日本の戦国時代は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちの物語として語られることが多い。しかし、その華々しい歴史の陰には、巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、一族の存続をかけて激動の時代を生き抜いた無数の「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる地方領主たちが存在した。本報告書は、そうした国衆の一人、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)から筑前国(現在の福岡県西部)にかけて勢力を張った筑紫惟門(つくし これかど)の生涯に焦点を当てるものである。
筑紫惟門の名は、一般的には「大友氏に攻められ自害した」という悲劇的な最期と共に、断片的に記憶されているに過ぎない 1 。しかし、現存する多様な史料を丹念に読み解くと、そこには敗者のイメージだけでは到底捉えきれない、一人の戦国武将のしたたかで、かつ壮絶な実像が浮かび上がってくる。彼は、西国の大大名である大内氏、豊後の大友氏、そして中国地方から進出してきた毛利氏という三大勢力の角逐の最前線に身を置き、ある時は巧みな武略で敵を退け、またある時は冷徹な外交判断で主家を変えながら、必死に活路を見出そうとした。
本報告書は、筑紫惟門の生涯を、彼の出自からその最期、そして彼が遺したものが子孫にどう受け継がれたかまで、詳細に追跡することを目的とする。彼の行動原理、彼が置かれた政治的・軍事的状況、そして彼が駆使した生存戦略を多角的に分析することで、戦国大名という巨大な存在の陰に隠れがちな「国衆」のリアルな姿を浮き彫りにしたい。惟門の生涯は、戦国時代の北部九州、特に筑前・肥前国境地帯の複雑な勢力争いを理解するための、またとない鍵となるであろう。彼の人生を通して、我々は戦国という時代の多層的な現実をより深く理解することができるはずである。
惟門の生涯を理解するため、彼の動向と関連する北部九州および中央の情勢を時系列で整理した年表を以下に示す。これにより、彼の行動が個人の意志だけでなく、外部環境の激変にいかに強く影響されていたかが明らかになる。
西暦 (和暦) |
惟門の年齢 |
筑紫惟門および筑紫氏の動向 |
北部九州の情勢 |
中央の情勢 |
1524 (大永4) |
- |
祖父・筑紫満門が娘婿の馬場頼周に謀殺されたとの伝承が残る 2 。 |
少弐氏、大内氏の圧迫を受け衰退。 |
- |
1530 (享禄3) |
- |
筑紫尚門(満門の子)が田手畷の戦いで大内方として戦死 2 。 |
田手畷の戦いで少弐軍が龍造寺氏らの活躍により大内軍に勝利。 |
- |
1531 (享禄4) |
1歳 |
父・筑紫正門の子として生誕 5 。 |
- |
- |
1533 (天文2) |
3歳 |
大内家臣・陶興房の筑前侵攻を受け、大内氏に降伏 5 。 |
陶興房率いる大内軍が北九州に侵攻。少弐氏、大友氏と交戦。 |
- |
1551 (天文20) |
21歳 |
- |
大寧寺の変。大内義隆が陶晴賢(隆房)に討たれる。 |
- |
1557 (弘治3) |
27歳 |
大内氏滅亡後、毛利元就に与し、秋月文種と共に大友氏に反旗を翻すも敗北。山口へ逃走 5 。 |
毛利元就が陶晴賢を厳島で破り、防長経略を開始。大内義長が自害し大内氏が滅亡。大友義鎮(宗麟)が筑前へ進出。 |
- |
1559 (永禄2) |
29歳 |
毛利氏の支援で旧領復帰後、博多を襲撃・焼き討ち。しかし一族の内紛で追放される 2 。侍島合戦で大友軍を撃破 10 。 |
