本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、糟屋武則(かすや たけのり)の生涯と事績について、現存する諸資料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とします。賤ヶ岳の七本槍の一人として勇名を馳せながらも、関ヶ原の戦いでの西軍参加により、その後の経歴や子孫に関する記録が錯綜している武則の生涯を丹念に追うことは、戦国末期から近世初期にかけての武士の生き様や、時代の転換期における個人の運命を考察する上で重要な意義を持ちます。
糟屋武則に関する史料は、同時代の文書や後世の編纂物など多岐にわたりますが、特に後半生や一族に関しては記述の食い違いや不明瞭な点が多く見られます。本報告書では、これらの情報を整理し、可能な限り客観的な視点から武則像を再構築することを試みます。
本報告書は、武則の出自と家系、豊臣秀吉への仕官と賤ヶ岳の戦いでの武功、豊臣政権下での活動、関ヶ原の戦いと改易、その後の動静と最期、人物像と逸話、妻子と子孫、そして墓所について、章を分けて詳述します。
糟屋氏の歴史は古く、平安時代末期に相模国大住郡糟屋荘(現在の神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族にその起源を求めることができます 1 。伝承によれば、糟屋氏は藤原北家良方流を称し、藤原良方の子である元方が糟屋の地に土着し、糟屋氏の始祖となったとされています 1 。この元方については、前九年の役において源頼義の軍に従った坂東武士の一人、佐伯元方と同一人物である可能性が指摘されており、婚姻関係あるいは主従関係を通じて藤原姓を名乗るようになったと考えられています 2 。鎌倉時代に入ると、糟屋盛久やその子である有季が鎌倉幕府の御家人として活躍した記録が残っています 2 。
糟屋氏の起源が関東の古豪であるという事実は、戦国時代に播磨国で活動した武則の家系が、何らかの経緯で西国へ移住したか、あるいは分家した可能性を示唆しています。武士の一族が所領替えや主家の都合、あるいは自らの意志によって本拠地を離れ、新たな土地で活動することは、中世から戦国時代にかけて決して珍しいことではありませんでした。しかしながら、武則の系統がいつ、どのような理由で西国、特に播磨の地と関わりを持つようになったのか、その具体的な背景や時期については、現存する資料からは明確に読み取ることはできません。この点は、戦国時代の武士の流動性を示す一例として捉えることができるでしょう。
糟屋武則の生年は、通説では永禄5年(1562年)とされています 3 。もともとの姓は志村氏であったとも伝えられています 3 。
諱(いみな)は「武則」のほか、「加須屋真雄(かすや さねお、または、さねかつ)」という名乗りが特に知られています 3 。その他にも、「数政(かずまさ)」、「宗重(むねしげ)」、「真安(さねやす)」、「直雄(なおかつ)」、「宗孝(むねたか)」といった複数の別名が伝えられていますが、これらの名が全て武則本人のものであるのか、あるいは時代や状況によって使い分けられたのか、さらには子など別人の名と混同されている可能性も否定できず、その特定には慎重な検討が必要です 6 。幼名は「正之助(しょうのすけ)」、通称としては「助右衛門尉(すけうえもんのじょう)」や「内膳正(ないぜんのかみ、ないぜんのしょう)」などが記録に見られます 6 。
このように多数の別名が存在する背景には、当時の武士が元服、官位叙任、主君からの一字拝領(偏諱)など、人生の節目や状況の変化に応じて改名する慣習があったことが挙げられます。特に「宗孝」のように、武則の子とされる人物の名と武則自身の別名とされる名が重複しているケースは、記録の錯綜や後世の編纂過程における誤認の可能性を示唆しています。関ヶ原の戦いで敗軍に属し、家が没落した武則のような武将の場合、正確な記録が散逸しやすく、後世にその事績をまとめる際に混乱が生じやすかったという事情も考慮に入れるべきでしょう。これは、歴史上の人物、特に大きな時代の転換期に翻弄された人物の情報を正確に把握することの難しさを物語っています。
表1:糟屋武則の別名・官位一覧
区分 |
名称 |
典拠例 |
諱 |
武則、真雄、数政、宗重、真安、直雄、宗孝 |
3 |
通称 |
正之助(幼名)、助右衛門尉、助左衛門、内膳正 |
6 |
姓の表記 |
糟屋、加須屋、粕屋、賀須屋 |
1 |
官位 |
従五位下・内膳正 |
6 |
糟屋武則の具体的な出自については、いくつかの説が存在し、定説を見るには至っていません。
説1(通説):志村氏の子、糟屋氏の養弟
最も広く知られている説によれば、武則は播磨国の志村という人物の子として生まれ、母は播磨の有力国衆であった小寺政職の妹とされています。この母は、初め糟屋朝貞に嫁いで朝正(友政とも)という子をもうけましたが、後に離縁し、志村氏と再婚して武則を産みました。しかし、志村氏とは死別したため、武則を長男である朝正に託したといいます。糟屋氏の当主となっていた朝正は、異父弟にあたる武則を養弟として迎え入れ、養育したと伝えられています。武則はこの恩義に感じ、実父の姓である志村を捨て、養育を受けた糟屋(加須屋)を名乗るようになったとされています 6。この説が事実であれば、武則は黒田孝高(官兵衛)の正室である櫛橋光(くしはし てる、小寺政職の姪)とは従姉弟の関係にあたることになります 6。
