本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、備前宇喜多家の重臣、そして徳川幕府の旗本としてその名を刻んだ花房助兵衛職秀(はなぶさ すけべえ もとひで、のち職之 もとゆき)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。「一番槍の勇士」と称えられた武勇、主君への「剛直な諫言」、そして流罪となった旧主への「温情」といった、一見矛盾する側面を併せ持つ彼の人物像の核心に迫るものである。
一般に知られる「宇喜多家臣、武勇の士、のち東軍に属し八千石」という骨子を遥かに超え、彼の出自の謎、宇喜多家中での政治的立場、主家退去の真相、そして新時代における処世術を深く掘り下げ、戦国武将としての実像を再構築する。その生涯は、戦国の動乱期を生き抜いた武士が、いかにして新たな秩序に適応し、家名を未来へ繋いだかを示す、一つの貴重な事例といえるだろう。
花房職秀の家系である花房氏の出自には、公式な記録と、それを懐疑的に見る見解が存在する。
江戸幕府に提出された公式系譜である『寛政重修諸家譜』によれば、花房氏は清和源氏足利一族に連なる上野義弁の子、花房五郎職通が常陸国久慈郡花房郷(現在の茨城県)に住み、花房を称したのが始まりとされる 1 。これは江戸時代、旗本として家格を確立する上で公式に認められた系譜であった。
しかし、この由緒ある系譜は、後世の研究において「仮冒(かぼう)」、すなわち家の権威を高めるための創作である可能性が強く指摘されている 2 。その根拠として、中世の武家社会を知る上で信頼性の高い系図『尊卑分脈』に、上野義弁の子として「職通」という人物の名が見当たらないこと、また花房氏の一族が常陸国に居住した確たる形跡が見出せないことが挙げられる 2 。歴史的に花房氏が明確な活動を見せるのは、備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣として登場してからのことである 2 。
この出自の創作は、単なる虚飾と片付けるべきではない。実力主義と下剋上が横行した戦国時代において、新興の武家が自らの正統性と権威を確立するためには、伝統的な名門の系譜に連なることが極めて有効な手段であった。宇喜多直家自身も謀略を駆使して成り上がった人物であり、その家臣団もまた実力でのし上がった者が多かった。そのような環境下で、花房氏が清和源氏という名門の系譜を称したことは、他の武家との交渉や家中での序列争いにおいて、自らの「格」を高め、発言力を補強するための戦略的な行為であったと解釈できる。これは、一族が乱世を生き抜くための、いわば「ブランド戦略」の一環だったのである。
なお、宇喜多家には職秀の系統(父は花房職勝)とは別に、花房正幸(又右衛門)を祖とする系統も存在した 1 。この二つの花房家が、宇喜多家中でそれぞれ重きをなしていた。
花房職秀は、天文18年(1549年)、美作国に生まれたとされる 5 。通称は助兵衛(すけべえ) 5 。『備前軍記』などの軍記物によれば、その性格は若い頃から剛直そのものであった。15、6歳の頃、囲碁の対局中に不正を働いた相手に激怒し、碁盤で殴り殺して出奔したという逸話は、彼の曲がったことを何よりも嫌う気性を象徴している 7 。
出奔後、当初は浦上氏の被官であった明石景行に仕えたが、やがてその比類なき武勇が備前の梟雄・宇喜多直家の目に留まり、直臣として召し抱えられることとなった 3 。直家の下で職秀の武才は完全に開花する。永禄10年(1567年)の初陣以来、足軽大将として数々の戦に従軍し、一番槍や一番乗りといった武功を重ねた 10 。
特に記録に残る武功として、永禄12年(1569年)、尼子氏再興軍との戦いにおける伯耆国岩倉城攻めでは、一番槍の手柄を立てている 7 。また、元亀元年(1570年)の備中国撫川芝場城攻めでは、彼の機転と勇猛さが際立つ逸話が残る。この時、職秀は攻城中の戸川秀安の部隊へ退却命令を伝える使者として赴いた。しかし、城が今にも落ちんとする戦況を目の当たりにするや、命令を伝えるどころか自ら先陣を切って突撃し、それに戸川勢も続いてついに城を陥落させたのである 7 。これらの活躍により、職秀は宇喜多家中において、武勇をもって鳴る猛将としての評価を確固たるものにしていった。
