日本の戦国時代、その終焉を告げる豊臣秀吉の天下統一事業は、数多の武家の運命を劇的に変えた。ある者は新たな時代の覇者として飛躍し、ある者は歴史の奔流に飲み込まれ、その名を歴史の片隅に追いやられた。常陸国(現在の茨城県)の笠間城を本拠とした武将、笠間綱家(かさま つないえ)もまた、時代の大きな転換点に翻弄された一人である。
一般に、笠間綱家は「宇都宮氏の家臣でありながら、豊臣秀吉の小田原征伐の際に後北条氏に与したため、戦後に主家である宇都宮国綱によって滅ぼされた」人物として知られている 1 。この通説は、彼の滅亡を「裏切りに対する正当な制裁」として単純明快に描き出す。しかし、残された断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、近年の研究成果を踏まえると、その背後には遥かに複雑で、悲劇的な実像が浮かび上がってくる。
本報告書は、この笠間綱家という謎多き武将の生涯を徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。彼の滅亡は、本当に単純な「裏切り」の結果だったのか。それとも、戦国末期の激しい権力闘争と、中央集権化という新たな時代の秩序構築の過程で起きた、計画的な「粛清」だったのか。本報告書では、まず笠間氏の出自と彼らが置かれた地政学的環境を概観し、次に綱家が直面した内憂外患を分析する。そして、本報告の核心として、小田原征伐における彼の真の動向を検証し、滅亡の真相を多角的に考察する。さらに、その最期に関する異説や、彼が守ろうとした一族と家臣団のその後、そして本拠地・笠間城の運命を追うことで、歴史の狭間に消えた一人の武将の全体像を明らかにしていく。
年代(和暦/西暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
鎌倉時代初期 |
宇都宮氏一門の塩谷時朝が笠間に入り、笠間城を築城。笠間氏の始祖となる。 |
笠間時朝、宇都宮頼綱 |
4 |
天正4年 (1576) |
益子重綱が宇都宮氏から離反。笠間幹綱(綱家の父)がこれと敵対する。 |
笠間幹綱、益子重綱 |
6 |
天正8年 (1580) |
綱家の弟・笠間左近が、宍戸氏・江戸氏らと結び謀反を起こす。 |
笠間綱家、笠間左近、寺崎氏 |
7 |
天正9年 (1581) |
笠間幹綱、益子氏との合戦に勝利する。 |
笠間幹綱、益子氏 |
6 |
天正11年 (1582) |
益子氏との合戦を理由に、結城晴朝から攻撃を受け、橋本砦を失う。 |
笠間幹綱、結城晴朝 |
6 |
天正13年 (1585) |
福田家広、笠間綱家より「家」の字を拝領する。 |
笠間綱家、福田家広 |
8 |
天正15-16年頃 (1587-88) |
綱家、佐竹氏庶流の大山義景の娘を妻に迎える。 |
笠間綱家、大山義景、寺崎氏 |
9 |
天正16年 (1588) |
8年続いた内紛の末、弟・笠間左近が討死する。 |
笠間左近 |
8 |
天正17年 (1589) |
綱家、小野崎照通と通じ、佐竹義宣への反抗を企図するが失敗に終わる。 |
笠間綱家、小野崎照通、佐竹義宣 |
1 |
天正18年 (1590) |
豊臣秀吉による小田原征伐。綱家は主君・宇都宮国綱に従い豊臣方として参陣。 |
笠間綱家、宇都宮国綱、豊臣秀吉 |
7 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐後、宇都宮国綱に攻められ滅亡(通説)。城主は玉生高宗となる。 |
笠間綱家、宇都宮国綱、玉生高宗 |
3 |
天正19年 (1591) |
綱家が家臣に宛てた正月付の書状が現存。この年に滅亡したとする説もある。 |
笠間綱家、福田家広 |
8 |
文禄元年 (1592) |
宇都宮国綱、家臣の玉生勝昌・範昌父子を笠間城主とする。 |
玉生勝昌、玉生範昌 |
12 |
慶長2年 (1597) |
主家の宇都宮国綱が豊臣秀吉により改易される。 |
宇都宮国綱 |
12 |
慶長3年 (1598) |
蒲生郷成が笠間城主となり、石垣を用いる近世城郭へと大改修を行う。 |
蒲生郷成 |
11 |
笠間綱家の悲劇を理解するためには、まず彼が背負っていた笠間氏の歴史的背景と、彼らが置かれていた複雑な政治環境を把握する必要がある。
