日本の戦国時代、関東地方は、西の小田原に拠る後北条氏、東の常陸に勢力を張る佐竹氏、そして北の越後から関東管領として睨みを利かせる上杉氏という、三大勢力の角逐の場であった。この巨大な権力ブロックの狭間に位置する下野国(現在の栃木県)の戦国大名・宇都宮氏は、常に存亡の危機に立たされながら、巧みな外交と武力によって独立を維持しようと苦闘していた 1 。本稿が主題とする芳賀高継(はが たかつぐ)は、この宇都宮氏の筆頭家老、いわゆる「宿老」として、激動の時代に主家の舵取りを担った人物である。
彼の生涯は、一言で表すことのできない深い矛盾に満ちている。父を主君に殺されながら、その主家に生涯を捧げる忠誠心。自身を庇護した恩ある一族を、主家の命運のために滅ぼす非情さ。そして、主家のために尽くしながらも、最後は主君と対立し、追放の身の上でその生涯を終えるという悲劇的な末路。これらの行動は、単なる個人の資質や感情だけでは説明がつかない。その背景には、宇都宮氏と芳賀氏との間に横たわる、単なる主従関係を超えた複雑な歴史が存在した。
芳賀氏は、清原氏を祖とする下野の名門武士団「清党」の棟梁であり、益子氏が率いる「紀党」と共に「宇都宮に紀清両党あり」と称され、その武勇は天下に知られていた 4 。名将・楠木正成が「戦場において命を捨てることを厭わない」と評したほどの強力な家臣団である 4 。しかし、その強大さゆえに、芳賀氏はしばしば主家の権威を凌ぎ、時には当主の廃立にまで介入する存在であった。主家からの養子縁組や婚姻を通じて一門化し、宇都宮氏の歴史と不可分に結びつきながらも、その関係は常に緊張をはらみ、内紛の火種となり続けてきたのである 4 。
芳賀高継の生涯を理解するためには、彼個人の行動を追うだけでなく、この宇都宮氏と芳賀氏の根深い権力闘争の歴史、関東の地政学的な力学、そして織田・豊臣政権という中央からの圧力という、三重の構造の中で彼の立ち位置を捉え直す必要がある。本稿は、現存する史料を基に、芳賀高継という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、その行動の背後にあった政治的意図と歴史的必然性を解明することを目的とする。彼の忠誠と叛逆の狭間で揺れ動いた実像に迫ることで、戦国後期における地域権力の苦悩と末路を浮き彫りにしたい。
西暦 |
年号 |
芳賀高継の動向 |
宇都宮家・芳賀家の動向 |
益子家の動向 |
関東・中央の主要な出来事 |
1526年 |
大永6年 |
誕生(推定) 9 |
宇都宮忠綱が猿山合戦で敗北、芳賀高経が興綱を擁立 10 |
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1541年 |
天文10年 |
父・高経が反乱を起こし敗死。高継は益子氏の下へ逃れる 1 |
宇都宮尚綱が芳賀高経を討つ。益子氏出身の芳賀高定が芳賀氏を継承 5 |
芳賀高定の実家として宇都宮家中での影響力を保持 |
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1549年 |
天文18年 |
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宇都宮尚綱、五月女坂の戦いで那須高資に討死。嫡男・広綱は5歳 12 |
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1555年 |
弘治元年 |
兄・高照が芳賀高定に攻められ自害 1 |
壬生綱房が芳賀高照を擁立し宇都宮城を占拠。高定が高照を謀殺 2 |
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1557年 |
弘治3年 |
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芳賀高定、佐竹義昭の支援を得て宇都宮城を奪還、広綱が入城 3 |
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1560年代 |