説2:粕谷則頼(玄蕃允)の次男
異説として、武則は粕谷則頼(玄蕃允)の次男であったとするものも存在します 6。
説3:糟屋忠安(兵庫助)の四男・数政
江戸幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』には、これらとは異なる系図が示されています。それによると、武則は糟屋忠安(兵庫助)の四男である数政(かずまさ)であり、その弟である相喜の子・政忠が旗本として家名を存続させたと記されています 6。しかしながら、この『寛政重修諸家譜』に記された糟屋忠安の系統は、駿河国や遠江国(現在の静岡県)を活動の拠点とした人物であり、播磨国を本拠とした武則の経歴とは地理的にも時代的にも整合性が取り難く、その関連性については疑問視されています 6。
『寛政重修諸家譜』が江戸幕府の公式な系譜編纂事業による成果物であるにもかかわらず、その記述が他の説と大きく異なり、かつ信憑性に疑義が呈されている点は注目に値します。これは、幕府による編纂であっても、情報の収集や検証には限界があり、特に関ヶ原の戦いで敗れた側の武将や、その後没落した家、あるいは傍流の家系については、記録の混乱や情報の欠落が生じやすかったことを示唆しています。幕府の編纂物と、在地に残る史料や他の伝承との間に齟齬が見られる場合、一方を無批判に受け入れるのではなく、多角的な史料批判を通じて慎重に検討することが不可欠です。この事例は、旗本として存続したとされる糟屋政忠の家系の主張が、編纂の際に何らかの形で影響を与え、結果として播磨の糟屋武則の系譜とは異なる記述が採用された可能性も考えさせます。
糟屋武則は、当初、播磨国加古川城(現在の兵庫県加古川市)を拠点とし、播磨の有力大名であった別所氏の家臣として活動していました 3 。しかし、天正5年(1577年)、織田信長の命を受けて中国地方攻略を開始した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が播磨に侵攻すると、武則の運命は大きく転換します。当時、武則は三木城主・別所長治に従っていましたが、秀吉の有力家臣であり、播磨の事情に明るかった黒田孝高(官兵衛)による説得、あるいは推挙によって、秀吉に仕えることになりました 3 。
秀吉の麾下に入った武則は、小姓頭として取り立てられたとされています 4 。その後、秀吉と別所氏との間で行われた三木合戦に従軍し、その支城である野口城攻めが彼の初陣であったと伝えられています 6 。
黒田孝高の推挙という形で秀吉に仕えるに至った経緯は、武則のその後のキャリアにおいて重要な意味を持ったと考えられます。孝高は秀吉の主要な軍師であり、戦略家として高い評価を得ていた人物です。その孝高に見出されたということは、武則の武勇や才覚が当時から一定の評価を受けていた可能性を示唆しています。また、別所氏から秀吉へという主君の変更は、戦国時代の武士が自らの判断や周囲の情勢に応じて仕えるべき主を選択するという、当時の武士社会のダイナミズムを反映した出来事と言えるでしょう。より大きな勢力や将来性のある主君に仕えることは、自己の立身出世や家門の維持・発展にとって、当時の武士にとっては合理的な選択の一つでした。
天正11年(1583年)、織田信長亡き後の覇権を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いは、武則の名を天下に知らしめる大きな転機となりました。この戦いで武則は秀吉軍の一員として目覚ましい働きを見せ、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、片桐且元らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられるという栄誉を得ました 6 。これは、秀吉子飼いの若武者としての武勇を天下に示した輝かしい戦功であり、彼の武将としての評価を決定づけるものとなりました。
具体的には、この戦いにおいて柴田勝家方の勇将・佐久間盛政の配下であった宿屋七左衛門(やどや しちざえもん)という武将を討ち取ったと広く伝えられています 4 。一説には、同じく七本槍に数えられた桜井佐吉(ただし、佐吉は後に七本槍から外れたともされる)と共に宿屋七左衛門と戦い、これを討ち取ったとも言われています 4 。
ただし、武則が賤ヶ岳の戦いで討ち取った敵将については異説も存在し、拝郷五左衛門(はいごう ござえもん)であったとする説もあります 6 。しかしながら、拝郷五左衛門を討ち取ったのは福島正則や片桐且元であるとする説がより一般的であり、武則の戦功としては宿屋七左衛門を挙げることが通説となっています 6 。
