最終更新日 2025-07-19

脇坂安元

脇坂安元は賤ヶ岳七本槍・安治の嫡男。大坂の陣で戦功を挙げ、信濃飯田藩主として55年間善政を繁栄させた。島原の乱で一番乗りを果たすなど武勇も兼ね備え、100歳で大往生した堅実な名君。

徳川治世の藩主像:脇坂安元の生涯と藩経営

序章:凡庸なる「二代目」か、堅実なる統治者か

脇坂安元(わきさか やすもと)。この名を聞いて、多くの歴史愛好家がまず想起するのは、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として勇名を馳せた父・脇坂安治の姿であろう。安元自身は、父の死後に伊予大洲藩を継ぎ、信濃飯田藩へ転封され、その子孫が播磨龍野藩で明治維新を迎えたという、いわば「著名な父を持つ二代目大名」としての側面が強く、個人の具体的な功績や人物像は、その父の威光の陰に隠れがちであった。

しかし、本報告書は、脇坂安元を単なる「二代目」として捉える通説的な評価に留まることなく、彼が生きた時代背景と具体的な事績を丹念に検証することで、その歴史的実像を多角的に再評価することを目的とする。安元が生きたのは、豊臣政権下の戦国の遺風が色濃く残る時代から、徳川幕藩体制による「武」から「文」への統治パラダイムの転換が確立する、まさに激動の過渡期であった。この時代にあって、安元は武人としての役割を全うしつつ、藩主として卓越した統治能力を発揮し、家の安泰と領地の繁栄を成し遂げた。

本報告書では、安元を、時代の要請に応え、武人としての矜持と行政官僚として実務能力を両立させた、極めて有能かつ堅実な統治者として捉え直す。その生涯を、出自と家督相続、大坂の陣や島原の乱における武功、そして信濃飯田藩における55年間に及ぶ長期の善政という具体的な事績を通して解き明かし、徳川治世が求める新たな大名像を体現した人物としての歴史的意義を明らかにする。


表1:脇坂安元 略年譜

和暦(西暦)

年齢(数え)

主な出来事

天正12年(1584年)

1歳

誕生。父は脇坂安治。

慶長5年(1600年)

17歳

関ヶ原の戦い。父・安治が東軍に寝返り、本領を安堵される。

元和元年(1615年)

32歳

父・安治の隠居に伴い、家督を相続。伊予大洲藩5万3500石の藩主となる。大坂夏の陣に参陣し、戦功を挙げる。

元和3年(1617年)

34歳

伊予大洲から信濃飯田5万5千石へ転封される。

寛永14年(1637年)

54歳

島原の乱が勃発。幕府上使として九州へ派遣される。

寛永15年(1638年)

55歳

原城総攻撃において、軍令を破り突撃。「一番乗り」の功を立てる。

寛文12年(1672年)

89歳

家督を三男・安政に譲り隠居。

天和3年(1683年)

100歳

飯田にて死去。享年99(満98歳)。墓所は飯田の天徳院。


第一章:賤ヶ岳の英雄の嫡男として ― 誕生から家督相続まで

生い立ちと血筋

脇坂安元は、天正12年(1584年)、近江国で誕生した。父は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)子飼いの武将として知られ、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで抜群の武功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた猛将・脇坂安治である。一方、母は公卿である西洞院時慶の娘であった。この出自は、安元に武門の誉れという側面と、都の公家文化に連なる教養という、二つの異なる血脈をもたらした。戦国の気風が薄れ、大名にも文化的素養が求められるようになる江戸時代において、この母方の血筋は、彼の人間形成に少なからぬ影響を与えたと考えられる。

父・安治の決断と脇坂家の立場

安元の青年期は、豊臣政権の終焉と徳川の台頭という、日本の歴史における一大転換期と重なる。父・安治は、秀吉から厚い恩顧を受けた大名であり、その立場は本来、徳川家康と対立するものであった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、安治は当初、石田三成方の西軍に属して参陣した。しかし、合戦の最中、小早川秀秋の寝返りに呼応する形で東軍へと寝返り、西軍の大谷吉継隊を攻撃した。

