織田信定という名を耳にする時、歴史に関心を持つ多くの人々が思い浮かべるのは、「織田信長の祖父」という血縁上の位置づけ、あるいは「勝幡城を築き、津島を支配して財を成した人物」という断片的な功績であろう。これらは決して誤りではない。しかし、その評価は、戦国時代の尾張国という複雑な舞台で彼が演じた役割の、ほんの表層をなぞるに過ぎない。信定の生涯を深く掘り下げると、そこには単なる一地方領主の枠を遥かに超えた、冷徹な戦略家としての姿が浮かび上がってくる。
当時の尾張国は、守護・斯波氏の権威が失墜し、その家臣である守護代・織田氏が二つの家に分裂して相争うという、権力の空白地帯であった。このような下剋上が常態化した混沌の中で、信定は主家の家臣、すなわち「陪臣」という極めて低い身分から出発した。彼は、旧来の土地に根差した米穀経済の限界をいち早く見抜き、商業と交易がもたらす莫大な富に着目する。そして、その富を独占するための戦略拠点として勝幡城を築き、武力と外交を巧みに使い分けて経済都市・津島を掌握した。さらに、その経済力を背景に、中央の権威である公家との関係を築き、娘たちを周辺の有力大名に嫁がせることで、尾張一国に留まらない広域的な外交ネットワークを構築したのである。
本報告書は、こうした信定の行動の一つ一つを、単なる出来事の羅列としてではなく、当時の尾張国が置かれた政治的・経済的文脈の中に位置づけ、それらがいかに計算された戦略であったかを解き明かすことを目的とする。信定は、息子・信秀、そして孫・信長へと続く織田弾正忠家の飛躍の道筋を、まさにゼロから設計した「最初の建築家」であった。彼の生涯を追うことは、信長の天下布武という壮大な事業が、決して一個人の天才性のみによって成し遂げられたのではなく、祖父の代から続く周到な準備と戦略の積み重ねの上に成り立っていたという、歴史の重層的な真実を理解することに繋がるであろう。本稿では、信定を尾張の旧来の権力構造に風穴を開け、一族の飛躍の礎を築いた「戦略家」として再評価し、その実像に迫る。
織田信定の戦略を理解するためには、まず彼が活動した舞台である戦国期尾張国の特殊な権力構造と、その中における弾正忠家の立場を正確に把握する必要がある。守護の権威が形骸化し、その下の守護代が分裂抗争を繰り広げるという状況は、信定のような新興勢力にとって、大きな危難であると同時に、またとない飛躍の好機でもあった。
戦国時代の尾張国は、室町幕府が任命した守護・斯波氏が名目上の最高権力者であった。しかし、斯波氏は応仁の乱などを経てその権威と実力を著しく低下させており、領国経営の実権は、その家臣である守護代の織田氏一族が掌握していた 1 。
問題は、その守護代・織田氏自身が一枚岩ではなかったことにある。織田氏は尾張国内で二大勢力に分裂し、尾張上四郡(葉栗、丹羽、中島、春日井)を支配し岩倉城を拠点とする「織田伊勢守家(岩倉織田氏)」と、下四郡(海西、愛知、知多、海東)を支配し清洲城を拠点とする「織田大和守家(清洲織田氏)」とが、長年にわたり対立抗争を続けていたのである 3 。
このような権力の二重、三重構造は、国内の統治を不安定にし、絶え間ない内紛の原因となった。守護は守護代に実権を奪われ、その守護代は一族内で分裂している。この権力の中心に生じた巨大な空白と、それに伴う秩序の弛緩こそが、より下位の家臣や国人領主たちが自らの実力でのし上がっていく「下剋上」の絶好の土壌を育んでいた。織田信定が属した弾正忠家は、まさにこの混沌の中から頭角を現すことになる。
織田信定の家系である「弾正忠家」は、下四郡を支配する清洲織田氏(大和守家)に仕える、三つの奉行家のうちの一つであった 5 。この「清洲三奉行」は、織田因幡守家、織田藤左衛門家、そして織田弾正忠家から構成され、主家である清洲織田氏の行政実務を担う重臣という位置づけであった 3 。
