本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた武将であり、また高名な茶人でもあった織田長益、後の織田有楽斎(以下、特に断りのない限り「長益」または「有楽斎」と記す)の生涯と業績、そしてその歴史的評価について、現存する諸資料に基づき多角的に考察するものである。織田信長の弟という特異な出自を持ちながら、武将として、そして文化人として独自の足跡を遺した長益の生涯は、当時の武士の生き方や価値観、さらには文化が果たした役割を映し出す鏡と言えよう。巷間に流布する一面的な評価に留まることなく、史料を丹念に読み解き、その実像に迫ることを本報告書の目的とする。
長益の人生は、兄・信長の威光の下で始まり、本能寺の変という未曾有の事変、豊臣秀吉による天下統一、そして徳川家康による江戸幕府の成立という、日本史における大きな転換点を悉く経験するものであった。その中で、彼は時に武将として戦陣に身を置き、時に茶人として政治の舞台裏で交渉に携わり、またある時は文化の庇護者として後世に大きな遺産を残した。本報告書を通じて、この複雑にして魅力的な人物の多面的な姿を明らかにし、彼が日本史に刻んだ意義を深く掘り下げていきたい。
織田長益は、天文16年(1547年)、尾張国(現在の愛知県西部)を支配した織田信秀の十一男として生を受けた 1 。天下布武を掲げた兄・織田信長とは13歳年下にあたる 2 。幼名は源吾、あるいは源五郎と伝えられている 2 。信長の弟という立場は、彼の生涯にわたり、良くも悪くも大きな影響を及ぼし続けることになる。名門織田家の一員であることは、彼に一定の社会的地位と活動の機会を与えたが、同時に、偉大な兄の存在は常に比較の対象となり、その陰に隠れてしまう可能性も秘めていた。
長益の傅役(教育係)は、信長の傅役としても知られる織田家の重臣、平手政秀であったとされている 4 。平手政秀からどのような薫陶を受けたか具体的な記録は乏しいものの、当時の武家の子弟として、武芸はもとより、学問や教養を身につける機会に恵まれていたことは想像に難くない。
長益の青年期に関する具体的な記録は多くないが、永禄10年(1567年)、20歳の時に、兄・信長が稲葉山城を攻略して岐阜城と改名したその城に入ったことが伝えられている 1 。この頃から、信長の家臣団の一員として、何らかの役割を担い始めたと考えられる。後年の活躍から鑑みれば、武勇において際立った逸話は少ないものの、学問や教養に長けていたと評されており 4 、この資質が後の彼の人生を方向づける一因となった可能性は高い。
また、長益がキリスト教の洗礼を受けたという説も存在する。その洗礼名はポルトガル語でヨハネを意味する「ジョアン」であり、これが後に彼が建立する茶室「如庵」の名の由来になったとも言われている 1 。天正9年(1581年)には、カトリックの宣教師が岐阜とその周辺地域を訪れ、数百人に洗礼を授けたという記録があり、長益もその一人であった可能性が示唆されている 1 。当時の武将層において、キリスト教や南蛮文化への関心は決して珍しいものではなかったが、長益が実際に受洗したか否かについては確たる史料的裏付けを欠いている。しかしながら、「如庵」の名の由来としてこの説が語り継がれていることは、彼の人物像に国際的な視野や異文化への関心といった側面を付与し、興味深いものとしている。
天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において主君・織田信長が明智光秀の謀反によって横死するという、日本史上未曾有の政変が発生した(本能寺の変)。この時、長益は信長の嫡男であり、織田家の家督を継いでいた織田信忠と共に京都に滞在しており、二条御所にあった 2 。明智軍の襲撃を受けた信忠は奮戦の末に自害したが、長益は燃え盛る二条御所から脱出し、難を逃れた 2 。
この長益の行動は、彼のその後の評価に長く暗い影を落とすことになる。主君筋にあたる信忠が死を選んだにもかかわらず、自らは生き永らえたという事実は、当時の武士の価値観において厳しい批判の対象となった。事実、当時の風聞書や、後に編纂された史書、さらには巷間の戯れ歌に至るまで、長益を「逃げた男」として揶揄し、その不忠を責める記述が見られる 2 。例えば、『当代記』や『武家事紀』といった江戸時代初期の史料には、長益が信忠に切腹を勧めた上で、自分は御所を脱出したという、より厳しい内容の記述も存在する 7 。しかし、これらの史料は事件から数十年後に成立したものであり、その記述の信憑性については慎重な吟味が必要である。また、長益が実際に信忠に切腹を勧めたか否かについても、確たる証拠は見つかっていない 7 。