この賤ヶ岳での戦功により、武則は秀吉から感状と共に播磨国や河内国などに3,000石の所領を与えられたとされています 5 。石高については、福島正則が5,000石の恩賞を受けた記録 16 との比較から、同程度の恩賞であった可能性も考えられますが、3,000石という記述が複数の資料で見られます。
「賤ヶ岳の七本槍」という呼称と顕彰は、単に個々の武将の武勇を称えるだけでなく、秀吉による巧みな人事戦略・情報戦略の一環であった可能性が考えられます。信長死後の混乱期において、自らの勢力基盤を固め、新たな時代を担う人材を育成する必要があった秀吉にとって、若手武将の戦功を大々的に顕彰し、彼らを自派閥の中核として育成・抜擢することは、政権基盤を強化し、他の武将たちへの模範を示す上で極めて有効な手段でした。武則がその一員に選ばれたことは、彼の武勇が秀吉に高く評価された証左であると同時に、彼が秀吉の政権掌握プロセスに深く組み込まれていったことを意味します。
また、討ち取った敵将の名前(宿屋七左衛門か拝郷五左衛門か)に関する異説が存在する点は、合戦における個々の戦功認定の難しさや、後世の記録が編纂される過程での情報の混乱を示しています。特に大規模な合戦においては、誰が誰を討ち取ったかという事実は必ずしも明確に記録されるとは限らず、戦場の混乱や、複数の武者が一人の敵将に関わる状況下では、戦功の帰属が曖昧になることは十分にあり得ます。さらに、各家が自家の手柄を後世に伝える際に、それをより輝かしいものとして記録しようとする傾向も、記録の差異を生む一因となった可能性が考えられます。
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた糟屋武則は、その後も豊臣秀吉の主要な戦役に従軍し、豊臣政権下で武将として、また時には行政官としての役割も果たしました。
これらの九州平定や小田原征伐といった、秀吉の天下統一事業における決定的な戦役に一貫して従軍している事実は、武則が豊臣政権下で信頼され、一定の軍事力を保持する武将として継続的に活動していたことを明確に示しています。彼が率いた兵力150という規模は、大大名に比べれば決して大きくはありませんが、秀吉直属の武将として、本陣の警護や遊撃隊など、特定の役割を担っていたと考えられます。これらの戦役への参加は、彼の武将としてのキャリアを着実に積み重ねる機会となったでしょう。
文禄元年(1592年)から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも、糟屋武則は従軍しました 15 。具体的な戦闘における詳細な記録は、提供された資料からは多くを見出すことができませんが、彼の活動は戦闘だけに留まらなかったようです。
日本へ帰国後の文禄2年(1593年)には、播磨国三木郡(現在の兵庫県三木市周辺)にあった秀吉の蔵入地(直轄領)1万石の代官に任じられています 6 。これは、武則が単なる武勇に優れた武人としてだけでなく、所領経営や民政といった行政的な能力も評価されていた可能性を示唆しています。また、時期は不明ですが、中川秀成が三木城から移封された後、三木城の城番(城代)の一人としても武則の名が伝えられています 6 。さらに、文禄3年(1594年)には、秀吉が京都に築いた壮大な城郭である伏見城の普請(建設工事)にも参加しています 6 。
朝鮮出兵に関連する有名な逸話として、『太閤さま軍記のうち』に記されているものがあります。文禄元年(1592年)3月28日、秀吉が朝鮮出兵の拠点である肥前名護屋城(現在の佐賀県唐津市)へ向かう道中、播磨国の加古川に立ち寄った際、加古川城主であった武則は秀吉のために茶屋を設け、酒一献を献上して歓待したと伝えられています 17 。
朝鮮出兵において、戦闘以外の役割、すなわち代官、城番、普請への参加といった記録が残っている点は重要です。これは、豊臣政権が大規模な軍事行動と並行して、占領地の統治や国内のインフラ整備、さらには政権の威信を示すための城郭建設などにも注力していたことを示しており、武則のような武将が軍事面だけでなく、多岐にわたる任務をこなしていた実態を反映しています。特に蔵入地の代官という役職は、秀吉からの信頼が厚くなければ任されないものであり、彼の吏僚としての一面をうかがわせます。加古川での秀吉への酒の献上は、主従関係における儀礼的な側面や、武則の細やかな気配りを示すエピソードとして捉えることができるでしょう。
賤ヶ岳の戦いでの武功により、糟屋武則は播磨国加古川(現在の兵庫県加古川市)に所領を得て、加古川城主となりました 8 。この加古川城は、武則のその後の活動拠点となります。
武則の最終的な知行(所領の石高)については、1万2千石であったとする記録が複数の資料で見られます 4 。ただし、史料によっては3万5千石 23 や1万3千石 24 といった異なる石高を記すものもあり、正確な変遷を追うことは難しい側面があります。
加古川城は、歴史的にも重要な場所でした。天正5年(1577年)、羽柴秀吉が播磨の諸将をこの城に集め、対毛利氏戦略に関する軍議を開いた「加古川評定」の舞台となったのです 8 。この評定において、三木城主・別所長治の代理として出席した叔父の別所吉親が秀吉と対立し、結果として別所氏が織田方から離反、三木合戦へと繋がる大きなきっかけの一つとなったとされています。