しかし、その立場は、守護・斯波氏から見れば家臣(守護代・清洲織田氏)のさらに家臣であり、いわゆる「陪臣」に過ぎなかった 8 。これは、本来であれば尾張一国の政治に直接的な影響力を行使できるような身分ではないことを意味する。三奉行の間にも序列が存在したと考えられており、弾正忠家はその中でも比較的新しい勢力であったと見られている 5 。
したがって、信定の行動は、常にこの「陪臣」という身分的な制約との戦いであった。主家の権威を借りつつも、いかにしてそれを超える実力を蓄え、自立した勢力を築き上げるか。彼の生涯は、この一点に集約されると言っても過言ではない。信定は、この不利な立場を覆すために、武力や経済力といったハードパワーだけでなく、家格や権威といったソフトパワーをも巧みに利用していくことになる。
弾正忠家の出自と系譜を辿ることは、信定とその一族が有していた戦略性を理解する上で極めて重要である。特に、父祖の代から続く婚姻政策には、陪臣という低い身分を補い、権威を高めようとする明確な意図が見て取れる。
まず、信定の父親については、江戸時代に成立した多くの系図類では織田敏定と記されている。しかし、同時代史料として信頼性が最も高いとされる太田牛一の『信長公記』巻首には、信定(法名:月巌)の先代が西巌(法名)であったと明記されている 10 。この西巌こそ、文明14年(1482年)の「清洲宗論」の記録に見える「織田弾正忠良信」なる人物であると推定されており、現在ではこの織田良信が信定の父であるという説が定説となっている 5 。これは、弾正忠家が単なる武辺一辺倒の家ではなく、主家の奉行として行政実務を担う能力を持った家系であったことを示唆している。
さらに注目すべきは、信定の母が、室町幕府の四職に数えられる名門守護大名・京極氏の当主、京極持清の娘であったとされる点である 13 。陪臣に過ぎない弾正忠家が、なぜ中央の有力守護大名と婚姻関係を結ぶことができたのか。この著しい身分差を超えた縁組は、単なる偶然や通常の政略結婚では説明がつかない。
ここに、信定の父・良信の代から続く、弾正忠家の高度な戦略性を見出すことができる。すなわち、これは尾張国内の権力闘争に埋没することなく、より高次の権威と結びつくことで、自らの家格を補強しようとした意図的な行動であったと考えられる。京極氏との縁戚関係は、尾張国内の他の国人領主たちに対して「我々は中央の名門とも繋がりを持つ特別な存在である」という無形の圧力、すなわち権威として機能したはずである。この「出自による権威の補強」というソフトパワー戦略は、後の信定による経済力・軍事力の増強と並行して進められた、一族の地位向上のための重要な布石であった。信定は、この父祖から受け継いだ戦略的思考を、さらに発展させていくことになる。
織田弾正忠家が、数多いる尾張の国人領主の中から抜け出し、主家をも凌駕する勢力へと成長し得た最大の要因は、その強大な経済力にあった。そして、その富の源泉こそが、港湾都市・津島の支配であった。織田信定は、土地からの年貢という旧来の価値観に囚われず、商業と流通がもたらす富の重要性を誰よりも早く見抜き、それを掌握するために大胆かつ周到な戦略を実行した。
当時の津島は、単なる地方の町ではなかった。木曽川水系の支流である天王川に面した湊町であり、伊勢湾を通じて東国、畿内、さらには瀬戸内海方面とも結ばれる、水運交易の一大拠点であった 14 。紙、木綿、塩、海産物など多種多様な物資がこの地で取引され、活発な商業活動が展開されていた 17 。
