで佐久郡、小県郡へと駒を進めるという、周到なものであった 1 。
武田軍の圧倒的な軍事力の前に、佐久郡の国衆たちは次々と抵抗を断念した。天文12年(1543年)には長窪城主の大井貞隆が捕らえられ、天文15年(1546年)にはその子・貞清が籠もる内山城も陥落 3 。この時点で、佐久郡内で武田氏への抵抗を続ける勢力は、笠原清繁の志賀城のみとなっていた 5 。
多くの国衆が武田の軍門に降る中で、清繁はなぜ最後まで抵抗の道を選んだのか。その理由は複数考えられる。第一に、志賀城が上信国境に近く、碓氷峠を越えれば関東へ通じるという地政学的な優位性である 2 。第二に、最も重要な要因として、関東管領である山内上杉憲政との強固な同盟関係への期待があった 2 。清繁は上杉家と姻戚関係にあったとも言われ、親族である高田氏も上杉家臣であったことから、有事の際には必ずや援軍が駆けつけると固く信じていたのである 2 。彼は、武田の圧力に単独で屈するよりも、上杉氏という巨大な後ろ盾を頼りに抵抗する方が、自らの独立を保つ上で得策だと判断したのだ。
笠原清繁の抵抗という決断は、一見すると地域の独立を守るための勇気ある行動に見える。しかし、その背景には、戦国時代の激しい情勢変化を読み違えた、致命的な戦略的誤算があった可能性が極めて高い。彼が最後の望みを託した関東管領上杉氏の力は、志賀城の戦いが始まるわずか一年前に、関東の地で起きた巨大な地殻変動によって、既に大きく削がれていたのである。
その地殻変動とは、天文15年(1546年)4月に起きた「河越夜戦」である 3 。この戦いで、上杉憲政は数万の大軍で北条氏康の河越城を包囲しながら、氏康の奇襲を受けて歴史的な大敗を喫した。この一戦は、関東における勢力図を根底から覆し、山内上杉氏の権威と軍事力を著しく低下させた。もはや、かつてのように信濃へ大規模な援軍を派遣する余力は、上杉家には残されていなかったのである。
清繁がこの関東での大事件の情報をどの程度正確に把握し、その戦略的重要性をどこまで理解していたかは、現存する史料からは定かではない。しかし、結果として彼の期待は無残に裏切られることになる。実際に派遣された援軍は、上杉本家の総力を挙げたものではなく、西上野の国衆を中心とした部隊であり 28 、武田の精鋭部隊の前にあっけなく粉砕されてしまった 3 。
清繁の悲劇は、彼が頼みとした上杉氏という「保険」が、既に機能不全に陥っていたことに気づかなかった、あるいはその事実を過小評価していた点にある。彼の抵抗は、一族の誇りを守るための勇気ある決断であったと同時に、情報の不足あるいは情勢分析の誤りが招いた、避けがたい結末でもあった。彼は、沈みゆく大船に最後の望みを託し、武田という巨大な波に飲み込まれていったのである。
天文十六年(1547年)夏、佐久平最後の抵抗拠点となった志賀城を巡り、甲斐の武田軍と笠原清繁率いる籠城軍との間で、壮絶な攻防戦が繰り広げられた。この戦いは、単なる一城の攻防に留まらず、武田信玄の冷徹な戦略と、それに抗う在地領主の意地が激突した、信濃戦国史における象徴的な一幕であった。
笠原清繁が最後の拠点とした志賀城は、現在の長野県佐久市志賀、標高約880mの山頂に築かれた典型的な中世山城である 30 。比高は約160mあり、麓からは険しい山容を望むことができる 32 。
城の構造は、東西に長く伸びる尾根の地形を巧みに利用した連郭式のもので、全長は約220mに及ぶ 34 。尾根の南側は切り立った断崖、北側も急斜面となっており、容易に兵を近づけることができない天然の要害を形成していた 30 。山頂の主郭を中心に、西側に3つ、中央に5つなど、複数の曲輪が階段状に配置され、敵の侵攻を段階的に阻む設計となっていた 34 。
さらに、各曲輪の間には高低差のある鋭い切岸(人工的な急斜面)や深い堀切が設けられ、防御力を高めていた 30 。特に主郭の東側には、搦手(裏口)を守るための大規模な堀切が存在する 30 。また、城内の各所には防御施設を補強するための石積みが現存しており 35 、これらが一体となって堅固な防御網を構築していた。麓には、笠原氏が再建したと伝わる菩提寺・雲興寺があり、この周辺が平時の居館であった可能性も指摘されている 30 。この堅城こそが、清繁が武田の大軍を相手に徹底抗戦を決意した物理的な支えであった。