知行高に関する異説の存在は、史料の断片性や、記録された時期による実際の石高の変動(加増や減封など)を反映している可能性があります。1万2千石という石高は、豊臣政権下の大名としては中堅規模に位置づけられ、武則が一定の経済的基盤と軍事力を有していたことを示しています。また、彼が城主となった加古川城が、かつて播磨の情勢を左右する重要な評定の場であったという事実は、その城が持つ地理的・戦略的重要性を物語っており、武則がそのような要衝を任されたことの意味を深く考えさせます。
糟屋武則は、豊臣政権下で従五位下(じゅごいのげ)・内膳正(ないぜんのかみ、または、ないぜんのしょう)に叙任されたと伝えられています 6 。
その具体的な時期を示すものとして、天正16年(1588年)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の記録があります。この壮大な行事において、武則は「糟屋内膳正」として、関白豊臣秀吉の前駆(ぜんく)を務める馬上の武士団(左側)の一員として名を連ねています 12 。
内膳正という官位は、元来、天皇の食事を司る内膳司の長官であり、武家が任じられる際には名誉的な意味合いが強いものでした。しかし、聚楽第行幸という、豊臣政権の権威を内外に誇示するための極めて重要な政治的行事において、秀吉の行列の先導役という目立つ役割を担う供奉衆に選ばれたことは、豊臣政権内における武則の一定の地位と、秀吉からの信頼を示しています。これは、彼が単なる武勇に優れた武辺者としてだけでなく、政権中枢にも連なる格式を認められた人物であったことを裏付けるものと言えるでしょう。
表2:糟屋武則の主要な戦歴と知行の変遷
合戦名・事績 |
参戦年・時期 |
主な役割・武功 |
結果・知行 |
典拠例 |
三木合戦 |
天正5年(1577)~ |
羽柴秀吉に属し参戦、野口城攻め(初陣) |
|
6 |
賤ヶ岳の戦い |
天正11年(1583) |
七本槍の一人。宿屋七左衛門を討取(異説あり) |
播磨・河内等に3,000石 (異説あり) |
5 |
小牧・長久手の戦い |
天正12年(1584) |
馬廻衆として参陣 |
|
4 |
九州平定 |
天正14-15年 |
先鋒の一員。秀吉本隊に150の兵で供奉 |
|
17 |
小田原征伐 |
天正18年(1590) |
150の兵で参陣 |
|
17 |
文禄・慶長の役 |
文禄元年(1592)~ |
従軍。帰国後、播磨三木郡の蔵入地1万石代官。伏見城普請参加。秀吉に酒を献上。 |
|
6 |
加古川城主 |
賤ヶ岳戦後~ |
播磨国加古川城主 |
最終的に1万2千石 (異説あり) |
4 |
関ヶ原の戦い |
慶長5年(1600) |
西軍に参加。伏見城攻め。本戦では宇喜多秀家隊に所属。 |
敗北により改易、所領没収 |
4 |
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、豊臣政権内部の対立が頂点に達し、徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍とが雌雄を決した天下分け目の戦いでした。この戦いにおいて、糟屋武則は西軍に与し、その後の運命を大きく変えることになります。
糟屋武則は、関ヶ原の戦いにおいて石田三成が率いる西軍に加わりました 4 。これは、かつて賤ヶ岳の戦いで共に武功を立てた「賤ヶ岳の七本槍」の他のメンバーの多くが東軍に与したのとは対照的な選択であり、七本槍の中で唯一の西軍参加であったとも言われています 26 。武則が西軍を選んだ背景には、豊臣秀吉から受けた恩顧を重んじ、豊臣家(特に秀頼)を守ろうとする意識や、石田三成ら豊臣政権の文治派官僚との関係、あるいは徳川家康の台頭に対する反発など、複数の要因が考えられます。
賤ヶ岳の七本槍という、秀吉子飼いの武将として栄誉を担った者たちの中で、武則ただ一人が西軍に与したという事実は、彼の豊臣家への忠誠心の篤さ、あるいは当時の複雑な政治情勢に対する彼自身の独自の判断があった可能性を強く示唆しています。他の七本槍の多くが、家康の覇権を現実的なものとして受け入れ東軍についたか、あるいは戦況を見極めようと日和見的な態度を取った後に東軍に寝返ったのとは対照的に、武則の選択は際立っています。この決断が、彼のその後の運命、そして糟屋家の将来を決定づけることになりました。彼の選択は、単なる戦術的な判断を超え、武士としての義や忠誠といった価値観が複雑に絡み合った結果であったのかもしれません。
西軍に加わった糟屋武則は、具体的な戦闘にも積極的に参加しました。記録によれば、武則は360名の兵を率いて、まず西軍による伏見城攻めに加わっています 6 。伏見城は、徳川家康の忠実な家臣である鳥居元忠が守る重要な拠点であり、西軍にとっては緒戦の戦況を左右する鍵となる戦いでした 27 。この戦いで西軍は勝利を収めますが、元忠以下の守備兵の激しい抵抗により、多くの時間を費やすことになりました。