さらに津島は、全国に約三千社の分社を持つとされる津島神社(牛頭天王信仰の総本社)の門前町でもあった 18 。これにより、津島は経済的中心地であると同時に、広域的な宗教的権威の中心地という二つの顔を併せ持っていた。全国から訪れる多くの参拝者は、それ自体が大きな経済効果をもたらし、津島の繁栄を一層強固なものにしていた 20 。
この経済と宗教が融合した特異な都市を支配下に置くことは、土地からの年貢(米穀経済)に依存する他の多くの戦国武将とは次元の異なる、莫大な富と権威を手中に収めることを意味した。信定は、この津島の持つ戦略的価値を正確に見抜き、その支配権掌握を自らの最重要課題と位置づけたのである。
しかし、津島の支配は容易ではなかった。当時の津島は、「津島衆」と呼ばれる大橋氏をはじめとする有力な商人や神官たちによる自治組織によって、強固に運営されていた 20 。外部からの支配を容易に受け入れる土地柄ではなかったのである。
そこで信定が取った戦略は、極めて冷徹な二段階のものであった。
第一段階は、「武力による現状打破」である。交渉が難航すると見るや、信定は津島の町に火を放ち、焼き討ちするという強硬手段に訴えた 17。これは単なる破壊や略奪が目的ではない。既存の権力構造と秩序を暴力的に解体し、津島衆の抵抗の意志を砕き、交渉のテーブルを自らに有利な形でリセットするための、計算された戦略的行為であった。
そして、その破壊の後に続くのが、第二段階の「婚姻による内部からの支配」である。焼き討ちによって津島衆を屈服させた後、大永4年(1524年)に和睦を結ぶ。その際、信定は津島の自治組織の筆頭格であった大橋氏に対し、自らの子(一説には嫡男・信秀の娘、つまり信定の孫娘)を嫁がせるという縁組を成立させた 17 。これにより、信定は単なる外部の支配者から、津島の有力者と血縁で結ばれた内部の当事者へとその立場を変えることに成功した。この懐柔策によって、彼は津島の富を抵抗なく、かつ円滑に吸収する体制を盤石なものとしたのである。
信定の津島支配が画期的であったのは、その手法だけではない。彼の経済政策の根底には、同時代の武将たちとは一線を画す、極めて先進的な思想が存在した。
一般的な戦国大名の財源は、支配地の検地を行い、そこから算出される石高に応じて年貢米を徴収するという、土地に固着した「収奪型」の経済が基本であった。しかし、信定は津島という商業都市に対して、異なるアプローチを取った。彼は、商人の自由な活動を保証し、高い税を課して商業活動を萎縮させるのではなく、むしろその活発化を促した。そして、その結果として拡大した全体の交易量(経済のパイ)の中から、軍資金(矢銭)という形で一定の利益を得るという手法を選択したのである 17 。
これは、経済活動そのものを育成し、その成長の果実を得るという「育成・投資型」の経済政策であり、後の織田信長が行った「楽市楽座」政策の原型とも言える思想の萌芽がここに見られる。信長が、父・信秀を通じて、祖父・信定のこの先進的な経済政策を間近に見て学び、自らの政策に取り入れていった可能性は極めて高い。
この革新的な経済政策によって弾正忠家が蓄積した富は、絶大であった。その象徴的な出来事が、天文12年(1543年)に信定の子・信秀が、内裏の修繕費として朝廷に4000貫文(銭40万疋)という巨額の献金を行ったことである 17 。これは当時の大名の財政規模から見ても破格の金額であり、しかもそれを米ではなく「銭」で一括献上したという事実は、弾正忠家が貨幣経済を基盤とした圧倒的な財力を有していたことを物語っている。信定が築き上げた経済基盤は、単に一族を富ませただけでなく、それを政治的権威の向上に転化させ、弾正忠家を尾張の覇者へと押し上げる直接的な原動力となったのである。