永禄年間 |
芳賀高定の養子となり、家督を相続 1 |
芳賀高定、高継に家督を譲り隠居 2 |
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上杉謙信、関東に出陣 |
1576年 |
天正4年 |
主君・宇都宮広綱が死去。幼い国綱に仕え、後見役となる 1 |
宇都宮広綱が死去。嫡男・国綱が家督相続 1 |
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1577年 |
天正5年 |
真岡城を築城し、本拠とする 15 |
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1582年 |
天正10年 |
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織田信長、本能寺の変で死去 |
1585年 |
天正13年 |
宇都宮広綱の三男・時綱(後の芳賀高武)を養子に迎える 2 |
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1589年 |
天正17年 |
宇都宮軍の中核として益子氏を攻め滅ぼす。その後、国綱と対立し後北条氏に寝返るも、敗退し復帰 1 |
宇都宮国綱、益子氏を討伐 5 |
益子家宗、宇都宮軍に討たれ滅亡 5 |
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1590年 |
天正18年 |
小田原征伐に参陣。戦後、陸奥国白河へ追放される 1 |
宇都宮国綱、小田原征伐参陣により18万石を安堵される 20 |
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豊臣秀吉、小田原を攻略し天下統一 |
1592年 |
文禄元年 |
追放先の白河にて死去 1 |
養子・高武が文禄の役に従軍 19 |
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文禄の役が始まる |
1597年 |
慶長2年 |
(没後) |
芳賀高武が養子問題で内紛を起こし、宇都宮国綱は改易される 19 |
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芳賀高継の生涯を理解する上で、彼が背負った一族の歴史、とりわけ主家・宇都宮氏との間に横たわる根深い対立の構造を避けて通ることはできない。彼の行動の源泉は、父の代に頂点に達したこの権力闘争の「負の遺産」に深く根差している。
芳賀氏は、天武天皇の皇子・舎人親王を始祖とする清原氏の末裔と称する、下野国屈指の名門武家である 3 。伝承によれば、平安時代中期、清原高重が花山天皇の勅勘を被り、下野国芳賀郡に配流されたことにその歴史は始まる 3 。以後、その地に根を張り勢力を拡大し、鎌倉時代には宇都宮氏の有力な郎党として歴史の表舞台に登場する。源頼朝による奥州合戦では、芳賀高親が益子正重と共に宇都宮朝綱の麾下として抜群の武功を挙げ、「紀清両党」と並び称される武勇の誉れを確立した 5 。
芳賀氏と宇都宮氏の関係は、単なる主従に留まらなかった。南北朝時代には、宇都宮景綱の子・高久が芳賀氏の養子に入るなど、血縁を通じた一門化が進み、主家の後見役として絶大な権勢を振るった 4 。室町時代には、宇都宮宗家が断絶の危機に瀕した際、芳賀成高の子・正綱が宇都宮氏の外孫として家督を継承し、宇都宮氏を中興に導いたこともある 7 。これにより、宇都宮家中における芳賀氏の地位はさらに強大化し、その権力は主家を脅かすほどになった。芳賀高勝の代には、主君・宇都宮成綱が発給した文書に高勝が追認の署名を行うという、主従が逆転したかのような事例も見られるようになる 7 。
