細川元有は和泉上守護家当主。異例の家督相続後、和泉の二重支配下で政元と畠山尚順の間で揺れ動く。明応4年に政元に反旗を翻すが失敗し帰順。明応9年、岸和田城で尚順に攻められ戦死。
応仁・文明の乱(1467-1477年)が終結しても、京都を中心とする畿内に平和が訪れることはなかった。幕府の権威は失墜し、将軍は名目上の存在と化す。幕政の中枢を担うべき管領家の細川氏、畠山氏、斯波氏も、それぞれが内紛を抱え、三管領体制は完全に機能不全に陥っていた 1 。この権力の真空地帯にあって、頭角を現したのが細川京兆家(宗家)当主の細川政元であった。政元は明応2年(1493年)、将軍足利義材(後の義稙)を追放し、自らが選んだ足利義遐(後の義澄)を将軍に据えるという前代未聞のクーデター「明応の政変」を断行する 3 。これにより、政元は幕政を完全に掌握し、細川京兆家による専制体制、いわゆる「京兆専制」を確立させ、その権勢は絶頂期を迎えた 4 。
しかし、この政変は新たな、そしてより深刻な対立の火種を蒔くこととなる。政変の際、義材を支持して政元と戦い、河内正覚寺で自刃に追い込まれた管領・畠山政長の嫡子、畠山尚順である 6 。父の仇である政元の打倒を宿願とする尚順は、紀伊国を拠点として執拗に反攻の機会を窺い、畿内の反政元勢力の旗頭として、一大勢力を築き上げていった 6 。
本報告書が主題とする細川元有は、この細川政元と畠山尚順という二大勢力が激しく衝突する、まさにその最前線となった和泉国において、半国の守護という重責を担った人物である。細川一門でありながら、隣国を支配する尚順の強大な軍事力に常に晒されるという地政学的な宿命を背負った彼の生涯は、中央の権力闘争の奔流に翻弄された悲劇として語ることができる。本稿では、その出自から異例の家督相続、和泉国特有の統治構造、そして彼の運命を決定づけた政元への反旗と、その後の破滅的な結末に至るまでを、最新の研究成果を交えながら詳細に分析し、戦国黎明期における一人の武将の実像を明らかにする。彼の行動は、単なる忠誠心の変節としてではなく、常に変化するパワーバランスの中で生き残りを図った、時代の転換期における地方領主の苦悩の表れとして捉え直されるべきであろう。
細川氏は、清和源氏の名門・足利氏の支流であり、室町幕府を開いた足利尊氏とは同族にあたる 5 。その中でも、3代将軍足利義満を補佐した細川頼之の功績により、細川氏は斯波氏・畠山氏と並んで管領を世襲する三管領家として、幕政に重きをなす家柄となった 5 。頼之の跡を継いだ京兆家は細川氏の宗家として幕府内で絶大な権力を誇った 9 。
細川元有が属した和泉上守護家は、この細川氏の庶流にあたる。その祖は、宗家の権勢を確立した頼之の弟・頼有に遡る 5 。頼有は兄を補佐して功を挙げ、和泉半国の守護に任じられた。以後、その子孫は代々和泉国の上半国の守護職を世襲し、「和泉上守護家」と呼ばれるようになった 5 。また、代々当主が刑部少輔などの官職に任じられたことから「刑部家」とも称された 5 。この家系は、頼有から頼長、持有、教春、常有、政有、そして元有へと受け継がれていく 10 。
細川元有は、長禄3年(1459年)、和泉上守護家6代当主・細川常有の四男として生を受けた 11 。父・常有は、兄である教春が早世したため家督を継いだ人物であった 10 。元有には政有をはじめとする兄たちがいたため、本来であれば家督を継承する立場にはなかった。そのため、彼は若くして仏門に入り、京都の建仁寺で「雪渓源猷(せっけいげんゆう)」と号する禅僧としての日々を送っていた 11 。
しかし、彼の運命は兄の早世によって大きく転換する。文明12年(1480年)、元有は還俗して俗世に戻る。そしてその翌年、家督を継いでいた兄・政有(将軍足利義政から「政」の一字を賜った人物)が死去したため、父・常有の命により、元有が家督を相続することとなったのである 12 。一度は世俗の権力闘争から離れた身でありながら、予期せぬ形で名門守護家の当主となった彼の経歴は、異例のものであった。当主となった元有は、通称として「五郎」を、官途としては「刑部少輔」を称した 11 。
