細川元常(ほそかわ もとつね、文明十四年/1482年 – 天文二十三年/1554年)は、戦国時代の歴史を動かした主役としてその名が語られることは稀である。しかし、彼の生涯は、室町幕府の権威が崩壊し、「下剋上」の奔流が社会のあらゆる階層を飲み込んでいく時代の転換点を、その身をもって体現した重要な人物として再評価されるべきである。彼は、崩れゆく旧秩序と、武力が全てを支配する新時代の狭間で翻弄され続けた、典型的な「中間の大名」であった。
細川氏は、室町幕府において管領を輩出する三管領家の一つであり、その宗家は「京兆家(けいちょうけ)」と呼ばれ、絶大な権力を誇った 1 。元常が属したのは、その有力な分家の一つである和泉上半国守護家(いずみかみしゅごけ)である 3 。和泉国は、国際貿易港湾都市である堺を擁する戦略的要衝であった。その重要性ゆえに、足利幕府は特定の守護による権力の独占を防ぐため、一国を「上守護」と「下守護」の二家が共同で統治するという、全国的にも特異な「両守護制」を敷いていた 5 。この制度は、元常の立場に固有の複雑性をもたらし、彼の政治的運命を大きく左右することになる。
本報告書は、細川元常の73年間にわたる生涯—劇的な失脚、二十年にも及ぶ雌伏、苦難の末の復権、そして最終的な完全な没落—を丹念に追う。そして、彼が中央の政争という巨大な渦と、在地勢力の突き上げという二つの力によって、いかにしてその権力を削がれ、無力化されていったのかを明らかにする。彼の軌跡を解明することは、戦国時代初期における守護大名という階層が直面した構造的な脆弱性を理解する上で、不可欠な視座を提供するものである。
表1:細川元常 略年表
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
文明14年 |
1482年 |
1歳 |
細川元有の嫡男として誕生 3 。 |
明応9年 |
1500年 |
19歳 |
父・元有が畠山尚順との戦いで戦死。家督を継ぎ、和泉上半国守護となる 3 。 |
文亀元年 |
1501年 |
20歳 |
九条政基の日根荘返付要求に対し、下守護・細川政久と共に抵抗 3 。 |
永正4年 |
1507年 |
26歳 |
管領・細川政元が暗殺される(永正の錯乱)。後継者争いで細川澄元方に与する 3 。 |
永正5年 |
1508年 |
27歳 |
細川高国に敗れ、和泉守護職を罷免される。澄元と共に阿波へ逃れる 3 。 |
永正8年 |
1511年 |
30歳 |
澄元と共に上洛を図るも、船岡山合戦で大敗し、再び阿波へ敗走 3 。 |
永正17年 |
1520年 |
39歳 |
細川澄元が阿波で病没。その子・晴元を支持し、抵抗を継続 2 。 |
享禄4年 |
1531年 |
50歳 |
大物崩れで細川高国が自害。細川晴元政権が成立し、和泉単独守護に復帰する 3 。 |
天文年間初期 |
(1532年以降) |
51歳~ |
自身は京都で晴元を補佐し、嫡男・晴貞が在国して和泉を統治する体制を敷く 3 。 |
天文12年 |
1543年 |
62歳 |
細川氏綱が晴元に反旗を翻す。元常は晴元方として氏綱と戦う 3 。 |
天文18年 |
1549年 |
68歳 |
三好長慶が晴元を裏切り、江口の戦いで晴元方が大敗。和泉を追われ、将軍・足利義輝と共に近江へ逃れる 3 。 |
天文19年頃 |
1550年頃 |
69歳 |
嫡男・晴貞が史料から姿を消し、消息不明となる 3 。 |
天文23年 |
1554年 |
73歳 |
6月7日、一族の屋敷や文書を京都・建仁寺塔頭の永源庵に寄進 3 。6月16日、近江にて客死 3 。 |
