日本の戦国時代、畿内における権力闘争の渦中にその名を刻んだ武将、細川氏綱(ほそかわ うじつな)。彼をめぐる歴史的評価は、長らく「室町幕府最後の管領」という栄誉と、「三好長慶の傀儡」という不名誉な二つの通説によって彩られてきた 1 。利用者様がご存知の「三好長慶らに擁立され、細川晴元と争い、管領に就任したものの、実権なく淀城で没した」という人物像は、まさにこの通説的理解の核心を突くものである。しかし、近年の歴史研究、特に一次史料の丹念な分析は、この単純化された人物像に根本的な見直しを迫っている。
本報告書は、これら二つの核心的な通説を批判的に再検討することを目的とする。第一に、「管領」という彼の最も著名な肩書が、果たして歴史的事実であったのかを検証する。同時代の史料を精査すると、氏綱の管領就任を直接証明するものは見当たらず、この称号が後世の軍記物語などによって創出された「神話」である可能性が浮かび上がる 4 。
第二に、「傀儡」という評価の妥当性を問う。氏綱自身が発給した文書や、同時代の人々が彼に寄せた期待を分析することで、彼が単なるお飾りの君主ではなく、三好長慶と権力を分担する「共同統治者」として、主体的に政権運営に関与していた実態を明らかにする 4 。
これらの論点を軸に、細川氏綱の生涯を、その出自から最期に至るまで徹底的に追跡する。そして、室町幕府の権威が崩壊し、新たな戦国大名権力が誕生する激動の時代において、彼が果たした真の役割と歴史的意義を再構築することを目指す。本報告書は、通説の向こう側にある、より複雑でニュアンスに富んだ細川氏綱の実像に迫るものである。
細川氏綱の生涯は、彼の意思とは無関係に、血で血を洗う権力闘争の渦中から始まった。彼の行動原理を理解するためには、まず彼が背負った宿命、すなわちその出自と、二人の父の非業の死という原体験に光を当てる必要がある。
細川氏綱は、室町幕府の管領職を世襲した名門中の名門、細川京兆家(けいちょうけ)の直系ではない。彼の出自は、京兆家の分家の一つである細川典厩家(てんきゅうけ)であった 7 。父は典厩家当主の細川尹賢(ただかた)、母は室町幕府の財政を司る政所執事(まんどころしつじ)であった伊勢貞陸(いせさだみち)の娘であり、血筋としては申し分ない貴公子であった 10 。生年は永正10年(1513年)または永正11年(1514年)とされ、幼名は宮寿(みやじゅ)といった 7 。大永4年(1524年)には、将軍・足利義晴が父・尹賢の邸宅を訪問した際、当時まだ幼い「御曹司様」である宮寿が将軍に太刀と馬を献上したという記録も残っており、将来を嘱望される存在であったことが窺える 8 。
しかし、典厩家は京兆家を支える有力な一門ではあったものの、管領職を継承する家柄ではなかった。平時であれば、氏綱は父の跡を継いで典厩家当主となり、京兆家の家督を望むことなどあり得なかったであろう。彼を歴史の表舞台へと引きずり出したのは、戦国という時代の激しい動乱であった。
氏綱の人生航路を決定的に捻じ曲げたのは、養父・細川高国(たかくに)と実父・細川尹賢という、二人の父が相次いで非業の死を遂げたことである。この悲劇が、彼の生涯を貫く細川晴元(はるもと)への復讐心の原点となった。
第一の父、養父・細川高国は、細川京兆家の家督を継ぎ、一時は管領として幕政を掌握した人物であった。しかし、同じく細川一門の阿波守護家出身である細川晴元との権力闘争、いわゆる「両細川の乱」に敗れる。享禄4年(1531年)、晴元とその重臣であった三好元長(みよしもとなが、後の長慶の父)の軍勢に攻められ、「大物崩れ(だいもつくずれ)」と呼ばれる合戦で大敗を喫し、尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた 11 。高国には実子の稙国(たねくに)がいたが早世したため、従兄弟の子である氏綱が養子として迎えられていた 4 。