この芳賀氏の専横は、必然的に主家との深刻な対立を招いた。その亀裂が決定的に表面化したのが、永正9年(1512年)に勃発した「宇都宮錯乱」である 10 。当時、関東では古河公方足利政氏とその子・高基が家督を巡って争う「永正の乱」が起きていた。主君・宇都宮成綱が高基を支持したのに対し、家中の実権を握る芳賀高勝は政氏を支持し、宇都宮家は外交方針を巡って分裂状態に陥った 10 。
この状況を打開するため、成綱は芳賀高勝を宇都宮城内で誅殺するという強硬手段に打って出る。これをきっかけに、芳賀一族は大規模な反乱を起こし、宇都宮領内は数年にわたる内乱状態に陥った 10 。この内乱こそが「宇都宮錯乱」であり、芳賀高継の父・高経は、この時に兄である高勝を主君に殺されるという悲劇に見舞われた 10 。
乱は最終的に成綱・忠綱父子の勝利に終わるが、高経の中に植え付けられた宇都宮氏への深い遺恨は、消えることがなかった 2 。彼はこの後、宇都宮忠綱を追放し、その弟・興綱を傀儡の当主として擁立するなど、兄の復讐と一族の権力回復への道を執拗に歩むことになる 3 。
芳賀高継の生涯は、このように、彼の誕生以前から続く主家と筆頭家臣との間の、世代を超えた根深い不信と権力闘争の歴史を背景に始まった。彼の後の人生で示される「忠誠」も「叛逆」も、全てはこの「宇都宮錯乱」という原体験から発する、複雑な感情と政治的計算の表れであったと見ることができる。彼が受け継いだのは、芳賀氏の家督だけではなく、この拭い去りがたい負の遺産そのものであった。
「宇都宮錯乱」の遺恨を胸に、一度は宇都宮家の実権を掌握したかに見えた芳賀高経であったが、その権勢は長くは続かなかった。彼が傀儡として擁立した主君・宇都宮興綱、そしてその後を継いだ宇都宮尚綱との対立は、やがて高経自身の破滅を招き、その子である高継を過酷な運命へと突き落とすことになる。
成人した宇都宮尚綱(俊綱)は、父祖の代から続く芳賀氏の専横を断ち切るべく、高経との対決姿勢を鮮明にした 10 。両者の対立が激化した直接的な原因については諸説あるが、一説には、宇都宮氏と長年敵対していた小山高朝との和平交渉を高経が進めていたものの、これが結果的に小山氏の宇都宮領侵攻を招き、尚綱の高経に対する不信感を決定的にしたためと言われている 3 。
天文10年(1541年)、ついに対立は武力衝突へと発展する。芳賀高経は壬生氏らと結んで主君・尚綱に対し反乱を起こしたが、尚綱はこれを迎え撃ち、高経は児山城に籠城するも敗北し、横死を遂げた 1 。これにより、宇都宮家中を長年にわたり揺るがしてきた高経の時代は終わりを告げ、芳賀宗家は当主を失い、断絶の危機に瀕した。
父の死は、高継の人生に暗い影を落とした。高経の長男であった高継の兄・高照は、父の仇を討つべく再起を図るが、弘治元年(1555年)、父亡き後の芳賀氏を継いだ芳賀高定によって追い詰められ、真岡城にて自害に追い込まれた 1 。父と兄を相次いで失い、天涯孤独の身となった幼い高継は、追っ手から逃れるため、下野国を流浪する。
この絶望的な状況下で高継に救いの手を差し伸べたのが、芳賀氏と同じく「紀清両党」として宇都宮氏の両翼を担った名門・益子氏であった 1 。高継は益子氏の本拠地である益子領へ逃れ、その庇護の下で養育されることとなる。
この益子氏による庇護は、一見すると「紀清両党」としての旧誼や、乱世における武士の情けのように映る。しかし、その背後には極めて高度な政治的計算が働いていた。高経を討った宇都宮尚綱は、芳賀氏の新たな当主として、益子勝宗の三男・宗之(後の芳賀高定)を抜擢していたのである 5 。つまり、高継を匿ったのは、他ならぬ芳賀氏の新たな当主・高定の実家であった。
この事実から浮かび上がるのは、高継の庇護が、高定自身の深謀遠慮に基づく政治的布石であった可能性である。芳賀氏の正統な血筋である高継を生かしておくことは、高定にとって複数の意味を持っていた。第一に、高経・高照の死によって不満を抱くであろう旧芳賀氏家臣団(清党)を懐柔するための切り札となる。第二に、将来、高継を自らの手で芳賀氏当主として復活させることで、彼に絶対的な恩を売り、自身の権力基盤を盤石にすることができる。高継の流浪の日々は、彼が単に憐れみによって生かされたのではなく、宇都宮家中の新たな権力者となった芳賀高定の政治的構想の中で、戦略的に「生かされた」存在であったことを示唆している。この試練の時期は、高継が後の政治家として生き抜くための、最初の、そして最も過酷な教育の場となったのである。