細川元常の家督相続は、波乱の幕開けであった。彼の父、細川和泉上守護家7代当主の細川元有は、元は建仁寺の禅僧であったが、兄の政有が死去したため還俗し、家督を継いだという異色の経歴を持つ人物である 8 。元有は明応四年(1495年)、和泉下守護の細川政久と共に、紀伊守護の畠山尚順と結び、細川宗家(京兆家)当主で管領の細川政元に反旗を翻した。しかし、この企ては失敗に終わり、元有は政元に降伏しその配下となっていた 8 。
この政治的判断が、元有自身の、そして元常の運命を決定づける。一度は敵対した畠山尚順は、今度は元有が政元に恭順したことを裏切りとみなし、明応九年(1500年)に元有の居城である和泉国岸和田城へ侵攻した。同年9月2日、岸和田城は落城し、元有は奮戦の末に戦死した 3 。享年42であった。この時、嫡男の元常は19歳。父が犯した政治的失敗の重荷を背負い、既に権力基盤が著しく弱体化した状況下で、和泉上半国守護家の家督を継承することになったのである。
表2:細川和泉上半国守護家 関係者系図
Mermaidによる関係図
注:細川藤孝(幽斎)の養父については、伝統的に元常とされてきたが、近年の研究では将軍足利義晴の直臣であった別系統の細川晴広とする説が有力視されている 3 。本図では両説を併記した。
守護に就任したばかりの元常が直面した最初の大きな課題は、中央の有力公家である前関白・九条政基との対立であった。政基は、自らが所有する広大な荘園・和泉国日根荘(ひねのしょう)の領主権が、現地の武士たちによって侵害されているとして、その回復を求めていた。しかし、在地の実効支配者である元常は、この要求を真っ向から拒否した。
この対立の様子は、政基自身が現地で記した貴重な日記『政基公旅引付』に生々しく記録されている。文亀元年(1501年)の記述によれば、政基は日根荘の返付を求めて和泉の両守護、すなわち上半国守護の細川元常と下半国守護の細川政久に使者を送った。しかし、両守護は対面さえ拒み、武力をもって政基の要求を退けたのである 3 。
この一件は、単なる土地を巡る争い以上の意味を持つ。それは、中世以来の荘園領主(公家)が持つ名目上の権威と、在地を実効支配する守護(武家)の武力・行政権との間に生じていた深刻な亀裂を象徴する出来事であった。元常が、前関白という最高位の公家に対してさえも強硬な態度を取ったことは、戦国武将としての自立した意思を示すものであった。一方で、彼が単独ではなく、下守護の政久と連携しなければならなかったという事実は、彼の権力が未だ盤石ではなかったことも示唆している。
さらに重要なのは、この対立の政治的背景である。対立相手の九条政基は、当時、細川京兆家の後継者候補の一人と目されていた細川澄之の実父であった 19 。元常が在地で行ったこの行動は、結果的に、京都で燻る中央の権力闘争において、極めて有力な派閥を敵に回しかねない危険な賭けであったと言える。彼の守護としての統治活動は、その当初から畿内の中央政局と密接に連関せざるを得ない宿命を負っていたのである。
永正四年(1507年)、畿内の政治情勢は激震に見舞われる。「半将軍」とまで呼ばれ、絶大な権勢を誇った管領・細川政元が、自邸で入浴中に暗殺されたのである 3 。修験道に深く傾倒し、生涯妻帯せず実子がいなかった政元は、三人の養子(澄之、澄元、高国)を迎えていたが、後継者問題がこじれた末の悲劇であった 21 。この事件は「永正の錯乱」と呼ばれ、細川一門を、ひいては畿内全域を、数十年にわたる未曾有の内乱状態へと陥れた 10 。
暗殺の実行犯は、養子の一人である細川澄之を支持する家臣、香西元長や薬師寺長忠らであった 20 。彼らは澄之を京兆家の当主として擁立したが、この動きは他の細川一門の強い反発を招いた。
