茂呂久重は下野の国衆。館林赤井氏の重臣から藤岡城主となり、佐野氏の妹を娶る。北条氏に属し、小田原征伐で藤岡城が落城。世良田で自害した。
本報告書は、戦国時代の北関東、特に下野国(現在の栃木県)で活動した武将、茂呂久重(もろ ひさしげ)の生涯を、現存する断片的な史料と各地の伝承から再構築し、その実像に迫ることを目的とします。彼の出自である茂呂一族の台頭から、藤岡城主としての治世、そして天下統一の奔流の中で迎えた悲劇的な最期までを、当時の関東地方における複雑な政治・軍事状況と密接に関連付けながら、多角的に論じます。
茂呂久重は、一般的に「佐野家臣として藤岡城主となり、主君の妹を娶ったが、のちに北条家に属し、小田原征伐で滅亡した武将」として知られています 1 。この簡潔な人物像は、彼の生涯の骨子を捉えてはいますが、その背景には、より複雑な権力構造と、彼が下したであろう巧み、あるいは苦渋に満ちた数々の選択が存在します。
久重に関する直接的な一次史料は極めて限定的です。そのため、本報告書では、後世に編纂された『館林記』や「藤岡記録」といった記録物 2 、藤岡城をはじめとする城郭に関する伝承や調査報告 4 、そして佐野氏、赤井氏、北条氏といった周辺大名の動向を示す史料を統合し、分析することで、歴史の狭間に埋もれた一人の国衆(在地領主)の姿を立体的に浮かび上がらせるアプローチを取ります。この探求は、戦国末期の関東において、地方の武士たちが巨大勢力の狭間でいかにして生き抜こうとしたのか、その実態を解明する上での貴重な事例研究となるでしょう。
西暦/和暦 |
茂呂一族・茂呂久重の動向 |
関連勢力(佐野氏・北条氏・赤井氏等)の動向 |
典拠 |
1518年 (永正15年) |
上野国「あおやき」(現・館林市青柳町)に茂呂氏の存在が確認される(史料上の初見)。館林赤井氏の重臣であったと推測される。 |
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1552年 (天文21年) |
茂呂氏(因幡守)が、若年の主君・赤井氏に代わり、北条氏康と直接交渉を行う。 |
北条氏康、関東での勢力を拡大。 |
2 |
1562年 (永禄5年) |
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上杉謙信の攻撃により館林城が落城。城主・赤井氏が没落する。 |
2 |
1577年 (天正5年) |
佐野宗綱による藤岡城攻撃の後、茂呂久重が城主となる。佐野昌綱の妹を娶り、佐野氏の家臣となる。 |
佐野宗綱、藤岡城を攻略。 |
5 |
1585年 (天正13年) |
北条氏照が皆川城攻略のため、藤岡城に布陣。この頃、茂呂久重は北条氏の指揮下にあったと見られる。 |
佐野宗綱が北条方との戦いで戦死。北条氏が佐野氏への影響力を強める。 |
5 |
1590年 (天正18年) |
小田原征伐 。北条方として藤岡城に籠城するが、豊臣方についた佐野房綱らの攻撃を受け落城。上野国世良田へ逃亡し、同地で自害する。 |
豊臣秀吉、小田原征伐を開始。佐野房綱(天徳寺宝衍)が豊臣方として参陣。北条氏滅亡。 |
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江戸時代 |
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茂呂氏の一族が常陸国の佐竹家に仕官し、秋田藩士として存続したとの伝承が藤岡の地に残る。 |
3 |
茂呂久重の生涯を理解するためには、彼が佐野氏の家臣となる以前の、茂呂一族の来歴を遡る必要があります。一族はもともと下野国ではなく、隣国の上野国に拠点を持ち、そこで巧みな政治力によって勢力を伸長させていました。この前史こそ、後の久重の行動原理を解き明かす鍵となります。
茂呂氏の存在が史料上で確実に確認できる最も古い記録は、永正十五年(1518年)に伊勢神宮の御師(布教や参拝の世話をする神職)が残した文書に見られる「あおやき もろ殿」という記述です 2 。この「あおやき」は、現在の上野国(群馬県)館林市青柳町に比定されており、この地が茂呂一族の初期における拠点であったことを示唆しています。