本能寺の変における長益の行動は、単に「臆病による逃亡」と断じるべきではないだろう。確かに、主君と運命を共にするという当時の武士の美徳からは外れる行為であったかもしれない。しかし、織田家の血を引く者として、一族の誰かが生き延びて家名を存続させることを優先したという、極限状況下における現実的な判断であった可能性も否定できない。また、混乱を極めた戦場からの脱出は、相応の機転と強運がなければ成し得なかったはずである。この一件で武将としての名声は大きく傷ついたが、結果として彼は生き残り、その後の歴史の舞台で独自の役割を果たすことになる。武勇による立身ではなく、文化や外交交渉といった別の分野で活路を見出し、激動の時代を生き抜いた彼の生涯は、この本能寺の変での経験が大きな転換点となったことを示唆している。この出来事は、彼の適応能力と現実主義的な側面を浮き彫りにすると同時に、歴史的評価の多面性と、史料批判の重要性を我々に教えてくれる。
本能寺の変後、織田家の天下は瓦解し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が急速に台頭する。長益は、この新たな時代の覇者である秀吉に仕える道を選んだ 5 。天正16年(1588年)には、秀吉から豊臣の姓を下賜されている 8 。これは、彼が豊臣政権において一定の地位を認められたことを示すものである。
秀吉の下では、その側近である御伽衆の一人に加えられ、摂津国島下郡(現在の大阪府の一部)などに2千石の知行を与えられた 2 。御伽衆とは、主君の話し相手や相談役を務める役職であり、高い教養や幅広い見識、そしてコミュニケーション能力が求められる。長益がこの役に任じられたことは、彼の学問や文化的な素養が秀吉に評価された結果であろう。
さらに、長益の姪にあたる茶々(淀殿)が秀吉の側室となり、鶴松や秀頼を産むと、長益は淀殿の叔父という立場から豊臣家中で一定の発言力を持つようになったとされる。淀殿が鶴松を懐妊・出産した際には、長益が出産に立ち会ったという逸話も残されており 4 、彼が秀吉や淀殿から厚い信任を得ていたことをうかがわせる。血縁関係を巧みに利用し、政権中枢との繋がりを維持したことは、彼の処世術の一端を示すものと言えよう。
天正18年(1590年)頃、長益は出家し、「有楽斎」と号するようになった 3 。出家は、武士が俗世との間に一定の距離を置き、文化活動に専念する一つの契機となることがあった。また、複雑な政治状況の中で、自らの立場を相対化し、身の安全を図るという側面もあったかもしれない。
豊臣政権下での長益の動きは、必ずしも一貫していたわけではない。例えば、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいては、当初、兄・信長の次男である織田信雄と徳川家康の連合軍に属して秀吉と敵対したが、戦いの途中で信雄が単独で秀吉と和睦すると、長益もこれに従い、秀吉の配下となった 4 。その後、家康と秀吉が和睦する際には、その折衝役を務めたとも伝えられている 8 。主君を次々と変えるような行動は、当時の価値観からすれば節操がないと批判される余地もあるが、激動の時代を生き抜くための現実的な選択であったと見ることもできる。そして、このような複雑な状況下で交渉役としての能力を発揮したことは、彼の政治的な才覚を示すものと言えるだろう。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部では対立が顕在化し、天下は再び動乱の様相を呈する。この時期、五大老筆頭の徳川家康と、同じく五大老の一人である前田利家(利家死後はその子・利長)との間で緊張が高まった際には、長益は家康の江戸屋敷に駆けつけ、警護にあたったとされている 8 。この行動は、彼が早くから家康に接近し、その将来性を見抜いていたことを示唆している。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、長益は東軍(徳川方)に与し、長男の長孝と共に約450の兵を率いて参戦した 3 。兵力こそ多くはなかったものの、小西行長隊、大谷吉継隊、石田三成隊、宇喜多秀家隊といった西軍の主力部隊と各地で戦闘を繰り広げた。一時は本多忠勝の指揮下に入り、石田隊の側面を攻撃しようとした大山伯耆らの部隊を撃退するなど、奮戦したと記録されている 5 。この戦いで長益自身も石田方の武将・蒲生頼郷を討ち取るという武功を挙げた 8 。
