脇坂安治は賤ヶ岳七本槍の一人。明智光秀から豊臣秀吉へ転身し、水軍の将として活躍。関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り、脇坂家を存続させた。乱世を生き抜いた現実主義の生存戦略家。
脇坂安治という武将の名を耳にする時、多くの人々が思い浮かべるのは、豊臣秀吉の子飼いとして武勇を馳せた「賤ヶ岳七本槍」の一人という栄光の姿、そして天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて西軍を裏切り東軍を勝利に導いた「寝返り」の将という、光と影の二つの側面であろう。これらは彼の生涯を象徴する出来事であり、その人物像を形作る上で不可欠な要素であることは疑いない。
しかし、これらの著名な逸話やレッテルは、脇坂安治という一人の武将が歩んだ複雑で多面的な生涯を十分に捉えているとは言い難い。本報告書は、若き日の武功や天下分け目の決断といった点描に留まらず、彼の出自、キャリアの原点、豊臣政権下で特異な地位を築いた水軍指揮官としての専門性、そして徳川の世を生き抜き、藩祖として家名を後世に伝えた統治能力といった、これまで十分に光が当てられてこなかった側面に焦点を当てる。
本報告書の目的は、脇坂安治を単なる勇将や裏切り者といった紋切り型の評価から解き放ち、激動の時代を冷静に読み解き、自らの家門を存続させるという武士にとっての至上命題を達成した、稀代の「現実主義者」であり、卓越した「生存戦略家」として再評価することにある。彼の生涯を丹念に追うことで、戦国乱世における武将の生き様の一つの典型を見出すことができるであろう。
脇坂安治は、天文23年(1554年)、近江国浅井郡脇坂野(現在の滋賀県長浜市脇坂町)に生まれた。父は土豪の脇坂安明とされる。彼の故郷である近江は、京の都に近く、織田、浅井、六角といった大名が絶えず覇を競う、まさに戦国の中心地の一つであった。このような地政学的に不安定な環境で育った経験は、常に周囲の情勢を冷静に観察し、有利な側に付くことで生き残りを図るという、彼の後の処世術に少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。
安治の武将としてのキャリアは、羽柴秀吉の下ではなく、織田信長の重臣であった明智光秀の与力として始まった点が極めて重要である。これは彼の経歴を理解する上で見過ごすことのできない出発点であった。
光秀への仕官が安治に与えた影響は大きい。第一に、明智光秀は信長軍団の中でも屈指の行政手腕と高い教養を持つ武将として知られていた。彼の下で働くことは、単に戦場での働きを学ぶだけでなく、兵站の管理、検地、城下町の整備といった統治の実務に触れる貴重な機会を得たことを意味する。この経験が、後に彼が淡路、そして伊予大洲の領主として藩政の基礎を築く上での素地を形成したことは想像に難くない。
第二に、このキャリアの始まりは、彼に最初の、そして最大の政治的試練をもたらした。主君である光秀が本能寺の変を引き起こし、「逆賊」として討たれるという絶体絶命の状況に直面したのである。この危機を乗り越え、勝者である秀吉の側に速やかに転身できたという事実は、彼の若き日における政治的嗅覚の鋭さと、決断の速さ、そして行動力を如実に示している。光秀への仕官は、安治に軍事以外のスキルセットを授けると共に、彼の現実主義的な思考を鍛え上げる原点となったのである。
ご依頼者が触れられた「丹波の赤鬼」こと赤井直正を討ち取ったという武功伝は、安治の勇猛さを示す逸話としてしばしば語られる。天正5年(1577年)から続いた明智光秀による丹波攻略戦、特に黒井城攻めにおいて、安治が赤井一族の者を討ち取ったとされる記録は存在する。
しかし、彼が討ち取ったのが当主である赤井直正本人であったかについては、慎重な検討を要する。当時の同僚であった藤堂高虎が直正を討ち取ったとする史料(『高山公実録』)も存在しており、安治が直正本人を討ったというのは後世の誤伝か、あるいは功績が誇張されたものである可能性が高い。