父と兄を失い、流浪の身となった芳賀高継の運命は、一人の傑出した武将の存在によって劇的に転換する。その人物こそ、父の仇敵でありながら、高継を養育し、やがて芳賀氏の家督を譲ることになる芳賀高定(はが たかさだ)である。この異例の家督相続は、単なる美談では片付けられない、戦国時代の政治的リアリズムの極致であった。
芳賀高定は、もともと益子勝宗の三男・益子宗之として生まれた 2 。天文10年(1541年)に芳賀高経が主君・宇都宮尚綱に討たれると、尚綱は芳賀氏の勢力を自らの統制下に置くため、信頼できる人物として益子氏出身の高定を抜擢し、芳賀氏の名跡を継がせた 2 。
高定の真価が発揮されたのは、宇都宮氏が存亡の危機に瀕した時であった。天文18年(1549年)、主君・尚綱が那須氏との「五月女坂の戦い」で討死すると、宇都宮家中は混乱に陥る 12 。この機に乗じて家臣の壬生綱房が、高経の遺児・高照を傀儡の当主として擁立し、宇都宮城を乗っ取るという下剋上が発生した 2 。当時まだ5歳の幼君・宇都宮広綱は、高定に守られて居城を脱出、真岡城へと落ち延びた 12 。
ここから、高定の「魔人のような活躍」 2 が始まる。彼は幼君・広綱を奉じ、まず尚綱の仇である那須高資を謀殺 2 。次いで、壬生氏の傀儡となっていた芳賀高照を偽って真岡城に誘き出し自害させ、宇都宮城を占拠する大義名分を奪った 3 。そして弘治3年(1557年)、同盟者である常陸の佐竹義昭の援軍を得て、ついに壬生綱雄を宇都宮城から駆逐し、広綱の居城奪還を成し遂げたのである 3 。私欲を捨て、ただひたすらに主家の再興に尽力した高定の姿は、まさに忠臣の鑑であった。
宇都宮家の危機を救い、家中における絶対的な地位を確立した高定は、やがて驚くべき決断を下す。自らの実子である小貫信高ではなく、長年養育してきた仇敵・高経の子である高継に、芳賀氏の家督を譲ったのである 1 。この家督相続は、高継の活動が史料に見え始める永禄年間(1560年代後半)に行われたと推測される 2 。
史書はこの高定の行動を、芳賀氏の正統な血筋を重んじ、私欲がなかったことの証として美談として語る傾向がある 2 。しかし、戦国武将の行動原理を情だけで解釈することは、その本質を見誤る危険がある。この家督譲渡の背後には、高定の冷徹な政治的計算があったと見るべきである。
その核心は、芳賀氏が率いる強力な武士団「清党」の完全な掌握にあった。清党の武士たちの求心力は、あくまで「芳賀」の血筋にこそあった 4 。益子氏出身である高定やその息子が家督を継いだとしても、清党の全ての者たちが心から服従するとは限らない。特に、高経・高照父子が非業の死を遂げたことで、清党内には高定や宇都宮家に対する不満や反感が燻っていた可能性は高い。
そこで高定は、芳賀氏の正統な血筋である高継を当主に据えるという手を打った。この一手には、二重の効果が期待できた。第一に、清党武士団の不満を解消し、その忠誠心を完全に宇都宮家に向けることができる。第二に、高継個人に「父の仇から家督を譲られた」という絶対的な「恩」を売ることで、自らの意向に沿って行動する後継者とすることができる。
したがって、高定による高継への家督譲渡は、美談の裏に隠された、極めて高度な政治的リアリズムの産物であった。それは、個人的な血縁や感情よりも、宇都宮家という組織全体の安定と、芳賀氏という家臣団の正統性(レジティマシー)を優先した、最善の政治判断だったのである。この時、高継は父の仇から、計り知れないほどの「恩」と「期待」、そして「負債」を同時に受け継ぎ、下野国の政治の表舞台へと躍り出ることになった。
芳賀高定という稀代の政治家から家督を継いだ高継は、その期待に応えるかのように、宇都宮家の宿老として卓越した手腕を発揮する。特に、主君・宇都宮広綱が若くして亡くなり、その子・国綱が幼少で家督を継いだ時期には、彼は事実上の後見人として宇都宮家を支え、内政・外交の両面でその存在感を遺憾なく示した。この時期の高継は、もはや単なる「家臣」ではなく、宇都宮家の命運を一身に背負う「実質的統治者」であった。