関ヶ原におけるこれらの戦功は、本能寺の変以来、武将としての評価が芳しくなかった長益にとって、その側面を再評価させる重要な機会となった。戦後、家康は長益の功績を認め、従来の所領を安堵しただけでなく、大和国山辺郡(現在の奈良県の一部)に新たに知行地を加増し、合わせて3万2千石の領主とした 2 。家康からの信頼も厚かったと見られ、後に家康が淀殿の側近に宛てた書状の中で、「懸案の件は有楽斎がよくやってくれているのでご心配なく」と、長益の働きを評価している一文が残されている 9 。これにより、長益は徳川政権下においてもその地位を確固たるものとし、巧みな政治的バランス感覚を発揮して生き残ることに成功した。
関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の実権を掌握した後も、豊臣家は大坂城にあって依然として一定の勢力を保持していた。しかし、両者の関係は次第に悪化し、慶長19年(1614年)、ついに大坂冬の陣が勃発する。この時、長益は豊臣秀頼の母である淀殿の叔父という立場から、大坂城に入った 3 。城内では、徹底抗戦を主張する強硬派に対して、穏健派の代表格として行動し、豊臣方と徳川方の間で和平交渉が開始されると、その仲介役として尽力した 3 。
和議交渉の過程では、豊臣方が人質を差し出すことが条件の一つとなり、その人質候補として、大坂方の重臣である大野治長と共に有楽斎の名前も挙げられた 10 。これは、彼が徳川方からも一定の信頼を得ており、和平交渉のキーパーソンと目されていたことを示している。しかし、豊臣家と徳川家の双方に繋がりを持つ彼の立場は、極めて困難なものであった。
結局、大坂冬の陣は一時的な和議によって終結するものの、その条件履行を巡って再び両者の対立が深まり、翌慶長20年(1615年)には大坂夏の陣が勃発する。この開戦直前の1615年初頭、長益は徳川家康の許可を得て、大坂城を退去した 1 。この退去の背景には、豊臣家内部における強硬派との意見の対立や、戦局が豊臣方にとって絶望的であることへの見切りがあったと考えられる。
長益の大坂城退去は、単なる保身や豊臣家への裏切りと一面的に評価すべきではないだろう。彼は淀殿の叔父として豊臣方に関与しつつも、徳川家康からの信頼も維持するという複雑な人間関係の中にあった。その中で和平実現に努めたが、それが叶わぬと悟った時、彼は破局を回避し、自らが生き延びる道を選んだ。これは、戦国乱世を生き抜いてきた現実主義者としての苦渋の選択であったと言える。そして、この選択によって、彼は豊臣家の滅亡という歴史的悲劇を城外から見届けることになった。彼が生き残ったことは、結果として織田の血筋や、彼が情熱を注いだ茶の湯文化を後世に伝えるという、より大きな視点に繋がった可能性も考慮すべきであろう。彼の行動は、戦国末期の複雑な人間関係と政治状況、そして個人の生存戦略が絡み合った結果であった。
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川による天下泰平の世が訪れると、長益は政治の表舞台から完全に身を引き、京都に隠棲した 1 。慶長20年(1615年)のことである。彼は京都の建仁寺の塔頭であった正伝院を再興し、その境内に自らの美意識の粋を集めた茶室「如庵」を建立した 1 。以後、この地を終の棲家とし、茶の湯三昧の穏やかな日々を送ったと伝えられる。
長益の最期については、元和7年(1621年)12月13日、あるいは元和8年(1622年)1月24日など諸説あるが、75歳でその波乱に満ちた生涯を閉じたとされる 1 。遺体は、彼が晩年を過ごした正伝院の敷地内に埋葬された 1 。
辞世の句については、「限りあれば 吹かねど 花は散る物を 心みじかき 春の山かぜ」という歌が紹介されていることがある 14 。これは細川ガラシャの辞世として知られることが多いが、長益のものとする説もある。しかし、他の資料 3 では長益の辞世の句は見つからなかったとされており、真偽のほどは定かではない。
長益の晩年は、戦国の動乱から離れ、文化人としての活動に専念した時期であった。彼の死は、織田信長の弟として生まれ、戦国乱世の荒波を乗り越え、武将として、そして茶人として独自の境地を切り開いた一人の非凡な人物の終焉を意味するものであった。
表1:織田長益(有楽斎)関連年表
年代 (西暦) |
元号 |
年齢 |
主な出来事 |
役職・知行・その他 |
1547年 |
天文16年 |
1歳 |
尾張国にて織田信秀の十一男として誕生 |
幼名:源吾(源五郎) |
1567年 |
永禄10年 |
21歳 |
兄・信長の岐阜城入城に従う |
|
1581年頃 |
天正9年頃 |
35歳 |
キリスト教の洗礼を受けたとの説(洗礼名ジョアン) |
|
1582年 |
天正10年 |
36歳 |
本能寺の変。織田信忠と共に二条御所に籠るも脱出 |
