芝田藤四郎は米子の商人。史料は乏しいが、戦国から江戸初期の激動期を生き抜き、鉄や綿の交易で富を築き、茶湯を嗜んだ文化人。
日本の戦国時代、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)にその名が伝えられる商人、芝田藤四郎。彼に関する記録は極めて乏しく、ある資料によれば、その生没年は1522年から1615年とされ、米子を拠点とした商人であり、「茶湯」を嗜む文化人であったと記されている 1 。この93年という長寿は、戦国時代の動乱の最中から江戸時代初期の泰平の世の到来まで、米子という都市の劇的な変貌をすべて見届けたことを意味する。
しかしながら、この唯一とも言える情報源は、一次史料ではなく、後世に編纂されたデータベース、恐らくは歴史シミュレーションゲームのデータに由来する可能性が高い。学術的な検証に耐えうる古文書や記録において、芝田藤四郎という商人の実在を直接的に証明するものは、現時点では確認されていない。これは、調査の行き詰まりを意味するものではない。むしろ、この「記録の不在」こそが、本報告書の出発点となる。歴史の表舞台に名を残すことのなかった一人の商人の姿を追うことは、すなわち、彼が生きた時代の社会構造、経済活動、そして文化的背景そのものを丹念に解き明かす試みに他ならないからである。
したがって、本報告書は、芝田藤四郎という一個人の伝記を記述することを主たる目的とはしない。そうではなく、彼を「戦国末期から江戸初期にかけて米子で活動した、経済力と文化性を備えた商人の 典型(アーキタイプ) 」として位置づける。彼の想定される生涯を縦糸に、そして米子という都市の歴史的変遷を横糸にして、一人の商人として、また一人の生活者としての実像を、政治、経済、社会、文化の各側面から重層的に再構築することを試みる。芝田藤四郎という謎の人物を通して、我々は戦国の世を生き抜き、近世商都・米子の礎を築いた名もなき商人たちの集合的な記憶に迫ることができるであろう。
芝田藤四郎がその生涯を送ったとされる1522年から1615年は、米子が戦乱に明け暮れる戦略拠点から、計画的に整備された近世城下町へと劇的な変貌を遂げた時代であった。彼の人生は、この都市の誕生と発展の歴史そのものと深く重なり合っている。
芝田藤四郎が壮年期を迎えた16世紀中葉、米子を含む伯耆国西部は、出雲の尼子氏と安芸の毛利氏という二大勢力が激しく衝突する最前線であった 2 。米子城は、中海と日本海を扼する戦略的要衝として、その支配者がめまぐるしく入れ替わる運命にあった。尼子氏の勢力下にあった時期もあれば、永禄年間(1558年〜1570年)には毛利氏によって制圧され、山名氏や福頼氏といった現地の国人が城主を務めるなど、政治情勢は極めて流動的であった 4 。元亀2年(1571年)には、尼子氏の再興を掲げる軍勢によって城下が焼き討ちに遭うなど、戦火は常に町のすぐそばにあった 4 。
このような環境下で活動する商人にとって、事業の継続は困難を極めたであろう。庇護を求めるべき領主は安定せず、戦乱による物流の寸断や資産の喪失といったリスクは日常的な脅威であったと推察される。しかし、見方を変えれば、戦乱期は特有の商機を生み出す。軍事物資(兵糧、武具、鉄など)の調達や輸送は、危険を伴う一方で莫大な利益をもたらす可能性を秘めていた。この時代の商人は、単に商品を売買するだけでなく、大名の兵站を支え、時には情報収集にも関与する「政商」としての側面を強く持っていたと考えられる 6 。芝田藤四郎がこの時代を生き抜いたとすれば、彼もまた、いずれかの勢力と結びつき、激動の情勢を巧みに利用して富を蓄積した、したたかな商人であったのかもしれない。
芝田藤四郎が70歳に差し掛かろうとする天正19年(1591年)、米子の歴史は大きな転換点を迎える。毛利輝元の一族であり、出雲・隠岐・西伯耆を領有した吉川広家が、湊山に本格的な城郭の建設を開始したのである 7 。これは、従来の山城とは異なり、領国経営の中心地として機能する近世城下町を創出するという、明確な意図を持った都市開発事業であった。広家は、法勝寺や尾高といった伯耆国西部の既存の町から住民を米子へ誘致する政策を打ち出しており、これは商人や職人を計画的に集住させ、新たな経済拠点を形成しようとする試みであった 10 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、広家は岩国へ転封となるが、未完成であった城と城下町の建設事業は、新たに入封した駿府の中村一忠と、その家老であった横田内膳村詮によって引き継がれ、完成に至る 8 。特に横田内膳は、加茂川の流れを巧みに利用して外堀とし、その内側を武家地、外側を町人地として区画するなど、商都・米子の骨格をデザインした人物として知られる 12 。