高継は、宇都宮広綱、そしてその子・国綱という二代の当主に仕え、宿老として家中の万機を統括した 1 。永禄9年(1566年)には、主君・広綱の名代として軍勢を率い、小田氏治を攻撃するなど、軍事指揮官としても活動している 1 。天正4年(1576年)に広綱が38歳の若さで病死し、わずか9歳の国綱が家督を継ぐと、高継の役割はさらに重要性を増す。彼は事実上の後見人として、内外の政務を取り仕切り、幼君を支えて宇都宮家の屋台骨となった 2 。
高継の卓越した内政手腕を象徴するのが、天正5年(1577年)に行われた真岡城の築城である 15 。芳賀氏は代々、御前城を本拠としていたが、高継はより戦略的な価値の高い台町(現在の真岡市中心部)の高台に、新たな城を築いて本拠を移した 17 。
この真岡城は、東を行屋川、西と北を沼地に囲まれた天然の要害に築かれた堅固な平山城であった 17 。この大規模な築城事業は、単なる居城の移転に留まるものではない。当時、関東では後北条氏の勢力が急速に南下野へと及んでおり、宇都宮氏はその圧力に常に晒されていた。平城である宇都宮城の防衛上の脆弱性を補い、対北条氏の最前線となる宇都宮領南方の防衛拠点を強化することは、国家的な急務であった 3 。真岡城の築城は、この戦略的課題に対する高継の明確な回答であり、彼の先見性と実行力を示す好例と言える。
高継の真骨頂は、複雑な国際情勢の中で主家の独立を維持した巧みな外交政策にあった。彼は、西から圧力をかける大大名・後北条氏と、宇都宮家の伝統的な同盟相手である東の佐竹氏との間で、絶妙なバランスを取りながら、危うい綱渡りを続けた 1 。
基本的には佐竹氏との同盟を基軸とし、同じく後北条氏と対立する下総の結城氏や陸奥の白河結城氏とも連携して、対北条包囲網の一翼を担った 1 。一方で、後北条氏とも完全に敵対するのではなく、交渉の窓口を維持し、巧みな駆け引きを通じて全面衝突を回避し、宇都宮家の独立を保った。この時期の「宇都宮広綱-国綱-芳賀高継体制」は、高継の外交手腕によって一定の安定がもたらされたと評価されている 2 。
このように、芳賀高継は幼君・国綱の時代において、内政・軍事・外交の全権を掌握し、宇都宮家を実質的に統治していた。彼の政治的力量がなければ、宇都宮家は後北条氏の圧力によって、より早期に滅亡、あるいは従属を余儀なくされていた可能性は極めて高い。その手腕は、彼を後継者に指名した芳賀高定の期待を上回るものであったと言えよう。
芳賀高継の生涯において、最も劇的で、かつ彼の人間性を深く問いかける事件が、天正17年(1589年)の益子氏討伐である。かつて自らの命を救い、養育してくれた恩ある一族を、自らの手で滅ぼすというこの非情な決断は、単なる勢力争いという言葉では片付けられない。それは、主家への忠誠を証明するための究極の行為であり、戦国武将の冷徹なリアリズムの現れであった。
芳賀高継が宇都宮家の宿老として権勢を振るう一方、彼の故郷ともいえる益子氏では、当主・益子家宗の下で宇都宮家からの自立の動きが活発化していた 18 。益子氏は、宇都宮一門である笠間氏と領土を巡って武力抗争を繰り返し 5 、さらには下総の結城氏と手を結んで、宇都宮方の茂木氏を攻撃するなど、主家である宇都宮氏、そしてその同盟者である佐竹氏の意向に公然と反する行動を取るようになっていた 5 。
これらの行動の背景には、幼君・国綱を擁して家中の実権を握る芳賀高継に対する、益子氏の不満があったとも言われる 5 。そして、この対立を決定的にしたのが、益子氏が「後北条氏に内通した」という疑惑であった 5 。
天正17年(1589年)、事態を重く見た主君・宇都宮国綱は、ついに益子氏の討伐を決定する。その討伐軍の中核を命じられたのが、他ならぬ芳賀高継であった 5 。表向きの理由は、益子氏が後北条氏と通じ、笠間氏や芳賀氏の領地を侵略したことへの誅伐とされた 5 。