この家督相続の経緯は、元有が武将としてのキャリアを開始した時点で、すでに不安定な要素を内包していたことを示唆している。兄たちの死により急遽当主に立てられたことは、和泉上守護家において後継者候補が不足していたという内情をうかがわせる。武将としての十分な教育や、家臣団との強固な人間関係を築く時間的猶予がないまま、彼は畿内の要地である和泉の守護という重責を担うことになった。このやや脆弱な権力基盤が、後の彼の政治的判断に影響を与えた一因であった可能性は否定できない。
細川元有が統治した和泉国は、小国ながらも畿内において極めて重要な戦略的価値を持っていた。その最大の理由は、国際貿易港として繁栄を極めた堺の存在である 14 。堺は日明貿易や琉球貿易、後には南蛮貿易の拠点として莫大な富が集積する自由都市であり、その支配権を握ることは、畿内の経済、ひいては政治・軍事の覇権を左右するほどの意味を持っていた。このため、和泉守護の地位は、常に周辺の有力大名の野心に晒されることとなった。
和泉国の統治構造は、全国的にも極めて稀な形態をとっていた。それは、一国を二人の守護が分割して統治する「両守護体制」である 14 。元有が属した細川頼有を祖とする「上守護家」と、細川満之を祖とする「下守護家」が、それぞれ和泉国の半国を共同で統治していた 14 。
この特異な体制は、かつて堺を拠点として幕府に反乱を起こした山名氏や大内氏の教訓から、時の将軍足利義満が、一人の守護に権力が集中することを防ぐ目的で意図的に設けたものであった 15 。元有の時代、彼と共に和泉国を治めた下守護家の当主は細川基経であった 16 。両守護家の守護所は、共に堺に置かれていたと記録されている 15 。
この両守護体制は、本来意図された権力の分散が、時代の変化とともに統治能力の弱体化という負の側面を露呈させることになった。一つの国に二つの権力が並立する状況は、外部からの圧力に対して迅速かつ統一的な意思決定を行うことを困難にした。特に、畠山尚順のような単一で強力な指導者が率いる勢力と対峙する上で、この構造的欠陥は致命的とも言える弱点となったのである。
守護としての元有の具体的な活動は、断片的な史料から窺い知ることができる。文明17年(1485年)、和泉国内で国人らが蜂起した「惣国一揆」が発生した際には、下守護の細川基経と協力してこれを鎮圧し、守護としての権威を示している 14 。
しかし、その直後には、隣国・紀伊の有力寺社勢力である根来寺衆の侵攻を受け、これに抗しきれずに基経と共に河内国へ落ち延びるという屈辱を味わっている。この時、彼らが頼ったのは、本来は細川京兆家と敵対関係にあった畠山義就であった 14 。この一件は、和泉守護家の軍事力が脆弱であり、常に外部勢力の動向に左右される不安定な立場にあったことを物語っている。また、この時期に大和国の有力国人である越智氏から側室を迎えるなど 14 、元有が周辺勢力との関係構築を通じて、自らの立場を強化しようと苦心していた様子が窺える。
細川元有が主君として仰ぐべき細川京兆家当主・細川政元は、戦国時代の武将の中でも際立って異質な人物であった。彼は政治よりも修験道に深く傾倒し、自らを天狗になぞらえるなど、常軌を逸した言動で知られていた 9 。源義経が鞍馬山で天狗から兵法を授かったという伝説に自身を重ね、修験者を師と仰いでいたという 9 。
その奇行は政務にも及び、幕府の最高職である管領に任じられても、わずか数日で「面倒だ」と言って辞任することを繰り返し、家臣や将軍を困惑させた 9 。また、政務を重臣に任せきりにして、自身は修行や船旅に出かけてしまうことも度々であった 19 。このような主君の奇矯な振る舞いと政治への無関心は、細川一門や家臣団の間に、将来に対する深刻な不安と不信感を醸成していったと考えられる。