この土壇場での「寝返り」という決断は、結果として脇坂家の滅亡を防ぎ、戦後、家康から所領を安堵されるという形で家名の存続を可能にした。しかし、この経緯は、徳川政権下における脇坂家の立場を極めて微妙なものにした。純粋な譜代大名のような絶対的な信頼を最初から得られたわけではなく、常に「元豊臣恩顧の外様大名」という目で見られる宿命を背負うことになったのである。

若き日の安元は、父のこの苦渋に満ちた政治的判断を間近で見聞きし、理想や恩義だけでは生き残れない乱世の現実と、新しい支配者に対する処世術を学んだに違いない。父が背負った「寝返り」という過去は、安元にとって、自らの代でその負債を清算し、幕府に対して絶対的な忠誠を疑いのない形で示さなければならないという、強烈な責務感の源泉となった可能性が高い。この潜在的なプレッシャーこそが、後の大坂の陣や島原の乱における彼の行動を理解する上で、極めて重要な鍵となる。

家督相続

安元が正式に家督を相続したのは、元和元年(1615年)のことである。この年、父・安治の隠居に伴い、その所領であった伊予大洲5万3500石を継承し、大洲藩主となった。史料によっては、大坂冬の陣が始まる直前の慶長19年(1614年)に家督を譲られたとの説もあるが、いずれにせよ、彼の藩主としてのキャリアは、徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣と時を同じくして始まった。これは、新当主となった安元にとって、幕府への忠誠心と自らの武将としての器量を証明する、最初の、そして最大の試金石であった。

第二章:伊予大洲藩主としての初期治世と大坂の陣

大坂の陣への参陣と「忠誠の証」

家督を相続した直後、安元は徳川方として大坂の陣に参陣する。慶長19年(1614年)の冬の陣では、京都の要衝である伏見・鳥羽の警備という重要な任務を担った。そして、翌元和元年(1615年)の夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて、敵兵の首級36を挙げるという具体的な戦功を立てた。

この「首級36」という数字は、単なる武勇伝として片付けるべきではない。豊臣家を完全に滅亡させ、徳川の天下を盤石にするための総仕上げであったこの戦いにおいて、かつて豊臣恩顧であった脇坂家の新当主がこれだけの戦果を挙げたという事実は、幕府に対する「忠誠の証」として極めて大きな意味を持っていた。父の代の複雑な経緯を払拭し、脇坂家が完全に徳川の臣下であることを、戦場での働きという最も分かりやすい形で証明したのである。この戦功は、幕府の公式記録に残り、安元個人の評価を高めると同時に、外様大名としての脇坂家の地位を安定させる上で、不可欠な実績となった。

短期間の伊予大洲統治

大坂の陣が終結し、世に「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる泰平の時代が訪れると、安元は領地である伊予大洲(現在の愛媛県大洲市)に戻り、藩主としての本格的な統治を開始した。大洲は、父・安治が関ヶ原の戦いの後に淡路洲本から移封された土地であり、脇坂家にとっては比較的新しい領地であった。そのため、藩政の基盤固めが急務であったと考えられる。

安元の大洲統治は、元和3年(1617年)に信濃飯田へ転封されるまでのわずか2年間という短い期間であった。この間に、城下町の整備や検地の実施といった、藩政の基礎を固めるための諸政策に着手したと推測される。この短期間の統治は、それ自体が大きな成果を残したというよりも、後に信濃飯田で50年以上にわたって展開される長期的な藩政運営の、いわば序章として位置づけることができる。武人としての役割を終え、統治者としての新たなキャリアを歩み始めた安元にとって、大洲での経験は貴重な準備期間となったであろう。

第三章:島原の乱における軍功と論争

脇坂安元の武将としてのキャリアにおいて、その名を最も広く知らしめ、同時に最も大きな論争を呼んだのが、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱における彼の行動である。