この一連の開発は、米子の都市構造を根底から変えた。それまでの港を中心とした自然発生的な集落の成長とは異なり、強力な政治権力によってインフラ(港湾、河川、街路)が整備され、計画的な都市空間が創出されたのである 8 。このパラダイムシフトは、商人たちに新たな時代の到来を告げた。領主による商業保護と安定した商圏の確立は、旧来の不安定な商売からの脱却を意味し、より大規模で持続的な事業展開を可能にした。芝田藤四郎のような、戦乱期を生き抜いた経験豊富な商人は、この都市開発の波に乗り、その財力と人脈を駆使して、近世商都・米子の中心的な担い手へと飛躍を遂げる絶好の機会を得たであろう。彼の長寿の伝説は、まさにこの二つの時代を生き、変化に適応し続けた成功者の物語として解釈することができる。
西暦 |
和暦 |
芝田藤四郎の想定年齢 |
米子及び周辺地域の出来事 |
日本の主要な出来事 |
1522年 |
大永2年 |
0歳 |
芝田藤四郎、誕生(とされる) 1 。 |
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1540年 |
天文9年 |
18歳 |
尼子晴久、出雲国の大名となる 13 。 |
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1562年頃 |
永禄5年頃 |
40歳 |
毛利氏が米子城などを制圧。山名氏が城主か 4 。 |
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1566年 |
永禄9年 |
44歳 |
毛利元就、尼子義久を降伏させ、月山富田城が開城 14 。 |
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1571年 |
元亀2年 |
49歳 |
尼子再興軍が米子城を攻め、城下を焼き討ち。城主は福頼元秀 4 。 |
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1573年 |
天正元年 |
51歳 |
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室町幕府滅亡 9 。 |
1575年 |
天正3年 |
53歳 |
島津家久が京からの帰途、「よなこといへる町」に宿泊した記録が残る 8 。 |
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1590年 |
天正18年 |
68歳 |
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豊臣秀吉による天下統一 9 。 |
1591年 |
天正19年 |
69歳 |
吉川広家が湊山に米子城の築城を開始 8 。 |
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1600年 |
慶長5年 |
78歳 |
関ヶ原の戦い。戦後、吉川広家は岩国へ転封 7 。 |
関ヶ原の戦い 9 。 |
1601年 |
慶長6年 |
79歳 |
中村一忠が伯耆国主となり米子城主となる。家老・横田内膳が城と城下町を完成させる 8 。 |
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1603年 |
慶長8年 |
81歳 |
米子城騒動。横田内膳が無念の死を遂げる 15 。 |
徳川家康が江戸幕府を開く 9 。 |
1610年 |
慶長15年 |
88歳 |
加藤貞泰が米子城主となる 9 。 |
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1615年 |
元和元年 |
93歳 |
芝田藤四郎、死去(とされる) 1 。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。 |