当時、この地域は館林城を本拠とする赤井氏が支配しており、茂呂氏はその重臣であったと推測されています 2 。近世に編纂された地誌『館林記』には、赤井氏の重臣として「諸野因幡守(もろの いなばのかみ)」という人物が登場しますが、これは茂呂氏をモデルにしたものと考えられています 2 。
茂呂氏が単なる家臣に留まらなかったことは、天文二十一年(1552年)の動向から窺い知ることができます。この時期、主家である赤井氏の当主は「千代増丸」という幼名で呼ばれるほど若年であり、まだ家中の権力を完全に掌握していませんでした 2 。そのため、重臣である茂呂因幡守が、事実上の最高権力者として軍事や外交を差配していた可能性が高いのです。特に、当時関東で急速に勢力を拡大していた相模国の北条氏康との外交交渉においては、主君の赤井氏を介さず、茂呂氏が直接の窓口となっていた形跡が史料から読み取れます 2 。これは、茂呂氏が主家の枠を超えた政治的影響力を行使していたことの証左と言えます。
茂呂一族の政治的スタンスは、一貫して親北条路線であったと考えられます 2 。これは、越後の上杉謙信(長尾景虎)と関東の覇権を巡って激しく争っていた北条氏にとって、北関東における茂呂氏の存在が極めて重要な意味を持っていたことを示します。
この政治的選択が、茂呂氏の運命を大きく左右しました。永禄五年(1562年)、上杉謙信による大規模な関東侵攻が行われ、館林城は攻撃を受けます。この時、城主であった赤井氏は上杉方に抵抗したため、城は落城し、一族は追放されて没落の道を辿りました 2 。
しかし、その重臣であった茂呂氏の運命は対照的でした。親北条の立場を明確にしていたにもかかわらず、茂呂氏は上杉方から赦免されたと見られ、この危機を乗り越えることに成功します。そして、この後、歴史の表舞台に下野国藤岡城の城主として登場することになるのです 2 。主家が滅びる一方で、その家臣が生き残り、さらには新たな領地を得て独立領主へと飛躍する。これは、戦国時代における典型的な下剋上の一形態であり、茂呂氏の卓越した政治的嗅覚と生存戦略の現れでした。
近世に編纂された『館林記』において、茂呂氏がモデルとされる「諸野因幡守」が悪役として脚色されて描かれている背景には、こうした経緯が影響しているのかもしれません 2 。主家を結果的に見捨てる形で自らの地位を確立した茂呂氏に対し、旧赤井氏側の視点や同情が、そのような人物像を形成させた可能性が考えられます。茂呂久重の物語は、佐野家臣として始まるのではなく、このような激しい生存競争を勝ち抜いた一族の歴史を背負って始まるのです。
上野国での基盤を失いつつも巧みに生き残った茂呂氏は、下野国藤岡城に新たな活路を見出します。ここから、茂呂久重が歴史の主役として登場します。彼の藤岡城主としての時代は、佐野氏との密接な関係から始まり、やがて関東の覇者・北条氏へと傾斜していく、まさに戦国国衆の動的な処世術を体現するものでした。
茂呂久重の新たな本拠地となった藤岡城(現在の栃木県栃木市藤岡町)は、極めて重要な戦略拠点でした。この城は、下野、上野、武蔵の三国が境を接する地政学的な要衝に位置しています 10 。さらに、関東の物流の大動脈であった渡良瀬川の水運を直接管理できる立地であり、経済的・軍事的な価値は計り知れないものがありました 12 。
このため、藤岡城は北関東の覇権を狙う勢力にとって、常に争奪の的となりました。特に、南関東から勢力を北上させていた北条氏にとっては、宇都宮氏や佐竹氏といった伝統的な北関東の雄に対抗するための、まさに最前線基地としての役割を担っていました 7 。
城の起源には平将門による築城伝説も伝えられていますが 4 、戦国期の姿は、周囲を湿地帯に囲まれた天然の要害を活かした平城であったと考えられています 5 。現在、城の本丸跡は三所神社となっており、その周辺には往時を偲ばせる空堀や曲輪の跡が、農地や工場の合間に断片的に残されています 5 。