経済都市・津島の掌握と並行して、織田信定は自らの権力基盤を確立するための物理的な拠点、すなわち勝幡城の築城に着手した。この城は、単なる軍事施設ではなく、信定の経済力と政治的野心を内外に誇示するための、多機能な戦略拠点としての役割を担っていた。
勝幡城は、永正年間(1504年~1521年)に信定によって築かれたとされている 23 。その最大の戦略的特徴は、立地にある。勝幡城は、弾正忠家の経済的生命線である津島から、わずか4キロメートルほどしか離れていない場所に位置していた 25 。
この地理的近接性は、偶然の産物ではない。これは、富の源泉である津島を常にその軍事的威圧下に置き、その支配を確実なものにするための、極めて明確な戦略的意図に基づいた選択であった。また、主家である清洲織田氏が本拠とする清洲城から物理的に距離を置くことで、信定は事実上の独立勢力として独自の権力基盤を築くという意思を、尾張国内の諸勢力に対して明確に宣言したのである。勝幡城は、弾正忠家が主家の奉行という立場から、自立した戦国領主へと脱皮していくための拠点、そのものであった。
勝幡城の機能は、軍事的な側面に留まらなかった。むしろ、一族の富と権威を誇示するための「城館」、すなわち「見せる城」としての性格を色濃く帯びていた 27 。
その最も雄弁な証拠が、天文2年(1533年)に、京の都から下向した公卿・山科言継が勝幡城に滞在した際の記録である。言継が自ら記した日記『言継卿記』には、城主である信秀(実質的には信定が築いた経済基盤の上で)から受けた豪華な饗応や、城の壮麗な造作に深く感銘を受けた様子が記されている 28 。平手政秀が設えた「数寄之座敷」は「一段也」と絶賛され、連日にわたる蹴鞠の会や酒宴、風流踊の見物など、その歓待は随分と手厚いものであった 30 。
この一連の出来事は、弾正忠家が単なる地方の武骨な武士ではなく、中央の文化や作法にも通じた、洗練された権力者であることを強く印象付けるものであった。陪臣の身分でありながら、朝廷の権威を体現する存在である公家を自らの居城に招聘し、これほどまでに手厚く歓待することは、極めて高度な政治的パフォーマンスであったと言える。
これは、自らの権威を尾張国内に留まらず、遠く京の都にまでアピールしようとする、壮大なブランディング戦略の一環であった。主家である清洲織田氏や、名目上の主君である守護・斯波氏を飛び越えて、直接中央の権威とパイプを築こうとする野心の表れに他ならない。経済力(津島)を背景に、それを守る軍事拠点(勝幡城)を築き、さらにその城を外交と宣伝の舞台(公家歓待)として最大限に活用する。信定から信秀へと続くこの一連の行動は、経済・軍事・外交が有機的に連動した、極めて近代的で高度な国家経営戦略であったと評価することができる。
織田信定が台頭した戦国前期の尾張は、一族間の絶え間ない抗争と離合集散が繰り返される、極めて流動的な政治状況にあった。このような複雑な環境を乗り切るため、信定は経済力や軍事力といった実力行使だけでなく、血縁を巧みに利用した婚姻政策を駆使し、自らの勢力圏を巧みに拡大していった。
信定が属する弾正忠家は、主家である清洲織田氏(大和守家)の奉行という立場であったが、その主家自体が、尾張上四郡を支配する岩倉織田氏(伊勢守家)と激しく対立していた 5 。さらに、同じ清洲三奉行である因幡守家や藤左衛門家とも、常に対立と和睦を繰り返す不安定な関係にあった 33 。
このような錯綜した力学の中で、信定は自らの立場を固め、敵対勢力を無力化し、さらには外部の勢力をも取り込むため、自らの子女を戦略的に配置する婚姻政策を重要な外交手段として用いた。彼の婚姻政策は、尾張国内の足場固めから、国境を越えた広域的な安全保障までを視野に入れた、多層的な構造を持っていた。