芝田藤四郎のような商人が莫大な富を築くことを可能にした背景には、米子が持つ地理的優位性と、その後背地が産出する強力な商品が存在した。米子の経済は、日本海交易という広域ネットワークと、地域特有の産業という二つの源泉によって支えられていた。
米子は、波の穏やかな内海である中海を介して日本海と繋がる、天然の良港であった 16 。この地理的条件は、古くから米子を水運の要衝たらしめていた。周辺には、中世において西日本海航路の重要中継港として栄えた美保関や、たたら製鉄の積出港として尼子氏の経済を支えた安来といった港町が存在し、米子もまた、これらの港と連携、あるいは競合しながら、山陰地方の物流ネットワークにおいて重要な役割を担っていた 17 。
特に、芝田藤四郎の晩年にあたる江戸時代初期には、大坂と蝦夷地を結ぶ西廻り航路が本格化し、米子港は北前船の寄港地として、その重要性を一層高めていく 3 。これにより、米子の商人が扱う商品は、単に山陰地方の産物にとどまらず、上方や北国の産品も含むようになり、交易の規模は飛躍的に拡大した。芝田藤四郎は、その長い商人人生の後半において、この全国的な交易網の形成という、新たな時代の幕開けを目の当たりにしたはずである。
米子商人の富を理解する上で、港湾機能以上に決定的な意味を持つのが、後背地(ヒンターランド)の生産力である。その中核をなしたのが、奥日野地域(現在の日野郡)で生産される「鉄」であった。この地域は、良質な砂鉄と豊富な森林資源に恵まれ、古代から「たたら製鉄」と呼ばれる日本古来の製鉄法が盛んであった 22 。戦国時代には、この鉄生産地を支配下に置くことが、軍事力と経済力を維持するための死活問題であった。出雲の戦国大名・尼子氏は、この地を掌握することで財をなし、山陰・山陽十一州に覇を唱えるほどの勢力を築いたとさえ言われている 20 。
奥日野で生産された鉄は、馬の背に乗せられ、あるいは日野川を下る川船によって、集積地である米子港へと運ばれた 22 。そして、米子の商人の手を介して、全国各地の大名や商人へと販売されていったのである。鉄は、刀や鎧、農具の原料となる、当時最も価値の高い戦略物資であり、工業製品であった。米子の商人は、この鉄のサプライチェーン、すなわち生産者(鉄師)と全国の消費者を結びつける流通の結節点を担うことで、他の港町の商人とは比較にならないほどの利益を上げる機会に恵まれていた。芝田藤四郎が、単なる一介の商人ではなく、相当な財力を持つ人物として語り継がれているとすれば、彼がこの鉄の取引に深く関与していたと考えるのは、極めて蓋然性の高い推論である。
重厚長大な鉄産業に加え、近世の米子経済を支えるもう一つの柱となったのが、弓ヶ浜半島で栽培された「伯州綿」である。その伝来については諸説あるが、17世紀半ばには栽培が始まっていたとされ、芝田藤四郎が没する頃には、新たな特産品としてその萌芽が見られた可能性がある 27 。
伯州綿は、その品質の高さから全国的に評価され、米子港や境港から北前船によって各地へ運ばれた 21 。鉄が武家や職人を主な顧客とする商品であったのに対し、綿は衣料の原料として、より広い層に需要がある生活必需品であった。鉄という基幹産業に加え、綿という新たな商品作物が加わったことは、米子商人の扱う商品を多様化させ、経済の変動に対するリスクを分散させる効果をもたらした。芝田藤四郎の晩年からその後の時代にかけて、米子の商人たちは、この二大商品を両輪として、商都としての繁栄を確固たるものにしていったのである。
記録に残された芝田藤四郎の姿は断片的であるが、彼が生きた時代の社会状況や、同時代の商人たちの姿から、その人物像や生活世界を具体的に再構築することは可能である。彼はどのような地位にあり、いかにして事業を経営し、どのような暮らしを送っていたのだろうか。
一般に江戸時代の身分制度として知られる「士農工商」は、後世に固定的な序列として理解されたものであり、戦国時代から江戸初期にかけての社会は、より流動的であった 28 。特に商人は、経済力を背景に、時に武士階級に匹敵する影響力を持つことがあった。大名と密接に結びついた「御用商人」は、領主の財政を支える見返りとして、扶持米(給与)や苗字帯刀、さらには士分格の待遇を与えられることも珍しくなかった 30 。