宇喜多直家の信頼を得た職秀は、単なる一武将にとどまらず、宇喜多家の勢力拡大を担う中核的な存在へと成長していく。特に、西の強国・毛利氏との角逐が激化した美作国において、彼の働きは決定的な意味を持った。
宇喜多直家は、中国地方の覇権を争う毛利氏への対抗策として、美作国の経営を職秀に大きく委ねた。直家は職秀に命じ、対毛利戦線の最前線拠点として美作に荒神山城を築かせた 9 。職秀はこの城を拠点として、毛利方の諸城、例えば岩屋城や皿山城などを次々と攻略し、目覚ましい戦功を挙げた 12 。
その武勇と戦略眼に対する直家の信頼は絶大であった。一説には、直家が美作国内に確保した13の城のうち、実に8つもの城の守備を職秀に任せたとされる 14 。そして、職秀が任された城は一つとして敵の手に落ちることがなかったと伝えられており、攻めるだけでなく守りにおいても卓越した能力を持っていたことがうかがえる 14 。
これらの軍功は着実に彼の地位を向上させた。天正7年(1579年)には、美作の国人・後藤勝基が守る三星城を攻め滅ぼすなど、宇喜多家の美作平定に多大な貢献を果たした 9 。その結果、職秀の知行は1万4千石余りに達し、宇喜多家中で誰もが認める重臣としての地位を不動のものとしたのである 14 。
職秀の剛直な性格は、主君・宇喜多直家に対してのみならず、天下人である豊臣秀吉に対しても何ら変わることがなかった。その気骨を示す最も有名な逸話が、天正18年(1590年)の小田原征伐の際に起きている。
当時、秀吉は小田原城を大軍で包囲しつつも、なかなか総攻撃を仕掛けず、石垣山に築いた城で茶会や能楽に興じていた 9 。決戦を前にして悠長に構える総大将の姿に、生粋の戦人である職秀は苛立ちを募らせていた。ある日、秀吉の陣前を通りかかった職秀は、下馬せずに馬上のまま通り過ぎようとした。これを番兵が咎めると、職秀は悪びれることなく言い放ったと伝えられる。「戦場で能などをして遊んでいるような大将に、下馬して敬意を払う必要などない」と 13 。
この報告を受けた秀吉は激怒し、主君の宇喜多秀家に職秀の処刑を厳命した。しかし、秀家のとりなしもあってか、秀吉は考えを改める。一度は切腹に減刑した後、最終的には「天下人たるわしに対して、これほど物怖じせずに物申す剛毅な男を殺すのは惜しい」として、罪を許すばかりか、逆にその気骨を賞して加増を命じたという 7 。この逸話は、後世に編纂された『名将言行録』などに収録されており、職秀の豪胆な人物像を今日に伝えている。
職秀が宇喜多家で重臣へと駆け上がっていく軌跡は、以下の年表によってより明確に理解することができる。彼の武功と地位の向上は、宇喜多家の勢力拡大と密接に連動していた。
年号 |
西暦 |
職秀の年齢 |
出来事 |
関連資料・出典 |
天文18年 |
1549年 |
1歳 |
美作国にて誕生 |
5 |
永禄10年 |
1567年 |
19歳 |
宇喜多氏の武将として初陣 |
11 |
永禄12年 |
1569年 |
21歳 |
伯耆国岩倉城攻めで一番槍の武功を挙げる |
7 |
元亀元年 |
1570年 |
22歳 |
美作国に荒神山城を築き、対毛利戦線の拠点とする |
12 |
天正7年 |
1579年 |
31歳 |
美作国の後藤勝基を攻め、三星城を陥落させる |
13 |
天正10年 |
1582年 |
34歳 |
羽柴秀吉の備中高松城攻めに従軍 |
13 |
天正18年 |
1590年 |
42歳 |
小田原征伐に従軍。豊臣秀吉との逸話が生まれる |
13 |
文禄元年-慶長3年 |
1592-1598年 |
44-50歳 |
文禄・慶長の役に従軍 |
8 |
文禄4年 |
1595年 |
47歳 |
主君・宇喜多秀家を諫言し、勘気を蒙る |
13 |
