篠山資忠は「秋葉流の忍者」と伝わるが、史料では確認困難。その功績は甲賀武士・伴与七郎資定による上の郷城攻めでの活躍がモデルと推測される。
戦国時代の歴史の陰には、数多の無名の武人たちが存在する。その中でも「忍者」として知られる者たちの実像は、後世の創作や伝説の霧に包まれ、判然としないことが多い。本報告書が対象とする「篠山資忠(ささやま すけただ)」もまた、そうした謎多き人物の一人である。
ご依頼主より提示された情報によれば、篠山資忠は「秋葉流の忍者」であり、その実は「甲賀衆」の一員として徳川家康に仕え、永禄5年(1562年)の三河国・上の郷城(かみのごうじょう)攻めにおいて、城主・鵜殿長照(うどの ながてる)を討ち取り、その子息二人を生け捕りにするという大功を挙げたとされる 1 。この功績は、徳川家康のその後の運命を大きく左右する重要な出来事へと繋がるものであった。
しかしながら、この「篠山資忠」という特定の名称と、それに付随する経歴を持つ人物を、幕府編纂の系譜集『寛政重修諸家譜』や、信頼性の高い同時代史料、あるいは地方史誌などから確証をもって見出すことは極めて困難である。この事実は、我々に一つの重要な問いを投げかける。すなわち、「篠山資忠」という人物像は、いかにして形成されたのか。そして、その華々しい功績のモデルとなった実在の人物は、果たして誰であったのか。
本報告書の中心的な課題は、この問いに答えることにある。調査を進める中で、上の郷城攻めにおいて同等、あるいはそれ以上の功績を挙げたと複数の史料に記録されている甲賀武士、「伴与七郎資定(ばん よしちろう すけさだ)」という人物が浮かび上がってくる 2 。本報告では、この伴与七郎資定こそが「篠山資忠」伝説の核となった人物であるとの仮説に基づき、史料の比較検討を通じてその実像に迫る。
調査の射程は、単に一個人の特定に留まらない。まず、「篠山」という姓を持つ甲賀武士たちの系譜を追い、なぜ「篠山資忠」という名が生まれたのか、その源流を探る。次に、真の主役である伴与七郎資定が属した独立武士団「甲賀衆」の特質と、徳川家康との関係性を解き明かす。そして、彼の活躍の舞台となった上の郷城の戦いの歴史的意義を深く掘り下げ、その功績が徳川家の歴史にいかなる影響を与えたのかを分析する。最後に、彼のその後の足跡と、功績が後世にどのように伝承・変容していったのかを考察する。
この探求の旅は、一人の「忍者」の実像を通して、戦国時代の武士社会の多様な側面、そして伝説が生まれる歴史的背景を浮き彫りにすることを目的とするものである。
「篠山資忠」という人物像の謎を解く最初の鍵は、その名称を構成する「篠山」という姓、「資忠」という名、そして「上の郷城での功績」という三つの要素を分解し、それぞれが史実においてどの人物に由来するのかを検証することにある。本章では、これらの要素が別々の人物に由来し、後世に混淆・統合された可能性を論証する。
篠山(笹山)氏は、近江国甲賀郡に根を張った在地武士団「甲賀五十三家」に数えられる有力な一族であった 4 。その出自は、同じく甲賀五十三家の一つである大原氏の庶流とされている 4 。『寛政重修諸家譜』などの系図によれば、この大原氏はさらに遡ると、古代豪族である大伴氏、そして平安時代にその名を変えた伴氏の末裔を称している 5 。この血統は、甲賀武士団の中でも彼らが確固たる地位を占めていたことを示唆する。
特筆すべきは、旗本となった篠山氏の家紋が「木瓜に二つ引両(もっこうにふたつひきりょう)」であることである 8 。この家紋は、後述する上の郷城攻めの主役・伴与七郎資定が属する伴氏一族と共通するものであり 7 、両氏族間に単なる地縁を越えた深い繋がりがあったことを物語る重要な手がかりとなる。