米子という都市の特性を考える上で、「侍の影の薄い」という表現は極めて示唆に富む 12 。これは、米子が他の多くの城下町と異なり、武士の人口比率が低く、町の運営や文化形成において商人が相対的に大きな役割を果たしていたことを物語っている。江戸時代、鳥取藩の支藩的存在として荒尾氏による「自分手政治」と呼ばれる半独立的な統治が認められた背景にも、吉川・中村時代から続く、こうした商都としての自律的な気風があったと考えられる 3 。このような環境にあって、芝田藤四郎のような有力商人は、単に武家に奉仕する従属的な存在ではなく、町の自治を担う名士として、強い誇りと自負心を持って活動していたと想像される。彼が嗜んだとされる「茶湯」は、単なる趣味ではなく、武士や他の豪商たちと対等に渡り合うための重要な文化資本であり、情報交換や交渉の場としても機能したであろう 1 。
米子港を拠点とし、鉄や綿といった商品を全国に流通させていたとすれば、芝田藤四郎が「廻船問屋」を営んでいた可能性は非常に高い。廻船問屋とは、単に商品の売買を仲介するだけでなく、自ら船を所有して輸送を行い、商品の保管(倉庫業)、さらには取引の決済や資金の貸付(金融業)まで手掛ける、現代の総合商社に近い業態である 3 。米子を代表する豪商であった後藤家も、藩から米や鉄の回漕特権を与えられた廻船問屋であった 33 。
このような大規模な事業を運営するためには、厳格な経営管理が不可欠であった。当時の商人たちは、複式簿記には至らないものの、「大福帳」に代表される独自の帳合法(和式簿記)を用いて、日々の取引から決算までを記録・管理していた 35 。荘園の年貢収支を記録した『結解状』など、武家社会で培われた会計の知識が、商取引にも応用されていた可能性が考えられる 38 。
一方で、海運業は常に高いリスクを伴う事業でもあった。海難事故や海賊による被害、市況の暴落、取引先の契約不履行など、事業を根底から揺るがしかねない危険が常に存在した 39 。芝田藤四郎のような商人は、こうしたリスクに対し、複数の荷主や船主で損失を分担する共同出資の仕組みを構築したり、扱う商品や販路を多様化することで経営ポートフォリオを組んだり、そして何よりも領主との強固な関係を築いて特権的な保護を得ることで、巧みに対応していたと考えられる。
近世の城下町における町人地は、通りに面して店と住居を構える「家持」と呼ばれる地主層と、その裏手の路地に建てられた長屋に住む「地借」や「店借」といった借家人層で構成されていた 6 。芝田藤四郎ほどの有力商人であれば、当然ながら家持階級に属し、国の重要文化財にも指定されている後藤家住宅のような、千本格子や白壁の土蔵を備えた立派な町屋を構えていたと想像される 32 。
こうした豪商たちは、蓄えた富を自らのためだけに使うのではなく、地域の寺社の建立や修復に多額の寄進を行った 44 。これは、篤い信仰心を示すと同時に、自らの社会的威信を町の人々に示し、共同体における名声と信望を確立するための重要な社会貢献活動であった。事実、米子にある妙興寺は、戦国時代に堺の豪商であった油屋(伊達)常言の一族が、故郷から資材や人材を運び入れて建立した寺院であり、商人による大規模な文化投資が現実に行われていたことを示す好例である 15 。芝田藤四郎もまた、その名を地域の寺社の灯籠や寄進者名簿に刻んでいた可能性は高い。
米子の豪商・後藤家は、戦国時代にこの地に土着したと伝わり、江戸時代に廻船問屋として大成した旧家である 3 。その歴史は、戦国の動乱期から近世の商都形成期へと至る、芝田藤四郎が歩んだであろう成功の軌跡を、今に伝える貴重なケーススタディと言えるだろう。
芝田藤四郎の実像に迫るためには、史実としての記録だけでなく、彼が生きた土地に根付く伝承や民話といった、文化的な文脈にも目を向ける必要がある。人々は商人をどのように見ていたのか、そして「芝田藤四郎」という人物像は、どのような文化的土壌から想起されうるのか。
米子という町には、その成り立ちを反映するような物語が数多く残されている。例えば、駆け落ちした若い男女が他の土地では受け入れられず、最終的に流れ着いた米子で商売を興して大成するという民話は、「逃げょや逃げょやと米子に逃げて、逃げた米子で花咲かす」という言葉とともに、よそ者を排除せず、実力次第で成功を許容するこの町の開放的な気風を象徴している 46 。この気風は、吉川氏や中村氏が城下町を建設するにあたり、全国から優れた商人や職人を積極的に誘致したという歴史的背景と見事に符合する 11 。