幕府上使としての派遣と「一番乗り」

島原・天草一揆、いわゆる島原の乱が大規模な反乱に発展すると、幕府は九州の諸大名に鎮圧を命じるとともに、総大将として老中の松平信綱を派遣した。この時、安元は、信綱を補佐し、参陣した諸大名を監督・監察する「上使(じょうし)」という重責を担って九州へ派遣された。この人選は、大坂の陣での戦功などを通じて、安元が幕府から一定の信頼を得ていたことの証左と解釈できる。

戦いは、一揆勢が立てこもる原城を包囲する持久戦となった。しかし、寛永15年(1638年)2月27日、戦況が膠着する中、安元は総大将・松平信綱による「攻撃待て」の命令を事実上無視し、配下の兵に突撃を命じた。この突出した攻撃により、安元の軍勢は息子の安旗(やすはた)が負傷するなど大きな損害を出しながらも、城壁を乗り越え、本丸に最初に突入する「一番乗り」の功名を立てたとされる。結果的に、この安元の攻撃がきっかけの一つとなり、翌28日には幕府軍による総攻撃が開始され、原城は陥落した。

軍令違反と幕府の評価

安元のこの行動は、総大将の命令系統を乱す「抜け駆け」であり、明白な軍令違反であった。戦後、この突出した行動は幕閣で問題視され、安元は信綱から厳しい叱責を受けた。しかし、幕府の最終的な処断は、一見すると矛盾したものであった。軍令違反を咎めつつも、一番乗りの功を高く評価し、感状と時服(じふく)・羽織といった褒美を与えたのである。

この処罰と褒賞が同居した複雑な処遇の背景には、徳川幕府が抱えるジレンマと、高度な政治的判断があった。

第一に、規律維持の観点から、総大将の命令を無視した行為を黙認することはできなかった。これを許せば、幕府軍の統制が崩壊し、今後の軍事行動に深刻な影響を及ぼす。規律の厳正さを示すためにも、叱責という形での「処罰」は不可欠であった。

第二に、武功奨励の観点から、「一番乗り」という武士にとって最高の栄誉を完全に否定することもできなかった。戦国の気風がまだ残るこの時代、武勇を軽んじる姿勢を示せば、諸大名の士気を著しく削ぐことになる。幕府は、統治の根幹に「武」を据えており、武功を正当に評価する姿勢を示す必要があった。

安元の行動の動機は、複合的なものであったと考えられる。一つには、賤ヶ岳の英雄である父・安治に匹敵する武名を上げたいという、個人的な功名心があっただろう。泰平の世においては、島原の乱は武功を立てる最後の機会と映ったかもしれない。もう一つには、上使という立場から、諸大名の先頭に立って手本を示さねばならないという強い責任感と、ここで功を立てることが外様大名である脇坂家の地位を盤石にするという、政治的な計算があった。

結果として、安元の軍令違反は、幕府にとって規律の重要性を示す「見せしめ」となり、その一番乗りの功名は、武功の価値を示す「手本」となった。幕府は、安元の行動を巧みに利用し、規律と武勇という二つの価値観を両立させるという、巧みな統治術を諸大名に見せつけたのである。

第四章:信濃飯田への転封 ― 新たな領地での挑戦

島原の乱で武人としての最後の華を咲かせた安元であったが、彼の真価が発揮されるのは、戦場から遠く離れた内陸の地、信濃飯田においてであった。

転封の経緯と飯田藩の成立

元和3年(1617年)、安元は伊予大洲5万3500石から、信濃国伊那郡の飯田5万5千石へと転封を命じられた。これは大坂の陣後の論功行賞と、全国的な大名の再配置政策の一環であった。海に面した温暖な伊予から、山々に囲まれた寒冷な信濃への移動は、藩の経営環境を大きく変えるものであり、安元の統治者としての能力が本格的に試されることとなった。


表2:脇坂家 所領変遷表(安治・安元・安照期)

藩主

期間(西暦)

