津田信成は信長の甥孫。兄の事件で減封後、関ヶ原で武功を挙げるも、祇園での狼藉と戦功詐称で改易。戦国の気風が泰平の世に適応できず、悲劇的な最期を遂げた武将。
「織田信成」という名は、日本の歴史と現代文化において、複数の著名な人物と結びついており、しばしば混乱の源となる。本報告書が主題とする人物を正確に理解するためには、まずこの名の多義性を解きほぐし、対象を明確に特定する作業が不可欠である。
第一に、現代において最も広く知られているのは、プロフィギュアスケーターの織田信成氏である 1 。彼は2010年のバンクーバーオリンピックに出場し、引退後は解説者やタレントとして活躍している 3 。彼の家系は、織田信長の七男・信高の系統を引くとされ、信長の末裔としてメディアで紹介されることも多い 5 。
第二に、歴史上の人物として、戦国時代に生きた同名の武将が存在する。この織田信成は、織田信長の叔父にあたる織田信光の子であり、信長とは従兄弟かつ義兄弟という近しい関係にあった 8 。彼は信長に従い各地の戦役に参加したが、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆との戦いにおいて、若くして戦死している 8 。
第三に、時代が下った江戸時代後期にも、同名の人物が見られる。彼は大和柳本藩の第12代藩主であり、幕末から明治にかけてを生きた大名である 10 。
本報告書が光を当てるのは、これら三者のいずれでもない。ユーザー様がご提示された「豊臣家臣。小牧長久手合戦や小田原征伐などに参陣。関ヶ原合戦では東軍に属し戸田勝成と戦った。のちに京都市中における集団暴行の罪により改易された」という経歴に合致する、もう一人の「織田信成」である。彼は、織田信長の弟でありながら謀反を起こして誅殺された織田信勝(信行)の孫にあたる人物であり、歴史的には多くの場合、**津田信成(つだ のぶなり)**の名で記録されている 11 。彼の父の代から、織田宗家や他の分家との区別のためか、あるいは何らかの政治的配慮からか、織田庶家に多い津田姓を称していた 8 。この歴史的背景を鑑み、本報告では原則として「津田信成」の呼称を用いることとするが、一部の史料や文脈に応じて「織田信成」の名も併記する。
津田信成の生涯を追うことは、単に一人の武将の栄枯盛衰をたどることに留まらない。彼の存在そのものが、織田一門という栄光の血脈に連なりながらも、その主流から外れた傍流の悲哀を体現している。信長の弟でありながら謀反人となった祖父を持つという出自は、彼の生涯にわたり、微妙な立場の制約と、それを乗り越えようとする強烈な功名心をもたらした。彼の物語は、関ヶ原の戦いにおける武功とそれにまつわる論争、そして泰平の世が到来しつつあった徳川政権初期における突然の失脚という、光と影の劇的な転換を内包している。その軌跡を丹念に追うことで、戦国から江戸へと移行する時代の価値観の変容と、新たな支配体制が確立されていく過程で、旧来の武士がいかに淘汰されていったかという、より大きな歴史的文脈を浮き彫りにすることができる。本報告書は、この津田信成という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。
津田信成の武将としてのキャリアは、輝かしい門出とは程遠い、むしろ一族の不名誉と失墜という「負の遺産」を背負うことから始まった。彼の行動原理を理解するためには、その複雑な出自と、予期せぬ形で家督を継ぐことになった波乱の経緯をまず解き明かす必要がある。
津田信成の祖父は、織田信行(一般には信勝の名で知られる)である。信行は、天下布武を掲げた織田信長の唯一の同母弟であり、本来であれば織田家の中枢を担うべき存在であった。しかし、彼は兄・信長に対して二度にわたり謀反を企て、弘治3年(1557年)、信長の謀略によって清洲城で誅殺された。この「兄殺し」の悲劇は、信行の血を引く一族に、織田一門内での微妙かつ困難な立場を強いることとなった。