では、なぜ彼の武功が誇張されて伝わったのか。その背景には、豊臣政権による巧みなプロパガンダ戦略が見え隠れする。秀吉は、自らが抜擢した子飼いの家臣たちの名声を高め、華々しい武功譚を創出することで、自身の権威を補強し、家臣団の結束を高めるという手法を多用した。特に、安治のように元明智家臣という、ある種の「汚点」を持つ経歴の武将に対して、輝かしい武功を帰属させることは、その過去を覆い隠し、豊臣家への忠誠心を内外に示す上で極めて効果的であった。この逸話は、安治個人の武勇を証明するものという以上に、豊臣政権がいかにして家臣団のブランドイメージを構築し、人心を掌握していったかを示す一例として解釈すべきであろう。安治という武将の評価は、こうした秀吉の政治的意図の中で形成されていった側面があったのである。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。旧主・明智光秀が織田信長を討つという衝撃的な事件に対し、安治は極めて冷静かつ迅速に行動した。彼は光秀には与せず、備中高松城から驚異的な速さで京へ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢に合流し、山崎の戦いに参陣した。
この迅速な鞍替えは、彼のキャリアにおける最初の、そして最も重要な決断の一つであった。旧主への恩義よりも、天下の趨勢を見極め、勝者となる可能性が最も高い勢力に身を投じる。この行動は、彼の生涯を貫く現実主義的な処世術を明確に示している。この決断がなければ、後の賤ヶ岳での活躍も、大名への道も閉ざされていたであろう。彼は、自らの将来を賭けたこの最初の選択において、見事に正解を引き当てたのである。
本能寺の変後、織田家の後継者の座を巡り、羽柴秀吉と筆頭家老・柴田勝家との対立が先鋭化する。天正11年(1583年)、両者はついに賤ヶ岳で雌雄を決することとなった。この戦いで脇坂安治は秀吉方に属して参陣し、彼の名を一躍天下に知らしめる武功を挙げる。
戦況が膠着する中、柴田方の猛将・佐久間盛政が奇襲を仕掛け、秀吉方の陣を脅かした。しかし、秀吉本隊の到着により盛政隊は退却を余儀なくされる。この追撃戦において、安治は福島正則、加藤清正らと共に一番槍の功名を競い、目覚ましい働きを見せた。この時、特に功のあった七人の若武者は、後世「賤ヶ岳七本槍」と称揚されることとなる。
この功績により、安治は山城国で3000石の加増を受け、武将としての名声を確立した。しかし、「七本槍」という呼称は、実利以上に、秀吉が自らの子飼いの武将たちを英雄として顕彰し、豊臣政権の基盤を固めるためのプロパガンダとしての側面が強かったことを理解する必要がある。彼らは、秀吉の天下取りを支える若き精鋭集団という、強力なブランドイメージを担う存在となったのである。
以下の表は、七本槍の面々のその後のキャリアを比較したものである。
武将名 |
賤ヶ岳後の石高(推定) |
豊臣政権下での主な役割 |
関ヶ原での動向 |
江戸時代の最終石高 |
幕末までの家系存続 |
脇坂安治 |
3,000石 |
水軍指揮官、淡路国主 |
西軍→東軍へ寝返り |
伊予大洲藩 5万3千石 |
存続(子孫は子爵) |
福島正則 |
5,000石 |
陸戦指揮官、尾張国主 |
東軍主力 |
広島藩 49万8千石 |
改易 |
加藤清正 |
3,000石 |
陸戦・築城、肥後国主 |
東軍 |
肥後藩 52万石 |
改易 |
加藤嘉明 |
3,000石 |
水軍・陸戦、伊予国主 |
東軍 |
会津藩 40万石 |
存続(石見吉永藩) |
平野長泰 |
3,000石 |
秀吉側近 |
東軍 |
大和十市藩 5千石 |
存続(旗本) |
糟屋武則 |
3,000石 |
秀吉側近 |
西軍(戦後改易) |
旗本 500石 |
存続(旗本) |
片桐且元 |
3,000石 |
豊臣家家老、行政官 |
東軍(大坂の陣前) |
大和竜田藩 4万石 |
存続(子孫は子爵) |
この比較から、安治の歩んだ道の特異性が浮かび上がる。福島正則や加藤清正が大大名へと駆け上がりながらも、その剛直さゆえに徳川政権下で改易の憂き目に遭ったのとは対照的である。安治は、彼らほどの巨大な石高を得ることはなかったが、水軍指揮官という専門性を武器に独自の地位を築き、関ヶ原での巧みな立ち回りによって家名を幕末まで完全に存続させた。彼の戦略が、短期的な栄達よりも、長期的な家の存続を最優先に置いたものであったことが示唆される。