史料を渉猟すると、「篠山」を名乗り、かつ「資忠」の名を持つ、あるいは類似した経歴を持つ人物が複数存在する。しかし、そのいずれもが、上の郷城攻めで活躍したとされる「篠山資忠」の人物像とは一致しない。
篠山資家(ささやま すけいえ)
通称を理兵衛(りへえ)、名を景春(かげはる)ともいうこの人物は、織田信長、羽柴秀吉に仕えた後、徳川家康に属した甲賀武士である 4。彼の最も著名な活躍は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦として知られる「伏見城の戦い」においてであった。この戦いで彼は、鳥居元忠らと共に伏見城に籠城し、西軍の大軍を相手に奮戦の末、戦死を遂げた 4。彼の忠勇は高く評価されたが、その活躍の舞台は伏見城であり、永禄5年(1562年)の三河・上の郷城とは時代も場所も全く異なる。
篠山監物資忠(ささやま けんもつ すけただ)
この人物は、「資忠」という名がご依頼主の情報と一致する点で注目される。しかし、彼の経歴は上の郷城攻めとは無縁である。『寛政重修諸家譜』の記述によれば、彼は天正13年(1585年)の「甲賀破議(こうかはぎ)」と呼ばれる、豊臣秀吉による甲賀郡の仕置によって所領を失い、一族離散の憂き目に遭う 7。その後、彼は相模国(現在の神奈川県)へ流浪したと記録されており 7、徳川家康の三河統一戦に参加したという記録は見られない。
ご依頼主の情報にある「秋葉流(あきばりゅう)」という忍術流派についても検証が必要である。現存する忍術流派の伝承によれば、秋葉流は主に尾張徳川家に仕えた流派とされており、愛知県にその名が伝わっている 15 。近江国甲賀郡を本拠とする篠山氏や伴氏がこの流派に属したという直接的な史料は乏しい。甲賀には甲賀流という独自の忍術体系が存在しており、他国の流派を名乗る必然性は低い。したがって、「秋葉流」という要素は、後世、特に徳川家との関連性を強調する過程で付加された創作、あるいは異なる地域の情報が混同されたものである可能性が極めて高い。
以上の検証から、「篠山資忠」という特定の人物像が、史実の中に単一の存在として見出すことができないことが明らかになった。むしろ、それは複数の歴史的事実や人物伝が、長い年月を経て、特に近年のゲームなどの創作物 1 の中で一つに統合された「複合的架空人物」であると結論づけるのが妥当である。
この人物像は、以下のように分解できる。
この分析に基づき、本報告書の以降の主題は、この複合像を解体し、その中核をなす「上の郷城での功績」を成し遂げた真の人物、すなわち伴与七郎資定に焦点を当て、その実像を再構築することへと移行する。以下の表は、本章で論じた人物誤認の複雑な構造を視覚的に整理したものである。これにより、なぜ「篠山資忠」という名が生まれたのか、その源流となりうる複数の人物の情報を一覧化し、以降の議論の前提を明確にする。
人物名 |
通称・別名 |
主な活躍・経歴 |
上の郷城攻めとの関連 |
主な典拠 |
篠山資忠 |
(ご依頼主提供情報) |
秋葉流忍者、上の郷城で鵜殿長照を討ち取る |
直接の当事者 (伝承上) |
1 |
伴与七郎資定 |
帯刀 |
甲賀衆を率い、上の郷城で鵜殿長照を討ち取る |
中心的な実行者 (史料上) |
2 |
篠山資家 |
理兵衛、景春 |
伏見城の戦いで戦死 |
関連なし |
4 |
篠山監物資忠 |
(なし) |
甲賀破議の後、相模へ流浪 |
関連なし |
7 |
第一章の分析により、「篠山資忠」の伝説の核をなす功績の担い手が、伴与七郎資定であることが強く示唆された。本章では、この真の主役である伴与七郎資定の出自と、彼が属した甲賀武士団「甲賀衆」の特異な社会構造を明らかにすることで、彼の行動原理と歴史的背景を深く理解する。
