戦国時代の九州、とりわけ薩摩・大隅・日向の三州統一を目指す島津氏の歴史において、数多の武将がその名を刻んだ。島津四兄弟の武勇伝が華々しく語られる一方で、その覇業を盤石なものとした功臣たちの存在は、しばしばその影に隠れがちである。本報告書で取り上げる肝付兼盛(きもつき かねもり)は、まさにそのような武将の一人である。
肝付氏は本来、大隅国において島津氏と覇を競った有力な国人領主であった 1 。その庶流に生まれた兼盛は、宗家が島津氏と敵対する中にあって、なぜ一貫して島津氏に忠誠を尽くし、その重臣としての地位を確立し得たのか。彼の生涯は、単なる一武将の立身出世物語に留まらず、戦国大名島津氏の巧みな国人衆統制術と、それに翻弄され、あるいは適応していった在地領主の実像を映し出す鏡である。
本稿では、断片的な史料を博捜・分析し、肝付兼盛の出自からその武功、人物像、そして後世への影響までを徹底的に掘り下げていく。これにより、島津氏の家臣団形成における彼の特異な立ち位置と歴史的意義を明らかにし、南九州戦国史の理解に新たな視座を提供することを目的とする。
肝付氏は、その祖を平安時代の大納言・伴善男に連なる伴氏に持つ、南九州における古来の名族である 3 。兼盛の家系である加治木肝付氏は、肝付氏本家12代当主・兼忠の三男・兼光を祖とする庶流であった 3 。文明年間、宗家と庶流の不和から兼光は日向国大崎に移り、その子・兼国は文明18年(1486年)に大隅国溝辺へ、そして兼国の子、すなわち兼盛の父である肝付兼演(かねひろ)が天文3年(1534年)に加治木へ移ったとされる 3 。この一連の移転は、本家との緊張関係の中で、自立的な勢力基盤を模索する庶流の動向を示唆している。加治木は、それ以前、加治木氏、伊地知氏が領有しており、肝付氏はこれに続く形で城主となった 8 。
父・肝付兼演は、当初島津宗家14代当主・島津勝久の家老を務めていた 6 。しかし、大永6年(1526年)に勝久が島津貴久に家督を譲った後、貴久に仕えるも、やがて島津宗家の家督を巡る内紛(実久の乱)において、薩州家の島津実久方に与し、貴久に反抗する立場を取る 11 。
天文18年(1549年)、兼演は蒲生氏・渋谷氏ら反貴久勢力と結託し、加治木城にて叛旗を翻した 13 。これに対し島津貴久は、伊集院忠朗を大将とする討伐軍を派遣。黒川崎での合戦などを経て、同年11月、伊集院忠倉(忠朗の子)の火計によって陣を乱された兼演は敗れ、北郷氏の仲介を通じて貴久に降伏した 10 。
降伏後、兼演は加治木の領有を安堵される 10 。この処遇は、島津貴久が旧敵対勢力を単に殲滅するのではなく、その力を認め、自らの支配体制に組み込んでいくという巧みな統治戦略の現れであった。しかし、この父・兼演が島津貴久に一度は反旗を翻したという事実は、息子である兼盛の立場を極めて微妙なものにした。彼は、単なる家臣ではなく、「元反逆者の子」という重い十字架を背負って島津家に仕えることになったのである。この出自が、彼の生涯を通じて見られる、自己の武功を以て忠誠を証明しようとする苛烈なまでの姿勢の原動力となったことは想像に難くない。彼の武功は、個人的な武勇の発露であると同時に、一族の存続を賭けた必死の表明行為であったと解釈できる。この強迫観念にも似た動機こそが、彼を島津屈指の猛将へと押し上げた一因と考えられる。
兼盛の生涯は数多の合戦への参加によって特徴づけられる。彼の軍歴全体を時系列で俯瞰するため、以下に略年譜を示す。
和暦(西暦) |
兼盛の年齢 |
主な出来事 |
関連人物 |
備考・出典 |
天文2年(1533) |
1歳 |
誕生 |
肝付兼演 |
17 |
天文18年(1549) |
17歳 |
父・兼演が島津貴久に降伏。加治木領を安堵される。 |
肝付兼演, 島津貴久 |
15 |
天文23年(1554) |
22歳 |
岩剣城攻めに参加。4人を討ち取る武功を上げる。 |
島津貴久, 蒲生範清 |
7 |
弘治元年(1555) |
23歳 |
帖佐山田の戦いで敵将らを討ち、加増される。 |
島津貴久 |
7 |
永禄2年(1559) |
27歳 |
島津氏と盟書を交わす。 |
- |
7 |
永禄9年(1566) |
34歳 |
伊東氏の三ツ山城攻めに参加。 |
伊東義祐 |
7 |
永禄10年(1567) |
35歳 |
菱刈攻めに参加。 |
菱刈氏 |
7 |
永禄11年(1568) |
36歳 |
島津忠良(日新斎)から軍功を賞された四人の一人となる。 |
島津忠良 |