少弐冬尚が龍造寺隆信に攻められ自害。名門少弐氏が滅亡 12 。大友義鎮が九州探題に任じられる 13 。 |
- |
1564 (永禄7) |
34歳 |
再び侍島合戦で「釣り野伏せ」を用い、大友軍を撃退 5 。 |
- |
- |
1567 (永禄10) |
37歳 |
高橋鑑種の反乱に同調し、再び大友氏に蜂起。五箇山城に籠城するも、斎藤鎮実らの猛攻を受け、自害。家督は子の広門が継ぐ 2 。 |
高橋鑑種が毛利氏と通じ、岩屋城で挙兵。秋月、原田、宗像ら筑前の国衆が同調 2 。 |
織田信長が稲葉山城を攻略し、岐阜と改名。 |
1586 (天正14) |
(没後) |
子・広門、島津軍に攻められ勝尾城を失うも、後に奪還 14 。 |
島津氏が九州制覇を目指し北上。岩屋城の戦いで高橋紹運が玉砕。 |
豊臣秀吉、九州平定を決定。 |
1587 (天正15) |
(没後) |
子・広門、秀吉の九州平定に従い、筑後上妻郡1万8千石の大名となる 17 。 |
豊臣秀吉が九州を平定。 |
豊臣秀吉、伴天連追放令を発布。 |
1600 (慶長5) |
(没後) |
子・広門、関ヶ原の戦いで西軍に属し改易 18 。 |
- |
関ヶ原の戦い。 |
筑紫惟門の生涯を理解する上で、まず彼が属した筑紫氏そのものの出自と性格を把握する必要がある。筑紫氏は、鎌倉時代から北部九州に君臨した名門守護・少弐氏の庶流と見なすのが最も有力な説である 2 。少弐氏は藤原北家秀郷流を称する武藤氏を祖とし、初代・武藤資頼が源頼朝から大宰府の次官である大宰少弐に任じられたことにその名を由来する 23 。以来、筑前・肥前などを支配する九州武士の棟梁として重きをなした。筑紫氏が少弐氏と同じ「寄懸り目結」の家紋を用いたことからも、両者の強い結びつきがうかがえ、当時の人々からも「少弐恩顧の者」と認識されていた 2 。
一方で、筑紫氏の系図には諸説が存在し、足利尊氏の子である足利直冬の後裔を称する系図も残されている 2 。これは、戦国時代の武家が自らの家格を高めるために、より権威ある家系に自らを繋げようとした結果である可能性が高い。しかし、実際の行動原理を見る限り、筑紫氏が少弐氏の一門として、その盛衰と深く関わりながら歴史の舞台に登場したことは疑いようがない。
この「少弐氏の庶流」という出自は、筑紫氏にとって両刃の剣であった。名門の血を引くことは誇りであり、在地社会における権威の源泉となった。しかし同時に、主家である少弐氏が周防の大内氏との長きにわたる抗争の末に衰退していく過程で、その「恩顧」は筑紫氏の行動を制約する足枷ともなった。主家への忠誠と、一族の生き残りをかけた現実的な利益との間で、筑紫氏は常に難しい選択を迫られることになる。この相克こそが、惟門の祖父・筑紫満門の代に、主家を裏切って大内氏へ帰順するという、一族の運命を大きく変える決断へと繋がっていくのである。
筑紫氏が自立した国衆として大きく飛躍する契機は、筑紫満門の代に訪れた。室町時代を通じて大内氏の圧迫に苦しんだ少弐氏は、明応6年(1497年)、当主・少弐政資が大内義興に攻められて自刃し、一時的に滅亡する 10 。この主家の危機に際し、その主軸として戦っていた満門は、もはや少弐氏に未来はないと判断し、大内氏に降伏した 2 。この決断により、満門は大内氏の後ろ盾を得て三根・神埼両郡の郡代に任じられるなど、肥前東部から筑前にかけての勢力を大きく拡大させた 2 。また、この頃に交通の要衝である勝尾城(現在の佐賀県鳥栖市)を本拠として定め、強固な城郭都市を築き始めている 18 。