伴与七郎資定は、天文元年(1532年)に生まれ、慶長19年(1614年)に没した、実在の甲賀武士である 2 。彼は近江国甲賀郡下山(現在の滋賀県甲賀市)に住んだと記録されている 2 。
伴氏は、古代の中央豪族である大伴氏の後裔を称する由緒ある一族である 18 。子孫が残した由緒書によれば、伴氏の一族は元々三河国に住んでいたが、鎌倉時代になって近江国甲賀郡に移住し、土着したと伝えられている 2 。この「三河国からの移住」という伝承は、後に三河の領主である徳川家康との間に結ばれることになる縁を考える上で、非常に興味深い点である。
ここで重要なのは、第一章で述べた篠山氏との関係性である。篠山氏は大原氏の庶流であり、その大原氏は伴氏の分家筋にあたる 4 。つまり、伴氏と篠山氏は、遠祖を同じくする同族の関係にあった。この血縁的・地縁的な背景こそが、姓の混同を生んだ根源的な理由と考えられる。伴与七郎資定という一個人の武功が、後世において同族である「篠山」の名で語り継がれたとしても、何ら不自然ではない。これは単なる誤記や偶然の混同ではなく、甲賀武士団内部における「一族」としての強い連帯意識が背景にあり、そこから生じた必然的な伝承の変容であったと推察できる。
伴与七郎の行動を理解するためには、彼が属した「甲賀衆」という集団の特異な性質を把握することが不可欠である。一般的に「忍者集団」として知られる甲賀衆だが、その実態はより複雑で、高い自律性を持った武士団であった。
甲賀郡は、鈴鹿山脈と笠置山地に囲まれた山間の地であり、特定の守護大名の支配が及びにくい地理的条件にあった 19 。このため、甲賀の地侍たちは、特定の主君に絶対的に隷属するのではなく、「同名中(どうみょうちゅう)」や「郡中惣(ぐんちゅうそう)」と呼ばれる惣国一揆的な連合体を形成し、地域全体で意思決定を行い、防衛にあたった 21 。彼らは自らの土地を治める小領主(地侍)であると同時に、集団として戦闘技術に長けたプロフェッショナルな武士団でもあったのである。
彼らの役割は、後世の創作で描かれるような諜報活動(忍び)に限定されるものではなかった。むしろ、山岳地帯でのゲリラ戦や、傭兵としての戦闘参加がその活動の主であった 19 。彼らの主従関係は、現代の契約関係に近い柔軟なものであった。仕える主君が滅んでも運命を共にするとは限らず、状況に応じて新たな主君や同盟相手を求めることが常であった 19 。この独立自尊の精神と現実的な判断力こそが、甲賀衆の最大の特質であった 23 。
徳川家康は、この甲賀衆の能力と価値を早くから認識していた武将の一人である。特に天正10年(1582年)の本能寺の変後、堺から三河へ命からがら逃避行を続けた「神君伊賀越え」の際に、服部半蔵の仲介で伊賀衆と共に甲賀衆に道中を警護され、九死に一生を得た経験は決定的であった 24 。この一件以来、家康は甲賀衆に深い信頼を寄せ、江戸幕府成立後も彼らを厚遇した 21 。永禄5年の上の郷城攻めにおける協力要請も、この築かれつつあった信頼関係の延長線上にある出来事と見なすことができる。
本章では、伴与七郎資定が歴史の表舞台に初めてその名を刻むことになる、三河国・上の郷城の戦いについて、その背景、戦闘の経過、そしてそれが持つ歴史的意義を詳細に分析する。この戦いは、彼の武勇伝であると同時に、若き日の徳川家康が飛躍する上で極めて重要な転換点であった。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、東海地方の勢力図を一変させた。今川家の人質となっていた松平元康(後の徳川家康)は、この好機を逃さず、長年続いた隷属関係を断ち切り独立。尾張の織田信長と清洲同盟を締結し、悲願であった三河一国の統一へと本格的に乗り出した 28 。