常陸笠間氏の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。その始祖は、下野国(現在の栃木県)を本拠とした関東屈指の名門・宇都宮氏の一族、塩谷朝業(しおのや ともなり)の子である笠間時朝(かさま ときとも)である 4 。時朝は、父・朝業から常陸国笠間郡十二郷を与えられ、佐白山に笠間城を築き、初めて「笠間」の姓を名乗った 5 。これにより、笠間氏は宇都宮氏の有力な庶流として、その歴史を歩み始めることとなる。
特筆すべきは、始祖・時朝が単なる武人ではなかった点である。彼は和歌に優れた文化人であり、その作品は『新和歌集』にも収められている 16 。また、浄土宗に深く帰依し、笠間六体仏(現存3躯は国指定重要文化財)や京都の三十三間堂の脇仏などを寄進した篤信家でもあった 1 。武勇だけでなく、高い教養と篤い信仰心を持つという時朝の人物像は、その後の笠間氏代々の気風を方向づけた。戦国末期に至るまで、笠間氏の当主は寺社への寄進を続けるなど、文化と信仰を重んじる一族としての側面を保ち続けたのである 1 。
戦国時代、笠間氏は宇都宮氏の家臣団の一員として、その勢力圏の最東端、常陸国に位置していた 6 。この地理的条件は、笠間氏の運命を大きく左右することになる。彼らの本拠地・笠間は、常陸の佐竹氏、下総の結城氏、そして相模から関東一円に覇を唱えようとする後北条氏といった大勢力の狭間にあり、常に外部からの強い圧力に晒される地政学的に極めて不安定な場所であった。
宇都宮氏の一門という高い家格を持つ一方で、現実には大国の緩衝地帯として脆弱な立場にあるという矛盾は、笠間氏の行動に複雑な影響を与えた。彼らは主家である宇都宮氏への従属と、在地領主としての自立性の確保との間で、常に揺れ動き続けた。その緊張関係は、時に表面化することもあった。例えば、室町時代後期の当主・笠間資綱は、主君である宇都宮成綱に対して反乱を企てたことが記録されている 19 。また、永正4年(1507年)には、当主の笠間綱親が宇都宮氏の同僚である小貫氏と私闘に及び、主君・成綱が小貫氏の救援に出陣するという事件も起きている 20 。
これらの事件は、笠間氏が単なる従順な家臣ではなく、独自の判断で行動する自立性の高い国衆(くにしゅう)であったことを示している。宇都宮一門としての誇りを持ちながらも、生き残りのためには主家の方針に必ずしも従わないという彼らの姿勢は、戦国後期の当主・綱家の時代に、より先鋭化していくことになる。
笠間氏最後の当主となった綱家の時代は、まさに内憂外患の連続であった。一族内の深刻な対立と、周辺勢力との絶え間ない角逐は、笠間氏の国力を著しく消耗させ、最終的な悲劇への道を準備した。
綱家の生涯を語る上でまず直面するのが、彼の父とされる笠間幹綱(かさま みきつな)との関係である。諸系の史料では、幹綱は綱家の父とされ、天正年間に益子氏や結城氏と激しく戦った武将として記録されている 6 。しかし、両者の活動時期や事績には重なる部分が多く、史料によっては両者を明確に区別せず、同一人物ではないかとする説も存在する 6 。
この記録の混乱は、笠間氏が滅亡したことにより、その系図や一次史料の多くが散逸してしまったことに起因する 1 。綱家と幹綱が別人であったとしても、その治世が連続、あるいは重複していた可能性は高く、本章で述べる天正年間の出来事は、両者が密接に関わりながら直面した危機であったと考えられる。
綱家が直面した最大の内部危機は、実弟・笠間左近(かさま さこん)による長期にわたる反乱であった。寺崎氏の系図によれば、天正8年(1580年)、左近は兄である綱家に叛旗を翻した 8 。この反乱は単なる兄弟喧嘩ではなく、笠間氏の弱体化を狙う周辺勢力が深く関与した大規模な内戦であった。左近は、常陸の有力国衆である宍戸氏や江戸氏と共謀し、外部の軍勢を笠間領内に引き入れたのである 8 。