信行の子、すなわち信成の父は、津田信澄(幼名は坊丸)と同一視されることもあるが、より正確には津田盛月(信勝とも)であるとされる 11 。信長は、謀反人の子である盛月に罪はないとして許し、家臣として取り立てたと伝わる。しかし、一度「謀反人の家系」という烙印を押された事実は、一門内での発言力や影響力において、他の分家、例えば信長の弟で茶人としても名高い織田有楽斎(長益)の家系などとは、比較にならないほどの格差を生んでいたと考えられる。この出自は、信成の生涯にわたり、常に名誉回復への渇望と、侮りを受けまいとする過剰な自意識の源泉となったであろう。
信成の家が背負うことになった不名誉は、祖父の代に留まらなかった。文禄2年(1593年)頃、信成の兄であり、当時の津田家当主であった津田信任が、世間を震撼させる凶悪事件の首謀者として逮捕されるという事態が発生した。これが「洛外千人斬り事件」である 13 。
この事件は、伏見や醍醐、山科といった京都の郊外で、夜な夜な通行人が辻斬りに遭うというものであった 13 。一説には、首謀者の一人が難病を患っており、「千人の血を飲めば治る」という迷信を信じて凶行に及んだとも言われるが、その真相は定かではない 15 。いずれにせよ、天下人・豊臣秀吉の治世下で起きたこの連続殺傷事件は、治安を揺るがす重大事として扱われた。
その犯人グループの頭領として嫌疑をかけられたのが、津田信任であった。彼は逮捕され、本来であれば死罪は免れないところであった。しかし、父・盛月が信長や秀吉に仕えた長年の功績に免じて、死一等を減じられることになった 13 。死罪は回避されたものの、その代償は大きかった。信任は所領をすべて没収されて改易となり、剃髪して「長意」と号し、加賀の前田利家に身柄を預けられる形で、政治の表舞台から完全に姿を消したのである 13 。
兄・信任の失脚は、弟である信成の運命を大きく変えた。彼は予期せぬ形で、津田家の家督を相続することになったのである。しかし、それは栄光ある継承ではなかった。兄の罪は、津田家全体への連座責任として問われた。その結果、信成が継いだ所領は、兄の代に有していた3万5千石から、1万3千石へと大幅に削減された 12 。
武家社会において、石高は単なる経済基盤ではない。それは「家の格」そのものであり、軍事力、政治的発言力の源泉である。3万5千石から1万3千石への減封は、大名としての地位をかろうじて維持できる最低ラインへの転落を意味した。これは、経済的な困窮だけでなく、他の大名や織田一門からの侮りという、精神的な屈辱を伴うものであったことは想像に難くない。
かくして、津田信成の武将としてのキャリアは、一族の不名誉と失われた石高という、重い十字架を背負って始まることになった。この屈辱的なスタートは、彼の心に「失われたものを取り戻す」という強烈な動機を植え付けた。後の関ヶ原の戦いにおける武功への執着、そしてそれが叶わなかった後の自暴自棄な行動は、すべてこの原体験に根差していると分析することができる。彼の生涯は、この「失地回復」というテーマを軸に展開していくのである。
兄の失脚により、図らずも減封された家の当主となった津田信成は、豊臣政権下で雌伏の時を過ごすこととなる。この時期の彼の動向は、史料上に断片的にしか残されておらず、大きな戦功や政治的な活躍は見られない。それは、彼の置かれた立場を如実に物語っている。
家督を相続した信成は、天下人である豊臣秀吉、そしてその死後は幼い遺児・秀頼に仕えた。彼の具体的な活動として記録されているのは、文禄3年(1594年)春、秀吉がその権勢を天下に示すために築城した伏見城の普請(建設工事)を分担したことである 12 。これは、全国の大名に課せられた義務であり、豊臣政権への忠誠を示す行為であったが、同時に大きな経済的負担を伴うものでもあった。減封されたばかりの信成にとって、この普請役は決して楽なものではなかっただろう。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、その遺品が諸大名に分与された。信成もこの時、秀吉の形見として「兼長」の銘を持つ刀を受領している 12 。これは、彼が豊臣家の大名として正式に認知されていたことを示す証左ではあるが、彼の石高や一門内での序列を考えれば、政権の中枢にいたわけではなく、数多いる豊臣恩顧の大名の一人に過ぎなかった。