明応4年(1495年)、細川元有は、和泉統治のパートナーである下守護・細川基経と共に、衝撃的な行動に出る。紀伊・河内を拠点とする畠山尚順と手を結び、宗家の主君である細川政元に対して公然と反旗を翻したのである 5 。
この動きは、当時の公家の日記からも確認できる。興福寺大乗院の門跡尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』によれば、明応2年(1493年)の時点では、細川政元は和泉の両守護(元有と基経)を動員して、紀州の畠山尚順勢に対抗させていた。しかし、そのわずか2年後の明応4年10月には、「和泉両守護 紀州方ト成ル」と記されており、彼らが完全に尚順側に寝返ったことが記録されている 17 。
元有らが主家を裏切るという重大な決断に至った背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
第一に、畠山尚順が持つ圧倒的な軍事力という外的要因である。父・政長の仇討ちという大義名分を掲げた尚順の勢いは凄まじく、畿内の反政元勢力を糾合する一大軍事勢力となっていた 6 。和泉国は、その尚順の領国である河内・紀伊に挟まれた位置にあり、在国する元有らにとって尚順の軍事的圧力は、遠い京都にいる主君・政元の権威よりも、はるかに現実的で切迫した脅威であった。史料にも、軍事力において畠山尚順勢が優勢であったため、両守護は降参せざるを得なかった、という趣旨の記述が見られる 17 。
第二に、主君・政元に対する不信感という内的要因である。前述の通り、政元の奇行と政治的無関心は、地方で奮闘する元有らにとって、頼るに値しない主君という認識を抱かせた可能性がある。いざという時に本当に救援してくれるか定かではない主君に忠誠を誓い続けるよりも、目前の軍事的強者である尚順に与する方が、自らの領国と家門を守るための現実的な生存戦略であると判断したとしても不思議ではない。
この元有の反乱は、単なる裏切りや下剋上とは一線を画す、より深刻な構造変化を象徴する事件であった。それは、室町幕府が定めた守護という「公的な職分」に基づく秩序が崩壊し、地域の軍事バランスという「私的な実力関係」が領主の行動を決定する、新たな「戦国的状況」へと時代が移行したことを明確に示している。元有の選択は、古い秩序から新しい秩序への転換期に、多くの武将が直面したであろう苦渋のジレンマを体現していたのである。
表1:細川元有をめぐる人物関係と勢力図(明応年間)
勢力・家門 |
主要人物 |
立場・官職 |
明応4年(1495年)時点の関係 |
明応9年(1500年)時点の関係 |
細川京兆家 |
細川政元 |
管領、幕府の実権者 |
敵対 |
主君(元有らが降伏) |
和泉上守護家 |
細川元有 |
和泉上守護、刑部少輔 |
政元に反乱、尚順と同盟 |
政元に帰順、尚順と敵対 |
和泉下守護家 |
細川基経 |
和泉下守護、民部大輔 |
政元に反乱、尚順と同盟 |
政元に帰順、尚順と敵対 |
畠山尾州家 |
畠山尚順 |
紀伊・河内守護 |
元有・基経と同盟 |
元有・基経と敵対(攻撃) |
室町幕府 |
足利義澄 |
将軍(政元の傀儡) |
政元方 |
政元方 |
畠山尚順と結託し、細川政元に反旗を翻した細川元有と基経であったが、その試みは長くは続かなかった。畿内に強固な地盤を持つ政元が派遣した討伐軍の前に、和泉両守護の軍勢は敗北を喫する。進退窮まった元有らは、政元に降伏し、その軍門に下ることを余儀なくされた 10 。これにより、彼らは赦免される代わりに、政元の家臣としてその指揮下に組み込まれることになった。
この降伏は、元有の立場を180度転換させるものであった。昨日までの盟友であった畠山尚順は、今日からは主君・政元の命令によって討伐すべき敵となったのである 6 。当然ながら、この元有の行動は、尚順の側から見れば許しがたい「裏切り」に他ならなかった。一度は味方として迎え入れたにもかかわらず、戦況が不利になるとあっさりと敵方に寝返った元有は、尚順の激しい憎悪と復讐心の対象となった。