この未曾有の混乱の中、細川元常は明確な政治的選択を迫られた。彼は、政元のもう一人の養子であり、阿波細川家の出身である細川澄元を支持する派閥に与した 3 。この派閥には、当時の将軍・足利義澄や、細川典厩家の細川政賢といった有力者も名を連ねており、将軍と有力分家を支持するという、一見して正統かつ合理的な選択であった 3 。
しかし、戦局は元常の思惑通りには進まなかった。第三の養子であった細川高国が、周防国を本拠とする西国随一の大大名・大内義興の強力な軍事支援を取り付け、前将軍・足利義稙を擁して上洛したのである 21 。大内氏の圧倒的な軍事力を背景にした高国派は瞬く間に澄元派を圧倒した。
元常は澄元と共に高国軍と戦うも敗北し、和泉守護の地位を剥奪された 3 。高国は和泉に自派の畠山尚順や細川高基を新たな守護として送り込み、元常の支配権は完全に失われた 13 。進退窮まった元常は、主君の澄元と共に、その本拠地である四国の阿波・淡路へと逃れ、捲土重来を期すこととなる 3 。
永正八年(1511年)、澄元派は京都奪還を目指して四国から大規模な上洛作戦を決行した。元常もこの作戦の中核を担い、和泉国深井での合戦で勝利を収めるなど奮戦したが、最終的に京都船岡山で行われた決戦(船岡山合戦)で高国・大内連合軍に大敗を喫した 3 。この敗北で味方の細川政賢は自害し、元常は再び命からがら阿波へと逃げ戻った。
これ以降、約二十年間にわたり、元常は歴史の表舞台から一時姿を消す。しかし、彼が政治活動を停止していたわけではない。彼は四国にあって、澄元派の抵抗運動を支える中心人物の一人であり続けた。永正十七年(1520年)、度重なる敗戦と心労が祟ったのか、主君の澄元は阿波で病没する 2 。元常は、その遺志を継ぎ、まだ幼い澄元の嫡男・晴元を新たな主君として支持し続けた 3 。この一貫した忠誠心と、二十年にも及ぶ雌伏の期間は、彼の人物像を理解する上で極めて重要である。
彼のこの長期にわたる阿波滞在は、単なる亡命生活ではなかった。阿波は、澄元・晴元父子の出身母体である阿波細川家と、その強力な被官であり、後に畿内を席巻することになる三好一族の揺るぎない本拠地であった 2 。元常の存在は、和泉守護家という名門の権威を、この阿波の軍事勢力と結びつける象徴的な役割を果たした。畿内に全ての権力基盤を失った彼にとって、この阿波の軍事ブロックに賭けることこそが、自らの家を再興し、政治的に生き残るための唯一の道であった。彼の粘り強い忠誠は、個人的な信義であると同時に、極めて現実的な戦略的判断だったのである。
二十年に及ぶ雌伏の時は、享禄四年(1531年)に終わりを告げた。元常が支え続けた細川晴元と、その軍事的中核を担う三好元長(三好長慶の父)が率いる阿波勢は、ついに宿敵・細川高国を摂津国天王寺・大物での決戦(大物崩れ)で破り、自害に追い込んだのである 3 。この勝利により、長きにわたった「両細川の乱」は晴元方の勝利で終結し、畿内の政治権力は大きく塗り替えられた。
長年の忠功が、ついに報われる時が来た。新政権の主となった晴元は、その最大の功労者の一人である元常を和泉守護に復帰させた 3 。この時、対立関係にあった和泉下守護家は既に内乱の中で断絶しており、元常は和泉国を単独で統治する守護となった 13 。失脚から実に23年を経て、彼は父祖の地における権力を取り戻したのである。
しかし、守護職に復帰した後の元常の行動は、かつての在地領主型の守護とは一線を画していた。彼は和泉国に腰を据えるのではなく、山城国の勝竜寺城を拠点とし、京都にあって晴元政権の重鎮として活動する道を選んだ 3 。そして、本国・和泉の統治は、嫡男である「五郎晴貞(ごろう はるさだ)」に委ねるという二元統治体制を敷いた 3 。