ユーザー様が触れられている小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年)や小田原征伐(天正18年、1590年)といった豊臣政権確立期の主要な戦役において、信成個人がどのような働きをしたかを具体的に記した信頼性の高い史料は乏しい。当時、彼はまだ若く、家督を継ぐ前の立場であったため、父や兄に従って一兵卒、あるいは小部隊の将として従軍していた可能性は高いが、特筆すべき手柄を立てる機会には恵まれなかったと考えられる。
この豊臣政権下での約7年間は、信成にとって「静」の期間であった。1万3千石という小大名として、彼は政権中枢から遠い場所で、大きな役割を与えられることもなく、ただ息を潜めていた。周囲には、同じ織田一門でありながら、徳川家康とも渡り合い、茶人として文化的な影響力も持つ叔父祖父の有楽斎長益や、着実に石高を維持・拡大していく他の大名たちがいた。そのような中で、彼は自家の凋落と自身の無力さを痛感していたに違いない。
この目立つことのない「雌伏の時」は、彼の内面に、現状を打破したいという強い野心と、功名を立てることへの焦燥感を静かに、しかし確実に醸成していった。天下の形勢が再び大きく動こうとしていた時、彼にとってそれは、一族の不名誉を雪ぎ、失われた石高と名誉を一度に回復するための、千載一遇の好機と映ったのである。次に来る天下分け目の決戦は、彼がこれまでの鬱屈を晴らすための、人生最大の賭けの舞台となる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いへと至った。この戦いは、雌伏の時を過ごしていた津田信成にとって、自らの運命を切り開くための絶好の機会であった。彼はこの戦いで大きな武功を立てるが、その手柄を巡る論争は、彼の生涯に長く影を落とすことになる。
天下が二つに割れる中、信成は徳川家康が率いる東軍に与することを決断した。織田一門は、信長の孫・秀信(三法師)が西軍の主力として岐阜城に籠もるなど 16 、東西両軍に分かれており、信成の決断は自明のものではなかった。
彼が東軍を選んだ理由は複数考えられる。一つには、豊臣政権下での自家の不遇な立場があっただろう。兄の事件による減封は、豊臣政権下での出来事であり、その体制が続く限り、名誉回復は難しいと感じていた可能性がある。一方で、新興勢力である家康の下で功績を挙げれば、失われた石高を取り戻し、新たな支配体制の中で確固たる地位を築けるという期待があった。また、織田一門の中でも家康と近しい関係にあった有楽斎長益の動向も、彼の決断に影響を与えたかもしれない。いずれにせよ、彼は自らの将来を家康に賭けたのである。
関ヶ原の本戦において、信成は有楽斎長益とその子・長孝の部隊と共に、東軍の一翼を担った。彼らの部隊が対峙したのは、大谷吉継の配下として奮戦していた西軍の勇将・戸田勝成(重政)の部隊であった 18 。
戸田勝成は、丹羽長秀、豊臣秀吉に仕えた歴戦の武将であり、その武勇は広く知られていた 18 。関ヶ原では、西軍の敗色が濃厚となる中、裏切った小早川秀秋の軍勢に突撃し、壮絶な戦いを繰り広げていた。東軍の諸将にとっても、彼の首級は大きな手柄となるものであった。
激戦の最中、織田長孝の槍が戸田勝成を捉えた。しかし、この直後から、歴史の記録は複雑な様相を呈し始める。誰が真に勝成を討ち取ったのか、そして信成はその中でどのような役割を果たしたのか。この一点を巡って、二つの全く異なる物語が生まれ、後世に伝えられることになった。