この後、武将としての評価が一時低下 |
1584年 |
天正12年 |
38歳 |
小牧・長久手の戦い。当初信雄・家康方、後に秀吉方へ |
|
1588年 |
天正16年 |
42歳 |
豊臣姓を下賜される |
|
1590年頃 |
天正18年頃 |
44歳 |
出家し「有楽斎」と号する。豊臣秀吉の御伽衆となる |
摂津国島下郡などに2千石 |
1600年 |
慶長5年 |
54歳 |
関ヶ原の戦い。東軍に属し戦功を挙げる |
戦後、大和国山辺郡などに加増され、計3万2千石の領主となる |
1614年 |
慶長19年 |
68歳 |
大坂冬の陣。大坂城に入り、和平交渉に尽力 |
|
1615年 |
慶長20年/元和元年 |
69歳 |
大坂夏の陣開戦前に大坂城を退去。京都建仁寺正伝院に隠棲 |
この頃より茶室「如庵」の造営に着手か |
1618年頃 |
元和4年頃 |
72歳 |
茶室「如庵」完成 |
|
1621年または1622年 |
元和7年/8年 |
75歳 |
京都にて死去 |
正伝院に葬られる |
この年表は、長益が戦国時代末期から江戸時代初期という日本の大きな歴史的転換期に生きたこと、そしてその中で彼の立場や活動がどのように変化していったかを概観する上で有用である。武将としての側面と茶人としての側面が、彼の生涯の中で複雑に絡み合いながら展開していった様子がうかがえる。
織田長益は、武将としての側面以上に、茶人「有楽斎」としての名声が高い。兄・信長が茶の湯を政治や外交の道具として重視したことはよく知られているが、有楽斎はそれをさらに深化させ、自らの生き方と美意識を反映した独自の茶風を確立するに至った。
有楽斎の茶の湯は、当代随一の茶匠であった千利休に師事したことから始まる 12 。特に、信長の横死後、天正18年(1590年)頃に出家して「有楽斎」と号してからは、本格的に利休の教えを受け、茶道に深く傾倒していったとされる 4 。
有楽斎は、利休の高弟たちの中でも特に優れた人物を指す「利休七哲」の一人に数えられることがある 1 。この評価は、彼が単に茶の湯を嗜むだけでなく、その奥義を深く理解し、高い技量と見識を備えていたことを示している。また、師である利休自身も、有楽斎の才能を高く評価し、一目を置いていたと伝えられている 2 。豊臣秀吉が主催する大規模な茶会にも、有楽斎はしばしば招かれており 15 、当時の茶の湯の世界において、彼が重要な位置を占めていたことがうかがえる。
千利休から学んだ茶の湯の精神と技法を基礎としながらも、有楽斎はそれに独自の解釈と創意工夫を加え、自らの名を冠した茶道の一派「有楽流(うらくりゅう)」を創始した 3 。
有楽流の茶風は、有楽斎自身の武士としての出自と、利休から受け継いだ侘び茶の精神とが融合した点に最大の特徴があるとされる 17 。具体的には、武家社会にふさわしい格式や威厳を保ちつつも、華美に流されることなく、質実剛健で洗練された美意識を追求したと言われる 17 。特に、後に尾張徳川家の御流として発展した「尾州有楽流」においては、大名家らしい格調の高い茶道具の取り合わせや、鷹揚でゆったりとした点前作法が特徴として挙げられている 18 。これは、有楽斎が単に利休の模倣に終わることなく、自らの経験や価値観を茶の湯の中に昇華させた結果と言えよう。
有楽斎が創始した有楽流の茶法は、まず次男の織田頼長(雲生寺道八)に伝えられた。頼長は父から利休流の台子の茶法を授けられ、有楽流の基礎を固めたとされる 15 。その後、頼長の子である三五郎長好を経て、信長の孫(有楽斎の姪孫)にあたる織田貞置(さだおき)に継承された 15 。貞置は有楽流の茶風をよく守り、さらに自らの名を冠した「貞置流」という一派も興している 15 。
江戸時代に入ると、有楽流は尾張徳川家の庇護を受け、その御流として伝えられるようになった。これが「尾州有楽流」と呼ばれる系統であり、尾張藩八代藩主・徳川宗勝や御茶道頭であった山本道伝らの研鑽によって、尾張徳川家特有の茶風として独自に発展を遂げた 18 。江戸時代後期には、尾張藩の御数寄屋頭(茶事を司る役職)であった平尾数也が、この尾州有楽流を整理・体系化し、その流儀を現代に伝えている 18 。
明治維新による武家社会の終焉と共に、尾州有楽流は一時衰退の危機に瀕したが、関係者の努力によって復興され、現在も東京を中心に関東方面などでその伝統が受け継がれている 15 。一つの流派として確立し、幾多の時代の変遷を経ながらも現代にまで命脈を保っていることは、有楽斎が茶道史に遺した影響力の大きさを物語っている。