この一連の動きは、元有を政治的に完全に孤立させる結果を招いた。一度裏切った主君である細川政元からは、もはや完全な信頼を得ることは難しい。常に監視され、危険な役回りを押し付けられる可能性が高い立場となった。一方で、一度は手を結んだ畠山尚順からは、裏切り者として命を狙われることになった。彼は、どちらの陣営からも心から信用されることなく、二大勢力の狭間でいつ切り捨てられてもおかしくない、極めて危険で脆弱な立場に自らを追い込んでしまったのである。戦国初期の流動的な同盟関係がいかに危険な賭けであったか、そして一度の判断ミスが命取りになる時代の過酷さを、彼の境遇は如実に物語っている。この時点で、彼の破滅は半ば運命づけられていたと言っても過言ではなかった。
細川政元に帰順してから5年後の明応9年(1500年)8月、ついに運命の日が訪れる。畠山尚順が、積年の恨みを晴らすべく、根来寺や粉河寺の衆徒からなる大軍を率いて和泉国へと侵攻。その矛先は、元有の居城である岸和田城に向けられた 6 。尚順の目的は明白であり、かつて味方でありながら離反した裏切り者、細川元有と細川基経への報復であった 6 。
岸和田城に籠もった元有は防戦に努めたが、尚順軍の猛攻の前に衆寡敵せず、同年9月2日、ついに城は落城。細川元有は城と運命を共にし、戦死を遂げた 5 。享年42であった 11 。時を同じくして、下守護の細川基経も自害しており、和泉両守護家は当主を同時に失うという悲劇に見舞われた 6 。
この両守護の死について、公家の近衛政家が記した日記『後慈眼院殿御記』の明応9年9月1日条には、興味深い記述がある。それは、元有と基経の自害が「神尾合戦の影響」によるものであった、というものである 16 。この「神尾合戦」が具体的に岸和田城の戦いを指すのか、あるいは同時期に丹波国神尾山城(現在の京都府亀岡市)で起きていた細川氏の内紛と何らかの連動があったのかは、研究者の間でも議論があるが 23 、元有の死が、単なる一城の攻防戦に留まらない、より広範な畿内の軍事衝突の一環であったことを示唆している。
岸和田城を攻略し元有を討ち取った尚順は、その勢いを駆って本来の目標であった河内国の奪還を目指し、高屋城を包囲した。しかし、ここで細川政元が派遣した重臣・赤沢朝経らの反撃に遭い、尚順軍は大敗。尚順は再び紀伊への撤退を余儀なくされた 6 。この一連の流れは、岸和田城攻めが、尚順の河内奪還作戦全体から見れば、前哨戦としての位置づけであったことを示している。
ここで注目すべきは、主君である細川政元の対応である。記録上、政元が元有を救うために大規模な援軍を岸和田城へ送った形跡は見当たらない。政元にとって、一度裏切った元有はもはや信頼のおけない部下であった。その元有を、最大の政敵である畠山尚順に攻撃させるという構図は、政元にとって極めて好都合であった可能性がある。もし元有が持ちこたえれば尚順の戦力を削ぐことができ、もし元有が討たれれば自らの手を汚すことなく厄介者を排除できる。結果として元有は、二大勢力の巨大な権力闘争のチェス盤から、戦略的に取り除かれた駒となった。彼の死は、単なる一武将の戦死という側面だけでなく、政元の冷徹な政治計算の犠牲になったという側面を色濃く帯びているのである。
細川元有の死後、和泉上守護家の家督は、正室(細川成之の娘)との間に生まれた嫡男・細川元常が継承した 5 。しかし、父の悲劇的な死は、和泉上守護家の苦難の終わりを意味しなかった。元常は、細川京兆家で勃発した後継者争い、いわゆる「両細川の乱」において、細川澄元方に与した。しかし、澄元方が対立する細川高国に敗れたため、元常は守護職を奪われ、一時的に阿波国へ逃れるなど、父・元有と同様に、畿内の激しい権力闘争の荒波に翻弄され続ける生涯を送ることになった 5 。