賤ヶ岳の戦いから二年後の天正13年(1585年)、秀吉は紀州征伐に続き、長宗我部元親が支配する四国への征伐軍を派遣する。安治はこの四国征伐に従軍し、戦功を挙げた。そして戦後、その功績を認められ、淡路国洲本城主として三万石を与えられ、ついに大名の仲間入りを果たした。
この淡路三万石の拝領は、安治のキャリアにおける決定的な転換点であった。これは単なる恩賞ではなく、秀吉の深謀遠慮に基づく戦略的な人事配置であったと見るべきである。淡路島は、大坂や京といった畿内の喉元に位置し、瀬戸内海の海上交通を掌握する上で極めて重要な戦略拠点であった。秀吉は、この海の要衝を、信頼できる子飼いの武将に委ねる必要があったのである。
この配置転換により、安治はそれまでの陸戦主体の武将から、否応なく水軍を率いる指揮官へと変貌を遂げることになった。彼は淡路の海賊衆や船乗りたちを組織化し、豊臣政権の正規水軍を編成する任務を担う。この経験が、後の九州征伐や小田原征伐、そして朝鮮出兵において、彼の専門性を「水軍」へと特化させ、その武将としての価値を決定づけることになる。陸の勇将から海の将帥へ。この転身こそが、脇坂安治を他の七本槍とは一線を画す存在にした最大の要因であった。
淡路国主となった安治は、水軍の将としてその能力を開花させていく。天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐においても、彼は水軍を率いて兵員や兵糧の輸送、海上からの攻撃といった重要な任務を遂行した。これらの戦役を通じて、彼は志摩の九鬼嘉隆や伊勢の藤堂高虎らと共に、豊臣水軍の中核を担う不可欠な存在へと成長していった。秀吉の天下統一事業において、陸上部隊の迅速な移動と補給を支えた水軍の役割は絶大であり、その一翼を担った安治の功績は大きかった。
文禄元年(1592年)、秀吉は大陸への野望を実現すべく、朝鮮への出兵を開始する(文禄の役)。安治も九鬼嘉隆、加藤嘉明らと共に約9000の水軍を率いて朝鮮半島へ渡った。
緒戦において日本軍は陸戦で快進撃を続けたが、制海権の確保には苦戦していた。朝鮮水軍の名将・李舜臣の抵抗により、水陸併進作戦に支障をきたしていたのである。このような状況下で、同年7月、安治は功を焦るあまり、致命的な判断ミスを犯す。彼は他の将との連携を待たず、単独で巨済島に進出。李舜臣率いる朝鮮水軍を捕捉し、攻撃を仕掛けた。しかし、これは李舜臣の巧妙な罠であった。安治の艦隊は、閑山島沖の狭い海域へとおびき寄せられ、待ち構えていた朝鮮水軍本隊による鶴翼の陣(鶴が翼を広げたような包囲陣形)の中に誘い込まれてしまったのである。
三方から集中砲火を浴びた脇坂艦隊は、身動きが取れないまま一方的に撃破され、壊滅的な敗北を喫した(閑山島海戦)。この敗戦は、日本水軍の作戦に大打撃を与え、制海権を朝鮮側に奪われる決定的な要因となった。
なぜ彼はこのような無謀な行動に出たのか。その背景には、賤ヶ岳以来の功名心、すなわち個人の武功を立てて名誉を得たいという強い野心が、冷静で慎重な判断を曇らせたことが考えられる。また、陸戦での経験は豊富であっても、李舜臣という戦術の天才を相手にした大規模な海戦の経験は決定的に不足していた。亀甲船に代表される朝鮮水軍の優れた装備や、彼らの得意とする戦術に対する認識の甘さも敗因であったろう。
この閑山島での大敗は、安治の武将としてのキャリアにおける最大の汚点であり、彼の限界と未熟さを露呈する出来事であった。敗戦後、彼はその恥辱から数日間食事も喉を通らなかったと伝えられており、彼の人間的な苦悩が窺える。しかし、この手痛い失敗は、彼に独断専行の危険性、協調行動の重要性、そして海戦の真の厳しさを教え込む、極めて重要な教訓となったのである。
閑山島での敗北後、日本水軍は守勢に立たされた。しかし、慶長2年(1597年)に再開された慶長の役において、安治に汚名を返上する機会が訪れる。