その後、関ヶ原の本戦(慶長5年9月15日)においては、宇喜多秀家隊に属して奮戦したと伝えられています 13 。宇喜多秀家は五大老の一人であり、その軍勢は西軍の主力部隊の一つでした。宇喜多隊は、合戦の序盤において福島正則隊など東軍の部隊と激しく衝突し、一時は東軍を押し込むほどの勢いを見せたとされています 29 。
伏見城攻めへの参加や、本戦における西軍の主力である宇喜多隊への所属は、武則が単に西軍に名義を貸したというだけでなく、実戦部隊として積極的に軍事行動に関与していたことを明確に示しています。彼が率いた兵力は360名と、大大名の軍勢に比べれば小規模ではありますが、賤ヶ岳の戦いなどで知られた勇猛な武将である彼の参加は、西軍全体の士気にも少なからず影響を与えた可能性があります。しかしながら、これらの奮戦も空しく、小早川秀秋らの裏切りなどにより西軍は総崩れとなり、武則もまた敗軍の将となりました。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した結果、糟屋武則は播磨国加古川に有していた1万2千石の所領を没収され、改易となりました 4 。これにより、武則は大名としての地位を失い、その後の人生は大きく変わることになります。
改易という処分は、武則個人のみならず、彼が率いていた家臣団や、糟屋家そのものにとっても決定的な打撃となりました。戦国時代から続く武家が、一戦の敗北によって長年保持してきた所領と社会的地位を全て失うことは、当時の武士にとって極めて厳しい現実でした。関ヶ原の戦いは、文字通り多くの大名の運命を左右した分水嶺であり、西軍に与した大名の多くが改易や減封といった厳しい処分を受けました。武則の改易は、徳川家康による新たな支配体制の確立過程における、旧豊臣系大名の淘汰の一例として位置づけることができます。この敗北と改易が、その後の武則の消息や子孫に関する記録が錯綜する大きな要因となったことは想像に難くありません。
関ヶ原の戦いで西軍に与し敗れた糟屋武則のその後の動静については、残念ながら確かな記録が乏しく、諸説が入り乱れているのが現状です 6 。賤ヶ岳の七本槍という輝かしい経歴を持ちながらも、歴史の敗者となったことで、その晩年は謎に包まれています。
説1:徳川家旗本として再興
一つの説として、武則は改易後にその武勇を惜しまれてか許され、慶長7年(1602年)に500石という小禄ながら旗本として徳川家に召し抱えられたというものがあります 6。この説に従うと、武則は慶長10年(1605年)26、あるいは慶長12年(1607年)3に病没したとされています。この説の典拠の一つとして、中国語版ウィキペディアでは「武家家伝 糟屋(谷)氏」というウェブサイトが挙げられています 26。
説2:早期の死去と領地没収
これとは別に、武則は関ヶ原の戦後まもなく隠居し、子の八兵衛に家督を譲ろうとしたものの、慶長6年(1601年)秋に武則(この説では宗孝ともされる)が、翌慶長7年(1602年)春には八兵衛が相次いで死去したため、同年9月15日に糟屋家の領地は最終的に没収されたという説も存在します 6。この説では、旗本としての再興はなかったことになります。
説3:『加古川市誌』の記述
さらに異なる記述として、『加古川市誌』には、武則は文禄年間(1592年~1596年)、つまり関ヶ原の戦いよりもかなり以前に伏見で毒により死去しており、跡を継いだ子の宗孝が関ヶ原の戦いに西軍として参加して敗れたため改易されたとあります。その後、宗孝は慶長7年(1602年)に領地を1万2千石に回復されましたが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方として戦死したとも記されています 6。この説は、武則自身の没年や関ヶ原への関与について、他の多くの史料と大きく矛盾しています。
その他の説
上記のほかにも、慶長7年(1602年)から慶長15年(1610年)の間、武則と子の八兵衛安長が備中国吉井城(または吉城)に入封したという伝承も存在します 6。
これほど多様な説が存在する背景には、いくつかの要因が考えられます。まず、関ヶ原の戦いで敗軍に属した武将の末路は、勝者である徳川方の公式な記録には詳細に残されにくいという側面があります。また、糟屋武則が「賤ヶ岳の七本槍」という著名な経歴を持つ人物であったために、その後の消息について後世に様々な憶測や伝承が生まれ、それが史実と混同されて伝えられた可能性も否定できません。
特に、徳川家旗本としての再興説は、武則の武勇が惜しまれての特別な措置であったという解釈も可能ですが、仮に事実であったとしても、与えられた500石という禄高は、かつて1万2千石を領した大名であった頃の栄光とは程遠いものであり、その境遇の大きな変化を物語っています。
『加古川市誌』に見られる説は、他の多くの一次史料や通説と矛盾する点が多く、特に武則の文禄年間毒殺説は孤立した情報と言わざるを得ません。在地史料が独自の貴重な伝承を保持していることはありますが、他の信頼性の高い史料との整合性を慎重に検討する必要があります。この説がもし事実であれば、糟屋武則の生涯は全く異なるものとして再評価されなければなりませんが、現時点ではその信憑性を判断することは極めて困難です。