有楽斎にとって茶の湯は、単なる個人的な趣味や芸道に留まらず、社会的なコミュニケーションの手段としても極めて重要な役割を果たした。彼は茶の湯を通じて、大名や武将はもちろんのこと、公家、高僧、さらには町衆に至るまで、身分や立場を超えた幅広い層の人々と活発な交流を持った 2 。古田織部、細川三斎(忠興)、伊達政宗といった当代一流の文化人武将たちとも茶席を共にした記録が残っており、これらの交流の様子を伝える書状が、有楽斎が晩年を過ごした京都の正伝永源院(旧正伝院)に数多く現存している 2 。
このような広範な人脈は、有楽斎に様々な情報をもたらし、また彼の政治的な影響力を間接的に高める効果もあったと考えられる。事実、有楽斎は茶人としての立場を活かし、政治的な交渉の場で調停役を務めたこともあった。例えば、天正13年(1585年)には豊臣秀吉と織田信雄の間の和議を、翌天正14年(1586年)には秀吉と徳川家康の間の和議を取りまとめる上で、重要な役割を果たしたとされている 1 。これは、茶の湯という文化的な行為が、当時の緊迫した政治状況の中で、緊張を緩和し、対話を生み出す潤滑油として機能したことを示す好例である。
有楽斎が茶の湯の世界で卓越した地位を築き、それをテコにして各勢力の有力者と深い関係を構築したことは、彼の生存戦略と密接に結びついていたと言えるだろう。武将としての評価が本能寺の変で一度は揺らいだ彼が、その後も秀吉の御伽衆として、また家康からも信頼される存在として生き残ることができた背景には、この茶の湯を通じたコミュニケーション能力と人脈形成術が大きく寄与していたことは想像に難くない。彼が主催する茶会は、さながら情報交換と人脈構築のサロンのような機能を果たし、彼自身がその中心に位置することで、間接的ながらも政治的な影響力を行使し得たのかもしれない。有楽流の創設は、彼の茶の湯における権威を不動のものとし、後世への影響力を確固たるものにした。これは、武力ではなく文化の力によって、ある種の「天下」を築き上げたとも評せるかもしれない。
表2:有楽流茶道の概要
項目 |
内容 |
流祖 |
織田有楽斎(長益) |
主な継承者 |
織田頼長(雲生寺道八)、織田長好(三五郎)、織田貞置(貞置流も創始)、(尾州有楽流では)山本道伝、平尾数也など |
流派の特徴 |
武家茶道の格式と侘び茶の精神の融合。質実剛健かつ洗練された美意識。大名家らしい格調の高い道具組、大らかでゆったりとした点前(特に尾州有楽流)。 |
尾張徳川家との関連 |
江戸時代、尾張徳川家の御流として「尾州有楽流」が発展。 |
現代への継承 |
明治維新後に一時衰退するも、現在は平尾数也の子孫である平尾家が宗家となり、東京を中心に流儀が継承されている。 |
この表は、有楽斎の茶人としての最大の業績である有楽流の核心を簡潔にまとめたものである。武家茶道としての側面と侘び茶の精神がどのように融合しているか、そしてそれがどのように後世に伝えられてきたかを理解する一助となるだろう。
織田有楽斎が後世に遺した最も著名な文化遺産の一つが、国宝に指定されている茶室「如庵(じょあん)」である。この茶室は、有楽斎の茶道観と美意識が凝縮された空間であり、日本の茶道文化を語る上で欠くことのできない重要な建造物である。
「如庵」は、有楽斎が晩年を過ごした元和年間(1615年~1624年)に、京都の建仁寺の塔頭である正伝院(現在は正伝永源院)の境内に創建された 1 。その名称「如庵」については、有楽斎がキリスト教の洗礼を受けた際の洗礼名「ジョアン (João)」に由来するという説が有力視されている 1 。もしこれが事実であれば、茶室の名称にまで自らの信仰(あるいは異文化との接触の記憶)を刻み込んだことになり、彼の内面世界の複雑さを示唆する。
「如庵」の建築様式は、二畳半台目(にじょうはんだいめ)、下座床(げざどこ)の草庵風茶室(侘び数寄屋)である 21 。これは、二畳半の広さに台目畳(通常の畳より短い点前畳)を加え、床の間を客座から見て奥(下座)に配した、簡素で静寂な趣を持つ茶室の形式を指す。「草庵」とは質素な佇まいの建物を意味し、「侘び数寄」は飾り気のない静かな茶の湯の精神性を表している。しかし、「如庵」は単なる質素さを超えた、洗練された意匠と計算し尽くされた空間構成を持つ。
その特徴的な意匠としては、まず屋根が挙げられる。屋根は「切妻造(きりづまづくり)」というシンプルな形式で、表面は「杮葺(こけらぶき)」という薄い木の板を重ねて葺く技法で仕上げられており、端正ですっきりとした印象を与える 22 。
内部空間においては、独創的な工夫が随所に見られる。炉の正面の角(炉先)には中柱を立て、その柱に取り付けられた板を火灯形(かとうがた、上部が尖った炎のような曲線状の形)にくり抜いているのは、「如庵」独特の意匠である 21 。また、床の間の脇(床脇)には三角形の「鱗板(うろこいた)」と呼ばれる板を斜めに入れ、壁自体も斜めに張ることで、茶道口からの動線に変化を与え、空間に奥行きと視覚的な面白みを生み出している 21 。