天文16年(1547年)閏7月、武田晴信は満を持して自ら大軍を率いて出陣し、志賀城の包囲を開始した。武田軍の本陣は、志賀城の対岸に位置する桜井山城(稲荷山城とも)に置かれたと伝わる 33 。
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武田軍 |
志賀城籠城軍 |
総大将 |
武田晴信 |
笠原清繁 |
主要武将 |
板垣信方、甘利虎泰、横田高松、小山田信有 など 3 |
笠原清仲(子)、高田憲頼(援軍大将) など 6 |
兵力(推定) |
5,000~7,000名以上 33 |
1,000~3,000名 27 |
兵種・特技 |
騎馬隊、足軽隊、金堀衆(坑道掘削) 3 |
在地武士、上野国衆、領民 27 |
援軍 |
なし(自軍で迎撃) |
上杉憲政軍(金井秀景率いる3,000余) 3 |
攻城戦は閏7月24日に開始された 3 。武田軍は力攻めと同時に、兵糧攻めも併用した。特筆すべきは、甲斐の黒川金山などで採掘技術を持つ金堀衆を動員し、城の水源(水の手)を断つための坑道を掘らせたことである 3 。これは、信玄の先進的な戦術思想を示す逸話である。しかし、志賀城の守りは固く、籠城軍は頑強に抵抗を続け、戦いは膠着状態に陥った。籠城軍の兵力は、笠原一族とその家臣団に加え、上杉憲政から派遣されていた上野国の武将・高田憲頼の部隊、そして城下に住む領民たちで構成されていた 6 。
攻城戦が長引く中、窮地に陥った清繁の要請に応じ、関東管領上杉憲政はついに援軍を派遣した。金井秀景を総大将とする西上野の国人衆を中心とした部隊が、碓氷峠を越えて信濃へと進軍したのである 2 。
しかし、晴信はこの動きを完全に読んでいた。彼は志賀城の包囲を一部の部隊に任せると、重臣の板垣信方と甘利虎泰に精鋭部隊を預け、上杉援軍の迎撃に向かわせた 3 。天文16年8月6日、両軍は志賀城からほど近い小田井原(現在の御代田町)で激突した 3 。
戦いの結果は、武田軍の圧勝であった。周到に準備を整え、地の利を得て待ち構えていた武田軍に対し、長旅で疲弊した上杉軍は為すすべもなく打ち破られた。この戦いで上杉軍は、将兵3,000名(諸説あり)という壊滅的な損害を被り、敗走した 3 。志賀城にとって、最後の望みであった援軍は、城にたどり着くことさえできずに消え去ったのである。
小田井原での勝利の後、武田軍は戦国史上でも類を見ない、冷酷非情な心理戦を展開する。板垣信方らは、討ち取った上杉軍兵士の首級三千(これも諸説あるが、多数であったことは確かであろう)を志賀城の目前まで運び、城からよく見えるようにずらりと並べて晒したのである 2 。この衝撃的な逸話は、『勝山記』や『妙法寺記』といった同時代に近い史料にも記録されており、その信憑性は高い 43 。
城内からこのおぞましい光景を目の当たりにした籠城軍の衝撃は、察するに余りある。援軍が全滅したという絶望的な事実を突きつけられ、彼らの士気は完全に崩壊した 3 。
救援の望みが完全に絶たれた後、武田軍は8月10日から総攻撃を開始。外曲輪、二の曲輪が次々と焼き落とされた 3 。そして運命の8月11日、もはやこれまでと覚悟を決めた城主・笠原清繁は、子の清仲や援軍の将・高田憲頼らと共に、残る兵を率いて最後の突撃を敢行したか、あるいは本曲輪での防戦の末、壮絶な討死を遂げた 6 。享年33、武田信玄への徹底抗戦を貫いた一人の武将の生涯は、ここに幕を閉じたのである 1 。
志賀城の陥落は、単に一豪族の滅亡を意味するだけではなかった。その後の武田軍による過酷な戦後処理は、信濃の国衆に深い衝撃と遺恨を残し、後の戦況にまで影響を及ぼすことになる。一方で、滅亡したかに見えた笠原氏の血脈は、一部が他国へ逃れ、数奇な運命を辿ることとなった。
志賀城落城後の武田軍による処置は、当時の戦国の慣習を鑑みても、極めて苛烈なものであった 42 。これは、最後まで抵抗した者への懲罰であると同時に、いまだ武田氏に服従しない他の信濃国衆、特に北信の村上義清らに対する強烈な「見せしめ」の意味合いが強かったと考えられる 38 。