7 |
永禄12年(1569) |
37歳 |
新納忠元と共に大口城を攻め落とす。感状と所領を与えられる。 |
島津義久, 新納忠元 |
7 |
天正4年(1576) |
44歳 |
日向国高原城攻めに参加。 |
伊東氏 |
7 |
天正6年(1578) |
46歳 |
死去。 |
- |
17 |
天文23年(1554年)、父の降伏からわずか5年後、大隅の蒲生範清、祁答院良重、入来院重朝、菱刈重豊ら反島津連合軍が、島津方に付いた兼盛の居城・加治木城に攻め寄せた 13 。これは、兼盛の忠誠が試される最初の大きな戦いであった。島津貴久は、この報に接し、末弟の島津尚久を加治木城へ援軍として派遣し、兼盛と共に防衛にあたらせている 13 。
貴久は、加治木城を直接救援するのではなく、敵の後方を脅かすべく、敵対勢力の一角である祁答院氏の拠点・岩剣城を攻めるという戦略的判断を下す 19 。この岩剣城攻めに兼盛も参加し、自ら敵兵4人を討ち取るという武功を上げた 7 。この戦いは、後の島津家当主・義久ら四兄弟の初陣としても知られている 13 。
翌弘治元年(1555年)、兼盛の武勇はさらに輝きを増す。彼は蒲生氏を支援する祁答院氏の領地、帖佐の山田へ加治木の長浜衆を率いて進軍。大将の徳永与一左衛門・安田杢之丞ら23人を討ち取るという大勝利を収めた 7 。この敗北により敵は帖佐城・山田城を放棄して本貫地である祁答院へと敗走した。姶良地方にまで勢力を伸ばしていた祁答院氏をその本拠に封じ込めたこの功績は非常に大きいと評価され、貴久から西別府(現・鹿児島市西別府町)と有川(現・霧島市)の地を与えられた 7 。父の汚名をすすぎ、自らの武勇で忠誠を証明した瞬間であった。
兼盛の島津家における地位を決定的にしたのは、軍功のみならず、巧みな婚姻政策であった。彼は、島津家中興の祖と仰がれる島津忠良(日新斎)の娘「にし」を正室として迎えたのである 17 。これにより兼盛は、島津貴久の義弟、そして島津義久ら四兄弟にとっては叔父婿という、極めて近い姻戚関係を結ぶことになった。
この婚姻は、単なる恩賞ではなく、かつての反逆者の家系を島津一門に完全に組み込むという、高度な政治的判断に基づくものであった。これにより、加治木肝付氏の島津家に対する忠誠は血によって保証され、兼盛は他の国人出身の家臣とは一線を画す、特別な地位を得たと考えられる。史料によれば「にし」は種子島時尭に嫁いだ後、兼盛に再嫁したとあり 25 、当時の政略結婚の複雑さと、兼盛が島津家にとっていかに重要な存在と見なされていたかがうかがえる。武功によって自らの能力を証明し、それを認められて主君一族との婚姻を成立させる。この「武功」と「婚姻」の二重奏こそが、兼盛の地位を不動のものとしたのである。
さらに、永禄2年(1559年)、兼盛は改めて島津氏と盟書を交わしている 7 。これは、婚姻関係に加えて、主従関係を公式な文書で再確認し、その絆をより強固にするための措置であった。
島津氏の勢力拡大期において、兼盛は主力部隊の一翼を担い、薩摩・大隅・日向の各地を転戦した。
対伊東氏戦線においては、永禄9年(1566年)の日向国三ツ山城攻め 7 、天正4年(1576年)の同国高原城攻めなど、宿敵・伊東氏との戦いで常に軍功をあげた 16 。高原城攻めは、島津義久・義弘(当時は忠平)・家久ら島津一門の主力が総動員された大規模な作戦であり、兼盛もその中核として参陣している 26 。
対菱刈氏戦線では、永禄10年(1567年)の菱刈攻めに従軍 7 。特に永禄12年(1569年)には、島津家の宿将・新納忠元と共に北薩摩の要衝・大口城を攻め、これを陥落させるという大功を立てた 7 。この功により、島津義久から直々に感状と曽於郡上三台堂の地を与えられている 7 。
また、大隅国内の平定戦においても、島津氏に反抗する肝付宗家、伊地知氏、禰寝氏との合戦に参加しており、大隅統一事業においても重要な役割を果たした 7 。宗家と袂を分かち、島津方として宗家と戦うという彼の立場は、戦国の非情さを物語っている。
永禄11年(1568年)、島津忠良(日新斎)は、島津家の将来を支えるべき特に軍功の優れた者として四人の武将を選び賞した 7 。肝付兼盛は、その栄えある四人のうちの一人に選ばれたのである。
この逸話は「日新斎の看経所の四柱」として伝わっている 12 。日新斎が加世田に隠居中、日々経を読んでいた看経所の四本の柱に、今後の島津家を支えるべき将として、以下の四人の名を記したという。