第二の父、実父・細川尹賢の最期はさらに複雑であった。彼は当初、高国の重臣として権勢を振るったが、些細なことから同僚の香西元盛(こうざいもともり)を讒言して高国に殺害させ、結果的に高国政権の内部崩壊を招く一因を作った 10 。そして、高国の敗色が濃くなると、主君を見限って敵方の晴元に寝返るという挙に出る。しかし、その直後から晴元との関係が悪化し、寝返りからわずか数ヶ月後、晴元の命を受けた武将・木沢長政(きざわながまさ)によって摂津で殺害されてしまったのである 11 。
この二人の父の死は、氏綱の心に消しがたい傷と憎悪を刻み込んだ。一般的に、氏綱の挙兵は「養父・高国の仇討ち」という文脈で語られがちである。しかし、史実を深く見れば、彼の憎悪の対象である晴元は、養父のみならず、一度は寝返った実父をも死に追いやった張本人であった。これは、氏綱の動機が、単なる政治的対立や養父への義理立てといった次元を超えた、極めて個人的で根深い「二重の復讐心」に根差していたことを示唆している。この二人の父の無念を晴らすという強烈な執念こそが、その後の長く苦しい雌伏の時代と、不屈の闘争を支える精神的な支柱となったのである。
養父と実父を相次いで失い、自らが継ぐべき細川京兆家の家督も仇敵・晴元の手に渡った氏綱は、苦難の時代を迎える。当初、高国派の残党を率いたのは、高国の実弟である細川晴国(はるくに)であった 8 。氏綱は晴国らと共に、晴元政権打倒の機会を虎視眈々と窺う雌伏の日々を送る 4 。しかし、その晴国も天文5年(1536年)に味方の裏切りにあって敗死してしまう 8 。高国派の有力な旗頭を失ったことで、否応なく氏綱がその遺志を継ぎ、反晴元勢力の中心人物としての重責を担わざるを得ない状況へと追い込まれていったのである。
二人の父を失い、雌伏の時を過ごした細川氏綱であったが、彼の復讐の炎が消えることはなかった。彼は畿内の反晴元勢力を結集し、執拗に反撃の機会を窺う。この章では、圧倒的に不利な状況から、いかにして闘争を継続し、後の逆転劇への布石を打っていったかを追う。
天文7年(1538年)頃、氏綱はついに反撃の狼煙を上げる。彼は和泉国(現在の大阪府南部)を拠点として、晴元打倒の兵を挙げた 4 。この挙兵は単独のものではなく、河内守護の畠山稙長(はたけやまたねなが)やその重臣である遊佐長教(ゆさながのり)、大和国の筒井氏といった、晴元政権に不満を持つ畿内の有力者たちと連携した広域的な軍事行動であった 4 。
しかし、当時の細川晴元は将軍・足利義晴を擁し、管領として幕政を主導する強大な権力者であった。氏綱らの反乱は、当初、晴元の圧倒的な力の前に苦戦を強いられる。それでも氏綱は諦めなかった。天文12年(1543年)には、本願寺の宗主である証如(しょうにょ)に対し、味方として一向一揆を蜂起させてほしい、さらには兵糧を貸してほしいと要請する書状を送っている 12 。これは、宗教勢力をも巻き込み、あらゆる手段を尽くしてでも宿願を果たそうとする彼の執念の現れであった。
氏綱の不屈の闘争は、天文16年(1547年)7月、一つの大きな転機を迎える。氏綱が同盟者である遊佐長教と共に率いる連合軍は、細川晴元方の主力部隊と摂津国舎利寺(しゃりじ、現在の大阪市生野区)で激突した 17 。この晴元軍の中核を担っていたのが、皮肉にも後に氏綱の最大の盟友となる三好長慶であった。
この舎利寺の戦いは、両軍合わせて数千人の死者を出す凄惨な戦いとなり、「応仁の乱以来、畿内最大の合戦」と称されるほどの規模であった 17 。激戦の末、戦いは三好長慶率いる晴元軍の勝利に終わる。氏綱・遊佐連合軍は敗北を喫し、高屋城へと撤退した 18 。
この敗北は、短期的には氏綱の勢力にとって大きな痛手であった。しかし、この戦いが歴史に与えた影響は、単なる勝敗以上の、逆説的な意味合いを持っていた。この戦いにおける三好長慶の目覚ましい活躍は、晴元陣営内での彼の声望を決定的に高めた 17 。だが、それは同時に、主君である晴元にとって、長慶がもはや単なる一武将ではなく、自らの地位を脅かしかねない危険な存在として映ることを意味した。晴元は、父・元長の代から長慶と対立していた同族の三好政長(みよしまさなが)を重用し続けることで、功績を上げた長慶を牽制し、その力を抑え込もうとする。この主君からの冷遇と警戒が、長慶の心に晴元への不満と不信を増幅させていく。