戸田勝成討ち取りの功績は、津田信成のその後の運命を左右する重要な論点となった。史料によってその記述は大きく異なり、彼の人物像を全く逆の角度から描き出している。
A説(信成の功績、あるいは友誼に基づく行動)
一つの説は、信成の行動を好意的に伝えるものである。この説によれば、織田長孝が槍で戸田勝成を突き伏せたものの、信成は、かねてより友人関係にあった勝成の首を自ら取ることを忍びなく思い、その功を長孝に譲った、あるいは自らは手を下さず、家臣に首を取らせたという 12 。勝成と信成、そして有楽斎は、慶長2年(1597年)に家康の邸宅で同席するなど、以前から親交があったとされている 18 。戦国の非情さの中にも友誼を重んじた信成のこの態度は、戦後に家康の耳に入り、賞賛されたと伝わる 14 。この物語における信成は、武勇と情義を兼ね備えた武将として描かれる。
B説(長孝の功績と信成の横槍)
しかし、山鹿素行が編纂した『武家事紀』などは、全く異なる光景を記している。こちらの説では、戸田勝成を討ち取ったのは紛れもなく織田長孝であり、その手柄が確定したところへ、津田信成の家臣が功を横取りしようと割って入り、両陣営の間で醜い諍いが生じた、というのである 12 。この記述が事実であれば、信成は他人の手柄を掠め取ろうとする、武士にあるまじき卑劣な行為を働いたことになる。これは、A説とは正反対の、信成にとって極めて不名誉な記録である。
この功績論争の存在自体が、当時の信成の政治的立場の脆弱さを物語っている。一方の当事者である織田長孝は、信長の弟であり、家康からの信頼も厚い大物・有楽斎長益の長男であった 20 。関ヶ原での功により、長孝は美濃に1万石を与えられ、独立した大名となっている 20 。家康に近い有力大名の家系と、祖父の代に謀反の汚名を着、兄の代に不祥事を起こして減封された傍流の家系とでは、幕府内での発言力や信用度に雲泥の差があったことは明らかである。
このような力関係の非対称性が、信成に不利なB説のような風聞が生まれ、後々まで影響力を持つ土壌となった可能性は極めて高い。戦後の論功行賞で、信成は所領を安堵され、山城国御牧藩の初代藩主となったものの 14 、この手柄に関する曖昧な評価は、彼の将来に不吉な影を落とし続ける。そしてこの論争は、7年後の彼の失脚の際に、決定的な罪状の一つとして再び彼の前に立ちはだかることになるのである。
史料名 |
記述の要約 |
津田信成の役割 |
織田長孝の役割 |
示唆される人物像(信成) |
『慶長記』等に基づく一般的な説 |
長孝が勝成を突き伏せるが、信成は旧知の仲のため首を取るのを躊躇し、功を譲るか家臣に取らせる。家康はこれを賞賛した。 |
友誼を重んじ、功名に固執しない情義ある武将。 |
勝成を突き伏せる武功を挙げる。 |
情に厚い |
『武家事紀』 |
長孝が勝成を討ち取った後、信成の家臣が功を横取りしようと割って入り、諍いとなった。 |
家臣が功を横取りしようとするのを止めなかった、あるいは指示した可能性。 |
正当な功労者。 |
卑劣、功名心が強い |
関ヶ原の戦いを経て、津田信成は所領を安堵され、ひとまずは徳川の世で大名としての地位を確保した。しかし、彼の内に渦巻く満たされぬ功名心と、戦国の荒々しい気風は、泰平へと向かう新しい時代の秩序と致命的な衝突を起こす。慶長12年(1607年)、京都で発生した一つの事件が、彼の運命を決定的に暗転させる引き金となった。
慶長12年(1607年)6月24日、津田信成は数名の仲間と共に、京の都で最も賑わう場所の一つである祇園に繰り出した。そこで彼らは、目に余る乱行に及んだ 23 。
記録によれば、彼らは茶屋で遊興中に、偶然通りかかった富裕な商家の婦女7、8人の一行を見つけると、彼女たちを強引に茶店に引き入れた。そして無理やり酒を飲ませるなど、傍若無人な振る舞いをしたとされる。さらに、これに抗議した一行の従者を木に縛りつけ、刀を抜いて斬り捨てると脅迫するにまで至った 23 。