信定が築いた婚姻ネットワークは、対内政策と対外政策の二つの側面に大別できる。
対内政策(足場固め):
まず信定は、自らの正室として、同じ清洲三奉行の一角である藤左衛門家の当主・織田良頼の娘、「いぬゐの方」(含笑院)を迎えた 13。これは、主家である清洲織田氏の内部において、三奉行同士の連携を強化し、自らの発言力を高めるための重要な同盟であった。この婚姻により、嫡男・信秀をはじめとする多くの子女が生まれ、弾正忠家の基盤は一層強固なものとなった 36。
対外政策(勢力拡大と敵の無力化):
国内の足場を固めた上で、信定は娘たちを次々と周辺の有力者へ嫁がせ、広域的な外交網を構築していく。
このように、信定の婚姻政策は、目先の利益に留まらず、将来の勢力拡大までを見据えた、長期的かつ広域的な視野に貫かれていた。
しかし、戦国時代の婚姻同盟は、極めて脆いものでもあった。史料によれば、信定の正室であった「いぬゐの方」が亡くなった後、弾正忠家と彼女の実家である藤左衛門家との関係は急速に悪化し、一時的に敵対関係に陥ったことが記録されている 5 。この事実は、当時の同盟関係が、理念や契約ではなく、極めて個人的な血縁という「楔」によってかろうじて維持されていたことを如実に物語っている。
この同盟の脆さを、信定は熟知していたはずである。彼が多数の子女を戦略的に各地へ嫁がせたのは、この「脆さ」を前提とした上で、一つの同盟が破綻しても、他の同盟関係でそれを補うことができるような、多層的で冗長性のあるセーフティネットを構築しようとしたからに他ならない。彼は単発の同盟を結ぶのではなく、弾正忠家を中心とした「婚姻のネットワーク」そのものを築き上げることで、一族の安全と発展を図ろうとしたのである。
関係 |
氏名 |
婚姻相手 |
相手の所属・勢力 |
婚姻の戦略的意義(考察) |
典拠 |
父 |
織田良信(西巌) |
京極持清の娘 |
京極氏(名門守護大名) |
家格の権威付け、中央への足掛かり |
10 |
正室 |
いぬゐの方 |
織田信定 |
- |
清洲三奉行・藤左衛門家との同盟強化 |
13 |
嫡男 |
織田信秀 |
土田御前 |
萱津土田氏(尾張の有力国人) |
尾張国内の有力者との連携強化 |
17 |
娘 |
秋悦院 |
織田信安 |
岩倉織田氏(伊勢守家) |
対立勢力の懐柔・無力化、内部への楔 |
13 |
娘 |
(名不詳) |
松平信定 |
三河松平氏 |
東方国境の安定化、対今川氏への布石 |
13 |
娘 |
おつやの方 |
遠山景任 |
東美濃遠山氏 |
美濃攻略への布石、対斎藤氏牽制 |
13 |
娘 |
長栄寺殿 |
牧長義 |
尾張牧氏 |
国内有力者との連携強化 |
13 |
織田信定が築き上げた強固な基盤は、彼の存命中にすでに大きな成果となって現れ、次代を担う息子・信秀の代でその勢いをさらに加速させることになる。信定の隠居と死は、弾正忠家の一つの時代の終わりであると同時に、新たな飛躍の時代の幕開けを意味していた。
信定は、天文年間(1532年~1555年)の初めに、家督を嫡男である信秀に譲り、自らは隠居したとされる 10 。本拠であった勝幡城を信秀に与え、自身は木ノ下城(後の犬山城の前身とされる城)に移り住んだと伝えられている 18 。
このスムーズな家督継承は、弾正忠家がもはや内紛や外部からの干渉を恐れる必要がないほどの実力を蓄え、安定した権力基盤を確立していたことの証左である。信定は、自らが一代で築き上げたものを、最も信頼できる後継者へと確実に引き継ぐことで、一族の永続的な発展の道筋をつけた。