しかし、この大内氏への帰順は、少弐氏に忠誠を誓い続ける他の家臣たちとの間に深刻な亀裂を生んだ。その対立が最も劇的な形で現れたのが、大永4年(1524年)に起きたとされる満門の謀殺事件である。『北肥戦誌』などの軍記物によれば、少弐氏の再興を目指す少弐資元の家臣であり、かつ満門の娘婿でもあった馬場頼周が、大内方に留まり続ける岳父・満門の存在を憎んでいた 4 。頼周は「孫が疱瘡を患った」と偽って満門を見舞いに誘い出し、彼が油断した隙を突いて綾部城内で謀殺したと伝えられている 3 。
この伝承の真偽自体は不明とされているものの 2 、満門がこの時期に死去したことは事実であり、この出来事は筑紫氏と馬場氏との間に、世代を超える根深い確執を刻み込むことになった。そして、この祖父の代の因縁は、数十年後、孫である惟門の身に、あまりにも悲劇的な形で降りかかることになる。戦国時代の政略がもたらす緊張と、それが生み出す怨念の連鎖は、惟門の生涯を理解する上で避けては通れない重要な伏線なのである。
筑紫惟門は、享禄4年(1531年)、筑紫正門の子として生を受けた 5 。彼が歴史の表舞台に当主として登場する最初の記録は、天文2年(1533年)のことである。この年、周防の大内義隆は、重臣・陶興房(後の大寧寺の変で知られる陶晴賢の父)に大軍を率いさせ、筑前への本格的な侵攻を開始した 7 。大内軍は少弐資元や大友義鑑の軍勢と各地で戦いを繰り広げ、その圧倒的な軍事力の前に、筑紫氏は抵抗を断念せざるを得なかった。当時まだ幼少であった惟門は、一族を率いて大内氏の軍門に降り、降伏したのである 5 。
この出来事は、惟門の武将としてのキャリアが、強大な外部勢力への「降伏」から始まったことを示している。これは、彼の生涯を通じて幾度となく繰り返される行動パターンであり、彼の意志の弱さを示すものではない。むしろ、それは、一国の主権を完全に有する戦国大名とは異なり、常に周辺の大勢力との力関係の中で存続の道を探らねばならなかった「国衆」という存在の宿命を象徴している。惟門は、この最初の屈辱的な経験を通じて、大国の狭間で生き抜くための冷徹な現実主義を学んだのかもしれない。
惟門が仕えた大内氏の栄華は長くは続かなかった。天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ、その陶晴賢も弘治元年(1555年)に毛利元就との厳島の戦いで敗死。弘治3年(1557年)、元就によって大内義長が自害に追い込まれ、西国に君臨した名門・大内氏は完全に滅亡した 2 。
この北部九州における巨大な権力の空白を埋めるべく、機敏に動いたのが豊後の大友義鎮(宗麟)であった。大友氏は筑前・豊前への進出を本格化させる 13 。これに対し、旧大内方であった筑前の国衆たちは強く反発した。その急先鋒となったのが、筑紫惟門と古処山城主の秋月文種であった 8 。彼らは、大友氏に対抗するため、大内氏の遺領を継承しようと北九州へ手を伸ばし始めた毛利元就と結び、その呼応のもとに挙兵したのである 5 。
この惟門と秋月氏の連携は、単なる個別領主の利害一致に留まらない。地理的に隣接し、大友氏という共通の脅威に直面した筑前東部の国衆たちが、一種の「地域ブロック」を形成し、共同で防衛にあたろうとした動きと見なすことができる 29 。彼らは、巨大勢力に個別に飲み込まれることを避けるため、地域連合という形で抵抗を試みたのである。
しかし、この反乱は大友宗麟の迅速な対応によって鎮圧される。宗麟は、重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)や臼杵鑑速らに2万余の大軍を率いさせて討伐に向かわせた 8 。大友軍の猛攻の前に、弘治3年7月、秋月文種は居城で奮戦の末に自刃 8 。連携相手を失った惟門もまた敗北を喫した 27 。