この行為は、単なる酒の上の過ちでは済まされない、大名・旗本の身分を笠に着た悪質な暴行・脅迫事件であった。平和な京の市中を震撼させたこの狼藉は、すぐさま幕府の耳に入ることとなった。
この事件がより深刻な問題と見なされた一因は、信成の単独犯行ではなく、複数の大名・旗本が関与した集団的な乱行であった点にある。彼と共に事件を起こした者たちの顔ぶれは、いずれも戦国を生き抜いた武功の家の二代目、三代目であった。
これらの加担者たちは、親の世代が戦場で立てた武功によって安泰な地位を得ていたが、泰平の世ではそのエネルギーを持て余していたのかもしれない。彼らの行動は、戦国の「かぶき者」的な気風を色濃く残しており、それが幕府が築こうとしていた新しい秩序とは相容れないものであったことを示している。
事件の重大性を決定づけたもう一つの要因は、被害者の素性であった。彼らが乱暴を働いた相手は、単なる裕福な商人ではなかった。被害者の一人は、後藤長乗(ごとう ちょうじょう)の一族の婦女であったと記録されている 12 。
後藤家は、室町時代から続く装剣金工の名門であり、特に後藤長乗とその兄・徳乗の代には、豊臣秀吉や徳川家康に仕え、大判の鋳造や分銅の改め役といった、国家の通貨発行に関わる極めて重要な役職を担っていた 32 。長乗自身も家康から厚い信任を得ており、幕府の金座を実質的に管理する家系の一員であった 33 。
つまり、信成たちの行為は、幕府の財政を支える重要人物の一族に対する直接的な侮辱であり、ひいては徳川家康の権威そのものへの挑戦と受け取られても不思議ではなかった。被害者が一般人であれば、内々の示談や軽い処罰で済んだ可能性もあったかもしれない。しかし、相手が後藤家であったことが、この事件を単なる不行状から、幕府の体制を揺るがしかねない政治問題へと発展させたのである。
この事件は、江戸幕府が確立しつつあった「武断政治」から「文治政治」への過渡期に起きた象徴的な出来事と分析できる。戦場での武勇が絶対的な価値を持った時代は終わり、法と秩序に従い、為政者としての品格を保つことが求められる新しい時代が到来していた。信成たちは、その時代の変化を読み取ることができず、旧来の価値観のまま行動した結果、自らの首を絞めることになった。幕府にとってこの事件は、大名や旗本の素行を厳しく監督し、市中の治安を維持する能力を天下に示す、見せしめ的な意味合いを持つ絶好の機会となったのである。
京都祇園での狼藉事件は、津田信成の運命に終止符を打つ決定的な一撃となった。一度下された幕府の厳しい裁定は、彼の武将としての生涯と、かろうじて維持してきた家の存続を、跡形もなく消し去った。
事件の報告は、駿府にいた大御所・徳川家康のもとへ届けられた。これを聞いた家康は激怒したと伝わる 12 。自らが信頼を寄せる後藤家の一族が、白昼堂々、自らの家臣であるはずの大名・旗本によって辱められたのである。これは、家康が築き上げようとしていた泰平の世の秩序に対する、看過できない挑戦であった。
家康の次男であり、当時大きな影響力を持っていた結城秀康が、信成らのためになんとかとりなしを試みたが、家康の怒りは収まらなかった 12 。慶長12年(1607年)12月、ついに裁定が下される。津田信成、稲葉通重、天野雄光、大島光朝ら事件の加担者全員に対し、領地・知行を没収する「改易」という、武士にとって死罪に次ぐ最も重い処分が下された。これにより、信成が治めていた山城国御牧藩は廃藩となり、彼は大名の地位を完全に失った。
信成にとって、この裁定はさらなる屈辱を伴うものであった。改易の正式な罪状として、祇園での狼藉事件に加え、7年前に遡る関ヶ原の戦いでの手柄に関する問題が、再び持ち出されたのである。
幕府は、信成が「戸田勝成を討った織田長孝の功績を奪おうとした」という、彼にとって最も不名誉な説(B説)を事実として認定し、これを正式な罪状の一つに加えた 12 。これにより、彼は単に素行不良の大名として罰せられただけでなく、武士として最も重要な名誉であるべき戦功を偽った「不誠実な人物」という烙印を押された。関ヶ原で友誼を重んじたという、彼にとっての名誉ある物語は完全に否定され、武士としての誇りは根底から破壊された。