結果として、氏綱が喫した舎利寺での敗北は、皮肉にも敵陣営の内部に深刻な亀裂を生み出し、その崩壊を内側から促進する遠因となった。氏綱は戦いには敗れたが、その敗北こそが、二年後の「江口の戦い」において宿敵・三好長慶を味方として迎え入れるための、歴史的な伏線として機能したのである。一つの敗戦が、政局全体を勝利へと導くための重要な布石となった、戦国時代のダイナミズムを象徴する出来事であった。
舎利寺の戦いから二年、畿内の政治情勢は劇的に転換する。細川晴元政権の内部対立が頂点に達し、細川氏綱にとって千載一遇の好機が訪れた。「敵の敵は味方」という戦国の論理が、長年の宿敵を最強の味方に変え、ついに宿願達成への道を切り開く。
細川晴元政権下では、その権力基盤を支える二人の重臣、三好長慶と三好政長の対立が日に日に深刻化していた 21 。政長は晴元の側近として重用されていたが、長慶にとっては、父・三好元長を讒言によって死に追いやった仇敵の一人であり、両者の確執は個人的な怨恨を含む根深いものであった 24 。長慶は、自身の功績にもかかわらず政長が重用され続ける状況に強い不満を抱き、晴元に対して政長の排除を再三にわたり要求した。
しかし、晴元はこの要求を拒絶し、一貫して政長を擁護し続けた 24 。この晴元の決断が、長慶に最終的な決意を固めさせる。主君・晴元に見切りをつけた長慶は、政権そのものを打倒すべく、これまで敵として戦ってきた細川氏綱を新たな主君として擁立するという、大胆な行動に出たのである 3 。
この氏綱と長慶の同盟は、単に「打倒晴元」という政略的な利害の一致だけで説明できるものではない。両者の間には、より深く、強固な結束の基盤が存在した。それは、「父を晴元政権によって非業の死に追いやられた」という共通のトラウマである。氏綱は養父・高国と実父・尹賢を、長慶は父・元長を、いずれも晴元とその周辺人物の策謀によって失っていた。この共有された個人的な怨恨と復讐心は、両者の間に極めて強い心理的な連帯感を生み出したと考えられる。裏切りが日常茶飯事であった戦国時代において、彼らの協力関係が比較的安定し、後述する共同統治体制へと発展した背景には、この共通体験があったことは想像に難くない。それは、両者の関係を単なる「主君と家臣」や「傀儡」といった単純な図式で捉えることの限界を示唆している。
天文18年(1549年)、細川氏綱を新たな主君として奉じた三好長慶は、ついに打倒・三好政長へと動き出す。長慶軍は、政長の子・政勝が籠る摂津榎並城(えなみじょう)を包囲し、これに対して政長自身は江口城(えぐちじょう、現在の大阪市東淀川区)に入って対抗した 22 。晴元は政長を救うべく、近江の六角定頼(ろっかくさだより)に援軍を要請。六角の大軍が到着すれば、長慶は挟撃され、戦況は一気に不利になる。
長慶はこの機を逃さなかった。6月24日、六角の援軍が大山崎まで迫っているとの報を受けると、その到着を待たずに江口城への総攻撃を敢行した 22 。長慶軍の猛攻の前に江口城は持ちこたえられず、三好政長は嫡子・政勝らと共に討ち死にし、戦いは長慶・氏綱連合軍の決定的な勝利に終わった 24 。
この江口の戦いの結果は、畿内の権力地図を一夜にして塗り替えた。最大の支えであった三好政長を失った細川晴元は、もはや京を維持することができず、12代将軍・足利義晴とその子・義藤(よしふじ、後の義輝)を伴って、近江の坂本へと逃亡した 3 。ここに、長年にわたり畿内に君臨した細川晴元政権は事実上崩壊した。
そして、勝利した三好長慶は、主君・細川氏綱を奉じて堂々の入京を果たす 4 。養父と実父を失ってから18年、長く苦しい雌伏と闘争の末に、氏綱はついに宿願を達成し、畿内の新たな支配者として歴史の表舞台に立ったのである。
江口の戦いに勝利し、畿内の支配者となった細川氏綱。彼の政治的地位を象徴するものとして、二つのキーワードが挙げられる。一つは「管領」という肩書、もう一つは「氏綱」という特異な実名である。これらを深く分析することで、通説の裏に隠された彼の真の立場と、自己認識を読み解くことができる。