領地

石高

備考

脇坂安治

1585年 - 1609年

洲本

淡路国

3万石

賤ヶ岳の戦いの功による

脇坂安治

1609年 - 1615年

大洲

伊予国

5万3500石

関ヶ原の戦いの後、加増・転封

脇坂安元

1615年 - 1617年

大洲

伊予国

5万3500石

家督相続

脇坂安元

1617年 - 1672年

飯田

信濃国

5万5千石

転封

脇坂安政

1672年 - 1684年

飯田

信濃国

5万5千石

安元の子

脇坂安照

1684年 - 1722年

飯田→龍野

信濃国→播磨国

5万5千石→5万1千石

貞享元年(1684年)に龍野へ転封


55年間にわたる藩政改革

安元は、寛文12年(1672年)に隠居するまでの55年間という長きにわたり、飯田藩主の座にあった。この驚異的な長さの在位期間が、彼の数々の藩政改革を成功に導く最大の要因となった。彼の統治は、島原で見せた激情的な側面とは対照的に、極めて冷静かつ実務的であり、地道な努力の積み重ねであった。

  • 藩政基盤の整備: 安元は入封後、藩内全域の総検地を断行し、石高を正確に把握することで、年貢徴収制度の公平性と安定性を確立した。また、飯田城の改修や城下町の整備を進め、藩の政治・経済の中心地としての機能を強化した。
  • 産業振興策: 安元は、年貢米だけに頼らない財政基盤の確立を目指し、地域の特性を活かした産業の育成に心血を注いだ。特に、武士の内職として始まった水引の生産から発展した「元結(もとゆい)」は、飯田の代表的な特産品となった。その他にも、和紙、漆器、傘などの生産を奨励し、藩の経済を潤した。さらに、養蚕を奨励したことは、後の時代に飯田が製糸業で栄える礎を築く、先見の明に満ちた政策であった。
  • 治水・利水事業: 山がちな地形である伊那谷において、水の確保は死活問題であった。安元は治水事業に力を入れ、特に「脇坂用水」と呼ばれる用水路の開削は、新田開発を大きく進展させた。この事業は、藩の石高を実質的に増加させただけでなく、領民の生活を安定させ、安元は「名君」として後世まで慕われることになった。

飯田への転封は、安元に「武」の人物から「文」の統治者への自己変革を促した。彼はこの課題に見事に応え、武力ではなく、民政の安定と産業の振興によって藩を富ませるという、徳川幕府が理想とする新しい大名像を、その長い治世を通じて体現したのである。彼の真の歴史的功績は、原城の一番乗りという一瞬の武功ではなく、飯田の地に55年間かけて根付かせた善政そのものにあると言えよう。

第五章:文化人としての側面と晩年

脇坂安元は、武人であり、優れた行政官であっただけでなく、高い教養を身につけた文化人としての一面も持っていた。

文化的素養と交流

安元は和歌に優れた才能を持ち、その作品がいくつか現存している。彼がこうした文化的素養を身につけた背景には、母方が公家の西洞院家の出身であることが大きく影響していると考えられる。また、当代一流の文化人であり、能書家としても知られた烏丸光広(からすまる みつひろ)とも親交があったことが記録されている。

このような文化人としての一面は、彼の統治スタイルにも影響を与えていた可能性がある。武辺一辺倒ではなく、教養や文化の価値を深く理解していたからこそ、武力による支配ではなく、産業振興や民政の安定といった平和的な富国策に注力できたのではないか。彼の人物像は、「武人」と「行政官」という二つの顔に、「文化人」という第三の顔が加わることで、より一層の奥行きを持つものとなる。

驚異的な長寿と穏やかな最期

安元は、当時としては驚異的な長寿を保った。寛文12年(1672年)、数え年で89歳という高齢で、家督を三男の安政に譲って隠居した。その後も飯田の地で穏やかな余生を送り、天和3年(1683年)4月17日、数え年で100歳(満98歳)の大往生を遂げた。

彼の墓所は、飯田藩主脇坂家の菩提寺である長野県飯田市の天徳院に、今も静かにたたずんでいる。この99年という長い生涯こそが、飯田における55年間の長期統治を可能にし、彼の歴史的評価を決定づけた最も重要な要因であったことは、改めて強調されるべきである。