『勝山記』などの史料によれば、美貌で知られた笠原清繁の夫人は、落城の際に捕らえられ、この戦いで戦功を挙げた武田家の重臣・小山田信有(出羽守)に「褒美」として与えられた 1 。彼女は小山田の側室として甲斐国都留郡の駒橋(現在の山梨県大月市)へ送られたと記録されており 1 、江戸時代後期の地誌『甲斐国志』には、彼女にまつわる伝承や童謡が残されていたことが記されている 1 。これは、戦国時代の女性が、家の存続や外交のための道具としてだけでなく、文字通り「戦利品」として扱われた悲劇的な実例である。
さらに『勝山記』は、城内に籠もっていた将兵やその家族、領民たちの悲惨な末路を伝えている。彼らは生け捕りにされ、奴隷として甲府へ連行された 1 。そこで親族による身請けが許されたものの、その身代金は一人あたり2貫文から10貫文という、当時としては極めて高額なものであった 1 。身請け人が現れない者たちは、人買いに売り払われるか、武田氏が経営する黒川金山などで過酷な強制労働に従事させられたという 34 。この非人道的な処置は、武田氏の支配の冷徹さを示す逸話として、後世に語り継がれることになった。
この一連の残虐行為は、佐久の地に深い遺恨を残した。450年以上が経過した後も、城下の住民の間では「武田信玄は鬼だ」という記憶が語り継がれていたという証言もあり 48 、歴史の傷の深さを物語っている。現在も、志賀の地には、清繁の首を葬ったと伝わる「笠原新三郎首塚」の五輪塔が、ひっそりと残されている 5 。
志賀城での過酷な処置は、武田氏の目論見通り、信濃の国衆に恐怖を植え付けた一方で、同時に激しい反発と復讐心をも掻き立てた。この遺恨の連鎖が、3年後の武田信玄の生涯における最大級の敗北の遠因となるのである。
天文19年(1550年)、佐久平定を完了した晴信は、北信の雄・村上義清の拠点である小県郡へと侵攻し、その支城である砥石城(戸石城)を攻撃した 7 。この時、砥石城を守る村上軍の中には、志賀城の戦いを生き延びた者や、その縁者など、武田に深い恨みを抱く佐久の将兵が多数含まれていた 1 。彼らは「武田に降伏すれば、志賀城の者たちのように奴婢とされるか、金山で死ぬまで酷使されるだけだ」という強い危機感を共有し、死に物狂いで抵抗した 49 。
彼らの奮戦と、砥石城の天然の要害も相まって、武田軍は7,000の大軍を擁しながら500の城兵を攻めあぐねた 7 。攻城が長引く間に、村上義清の本隊が救援に駆けつけ、武田軍は背後を突かれる形となった。これにより武田軍は総崩れとなり、重臣の横田高松をはじめ1,000人もの将兵を失うという歴史的な大敗北を喫した。これが「砥石崩れ」である 7 。志賀城の悲劇が、3年の時を経て、武田軍への痛烈なしっぺ返しとなって返ってきたこの出来事は、歴史の因果応報を示す興味深い事例と言えよう。
志賀城の落城により、信濃佐久郡における笠原氏は事実上壊滅状態に陥った 1 。しかし、その血脈が完全に途絶えたわけではなかった。
史料には、一族の笠原能登守光貞という人物が難を逃れ、西へは向かわず、東の相模国を本拠とする後北条氏を頼ったという記録が残っている 1 。主家と頼みの綱であった山内上杉氏が衰退する中、その上杉氏を関東から駆逐しつつあった後北条氏に仕官したという事実は、戦国武士の現実的な生き残り戦略を象徴している。
さらに、この光貞の子、あるいは一族とされる笠原新六郎政晴という人物の動向が伝えられている 53 。彼は後北条氏の家臣として伊豆国の徳倉城主を務めた 54 。興味深いことに、政晴は後に武田勝頼に内通を謀ったとされる 54 。これは、かつての一族の仇敵である武田氏に与しようとしたことを意味し、その動機は北条家内での待遇への不満など、複雑なものであったと推測される。この内通は失敗に終わり、武田氏滅亡後、父である松田憲秀(政晴は松田氏からの養子、あるいはその逆の説があり系譜は錯綜している 53 )の取り成しで北条氏に帰参した 55 。しかし、最終的には豊臣秀吉による小田原征伐の際、父と共に豊臣方への内応を画策したことが露見し、殺害されたと伝わっている 55 。この笠原政晴に関する情報の多くは、二次的な史料解釈や軍記物の記述に基づくものであり、その信憑性については慎重な検討が必要であるが、笠原氏の血脈が落城後も複雑な運命を辿りながら生き延びていたことを示唆している。