この危機に対し、綱家は家臣の寺崎中務少輔(後の出羽守)らの奮戦によって辛うじて持ちこたえた 8 。しかし、左近の反乱は一度撃退されても終わりはしなかった。彼はその後も宍戸氏らと連携し、再三にわたって笠間領への侵攻を繰り返した。この内紛が完全に終結するのは、反乱開始から8年後の天正16年(1588年)、左近が討死した時であった 7 。8年間にも及ぶ「内なる出血」は、笠間氏の兵力、財力、そして領主としての権威を著しく蝕んだに違いない。この国力の消耗が、綱家を外部からの圧力に対して極めて脆弱な立場に追い込んだ根本的な原因であった。
内部に深刻な問題を抱えながら、綱家は外部の敵とも対峙しなければならなかった。彼の外交政策は、生き残りを賭けた必死の模索であったが、結果として彼を更なる苦境へと追い込んでいく。
まず、宇都宮氏の同輩である下野の益子氏との間で、領地を巡る紛争が絶えなかった 1 。笠間氏は一時は益子勢を撃破し、その当主を生け捕りにしたとも伝えられるが、この勝利が新たな敵を呼び込むことになる 1 。益子氏と連携する下総の大名・結城晴朝が笠間領に侵攻し、橋本砦を奪われるなど、戦線は拡大の一途をたどった 6 。
さらに深刻だったのは、常陸の覇者である佐竹氏との関係である。綱家の外交は、この佐竹氏に対して極めて矛盾した二面性を見せる。天正17年(1589年)、綱家は小野崎照通(おのざき てるみち)という武将と通じ、主家・宇都宮氏の後見人である佐竹義宣(さたけ よしのぶ)に反抗しようと画策した 1 。これは、主家のさらに上位の権力者に対する反逆行為であり、極めて危険な賭けであった。
その一方で、この反抗計画とほぼ同時期の天正15年(1587年)から16年(1588年)頃、綱家は家臣の寺崎氏の勧めにより、佐竹氏の有力な庶流である大山義景の娘を正室に迎えている 9 。これは明らかに佐竹氏との関係を強化し、連携を図ろうとする動きである。
佐竹氏に対して、一方では反逆を企て、もう一方では婚姻による接近を図る。この一貫性を欠いた行動は、周辺勢力、特に主家である宇都宮氏とその後見人である佐竹氏の目に、綱家が「信用ならない危険な存在」として映ったであろうことは想像に難くない。彼は生き残りを賭けて必死に多方面外交を展開したのかもしれないが、結果として誰からの信頼も得られず、政治的に完全に孤立していく。この外交的失敗が、後に宇都宮氏が彼を「粛清」する際の格好の口実を与えてしまったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、関東の勢力図を根底から覆した。この歴史的な大事件の渦中で、笠間氏は滅亡の時を迎える。しかし、その滅亡の経緯については、通説と、史料の再検討によって浮かび上がった新説が鋭く対立している。
従来、笠間氏の滅亡は、綱家が主家・宇都宮氏に背き、後北条氏に味方したことが原因とされてきた 1 。これは、彼の滅亡を「裏切り者への当然の報い」と位置づける、分かりやすい物語である。
しかし、この通説は、近年の研究で発見された複数の史料によって根底から覆されている。最も決定的な証拠は、宇都宮国綱が小田原で豊臣秀吉に拝謁した際に、彼に従っていた重臣たちのリストである。佐竹義宣側の記録に残るこのリストには、はっきりと「笠間綱家」の名前が含まれているのである 7 。これは、綱家が後北条方ではなく、主君・宇都宮氏に従って豊臣方として小田原征伐に参加していたことを示す動かぬ証拠と言える。
さらに、「小田原陣の控」と呼ばれる記録によれば、宇都宮一門が秀吉に馬を献上した際に、「笠間」の名前が見える 1 。これらの史料は、綱家が後北条氏に与したという通説が事実無根であり、彼は最後まで宇都宮氏の家臣としての務めを果たそうとしていたことを示している。
比較項目 |
通説 |
新説(史料に基づく再構築) |
滅亡理由 |
後北条氏への裏切り |
過去の反抗的態度を口実とした計画的粛清 10 |
小田原征伐での動向 |
豊臣方に敵対 |
宇都宮氏に従い豊臣方として参陣 7 |
宇都宮氏の意図 |
裏切り者への正当な制裁 |
不安定要因の排除と領内支配の強化 |
豊臣政権の役割 |
宇都宮氏の行動を追認 |
戦後処理の一環として事前に許可・関与(増田長盛の派遣) 7 |
では、なぜ豊臣方として参陣したはずの笠間綱家が、戦後に滅ぼされなければならなかったのか。その答えは、豊臣秀吉が構築しようとしていた新しい天下の秩序にある。秀吉の天下統一は、単なる軍事征服ではなく、「惣無事令(そうぶじれい)」に代表されるように、大名間の私的な争いを禁じ、全ての領土紛争を豊臣政権の裁定に委ねさせるという、新しい統治システムの構築であった。