天文21年(1552年)、三好長慶は近江に逃れていた将軍・足利義藤(義輝)と和睦を結ぶ。これにより義輝は京へ帰還し、氏綱は正式に細川京兆家当主の証である官位「右京大夫(うきょうのだいぶ)」に任じられた 4 。これにより、氏綱の家督継承は将軍によって公的に承認された。
通説では、この時に氏綱が室町幕府の最高職である「管領」に就任したとされている 1 。しかし、この「管領就任」を直接的に証明する、同時代の一次史料は存在しないのが実情である 4 。
近年の学術的研究、特に今谷明氏や浜口誠至氏らの指摘によれば、応仁の乱以降、特に細川政元の時代を境に、管領職はもはや常設の役職ではなくなっていた 5 。将軍の元服や重要な儀式の際に、その都度任命される臨時の名誉職へとその性格を大きく変えていたのである。細川晴元や氏綱の管領就任説は、後世に編纂された『重編応仁記』や『足利季世記』といった軍記物語が、事実として「細川京兆家の家督を継承した」ことと、「右京大夫に任官された」ことを混同し、「京兆家当主=管領」という単純化された図式で物語を描いた結果、生まれた「神話」である可能性が極めて高い 5 。したがって、氏綱を「室町幕府最後の管領」と呼ぶことは、厳密な歴史的事実に基づいた表現とは言えない。
氏綱の政治的立場を考察する上で、もう一つ注目すべきは、彼が用いた「氏綱」という実名そのものである。細川京兆家の歴代当主は、細川頼元、満元、勝元、政元、晴元と、将軍から賜る一字(偏諱)に、家の通字(とおりじ)である「元」を組み合わせるのが慣例であった 8 。また、養父・高国やその弟・晴国は「国」の字を用いており、氏綱もそれに倣うのが自然であった。しかし、彼はそのいずれも用いず、生涯にわたって「氏綱」という異例の名を名乗り続けた 8 。この名前には、彼の政治的な意志が込められていた可能性が指摘されている 8 。
第一に、関東の後北条氏二代目当主・北条氏綱(ほうじょううじつな)を意識したという説がある。北条氏綱は、室町幕府の権威が及ばない関東において独自の勢力を築き、「関東管領」を自称した人物である。細川氏綱が、旧来の幕府秩序の外で新たな権力を確立した北条氏綱に自らを重ね合わせ、畿内における新たな「管領」たらんとする意志をその名に込めた可能性は否定できない 8 。
第二に、より重要なのが「氏」という字の持つ意味である。「氏」は元来、足利一門の通字であったが、関東を治める鎌倉公方家が代々用いたため、室町幕府体制下では、将軍家や鎌倉公方家との重複を避ける意味合いから、多くの足利一門は使用を控えていた。しかし、戦国時代に入ると、駿河の今川氏親のように、幕府からの自立性を強めた大名が、将軍からの偏諱を事実上拒否し、権力の独自性を示すために「氏」の字を名前に用いる例が現れる。氏綱が、将軍から偏諱を受ける機会があったにもかかわらず「氏綱」の名を維持し続けたことは 8 、彼が打倒した「足利将軍―細川晴元」という旧来の幕府秩序に、必ずしも従属しないという、新たな権力者としての自立志向を象徴的に示したものと解釈できる 8 。
「管領」という称号の虚構性と、「氏綱」という名に込められた自立志向。この二つを併せて考えれば、彼が目指したものが、単に晴元の地位に取って代わることではなく、権力のあり方そのものを変革しようとする、より大きな構想であった可能性が浮かび上がってくる。
年代 |
細川氏綱の動向・地位 |
三好長慶の動向・地位 |
足利義輝(義藤)の動向 |
細川晴元の動向 |
天文18年 (1549) |
江口の戦いで勝利し、長慶と共に入京。反晴元派の旗頭。 |
氏綱を擁立し、実権を掌握。畿内における最大の実力者となる。 |
細川晴元と共に近江へ逃亡。 |
将軍を奉じて近江へ逃亡。 |
天文21年 (1552) |
右京大夫に任官され、京兆家家督を公認される。政権の正統性の象徴。 |
将軍・義輝と和睦し、幕臣となる。幕政への公式な関与を開始。 |
京都に帰還。三好長慶と一時的に協調。 |
丹波などで抵抗を継続。 |
天文22年 (1553) |
摂津守護として統治に関与(共同統治体制)。 |
幕政への影響力を強化し、権力基盤を固める。 |