宇喜多直家の死後、家督を継いだのは若き貴公子・宇喜多秀家であった。父とは全く異なる環境で育った秀家と、直家に仕えた歴戦の武将である職秀との間には、次第に埋めがたい溝が生じていく。この確執は、やがて宇喜多家の屋台骨を揺るがす大事件「宇喜多騒動」へと発展する。
対立の根本的な原因は、秀家の家臣団統治の方針にあった。父・直家が謀略と実力でのし上がった叩き上げであったのに対し、秀家は幼少期から豊臣秀吉の庇護下で育ち、豊臣政権の中枢に連なる貴公子であった 17 。そのため、彼は父の代から宇喜多家を支えてきた職秀や戸川達安といった譜代の重臣たちよりも、自らが新たに登用した中村次郎兵衛や、正室・豪姫が前田家から伴ってきた長船綱直といった新参の側近を重用する傾向があった 14 。
この状況を憂慮した職秀は、文禄4年(1595年)、秀家に対して側近の重用が度を越しており、譜代の家臣を軽んじるべきではないと強く諫言した 13 。これは、宇喜多家の将来を案じる譜代の重臣としての忠義心から発した行動であったが、自らの政治方針を否定されたと感じた秀家の逆鱗に触れる結果となった。
激怒した秀家は職秀の誅殺を企てたが、この危機を救ったのは、皮肉にもかつて職秀が物怖じせずに意見した豊臣秀吉と、当時すでに天下の趨勢をうかがっていた徳川家康であった 14 。彼らのとりなしによって職秀は一命を取り留めたものの、宇喜多家を追われることとなり、常陸国の佐竹義宣のもとへ預けられる身となった 13 。
職秀の出奔は、宇喜多家中の対立の始まりに過ぎなかった。彼の危惧は現実のものとなり、慶長4年(1599年)、ついに家中の不満が爆発する。戸川達安、宇喜多一門の宇喜多詮家(のちの坂崎直盛)、岡貞綱、そして職秀と同じ花房一族の花房正成ら譜代の重臣たちが、中村次郎兵衛ら新参側近の排除を求めて大坂の屋敷に立てこもり、武装蜂起したのである 22 。これが世に言う「宇喜多騒動」である。職秀自身はこの時すでに宇喜多家を離れていたが、彼の諫言と出奔は、この大騒動の遠因を作ったと見なされている 9 。
この騒動の原因は、単一のものではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
第一に、新旧家臣の対立である。これは、国人領主たちの連合体としての性格を色濃く残す譜代家臣層と、秀家が当主の権力を強化し、中央集権的な領国経営を目指して登用した新参の官僚層との間の、深刻な権力闘争であった 18。
第二に、宗教対立の側面も指摘される。『備前軍記』などでは、熱心な日蓮宗徒であった譜代家臣団(戸川氏、花房氏など)と、キリシタンであったとされる側近(明石掃部など)や、キリスト教に寛容であった秀家との宗教的な軋轢が原因の一つとして描かれている 21。ただし、反乱側の中心人物の一人である宇喜多詮家自身がキリシタンであったことから、単純な宗教対立のみで騒動の全てを説明することは困難である 27。
そして第三の、そして決定的な要因が、豊臣秀吉の死である。慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、秀家の絶対的な後ろ盾が失われ、その求心力は著しく低下した 26。この権力の空白が、それまで水面下で燻っていた家中の対立を一気に表面化させる引き金となったのである。
この宇喜多騒動は、戦国時代から近世へと移行する過渡期において、多くの大名家が直面した内部矛盾の爆発であったと捉えることができる。秀家は、父・直家のような国人領主の連合体の盟主たる「戦国大名」から、当主の権力を頂点とし、官僚機構を通じて領国を直接統治する「近世大名」への脱皮を図っていた。新参側近の重用は、そのための必然的な手段であった。一方で、職秀や戸川達安ら譜代家臣は、自らの知行地と家臣団を持つ半独立的な「一領主」としての性格が強く 26 、直家時代からの功績と既得権益を重んじる「戦国的価値観」の持ち主であった。この新旧の価値観と統治システムの衝突が、秀吉という絶対的な権力者の死をきっかけに噴出したのが、宇喜多騒動の本質なのである。職秀の諫言と出奔は、この構造的矛盾が最初に露呈した事件であったといえよう。