高継は、多功綱継らと共に宇都宮軍を率いて益子領へ侵攻。西明寺城に籠もる益子家宗とその一族を攻め立て、激戦の末にこれを滅ぼした 1 。これにより、平安時代末期から下野国に栄えた名門・益子氏は、歴史の舞台から姿を消すこととなった 6 。
なぜ高継は、これほどまでに非情な決断を下すことができたのか。史料には「勢力争いから」 9 、「主家の反抗から」 32 といった記述が見られるが、その背景には、より切迫した政治状況が存在した。
天正17年という年は、豊臣秀吉による小田原征伐の前夜にあたる。天下統一を目前にした秀吉が、関東の諸大名に対して北条方か豊臣方かの踏み絵を迫っていた時期である。宇都宮家にとって、家中の親北条派を一掃し、豊臣方としての結束を内外に示すことは、家の存続を賭けた最重要課題であった。後北条氏への内通疑惑があった益子氏は、まさにその粛清の対象としてうってつけだった。
この討伐は、高継個人にとっても二重の、そして極めて重要な意味を持っていた。第一に、主家・宇都宮氏に対する自らの絶対的な忠誠を、最も劇的な形で証明する機会であった。第二に、父・高経の反逆以来、彼に生涯付きまとったであろう「反逆者の息子」という汚名を、自らの「恩人を討つ」という究極の自己犠牲と非情さをもって、完全に払拭する行為であった。一部の史料では、この益子氏と宇都宮氏の対立の裏に「高継の策謀があった」とさえ示唆されており 30 、彼が単なる命令の実行者ではなく、この粛清を主導した可能性すら窺える。
益子氏討伐は、芳賀高継の生涯における最大の矛盾であり、同時に彼という人間を最も象徴する事件である。彼は、個人的な恩讐という感情を完全に切り捨て、主家の存続という大義のために非情な決断を下した。それは、「恩ある者を滅ぼす」という最大の非情をもって、自らの「絶対的な忠誠」を証明するという、戦国武将ならではの凄絶な論理であった。しかし、この冷徹な政治判断は、皮肉にも後に彼自身の孤立を招く一因となっていくのである。
恩ある益子氏を滅ぼすという非情な手段をもって主家への忠誠を示し、宇都宮家の安泰を図った芳賀高継であったが、その彼の前には、予期せぬ落とし穴が待ち受けていた。彼が最も得意とした政治的バランス感覚そのものが、時代の大きなうねりの中で価値を失い、やがて彼自身を破滅へと導いていくのである。
益子氏討伐を成し遂げた直後から、高継と主君・宇都宮国綱との間に、深刻な亀裂が生じ始める。その原因は、外交路線の対立にあった。高継が後北条氏との交渉パイプを維持し、現実的なバランス外交を志向したのに対し、国綱は母・南呂院が佐竹氏の出身であることもあり、伝統的な同盟関係にある佐竹氏との連携を重視する「親佐竹」路線を鮮明にしていた 1 。
この対立は、天正17年(1589年)、高継が後北条氏へ寝返り、北条氏邦らと共に宇都宮方の拠点である多気城を攻撃するという、驚くべき行動となって爆発する 1 。主家の宿老による、主君への公然たる反旗であった。しかし、この攻撃は宇都宮家臣・多功綱継らの奮戦によって撃退される。不可解なことに、これほどの大罪を犯したにもかかわらず、高継はその後、宇都宮家への復帰を許されている 1 。
この一連の不可解な行動の背景には、小田原征伐を目前にした宇都宮家中の、極度に緊張した政治状況があったと考えられる。後北条氏は宇都宮家にとって最大の脅威であると同時に、最後の最後まで交渉の可能性を捨てきれない相手でもあった。北条氏との太いパイプを持つ高継は、たとえ主君と対立しても、簡単には切り捨てられない戦略的価値を持っていた。彼が一度は許されたのは、この「価値」ゆえであった可能性が高い。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、高継は宇都宮方としてこれに参陣し、国綱と共に佐竹義宣に参陣を勧めるなど、復帰後の活動も見せている 1 。しかし、後北条氏が滅亡し、秀吉による天下統一が完成すると、関東の政治構造は根底から覆された。