茂呂久重が藤岡城主となった経緯は、天正五年(1577年)の出来事に遡ります。この年、唐沢山城を拠点とする下野の有力大名・佐野氏の当主であった佐野宗綱が藤岡城を攻撃し、これを攻略しました。その直後、茂呂久重が新たな城主としてこの地に入ったと記録されています 5 。これは、茂呂一族が佐野氏の軍門に下り、その家臣団に組み込まれたことを示す決定的な出来事です。
佐野氏が茂呂氏を単なる被官としてではなく、極めて重要な存在として遇していたことは、両者の間に結ばれた婚姻関係からも明らかです。久重は、佐野宗綱の父であり、当時の佐野氏の当主であった佐野昌綱の妹を妻として迎え入れています 1 。これは典型的な政略結婚であり、佐野氏にとっては、出自が確かで政治力も有する茂呂氏を姻戚とすることで一門に準ずる待遇を与え、国境の最重要拠点である藤岡城の守りを盤石にしようという狙いがあったと考えられます。一方、茂呂氏にとっても、上野での基盤を失った後、下野の有力大名である佐野氏の庇護と姻戚という強力な後ろ盾を得ることは、一族の再興に不可欠な戦略でした。
佐野氏の重臣として藤岡城主となった茂呂久重ですが、その立場は安泰ではありませんでした。当時の関東は、北条氏がその勢力を絶頂期へと向かわせている時期であり、周辺の国衆は否応なくその影響下に置かれていきました。
その力関係の変化を象徴する出来事が、天正十三年(1585年)に起こります。この年、北条氏政の弟であり、北条軍団の中核を担う将であった北条氏照が、近隣の皆川城を攻略するための前線基地として、茂呂久重の藤岡城に布陣したのです 5 。主家の許可なく、他家の武将がその城を軍事拠点として使用することは、戦国の常識ではありえません。この事実は、この時点で藤岡城と城主・茂呂久重が、佐野氏の支配を離れ、より強大な勢力である北条氏の指揮命令系統に組み込まれていたことを明確に物語っています。
この主家交代ともいえる状況変化の背景には、佐野氏そのものの弱体化がありました。奇しくも北条氏照が藤岡城に布陣した同年の正月、久重の義理の甥にあたる佐野氏当主・佐野宗綱が、北条方との彦間川の戦いで討ち死にするという悲劇が起こります 6 。当主を失った佐野氏は、北条氏の介入を許し、事実上その支配下に組み込まれていきました。このような状況下で、国境の最前線に位置する茂呂久重が、佐野氏を介さず北条氏に直接従属するようになるのは、勢力地図の変化に対応した、極めて現実的な政治判断であったと言えます。彼の「主家交代」は、個人的な裏切りというよりも、関東全体のパワーバランスの変動が生んだ、必然的な帰結だったのです。
勢力 |
茂呂久重との関係 |
時期・備考 |
館林赤井氏 |
旧主家 |
~1562年頃。茂呂氏はその重臣として実権を掌握。 |
佐野氏 |
主家・姻戚 |
1577年~。主君・佐野昌綱の妹を娶る。佐野宗綱は義理の甥にあたる。 |
北条氏 |
連携 → 従属 |
赤井氏時代から連携。1585年頃には事実上の従属関係に移行。 |
上杉氏 |
敵対 |
旧主・赤井氏を滅ぼした勢力であり、北条氏の宿敵。 |
豊臣氏 |
敵対 |
1590年、小田原征伐において北条方として敵対。佐野氏は豊臣方に属す。 |
天正十八年(1590年)、日本の歴史を大きく転換させる出来事が起こります。豊臣秀吉による小田原征伐です。この天下統一事業の巨大な奔流は、関東の地方領主であった茂呂久重の運命をも呑み込み、彼を悲劇的な結末へと導きました。
天下人・豊臣秀吉が20万ともいわれる大軍を率いて関東に侵攻した際、茂呂久重は、当時の主筋であった北条氏の一員として、これに徹底抗戦する道を選びました 1 。関東の多くの国衆が、秀吉の圧倒的な軍事力を前に次々と寝返り、豊臣方になびいていく中で、北条方として踏みとどまることは、破滅の可能性を覚悟した困難な決断でした。この選択は、赤井氏の時代から一貫していた親北条路線と、佐野宗綱の戦死後に北条氏への従属を深めていったこれまでの経緯からすれば、彼にとって必然的なものだったのかもしれません。