この統治形態は、当時の政治力学を的確に反映した、極めて戦略的な選択であったと考えられる。晴元政権は、当初こそ堺に拠点を置く「堺公方府」であったが、高国打倒後は京都に拠点を移し、室町幕府を掌握する中央政権として機能した 27 。政権の安定のためには、京都における政務や軍事指揮が最重要課題であった。元常は、長年の亡命生活と抵抗運動を通じて政治的・軍事的経験を積んだ宿老であり、晴元にとって最も信頼できる側近の一人であった。彼が中央で政権を支えることは、和泉一国を治めること以上に、政権全体にとって価値が高いと判断されたのであろう。そして、嫡男の晴貞を和泉に置くことで、本国の安定と中央政務への貢献を両立させようとしたのである。
この役割分担は、一見すると合理的であった。元常は、天文十二年(1543年)から始まった高国の養子・細川氏綱との戦いにおいて、晴元方の中核として参陣するなど、期待された役割を十分に果たした 3 。しかし、この「不在領主」ともいえる状況は、結果的に和泉国内に権力の空白を生み出し、彼の足元を揺るがす致命的な脆弱性を内包することになる。在地における守護の権威が、その代理人である息子の力量と、守護代をはじめとする在地勢力の動向に完全に依存するという、極めて不安定な構造を生み出したからである。
復権した元常の権力基盤を内部から蝕んだ最大の要因は、彼自身の守護代であった松浦守(まつら まもる)の台頭であった。松浦氏は、元常の父・元有の代から和泉上半国守護家の守護代を務めてきた譜代の家臣である 31 。しかし、主家の権威が揺らぐ戦国の世にあって、その関係は決して安定的ではなかった。
元常が阿波へ亡命していた二十数年間、和泉に在国していた松浦守は、主君の苦境をよそに、畿内の実権を握る細川高国方へ一時的に与するなど、巧みな政治的立ち回りを見せていた 3 。これは単なる裏切り行為と断じるべきではない。主家の権威が及ばない状況下で、守護代が自らの勢力を保全し、生き残りを図るために下した現実的な判断であった。この経験を通じて、松浦氏は独立志向を強め、和泉における自らの権力基盤を着々と固めていったのである 13 。
元常が守護に復帰し、その子・晴貞が在地を治めるようになっても、この緊張関係は解消されなかった。むしろ、経験豊富な元常が京都に常駐し、若年の晴貞が統治を代行するという状況は、松浦氏にとってさらなる好機となった。国際貿易港・堺を拠点とする松浦氏は、その経済力を背景に在地の国人衆(和泉三十六郷侍衆など)を束ね、守護の権威から自立した勢力を形成していった 31 。
そして、天文十八年(1549年)頃、両者の関係はついに破局を迎える。この時期、晴元政権の内部では、家臣である三好長慶の力が急速に増大していた。松浦守は、畿内の新たな覇権を握りつつある長慶の力を見極め、長慶方へと寝返るという最終的な決断を下す。そして、主君である細川元常・晴貞父子を和泉から武力で追放し、同国の実権を完全に掌握したのである 34 。これは、守護代が主君である守護を打倒する、典型的な「下剋上」であった。
元常の和泉支配を困難にしたもう一つの要因が、自由都市・堺の存在である。堺は、豪商たちによる会合衆(えごうしゅう)によって自治的に運営され、日明貿易や南蛮貿易の中心地として莫大な富が集積する、一大国際都市であった 36 。名目上、和泉守護の管轄下にあったものの、その実態は、どの権力にも完全には従属しない独立した政治勢力であった。