騒動の調停には、当初、豊臣政権の重鎮である大谷吉継や、徳川家康の重臣・榊原康政が乗り出したが、対立は根深く、解決には至らなかった 27 。最終的に、五大老筆頭として権勢を強めていた徳川家康が裁定を下すことになり、騒動はようやく鎮静化する 23 。
しかし、家康の裁定は、宇喜多家にとって致命的な結果をもたらした。戸川達安、岡貞綱、花房正成ら、宇喜多家の軍事と政治を支えてきた歴戦の武将たちの多くが、この裁定を機に宇喜多家を去ることになったのである 23 。これは、関ヶ原の戦いを目前に控えた宇喜多家の軍事力を著しく削ぐことになり、その後の没落の大きな一因となった 17 。職秀もまた、この一連の流れの中で宇喜多家との縁を完全に断ち切り、新たな主君として徳川家康に接近していくことになる。
家康のこの動きは、単なる仲裁ではなかった。それは、豊臣恩顧の有力大名である宇喜多家の内紛に巧みに介入し、その力を削ぎ落とすとともに、そこから離反した優秀な人材を自らの麾下に組み入れるという、一石二鳥を狙った高度な政治戦略であった。戸川、岡、そして花房といった歴戦の武将たちが、騒動後にことごとく家康に召し抱えられている事実が、そのことを雄弁に物語っている 19 。職秀が徳川家臣となる道筋は、この家康の深謀遠慮によって敷かれたものであった。
複雑な人間関係が絡み合う宇喜多騒動の全体像を把握するため、主要な関係者を以下に整理する。
人物名 |
立場・役職 |
騒動中の動向と結果 |
花房職秀 |
譜代重臣 |
騒動の遠因となる諫言を行い、佐竹氏預かりとなる。のち徳川家臣。 |
戸川達安 |
譜代家老 |
反乱の中心人物。家康の裁定後、宇喜多家を退去し徳川家臣となる。 |
宇喜多詮家 |
宇喜多一門 |
反乱の中心人物。のち宇喜多家を離れ、坂崎直盛と改名し徳川家臣となる。 |
岡貞綱 |
譜代家老 |
反乱に同調。家康の裁定後、宇喜多家を退去し徳川家臣となる。 |
花房正成 |
譜代重臣 |
反乱に同調。家康の裁定後、宇喜多家を退去し徳川家臣となる。 |
宇喜多秀家 |
当主・五大老 |
新参側近を重用し、譜代家臣団と対立。騒動により家臣団が弱体化。 |
中村次郎兵衛 |
新参側近 |
秀家に重用され、譜代家臣団の標的となる。騒動後、宇喜多家を退去。 |
長船綱直 |
新参側近 |
秀家に重用されるが、騒動前に病死。彼の死が騒動の引き金の一つとなる。 |
大谷吉継 |
豊臣家奉行 |
初期に調停を試みるが失敗。 |
榊原康政 |
徳川家重臣 |
初期に調停を試みるが失敗。のち職秀の次男・職直を養子に迎える。 |
徳川家康 |
五大老筆頭 |
最終的な裁定を下す。結果的に宇喜多家を弱体化させ、離反した家臣を獲得。 |
宇喜多家を離れた職秀の人生は、徳川家康との結びつきによって新たな局面を迎える。戦国の世で培った武勇と経験を武器に、彼は新時代の覇者たる徳川氏の家臣として、その後半生を歩むことになった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、職秀は迷わず徳川家康が率いる東軍に与した 1 。旧主・宇喜多秀家が西軍の主力大名として参戦していたことを考えれば、これは彼の人生における決定的かつ非情な選択であった。
関ヶ原での具体的な戦功の詳細は不明な点も多いが、東軍の勝利に貢献したことは間違いなく、その功績は戦後の論功行賞で高く評価された。職秀は家康から備中国高松に8,000石(資料によっては8,220石ともされる 7 )の所領を与えられ、徳川幕府の直参旗本という新たな地位を得たのである 8 。
戦後処理において、職秀は旧主・宇喜多家の本拠であった岡山城の明け渡しにも関わっている。同じく宇喜多家から離反した戸川達安らと共に、新たな城主となった小早川秀秋の家臣へ城を引き渡すという、数奇な役目を果たした 21 。
徳川家臣となってからも、職秀の剛直な精神は変わらなかった。そのことを示す逸話が、儒学者・湯浅常山の著した『常山紀談』などに伝えられている。