志賀城攻めとその後の「砥石崩れ」という一連の出来事は、武田信玄の信濃統治戦略における重要な学習過程であり、転換点であったと見ることができる。恐怖による支配の有効性と、その限界を同時に経験したからである。
志賀城において、信玄は援軍の殲滅と首級の晒しという「恐怖」を前面に押し出した戦術を採用した。これは、佐久平定という短期的な目標を達成し、他の国衆を威圧する上で、極めて合理的かつ効果的な手段であった 38 。
しかし、その成功は同時に、国衆の間に消しがたい遺恨という「負の遺産」を生み出した。この遺恨が、3年後の砥石城における籠城兵の頑強な抵抗の原動力となり、結果として信玄のキャリアにおける手痛い敗北に繋がった 1 。力攻めでは落ちなかった砥石城が、その翌年に真田幸隆の調略によって内部から崩壊し、武田の手に落ちたという事実は 51 、信玄にとって大きな教訓となったはずである。
この対照的な二つの経験を通じて、信玄は信濃のような国衆が割拠する地域を完全に支配するためには、単なる武力制圧や恐怖政治だけでは不十分であり、むしろ頑なな抵抗を招くリスクがあることを学んだと考えられる。そして、武力と並行して、真田幸隆のような現地の事情に精通した家臣を用いた調略や、在地勢力の権益をある程度認める懐柔策を駆使することの重要性を再認識したであろう。笠原清繁の死は悲劇的なものであったが、その抵抗と滅亡は、結果として敵将である武田信玄の支配戦略をより巧緻で洗練されたものへと進化させる一因となったのかもしれない。
笠原清繁の生涯は、戦国時代という巨大な変革の奔流の中で、中央の強大な権力に飲み込まれていく一地方豪族の典型的な悲劇として結論づけることができる。永正12年(1515年)に生まれ、天文16年(1547年)に33歳でその生涯を閉じるまで 1 、彼の人生は武田信玄という時代の巨星の台頭と軌を一にしていた。彼の抵抗は、単なる一個人の武勇や矜持の物語に留まらない。それは、信濃の勢力図を根底から塗り替え、やがて武田・上杉という両雄が北信濃の覇権を巡って激突する「川中島の戦い」へと至る、大きな歴史のうねりの序章を飾る、極めて重要な一幕であった。
清繁の歴史的意義は、いくつかの側面に集約される。第一に、彼の徹底抗戦と、その後の武田軍による過酷な処置は、信濃国衆の間に反武田感情を決定的なものとし、武田信玄の信濃平定計画を一時的に頓挫させる直接的な要因となった。志賀城の悲劇がなければ、3年後の「砥石崩れ」における村上軍の頑強な抵抗も、また違った様相を呈していたかもしれない 1 。
第二に、彼の死は、逆説的に武田信玄の統治政策に重要な教訓を与えた可能性がある。恐怖による支配の限界を悟らせ、後の信濃統治において、武力と並行して調略や懐柔を多用する、より洗練された支配体制を構築させる契機となったと考えられる。
第三に、志賀城の戦いは、当時の東国全体のパワーバランスを映し出す鏡でもあった。清繁が最後の望みを託した関東管領山内上杉氏が、有効な援軍を送れずに見殺しにする形となったことは、その権威が完全に失墜したことを天下に示す象徴的な出来事であった 3 。これにより、関東から信濃にかけての政治情勢は、北条・武田・上杉(長尾)という新たな三国間の力学によって規定されていくことが明確になった。
歴史の大きな物語は、しばしば勝者によって語られる。しかし、史料の海に埋もれた笠原清繁のような一武将の生涯を丹念に追う作業は、我々に英雄譚の裏側にある、地域社会の生々しい現実と、そこで生きた名もなき人々の矜持と悲劇を教えてくれる。彼の抵抗は無駄死にではなかった。それは後の歴史に確かな波紋を広げ、戦国という時代の複雑さと奥行きを我々に示してくれる。笠原清繁の抵抗と死は、戦国史を多層的に理解する上で、決して忘れてはならない、重い意味を持つ一頁なのである。