これらの諸説は、歴史研究における史料批判の重要性と、一つの事象に対する多様な解釈の可能性を示しています。
表3:糟屋武則の没年および関ヶ原以降の処遇に関する諸説
説の概要 |
没年(各説による) |
主な典拠・関連史料 |
備考 |
徳川家旗本として500石で再興、その後病没 |
慶長10年(1605)または慶長12年(1607) |
3 「武家家伝 糟屋(谷)氏」など |
七本槍の武勇を惜しまれたか。石高は大幅減。 |
隠居後、武則(宗孝とも)と子・八兵衛が相次いで死去 |
武則:慶長6年(1601)秋、八兵衛:慶長7年(1602)春 |
6 |
領地は慶長7年9月に最終没収。旗本再興はなし。 |
『加古川市誌』説:武則は文禄年間に毒殺 |
武則:文禄年間(1592-96)、子・宗孝:元和元年(1615) |
6 『加古川市誌』 |
子の宗孝が関ヶ原参陣、大坂夏の陣で戦死。他の史料との矛盾が多い。 |
備中国吉井城(吉城)に入封 |
不明 |
6 伝承 |
慶長7年(1602)~慶長15年(1610)の間、子・八兵衛安長と共に。詳細不明。 |
糟屋武則の人物像を伝える史料は限られていますが、いくつかの記録や伝承からその一端をうかがい知ることができます。
糟屋武則の武勇を最も象徴するのは、やはり賤ヶ岳の戦いにおける活躍でしょう。この戦いで彼は「一番槍」の功名を立てたとされ 17 、その槍働きは豊臣秀吉からも高く評価されました 4 。この戦功が、彼を「賤ヶ岳の七本槍」の一人として歴史に名を刻むことになったのです。
その槍術の腕前を裏付けるかのように、滋賀県長浜市にある長浜市立長浜城歴史博物館には、武則が所用したと伝えられる「銘 助光」の大身槍(平三角槍)が現存しています 6 。この槍の伝来については興味深い話が残っており、元々は松平家にあったものが、同家から糟屋家に嫁いだ娘を通じて糟屋家にもたらされ、その後、関ヶ原の戦いによる糟屋家断絶の際に、この娘が再び松平家に持ち帰ったものと伝えられています 6 。大身槍という長大な槍を使いこなしたとされる事実は、武則が優れた体力と卓越した槍術の技量を持っていたことを示唆しています。また、この槍が松平家を通じて現代にまで伝来したという経緯は、糟屋家が改易された後の縁者の動向や、武具が家の宝として大切に受け継がれるという武家社会の文化の一端を垣間見せてくれる点で注目されます。
江戸時代後期の逸話集である『名将言行録』には、糟屋武則と黒田長政(黒田官兵衛孝高の子)との間に交わされたとされる興味深い話が記されています。ある時、黒田孝高から息子の長政の槍術師範となるよう依頼された武則は、これを快諾し、その証として賤ヶ岳の戦いで自らが用いた槍を長政に贈ろうとしました。しかし、若き長政は「古来より、槍の師範についてその指導を受けたことで大功を立てたという話は聞いたことがありません」と述べ、この申し出を固辞したといいます。これを聞いた武則は、長政の非凡な気概と自立心に感嘆し、彼がいずれ天下に名を成す大功を上げる人物になるだろうと高く評価したと伝えられています 6 。
この逸話は、武則の人物眼の確かさと、若き日の黒田長政の気骨を示すものとして興味深い内容です。武則が、形式的な師弟関係よりも実戦での経験や自らの才覚を重んじる長政の姿勢を見抜き、その将来性を見抜いたという点は、武則自身もまた実力主義的な価値観を持っていたことをうかがわせます。ただし、『名将言行録』は多くの逸話を集めた編纂物であり、その史料的価値については議論があることも付言しておく必要があります 34 。そのため、この逸話が全て史実であると断定することはできませんが、少なくとも武則と黒田家の間には浅からぬ関係があり、武則が槍の名手として周囲から認識されていたこと、そして当時の武士の価値観(実戦での功績を重視する気風など)を反映している可能性は十分に考えられます。
『川角太閤記』などの同時代に近い史料にも、糟屋武則に関する記述が散見される可能性がありますが、提供された資料の断片からは、具体的な人物像を詳細に描き出すことは困難です 6 。これらの史料を網羅的に調査することで、新たな側面が明らかになるかもしれません。
後世の創作物、例えば江戸時代に描かれた武者絵などの浮世絵においては、糟屋武則は勇ましい武将としての姿で描かれています 9 。これらは、賤ヶ岳の七本槍という彼の武勲が、後世においても語り継がれ、人々に勇壮なイメージを与えていたことを示しています。
しかしながら、武則の人物像を多角的に、そしてより深く理解するためには、史料が断片的であることが大きな制約となります。特に一次史料に近い記録が少ない場合、後世の編纂物や創作物に頼らざるを得ず、そこでは英雄的な側面が強調されたり、あるいは特定の逸話が脚色されたりする傾向が見られます。武則のより詳細な人物像の解明には、さらなる史料の発見と分析が待たれるところです。
糟屋武則の家族、特に妻や子孫に関する記録は断片的であり、多くの点が不明瞭なままです。関ヶ原の戦いにおける西軍への参加とそれに続く改易が、糟屋家の記録を散逸させ、後世における追跡を困難にした大きな要因と考えられます。