関ヶ原の戦いの直前、家康は職秀に対し、彼が預けられていた佐竹義宣の去就について尋ねた。「義宣が東軍に背くことはないか」との問いに、職秀は「その心配はございません」と断言した。しかし、家康が念のために起請文(誓約書)を提出するよう求めると、職秀はこれをきっぱりと拒絶した。「武士の一言に二言はございません。誓いを文章にする必要などありませぬ」と 13 。
この逸話には、この剛直な態度が家康の真意を汲み損ねたために大名への道が閉ざされ、職秀は後年それを悔いた、という後日談も伝わっている 13 。この行動は、彼の裏表のない武士としての矜持を示すと同時に、形式や文書を重んじる新しい時代の政治力学に対する、ある種の不器用さをも表していると解釈できるだろう。
職秀の武人としてのキャリアは、大坂の陣で最後の輝きを放つ。慶長19年(1614年)から始まった大坂冬の陣・夏の陣に、彼は60代半ばの老齢ながら息子たちと共に参陣した。もはや自ら槍を振るうことはなかったが、輿に乗って戦場に赴き、長年の経験に裏打ちされた的確な采配を振るったと伝えられている 7 。
その戦術眼の鋭さを示すのが、大坂夏の陣における後藤又兵衛の伏兵を見破った逸話である。道明寺・誉田の戦いにおいて、敗走する豊臣方の部隊を味方が追撃しようとした際、職秀はこれを制止した。「あの先には、必ずや猛将・後藤又兵衛が伏兵を置いているはずだ」と看破したのである。果たしてその予測は的中し、追撃を控えた徳川方は無用な損害を免れた。後にこれを聞いた又兵衛は、「敵方に職秀がいたのであろう」と感嘆したという 13 。これは、彼の武将としての経験値の高さと、戦場の機微を読む卓越した能力を証明するものである。
関ヶ原の戦功によって得た8,000石余りという知行は、旗本としては破格の待遇であった。これにより、職秀は江戸時代を通じて存続する大身旗本・花房家の揺るぎない基礎を一代で築き上げたのである 1 。
旗本は通常、江戸に常住する「定府」が原則であったが、花房家は後に、領地に居住して参勤交代を行う特別な家格である「交代寄合」に列せられることもあった 32 。これは、大名に準ずる高い格式を幕府から公に認められていたことを意味する。職秀一代の武功と、新時代への巧みな適応が、子孫に高い地位と安定をもたらしたのである。
職秀の後半生は、戦国時代を生き抜いた武将が、いかにして「徳川の臣」へと自己を変革させていったかを示す典型的な事例である。彼は宇喜多家で培った武勇という「戦国のスキル」を、関ヶ原や大坂の陣で徳川家のために発揮し、新体制における自らの価値を証明した。その一方で、「起請文」の逸話に見られるように、彼の「戦国的価値観」は、徳川の「近世的官僚制」と時に軋轢を生んだ。しかし最終的には、8,000石余りの旗本という確固たる地位を確保し、息子を徳川四天王の養子に入れるなど、現実的な処世術によって一族の安泰を確立した。この「旧来の武勇を活かしつつ、旧弊な価値観と葛藤しながらも、最終的には新体制の中で家名を存続させる」という生き方は、多くの戦国武将が経験した移行期の苦悩と適応のプロセスを象徴している。
花房職秀という武将の魅力は、その武勇や剛直さだけに留まらない。彼の行動の端々には、人間的な情愛や、独自の美学が垣間見え、それが彼の人物像に深みを与えている。
職秀の人物像を語る上で最も象徴的なのが、八丈島に流罪となった旧主・宇喜多秀家との関係である。徳川家康に仕え、旗本としての地位を確立した後も、職秀は遠い流刑地の秀家に対し、毎年米20俵を送り続けていたと伝えられている 8 。
この行為は、彼の複雑な内面を浮き彫りにする。一方では、宇喜多家を見限り、新たな主君・家康の下で立身するという冷徹な現実判断を下しながら、もう一方では、かつての主君への個人的な恩義や情愛を忘れない。彼の行動原理は、単純な「忠誠」や「裏切り」といった二元論では到底測ることができない。それは、自らが仕えるべき主家という公的な立場と、個人としての情という私的な感情を、彼の中で両立させようとする姿勢の表れであった。この「筋を通す」という彼自身の美学に基づいた「剛(ごう)」と「情(じょう)」の共存こそが、花房職秀という武将の最大の魅力と言えるだろう。