大友軍に敗れた筑紫惟門は、もはや自領に留まることはできなかった。彼は本拠地である五箇山城に火を放つと、嫡男の広門らを伴って海路で脱出し、頼みとしていた毛利元就を頼って周防国の山口へと落ち延びた 5 。
この亡命は、惟門個人の苦難の物語であると同時に、毛利氏と大友氏による北部九州を巡る代理戦争の様相を呈していた。毛利氏にとって、惟門のような現地の有力国衆を保護し、支援することは、大友氏の勢力圏である筑前を内部から攪乱するための極めて有効な戦略的投資であった。元就は惟門を庇護し、再起の機会をうかがわせた。そして惟門は、毛利家の支援という後ろ盾を得て、再び故郷の地へと帰り咲くことになる 5 。この経験は、惟門に「敗れても、より大きな権力を頼ることで再起は可能である」という、戦国国衆としての生存術を深く刻み込んだに違いない。
旧領への復帰を果たした惟門の次なる一手は、大胆不敵なものであった。永禄2年(1559年)、彼は2,000の兵を率いて、大友氏の支配下にあった国際貿易港・博多を襲撃し、焼き討ちにしたのである 2 。この事件の様子は、当時日本に滞在していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に生々しく記録されている。フロイスによれば、惟門は「その正当な主君である豊後の国主(大友宗麟)に対して叛起」し、「家臣を富ませ、自らも獲物の分け前に与かろうとして」博多に兵を差し向けたという 9 。
この行動は、単なる軍事的な示威行為に留まらなかった。惟門は大友氏が任命した博多の代官を殺害し、博多近隣の筥崎宮に土地を寄進する文書(寄進状)を発給するなど、博多とその周辺地域の実効支配を試みている 9 。これは、大友氏の経済的基盤に打撃を与え、その利権を奪取しようとする明確な意図があったと考えられる。
しかし、この過激な反大友路線は、筑紫一族の内部に深刻な動揺をもたらした。同年4月、大友氏が本格的な反撃を開始すると、フロイスの記録とは別の史料によれば、筑紫一族の間で「内紛」が勃発し、惟門は一族から「追放」されるという事態に至る 9 。史料はこの「内紛」の具体的な内容を記していないが、その背景を推察することは可能である。惟門の博多襲撃は、大友氏からの全面的な報復攻撃を招く、あまりにも危険な賭けであった。大友氏の反撃が現実のものとなった時、一族の中には「このまま惟門に従えば、一族もろとも滅亡する」と考え、大友氏との和睦を望む勢力が台頭した可能性が極めて高い。この「追放」劇は、当主の権力が絶対ではなく、一族の存亡がかかった局面では、合議によって当主すらその座を追われ得るという、戦国国衆の組織としての脆弱性を露呈している。それは、惟門の強硬路線に対する、一族内部からのクーデターであったと解釈するのが最も自然であろう。
一族から一時追放された惟門であったが、その後の経緯は不明ながらも、再び当主として返り咲いている。これは、一族内の反大友派が再び主導権を握った結果であろう。そして彼は、大友氏への抵抗をさらに激化させていく。その軍事的能力が遺憾なく発揮されたのが、永禄2年(1559年)と永禄7年(1564年)の二度にわたって繰り広げられた筑前侍島での合戦である 5 。
この戦いで、筑紫惟門は寡兵をもって大友氏の大軍を迎え撃った。彼が用いた戦術は、後に島津氏のお家芸として天下に名を轟かせる「釣り野伏せ(つりのぶせ)」であった 5 。釣り野伏せとは、まず囮(おとり)部隊が敵軍に正面から攻撃を仕掛け、敗走を装って意図的に後退する 34 。追撃してきた敵軍を、あらかじめ両翼に潜ませておいた伏兵が待ち受ける地点まで深く引き込み、機を見て伏兵が左右から一斉に襲いかかり、同時に後退していた囮部隊も反転して攻撃に加わることで、敵を三方から包囲殲滅する高度な戦術である 35 。