7年も前の功績論争が、このタイミングで正式な罪状として再燃したことは、極めて示唆的である。これは、徳川幕府の支配体制が、単なる軍事力だけでなく、情報管理と個人の評価(内申)によっても維持されていたことを示す好例と言える。一度でも幕府に「不誠実」あるいは「問題あり」と見なされた人物は、その記録が保持され、別の機会に決定的な罪状として利用される。裁定は、祇園の「事件」に対してだけでなく、津田信成という「人物」そのものに対して下されたのである。彼は、幕府が支配者としての権威を確立していく過程で、そのシステムから排除されるべき存在と判断されたのだ。
大名の地位も、武士としての名誉も、すべてを剥奪された信成は、剃髪して出家し、「道慶(どうけい)」と号した 12 。その後の彼の足取りは、歴史の表舞台から完全に消え、詳細な記録はほとんど残っていない。
わずかに伝えられるところによれば、彼は流浪の末、下野国足利(現在の栃木県足利市)に身を寄せ、静かに余生を送ったとされる。そして、事件から38年後の正保2年(1645年)8月20日、この地でその波乱の生涯を閉じた。享年85であったという 12 。かつて天下人の一族として生まれ、一国一城の主として関ヶ原を戦った武将の最期は、歴史の片隅での寂しいものであった。
津田信成の家系は、彼の改易によって大名としては断絶した。彼の直系の子孫がその後どうなったのかを、史料から正確に追跡することは極めて困難である。他の織田・津田家の系譜を記した史料の中にも、信成の子孫に関する明確な記述を見出すことは難しい 5 。祖父・信行の代から続いた不遇と、兄・信任、そして信成自身の失態が重なり、彼の家は歴史の中に完全に埋没していったのである。
津田信成の生涯を総括すると、彼は「織田一門」という栄光と「謀反人の孫」という宿命、そして「関ヶ原の武功」と「祇園の乱行」という功罪の両極端を一身に体現した、矛盾に満ちた人物であったと言える。彼の物語は、一個人の栄枯盛衰に留まらず、日本の歴史が大きく転換する時代のダイナミズムと、それに翻弄された武士の姿を映し出す、貴重な事例である。
信成は、その行動原理の根底に、常に「失われた名誉と石高の回復」という強烈な渇望を抱えていた。祖父の汚名、兄の不祥事、そして自らが継いだ減封された家。この三重の負い目から脱却するため、彼は関ヶ原の戦いに全てを賭けた。しかし、そこで立てたはずの武功は、曖昧な論争の中に埋もれ、彼の渇望を完全に満たすには至らなかった。この満たされぬ思いが、泰平の世における彼の焦燥感と結びつき、自制心を失わせ、結果として京都での破滅的な乱行へと彼を駆り立てた。
彼の悲劇は、彼が戦国時代の武士の荒々しい気風、すなわち個人の武勇や功名を絶対視する「武断」の価値観を色濃く残しながら、徳川幕府が新たに打ち立てた法と秩序に基づく「文治」の時代に適応できなかったことに集約される。戦場であれば武勇伝として語られたかもしれない行動も、泰平の市中では単なる犯罪でしかなかった。彼は、時代の変化の波に乗りこなすことができず、旧時代の遺物として淘汰されたのである。
津田信成の失脚は、徳川幕府が、大名や旗本に対して、単なる軍事的な忠誠だけでなく、為政者としての品格や、確立された秩序への絶対的な服従を求めたことを明確に示すものであった。彼の改易は、他の武士たちに対する強烈な警告となり、幕藩体制の基礎を固める一助となった。
このように、津田信成という一人の武将の栄光と没落の物語は、戦国から江戸へと移行する過渡期における、武士の価値観の劇的な変容と、それを強制する新権力の冷徹な姿を、鮮やかに描き出している。彼は歴史の敗者かもしれないが、その生涯は、時代の転換点に生きた人間の苦悩と葛藤を理解する上で、我々に多くの示唆を与えてくれるのである。