最も有名な特徴の一つが、点前座の脇壁に設けられた二つの連子窓(れんじまど)である。これらの窓は、外側に細い竹(紫竹と白竹)を隙間なく縦にびっしりと詰め打ちにしており、この独特の意匠は有楽斎の名を取って「有楽窓(うらくまど)」と呼ばれている 21 。有楽窓から差し込む光は、竹の隙間を通り抜けることで和らげられ、室内に柔らかな陰影と静謐な雰囲気をもたらす。光の効果を巧みに計算した窓の配置は、「如庵」の大きな魅力となっている。
壁の腰の部分には、古い暦(こよみ)が書かれた紙を張る「古暦貼り(こごよみばり)」という手法が用いられている 21 。一見不要とも思える古い暦を、あえて人の目に触れる場所に用いるという発想は、既存の価値観にとらわれない有楽斎の自由な精神と豊かな遊び心、あるいは「諸行無常」といった仏教的な思想の反映とも解釈でき、興味深い。
その他にも、客人が身をかがめて入る「躙口(にじりぐち)」、土間の袖壁に設けられた丸窓、天井の一部に用いられた「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」、客座を広く見せる効果のある斜めの壁「筋違いの囲い」など、「如庵」には有楽斎ならではの創意工夫が凝らされており、単なる伝統様式の踏襲ではない、彼の高い美意識と空間構成能力が遺憾なく発揮されている 22 。
「如庵」は、その卓越した建築美と茶道文化史における重要性から、茶道文化史上最も貴重な遺構の一つと高く評価されている。昭和11年(1936年)には、文化財保護法(当時は国宝保存法)に基づき国宝に指定された 20 。京都山崎の妙喜庵にある千利休作と伝わる「待庵(たいあん)」、京都大徳寺龍光院にある小堀遠州作と伝わる「密庵(みったん)」と共に、現存する国宝茶席三名席の一つとして、その名を馳せている 20 。
「如庵」には、その価値を物語る興味深い逸話も伝えられている。江戸幕府三代将軍・徳川家光が「如庵」を訪れた際に、「徳川の繁栄はこの如庵から始まったと聞いている」と述べたとされる話である 23 。これは、初代将軍・家康と有楽斎が親密な関係にあり、「如庵」が何らかの重要な会談の場として使われた可能性を示唆しており、この茶室が単なる趣味の空間ではなく、政治的な意味合いも帯びていたことをうかがわせる。
創建以来、明治維新に至るまで200年以上にわたり建仁寺正伝院の茶室として存在した「如庵」であるが、その後は数奇な運命を辿ることになる。明治時代に入り、廃仏毀釈の動きや寺院の財政難などから、正伝院の敷地の一部と共に売却の対象となった 20 。一時は京都市祇園町の有志によって買い取られ、「有楽館」と名付けて保存公開されていたが、維持運営が困難となり、明治41年(1908年)に再び売却されることになった 20 。
この時、「如庵」とその付属施設(書院、露地など)を購入したのが、三井財閥の総帥であった三井高棟(三井八郎右衛門高棟)を中心とする三井家であった。三井家は「如庵」を東京・麻布の三井本邸に移築し、大切に保存した 20 。そして昭和11年(1936年)に国宝指定を受けたのを機に、三井高棟は東京の密集地では震災や戦災による焼失の危険性があると考え、神奈川県大磯にあった三井家の別荘「城山荘(じょうやまそう)」に「如庵」を再び移築した 20 。
太平洋戦争後、財閥解体などの社会変動を経て、「城山荘」は三井家の手を離れることになった。これに伴い、「如庵」も昭和45年(1970年)に名古屋鉄道株式会社に譲渡され、愛知県犬山市にある同社が運営する日本庭園「有楽苑(うらくえん)」内に再移築され、現在に至っている 3 。
このように、「如庵」は創建から約400年の間に、京都から東京、そして大磯、犬山へと、幾度もの移築を繰り返しながらも、その姿を現代に伝えている。これは、各時代の所有者がその文化的価値を深く理解し、保存に努めてきた結果であり、日本の文化財保護の歴史の一端を示すものでもある。
「如庵」は単なる茶室建築の枠を超え、有楽斎の美意識、思想、さらには彼の生きた時代の空気までもが凝縮された総合的な空間芸術と言えるだろう。キリシタンネームに由来する可能性のある名称、武家らしい格調と侘びの精神の絶妙な調和を感じさせる意匠、光や動線を緻密に計算した設計、そして古暦の再利用といった細部へのこだわりは、有楽斎が単に茶の湯の実践者であっただけでなく、卓越した空間プロデューサーであり、深い思索を重ねる思想家としての側面も持ち合わせていたことを雄弁に物語っている。彼の茶の湯における理想や哲学を具現化した「作品」として、「如庵」は訪れる人々に静かな感銘を与え続け、その普遍的な価値は時代を超えて受け継がれているのである。