また、江戸時代に米子の海運商人・大谷甚吉が、嵐で遭難しながらも竹島(当時の鬱陵島)へ渡り、開発を試みたという冒険譚も伝えられている 47 。これは、米子の商人が持つ、海を舞台に活躍するたくましさと進取の気性をよく表している。これらの物語から浮かび上がるのは、商人が単なる経済活動の担い手としてではなく、町の歴史やアイデンティティを形作る、活力に満ちた主人公として人々の記憶に刻まれていた姿である。
より広く伯耆地方に目を向けると、様々な商人が登場する昔話が残されている。山道を歩いて塩を売り歩く商人 48 や、宿を求める旅の行商人 49 など、その姿は多様である。彼らは、時に知恵を働かせて成功を収める人物として、また時には偽物の塩を売るようなずる賢い人物として描かれることもあり、商人という存在に対する庶民の、尊敬と警戒が入り混じった複雑な感情を映し出している 48 。
こうした昔話が、商人や旅人によって各地に運ばれ、その土地の物語として語り継がれてきたという事実自体が 51 、商人という存在が、物流だけでなく文化の伝播においても重要な役割を果たしていたことを示唆している。彼らは、人々の生活に深く根差し、物語の題材となるほど身近で、かつ印象的な存在であった。
芝田藤四郎という人物の実在を証明する史料がない以上、その名前自体が持つ響きや文化的背景について考察することも、一つのアプローチとなる。「芝田」という姓は、日本各地に見られるものであり、特定の家系や由来に結びつけることは困難である 52 。一方で、「藤四郎」という名は、粟田口吉光作の短刀(名物「平野藤四郎」など)に代表されるように、古来、刀剣の名として知られ、ある種の由緒や格調、洗練された美意識を感じさせる響きを持つ。
このことから、一つの仮説が成り立つ。すなわち、「芝田藤四郎」という名は、歴史上の特定の無名な商人から引用されたというよりも、後世の創作者が「戦国時代に茶湯を嗜んだ豪商」というキャラクターを創造するにあたり、そのイメージに合致する、物語的で響きの良い名前として創作された可能性である。ありふれた姓である「芝田」に、雅な響きを持つ「藤四郎」を組み合わせることで、一人のリアリティある人物像が立ち上がる。この考察は、芝田藤四郎を歴史上の人物としてではなく、ある種の文化的「アーキタイプ」として捉える本報告書のアプローチを補強するものである。
本報告書は、戦国時代の米子の商人とされる「芝田藤四郎」について、あらゆる角度から徹底的な調査を行った。その結果、彼の歴史的実在を直接的に証明する一次史料は、現在のところ発見されなかった。彼に関する唯一の具体的な情報は、後世の創作物に由来する可能性が極めて高いと結論づけられる。
しかし、本報告書の試みは、その事実確認に留まるものではない。記録の不在を前提とした上で、彼を「戦国末期から江戸初期の米子商人の典型」と位置づけ、その人物像と生涯を、時代の大きなうねりの中に歴史的に再構築することを試みた。その結果、以下の結論が導き出された。
第一に、芝田藤四郎が象徴する商人は、尼子氏と毛利氏の覇権争いが続く不安定な時代を、商才と胆力で生き抜いた人物であった。彼は、戦乱特有のリスクを管理し、同時に商機を捉えることで、その後の飛躍の礎を築いた。
第二に、彼は、吉川広家と中村一忠による米子城下町の大規模な計画的開発という、千載一遇の好機を最大限に活用した。整備されたインフラと安定した商圏を背景に、旧来の政商的な活動から、近世的な廻船問屋へと事業を拡大・発展させた。
第三に、彼の富の源泉は、単に港の機能に依存するものではなく、奥日野の「鉄」や弓ヶ浜の「伯州綿」といった、強力な後背地の産業と分かちがたく結びついていた。彼は、地域の生産力と全国市場を結びつけるサプライチェーンの要を担うことで、莫大な利益を上げた。
第四に、彼は単なる金儲けに長けた経済人ではなかった。「侍の影が薄い」と評される商都・米子の気風の中で、町の有力者として強い自律性を持ち、茶湯などの文化を嗜むことで、武士階級とも対等に渡り合える社会的威信を確立した文化人でもあった。
芝田藤四郎は実在したのか。その問いに対する最終的な答えは、今なお歴史の霧の中にある。しかし、彼が象徴する人物像 ― すなわち、戦国の動乱を生き抜き、近世という新たな時代の到来とともに、一地方都市の経済と文化の礎を築いた、自律的で気概に満ちた商人たち ― は、確かに米子の地に存在した。芝田藤四郎とは、歴史の記録には名を留めなかった無数の米子商人たちの集合的な記憶であり、商都・米子の精神を体現する、一人の「忘れられた創業者」の姿と言えるのかもしれない。