しかし、その前途は平坦ではなかった。三河国内には、依然として今川家に忠誠を誓う国人領主たちが点在していたのである。その筆頭格が、上の郷城主・鵜殿長照であった。長照は、父・長持が今川義元の妹を娶ったとされ(一説)、今川家とは極めて近い姻戚関係にある重臣であった 30 。周辺の多くの三河国人が元康になびく中、長照は今川家への忠義を貫き、頑なに抵抗を続けた 34 。
上の郷城は、現在の愛知県蒲郡市に位置し、元康の本拠地である岡崎城から目と鼻の先にあった 36 。東三河への進出と領国の一元支配を目指す元康にとって、背後に残されたこの敵対勢力は、まさに喉元に突きつけられた匕首(あいくち)であり、看過できない戦略的要衝であった 38 。
永禄5年(1562年)、元康は自ら軍を率いて上の郷城への攻撃を開始した。しかし、上の郷城は丘陵と川を利用した天然の要害であり、その守りは極めて堅固であった 36 。元康軍は幾度となく攻撃を仕掛けるも、ことごとく撃退され、多大な損害を被った 34 。
正攻法では城を落とせないと判断した元康は、常道ではない奇襲作戦へと戦術を転換する。ここで白羽の矢が立てられたのが、独立戦闘集団である甲賀衆であった。元康の重臣である松井忠次や酒井正親を通じて、甲賀の伴与七郎資定を将とする80余名(史料によっては数十名から200名以上ともされる 2 )の甲賀衆に協力が要請された 43 。彼らに与えられた任務は、夜陰に乗じて城内に忍び込み、放火によって城中を大混乱に陥れ、その隙に本隊が総攻撃をかけるという、まさに彼らの得意とする非正規戦術であった 36 。
大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』や、それを基に編纂された『改正三河後風土記』などの軍記物には、この夜襲の様子が生き生きと描かれている。
永禄5年2月、伴与七郎率いる甲賀衆は、闇夜に紛れて上の郷城内への潜入に成功する 17 。彼らは手筈通り城内の各所の建物に次々と火を放った。漆黒の闇に突如として火の手が上がり、城内はパニックに陥る。さらに甲賀衆は、「返り忠(裏切り者)が出たぞ」と大声で叫び回り、疑心暗鬼を煽った 34 。誰が敵で誰が味方かも分からぬ状況下で、鵜殿方の指揮系統は完全に麻痺した。
この大混乱の中、城主・鵜殿長照はもはやこれまでと城を捨てて脱出を図る。しかし、城の北方にある護摩堂の辺りで落ち延びようとしていたところを、甲賀衆を率いる伴与七郎資定本人に発見され、激しい戦闘の末に討ち取られたと伝えられる 2 。後の首実検の際、長照が日頃から焚きしめていた高級な香木である伽羅(きゃら)の香りが首から漂ってきたため、本人であると確認されたという逸話も残っている 2 。
この戦果は、長照の討ち取りだけに留まらなかった。彼の二人の息子、氏長(うじなが)と氏次(うじつぐ)もまた、混乱の中で甲賀衆によって生け捕りにされたのである 1 。城主を失い、後継者まで捕らえられた上の郷城は、夜明けを待たずに元康軍の手に落ちた。
この一連の出来事は、単なる城盗りの物語ではない。それは、正攻法で行き詰まった戦況を、少数の専門家集団(甲賀衆)が非正規戦術(夜襲、放火、心理戦)を駆使して鮮やかに打開した、戦国時代における非対称戦争の典型例であった。この目覚ましい成功は、若き元康に「忍び」という戦力の絶大な有効性を、身をもって認識させたに違いない。さらに重要なのは、この戦果が単なる戦術的勝利に留まらなかった点である。鵜殿長照の討ち死には、三河における今川方の最後の拠点を完全に崩壊させ、元康の三河統一を大きく前進させた。そして、その二人の息子の捕縛は、次章で詳述する「人質交換」という、元康の人生における最大の戦略的転換点を引き出す、かけがえのない「鍵」となったのである。甲賀衆の働きは、一個の戦術レベルの成功が、国家戦略レベルの成果にまで直結した、歴史上でも稀有な事例と言えるだろう。