表3:国宝茶室「如庵」の建築的特徴
項目 |
内容 |
所在地(現状) |
愛知県犬山市御門先1番地 有楽苑内 |
建立者 |
織田有楽斎(長益) |
建立年代 |
元和年間(1615年~1624年) 京都建仁寺正伝院に創建 |
構造・規模 |
二畳半台目、下座床の草庵風茶室 |
屋根 |
切妻造、杮葺(こけらぶき) |
窓 |
有楽窓(点前座脇、竹の詰め打ち連子窓)、連子窓、下地窓(したじまど)など計5つ |
壁 |
土壁、腰壁に古暦貼り(暦貼り) |
床の間 |
下座床(四尺出床) |
炉の位置 |
向切(むこうぎり) |
その他特筆すべき意匠 |
炉先の中柱と火灯形の刳り抜き板、床脇の鱗板、筋違いの囲い、躙口、袖壁の丸窓、竿縁天井 |
この表は、「如庵」の建築的な特徴を具体的に示したものであり、有楽斎の独創的な美意識と茶道観を理解する上で重要である。特に「有楽窓」や古暦の腰張りといった意匠は、彼の創意工夫の精神を象徴している。
織田長益(有楽斎)は、その生涯を通じて武将と文化人という二つの顔を持ち、それぞれの分野で複雑な評価を受けてきた人物である。彼の人物像を理解するためには、これらの側面を多角的に捉え、時代背景や彼の置かれた状況を考慮する必要がある。
長益の武将としての評価において、本能寺の変での行動は避けて通れない。主君筋の織田信忠が自害する中、二条御所を脱出したことから、当時の人々や後世の一部の史家から「逃げた男」と揶揄され、その武勇や忠誠心に疑問符が付けられてきたことは事実である 2 。この評価は、彼の武将としてのキャリアに長く影響を与えた。
しかし、この「逃げた男」というレッテルは、必ずしも長益の全てを物語るものではない。近年の研究では、当時の混乱した状況や、織田家の血筋を絶やさないための苦渋の判断であった可能性など、より多角的な解釈が試みられている 2 。実際、彼はその後、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍として武功を挙げるなど、武将としての役割も果たしている 5 。
むしろ注目すべきは、彼が激動の戦国乱世から江戸時代初期にかけて、巧みに生き抜いたその処世術である。彼は他人を見る目に長けていたとも評され 4 、時流を読み、有力者との関係を築き、自らの立場を確保する能力に長けていた。信長、秀吉、家康という時の権力者の下で、時には武将として、時には交渉役として、またある時は茶人として、その時々で最適な役割を演じ分けた。これは単なる日和見主義と断じるべきではなく、変化する状況への柔軟な適応能力であり、自らの生存と織田家の血筋、そして文化を次代に繋ぐという、より大きな目的のための高度な政治的判断力であったと見ることもできる。武勇において兄・信長のような華々しい活躍はなかったかもしれないが、学問や教養に裏打ちされた知性と交渉力、そして冷静な状況判断能力こそが、彼の最大の武器であったと言えよう。
長益の生涯を貫く一つの太い線は、「生存」への強い意志と、それを実現するための多面的な戦略であった。織田信長の弟という血筋は、彼に特権と同時に危険をもたらした。本能寺の変以降、彼は武力一辺倒ではない方法で自らの価値を示し、生き残りを図った。茶の湯は、彼の文化的素養を発揮する場であると同時に、各勢力のキーパーソンと接触し、情報を得て、自らの立場を有利にするための重要なツールとなった。また、姪である淀殿との縁戚関係を巧みに利用し 4 、豊臣政権下での足場を固めた。彼の「臣従」は、単なる服従ではなく、相手の力を利用しつつ自らの安全と影響力を確保するための戦略的な行動であった。結果として、彼は多くの武将が命を落とした激動の時代を75歳まで生き抜き、自らの流派や茶室といった貴重な文化遺産を後世に残すことができた。これは、彼の多面的な生存戦略の成功を物語っている。
武将としての評価が毀誉褒貶相半ばするのに対し、文化人、特に茶人としての有楽斎の功績は揺るぎないものがある。彼は千利休に学び、その教えを基礎としながらも独自の境地を開拓し、茶道「有楽流」の創始者として、茶道史に大きな足跡を刻んだ 4 。有楽流は、武家の格式と侘びの精神を融合させた独自の茶風として、現代にも受け継がれている。
また、彼が晩年に京都・建仁寺正伝院に建立した茶室「如庵」は、国宝に指定され、日本の茶道文化を代表する建築物の一つとして高く評価されている 4 。如庵に見られる独創的な意匠や空間構成は、有楽斎の卓越した美意識と深い茶道観を今に伝えている。