堺は、その富と防御能力を背景に、畿内の様々な政治勢力に中立的な拠点を提供した。細川晴元が当初「堺公方府」を設置したように、堺は各派閥にとって重要な戦略拠点であり、その歓心を得ることは政争を有利に進める上で不可欠であった 2 。このような状況下で、和泉守護であった元常が堺を実効支配し、その富を完全に掌握する力は極めて限定的であった。このことが、彼の和泉における権力基盤の脆弱性をさらに助長し、守護代である松浦氏が堺を拠点として勢力を伸張する土壌を提供したのである。
元常の和泉支配の実態は、単純な主君と家臣の序列で理解できるものではない。それは、公式の権威を持つ 守護・細川氏 、在地の実効支配力と軍事力を蓄える 守護代・松浦氏 、そして独立した経済力と政治力を持つ 自由都市・堺 という、三者が複雑に絡み合う権力闘争の場であった。元常は、後二者を制御することに最終的に失敗し、自身の領国から追われるという皮肉な結末を迎えた。松浦氏の成功は、堺における自らの地位と、新たな軍事覇者である三好氏との連携を巧みに利用した、戦国時代ならではの戦略の勝利だったのである。
細川元常の運命に最後の、そして決定的な一撃を加えたのは、皮肉にも彼が忠誠を誓った主君・細川晴元の家臣、三好長慶であった。長慶の父・三好元長は、晴元政権樹立の最大の功労者でありながら、その強大化を恐れた晴元によって謀殺同然の形で自刃に追い込まれていた 37 。父の非業の死後、家督を継いだ長慶は、当初は晴元の有能な武将として数々の戦功を挙げた。
しかし、晴元が三好一族内のライバルである三好政長を重用したことなどから、長慶と晴元の間には次第に修復不可能な亀裂が生じていく 39 。長慶は、父を死に追いやった主君への不信感と、自らの実力に見合わぬ処遇への不満を募らせていった。
両者の対立は、天文十八年(1549年)に頂点に達した。長慶はついに晴元に見切りをつけ、晴元の政敵であった細川氏綱を新たな主君として擁立し、公然と反旗を翻した。同年六月、両軍は摂津国江口で激突する(江口の戦い)。この戦いで長慶軍は晴元軍を壊滅させ、晴元が最後まで頼りにした三好政長を討ち取った 3 。
細川元常は、この決戦においても最後まで晴元への忠誠を貫き、その主力部隊の一員として参陣していた。しかし、奮戦も虚しく、晴元軍は大敗を喫した。元常は、主君・晴元や将軍・足利義輝と共に命からがら京都を脱出し、近江国坂本へと逃避行を余儀なくされた 3 。これが、彼の武将としての最後の戦いとなった。
江口の戦いでの敗北は、和泉上半国守護家としての細川元常一族に、完全な終焉をもたらした。絶対的な後ろ盾であった晴元は権力を失い、本国・和泉は既に三好長慶と結んだ守護代・松浦守に奪われていた。彼らは、帰るべき場所も、頼るべき権力も、全てを失ったのである。
この混乱の最中、和泉にあって父の代理統治を行っていたはずの嫡男・細川晴貞は、天文十九年(1550年)頃を最後に、全ての史料から忽然と姿を消す。江口の戦いの前後の動乱で命を落としたのか、あるいは歴史の闇に埋もれていったのか、その後の消息は一切不明である 3 。
元常自身は、同じく権力を失い流浪の身となった将軍・足利義輝に付き従い、亡命者として最期の数年間を過ごした。そして天文二十三年(1554年)六月十六日、再起の夢も叶わぬまま、近江の地で73年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。
彼の死のわずか9日前、六月七日のことである。元常は、自らが所有していた和泉守護の屋敷や、一族に伝わる権利、古文書などを、京都・建仁寺の塔頭である永源庵に寄進していた 3 。これは、自らの死期を悟り、一族の記憶を後世に伝えようとした最後の行為であったのかもしれない。この死の床での寄進が、彼の死後、その歴史的評価に予期せぬ、そして皮肉な影響を与えることになるとは、彼自身も知る由はなかったであろう。