上の郷城の攻略は、伴与七郎資定の生涯における最大のハイライトであった。しかし、その功績の意義は、戦場での武勇だけに留まらない。本章では、彼の功績を裏付ける確かな証拠、それがもたらした重大な歴史的帰結、そして功成り名を遂げた後の彼の選択と足跡を追うことで、一人の甲賀武士が歴史に刻んだ光と影を明らかにする。
戦国時代、武士の功績を証明する最も確かなものは、主君から与えられる感状(かんじょう)であった。伴与七郎の功績は、まさにこの形で記録されている。戦後、松平元康は与七郎に対し、その比類なき働きを賞賛する感状を自らの花押を据えて与えた 2 。『鵜殿系図』の伝巻にその写しが収録されており、文面には次のように記されている。
今度鵜殿藤太郎其方被討取、近比御高名無比類候。我等別而彼者年来無沙汰候。散心霧弥祝着申候。委細左近・雅楽助可申候。恐々謹言
二月六日 松蔵元康(花押)
伴与七郎 殿
2
【意訳】「このたび、そなたが鵜殿藤太郎(長照)を討ち取ったことは、近頃比類なき大手柄である。我らはかねてより鵜殿とは対立しており、心の霧が晴れて実にめでたいことだ。詳細な恩賞については、松井左近(忠次)と酒井雅楽助(正親)から申し伝えるであろう。以上、謹んで申し上げる」
この感状の存在は、伴与七郎が上の郷城攻めにおいて鵜殿長照を討ち取るという中心的な役割を果たしたことを裏付ける、最も信頼性の高い一級史料である。これにより、彼の活躍は後世の軍記物語における単なる創作ではなく、歴史的事実であったことが証明される。
伴与七郎がもたらした最大の戦略的価値は、鵜殿長照の息子、氏長と氏次を生け捕りにしたことであった。元康はこの二人の若者を、千載一遇の交渉材料として活用する。彼はすぐさま今川氏真に対し、この鵜殿兄弟の身柄と引き換えに、長年駿府に人質として留め置かれていた自身の正室・瀬名(築山殿)、そして嫡男・竹千代(後の松平信康)、長女・亀姫の返還を求める人質交換を申し入れた 42 。
今川氏真にとって、鵜殿兄弟は母方の従兄弟にあたる近しい親族であった 29 。家中の動揺が激しい中、この親族を見捨てることはできず、苦渋の末にこの交換条件を呑んだ。これにより、元康はついに家族を取り戻し、今川家との関係を名実ともに完全に断ち切ることに成功した。これは、彼が独立した戦国大名として新たな道を歩み始めるための、最後の、そして最大の儀式であった。伴与七郎資定の武功は、間接的にではあるが、徳川家康の人生と、その後の徳川家の基盤確立に、決定的な貢献を果たしたと言っても過言ではない。
これほどの大功を立てた伴与七郎に対し、元康が破格の評価を与えたことは想像に難くない。『小浜市史』などに引用されている子孫の由緒書によれば、元康は与七郎を正式な家臣として召し抱え、松平家に仕官するよう強く誘ったという 2 。将来を嘱望される若き主君からの、武士として名誉ある誘いであった。
しかし、与七郎の選択は意外なものであった。彼はこの誘いを固辞し、恩賞として兜や長刀、そして感状を受け取ると、故郷である近江国甲賀へと帰還したのである 2 。
なぜ彼は、将来有望な徳川家康からの誘いを断ったのか。この行動は、彼の個人的な性格に帰するだけでは説明がつかない。むしろ、彼が属する「甲賀衆」という共同体の規範や価値観が色濃く反映された結果と見るべきである。第二章で述べたように、甲賀衆は特定の主君に生涯を捧げる「譜代の臣」ではなく、自らの郷土(惣)の利益と自律性を最優先する独立した武士団であった 19 。彼らにとって主君との関係は、奉公と恩賞に基づく契約であり、身分的な束縛を伴うものではなかった。