惟門はこの戦術を巧みに駆使し、大友方の筑後国衆である問註所鑑晴(もんちゅうじょあきはる)や田尻種廉(たじりたねかど)といった名だたる武将たちを次々と討ち取り、二度にわたり大友軍を撃退するという輝かしい戦果を挙げた 10 。この事実は、惟門が単に時勢に流されるだけの地方豪族ではなく、高度な戦術を理解し、統率の取れた軍を動かしてそれを実行できる、優れた戦術家であったことを明確に示している。これは、彼に対して一般的に持たれている「大友軍に攻められ自害した」という一方的な敗者のイメージを覆し、その人物像を再評価する上で極めて重要な側面である。
惟門の抵抗は、彼一人の力によるものではなかった。彼は常に、同じく大友氏の支配に不満を持つ筑前の国衆たちとの連携を模索した。永禄10年(1567年)、その最大の機会が訪れる。大友宗麟の重臣でありながら、筑前の要衝・宝満城と岩屋城を任されていた高橋鑑種(たかはしあきたね)が、毛利氏と通じて大友氏に反旗を翻したのである 2 。
この動きに、筑紫惟門は即座に同調した。さらに、長年の盟友である秋月種実(文種の子)、怡土郡の原田了栄、宗像大社の神官でもあった宗像氏貞ら、筑前の主要な国衆たちが次々と鑑種に味方し、大友氏に対して一斉に蜂起した 2 。これは、大友氏の筑前支配を根底から揺るがす大規模な反乱であった。惟門は、この国衆連合の一翼を担い、自らの城に立て籠もり、大友氏との最後の決戦に臨むこととなる。
惟門の生涯における複雑な同盟・敵対関係を理解するため、主要勢力との関係性を以下に図示する。
対象勢力 |
惟門との関係性の変遷 |
主な出来事・背景 |
関連史料 |
少弐氏 |
主家 → 離反 |
筑紫氏は少弐氏の庶流。祖父・満門の代に、衰退した少弐氏を見限り、大内氏へ帰順。 |
2 |
大内氏 |
敵対 → 従属 → 離反 |
満門の代に少弐氏と共に敵対。満門の降伏後は大内氏に従属。大内氏滅亡(1557年)を機に離反。 |
2 |
大友氏 |
従属 → 敵対 |
大内氏滅亡後、一時的に大友氏の支配下に入るも、すぐに毛利氏と結び反旗を翻す。以後、生涯を通じて最大の敵となる。 |
2 |
毛利氏 |
同盟・庇護 |
大内氏滅亡後、反大友の共通目的で同盟。敗北した惟門を庇護し、旧領復帰を支援。高橋鑑種の反乱でも連携。 |
5 |
秋月氏 |
同盟 |
反大友の盟友。弘治3年(1557年)の挙兵、永禄10年(1567年)の挙兵で常に共同歩調を取る。筑前国衆の地域連合の中核。 |
8 |
高橋鑑種 |
同盟 |
永禄10年(1567年)、鑑種の反乱に惟門が同調し、筑前国衆連合が形成される。 |
2 |
馬場氏 |
敵対・姻戚 |
祖父・満門を謀殺したとされる少弐氏の忠臣。一方で、惟門の妻は馬場氏の娘であり、複雑な因縁で結ばれていた。 |
3 |
永禄10年(1567年)の筑前国衆一斉蜂起に対し、大友宗麟は断固たる措置を取った。彼は再び戸次鑑連らを将とする討伐軍を派遣し、反乱の鎮圧を命じた。この時、筑後衆を率いる大将として、惟門が籠る城の攻略を担当したのが、勇将として知られた斎藤鎮実(さいとうしげざね)であった 2 。
注目すべきは、この時惟門が籠城したのが、本来の本拠地である勝尾城ではなく、五箇山城であった点である 1 。これは、緒戦においてすでに平野部に近い勝尾城を維持できなくなり、より防衛に有利な山城である五箇山城へ拠点を移して徹底抗戦を図った可能性を示唆している。彼の軍事力が、もはや大友の大軍に対して本拠地を維持できないほどに追い詰められていた状況がうかがえる。