長慶と対立し、近江朽木谷へ再度逃亡。 |
- |
弘治年間 |
淀城に移り、儀礼的・象徴的役割に移行。 |
畿内の支配者として君臨(三好政権確立)。 |
近江朽木谷に滞在し、反撃の機会を窺う。 |
- |
永禄6年 (1563) |
12月20日、淀城にて死去。 |
権勢の絶頂期にあるも、弟・実休や嫡男・義興が相次いで死去し、政権に陰りが見え始める。 |
- |
3月1日、幽閉先の普門寺城で死去。 |
この表は、氏綱の地位が、彼自身の行動だけでなく、三好長慶、足利義輝、細川晴元という他の主要人物との力関係の中で、常に変動していたことを示している。特に、彼が「軍事的指導者」から「正統性の担保者」、そして「儀礼的象徴」へと役割を変えていく過程は、次章で論じる「共同統治」説を理解する上で重要な視点を提供する。
細川氏綱と三好長慶の関係は、長らく「傀儡の主君と、それを操る下剋上の家臣」という図式で理解されてきた。しかし、この通説は、両者が築き上げた政権の実態を見誤らせる可能性がある。近年の実証的な研究は、この単純な見方を覆し、より複雑で戦略的な協力関係の存在を明らかにしている。
従来の歴史評価において、氏綱は長慶によって擁立された名目上のお飾りに過ぎず、政治的な実権は全て長慶が掌握していたと見なされてきた 2 。江口の戦いで勝利した後、氏綱は早々に淀城に隠棲させられ、政治の表舞台から遠ざけられたという解釈が一般的であった。この見方では、氏綱は自らの意志を持たず、ただ長慶の野心の道具として利用されただけの悲劇的な人物として描かれる。
この通説に大きな一石を投じたのが、馬部隆弘氏をはじめとする近年の研究である 4 。特に馬部氏は、氏綱や長慶が発給した文書(書状)を徹底的に分析し、彼らの関係が単なる傀儡関係ではなかったことを論証した 29 。
その論拠は多岐にわたる。
第一に、氏綱が京兆家当主として、また摂津守護として、独自に統治行為を示す文書を発給し続けていたことが確認されている 6。もし彼が完全な傀儡であったなら、このような権限行使を示す文書を発給する必要も意味もなかったはずである。
第二に、当時の寺社や荘園領主たちは、所領の安堵や裁定を求める際に、三好長慶の書状だけでなく、細川氏綱の書状をも併せて求めていた 27。これは、彼らが氏綱を単なる飾りではなく、正統な権力者として認識し、その権威を必要としていたことの直接的な証拠である。
第三に、氏綱は具体的な統治行為にも深く関与していた。例えば、長慶の重要な盟友であった丹波の内藤国貞が戦死した後、その後継者として長慶の弟・松永長頼(内藤宗勝)が家督を継承する際、氏綱がその承認を与えている 4。これは、三好政権の根幹に関わる人事に対して、氏綱が公的な承認権限(オーソリティー)を保持していたことを示している。
これらの事実から導き出されるのは、両者が「共同統治」とも言うべき体制を築いていたという新たな氏綱像である。では、なぜこのような協力関係が成立したのか。それは、両者の権力基盤の性質が、互いに補完し合う関係にあったからに他ならない。
氏綱は、管領家である細川京兆家の正統な家督継承者として、誰もが認めざるを得ない「正統性(デ・ジュリ)」を持っていた。しかし、長年の亡命生活が示すように、それを単独で実現するだけの軍事力・経済力、すなわち「実力(デ・ファクト)」に欠けていた。
一方の三好長慶は、畿内を席巻する圧倒的な「実力」をその手に収めていた。しかし、彼の出自はあくまで細川氏の家臣であり、主家を打倒して成り上がったという出自上の弱点から、「正統性」には限界があった。
この両者が手を組むことで、政権は「正統性」と「実力」という、権力に不可欠な二つの要素を兼ね備えることができた。これは、どちらか一方が他方を一方的に支配する「傀儡」関係ではなく、互いの弱点を補い合い、共通の敵(細川晴元や足利義輝)に対抗するための、極めて合理的かつ戦略的な「共存関係」であったと結論付けられる。氏綱が弘治年間に淀城へ移り、政治の第一線から退いたとされるのも 7 、権力を奪われた結果ではなく、この安定した共存関係を維持するために、軍事・行政の実務を長慶に委ね、自らは政権の正統性を担保するという役割分担を受け入れた、主体的な政治判断であった可能性が高い。