この時、朝鮮水軍は党争によって名将・李舜臣が失脚しており、元均が新たな司令官となっていた。日本側はこれを好機と捉え、藤堂高虎、加藤嘉明、そして脇坂安治らが共同で作戦を展開。漆川梁(チルチョンニャン)海戦において、油断していた朝鮮水軍に奇襲をかけ、これをほぼ壊滅させるという大勝利を収めた。この勝利は、安治が閑山島での失敗から学び、他の将と緊密に連携できる指揮官へと成長したことの証左であった。彼はついに、生涯最大の屈辱を晴らしたのである。
さらに、彼は水軍としての活動に留まらず、陸戦である南原城の攻略戦にも参加し、武功を挙げている。この事実は、彼が水陸両方で活動できる、多様な能力を備えた武将であったことを示している。朝鮮出兵は、彼に最大の敗北と屈辱をもたらしたが、同時に彼をより成熟した指揮官へと成長させる試練の場でもあったのだ。
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、豊臣政権内部に隠されていた亀裂が急速に表面化する。政権は、石田三成を中心とする文治派(官僚派)と、加藤清正や福島正則に代表される武断派(軍人派)との間で激しい対立に見舞われた。
賤ヶ岳七本槍の一人である脇坂安治は、その出自から明らかに武断派に属しており、朝鮮出兵の際の方針の違いなどから、三成に対して強い反感を抱いていたとされる。彼は心情的には、清正や正則らと同じく、徳川家康に接近するグループの一員であった。しかし、彼の所領である淡路は、大坂城に近く、西国の諸大名が勢力を張る、いわば西軍の勢力圏の真っ只中にあった。この地理的条件が、彼の行動に大きな制約を与えることになる。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、石田三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、挙兵する。天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られたのである。
安治の置かれた状況は極めて困難であった。地理的に西軍に与せざるを得ず、彼は当初、西軍の一員として伏見城攻撃などに参加した。しかし、これはあくまで表向きの行動に過ぎなかった。彼の本心は東軍にあり、天下の趨勢が家康にあることを見抜いていた。彼は水面下で家康と接触し、東軍に内応する密約を交わしていたのである。西軍に属しながら東軍に内通するというこの二股戦略は、一見すると卑劣な裏切りに見えるかもしれない。しかし、西軍勢力圏の真っただ中で家臣と領民を守り、自らの家を存続させるためには、これ以外に選択肢のない、最も合理的で現実的な判断であった。
同年9月15日、東西両軍合わせて十数万の軍勢が美濃関ヶ原に集結した。脇坂安治は、西軍の一員として、戦場の鍵を握る松尾山に布陣した小早川秀秋の部隊の近くに陣を構えた。
戦闘は当初、西軍優勢で進んだ。しかし、戦闘が中盤に差し掛かり、徳川家康からの催促の鉄砲が撃ち込まれると、松尾山の小早川秀秋がついに動く。彼は東軍への寝返りを決行し、眼下で奮戦する西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。この動きに、安治は即座に呼応した。彼は同じく東軍に内応していた朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に、予期せぬ裏切りに動揺する大谷隊の側面と背後を突いたのである。
この一連の寝返りは、西軍の戦線を崩壊させる決定的な一撃となった。勇将・大谷吉継は奮戦の末に自害し、これをきっかけに西軍は総崩れとなり、わずか半日で勝敗は決した。
安治のこの行動を、単に「裏切り」という道徳的な言葉で断罪するのは、当時の武将の行動原理を無視した一面的な見方であろう。彼の決断の背景には、いくつかの冷徹な計算があった。第一に、彼には石田三成個人に対する忠誠心は皆無であった。第二に、天下の趨勢は家康にあり、寄せ集めの西軍が勝利する可能性は極めて低いと分析していた。第三に、そして最も重要なこととして、武将にとっての最高の道徳とは、主君(この場合は脇坂家当主である自分自身)の家名を存続させ、家臣団を守り抜くことであった。