有楽斎は、茶の湯を通じて、当時の大名や武将、公家、高僧、さらには町衆といった幅広い層の人々と交流し、文化的なネットワークの中心人物の一人であった 2 。彼の茶会は、単に茶を楽しむ場であるだけでなく、情報交換や政治的な交渉が行われるサロンとしての機能も持っていた。
その影響力は、地名にもその名を残している。現在、東京都千代田区にある「有楽町(ゆうらくちょう)」という地名は、江戸時代初期にこの地に有楽斎の屋敷があったことに由来すると伝えられている 3 。武将としての側面以上に、文化人としての功績が後世にまで語り継がれ、地名にまでその名が刻まれていることは、彼が日本文化に与えた影響の大きさを象徴していると言えよう。
織田長益(有楽斎)は、武将、茶人、外交家、そしてある意味では策略家としての側面も併せ持つ、一言では評しがたい複雑で多面的な人物であった。彼の生涯は、兄・信長の劇的な死、信長を討った明智光秀の短い天下、そして織田家から天下を奪った豊臣秀吉の台頭と滅亡、さらには徳川幕府の成立という、日本の歴史における大きな転換点を間近で見つめ、その中で生き抜いた稀有なものであった 4 。彼がこれらの激動を乗り越え、明智家や豊臣家の滅亡を見届け、比較的長寿を保ったことを、ある種の「使命」であったと見る向きもある 4 。
現存する有楽斎の肖像画や木像からは、どこか人の好さそうな温厚な雰囲気と同時に、武人としての風格や修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ真直ぐな眼差しが感じられると評されている 9 。これは、彼が内面に秘めていたであろう複雑な感情や、強靭な精神力をうかがわせる。
彼の名言として確たるものは伝わっていないが 3 、茶道有楽流に伝わる口伝 4 の中には、彼の茶の湯に対する思想や哲学が込められていると考えられる。
織田長益(有楽斎)の生涯は、戦国乱世という極限状況の中で、個人がいかにして生き残り、自らの存在意義を確立していくかという普遍的なテーマを我々に問いかけてくる。彼の生き様は、武力だけが全てではない、知性、教養、交渉力、そして文化の力が、時としてそれ以上の影響力を持ち得ることを示している。
織田長益(有楽斎)は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を駆け抜けた武将であり、また卓越した茶人として、後世に多大な影響を及ぼした人物である。彼が現代に遺したものは、有形の文化財に留まらず、その生き方や精神性においても我々に多くの示唆を与えてくれる。
有楽斎が創始した茶道「有楽流」は、武家茶道の格式と侘び茶の精神を巧みに融合させ、形にとらわれず客をもてなす心を重視する茶風として、現代に至るまで大切に受け継がれている 2 。その流儀は、単なる作法や様式を超え、茶の湯を通じた人間関係のあり方や、もてなしの精神を追求するものであり、現代社会においてもその価値は失われていない。
また、彼が晩年に心血を注いで建立した国宝茶室「如庵」は、日本の茶道文化を代表する至宝として、その洗練された美意識と共に有楽斎の名を今に伝えている 4 。如庵に見られる独創的な意匠や空間構成は、有楽斎の美学の結晶であり、訪れる人々に深い感銘を与え続けている。その存在は、日本の伝統建築や茶道文化の奥深さを象徴するものとして、国際的にも高い評価を得ている。
かつては本能寺の変における行動から「逃げた男」という一面的なレッテルを貼られることもあった長益であるが、近年の研究や再評価の動きの中で、その人物像はより多角的かつ肯定的に捉えられるようになってきている。彼が乱世を生き抜いた知恵と教養、そして文化への深い貢献は、現代においてこそ注目されるべき価値を持つ。
彼の生涯は、変化の激しい時代において、いかに柔軟に適応し、自らの持つ多面的な能力を発揮していくかという、現代にも通じる処世のあり方を示唆している。武力だけが支配する時代にあって、彼は茶の湯という文化の力を巧みに用い、政治の舞台裏で影響力を持ち、また多くの人々と交流し、自らの地位を築き上げた。これは、武力だけでなく、文化や知性、コミュニケーション能力もまた、歴史を動かし、後世に大きな影響を与える力となり得ることを示す好例と言えよう。
織田長益(有楽斎)の生涯と業績は、戦国時代という特異な時代背景の中で、武士として、そして文化人として、いかに生き、何を後世に残そうとしたのかを我々に問いかける。彼の遺した有楽流茶道や国宝「如庵」は、単なる歴史的遺物ではなく、彼の精神性や美意識が息づく生きた文化として、今後も大切に継承されていくべきである。そして、その複雑で多面的な人物像は、歴史を学ぶ我々に対し、常に新たな発見と深い洞察を与え続けてくれるであろう。