そして、天文7年(1538年)11月2日、織田信定はその生涯を閉じた 18 。彼の死までに、かつては主家である清洲織田氏の一奉行に過ぎなかった弾正忠家は、経済力、軍事力、そして政治的影響力のいずれにおいても、主家を完全に凌駕する存在へと変貌を遂げていた。
信定が残した遺産は、絶大であった。父が築いた強固な経済基盤と、それを背景とした軍事力を存分に活用し、信秀は尾張国内に留まらない広域的な軍事活動を展開する。その最も大きな成果の一つが、今川氏が支配していた那古野城の奪取である 4 。これにより、弾正忠家は尾張の中心部へと拠点を進め、さらなる勢力拡大の足掛かりを得た。また、美濃の「蝮」と恐れられた斎藤道三とも激しく干戈を交え、尾張一国の大名としてその名を轟かせた 22 。
信定の遺産は、経済力や軍事力といった物質的なものだけではなかった。彼が育てた息子たちもまた、重要な遺産であった。次男の織田信康や三男の織田信光らは、兄である信秀の勢力拡大を支える重要な武将として活躍し、一族の結束を固めた 7 。信定が築いたこの一族の結束力こそが、信秀の、そしてその後の信長の急成長を支える人的基盤となったのである。信定の死は、彼の蒔いた種が、信秀という力強い幹となり、信長という天下を覆う大樹へと成長していく、その始まりを告げる出来事であった。
織田信定の生涯を詳細に検証した結果、彼が単なる「信長の祖父」という血縁上の存在に留まらない、極めて重要な歴史的人物であることが明らかになった。彼は、戦国乱世という時代の大きな転換点を的確に読み取り、旧来の価値観に囚われることなく、新たな権力モデルを尾張の地に創造した、先駆的な戦略家であった。
信定の功績は、以下の四つの柱に集約される。
第一に、旧来の土地に依存した米穀経済から脱却し、商業と流通を基盤とする独立的経済基盤の確立である。港湾都市・津島の掌握は、弾正忠家に他の国人領主とは比較にならないほどの富をもたらし、あらゆる活動の源泉となった。
第二に、その経済基盤を守り、かつ自らの権威を内外に示すための戦略的拠点の構築である。勝幡城は、津島支配の要であると同時に、中央の公家を歓待する外交の舞台ともなり、弾正忠家の権威を飛躍的に高めた。
第三に、武力や経済力だけでは乗り切れない乱世を生き抜くための、広域的な外交ネットワークの構築である。子女を周辺の有力者に嫁がせる婚姻政策は、敵を無力化し、味方を増やし、一族の安全保障を多層的に確保する、極めて計算された戦略であった。
第四に、陪臣という低い身分を補うための家格の権威付けである。父の代からの京極氏との縁戚関係は、弾正忠家が単なる田舎武士ではないことを示し、その後の政治的活動において有利に作用した。
信定が設計し、築き上げたこの強固な四本の柱からなる基盤が存在しなければ、息子・信秀の代での飛躍的な勢力拡大も、そして孫・信長による尾張統一と、それに続く天下布武という壮大な事業も、決して成し遂げられなかったであろう。信長という歴史上類稀なる才能が開花するための土壌を、まさにゼロから耕し、水路を引き、丹念に整えた人物、それこそが織田信定であった。
彼は、守護・守護代という旧来の権威が形骸化していく中で、経済力こそが新たな時代の権力の源泉となることを見抜いていた。そして、その経済力を政治力、軍事力、外交力へと巧みに転換させる具体的な方法論を実践してみせた。その意味において、織田信定は、尾張国における「最初の革命家」として、歴史上、より高く評価されるべき人物である。信長の覇業の原点は、この祖父の冷徹かつ先見性に満ちたグランドデザインの中にこそ、見出すことができるのである。