彼の行動は、感情的な裏切りではなく、冷徹な情勢分析に基づいた「戦略的転換」と評価すべきである。それは、本能寺の変の直後に光秀を見限り秀吉に付いた判断の延長線上にあり、彼の生涯を貫く現実主義の真骨頂であった。彼は西軍の敗北を決定づけるという、極めて重要な役割を果たすことで、自らの価値を新時代の覇者である家康に明確に示し、家の存続を確実なものとしたのである。
関ヶ原の戦後、脇坂安治の功績は徳川家康に高く評価された。彼は寝返り組の諸将と共に所領を安堵され、淡路洲本三万石の所領を維持することができた。多くの西軍大名が改易や減封の処分を受ける中、彼は見事に生き残りを果たしたのである。
その後、しばらくは淡路を治めていたが、元和3年(1617年)、安治は淡路洲本から伊予大洲へ5万3千石に加増の上で転封を命じられた。これは一見すると栄転であるが、その裏には徳川幕府の巧みな大名統制策があった。幕府は、安治のような豊臣恩顧の大名を、大坂に近い畿内から引き離し、西国の要衝である伊予に配置することで、その勢力を削ぎ、監視下に置こうとしたのである。安治はこの幕府の意図を理解し、静かにこれに従った。
伊予大洲に移った安治は、初代大洲藩主として、藩政の基礎固めに尽力した。彼はこれまでの武人としての経験だけでなく、明智光秀の下で培ったであろう行政官としての能力を発揮し、城下町の整備や検地の実施、産業の振興などに取り組んだ。これにより、大洲藩はその後、幕末に至るまで脇坂家の支配の下で安定した統治が続くことになる。彼は単なる戦場の武人ではなく、領民の暮らしを考える優れた為政者としての側面も持ち合わせていたことを、その治世は証明している。
徳川の世が盤石になりつつあった慶長19年(1614年)、豊臣秀頼を擁する大坂城と徳川幕府との最終決戦である大坂の陣が勃発する。この時、安治はためらうことなく徳川方として参戦した。
かつて自らを大名にまで引き上げてくれた旧主・豊臣家を滅ぼす戦いに加わるという決断は、彼にとって複雑な心境を伴うものであったかもしれない。しかし、彼の中では、過去の恩義よりも、自らが築き上げた脇坂家とその家臣団の未来を守るという、藩主としての現実的な責任が優先された。大坂の陣への参戦は、安治にとって過去の恩讐を全て清算し、徳川の世の構成員として生きることを内外に最終的に宣言する、象徴的な行為であった。この参戦により、脇坂家の徳川幕府に対する忠誠は疑いようのないものとなり、その安泰は盤石なものとなった。
大坂の陣の後、安治は家督を子の安元に譲り、京の西洞院で隠居生活を送った。そして寛永3年(1626年)8月26日、73歳でその激動の生涯に幕を閉じた。
脇坂安治の生涯を俯瞰する時、そこには賤ヶ岳の武勇、閑山島の敗北、関ヶ原の決断、そして大洲での治世と、栄光、屈辱、成功、失敗が複雑に織り交ざった一人の武将の姿が浮かび上がる。彼は、加藤清正のような猛将でもなく、石田三成のような能吏でもなかった。しかし、彼には彼らにはない、時代を生き抜くための特別な才能があった。
彼を突き動かした原動力は、特定の主君への忠誠心や、守るべきイデオロギーではなかった。それは、常に時代の流れを冷静に見極める鋭い「政治的嗅覚」と、自らの家名をいかにして存続させるかという一点に集中した、徹底的な「現実主義」であった。本能寺の変、関ヶ原の戦い、大坂の陣という三つの大きな時代の転換点において、彼は常に勝者となる側に身を置き、自らの価値を最大限にアピールするという選択を貫いた。
その処世術は、時に「裏切り」や「日和見」と非難されることもあるだろう。しかし、加藤清正や福島正則といった、より華々しい武功で知られ、主家への忠義に生きた同輩たちが、その剛直さゆえに徳川の世では危険視され、次々と改易されていった歴史の事実と対比する時、脇坂安治の選択の正しさが際立ってくる。彼は柔軟な思考と行動によって、幕藩体制という新たな秩序に適応し、脇坂家を伊予大洲藩主として幕末まで見事に存続させたのである。
脇坂安治は、戦国乱世が生んだ典型的な英雄ではなかったかもしれない。しかし、彼は間違いなく、時代の変化を乗りこなし、自らの家を守り抜いた、時代の勝者の一人であった。彼の生涯は、理想や忠義だけでは生き残れない乱世において、一人の武将が取りうる「生存戦略」の一つの完成形として、高く評価されるべきであろう。