この旧主への援助や、後述する敵将の供養といった行為は、単なる個人的な感情の発露に留まらない。徳川幕府が儒教的な道徳観を支配体制の根幹に据えようとしていた時代背景において、これらの行動は政治的な意味合いをも帯びていた。旧主への仁義を尽くし、敵将の義を称える行為は、自らが「義理堅い武士」であることを世に示すことになる。それは、武力だけでなく「仁」や「義」といった徳を体現する武将として自らを位置づけることで、新しい支配体制の中での自らの家格と名誉を、道徳的な側面からも高めようとした、新しい時代を生きるための高度な自己演出であったとも考えられるのである。
職秀が築いた礎は、彼の子孫たちによって受け継がれ、花房家は江戸時代を通じて繁栄した。
嫡男の**花房職則(もとのり)**は、職秀の死後、家督と8,220石の所領を継承し、旗本花房本家を安定させた 7 。
特筆すべきは、次男の**榊原職直(さかきばら もとなお)**の存在である。彼は早くに出家していたが、徳川家康の命によって還俗。慶長4年(1599年)、徳川四天王の一人である榊原康政の養子となった 35 。この背景には、康政の側室が花房氏であった縁や、宇喜多騒動の際に康政が調停役を務めた縁があったと推測されている 29 。この縁組は、職秀の政治的な先見の明と、徳川政権中枢との繋がりを確保しようとする巧みな戦略を示している。職直は後に長崎奉行などの幕府の要職を歴任し、鎖国政策の推進や島原の乱にも関わるなど、幕政において重要な役割を果たした 36 。
職秀が築いた基盤の上に、花房家は江戸時代を通じて上級旗本として存続し、後には関東郡代といった要職を輩出するなど、幕府に仕え続けたのである 1 。
元和3年(1617年)2月11日、花房職秀は69年の生涯を閉じた(没年には元和2年(1616年)説もある 11 )。彼の墓所は、自らが建立した岡山県岡山市北区高松にある日蓮宗の寺院、高松山妙玄寺にある 16 。
この妙玄寺は、職秀が関ヶ原の戦いの後に知行地として与えられた備中高松の地に、自らの菩提寺として建立したものである 41 。興味深いことに、この寺が建てられた場所は、かつて豊臣秀吉の水攻めによって落城した備中高松城の二ノ丸跡であり、城主・清水宗治が自刃したと伝わる地であった 42 。
職秀は、備中高松城攻めの際には宇喜多軍の一員として敵方にいたにもかかわらず、城と将兵の命を救うために潔く自刃した敵将・清水宗治の忠義と武士としての生き様を深く敬っていた。そのため、妙玄寺を建立する際に宗治の位牌を丁重に祀り、その霊を篤く供養したと伝えられている 42 。敵味方の立場を超えて、武士としての「義」を重んじる。この行為は、職秀の精神性を物語る、何より雄弁な証拠と言えるだろう。
花房職秀の生涯を俯瞰する時、それは戦国の荒波を比類なき武勇で乗り切り、主家との対立という絶体絶命の危機を乗り越え、徳川の泰平の世で大身旗本として家名を確立するという、見事な転身の物語であったことがわかる。
彼は、単なる「武勇の士」でもなければ、融通の利かない「頑固者」でもなかった。その本質は、自らの確固たる信念と美学(剛)を貫き通す強さを持ちながらも、時勢の移り変わりを読む冷静な判断力と、恩義を忘れず敵将にさえ敬意を払う人間的な温かみ(情)を兼ね備えた、稀有な武将であった。
主家を去り、旧主が属する西軍と敵対するという決断は、忠義を第一とする武士の価値観からすれば非難されるべき行為かもしれない。しかし、その後の彼が示した、流罪の旧主への援助や、敵将への供養といった行動は、彼が単なる利害得失で動く人物ではなかったことを示している。
花房職秀の生き様は、戦国乱世の価値観と、江戸泰平の世の秩序との狭間で、多くの武将が経験したであろう葛藤と適応の軌跡を、一人の人間の生涯を通して鮮やかに映し出している。彼は、自らの武力と政治的嗅覚、そして人間的魅力を駆使して、激動の時代を生き抜き、一族を存続させ、新しい時代の礎の一つを築いた、特筆すべき武将として再評価されるべきである。