細川元常の生涯は、細川澄元・晴元父子に対する、一途な、そして時代錯誤とさえ言えるほどの深い忠誠心に貫かれていた。二十年にも及ぶ亡命生活に耐え、主家の再興に尽力したその姿は、武士としての信義を重んじる旧来の価値観を体現するものであった。しかし、皮肉なことに、この忠誠こそが彼に束の間の復権をもたらし、同時に最終的な破滅を招いた直接の原因となった。彼は、個人の武力と実利が全てを決定する戦国という新しい時代の政治力学に適応できず、旧来の主従関係という枠組みの中で生き、そして滅んでいった。その意味で、元常は、伝統的な守護階級が「下剋上」の奔流の中で没落していく運命を象徴する人物であったと言える。
元常の歴史的評価を複雑にしているのが、近世大名・肥後熊本藩主細川家の祖である細川藤孝(幽斎)との関係である。
伝統的見解とその根拠
江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』などに代表される伝統的な見解では、藤孝は元常の弟とされる三淵晴員の子であり、天文八年(1539年)に将軍・足利義晴の命により、伯父である元常の養子になったとされてきた 43。この説は長らく信じられ、藤孝、ひいては熊本細川家は、名門である和泉守護家の後継者であると認識されてきた。
近年の学説による見直し
しかし、近年の研究によって、この伝統的見解は誤りである可能性が極めて高いことが指摘されている。まず、藤孝が養子になったとされる天文七年(1538年)当時、和泉守護家の当主は既に元常から息子の晴貞に移っていた可能性が高い 3。さらに決定的なのは、藤孝の養父は元常ではなく、将軍・足利義晴の側近であった別系統の細川晴広という人物であったことを示す史料が確認されたことである 3。これにより、藤孝は元常の家系とは直接の血縁も養子関係もなかったとする説が、現在では学界の有力な見解となっている。
作られた系譜とその動機
ではなぜ、後の熊本細川家は、この史実と異なる系譜を自らの正史として採用し、積極的に広めたのであろうか。その動機は、一族の権威付けにあったと考えられる。藤孝は将軍側近の幕臣という出自ではあったが、管領家にも連なる名門守護大名家の家柄ではなかった。そこで、自らの祖先である藤孝を、由緒ある和泉守護家と結びつけることで、一族の系譜に箔をつけ、その権威と正統性を高めようとしたのである。
この「歴史の創造」において、元常が死の直前に永源庵へ行った寄進が、極めて好都合な役割を果たした。元常が寄進した和泉守護家の屋敷や関連文書は、後に熊本細川家によって回収された 3 。これにより、熊本細川家は和泉守護家の遺産を物理的に継承したことになり、血縁・法的な後継者であるかのような外観を整えることができた。熊本細川家の文化財を収蔵・研究する財団「永青文庫」の名が、元常が菩提寺とした
永 源庵の「永」と、居城であった勝 竜 寺城(青龍寺城とも)の「青」に由来することは、この意図的な歴史の構築を象徴している 46 。
戦国時代の権力闘争に敗れ去った細川元常は、死後、天下人にも重用され、近世大名として生き残った、より成功した「分家」によって、権威ある祖先として「再利用」されたのである。
細川元常の真の歴史的重要性は、彼個人の限定的な功績にあるのではない。彼の生涯と死後の運命が、戦国時代という時代の本質—すなわち、旧来の権威の崩壊、下剋上という冷徹な現実、そして勝者によって歴史がいかに編纂され、物語が構築されうるか—という力学を、一人の武将の人生を通して鮮やかに映し出している点にある。彼は、自らが制御できない時代の激流に、忠誠という古き美徳を抱いたまま飲み込まれていった、悲劇的な武将であった。