第六章:後世への遺産と歴史的評価

脇坂安元の功績は、彼一代に留まらず、その後の脇坂家の繁栄の礎となった。

脇坂家のその後と播磨龍野への移封

安元の跡は三男の安政が継いだが早世し、その子、すなわち安元の孫にあたる安照(やすてる)が藩主となった。貞享元年(1684年)、安照の代に、脇坂家は信濃飯田から播磨龍野(現在の兵庫県たつの市)5万1千石へ転封となった。

この転封は、石高がわずかに減少していることから左遷と見る向きもあるが、別の解釈も可能である。脇坂氏は元々、播磨国の国衆であり、龍野は先祖代々の地にほど近い場所であった。畿内に近い重要拠点への配置は、幕府からの信頼の証と見ることもできる。安元が生涯をかけて築き上げた幕府への忠誠と、飯田での善政という「無形の資産」が、最終的に子孫を故郷に近い地へと導いた、一種の栄典であったと捉えることもできよう。龍野藩主となった脇坂家は、その後、一度の転封もなく明治維新を迎え、子爵に叙せられた。安元が築いた安定した家政基盤が、家の永続に大きく貢献したことは間違いない。

歴史的評価の再検討

脇坂安元は、父・安治の華々しい武名や、島原の乱における「一番乗り」という派手な逸話の影に隠れ、その全体像が正当に評価されてきたとは言い難い。しかし、本報告書で検証した通り、彼の真価は、戦国の武将から近世の統治者へという、時代の要請に見事に応えた点にある。

彼は、徳川の治世が求める新しい大名像、すなわち領民を慈しみ、産業を興し、藩を富ませる「経営者」としての大名の役割を、信濃飯田における55年間の統治で見事に体現した。島原での軍令違反という一見すると汚点に見える行動でさえ、家の存続と幕府への忠誠を示さんがための、時代の過渡期における必死の行動と理解することができる。そして、その後の長い治世における地道な努力によって、自らの評価を確固たるものにしたのである。

(補足)名槍「人間無骨」を巡る巷説について

巷説において、森長可(もり ながよし)が使用したとされる名槍「人間無骨(にんげんむこつ)」が、脇坂家に伝来し、安元が所持したかのように語られることがある。しかし、これは誤りである。史料によれば、この槍は織田信長配下の武将・森長可が用いた後、その子孫である津山藩森家に代々受け継がれたものであり、脇坂家との直接的な関係を示す確かな記録は存在しない。安元の武勇を語る上で、こうした巷説と史実を明確に区別する必要がある。

結論:徳川治世を生き抜いた「二代目大名」の実像

本報告書を通じて、脇坂安元の生涯を多角的に検証した結果、以下の結論に至る。

脇坂安元は、単なる「賤ヶ岳の英雄の子」という肩書に収まる人物ではない。彼は、戦国の遺風が残る時代と、徳川による泰平の世という、二つの異なる価値観が交錯する過渡期を生き抜いた、極めて象徴的な大名であった。

その生涯の前半においては、大坂の陣や島原の乱で武人としての役割を果たし、特に島原での行動は、家の存続と忠誠を示すための強い意志の表れであった。しかし、彼の本領が発揮されたのは、戦場ではなく、信濃飯田の地における藩政運営であった。55年という長きにわたる地道で堅実な統治は、藩の財政を安定させ、民生を向上させ、今日の飯田市の産業の礎を築いた。これは、武勇の時代が終わり、統治能力こそが大名の第一の資質とされた新しい時代への、完璧な適応であった。

島原での軍令違反という逸話は、彼の名を後世に伝える一方で、その人物像を一面的なものにしてきた。しかし、その後の長い生涯をかけた善政は、彼が激情的な武人である以上に、忍耐強く、先見の明に富んだ、有能な行政官僚であったことを何よりも雄弁に物語っている。

脇坂安元の生涯は、華々しい武功だけが武士の価値ではない、新しい時代における「統治者」という大名の理想像を、その99年の長い生涯を通じて体現した、堅実かつ有能な大名の典型例として、高く評価されるべきである。彼は、父の威光を受け継ぎながらも、自らの力でそれを乗り越え、徳川治世における藩主の新たな規範を築き上げた、稀有な「二代目」であったと言えるだろう。