この瞬間、芳賀高継の政治的生命は事実上、終わりを告げた。豊臣政権下において、宇都宮家が生き残る道は、秀吉の後ろ盾を得ている佐竹氏との同盟を強化すること以外にない。この新たな政治秩序の中で、高継の「親北条」という経歴と人脈は、もはや価値ではなく、むしろ主家の将来を危うくしかねない危険な「負債」でしかなかった。
主君・国綱は、豊臣政権という絶対的な権威を背景に、長年の政敵であり、外交上のリスクともなった高継を排除する絶好の機会を得た。北条氏滅亡後、高継は程なくして宇都宮家から追放され、陸奥国白河へと流された 1 。彼の追放は、単なる主君との不和の結果ではない。それは、彼が最も得意とした権謀術数の舞台そのものが消滅したことで、彼の政治的価値が完全に失われたことを意味していた。
文禄元年(1592年)、芳賀高継は追放先の白河にて、その波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。時代の変化に対応できなかった古いタイプの政治家の、それはあまりにも寂しい末路であった。
芳賀高継の生涯は、主家・宇都宮氏の存続に捧げられたものであった。しかし、皮肉なことに、彼が主家のために打った最後の一手が、結果的に宇都宮家を滅亡へと導く引き金となる。彼の死後、その意図せざる遺産は、主家を破滅させるという最悪の形で結実した。
高継には実子がおらず、彼は晩年、宇都宮家との結束をより強固なものにするため、主君・国綱の母である南呂院(佐竹氏出身)の強い要望を受け入れ、国綱の弟・時綱を養子に迎えていた 2 。時綱は芳賀氏の家督を継ぎ、芳賀高武(はが たかたけ)と名乗った 2 。
この養子縁組は、芳賀氏の血統よりも主家との一体化を優先するという、高継の忠誠心の究極的な発露であった。彼は、芳賀氏が二度と主家に牙を剥くことがないよう、宇都宮氏の血そのものを芳賀氏の当主とすることで、長年の権力闘争に終止符を打とうとしたのである。
しかし、この決断は予期せぬ怪物を生み出した。「当主の実弟である芳賀氏当主」という、前例のない強大な権力を持つ芳賀高武の誕生である。高継の追放と死の後、高武は兄・国綱を補佐する一方で、その出自を背景に家中随一の門閥勢力として絶大な権勢を振るうようになった 19 。
慶長2年(1597年)、宇都宮家に激震が走る。当主・国綱に世継ぎがなかったため、豊臣政権の五奉行の一人である浅野長政が、自らの三男・長重を国綱の養子に迎えさせようとする話が持ち上がったのである 19 。
この中央政権からの介入に対し、芳賀高武は猛然と反発した。「宇都宮氏に嗣子なきときは、一門である芳賀氏より相続するのが習いである」と主張し、養子縁組を主導した重臣の今泉氏らを独断で攻め滅ぼすという暴挙に出た 19 。
この内紛は、豊臣秀吉の耳に達し、彼の逆鱗に触れた。「家中不行届」の罪により、宇都宮国綱は下野国18万石の所領を全て没収され、改易処分となったのである 19 。これにより、鎌倉時代から500年にわたり関東に君臨した名門・宇都宮氏は、大名としての歴史に幕を閉じた。そして、主家と運命を共にした芳賀氏もまた、その所領を失い没落した 7 。
芳賀高継の生涯は、戦国末期の地域権力が、中央集権化という巨大な時代のうねりの中でいかに翻弄され、消え去っていったかを象徴している。彼は、父の代からの負の遺産を乗り越え、仇敵の子という境遇から宿老へと上り詰め、その卓越した政治手腕で、風前の灯火であった主家を幾度も救った。その忠誠心は、自らの手を汚して恩人を滅ぼすほどの非情さを伴う、凄絶なものであった。
しかし、彼の奮闘も虚しく、彼が頼みとした後北条氏との外交カードは、秀吉の天下統一によって無価値と化した。そして、彼が宇都宮家の永続を願って打った最後の手、すなわち高武の養子縁組は、結果として主君のコントロールを超えた権力者を生み出し、家中に破滅の種を蒔くことになった。
良かれと思って行った政策が、意図せざる最悪の結果を招く。芳賀高継の生涯は、この歴史の皮肉を体現している。彼の忠誠と努力は、結果的に主家の終焉に間接的に加担するという、あまりにも悲劇的な結末を迎えた。彼の人生は、一個人の知力や胆力ではもはや抗うことのできない、戦国という時代の終焉そのものを物語っているのである。