宿願を果たし、三好長慶と共に新たな時代を築いた細川氏綱。彼の晩年は、権力闘争の喧騒から一歩引いた、静かなものであった。しかし、彼の存在そのものが、三好政権にとって重要な意味を持ち続けていた。
弘治年間(1555年~1558年)頃、氏綱は山城国の淀城(よどじょう)を居城とした 4 。これは、彼が権力闘争の最前線から退いたことを意味するが、決して権力を剥奪されての追放や幽閉ではなかった。むしろ、政権が安定期に入り、役割分担が進んだ結果と見るべきである。
政治の表舞台からは退いたものの、彼の権威が失われたわけではなかった。将軍・足利義輝への出仕など、重要な儀礼の場においては、依然として三好長慶と共に列席し、その序列は長慶よりも上位に置かれることもあった 7 。氏綱の存在は、成り上がりの家臣である長慶が主導する三好政権に、「細川京兆家」という伝統的な権威と格付けを与える、不可欠な装置として機能し続けたのである。両者の間に対立や衝突があったという記録は見当たらず、最後まで協力関係は維持されたと考えられている 6 。
永禄6年12月20日(西暦1564年1月4日)、細川氏綱は淀城にてその生涯を閉じた。享年51であった 4 。奇しくも、長年の宿敵であった細川晴元も、同じ永禄6年の3月に幽閉先で世を去っている 14 。
氏綱の死は、単に一個人の死に留まらなかった。それは、三好長慶が築き上げた政権という巨大な建造物から、「細川京兆家」という正統性の支柱が抜き取られたことを意味した。長慶の権力は、あくまで「主君・細川氏綱」を擁立するという形式を取ることで、その正当性が担保されていた。氏綱という公的な後ろ盾を失ったことで、三好氏は、もはや単なる「下剋上を果たした簒奪者」という側面を隠すことができなくなった。
この正統性の揺らぎは、三好政権にとって致命的な打撃となる。氏綱の死のわずか半年後の永禄7年(1564年)7月、政権の主柱であった三好長慶自身も後を追うように病没する。絶対的な実力者と、それを支える正統性の象徴を相次いで失った三好政権は、後継者問題と家臣団の分裂によって急速に統制を失い、崩壊への道を突き進んでいく。
細川氏綱の死は、一つの時代の終わりを告げると共に、三好政権の崩壊、ひいては織田信長が台頭する新たな時代の幕開けを準備する、重要な契機の一つとなったのである。
本報告書を通じて行ってきた分析は、細川氏綱にまつわる従来の評価を根本から問い直すものであった。彼は、通説で語られるような「室町幕府最後の管領」でもなければ、単に三好長慶に利用された「傀儡」でもなかった。
氏綱の実像は、まず「二重の復讐心」という極めて個人的かつ強烈な動機に突き動かされ、十数年にわたる不屈の闘争の末に、ついに宿願を達成した執念の人物として捉えられるべきである。彼は、自らの名「氏綱」に旧来の幕府秩序への非従属の意志を込めるなど、強い主体性を持った政治家であった。
そして、彼が果たした真の歴史的役割は、室町幕府の権威が完全に失墜し、新たな戦国大名権力が形成されるという、日本の歴史における重大な過渡期において、特異な立場を占めた点にある。彼は、圧倒的な実力を持つ三好長慶という新時代の権力者と、単なる支配・被支配の関係ではなく、戦略的な「共同統治」体制を築いた。この体制において氏綱は、自らが体現する「細川京兆家」という伝統的権威、すなわち「正統性」を、長慶が率いる実力主義の政権に提供した。これにより、三好政権は単なる武力による支配を超えた安定性を獲得し、一時代を築くことができたのである。
結論として、細川氏綱は、旧時代の価値観(家督と血統)に生きながら、結果として新時代の権力(実力に基づく三好政権)の誕生を助け、その安定に貢献した**「調整者」あるいは「安定装置」**であったと評価できる。彼は、古い秩序と新しい秩序が衝突し、融合する時代の狭間で、両者の橋渡し役を担った。この複雑で、ある種の矛盾をはらんだ存在こそが、通説の向こう側に見える、細川氏綱という人物の歴史的実像に他ならない。