細川元有という人物を歴史的に評価する上で、避けて通れないのが、戦国時代を代表する大名であり、当代随一の文化人でもあった細川藤孝(幽斎)との血縁関係を巡る問題である。この点については、大きく分けて二つの説が存在し、長年にわたり学術的な論争が続いている。
伝統的説
江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』などに代表される伝統的な説では、細川元有には側室(三淵晴貞の娘)との間に三淵晴員という子がおり、この晴員の子が、後の細川藤孝であるとされる 24。そして藤孝は、伯父にあたる元有の嫡男・元常の養子となって細川家を継いだと説明される 26。この説に基づけば、細川元有は、近世大名として明治維新まで続いた肥後熊本藩主細川家の直系の祖先の一人ということになり、その歴史的重要性は格段に高まる。
近年の新説
一方で、近年の研究では、この伝統的説に疑問が呈されている。一次史料を精査した結果、藤孝の養家は和泉上守護家ではなく、将軍の側近を務めていた別系統の細川氏、すなわち細川淡路守護家の流れを汲む細川晴広であったとする説が有力視されるようになった 10。この淡路守護家は、元を辿れば佐々木源氏大原氏の出身で、8代将軍足利義政の時代に細川姓を名乗ることを許された家系であった 26。この新説に立てば、細川藤孝と細川元有の間には、直接的な血縁関係も養子関係も存在しないことになる。
この出自論争は、細川元有という人物の歴史的イメージそのものを大きく左右する。伝統的説に立てば、彼の生涯は「戦国の動乱の中で悲劇的な死を遂げたが、その血脈は孫・藤孝によって見事に再興され、近世大名として大成した」という、一種の成功譚の序章として物語ることができる。しかし、新説に立てば、彼の家(和泉上守護家)は「戦国の荒波の中で歴史の舞台から消えていった数多の守護大名家の一つ」となり、その生涯はより一層、時代の過渡期における武家の儚さを象徴するものとして捉えられる。
なぜこのような異なる系譜伝承が生まれたのか。確実な一次史料が欠けていることが最大の要因であるが、そこには近世大名家となった細川家が、自らの家の権威を高めるため、より格の高い名門である和泉上守護家(刑部家)に自らの系譜を接続しようとした、後世の意図が働いた可能性も指摘されている。この論争自体が、歴史的な「事実」と、後世に構築された「物語」との関係性を考える上で、極めて示唆に富む事例と言えるだろう。
細川元有の生涯は、戦国時代の黎明期という、巨大な時代の転換点に生きた一人の武将の苦悩と悲劇を凝縮している。彼は名門・細川氏の庶流に生まれ、一度は仏門に入るという穏やかな道を歩むはずであったが、運命のいたずらにより、武家の当主として激動の渦中へと引き戻された。
彼が生きた時代は、室町幕府という旧来の権威が崩壊し、中央の権力闘争が地方の隅々にまで直接的な影響を及ぼす、新たな時代の幕開けであった。彼が守護を務めた和泉国は、国際貿易港・堺を擁するがゆえに常に狙われ、かつ、細川京兆家と畠山氏という二大勢力の緩衝地帯という、地政学的に極めて困難な立場に置かれていた。
この絶え間ない圧力の中で、元有は生き残りをかけて、主家への反乱と帰順という危うい綱渡りを試みた。しかし、その決断はどちらの勢力からも完全な信頼を得るには至らず、最終的には政治的孤立を深め、かつての盟友であった畠山尚順の報復の刃に倒れた。彼の死は、主君・細川政元の冷徹な政治計算の前に、一個の駒として切り捨てられたという側面も否定できない。
その血脈が後の細川藤孝に繋がるか否かは、学術的な論争の最中にある。しかし、その論争とは別に、細川元有自身の生涯を評価するならば、それは古い秩序が崩壊し、実力のみが全てを決定する新たな秩序がまだ確立されない過渡期において、一個人の力では到底抗い難い巨大な時代のうねりに飲み込まれていった、数多の武将たちの典型的な悲劇であったと結論づけることができる。彼の人生は、戦国という時代の非情さと、その中で必死に生きようとした人間の儚さを、我々に強く訴えかけている。