糟屋武則の妻に関する具体的な出自や名前についての情報は、提供された資料からはほとんど見出すことができませんでした 4 。戦国時代の武将の妻に関する記録は、よほどの名家の出身であったり、歴史的な大事件に深く関わったりしない限り、詳細が不明なことが多いのが実情です。
当時の記録が男性中心の視点で記述される傾向が強かったこと、そして何よりも糟屋家が関ヶ原の戦いの後に大名としての地位を失い没落したことで、家伝としての詳細な記録も散逸しやすかったためと考えられます。もし妻が他家から嫁いでいた場合、その実家の記録に残されている可能性も皆無ではありませんが、現時点では確認できません。
糟屋武則には複数の子とされる人物が伝えられていますが、その経歴や消息については多くの説が存在し、情報が錯綜しています 6 。これは、本家の改易後、一族が離散し、それぞれが異なる道を歩んだことを反映している可能性があります。
これらの子たちの消息に関する多様な説は、主家である糟屋家が改易された後、一族がそれぞれ異なる道を歩まざるを得なかった厳しい現実を示唆しています。大坂の陣で豊臣方に殉じたとされる宗孝、他家に仕官して家名を繋ごうとした十左衛門や権左衛門など、その選択は様々です。特に加賀藩や福岡藩といった有力大名に仕えたとされる記録は、武則自身の旧縁や、あるいは子たちの能力が他家からも評価された可能性を示しており、注目すべき点です。
表4:糟屋武則の子とされる人物とその消息
名前 |
武則との関係 (推定) |
主な活動・消息 (諸説あり) |
関連史料・典拠例 |
備考 |
糟屋宗孝 |
子 (または武則の別名) |
大坂夏の陣(1615)で豊臣方として戦死 26 。 または元和9年(1623)死去 (称名寺寺記) 6 。 |
6 |
没年・最期に複数説あり。 |
糟屋八兵衛 安長 |
子 |
慶長7年(1602)春死去 6 。 または慶長7-15年(1602-10)に父と共に備中吉井城 (吉城) 入封 6 。 |
6 |
消息不明瞭。備中入封説の確証は薄い。 |
糟屋十左衛門 |
子 |
慶長12年(1607)に加賀藩主・前田利長に500石で仕官 6 。 |
6 |
加賀藩での子孫の動向は不明。 |
加藤権左衛門 |
次男 |
関ヶ原後、黒田一成の庇護を受け加藤姓を名乗る。娘は福岡藩士・益田正親の妻 6 。 |
6 |
福岡藩で血脈が続いた可能性。 |
江戸幕府の公式な記録である『寛政重修諸家譜』には、糟屋忠安(兵庫助)の四男・数政(これが武則であるとされる)の弟である相喜の子・糟屋政忠が、旗本として徳川家に仕え、家名を存続させたと記されています 6 。
しかしながら、既に「2.3. 武則の出自に関する諸説」で触れた通り、この『寛政重修諸家譜』に記載されている糟屋忠安の系統は、駿河国や遠江国(現在の静岡県)を活動の拠点とした人物であり、播磨国を本拠とし、豊臣秀吉に仕えた糟屋武則との直接的な系譜関係については、多くの研究者から疑問が呈されています 6 。糟屋武則の直系の子孫が、江戸幕府の旗本として明確に家名を継続したという確実な記録は、提供された資料からは確認することが難しい状況です。
江戸幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』に登場する旗本糟屋氏と、賤ヶ岳の七本槍として名高い糟屋武則との関連が薄い、あるいは否定的に見られているという点は、非常に重要な意味を持ちます。これは、糟屋武則の家系が、関ヶ原の戦いでの西軍参加という結果、徳川幕府の支配体制下において主流から外れ、その家運が大きく傾いたことを強く示唆しています。仮に旗本として存続した糟屋氏がいたとしても、それが武則の直系ではない場合、武則自身の血筋はより困難な道を歩んだか、あるいは歴史の表舞台から姿を消していった可能性が高いと考えられます。このことは、戦国時代の武家の盛衰と、新たな支配体制下での家の存続の厳しさを如実に物語っています。
糟屋武則の墓とされる場所は、現在、兵庫県加古川市と東京都中野区の二箇所に伝えられています。これらの墓所がそれぞれどのような経緯で建立され、誰を祀っているのかについては、いくつかの考察が必要です。
兵庫県加古川市加古川町本町にある称名寺は、かつての加古川城跡に建つ寺院であり、古くから糟屋氏の菩提寺であったとされています 8 。この寺の境内には、「糟屋掃部武茂(かすや かもん たけしげ、または、ぶも)」と刻まれた墓碑が存在し、その没年として元和9年(1623年)8月15日という日付が記されています 40 。
この「武茂」という人物が、糟屋武則本人を指すのか、あるいはその子である宗孝を指すのかについては、かねてより議論があります。称名寺の寺記(寺の記録)によれば、糟屋宗孝は元和9年8月14日に死去したとされており 6 、墓碑に刻まれた没年月日と極めて近接しています。糟屋武則本人の没年とされることが多い慶長年間(1605年または1607年)とは、時期的に大きな隔たりがあります。