この新秩序において、宇都宮国綱は下野国の大名としての地位を安堵された。その代償として、彼は領内の安定を維持し、豊臣政権の意に沿う統治を行う責任を負った。この文脈において、過去に益子氏との私闘を繰り返し、主家の後見人である佐竹氏に反抗を企て、さらには長期の内紛を抱える笠間氏は、宇都宮氏の支配体制を不安定にしかねない「不良資産」であった。
したがって、宇都宮氏による笠間氏の排除は、単なる私怨や領土欲だけでなく、豊臣政権が求める「安定した統治」を実現するための「構造改革」という側面を持っていた。笠間氏が滅ぼされた真の理由は、小田原での裏切りではなく、過去の反抗的な態度を口実に、宇都宮氏が戦後の混乱に乗じて計画的に「粛清」したためと考えられる 7 。
この粛清が宇都宮氏の独断ではなかったことを示す、極めて重要な証拠が存在する。笠間氏の旧領の処分、すなわち戦後処理に、豊臣秀吉の側近で五奉行の一人である増田長盛(ました ながもり)が関与していることである 7 。長盛は太閤検地などを担当する豊臣政権の行政官僚であり、軍事とは直接関係のない彼の名がここで登場することは、笠間氏の処分が豊臣政権の公的な許可、あるいは指示のもとで行われた「仕置」であったことを強く示唆している。
綱家の死後、笠間城主には宇都宮国綱の側近である玉生高宗(たまにゅう たかむね)が速やかに任じられており 7 、宇都宮氏が周到な計画のもとに笠間領を接収したことがうかがえる。笠間綱家の悲劇は、戦国的な自立志向を持つ在地領主が、中央集権化という新しい時代の波に飲み込まれていく象徴的な事件だったのである。
笠間氏の滅亡時期については、一般的に小田原征伐が終結した天正18年(1590年)とされている 3 。しかし、この定説にも一石を投じる史料が存在する。
それは、天正19年(1591年)の正月に、笠間綱家自身が家臣の福田家広(ふくだ いえひろ)に宛てて発給した官途状(かんとじょう)である 8 。この文書は、綱家が天正19年の正月時点ではまだ領主としての活動を行っていたことを示しており、彼の滅亡が天正18年ではなかった可能性を示唆する。
さらに、この官途状の宛先である福田家広自身が、天正19年に笠間において討死したという記録も存在する 8 。これらの史料から、宇都宮氏による笠間氏への最終的な攻撃と滅亡が、小田原征伐から少し時間を置いた天正19年に行われたとする説も有力である。これは、小田原征伐後も綱家が何らかの形で命脈を保っていたものの、最終的には粛清を免れ得なかったことを物語っている。
主家と中央政権の思惑によって滅亡へと追い込まれた笠間綱家は、どのような最期を迎えたのか。そして、彼が率いた一族と家臣たちは、その後いかなる運命を辿ったのか。
笠間綱家の最期については、宇都宮軍との戦いの中で討死したとする説が一般的である 7 。しかし、彼に最後まで仕えた家臣の家系には、全く異なる伝承が残されている。
それは、綱家を支え続けた重臣・寺崎氏の系図に記された「幽閉説」である 8 。この系図によれば、綱家は宇都宮軍との戦いで討死したのではなく、生け捕りにされ、宇都宮の館に幽閉されたという。もしこの伝承が事実であれば、宇都宮氏は綱家を即座に殺害するのではなく、生かしたまま無力化するという、より政治的な手段を選んだことになる。これは、当主を生かしておくことで家臣団の抵抗を抑え、笠間領の接収をより円滑に進めるための措置であった可能性が考えられる。
さらにこの系図は、驚くべき事実を伝えている。寺崎氏は主君・綱家の赦免を願い出たが、その相手は直接の主筋である宇都宮氏ではなく、豊臣政権の重臣・増田長盛であったというのである 8 。この記述は極めて重要である。それは、綱家の処遇に関する最終的な決定権が、もはや宇都宮氏という地方レベルの権力者の手にはなく、豊臣政権という中央の政治判断に委ねられていたことを、当事者たちが明確に認識していた証拠に他ならない。結局、この赦免願いは許されず、綱家は歴史の舞台から姿を消すことになった。
綱家が苦境の中で迎えた妻、大山義景の娘(佐竹氏庶流)のその後の動向については、残念ながら史料は沈黙している 9 。実家である大山氏のもとへ戻ったのか、あるいは夫と運命を共にしたのか、知るすべはない。