それでも惟門は、得意の「釣り野伏せ」のような戦術を駆使して最後まで激しく抵抗し、斎藤鎮実率いる大友軍に二百余名の死傷者を与えるなど、一矢を報いた 5 。しかし、衆寡敵せず、兵力と物量に勝る大友軍の猛攻の前に、五箇山城の落城はもはや時間の問題となっていた。
追い詰められた筑紫惟門の最期については、大きく分けて二つの異なる伝承が残されている。
一つは、戦国時代の「降伏の作法」としての、合理的な政治判断に基づく自害説である。猛攻に耐えきれなくなった惟門は、一族の滅亡を避けるため、自らが反乱の首謀者として全ての責任を負うことを決断した。彼は、家督を嫡男の広門に譲ることを条件に、大友軍との和議を申し入れる。そして、その証として息子の筑紫栄門を人質として差し出し、自らは城中で自害して果てた、というものである 2 。これは、当主一人の犠牲によって家名を存続させるという、戦国時代にはしばしば見られた降伏の形式であり、惟門の最後の決断が、一族の未来を見据えた冷静なものであったと解釈できる。
しかし、筑紫家に伝わる『筑紫家由緒書』などは、より不可解で奇怪な、もう一つの物語を伝えている。それは、第一章で述べた祖父・満門の代からの因縁に根差す「祟りによる自害説」である 42 。この伝承によれば、惟門の妻は、祖父の仇である馬場氏の娘であった。長年の戦乱と大友氏からの重圧の中で、惟門はこの宿敵の血を引く妻との関係に苦しみ、ついに精神に異常をきたしてしまう(由緒書では「そう気」となると記されている)。そして、錯乱の果てに妻を自らの手で殺害し、その後、自身も五箇山にて自害を遂げた、というのである 42 。
これら二つの伝承は、一見すると矛盾しているように見える。しかし、両者を統合的に解釈することも可能である。史実としては、前者の「政治的自害」があったことは間違いないだろう。しかし、その背景に、後者の要因、すなわち敵対一族出身の妻との間に深刻な葛藤が存在し、極限まで追い詰められた精神状況にあった可能性は否定できない。敗北と自害という、一族にとって屈辱的で悲劇的な出来事を、後世の子孫たちが理解し、受け入れる過程で、その複雑な心理的背景が「馬場氏の祟り」という超自然的な物語として伝説化されたのではないか。本報告書では、両説を併記することで、史実としての可能性と、伝説として語られた背景の両面から、惟門の壮絶な最期の実像に迫りたい。
筑紫惟門の死は、決して無駄ではなかった。彼の自己犠牲によって、筑紫氏は滅亡の淵から救われた。家督を継いだ嫡男・筑紫広門は、父の死後、大友氏に従属する 16 。しかし、彼は父譲りのしたたかさを受け継いでいた。天正6年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗し、その権威が失墜すると、広門は秋月種実らと共に再び大友氏に反旗を翻し、立花道雪や高橋紹運らと幾度も干戈を交える 14 。
その後も、肥前の龍造寺氏や南九州の島津氏といった強大な勢力の間で離反と従属を繰り返しながらも、巧みに立ち回った。最終的に、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定の際には、いち早く秀吉に恭順の意を示し、その功を認められて筑後国上妻郡に1万8千石の所領を与えられ、近世大名への道を切り開いたのである 14 。
筑紫氏は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易の憂き目に遭うが、広門の子孫は後に徳川幕府に召し出され、3000石の旗本として江戸時代を通じて家名を存続させることに成功した 18 。父・惟門が、その命と引き換えに守り抜いた一族の血脈は、こうして近世へと確かに受け継がれていったのである。