これらの情報を総合的に勘案すると、称名寺にある「糟屋掃部武茂」の墓碑は、糟屋武則本人ではなく、その子孫、おそらくは子の宗孝のものである可能性が高いと考えられます。菩提寺に一族の墓が集められて祀られることは一般的であり、武則自身の墓とは別に、あるいは武則の供養塔などが存在した上で、子の宗孝の墓としてこの墓碑が建てられたと推測するのが自然でしょう。「掃部」は官途名であり、「武茂」が宗孝の別名であったか、あるいは戒名の一部であった可能性も考えられます。
東京都中野区上高田には、曹洞宗の寺院である萬昌院功運寺があり、この寺の墓地にも糟屋武則の墓とされるものが存在します 31 。
萬昌院功運寺は、元々は久寶山萬昌院と竜谷山功運寺という二つの別個の寺院でしたが、昭和23年(1948年)に合併して現在の形となりました。萬昌院は天正2年(1574年)に今川長得(今川義元の三男)によって開かれ、今川家や、今川家と縁の深い吉良家の菩提寺となっていました。一方、功運寺は慶長3年(1598年)に永井尚政(徳川秀忠の老中)によって開かれた永井家の菩提寺です。この寺には、赤穂事件で知られる吉良義央(上野介)の墓をはじめ、旗本の水野成之(十郎左衛門)、南蛮外科医の栗崎道有、国学者の大関増業など、多くの著名な武家関係者や文化人の墓が現存しています 53 。
糟屋武則の墓が、なぜこの江戸(東京)の萬昌院功運寺にあるのか、その具体的な縁起や経緯については、提供された資料からは明確に判明しません 31 。武則の主な活動拠点が播磨や近畿であったことを考えると、江戸に墓が存在する理由は謎に包まれています。
考えられる可能性としては、いくつかの仮説が立てられます。
第一に、関ヶ原の戦い後に武則が徳川家の旗本となったという説が正しく、その際に江戸で活動し、亡くなってこの地に埋葬されたという可能性です。
第二に、武則の子孫の誰かが江戸に移り住み、あるいは江戸で仕官し、先祖である武則の供養のために墓(あるいは供養塔)を建立したという可能性です。
第三に、萬昌院功運寺に墓のある他の武家(例えば、吉良氏や永井氏、あるいは他の旗本など)と糟屋氏の間に何らかの縁故関係があり、その繋がりから分骨されたり、供養墓が設けられたりしたという可能性も考えられます。
この寺に水野成之や栗崎道有、大関増業といった江戸時代に活動した人物の墓があること 54 を踏まえると、武則の直接の子孫でなくとも、何らかの形で糟屋家と縁のある人物が江戸時代にこの寺と関わりを持ち、それが武則の墓の建立に繋がったのかもしれません。加古川の称名寺にある墓との関係(本墓と分骨、あるいは供養塔など)についても、さらなる調査が待たれます。
本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、糟屋武則の生涯と事績について、現存する諸資料を基に検証を試みました。播磨の小領主の子(あるいは養弟)として生まれ、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」の一人としてその武勇を天下に轟かせました。その後も秀吉の主要な戦役に従軍し、加古川城主として1万2千石を領する大名へと立身しましたが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことで運命は暗転します。敗戦により改易され、その後の消息については諸説が入り乱れ、多くの謎を残したまま歴史の表舞台から姿を消しました。
糟屋武則の生涯は、戦国乱世の武士が経験し得た栄光と挫折、そして時代の大きな変革期における個人の運命の厳しさと複雑さを象徴していると言えるでしょう。
糟屋武則の歴史的評価は、賤ヶ岳の戦いにおける輝かしい武勇と、関ヶ原の戦いにおける豊臣家への忠誠(あるいは時勢の読み誤り)という、二つの大きな側面から考える必要があります。七本槍としての功績は疑いようのないものですが、その後の政治的選択が彼の家を没落へと導きました。史料の制約、特に関ヶ原以降の記録の乏しさと錯綜は、彼の全体像を明確に描き出す上での大きな課題です。本報告書では、断片的な記録を繋ぎ合わせ、諸説を比較検討することで、その実像に少しでも迫ることを試みました。
未だ解明されていない点が多い糟屋武則の晩年や、その子孫たちの具体的な動向については、今後のさらなる史料の発掘と精密な分析が期待されます。特に、彼が活動した播磨や、子孫が仕官したとされる加賀藩、福岡藩などに残る古文書、系図、寺社の過去帳といった地方史料が、新たな光を当てる可能性があります。また、武則と同様に関ヶ原の戦いで西軍に与し改易された他の武将たちの事例との比較研究も、武則が置かれた状況や、その後の処遇に関する諸説を検証する上で有効な視点を提供するでしょう。
糟屋武則の事例は、歴史叙述において「記録される者」と「記録から漏れる者」、あるいは「勝者によって語られる歴史」と「敗者によって埋もれる歴史」の境界線を浮き彫りにします。賤ヶ岳の英雄でありながら、その後の政治的敗北が、彼の歴史的評価や後世に残る記録のあり方に大きな影響を与えたことは間違いありません。彼の生涯を丹念に追うことは、単に一個人の伝記研究に留まらず、歴史がいかに編まれ、記憶され、そして時には忘却されるのかという、歴史学の根源的な問いへと繋がっていくと言えるでしょう。