主家を失った家臣たちの多くもまた、離散の道を歩んだ。重臣であった寺崎氏や福田氏をはじめとする旧臣の一部は、常陸の佐竹義宣に仕官した 8 。彼らは後に関ヶ原の戦いの結果、佐竹氏が出羽国秋田(現在の秋田県)へ転封されるのに従い、故郷である常陸の地を離れている 21 。また、一部は帰農したか、笠間城の新たな城主となった玉生氏や、その後の江戸時代の藩主たちに仕えて命脈を保った者もいたと考えられる 22 。
なお、常陸笠間氏とは別に、遠く離れた安芸国(現在の広島県西部)にも、鎌倉時代に分かれた笠間氏の一族が存在したことが確認されている 15 。彼らは毛利氏の傘下で国人領主として活動しており、常陸の宗家が滅亡した後も、その名を歴史に留めた。
武将の運命は、その本拠地である城の姿にも色濃く反映される。笠間氏の興亡と時代の転換は、彼らの居城であった笠間城の劇的な変貌にも見て取ることができる。
鎌倉時代に始祖・時朝が築いて以来、約380年間にわたり笠間氏の本拠地であった笠間城は、その時代、典型的な中世山城であった 22 。標高182メートルの佐白山の険しい自然地形を巧みに利用し、防御の中心は土を盛り上げた土塁や、尾根を断ち切る堀切(ほりきり)で構成されていた 22 。その縄張りは、山頂に本丸を置き、その周囲に二の丸、三の丸といった曲輪(くるわ)を階段状に配置したもので、在地領主の拠点としての性格を強く持っていたと推定される 22 。この「土の城」は、地域に深く根を張り、自立性を保とうとした中世の国衆・笠間氏の姿そのものであった。
笠間氏の滅亡は、笠間城の歴史における一大転換点となった。綱家の後、城主となった宇都宮氏家臣の玉生氏は、登城路や麓の町場の整備に着手したとされる 11 。
そして慶長3年(1598年)、宇都宮城主となった蒲生秀行の重臣・蒲生郷成(がもう さとなり)が3万石で笠間城主となると、城は画期的な大変貌を遂げる 12 。蒲生郷成は、築城の名手として知られた主君・蒲生氏郷(うじさと)の薫陶を受けた武将であり、彼は中央の最新築城技術を笠間にもたらした。郷成は、山頂に新たに天守曲輪を設け、城の各所に壮大な石垣を築き上げたのである 11 。
茨城県内の城郭において、これほど本格的な石垣を持つ城は極めて珍しく、笠間城の石垣は、織田・豊臣政権下で発展した近世城郭の技術が、関東の地に持ち込まれたことを示す貴重な遺構である 22 。この大改修により、笠間城は中世の在地領主の拠点から、中央政権に連なる近世大名の支配拠点へと、その性格を完全に変化させた。笠間氏の「土の城」が、蒲生氏の「石の城」へと姿を変えたことは、単なる建築様式の変化ではない。それは、笠間氏という「中世的在地権力」が解体され、蒲生氏、ひいては豊臣政権という「近世的中央権力」に取って代わられたことを、物理的、そして視覚的に示す歴史のモニュメントなのである。
本報告書を通じて明らかになった笠間綱家の実像は、通説で語られるような単純な裏切り者の姿とは大きく異なる。彼は、宇都宮一門という名門の誇りを背負いながらも、大国の狭間で常に存亡の危機に瀕し、8年にも及ぶ弟の反乱という内憂に苦しみ、必死の外交努力も空しく、最終的には戦国から近世へと移行する時代の大きな権力構造の変化の中で、主家・宇都宮氏と中央政権の思惑によって計画的に排除された、悲劇の武将であった。
彼の滅亡は、一個人の能力や判断の失敗という側面以上に、豊臣政権による天下統一事業の中で、戦国期を通じて自立性を保ってきた在地領主(国衆)が淘汰されていく過程の、一つの典型例として位置づけることができる。豊臣政権が求めた新たな秩序の下では、綱家のように複雑な内紛を抱え、周辺勢力との間で不安定な関係を続ける領主は、支配体制の安定を妨げる存在として排除の対象となった。彼の生涯は、戦国乱世の終焉と、新たな中央集権体制の確立という、日本史の大きな転換点を映し出す鏡であると言えよう。
史料の断片から浮かび上がる笠間綱家の苦悩に満ちた生涯は、歴史の勝者によって語られがちな物語の陰に、無数の敗者たちの複雑なドラマが隠されていることを我々に教えてくれる。彼の足跡を丹念に追う作業は、歴史を一方的な視点からではなく、多角的に、そしてより深く理解することの重要性を示唆している。