秀吉軍は、主力軍が小田原城を包囲する一方、前田利家や上杉景勝らが率いる北国方面軍を上野・下野方面に進軍させ、北条方の支城を次々と攻略していきました 6 。そして、この北国軍には、いち早く秀吉に通じ、その先導役を務めていた佐野房綱(佐野昌綱の子で、一度出家して天徳寺宝衍と名乗っていたが、この機に還俗)の軍勢も加わっていました 6 。
この結果、茂呂久重の生涯において最も皮肉で悲劇的な対決が現実のものとなります。彼が命を懸けて守る藤岡城は、かつての主家であり、妻の実家でもある佐野氏の軍勢によって、まさに攻撃の的とされたのです 7 。
豊臣方の大軍の前に、藤岡城は長く持ちこたえることはできませんでした。城は攻め落とされ、城主であった茂呂久重は、燃え盛る城を背に脱出します 4 。
その後の彼の足取りは、上野国世良田(現在の群馬県太田市世良田町)で途絶えます。各種の記録や伝承は、久重がこの地まで落ち延びた末に、もはや逃れられないと悟り、自ら命を絶ったと伝えています 1 。
久重がなぜ世良田を最期の地に選んだのか、その明確な理由は史料には残されていません。しかし、この地が持つ歴史的な意味を考えると、彼の胸中を推し量る一助となります。世良田は、鎌倉時代に活躍した清和源氏新田氏発祥の地であり、徳川家康も自らをその流れを汲む者と称した、東国武士にとって極めて象徴的な土地でした 17 。久重が単なる逃亡の果てに力尽きたのではなく、武士としての死に場所を意識し、源氏ゆかりのこの聖地を選んだ可能性も考えられます。
彼の最期が、歴史の中に埋もれ、手厚く弔われることがなかったことは、その後の状況からも窺えます。世良田の長楽寺や、全国の戦国武将の供養塔が集まる高野山など、関連する場所の記録を調査しても、茂呂久重個人の墓所や供養塔に関する直接的な記述は見当たりません 17 。時代の敗者となった彼の死は、静かに歴史の闇に葬り去られたのです。
茂呂久重の生涯を追うことは、戦国時代末期の関東を舞台に、一人の国衆がいかにして生き、何を考え、そして時代の奔流に如何に翻弄されたかを辿る旅でした。彼の人生は、以下の三つの側面から総括することができます。
第一に、茂呂久重の生涯は、主家を凌ぐほどの政治力を有した重臣から、自らの才覚で独立領主へと成り上がり、巨大勢力である佐野氏、そして北条氏の狭間で、婚姻や従属といったあらゆる手段を駆使して生き抜こうとした、戦国末期における関東国衆の典型的な姿を映し出しています。彼の行動は、単に忠誠や裏切りといった言葉では割り切れない、生存をかけた現実的な戦略の連続でした。
第二に、彼の最期は、中央の天下統一という巨大な歴史の潮流が、地方の論理や秩序をいかに無慈悲に覆していったかを示す悲劇の象徴です。北条氏への従属という彼の選択は、それまでの関東の力学からすれば合理的でしたが、豊臣秀吉という新たな規格外の権力者の前では、結果的に時代遅れの判断となってしまいました。かつての主家であり姻戚でもある佐野氏に攻め滅ぼされるという結末は、戦国という時代の非情さと、複雑に絡み合った人間関係の脆さを物語っています。
しかし、茂呂久重という個人とその居城・藤岡城が歴史から消え去った一方で、茂呂一族が完全に断絶したわけではなかったことを示す痕跡も残されています。近世の藤岡地域に伝わる「藤岡記録」や由緒書によれば、茂呂氏の一族はその後、常陸国の有力大名・佐竹家に仕官し、佐竹氏が関ヶ原の戦いの後に秋田へ転封されると、それに従って秋田藩士として存続したと伝えられています 3 。これは、一族としては戦国の世を生き抜くことに成功したことを意味し、茂呂氏のしたたかさを示す重要な後日談と言えるでしょう。
また、同じく藤岡の地では、近世になっても茂呂弾正(久重か、あるいは一族の別の人物か)の事績が語り継がれ、その家臣の末裔を称する家も存在していました 3 。これは、彼が単なる通過者の城主ではなく、短い期間であれ、地域の歴史に確かな足跡を遺した領主として記憶されていたことを物語っています。
茂呂久重のような、いわゆる「有名武将」ではない人物の生涯を丹念に追う作業は、天下統一という華々しい歴史の陰で繰り広げられた、無数の地方領主たちの苦闘と選択を浮き彫りにします。彼の生涯は、戦国史をより複眼的かつ深く理解するための、示唆に富んだ貴重な事例と言えるでしょう。