筑紫惟門ら筑紫氏一族の活動を支えた本拠地が、現在の佐賀県鳥栖市に位置する勝尾城である。この城跡は現在、「勝尾城筑紫氏遺跡」として国の史跡に指定されており、その調査結果は筑紫氏の実力を物語る上で極めて重要である 15 。
勝尾城は、単なる山頂の砦ではなかった。標高約500メートルの城山山頂に築かれた本城を中心に、その周囲の尾根には鬼ヶ城、高取城、葛籠城など5つの支城が配置され、一大防衛網を形成していた 22 。さらに驚くべきは、山麓の谷間に広がる城下町の構造である。発掘調査により、領主の居館跡、重臣クラスの屋敷跡、寺社、そして商工業者が住んだであろう町屋跡が、計画的に配置されていたことが判明している 24 。これらの居住区画は、谷を遮断するように築かれた長大な堀と土塁、いわゆる「総構え」によって厳重に防御されており、勝尾城が政治・軍事・経済の機能を兼ね備えた、当時としては最先端の複合城郭都市であったことを示している 22 。
この勝尾城筑紫氏遺跡の規模と構造は、筑紫氏が単なる山間の小規模な豪族ではなく、広大な領域を支配し、多数の家臣団と商工業者を抱え、高度な統治機構とそれを支える経済力を持った有力な国衆であったことを示す、何より雄弁な物的証拠である。
筑紫氏が、大友氏のような巨大勢力を相手に長年抵抗を続けることができた原動力は何だったのか。その答えの一つが、彼らの経済基盤にあると考えられる。勝尾城跡の発掘調査では、日常的に使われた国産の陶器に加えて、中国産の青磁や白磁といった輸入陶磁器が多数出土している 17 。これらの遺物は、筑紫氏が最も活発に活動した16世紀後半のものと年代が一致する 17 。
山間の城から、なぜこれほど多くの舶来品が出土するのか。これは、筑紫氏が領内の農業生産だけに頼る閉鎖的な経済圏にいたのではなく、博多などを介した国際貿易のネットワークに深く関与し、そこから多大な利益を得ていたことを強く示唆している。この視点から見直すと、第二章で述べた惟門による博多襲撃は、単なる軍事的な示威行動や大友氏への嫌がらせに留まらず、この重要な交易ルートとそこから生まれる莫大な利権を自らの手中に収めようとする、極めて戦略的な経済活動であったと解釈できる。
筑紫氏の強靭な抵抗力の源泉は、領国内の生産力に加え、貿易によってもたらされる富であった可能性が高い。この経済力こそが、彼らの軍事力を支え、激動の時代を生き抜くための外交工作を可能にした、重要な基盤であったと結論付けられる。
筑紫惟門の生涯を振り返ると、それは大内、大友、毛利という巨大勢力の狭間で翻弄され続けた、敗北と苦難の連続であったかのように見える。彼は幾度となく本拠地を追われ、亡命の憂き目に遭い、最後は自害という悲劇的な最期を遂げた。
しかし、その生涯を丹念に追跡した本報告書が明らかにしたのは、そのような一面的な敗者の姿だけではない。彼は、侍島合戦で見せた「釣り野伏せ」に代表される卓越した武略の持ち主であり、時勢を読み、敵の敵と結ぶことを厭わない冷徹な外交感覚を兼ね備えた、したたかな戦国武将であった。彼の行動は、単なる日和見主義や場当たり的な対応ではなく、国衆という脆弱な立場にありながら、一族の存続という至上命題を達成するために練られた、必死の「生存戦略」そのものであった。
彼は、巨大な権力構造の中で、独立と従属、抵抗と和睦の選択を常に突き付けられ続けた、戦国国衆の典型的な姿を体現している。彼の人生は、歴史の主役が天下を争う大名だけではなかったことを、我々に改めて教えてくれる。筑紫惟門という一人の武将の壮絶な苦闘と、その命を賭した最後の決断の先に、近世大名、そして江戸幕府旗本として続く筑紫家の道が拓かれたのである。彼の生涯を研究することは、戦国九州史の複雑で多層的な実像を解き明かす上で、極めて重要な意義を持つと言えよう。