与七郎の選択は、まさにこの甲賀武士の典型的な行動様式を象徴するエピソードである。依頼された任務を完遂し、その対価としての報酬は受け取るが、主従関係によって自らの独立性が束縛されることは拒む。彼の行動は、戦国時代に存在した多様な「武士」のあり方、そして主君と家臣の関係性の多様性を、我々に鮮やかに教えてくれる。
故郷の甲賀に帰った後の、与七郎の詳しい足跡を記した史料は少ない。彼は歴史の表舞台から姿を消し、静かな晩年を送ったものと思われる。子孫の記録によれば、慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発する年に、83歳の天寿を全うして病没したと伝えられている 2 。
彼の嫡男・資順は、一度は豊臣政権下の五奉行の一人である長束正家に仕え、その後は関ヶ原の戦いを経て森氏に仕官した。そして、孫の資祥の代になって、最終的には若狭国小浜藩(藩主・酒井氏)の藩士として召し抱えられている 2 。これは、戦国乱世を生き抜いた「忍び」の一族が、泰平の世である江戸時代の安定した武家社会の中で、藩という組織に組み込まれ、その地位を確立していく過程の一例として非常に興味深い事例である。
本報告書における詳細な調査と分析の結果、ご依頼主が関心を寄せられた戦国時代の人物「篠山資忠」は、特定の一個人を指すものではなく、複数の歴史上の人物や伝承が、後世の創作過程において融合し、一つの人格として結晶化した複合的な人物像であることが明らかになった。
その中核をなす「三河・上の郷城攻めにおける華々しい功績」は、甲賀武士・ 伴与七郎資定 という実在の人物によって成し遂げられた紛れもない史実である。彼の武功が、なぜ「篠山資忠」という名で語られるようになったのか。その背景には、甲賀の同族である伴氏と篠山氏の深い血縁関係 7 が存在し、伴氏の功績が篠山氏の伝承として語られる中で、あるいは「資忠」という名を持つ別の篠山氏の人物 7 と混同され、長い年月をかけて形成されたものと結論づけられる。ご依頼主の情報にあった「秋葉流」という要素 15 は、徳川家との関連性を強調するための後付けの装飾であった可能性が高い。
したがって、「篠山資忠」の実像とは、すなわち伴与七郎資定の姿そのものである。彼の活躍が持つ歴史的意義は、単なる一忍者の武勇伝に留まるものではない。それは、以下の三つの重要な側面を我々に示してくれる。
第一に、 「忍び」の戦術的価値 である。正攻法で行き詰まった戦局を、夜襲、放火、心理戦といった非正規戦術を駆使して打開した彼の働きは、戦国時代における情報・特殊技能集団の有効性を証明している。
第二に、 徳川家康の歴史における戦略的重要性 である。彼の戦果は、三河統一の障害を取り除いただけではない。捕虜とした鵜殿兄弟が「世紀の人質交換」を可能にし、家康が家族を取り戻して名実ともに独立大名となる、その決定的な契機をもたらした。彼の働きは、徳川家の歴史の大きな転換点に深く関わっていた。
第三に、 「甲賀武士」の独立した精神性 である。大功を立てながらも徳川家への仕官を固辞し、故郷へ帰った彼の選択は、特定の主君に隷属せず、自らの郷土と「惣」の自律性を重んじる甲賀武士の独特なアイデンティティを体現している。
最終的に、「篠山資忠」という謎を追う旅は、我々を一人のリアルな「忍者=甲賀武士」の実像へと導いた。その人物、伴与七郎資定の物語は、フィクションの忍者像の裏に隠された、自らの技術と誇りをかけて乱世を生き抜き、時には歴史の歯車を大きく動かした独立武士団の姿を、鮮やかに浮かび上がらせるのである。