この四人に選ばれたことは、島津家の精神的支柱であった日新斎から、最高の栄誉と信頼を与えられたことを意味する。特に、父が反逆者であった兼盛が、譜代の重臣である新納忠元や鎌田政年らと並び称されたことは、彼が自身の武功と忠節によって、その出自を完全に克服し、島津家中において揺るぎない地位を築き上げたことを象徴している。
この人選には、日新斎の深慮が見て取れる。新納忠元(島津分家・新納氏庶流)、鎌田政年(譜代家臣)、川上久朗(島津分家・川上氏庶流)、そして肝付兼盛(元敵対勢力・肝付氏庶流)という構成は、多様な出自を持つ家臣団をまとめ上げ、それぞれの立場を尊重しつつも、実力主義で評価するという日新斎の明確な意志の表れである。兼盛をこの中に含めることで、「一度は敵対した者でも、忠誠を尽くせば最高の栄誉を得られる」という実例を示し、他の国人衆の心服を促す効果も狙ったと考えられる。これは、単なる功労者リストではなく、高度な組織マネジメントの一環であったと言えよう。
数々の合戦で武功を重ね、島津氏の三州統一に大きく貢献した兼盛であったが、天正6年(1578年)8月11日に没した。享年46 17 。死因に関する具体的な記述は見当たらないが、戦乱の世を駆け抜けた武将としては比較的若くしての死であった。
墓所は、鹿児島県姶良市加治木町日木山にある東禅寺墓地にあるとされ、現在も市指定史跡として残されている 8 。同墓地には、兼盛の側室(菱刈重根の娘)や、跡を継いだ三代・兼寛の墓も共に存在する 8 。
家督は嫡男の兼寛(かねひろ)が継いだ 8 。兼寛も父同様に島津氏に仕え、天正14年(1586年)の岩屋城攻めなどで軍功をあげたが、天正18年(1590年)に33歳の若さで早世した 29 。
加治木肝付氏は、文禄4年(1595年)の太閤検地により所替えとなり、加治木から喜入へと移住した 9 。これ以降、この家系は「喜入肝付氏」と称されるようになる 7 。
兼寛には嗣子がなかったため、当時島津家中で絶大な権勢を誇った家老・伊集院忠棟が、自らの三男・兼三(かねみつ)を強引に養子として送り込み、家督を継がせた 7 。しかし慶長4年(1599年)、忠棟が島津忠恒(後の家久)に誅殺され、その子・忠真が反乱(庄内の乱)を起こすと、兼三も伊集院一族として粛清された 7 。
この家督乗っ取りという最大の危機に際しても、兼盛が築いた「家」の礎は揺るがなかった。伊集院氏が粛清された後、喜入肝付氏の家督は兼盛の次男であった兼篤(かねあつ)が継承し、兼盛の血脈は守られたのである 7 。これは、島津家が「加治木(喜入)肝付氏=兼盛の血統」という認識を強く持っていたことの証左に他ならない。
この喜入肝付氏は、江戸時代を通じて薩摩藩の一所持(私領主)として5500石余を領する重臣家として存続した 5 。そして幕末、この喜入肝付氏から、藩主・島津斉彬の懐刀として活躍し、明治維新に多大な貢献をした名家老・小松帯刀(本名:肝付尚五郎)が輩出される 7 。彼は兼盛から数えて10代目の当主・肝付兼善の子である。兼盛が戦国時代における奮闘によって築き上げた信頼と家の格が、約300年の時を経て、日本の近代化を担う傑出した人材を生み出す土壌となったのである。
肝付兼盛は、天文から天正にかけての島津氏の勢力拡大期において、軍事的に不可欠な役割を果たした武将であった。彼の功績は、岩剣城の戦いをはじめとする数々の合戦での武勇に留まらない。
彼の真の重要性は、大隅の有力国人・肝付氏の庶流という出自にありながら、宗家とは一線を画し、いち早く島津氏に帰順し、その忠誠を生涯貫き通した点にある。彼は、島津氏が周辺国人を支配体制下に組み込んでいく過程における、最も成功した「モデルケース」であった。
兼盛の存在は、島津氏にとって、敵対する肝付宗家や他の大隅国人衆への強力な牽制となると同時に、帰順すれば厚遇されるという実例を示す役割も果たした。日新斎の娘婿となり、「看経所の四柱」に数えられたことは、彼が単なる外様の勇将ではなく、島津家の内部に深く食い込み、その意思決定にも影響を与えうる存在であったことを示唆している。
肝付兼盛の生涯は、戦国という激動の時代を、武勇と知略、そして巧みな政治的立ち回りによって生き抜き、自らの家を後世に永続させた一人の武将の軌跡である。彼の築いた礎の上に、喜入肝付氏は薩摩藩の重きをなし、その血脈は幕末の小松帯刀へと繋がっていく。島津氏の覇業を語る時、その輝かしい栄光の裏には、兼盛のような智勇兼備の将の、揺るぎない忠誠と赫々たる武功があったことを忘れてはならない。